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2016年5月29日日曜日

横浜線と根岸線

先週の日曜日、葉山に住む弟(次男)の嫁の父親の葬儀のために、私の母親の代理として神奈川県の逗子に出かけた。
午後一時に告別式だというのに、家内は相生駅の朝一番の新幹線で行くという。
新幹線駅の新横浜から横須賀線の逗子駅までは1時間程で行くことができる。
関東の土地勘の無い家内は、時間を多めに見積もったようだ。
私はもともと横浜市緑区長津田に住んでいたことがあるので、時間が余ることは分かっていた。
せっかく逗子に行くのだから、少し観光もしてみようと思って、家内の言うに任せた。
家内と新幹線に乗るのは三回目で、一回目は新婚旅行の時に新大阪まで、二回目は子供を連れて結婚式に千葉まで行った時である。
つまり、二人きりで乗るのは二回目であり、家内は20年あまりぶりに新幹線に乗る。

がらがらのこだま号の車中でコンビニで買ったパンや、家内の母親に作ってもらった弁当を朝食にとった。
朝早かったせいか、車中では家内は殆ど睡眠、私はスマホで音楽を聴いていた。
新大阪でひかり号に乗り換えて、富士川の鉄橋を渡る頃に綺麗な富士山が見えた。
頂付近にまだ筋状に雪が残っており、こういう富士山を見るのは初めてだった。
寝ている家内を起こしたが、車中から初めて富士山が見えたと喜んでいた。
新横浜で降りてから、家内は完全にお上りさん状態になり、私に頼り切りになった。
私とても、横浜線を使って鎌倉に行った経験は一度しか無く、私鉄を使う方が多かった。
どこで時間をつぶすか迷ったが、結局切符を横浜までしかかってなかったので山下公園でつぶそうと思った。

根岸線の関内駅から歩いて港までは結構距離があった。
感じは神戸に似ているが、町を歩く人たちが日曜ということもあるが、ゆったりとしていた。
また、ジョギングをする人が多いのにも驚かされた。
山下公園の付近の港では、カッターレースが行われていて、沢山の人だかりである。
これで屋台が多く出ていれば、まさしく相生のペーロンである。
会場付近は屋台では無く、出場チームのタープテントで一杯だった。
日差しは強かったが、風が心地よかった。
ベンチに座って見学しながら、食べ残していたおにぎりを二人で食べた。
カッターレースは面白いのだが、海がまるでどぶ川の色で、自分も加わりたいとは思わなかった。
山下公園はちょうどバラの花が綺麗に咲いていたし、百合の花も綺麗だった。

少し長居しすぎて、東京に単身赴任している弟(三男)と、待ち合わせの逗子駅に着くが30分も遅れてしまった。
私は根岸線の電車がこんなにゆっくりと大船駅まで行くとは思っていたなったからだ。
小田和正が歌っている根岸線、一度だけかつて次男の弟が住んでいた磯子に来たことがあった。
大船駅から横須賀線に乗りかえると、鎌倉へ向かう観光客が一杯だった。
逗子駅では本当は弟と昼食をとる予定だったが、そのまま葬儀場の長運寺にタクシーで向かった。
昼食もとらないまま、一時からの告別式に参加した。
予定では骨揚げまで付き合う筈では無かったが、済んで戻ってから帰ることになった。
斎場で待つ間、ビールとおつまみ、そしておにぎりが出された。
初めての故人の関係者と挨拶や話をした。
告別式でも不思議に思ったのだが、地元のお寺で葬儀をしていながら、近隣の人は殆ど参列が無かった。
聞くところによると、享年81歳の故人は古くから住んでいながら、地元の人とのつきあいはあまり無かったそうだ。

葬儀を済ませて、弟と逗子駅付近の寿司屋で遅い昼食をとった。
こぢんまりとしたその寿司屋には、大江千里のサイン色紙が飾ってあった。
弟は京急で帰るので逗子駅で別れて、我々夫婦は今度は本線で横浜に向かった。
周りの風景は自分がいた約35年前と全く違ってはいたが、線路は当然昔のママである。
横浜駅から横浜線に乗り換える時には、そのまま長津田のアパートに戻るような錯覚に陥った。
その頃そばにはいなかった家内に、思わずそうもらしてしまった。
横浜駅は一度だけ大学のゼミに呼ばれて講義をした時の思い出のホームでもある。
その時に呼んでくれた先輩ももう大学を退官されたことを、数年前はがきで知った。

新横浜駅からはやはり自由席は混んでいて、夫婦別々の席に座った。
夕暮れの富士山のシルエットが美しかった。
何度か富士山は見たことがあるのだが、タイムスリップした私の心にぴったりの風景だった。
名古屋駅からは夫婦一緒に座って姫路駅で降り、相生駅にとまるこだまに乗り換えて、相生駅に降りた。

新幹線に往復6時間以上も乗っていた日帰り旅行はこうして終わった。
葬式でも無い限り、こんな無理な旅行はしない。
家内にとっては滅多に無くて、しかも多くが初めての経験。
私にとっては、昔に戻るセンチメンタルジャーニーでもあった。
翌日もその旅の余韻が心に残り、日常の気持ちに戻すことがなかなかできなかった。
小田和正のMY Hometownを一日口ずさんでいた。

2016年5月6日金曜日

教え子の演奏会

この5月4日は前任の全日制の吹奏楽部が定期演奏会を開いた。
2日に昨年度まで授業を担当していた吹奏楽部の生徒たちが、わざわざ定時制の職員室に来た。
小さな紙切れの演奏会の案内を手渡され、是非聴きに来て欲しいという。
ちょうど連休の半ばで、あまり気が進まなかったので、「行けたら行く」と答えた。
そうすると、吹奏楽部の活動に熱心な定時制の先生から
「行けたら行くと言って、ほとんど来る人はいない。」といわれ。
苦笑しながら「絶対に行きます。」と答えてしまった。

当日は天気の良い行楽日和だったが、約束通り演奏会に出かけた。
演奏会場の受付には顧問の先生がプログラムを配ってくれていた。
最初は一階の会場に入って知り合いを探した。
定時制の知り合いは別の知人と一緒に来ていたので遠慮した。
全日制の知り合いはご夫婦できていたので、こっそり後ろに座った。
せっかく夫婦水入らずできているので、声をかけるのも無粋と思い直し、二階の席に移った。
二階席は殆ど人はいなくて、写真屋さんと撮影係の顧問の先生と一緒になった。
一階席も以前担任していた生徒に誘われてきた時よりも、お客さんの数は少ないように感じた。

一部の課題曲や自由曲は練習の成果がしっかりと出て、なかなか完成度が高いと思った。
特に和太鼓などの和楽器を取り入れた「斐伊川流るるクシナダ姫の涙」は心に残った。
二部以降はお客さんを楽しませる趣向が色々と取り入れられていた。
新入部員があまり多くないので、少し迫力には欠けてはいたが、楽しませてくれた。
今回私を誘ってくれたTさんの役者のような奮闘ぶりには、頭が下がる思いだった。
また個人としての高い力量をポピュラーな曲で聴かせてくれたのも良かった。

演奏を聴きながら、以前聴いたときと違う感情を覚えた。
自分が授業を担当した生徒の演奏を聴くのは、今年で最後と思ったからだ。
教室で見かける時とは違う演奏姿を、見られることが良かったのである。
これはある意味、我が子の活躍ぶりを見に来た親と似ているのかもしれない。
演奏が終わって帰り際に、かつての教え子から声をかけられたり、かけたりした。
こういう機会は、もう定時制に移ったので無くなるのだと思うと寂しくも感じた。

もし全日制にそのままいたなら、分からなかっただろうと思う。
教え子たちが教室を離れて活躍する姿を見ることの嬉しさ。
これは私たちが教壇を離れてYouTubeで演奏を視てもらっているのと共通する。
知った人の演奏は、その人の気持ちがよく伝わってくるものなのである。
技術的な完成度とは違う人間くさい温もりや人柄と言うべきなのか
音楽にはそんな大切な表現力もあるのだと気がつかされた。
誘ってくれたり、声をかけてくれた教え子たちに感謝したいと思う。

2016年5月1日日曜日

半農半師

定時制の高校に勤めだしてから一月が経とうとしている。
私の勤める定時制は13時20分から21時50分までの勤務である。
当初、自宅にいる午前中は、自分の研究に時間を費やすつもりでいた。
ところが今は、季候も良く農作業も多い時期でもある。
私は農地を借りて畑をしているのだが、地主さんが亡くなり、畑も多く作ることになった。
そうすると、自ずから畑仕事が多くなった。

実のところは、私は部屋に引き籠もるのは子供の頃から苦手である。
人類学という学問に取り憑かれたのも、フィールドワークが魅力的であったからである。
今は出版という目的があるので、文献にひたすらあたっているのだが、早く終えてフィールドに戻りたい。
全日制校勤務の時には、週末には部活動か農作業をしていた。
今は平日でも朝6時に起き,、犬のジョグ散歩をしっかりして、午前中は農作業か読書をしている。
農繁期なので週末は晴れたら農作業一筋である。
田舎にいても、私くらいの年齢で、農作業をしている人はあまりいない。
若くて農作業をしている人は、外国からの研修生であったりする。

同じ上郡で兼業農家の先生が、私が定時制に異動することを知って言った。
「いよいよ、本格的に農業をするのですね。」
私ははっと、「そうだ!その道があった」と思った。
本当は異動に際しては農業のことは全く念頭に無かった。
しかし、運命のいたずらか、異動するとどういうわけか、農業に傾いてしまっていた。
飯が食えなくて、持ち出しの多い研究よりも、農業の方がまだ見返りがあるのも確かだ。
この際は開き直って、晴耕雨読ということにしても良さそうな気もする。
近所の農家は車よりも高いと農機を使って、やむなく田畑を守っている。
私はおいしくて安全な作物を親・家族や知り合いに食べてもらうために農業をしている。
そして、昼間肉体労働をしている生徒たちとも、共感し合うためにも農業が必要な気がする。
ただ、生徒たちの多くは室内労働で、私が一番黒いのはちょっと恥ずかしい。

2016年4月24日日曜日

夢は夜開く

定時制の学校に換わって、二週間が経った。
まだまだ落ち着いた状況では無い。
一日のペースをどのように組み立てていくかも、よく分かっていない。
今まで午前中を自由に使えたのは休日だけだった。
今は毎日自由に使える。
飼い犬との散歩も、休日と同じコースでしっかり歩ける。
畑仕事もすることができる。
当然読書や、仮眠をとることさえできる。
その一方、夕方から始まる授業は、空腹との戦いでもある。
帰宅してから飲食しようと、夕方は腹もたせしかを食べていない。
眠くは無いのだが、夜も10時頃になると頭が働かなくなる。

同じ敷地内にあった定時制の高校の様子を全く知らなかった。
夜遅く体育館で、スポーツする様子は不思議な感じがした。
全日制の生徒は、暗くなって帰宅することを心配した。
ここでは女子生徒でも、夜の10時でも自転車で帰宅する。
自由な服装、ピアスにも慣れた。
体育の授業で、ピアスを外すことから始まるのも驚いた。
多くの生徒がアルバイトなどの仕事をしてから来る。
私も農作業を午前中に頑張ったときは、夕方は体が重かった。
きっと力仕事をしている生徒は辛いこともあるだろう。
登校拒否の増えた中で、こうして頑張る生徒をみると励まされる。
生徒の服装や言動にはまだ違和感を感じているが、きっとこれが普通に思えてくるのだろう。

繊維産業などが若者に二交代勤務を課していた頃の産物である定時制。
赤穂の繊維産業は消えてしまったのに、定時制だけは残った。
学業に専念できる方が確かに良いのかもしれない。
ただ、世の中の仕事に触れながら、学業の大切さを知ることも良い勉強だろう。
生徒に課した自己紹介の書面では、夢を多くは書かれていなかった。
夢を持っていても書けないのか、書かないのかは分からない。
夢を持つことさえも忘れているはずは無いと思う。
ただ、今を精一杯生きるしか無いことも事実だろう。
私自身、教師になって初めての経験をしている。
望もうが望むまいが、退職は目の前である。
その時こうありたい夢を、今実現するためにがんばっている。
生徒と同じように、夢への可能性は、この夜のがんばりにある。
将来の夢は、夜開く扉をもっている。

2016年4月17日日曜日

離任式のYou Raise Me Up

4月8日の午後に前任校(といっても同じ敷地内)の離任式があった。
私は以前から離任式で歌を歌うことが、何度かあった。
肢体不自由の特別支援学校では、生徒と一緒に歌った「風になりたい」をギター1本で歌った。
総合科学の大学附属高校では、オリジナルの「心の絆」という曲を、録音とともに歌った。
前任校では、離任式にふさわしい曲を探して練習していたが、間に合わなかった。
そこで、文化祭で他の職員と体育館で歌い、昨年はYou Tubeでも流したYou Raise Me Upを歌うことにした。
アカペラで、間奏はハーモニカを使うことにした。
ハーモニカはチューニングの意味も持っていた。

当日、私はいつでもまた話はできるので、思い出の曲を歌いますといきなり歌い出した。
文化祭の時と違い、厳粛で静まりかえっていた。
途中のハーモニカの間奏もとちって、生徒が笑うのも見えたが、そのまま続けた。
そして、歌い終わったとき、温かい拍手をもらった。
離任式というのでは無くて、一つのステージのようだった。
後で聞いたのだが、司会の先生が号令をかけるのを忘れてしまったようだった。
その先生には気の毒だったけど、自然にわき起こった拍手が何よりもの「礼」に思えた。

実は歌の前に、一言言葉を添えようかと考えていた。
何故定時制に移ったかとか、この歌にどんな気持ちを込めようとしたかとか。
他の先生との時間配分も考えて、ただ歌うことにした。
だから、異動の理由は前回のブログで書いたので、この歌への気持ちを今回書くことにした。
実は私は、55歳の免許更新をせずに教師から別の職業に転職するつもりでいた。
しかし、転職は果たせず、免許更新を行い続けることになった。
そんな自分でも、生徒たちは慕ってくれたし、逆に励まされた。
生徒のそばにいられれば、自分は何とか教師を続けられると思った。
本当は生徒のそばで、支えて上げるのが教師の務めであるけれど、教師も生徒によって支えられていると心から思った。
だから、2年前の文化祭ステージでも「懸命にがんばる君たちを見て逆に励まされた」と前置きして歌った。

今回も君たちに励まされて、次の学校でもがんばっていく勇気をもらったと言い添えたい。
新入生や2年生とは関わりがあまりないのだけれど、3年生はきっと私の気持ちを汲んでくれるだろう。
最後の花束贈呈で、生徒会執行部の生徒と肩を抱き合ってそれを確かめることができた。


2016年4月2日土曜日

最後の異動

この4月1日付で定時制に異動となった。
私も今年57歳になるので、最後の異動ということになるだろう。
ただ、定時制は前任校と同じ敷地内にある。
いわば、お隣に引っ越しということだが、意外と隣づきあいは少なかった。

もともと、定時制か通信制への異動を希望していた。
一番の目的は研究にもう少し時間を費やしたいこと。
二番目の目的は、年老いた母親の万一に備えること。
三番目の目的は、本来は一番であるべきなのだが、苦学生の力になることである。
定時制・通信制を希望しながら全日制に赴任したのは、学校が親元の近くなので二番目の目的が叶うこと。
そして、もう一度進学指導やクラブ指導もやってみたいとも思った。
また、55歳の免許更新をせずに転職するのが、本来の目的でもあった。
つまり、担任した生徒と一緒に巣立つのが夢だったのである。
しかし、それは果たすことが出来なった。

私は初任が知的障害の特別支援学校、当時は養護学校と言っていた。
二校目が職業高校、三校目が肢体不自由の特別支援学校、四校目は農業科もある全日の総合高校。
五校目は総合科学の進学校、六校目は知的障害の特別支援のマンモス学校、そして七校目が全日の普通高校だった。
正式採用されて、今回の定時制で八校目と言うことになる。
これに加えて、臨時常勤講師として、姫路の中学校で英語、赤穂の中学で数学、尼崎の普通高校で現代社会を教えた経験を持つ。
そうすると、学校で教えた経験は11校ということになる。
また、特別支援学校では小学部の児童も指導しているので、小中高はすべて経験した。
経験できなかったのは、通信制、聴覚、視覚の特別支援学校などである。

多くの学校を経験していることはあまり自慢にはならない。
それだけ同じ学校に長くいなかったことだからだ。
さらに私の場合は途中の二年間、兵庫教育大の大学院に研修に行っている。
だから、平均すれば今までは一校あたり4年ほどしかいなかったことになる。
異動の理由は様々だが、研究を続けるために教師になりながら、それができなかったことも大きい。
単に、時間が無かったということでは無く、例えばクラブの指導などにのめり込んだこともある。
教師の仕事に夢中になって、研究なんかどうでも良いように思えたときもあった。
ただ、理想と現実はいつも乖離したままであった。
だから、本質は青い鳥症候群なのかもしれない。
今回は希望が叶ったことは嬉しいが、その責任の重大さも感じている。

3月まで関わった生徒には、それなりに思いはある。
ただ、どちらかというと裏方やサポートの仕事が多くて、十分に関わることができなかったのが心残りでもある。
本来はクラブや学年集団の中で、もっと親密に関わることができれば良かった。
この全日制は初任校とおなじ最短3年であり、担任が1年間のみというのはかつては無かった。
ただ、担任した生徒と一緒に北海道に修学旅行へ行けたのは、楽しい思い出となった。
礼儀正しくまじめな生徒が多かった。
私は最後の1年間は、毎朝の校門立ち番で、おはようの挨拶をし続けた。
すべての生徒ではないが、返事を返してくれると嬉しかった。
今度は定時制働きながら、そばで応援したい。
そして、私の生き様も視てもらいたいとも思っている。
現役生とも、卒業生も顔を見せてくれたら、うれしいんだけどね!
 

2016年3月27日日曜日

心遣いに感謝

3年生が卒業してから1ヶ月。
3月は入試や、次年度の準備でゆっくり振り返る余裕がなかった。
春休みになって、余裕ができて、やっと3年生からの贈り物を手にして、その心遣いに心が目覚めることができた。
生徒会の執行部が、卒業式の日に、プレゼントしてくれた。
わざわざ、姫路まで買いにいってくれたらしい。
私は彼らのために、余りしてやれなかった。
むしろ、彼らのほうがどんどんと前向きに仕事をこなしてくれた。
贈り物をされるなんて、後ろめたい気もするが、ありがたく活用しようと思う。
きっと彼らは、どこへ行っても、執行部で活躍した力を発揮してくれるだろう。
ありがとう。生徒会執行部