退職した途端に村役の一つを強引に任せられた。
宮総代という村役は、要するに神社行事の世話役、作業員なのである。
因みに神社や寺を掃除したり、お清めするのは古代では奴婢の行う仕事だった。
各地区に一人の代表と、区長、副区長が加わって神社の運営を行う。
前任者は、今年はこの地区が行事の当番(総世話役)に当たっているのにも関わらず、降りてしまった。
本来なら前年度から、やるべき仕事を見て知っておかねばならない役柄である。
私はこの村に引っ越して以来、中野地区の荒神祭りには参加したり、世話役もした。
しかし、多くの氏子を抱える与井八幡神社の祭りには殆ど参加したことが無い。
私は生まれは赤穂なので、赤穂の鳥撫と尾崎の祭りや行事は小さい頃からのなじみがある。
この村に引っ越して25年以上になるのに、祭りは一回だけちょっと見に行きすぐに帰った。
子供たちは子供神輿で参加はしていたはずだが、家内が付き添った。
宮総代の最初の仕事は輪越(大祓)で用いる茅の刈り取りだった。
茅を刈り取ってきて、古老の指導を受けながら大きな輪をこさえた。
そして、輪越の神事の世話役で、浄めの世話や、直会の世話をした。
初めて神事たるものに参加して、宮総代代表として玉串奉納も行った。
今まで輪越というのは単に夕方家族でくぐり抜けに行っただけなので、神事作法があるとは知らなかった。
神木から神様をお供しながら、神主を先頭に行列になって輪を3回8の字に回った。
因みにこの神道の大祓は中国由来の道教の影響だそうである。
の輪越より大変だったのは、10月の15日行われた秋祭りだった。
一週間前から、宮総代全員で神社周り草木を剪定したり、掃除を行った。
祭りの前日には応援も来てもらい、例年の幟立てだけではなく、雨が予想されたのでテントを立てた。
当日も朝早くから、提灯やらテントを起こしたが、前日より貯まった雨水をかぶってずぶ濡れになった。
上半身裸で作業した後、本番にそなえて着替えに帰らなければならなかった。
祭り行事は、宮総代はいちよう正装していた。
獅子舞や子供神輿が山の上の神社まで上がって来て、初めて与井の獅子舞をじっくりと見物した。
その舞手の中には、上郡高校の教え子がいて、声をかけたが。
「先生痩せてましたね」と言われ、私は腹の出た教え子に「太ったな」と返した。
何とか玉串奉納の神事も行い、一番の大仕事はビンゴゲームの司会となった。
むしろ司会は教師をしていたので、気楽にできた。
獅子舞の出る秋祭りでビンゴゲームというのは初めての経験だった。
それが終わり、テントを足だけたたんで直会となった。
今回は輪越の洗い米と御神酒だけでは無くて、弁当と酒が用意されていた。
本来ならその世話役なのだが、座って飲み食いしてしまった。
私は神主を覗いて地区役員や宮総代の中で一番若い。
弁当を全部食べてしまったのは私だけだった。
他の人はお酒もほどほどに、弁当は持ち帰っていた。
その数日後の晴れた日に、幟やテントを朝夕に分けて片付けた。
結局、秋祭りに4日間の奉仕を行った。
今後、宮総代は新嘗祭や年末年始の行事の仕事がある。
村の神社の行事も高齢者で担わなくてはならなくなり、いずれ無くなるだろう。
現に、近くの神社は獅子舞の舞手が無くなり、来年から獅子舞は無くなるそうだ。
十分な練習が必要な獅子舞より、簡単に担げる神輿の方がこれから良いのかもしれない。
私の育った赤穂の尾崎では大人神輿が盛んになったようだ。
これも姫路の祭りの影響なのかとも思う。
祭りも時代に合わせて変えていかねばならないだろう
播磨の西外れにある私の生まれ育った赤穂や、今暮らしている上郡に関すること、農作業,山野河海の恵み、趣味の水泳、音楽、専門である有機農業や、教育、文化人類学、民俗学に関することなどを、きままに記してみます。
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2017年11月4日土曜日
2017年11月1日水曜日
30年前の繰り返し
約束の半年が過ぎてもちゃんとした仕事が見つからないでいる。
今から30年ほど前に、私は博士課程の進学を諦めて教師になるべく地元赤穂に帰った。
教員採用試験を受けるまでは実家に籠り試験勉強をした。
その後は、姫路の中学校や赤穂の中学校、尼崎の高校の臨時講師を勤めた。
臨時講師は病欠、海外研修、産休の教諭の代用であった。
中学校では数学、英語を教え、高校では現代社会を教えた。
臨時講師の仕事は連続してあった訳では無く、その空いた期間は発掘の作業員をした。
土木作業員とあまり変わらない仕事で、地元の中学校では生徒から「ドカチン先生」と呼ばれた。
ただ、その発掘の仕事のお陰で、教育委員会のMさんに懇意にしてもらい。
教員採用に関しては、色々とお世話になり助かった。
多くの人が高校社会科の教師に何年も講師を続けることが多いのに、私は半年ほどの講師で教諭になれた。
ただ、採用されたのは当時養護学校と呼ばれた学校で、大学院の専門知識は活かされることは無かった。
その後30年間、専門知識はあまり活かされることは無かったように思える。
今、私は次の仕事のために色々と職探しをしている。
30年前も高校教師になりたくてなったのではなくて、研究を続けるために教師の道を選んだ。
今も、研究が続けられるための職を探している。
一般の人から見れば、なぜそこまで拘るのかと思うかも知れない。
今テレビドラマでやっている「陸王」の「シルクレイ」の開発社長に重なって見えた。
その人物設定では、良い技術を持ちながら倒産してしまった社長。
私の場合は良い研究とは言えないけど、職に出来ないでいる。
前回のストーリーからすれば、金のためでは無くて生きがいを求めて足袋屋に協力することになった。
私は倒産ならぬ退職だが、研究を通して最後の人生を賭けてみたいと思っている。
それはやはり生きがいなのだと思う。
開発技術も研究も時代が変われば、忘れ去られることが多い。
場合によって一儲けできるかも知れないが、年老いてしまえばそれもあまり価値は無いだろう。
要するに、「自分のやりたいことを自由にやれることそのもの」に生きがいを感じるのである。
稼ぎのないものを人は道楽というかも知れない。
しかし、私の原点は奄美与路島の人の様に、あくせく稼がなくても楽しく生活していた姿である。
当然与路の人にも不安はいつもつきまとっていた。
あくせくして働いていれば、その不安を忘れられるかも知れない。
しかし、結局それは心身を蝕んでいくことにもなりかねない。
30年前の私は全くの無一文だった。
今は僅かながら蓄えもある。
ただ、30年前の私には若さと希望があった。
今の私には老いと諦めしか無い。
唯一30年前より勝っているのは、焦らず道を進むことだろう。
長くなった人生はこのような転機を繰り返すのが当たり前なのかも知れない。
今から30年ほど前に、私は博士課程の進学を諦めて教師になるべく地元赤穂に帰った。
教員採用試験を受けるまでは実家に籠り試験勉強をした。
その後は、姫路の中学校や赤穂の中学校、尼崎の高校の臨時講師を勤めた。
臨時講師は病欠、海外研修、産休の教諭の代用であった。
中学校では数学、英語を教え、高校では現代社会を教えた。
臨時講師の仕事は連続してあった訳では無く、その空いた期間は発掘の作業員をした。
土木作業員とあまり変わらない仕事で、地元の中学校では生徒から「ドカチン先生」と呼ばれた。
ただ、その発掘の仕事のお陰で、教育委員会のMさんに懇意にしてもらい。
教員採用に関しては、色々とお世話になり助かった。
多くの人が高校社会科の教師に何年も講師を続けることが多いのに、私は半年ほどの講師で教諭になれた。
ただ、採用されたのは当時養護学校と呼ばれた学校で、大学院の専門知識は活かされることは無かった。
その後30年間、専門知識はあまり活かされることは無かったように思える。
今、私は次の仕事のために色々と職探しをしている。
30年前も高校教師になりたくてなったのではなくて、研究を続けるために教師の道を選んだ。
今も、研究が続けられるための職を探している。
一般の人から見れば、なぜそこまで拘るのかと思うかも知れない。
今テレビドラマでやっている「陸王」の「シルクレイ」の開発社長に重なって見えた。
その人物設定では、良い技術を持ちながら倒産してしまった社長。
私の場合は良い研究とは言えないけど、職に出来ないでいる。
前回のストーリーからすれば、金のためでは無くて生きがいを求めて足袋屋に協力することになった。
私は倒産ならぬ退職だが、研究を通して最後の人生を賭けてみたいと思っている。
それはやはり生きがいなのだと思う。
開発技術も研究も時代が変われば、忘れ去られることが多い。
場合によって一儲けできるかも知れないが、年老いてしまえばそれもあまり価値は無いだろう。
要するに、「自分のやりたいことを自由にやれることそのもの」に生きがいを感じるのである。
稼ぎのないものを人は道楽というかも知れない。
しかし、私の原点は奄美与路島の人の様に、あくせく稼がなくても楽しく生活していた姿である。
当然与路の人にも不安はいつもつきまとっていた。
あくせくして働いていれば、その不安を忘れられるかも知れない。
しかし、結局それは心身を蝕んでいくことにもなりかねない。
30年前の私は全くの無一文だった。
今は僅かながら蓄えもある。
ただ、30年前の私には若さと希望があった。
今の私には老いと諦めしか無い。
唯一30年前より勝っているのは、焦らず道を進むことだろう。
長くなった人生はこのような転機を繰り返すのが当たり前なのかも知れない。
もみの木とゴールドクレスト
家の庭には二本の大きな木がある。
西側にはもみの木、東側にはゴールドクレストである。

二本ともクリスマスツリーとして二人の子供のために買ったものである。
もみの木は上の息子のために、ゴールドクレストは下の娘のためである。
だから二本とも20年以上の樹齢を持つ。
どちらもこれ以上高くなると、手に負えなくなると思って、先端は切り落としていた。
ところが、どちらも枝が大きく成長してしまった。
ゴールドクレストなどは、枝も上に伸びていくので、先端を落とした意味は無かった。
今後のことを考えて、しっかり剪定することにした。
そのために、充電式の高枝チェーンソーを買った。
これは実家の松の木の剪定にも用いるために、実家から援助してもらった。
もみの木はベランダから枝先をどんどん切り落として、まるで散髪したプードルのようになった。
哀しいのはゴールドクレストである。
枝元が枯れている
ので、枝先だけ落とすわけにはいかない。
太い枝を落とすと、どんどんはげ上がっていく。
ベランダからも遠いし、道に近いので、やむなく殆ど裸にしてしまった。
木そのものを枯らしてはいけないので最低限の枝を残したが、トーテムポールのようになってしまった。
娘のために買った木をこんな姿にしてしまうのは、何となく昔の思い出を壊してしまうようで寂しかった。
知人の中には、クリスマスに子供に買った木を庭に植え大きくなりすぎて切り倒した人もいた。
いずれ切り倒さねばならない時が来るかもしれないが、自分で剪定できる内は残したいと思う。
私の実家も、家内の実家も自分で剪定できる者がいなくなった。
私の実家はシルバー派遣に頼むと高額なので、私が主に剪定している。
家内の実家は業者に頼んだようだ。
私の実家の庭は祖父が家を新築した父のために造ったものなので、できるだけ残したいと思っている。
でも、おそらく私が年老いたら、実家も自分の家も庭木は処分せねばならないだろう。
家の近所の人とも同じような話をしている。
近頃若い人は、庭木を植えようとしないのも分からなくは無い。
夏になって蝉が鳴いているのは、自分の家の庭くらいだ。
そのうち蝉の声の苦情が出るかもしれない。
自分が幼い頃は狭い家に住んでいたので、蝉のいる庭木がある友達がうらやましかった。
今は蝉を捕る子供はいない。
ただ、この暑い夏はこのうるさいけど涼しい庭に大分助けられた。
外から家に戻ってくると、はっきりと涼しく感じた。
素人の世話をする庭木は、どちらかというと見苦しいかもしれない。
それでも、親子の思い出の残る木をなんとか守っていきたいと思っている。
いつまでできるのか分からないけれど・・・
西側にはもみの木、東側にはゴールドクレストである。
二本ともクリスマスツリーとして二人の子供のために買ったものである。
もみの木は上の息子のために、ゴールドクレストは下の娘のためである。
だから二本とも20年以上の樹齢を持つ。
どちらもこれ以上高くなると、手に負えなくなると思って、先端は切り落としていた。
ところが、どちらも枝が大きく成長してしまった。
ゴールドクレストなどは、枝も上に伸びていくので、先端を落とした意味は無かった。
今後のことを考えて、しっかり剪定することにした。
そのために、充電式の高枝チェーンソーを買った。
これは実家の松の木の剪定にも用いるために、実家から援助してもらった。
もみの木はベランダから枝先をどんどん切り落として、まるで散髪したプードルのようになった。
哀しいのはゴールドクレストである。
枝元が枯れている
太い枝を落とすと、どんどんはげ上がっていく。
ベランダからも遠いし、道に近いので、やむなく殆ど裸にしてしまった。
木そのものを枯らしてはいけないので最低限の枝を残したが、トーテムポールのようになってしまった。
娘のために買った木をこんな姿にしてしまうのは、何となく昔の思い出を壊してしまうようで寂しかった。
知人の中には、クリスマスに子供に買った木を庭に植え大きくなりすぎて切り倒した人もいた。
いずれ切り倒さねばならない時が来るかもしれないが、自分で剪定できる内は残したいと思う。
私の実家も、家内の実家も自分で剪定できる者がいなくなった。
私の実家はシルバー派遣に頼むと高額なので、私が主に剪定している。
家内の実家は業者に頼んだようだ。
私の実家の庭は祖父が家を新築した父のために造ったものなので、できるだけ残したいと思っている。
でも、おそらく私が年老いたら、実家も自分の家も庭木は処分せねばならないだろう。
家の近所の人とも同じような話をしている。
近頃若い人は、庭木を植えようとしないのも分からなくは無い。
夏になって蝉が鳴いているのは、自分の家の庭くらいだ。
そのうち蝉の声の苦情が出るかもしれない。
自分が幼い頃は狭い家に住んでいたので、蝉のいる庭木がある友達がうらやましかった。
今は蝉を捕る子供はいない。
ただ、この暑い夏はこのうるさいけど涼しい庭に大分助けられた。
外から家に戻ってくると、はっきりと涼しく感じた。
素人の世話をする庭木は、どちらかというと見苦しいかもしれない。
それでも、親子の思い出の残る木をなんとか守っていきたいと思っている。
いつまでできるのか分からないけれど・・・
2017年10月29日日曜日
播磨科学公園都市まちびらき20周年
この10月28日、29日は西播磨ふれあいフェスティバルが雨の中開催された。
私は新聞に折り込まれた広告で知ってはいたが、別段関心も無く行くつもりは
無かった。ところが、販売の応援で行く必要ができて、28日だけ朝早くから出かけることになった。
朝の8時前には雨の中、既に多くのブーステントで準備が始まっていた。
販売の準備をしながら、メインステージのリハーサルを見たりもした。
自分もこういう舞台で演奏できたらなと思いつつ、雨に濡れた芝生の上で重いキャリアを押した。
開会セレモニーは多くの関係者が挨拶を行っていた。
この企画は西播磨県民局県民交流課、兵庫県県民生活課が中心となって開催されたものである。
県政150周年とまちびらき20周年を記念した一大イベントである。
ちょうど今播磨自動車道が播磨新宮ICから山崎JCTまでの延長工事を行っている。
中国縦貫道と播磨道を連結させた時に、この公園都市に賑やかな商業プラザを創る計画らしい。
ウィキペディアによれば
「開発開始から30年にあたる2015年の報告では、区域人口は1,434人であり、当初の計画人口25,000人に対し僅か 5.7%にとどまっている。
主に公共施設や研究施設等が立地しており、造成地の大半は現在売り出し中」
ということで、現段階で言えば、成功しているとはいえないだろう。
私はかつてこの公園都市の一角にあった大学付属高校に勤務していた。
この教育大学を除いて公立大学ではあまり例を見ない中学部を併設させて以来人気は上がっているようだ。
私は中学部ができて二年目で転任したので内情はよく分からないが、志望数からするとそう思える。
Spring-8をはじめとする研究機関や大学、多くの企業を誘致して発展する予定であった。
しかし、西播磨を活性化するほどの起爆剤にはなっておらず、膝元の上郡は過疎化に苦しんでいる。
実は附属高校・中学は上郡町にあるのである。
しかし、町にいて親しみも、なじみも無い学校になってしまっている。
このフェスティバルで出会ったのは、殆ど昔の教員仲間である。
附属高校や職業高校を中心としたブースがあったので、出会って当たり前なのだ。
知っている地元の人は一家族だけだった。
雨の中、入場者の数も少なく、商品の売れ行きも悪かった。
目立ったのはスーツを着た人たちで、いかにも役人という風貌で仕事で来たという感じであった。
その人たちの中にはスーツに長靴という格好で、巡り歩いている関係者もいた。
知事さんも雨の中、ブースを覗いて声をかけてくれた。
このフェスティバルが済んだら、また静かな鹿の遊ぶ町に戻るだろう。
中心となっている、光都プラザの店舗は入れ替わりも多く、空き店舗のオーナーを募集している。
広島大学は賀茂学園都市の中核として発展に貢献したようだ。
娘が通っていた関係で何度か行ってみたが、同じテクノポリスでも雲泥の差である。
国立と県立の差といえばそれまでだが、もっと工夫が必要だろう。
何よりも地元との関係をもっと親密にする必要があるように思う。
それにはもっと便利で安いアクセス方法が必要である。
鹿との衝突や冬の雪に苦しめられる、道路も問題だ。
賀茂学園都市も雪で事故は多いそうだが、それ以上に危険な坂道を抱えている。
いっそ播磨自動車道を無料化して、姫路バイパスとつないではどうだろうか?
私は新聞に折り込まれた広告で知ってはいたが、別段関心も無く行くつもりは
無かった。ところが、販売の応援で行く必要ができて、28日だけ朝早くから出かけることになった。朝の8時前には雨の中、既に多くのブーステントで準備が始まっていた。
販売の準備をしながら、メインステージのリハーサルを見たりもした。
自分もこういう舞台で演奏できたらなと思いつつ、雨に濡れた芝生の上で重いキャリアを押した。
開会セレモニーは多くの関係者が挨拶を行っていた。
この企画は西播磨県民局県民交流課、兵庫県県民生活課が中心となって開催されたものである。
県政150周年とまちびらき20周年を記念した一大イベントである。
ちょうど今播磨自動車道が播磨新宮ICから山崎JCTまでの延長工事を行っている。
中国縦貫道と播磨道を連結させた時に、この公園都市に賑やかな商業プラザを創る計画らしい。
ウィキペディアによれば
「開発開始から30年にあたる2015年の報告では、区域人口は1,434人であり、当初の計画人口25,000人に対し僅か 5.7%にとどまっている。
主に公共施設や研究施設等が立地しており、造成地の大半は現在売り出し中」
ということで、現段階で言えば、成功しているとはいえないだろう。
私はかつてこの公園都市の一角にあった大学付属高校に勤務していた。
この教育大学を除いて公立大学ではあまり例を見ない中学部を併設させて以来人気は上がっているようだ。
私は中学部ができて二年目で転任したので内情はよく分からないが、志望数からするとそう思える。
Spring-8をはじめとする研究機関や大学、多くの企業を誘致して発展する予定であった。
しかし、西播磨を活性化するほどの起爆剤にはなっておらず、膝元の上郡は過疎化に苦しんでいる。
実は附属高校・中学は上郡町にあるのである。
しかし、町にいて親しみも、なじみも無い学校になってしまっている。
このフェスティバルで出会ったのは、殆ど昔の教員仲間である。
附属高校や職業高校を中心としたブースがあったので、出会って当たり前なのだ。
知っている地元の人は一家族だけだった。
雨の中、入場者の数も少なく、商品の売れ行きも悪かった。
目立ったのはスーツを着た人たちで、いかにも役人という風貌で仕事で来たという感じであった。
その人たちの中にはスーツに長靴という格好で、巡り歩いている関係者もいた。
知事さんも雨の中、ブースを覗いて声をかけてくれた。
このフェスティバルが済んだら、また静かな鹿の遊ぶ町に戻るだろう。
中心となっている、光都プラザの店舗は入れ替わりも多く、空き店舗のオーナーを募集している。
広島大学は賀茂学園都市の中核として発展に貢献したようだ。
娘が通っていた関係で何度か行ってみたが、同じテクノポリスでも雲泥の差である。
国立と県立の差といえばそれまでだが、もっと工夫が必要だろう。
何よりも地元との関係をもっと親密にする必要があるように思う。
それにはもっと便利で安いアクセス方法が必要である。
鹿との衝突や冬の雪に苦しめられる、道路も問題だ。
賀茂学園都市も雪で事故は多いそうだが、それ以上に危険な坂道を抱えている。
いっそ播磨自動車道を無料化して、姫路バイパスとつないではどうだろうか?
過酷な現実
教員がブラック企業と言われるようになってきたが、それは過重勤務によるものである。
それとは違い、賃金の遅滞、不払い、労使契約もまともに行わないなど、まともな雇用がんされないケースを初めて知った。
元大手団体の役員だったM氏の経営するNPOに職員になる過程で既にその現実が露呈されていた。
高齢のM氏は、約束の時間を守らないどころか、日時さえも誤ってメモをしていた。
IT関係は全くできず、メールが使えないために、口頭での約束に頼るのだが、それがある意味彼の武器だった。
紹介された直営店の担当者に会うなり、いきなり給料の支払いの遅延や、従業員がすぐやめていくことを知らされた。
作業現場はそれに加えて、通勤費の不払い、残業手当の不払いを知らされた。
NPOと言えども、最低限守るべきものだと思う。
有機農業と口にするけれど、有機農業の認証は受けてもいなかった。
それどころか、販売品がなくなると、平気で別の直売所から保証のない作物を買い転売していた。
作業現場も劣悪で、機械や道具もまともに無く、他の従業員も雇用されて半年未満だった。
作業員は販売員以上に入れ替わりが激しかった。
一緒に働き始めたY氏は、二日働いてやめていき、私も早めに手を引くことにした。
今日もイベントが家から近くの会場であったが、その企画団体との親密さとは裏腹に、全く精彩を欠くものだった。
私が30年勤務して表彰してくれた、知事さんも店に顔を出してくれたのだが・・・
私の「夢のムコウ」の現実は、極端な社会の一面を見せつけてくれた。
教員生活の中で、こういう社会の現実を知らずにいたことは、ある意味で恥ずかしいことかもしれない。
若者の夢や希望を潰していく現実を目の当たりにして、頭から水をかぶせられた思いがした。
果たして昨日から作業現場の正職員が、無断で休んで仕事に出てきていない。
それとは違い、賃金の遅滞、不払い、労使契約もまともに行わないなど、まともな雇用がんされないケースを初めて知った。
元大手団体の役員だったM氏の経営するNPOに職員になる過程で既にその現実が露呈されていた。
高齢のM氏は、約束の時間を守らないどころか、日時さえも誤ってメモをしていた。
IT関係は全くできず、メールが使えないために、口頭での約束に頼るのだが、それがある意味彼の武器だった。
紹介された直営店の担当者に会うなり、いきなり給料の支払いの遅延や、従業員がすぐやめていくことを知らされた。
作業現場はそれに加えて、通勤費の不払い、残業手当の不払いを知らされた。
NPOと言えども、最低限守るべきものだと思う。
有機農業と口にするけれど、有機農業の認証は受けてもいなかった。
それどころか、販売品がなくなると、平気で別の直売所から保証のない作物を買い転売していた。
作業現場も劣悪で、機械や道具もまともに無く、他の従業員も雇用されて半年未満だった。
作業員は販売員以上に入れ替わりが激しかった。
一緒に働き始めたY氏は、二日働いてやめていき、私も早めに手を引くことにした。
今日もイベントが家から近くの会場であったが、その企画団体との親密さとは裏腹に、全く精彩を欠くものだった。
私が30年勤務して表彰してくれた、知事さんも店に顔を出してくれたのだが・・・
私の「夢のムコウ」の現実は、極端な社会の一面を見せつけてくれた。
教員生活の中で、こういう社会の現実を知らずにいたことは、ある意味で恥ずかしいことかもしれない。
若者の夢や希望を潰していく現実を目の当たりにして、頭から水をかぶせられた思いがした。
果たして昨日から作業現場の正職員が、無断で休んで仕事に出てきていない。
2017年10月18日水曜日
夢のムコウ
家内との約束の半年は過ぎてしまった。
私は早期退職後の半年の間に、次の出版を果たす予定だった。
しかし、本格的な研究の感覚を取り戻すだけに半年近くかかってしまった。
再び稼ぎながら研究を続けることを余儀なくされた。
ハローワークに出向くと、隣の県のB市で遺物整理のアルバイトがあった。
ちょうど、考古学も勉強しているので良いと思い応募した。
面接の日に出向いて、若くて美しい女性がもう一人応募しているのが分かった。
普通は素人のおばさんがパートでやることが多いが、これは負けたと思った。
案の定、面接は老眼の痛いところを突いてきた。
かくして結果として、うら若き女性に私はアルバイトを奪われてしまった。
その後、その採用担当者が別の仕事を用意しようとしてくれた。
しかし、それも事務手続きの問題で駄目になった。
駄目になった報告を聞いて、すぐにネット上で次を探した。
ネット上では、教師や放課後支援員をチェックしていた。
それと、興味本位で農作業も検索していた。
何気なく農作業の検索結果を見てみると、隣の相生市で作業員を募集している。
NPOなので、直感的にいけるのではないかと思った。
早速電話して、話を進めることにした。
夜電話がかかってきて、採用担当者の声を聞くとおじいさんの声だった。
最初の電話の人も若くて頼りなく、担当者も年配で少々不安に感じた。
翌日約束の時間より遅れて、現れた方は腰の曲がったおじいさんだった。
農場を見せてもらった後、近くの喫茶店で話を伺った。
おじいさんと思った人が、実はこのNPOの理事長で、それと関連する合資会社の社長だった。
年齢を伺うと81歳で、しかも神戸から通ってきているというので驚いた。
やはり、有機農業のNPOで私が今まで目指してきたことと全く同じだった。
私は、有機農業を通じて、健常者と障害者がともに働ける場所を作りたいと思い続けてきた。
しかし、その夢の最大のネックは販売であった。
この理事長のM氏は現役時代は流通関係で活躍された人で、退職後に地道に取り組んできた人だった。
当然、意気投合してしまい、私は働かせてもらうことになった。
実際の仕事の打ち合わせと言うことで、再び喫茶店で話を聞いて驚いた。
私は、当初はパートタイムで働かせてもらうことになっていたのだが、正職員に抜擢された。
前回の打ち合わせでは、正職員は若い人に頼むということになっていたからだ。
戸惑いもあったが、やる以上はとことん頑張ろうと思った。
この30年あまり、研究職と農業職を目指すことの間で揺れ動いたが、神様の選んでくれたのは後者だった。
当然これで研究を終わらせるつもりはない。
私の文化人類学の原点は、生活実践にある。
大学や研究施設の研究者だけが、研究者ではない。
比べるのは憚れるが、かの南方熊楠も在野の生活実践家だった。
また、このブログを通しても、実践報告を行いたいと思う
私は早期退職後の半年の間に、次の出版を果たす予定だった。
しかし、本格的な研究の感覚を取り戻すだけに半年近くかかってしまった。
再び稼ぎながら研究を続けることを余儀なくされた。
ハローワークに出向くと、隣の県のB市で遺物整理のアルバイトがあった。
ちょうど、考古学も勉強しているので良いと思い応募した。
面接の日に出向いて、若くて美しい女性がもう一人応募しているのが分かった。
普通は素人のおばさんがパートでやることが多いが、これは負けたと思った。
案の定、面接は老眼の痛いところを突いてきた。
かくして結果として、うら若き女性に私はアルバイトを奪われてしまった。
その後、その採用担当者が別の仕事を用意しようとしてくれた。
しかし、それも事務手続きの問題で駄目になった。
駄目になった報告を聞いて、すぐにネット上で次を探した。
ネット上では、教師や放課後支援員をチェックしていた。
それと、興味本位で農作業も検索していた。
何気なく農作業の検索結果を見てみると、隣の相生市で作業員を募集している。
NPOなので、直感的にいけるのではないかと思った。
早速電話して、話を進めることにした。
夜電話がかかってきて、採用担当者の声を聞くとおじいさんの声だった。
最初の電話の人も若くて頼りなく、担当者も年配で少々不安に感じた。
翌日約束の時間より遅れて、現れた方は腰の曲がったおじいさんだった。
農場を見せてもらった後、近くの喫茶店で話を伺った。
おじいさんと思った人が、実はこのNPOの理事長で、それと関連する合資会社の社長だった。
年齢を伺うと81歳で、しかも神戸から通ってきているというので驚いた。
やはり、有機農業のNPOで私が今まで目指してきたことと全く同じだった。
私は、有機農業を通じて、健常者と障害者がともに働ける場所を作りたいと思い続けてきた。
しかし、その夢の最大のネックは販売であった。
この理事長のM氏は現役時代は流通関係で活躍された人で、退職後に地道に取り組んできた人だった。
当然、意気投合してしまい、私は働かせてもらうことになった。
実際の仕事の打ち合わせと言うことで、再び喫茶店で話を聞いて驚いた。
私は、当初はパートタイムで働かせてもらうことになっていたのだが、正職員に抜擢された。
前回の打ち合わせでは、正職員は若い人に頼むということになっていたからだ。
戸惑いもあったが、やる以上はとことん頑張ろうと思った。
この30年あまり、研究職と農業職を目指すことの間で揺れ動いたが、神様の選んでくれたのは後者だった。
当然これで研究を終わらせるつもりはない。
私の文化人類学の原点は、生活実践にある。
大学や研究施設の研究者だけが、研究者ではない。
比べるのは憚れるが、かの南方熊楠も在野の生活実践家だった。
また、このブログを通しても、実践報告を行いたいと思う
2017年4月7日金曜日
プールに戻った海豚
私は自分のハンドルネームに海豚を使うことがある。
イルカと書けば、無骨な私には不似合いだ。
いっそ蘇我入鹿の名前を借用しても良いが、体型は海の豚なのである。
海が大好きな私には、海豚が相応しい様に思う。
定時制の高校に勤め始めて、殆どしなくなったのが水泳である。
長いことやっていた水泳部の顧問が、出来なかくなったのが関係している。
定時制には運動系のクラブとして、バドミントン、バスケットボール、柔道しかなかった。
水泳の経験者が入学すれば、水泳部を作りたいと思っていた。
単なる趣味と健康で始めた水泳なのだが、上郡高校で顧問をやり始めてからずっと練習を自分でも続けた。
マスターズの大会に参加したり、スイミングスクールに通ったりもした。
それは顧問として専門性を高めたいということと、生徒と一緒に泳ぎたかったからだ。
赤穂高校の全日制に勤めるまでは、上郡のB&Gプールの年間使用券を持っていた。
赤穂高校は赤穂の市民プールを無料で使わせて貰えるので、生徒と一緒に冬場は泳いだ。
個人的に泳ぎたい時は、上郡や相生のプールの回数券を買って泳いだ。
退職したのをきっかけとして、何年かぶりに上郡プールで年券を買った。
18000円と以前より倍近く値上がりしていて驚いた。
プールの管理やスクールの指導をする業者が今年から変わって、雰囲気が一変していた。
コーチは若い男女二人を除いて、腹の少し出た中高年の男性だった。
そして選手コースには、選手がいなかった。
聞くところによれば、前の業者のコーチについて辞めたそうである。
水泳では良くある話なのだが、全くゼロになったというのは驚きである。
因みに昨年は全国大会にも出場する選手がいた。
泳ぎ自体は、昨年度一年の間に数えるくらいしか泳いでいなかったので、自分でも情けない泳ぎになっていた。
専門のバタフライが、25mなのに2本目で腕が上がらなくなってしまった
クロールも50mを1分サークルで5本しか出来なくなっていた。
トータル3000mは軽くこなせていたのに、2000mも泳ぐとへたってしまった。
そもそも、アップのSKPS800mで体力を失った感もある。
こんな情けない状態でも、慰めてくれるのはプール仲間である。
高橋さんは元国体出場のスキー選手だが、体力維持と健康をかねて水泳もしていた。
彼は画家でもあるが、今は年金暮らしの自給農家になっている。
高橋さんに泳ぎを手ほどきした方だが、慰めてもらう立場になってしまった。
プール仲間は沢山いたのだが、その仲間も数人に減ってしまった。
今日も帰り際の仲間に、家島で開催されるオープンウォーターに出場することを誘われた。
高橋さんに聞くと出場しないという。
彼は競技としてはスキーで十分で、水泳は競技にしたくないという。
レースは確かに励みになるが、故障するリスクも増える。
この歳になれば、楽しみながら泳ぐ方があっているかなと思った。
本物のイルカは演技させられるが、犬の様にレースはさせられない。
水の中なので見ていても面白くないからだろう。
イルカは遊びが大好きで、人とも遊んでくれる。
私は人と競うより、プールや海、川でイルカの様に遊んだり、食べたりしようと思う。
暖かくなれば、SUPも再開だ。
いずれはウェットスーツの良いのを買って、冬場も海に行きたい。
この海豚も生まれ育った海で、暮らしの糧を得たり、遊ぶのである。
ただ、若い選手と一緒にまた泳いでみたいと、ひとりで練習に来ていた高校生くらいの選手を見て思った・・・
イルカと書けば、無骨な私には不似合いだ。
いっそ蘇我入鹿の名前を借用しても良いが、体型は海の豚なのである。
海が大好きな私には、海豚が相応しい様に思う。
定時制の高校に勤め始めて、殆どしなくなったのが水泳である。
長いことやっていた水泳部の顧問が、出来なかくなったのが関係している。
定時制には運動系のクラブとして、バドミントン、バスケットボール、柔道しかなかった。
水泳の経験者が入学すれば、水泳部を作りたいと思っていた。
単なる趣味と健康で始めた水泳なのだが、上郡高校で顧問をやり始めてからずっと練習を自分でも続けた。
マスターズの大会に参加したり、スイミングスクールに通ったりもした。
それは顧問として専門性を高めたいということと、生徒と一緒に泳ぎたかったからだ。
赤穂高校の全日制に勤めるまでは、上郡のB&Gプールの年間使用券を持っていた。
赤穂高校は赤穂の市民プールを無料で使わせて貰えるので、生徒と一緒に冬場は泳いだ。
個人的に泳ぎたい時は、上郡や相生のプールの回数券を買って泳いだ。
退職したのをきっかけとして、何年かぶりに上郡プールで年券を買った。
18000円と以前より倍近く値上がりしていて驚いた。
プールの管理やスクールの指導をする業者が今年から変わって、雰囲気が一変していた。
コーチは若い男女二人を除いて、腹の少し出た中高年の男性だった。
そして選手コースには、選手がいなかった。
聞くところによれば、前の業者のコーチについて辞めたそうである。
水泳では良くある話なのだが、全くゼロになったというのは驚きである。
因みに昨年は全国大会にも出場する選手がいた。
泳ぎ自体は、昨年度一年の間に数えるくらいしか泳いでいなかったので、自分でも情けない泳ぎになっていた。
専門のバタフライが、25mなのに2本目で腕が上がらなくなってしまった
クロールも50mを1分サークルで5本しか出来なくなっていた。
トータル3000mは軽くこなせていたのに、2000mも泳ぐとへたってしまった。
そもそも、アップのSKPS800mで体力を失った感もある。
こんな情けない状態でも、慰めてくれるのはプール仲間である。
高橋さんは元国体出場のスキー選手だが、体力維持と健康をかねて水泳もしていた。
彼は画家でもあるが、今は年金暮らしの自給農家になっている。
高橋さんに泳ぎを手ほどきした方だが、慰めてもらう立場になってしまった。
プール仲間は沢山いたのだが、その仲間も数人に減ってしまった。
今日も帰り際の仲間に、家島で開催されるオープンウォーターに出場することを誘われた。
高橋さんに聞くと出場しないという。
彼は競技としてはスキーで十分で、水泳は競技にしたくないという。
レースは確かに励みになるが、故障するリスクも増える。
この歳になれば、楽しみながら泳ぐ方があっているかなと思った。
本物のイルカは演技させられるが、犬の様にレースはさせられない。
水の中なので見ていても面白くないからだろう。
イルカは遊びが大好きで、人とも遊んでくれる。
私は人と競うより、プールや海、川でイルカの様に遊んだり、食べたりしようと思う。
暖かくなれば、SUPも再開だ。
いずれはウェットスーツの良いのを買って、冬場も海に行きたい。
この海豚も生まれ育った海で、暮らしの糧を得たり、遊ぶのである。
ただ、若い選手と一緒にまた泳いでみたいと、ひとりで練習に来ていた高校生くらいの選手を見て思った・・・
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