今まで無農薬、無化学肥料での農作物の栽培を20年以上続けてきた。
その中で害虫によって作物が荒らされたことは度々あった。
それに対して、草木灰や有機石灰を撒いたり、アシビ、煙草の葉を水に溶かして撒いたりもした。
今回は無策であった。
今まで黒大豆は放置していても、大した被害が無かったからだ。
ところが今回は害虫によって赤穂の畑に植えていた黒大豆が全滅してしまった。
葉はそれほど被害は無かったので気づかぬうちに、サヤなどが食い尽くされていた。
聞けば近くの畑でも同じような被害があったという。
油断していたのは上郡の方では順調に育っていたからでもある。
しかし、上郡の近所の畑の黒大豆は病気で立ち枯れたという。
台風などで長雨が続いて病気になったのだろうという。
私が耕作している畑は、水はけはあまりよくないのだが、雑草が生えているので、雑草が水を吸ってくれている。
それが却って幸いしたのかもしれない。
以前少しだけ勤めた無農薬、無化学肥料の農場では、害虫に対しては完全放置だった。
虫が食えば、葉物はまた新しいのが自然と生えるということだった。
しかし、大豆のようなものは再生しようが無い。
そもそも発芽した芽を食われればそれでおしまいとなる。
それでほうれん草は全滅したという。
その農場は人海戦術で数をこなして利益を上げていたが、小規模な農家には無理である。
そこで有機農法を調べてみた。
ネット上でGreen Japanの「「有機」表示のできる農薬」によれば
「法律のおいて、「有機農産物」とは「化学的に合成された肥料及び農薬の使用」を避けたものを基本とする、定義されています。一般に言う「有機」か「無機」かという分類は全く関係がないので注意が必要です。つまり、例えば「炭酸カルシウム」でも[化学的に合成」されたものは使えないが、「天然鉱石を粉砕」したものは使えるということですhttp://www.greenjapan.co.jp/yuki_hyoji_noyak.htm」
ということで、「有機」として使える農薬登録のある商品情報もリストアップしてくれている。
要するに化学的合成かどうかの問題で、自然由来の物質を用いれば良いのである。
まさしく自然農薬を上手く活用しておけば問題は無かった。
黒大豆が全滅した一方で、上郡の畑では蒔きもしなかった、パクチ、ブロッコリー、大根が数多く育っている。
本当は花を咲かせて種を採って撒くつもりが、ずぼらして種が落ちてしまったのである。
ブロッコリーはニンニクのところに生えてしまったので、移植した。
パクチは手に負えないぐらい生えているので、そのまま放置している。
大根はそれほど生えてはいないが根性のある大根である。
こちらは自然農法に近いかもしれない。
今回勉強になったのは、有機農業は大規模で人海戦術を用いればできるかもしれない。
しかし、それは流通ルートをしっかり確保できる人に限られる。
だから、小規模な農家が起業するには前もって蓄財するか、年金をもらってからの方が良さそうだ。
作物の状態は常に観察して対策を怠ってはならず、片手間ではできない。
私の有機農業への挑戦はこれからしばらくはまだ研修段階で進みそうである。
しかし、こういう人はままいるようで、流通に乗せず知人に配っているようだ。
その一方で、農薬や化学肥料をふんだんに使って、多く収穫しようとする方が大勢だろう。
近所の農家もそういう農家が多い。
農薬で肝臓を悪くして早死にした父親を持つ農家も相変わらずである。
農業で生計を立てている人は、大きなリスクを背負っていることが身にしみた。
播磨の西外れにある私の生まれ育った赤穂や、今暮らしている上郡に関すること、農作業,山野河海の恵み、趣味の水泳、音楽、専門である有機農業や、教育、文化人類学、民俗学に関することなどを、きままに記してみます。
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2017年11月8日水曜日
2017年11月7日火曜日
負った子に背負われて
家内は実家の父親の具合が悪くて休日には留守がちになった。
この11月の三連休も半日は看病やら手伝いに出かけていった。
そんな折り、たまたま土曜に休みが取れた息子とドライブに行くことになった。
息子の通勤用の車は、数ヶ月ほど前に中古を買い換えたものである。
ETCも付いていないので、近場に行くことにした。
実は自転車で日生大橋を渡って、鹿久居島に行ってみたいと思っていた。
まずは下見に息子と車で出かけることにしたのである。
息子を乗せてのドライブは、小さい頃から最近までしていた。
しかし、用事で乗せてもらう以外にドライブで車に乗せてもらうのは初めてだった。
日生大橋は狭い急な坂になっていたが、ハイキング姿で一人歩く年配の人がいた。
これはいきなり自転車はきつい坂だなと、車で来て良かったと思った。
地図も持たず、ナビも付いていないので、何も考えず進むと頭島大橋を渡ってしまった。
しばらく行くと市営の駐車場があり、一日100円なのでそこに置いて散策することにした。
頭島という名前はよく聞かされていた。
母親の遠い親戚が民宿をしていると聞かされていたからである。
以前私が職場の幹事をしていた時に、そこを利用しようとしたが不便だと言うことで取りやめになってしまった。
予約までしていて、非常に気まずい思いをした経験の場所でもある。
頭島は思ったより開けていて、民宿も多かった。
観光施設らしき物は何も無く、防波堤で釣りをする人が多かった。
知っている人は、防波堤の空き地に車を駐めているようだった。
港から少し山を越えて、海水浴場まで行った。
細い路地で、海水浴客が車を駐めるのは難しいと思った。
浜辺のすぐそばに墓場があり、それを見て息子は大学時代に病気で亡くなった友達の話をし出した。
息子は高校の同級生を一人病気で、小学校中学校の同級生を放火事件で亡くしている。
特に病気で亡くなった友達とは仲が良かったようで、ショックだったようだ。
実はその友達のお姉さんは私の教え子であり、お父さんは職場の同僚でもあった。
その浜辺から駐車場に戻る時に、山の上に建物があるのが見えたので行くことにした。
この頭島には2017年まで小学校があったようで、山の斜面に記念の絵が描かれてあった。
その廃校になった小学校にも行ってみたが、山の上の景色の良いこぢんまりとした小学校だった。
なぜか、門は閉じられているのに、奥の方に車が一台駐められていた。
見晴らしの良い坂道を下って、駐車場までのんびりと釣り客を見ながら戻った。
島を出てからは、途中で運転を交代して、ブルーラインを通り鷲羽山まで行った。
鷲羽山は家族で何度か行ったところなのだが、息子はあまり憶えていなかった。
鷲羽山の展望台で思い出したようだ。
その時は弁当を途中で買って、海を見ながら食べた。
今回は客の少ないレストランの窓際の一等席でたこ飯定食を食べた。
昼時であるのにお客さんが少ない。
以前家内と二人出来た時にも思ったことだが、観光地としては寂れてしまっている。
ただ、自転車やバイクのマニアには格好の場所になっているようだ。
その後は息子が運転して渋川海岸沿いをドライブした。
いつもながらこの近辺の道は良く分からず、結局岡山港にたどり着いた。
コンビニで休憩した後、私が運転して家路についたが、途中で息子はぐっすり眠ってしまった。
普段あまり車で遠出しないので疲れたと後で行っていた。
久しぶりに息子と二人きりの長い時間を過ごした。
息子は職場のことを色々と話してくれた。
本来は父親ではなくて、友達や彼女とドライブをする年代なのだ。
一緒に過ごすことは望ましい状態とは思えず、父親としては複雑な心境である。
それでも、息子の仕事の様子を聴くことが出来て良かったは思う。
いつか、娘ともこういう時間がつくれたらと思うが、娘は鷲羽山に掛かる大橋の向こう側にいる。
この11月の三連休も半日は看病やら手伝いに出かけていった。
そんな折り、たまたま土曜に休みが取れた息子とドライブに行くことになった。
息子の通勤用の車は、数ヶ月ほど前に中古を買い換えたものである。
ETCも付いていないので、近場に行くことにした。
実は自転車で日生大橋を渡って、鹿久居島に行ってみたいと思っていた。
まずは下見に息子と車で出かけることにしたのである。
息子を乗せてのドライブは、小さい頃から最近までしていた。
しかし、用事で乗せてもらう以外にドライブで車に乗せてもらうのは初めてだった。
日生大橋は狭い急な坂になっていたが、ハイキング姿で一人歩く年配の人がいた。
これはいきなり自転車はきつい坂だなと、車で来て良かったと思った。
地図も持たず、ナビも付いていないので、何も考えず進むと頭島大橋を渡ってしまった。
しばらく行くと市営の駐車場があり、一日100円なのでそこに置いて散策することにした。
頭島という名前はよく聞かされていた。
母親の遠い親戚が民宿をしていると聞かされていたからである。
以前私が職場の幹事をしていた時に、そこを利用しようとしたが不便だと言うことで取りやめになってしまった。
予約までしていて、非常に気まずい思いをした経験の場所でもある。
頭島は思ったより開けていて、民宿も多かった。
観光施設らしき物は何も無く、防波堤で釣りをする人が多かった。
知っている人は、防波堤の空き地に車を駐めているようだった。
港から少し山を越えて、海水浴場まで行った。
細い路地で、海水浴客が車を駐めるのは難しいと思った。
浜辺のすぐそばに墓場があり、それを見て息子は大学時代に病気で亡くなった友達の話をし出した。
息子は高校の同級生を一人病気で、小学校中学校の同級生を放火事件で亡くしている。
特に病気で亡くなった友達とは仲が良かったようで、ショックだったようだ。
実はその友達のお姉さんは私の教え子であり、お父さんは職場の同僚でもあった。
この頭島には2017年まで小学校があったようで、山の斜面に記念の絵が描かれてあった。
その廃校になった小学校にも行ってみたが、山の上の景色の良いこぢんまりとした小学校だった。
なぜか、門は閉じられているのに、奥の方に車が一台駐められていた。
見晴らしの良い坂道を下って、駐車場までのんびりと釣り客を見ながら戻った。
島を出てからは、途中で運転を交代して、ブルーラインを通り鷲羽山まで行った。
鷲羽山は家族で何度か行ったところなのだが、息子はあまり憶えていなかった。
鷲羽山の展望台で思い出したようだ。
その時は弁当を途中で買って、海を見ながら食べた。
今回は客の少ないレストランの窓際の一等席でたこ飯定食を食べた。
昼時であるのにお客さんが少ない。
以前家内と二人出来た時にも思ったことだが、観光地としては寂れてしまっている。
ただ、自転車やバイクのマニアには格好の場所になっているようだ。
その後は息子が運転して渋川海岸沿いをドライブした。
いつもながらこの近辺の道は良く分からず、結局岡山港にたどり着いた。
コンビニで休憩した後、私が運転して家路についたが、途中で息子はぐっすり眠ってしまった。
普段あまり車で遠出しないので疲れたと後で行っていた。
息子は職場のことを色々と話してくれた。
本来は父親ではなくて、友達や彼女とドライブをする年代なのだ。
一緒に過ごすことは望ましい状態とは思えず、父親としては複雑な心境である。
それでも、息子の仕事の様子を聴くことが出来て良かったは思う。
いつか、娘ともこういう時間がつくれたらと思うが、娘は鷲羽山に掛かる大橋の向こう側にいる。
2017年11月4日土曜日
にわか宮総代
退職した途端に村役の一つを強引に任せられた。
宮総代という村役は、要するに神社行事の世話役、作業員なのである。
因みに神社や寺を掃除したり、お清めするのは古代では奴婢の行う仕事だった。
各地区に一人の代表と、区長、副区長が加わって神社の運営を行う。
前任者は、今年はこの地区が行事の当番(総世話役)に当たっているのにも関わらず、降りてしまった。
本来なら前年度から、やるべき仕事を見て知っておかねばならない役柄である。
私はこの村に引っ越して以来、中野地区の荒神祭りには参加したり、世話役もした。
しかし、多くの氏子を抱える与井八幡神社の祭りには殆ど参加したことが無い。
私は生まれは赤穂なので、赤穂の鳥撫と尾崎の祭りや行事は小さい頃からのなじみがある。
この村に引っ越して25年以上になるのに、祭りは一回だけちょっと見に行きすぐに帰った。
子供たちは子供神輿で参加はしていたはずだが、家内が付き添った。
宮総代の最初の仕事は輪越(大祓)で用いる茅の刈り取りだった。
茅を刈り取ってきて、古老の指導を受けながら大きな輪をこさえた。
そして、輪越の神事の世話役で、浄めの世話や、直会の世話をした。
初めて神事たるものに参加して、宮総代代表として玉串奉納も行った。
今まで輪越というのは単に夕方家族でくぐり抜けに行っただけなので、神事作法があるとは知らなかった。
神木から神様をお供しながら、神主を先頭に行列になって輪を3回8の字に回った。
因みにこの神道の大祓は中国由来の道教の影響だそうである。
の輪越より大変だったのは、10月の15日行われた秋祭りだった。
一週間前から、宮総代全員で神社周り草木を剪定したり、掃除を行った。
祭りの前日には応援も来てもらい、例年の幟立てだけではなく、雨が予想されたのでテントを立てた。
当日も朝早くから、提灯やらテントを起こしたが、前日より貯まった雨水をかぶってずぶ濡れになった。
上半身裸で作業した後、本番にそなえて着替えに帰らなければならなかった。
祭り行事は、宮総代はいちよう正装していた。
獅子舞や子供神輿が山の上の神社まで上がって来て、初めて与井の獅子舞をじっくりと見物した。
その舞手の中には、上郡高校の教え子がいて、声をかけたが。
「先生痩せてましたね」と言われ、私は腹の出た教え子に「太ったな」と返した。
何とか玉串奉納の神事も行い、一番の大仕事はビンゴゲームの司会となった。
むしろ司会は教師をしていたので、気楽にできた。
獅子舞の出る秋祭りでビンゴゲームというのは初めての経験だった。
それが終わり、テントを足だけたたんで直会となった。
今回は輪越の洗い米と御神酒だけでは無くて、弁当と酒が用意されていた。
本来ならその世話役なのだが、座って飲み食いしてしまった。
私は神主を覗いて地区役員や宮総代の中で一番若い。
弁当を全部食べてしまったのは私だけだった。
他の人はお酒もほどほどに、弁当は持ち帰っていた。
その数日後の晴れた日に、幟やテントを朝夕に分けて片付けた。
結局、秋祭りに4日間の奉仕を行った。
今後、宮総代は新嘗祭や年末年始の行事の仕事がある。
村の神社の行事も高齢者で担わなくてはならなくなり、いずれ無くなるだろう。
現に、近くの神社は獅子舞の舞手が無くなり、来年から獅子舞は無くなるそうだ。
十分な練習が必要な獅子舞より、簡単に担げる神輿の方がこれから良いのかもしれない。
私の育った赤穂の尾崎では大人神輿が盛んになったようだ。
これも姫路の祭りの影響なのかとも思う。
祭りも時代に合わせて変えていかねばならないだろう
宮総代という村役は、要するに神社行事の世話役、作業員なのである。
因みに神社や寺を掃除したり、お清めするのは古代では奴婢の行う仕事だった。
各地区に一人の代表と、区長、副区長が加わって神社の運営を行う。
前任者は、今年はこの地区が行事の当番(総世話役)に当たっているのにも関わらず、降りてしまった。
本来なら前年度から、やるべき仕事を見て知っておかねばならない役柄である。
私はこの村に引っ越して以来、中野地区の荒神祭りには参加したり、世話役もした。
しかし、多くの氏子を抱える与井八幡神社の祭りには殆ど参加したことが無い。
私は生まれは赤穂なので、赤穂の鳥撫と尾崎の祭りや行事は小さい頃からのなじみがある。
この村に引っ越して25年以上になるのに、祭りは一回だけちょっと見に行きすぐに帰った。
子供たちは子供神輿で参加はしていたはずだが、家内が付き添った。
宮総代の最初の仕事は輪越(大祓)で用いる茅の刈り取りだった。
茅を刈り取ってきて、古老の指導を受けながら大きな輪をこさえた。
そして、輪越の神事の世話役で、浄めの世話や、直会の世話をした。
初めて神事たるものに参加して、宮総代代表として玉串奉納も行った。
今まで輪越というのは単に夕方家族でくぐり抜けに行っただけなので、神事作法があるとは知らなかった。
神木から神様をお供しながら、神主を先頭に行列になって輪を3回8の字に回った。
因みにこの神道の大祓は中国由来の道教の影響だそうである。
の輪越より大変だったのは、10月の15日行われた秋祭りだった。
一週間前から、宮総代全員で神社周り草木を剪定したり、掃除を行った。
祭りの前日には応援も来てもらい、例年の幟立てだけではなく、雨が予想されたのでテントを立てた。
当日も朝早くから、提灯やらテントを起こしたが、前日より貯まった雨水をかぶってずぶ濡れになった。
上半身裸で作業した後、本番にそなえて着替えに帰らなければならなかった。
祭り行事は、宮総代はいちよう正装していた。
獅子舞や子供神輿が山の上の神社まで上がって来て、初めて与井の獅子舞をじっくりと見物した。
その舞手の中には、上郡高校の教え子がいて、声をかけたが。
「先生痩せてましたね」と言われ、私は腹の出た教え子に「太ったな」と返した。
何とか玉串奉納の神事も行い、一番の大仕事はビンゴゲームの司会となった。
むしろ司会は教師をしていたので、気楽にできた。
獅子舞の出る秋祭りでビンゴゲームというのは初めての経験だった。
それが終わり、テントを足だけたたんで直会となった。
今回は輪越の洗い米と御神酒だけでは無くて、弁当と酒が用意されていた。
本来ならその世話役なのだが、座って飲み食いしてしまった。
私は神主を覗いて地区役員や宮総代の中で一番若い。
弁当を全部食べてしまったのは私だけだった。
他の人はお酒もほどほどに、弁当は持ち帰っていた。
その数日後の晴れた日に、幟やテントを朝夕に分けて片付けた。
結局、秋祭りに4日間の奉仕を行った。
今後、宮総代は新嘗祭や年末年始の行事の仕事がある。
村の神社の行事も高齢者で担わなくてはならなくなり、いずれ無くなるだろう。
現に、近くの神社は獅子舞の舞手が無くなり、来年から獅子舞は無くなるそうだ。
十分な練習が必要な獅子舞より、簡単に担げる神輿の方がこれから良いのかもしれない。
私の育った赤穂の尾崎では大人神輿が盛んになったようだ。
これも姫路の祭りの影響なのかとも思う。
祭りも時代に合わせて変えていかねばならないだろう
2017年11月1日水曜日
30年前の繰り返し
約束の半年が過ぎてもちゃんとした仕事が見つからないでいる。
今から30年ほど前に、私は博士課程の進学を諦めて教師になるべく地元赤穂に帰った。
教員採用試験を受けるまでは実家に籠り試験勉強をした。
その後は、姫路の中学校や赤穂の中学校、尼崎の高校の臨時講師を勤めた。
臨時講師は病欠、海外研修、産休の教諭の代用であった。
中学校では数学、英語を教え、高校では現代社会を教えた。
臨時講師の仕事は連続してあった訳では無く、その空いた期間は発掘の作業員をした。
土木作業員とあまり変わらない仕事で、地元の中学校では生徒から「ドカチン先生」と呼ばれた。
ただ、その発掘の仕事のお陰で、教育委員会のMさんに懇意にしてもらい。
教員採用に関しては、色々とお世話になり助かった。
多くの人が高校社会科の教師に何年も講師を続けることが多いのに、私は半年ほどの講師で教諭になれた。
ただ、採用されたのは当時養護学校と呼ばれた学校で、大学院の専門知識は活かされることは無かった。
その後30年間、専門知識はあまり活かされることは無かったように思える。
今、私は次の仕事のために色々と職探しをしている。
30年前も高校教師になりたくてなったのではなくて、研究を続けるために教師の道を選んだ。
今も、研究が続けられるための職を探している。
一般の人から見れば、なぜそこまで拘るのかと思うかも知れない。
今テレビドラマでやっている「陸王」の「シルクレイ」の開発社長に重なって見えた。
その人物設定では、良い技術を持ちながら倒産してしまった社長。
私の場合は良い研究とは言えないけど、職に出来ないでいる。
前回のストーリーからすれば、金のためでは無くて生きがいを求めて足袋屋に協力することになった。
私は倒産ならぬ退職だが、研究を通して最後の人生を賭けてみたいと思っている。
それはやはり生きがいなのだと思う。
開発技術も研究も時代が変われば、忘れ去られることが多い。
場合によって一儲けできるかも知れないが、年老いてしまえばそれもあまり価値は無いだろう。
要するに、「自分のやりたいことを自由にやれることそのもの」に生きがいを感じるのである。
稼ぎのないものを人は道楽というかも知れない。
しかし、私の原点は奄美与路島の人の様に、あくせく稼がなくても楽しく生活していた姿である。
当然与路の人にも不安はいつもつきまとっていた。
あくせくして働いていれば、その不安を忘れられるかも知れない。
しかし、結局それは心身を蝕んでいくことにもなりかねない。
30年前の私は全くの無一文だった。
今は僅かながら蓄えもある。
ただ、30年前の私には若さと希望があった。
今の私には老いと諦めしか無い。
唯一30年前より勝っているのは、焦らず道を進むことだろう。
長くなった人生はこのような転機を繰り返すのが当たり前なのかも知れない。
今から30年ほど前に、私は博士課程の進学を諦めて教師になるべく地元赤穂に帰った。
教員採用試験を受けるまでは実家に籠り試験勉強をした。
その後は、姫路の中学校や赤穂の中学校、尼崎の高校の臨時講師を勤めた。
臨時講師は病欠、海外研修、産休の教諭の代用であった。
中学校では数学、英語を教え、高校では現代社会を教えた。
臨時講師の仕事は連続してあった訳では無く、その空いた期間は発掘の作業員をした。
土木作業員とあまり変わらない仕事で、地元の中学校では生徒から「ドカチン先生」と呼ばれた。
ただ、その発掘の仕事のお陰で、教育委員会のMさんに懇意にしてもらい。
教員採用に関しては、色々とお世話になり助かった。
多くの人が高校社会科の教師に何年も講師を続けることが多いのに、私は半年ほどの講師で教諭になれた。
ただ、採用されたのは当時養護学校と呼ばれた学校で、大学院の専門知識は活かされることは無かった。
その後30年間、専門知識はあまり活かされることは無かったように思える。
今、私は次の仕事のために色々と職探しをしている。
30年前も高校教師になりたくてなったのではなくて、研究を続けるために教師の道を選んだ。
今も、研究が続けられるための職を探している。
一般の人から見れば、なぜそこまで拘るのかと思うかも知れない。
今テレビドラマでやっている「陸王」の「シルクレイ」の開発社長に重なって見えた。
その人物設定では、良い技術を持ちながら倒産してしまった社長。
私の場合は良い研究とは言えないけど、職に出来ないでいる。
前回のストーリーからすれば、金のためでは無くて生きがいを求めて足袋屋に協力することになった。
私は倒産ならぬ退職だが、研究を通して最後の人生を賭けてみたいと思っている。
それはやはり生きがいなのだと思う。
開発技術も研究も時代が変われば、忘れ去られることが多い。
場合によって一儲けできるかも知れないが、年老いてしまえばそれもあまり価値は無いだろう。
要するに、「自分のやりたいことを自由にやれることそのもの」に生きがいを感じるのである。
稼ぎのないものを人は道楽というかも知れない。
しかし、私の原点は奄美与路島の人の様に、あくせく稼がなくても楽しく生活していた姿である。
当然与路の人にも不安はいつもつきまとっていた。
あくせくして働いていれば、その不安を忘れられるかも知れない。
しかし、結局それは心身を蝕んでいくことにもなりかねない。
30年前の私は全くの無一文だった。
今は僅かながら蓄えもある。
ただ、30年前の私には若さと希望があった。
今の私には老いと諦めしか無い。
唯一30年前より勝っているのは、焦らず道を進むことだろう。
長くなった人生はこのような転機を繰り返すのが当たり前なのかも知れない。
もみの木とゴールドクレスト
家の庭には二本の大きな木がある。
西側にはもみの木、東側にはゴールドクレストである。

二本ともクリスマスツリーとして二人の子供のために買ったものである。
もみの木は上の息子のために、ゴールドクレストは下の娘のためである。
だから二本とも20年以上の樹齢を持つ。
どちらもこれ以上高くなると、手に負えなくなると思って、先端は切り落としていた。
ところが、どちらも枝が大きく成長してしまった。
ゴールドクレストなどは、枝も上に伸びていくので、先端を落とした意味は無かった。
今後のことを考えて、しっかり剪定することにした。
そのために、充電式の高枝チェーンソーを買った。
これは実家の松の木の剪定にも用いるために、実家から援助してもらった。
もみの木はベランダから枝先をどんどん切り落として、まるで散髪したプードルのようになった。
哀しいのはゴールドクレストである。
枝元が枯れている
ので、枝先だけ落とすわけにはいかない。
太い枝を落とすと、どんどんはげ上がっていく。
ベランダからも遠いし、道に近いので、やむなく殆ど裸にしてしまった。
木そのものを枯らしてはいけないので最低限の枝を残したが、トーテムポールのようになってしまった。
娘のために買った木をこんな姿にしてしまうのは、何となく昔の思い出を壊してしまうようで寂しかった。
知人の中には、クリスマスに子供に買った木を庭に植え大きくなりすぎて切り倒した人もいた。
いずれ切り倒さねばならない時が来るかもしれないが、自分で剪定できる内は残したいと思う。
私の実家も、家内の実家も自分で剪定できる者がいなくなった。
私の実家はシルバー派遣に頼むと高額なので、私が主に剪定している。
家内の実家は業者に頼んだようだ。
私の実家の庭は祖父が家を新築した父のために造ったものなので、できるだけ残したいと思っている。
でも、おそらく私が年老いたら、実家も自分の家も庭木は処分せねばならないだろう。
家の近所の人とも同じような話をしている。
近頃若い人は、庭木を植えようとしないのも分からなくは無い。
夏になって蝉が鳴いているのは、自分の家の庭くらいだ。
そのうち蝉の声の苦情が出るかもしれない。
自分が幼い頃は狭い家に住んでいたので、蝉のいる庭木がある友達がうらやましかった。
今は蝉を捕る子供はいない。
ただ、この暑い夏はこのうるさいけど涼しい庭に大分助けられた。
外から家に戻ってくると、はっきりと涼しく感じた。
素人の世話をする庭木は、どちらかというと見苦しいかもしれない。
それでも、親子の思い出の残る木をなんとか守っていきたいと思っている。
いつまでできるのか分からないけれど・・・
西側にはもみの木、東側にはゴールドクレストである。
二本ともクリスマスツリーとして二人の子供のために買ったものである。
もみの木は上の息子のために、ゴールドクレストは下の娘のためである。
だから二本とも20年以上の樹齢を持つ。
どちらもこれ以上高くなると、手に負えなくなると思って、先端は切り落としていた。
ところが、どちらも枝が大きく成長してしまった。
ゴールドクレストなどは、枝も上に伸びていくので、先端を落とした意味は無かった。
今後のことを考えて、しっかり剪定することにした。
そのために、充電式の高枝チェーンソーを買った。
これは実家の松の木の剪定にも用いるために、実家から援助してもらった。
もみの木はベランダから枝先をどんどん切り落として、まるで散髪したプードルのようになった。
哀しいのはゴールドクレストである。
枝元が枯れている
太い枝を落とすと、どんどんはげ上がっていく。
ベランダからも遠いし、道に近いので、やむなく殆ど裸にしてしまった。
木そのものを枯らしてはいけないので最低限の枝を残したが、トーテムポールのようになってしまった。
娘のために買った木をこんな姿にしてしまうのは、何となく昔の思い出を壊してしまうようで寂しかった。
知人の中には、クリスマスに子供に買った木を庭に植え大きくなりすぎて切り倒した人もいた。
いずれ切り倒さねばならない時が来るかもしれないが、自分で剪定できる内は残したいと思う。
私の実家も、家内の実家も自分で剪定できる者がいなくなった。
私の実家はシルバー派遣に頼むと高額なので、私が主に剪定している。
家内の実家は業者に頼んだようだ。
私の実家の庭は祖父が家を新築した父のために造ったものなので、できるだけ残したいと思っている。
でも、おそらく私が年老いたら、実家も自分の家も庭木は処分せねばならないだろう。
家の近所の人とも同じような話をしている。
近頃若い人は、庭木を植えようとしないのも分からなくは無い。
夏になって蝉が鳴いているのは、自分の家の庭くらいだ。
そのうち蝉の声の苦情が出るかもしれない。
自分が幼い頃は狭い家に住んでいたので、蝉のいる庭木がある友達がうらやましかった。
今は蝉を捕る子供はいない。
ただ、この暑い夏はこのうるさいけど涼しい庭に大分助けられた。
外から家に戻ってくると、はっきりと涼しく感じた。
素人の世話をする庭木は、どちらかというと見苦しいかもしれない。
それでも、親子の思い出の残る木をなんとか守っていきたいと思っている。
いつまでできるのか分からないけれど・・・
2017年10月29日日曜日
播磨科学公園都市まちびらき20周年
この10月28日、29日は西播磨ふれあいフェスティバルが雨の中開催された。
私は新聞に折り込まれた広告で知ってはいたが、別段関心も無く行くつもりは
無かった。ところが、販売の応援で行く必要ができて、28日だけ朝早くから出かけることになった。
朝の8時前には雨の中、既に多くのブーステントで準備が始まっていた。
販売の準備をしながら、メインステージのリハーサルを見たりもした。
自分もこういう舞台で演奏できたらなと思いつつ、雨に濡れた芝生の上で重いキャリアを押した。
開会セレモニーは多くの関係者が挨拶を行っていた。
この企画は西播磨県民局県民交流課、兵庫県県民生活課が中心となって開催されたものである。
県政150周年とまちびらき20周年を記念した一大イベントである。
ちょうど今播磨自動車道が播磨新宮ICから山崎JCTまでの延長工事を行っている。
中国縦貫道と播磨道を連結させた時に、この公園都市に賑やかな商業プラザを創る計画らしい。
ウィキペディアによれば
「開発開始から30年にあたる2015年の報告では、区域人口は1,434人であり、当初の計画人口25,000人に対し僅か 5.7%にとどまっている。
主に公共施設や研究施設等が立地しており、造成地の大半は現在売り出し中」
ということで、現段階で言えば、成功しているとはいえないだろう。
私はかつてこの公園都市の一角にあった大学付属高校に勤務していた。
この教育大学を除いて公立大学ではあまり例を見ない中学部を併設させて以来人気は上がっているようだ。
私は中学部ができて二年目で転任したので内情はよく分からないが、志望数からするとそう思える。
Spring-8をはじめとする研究機関や大学、多くの企業を誘致して発展する予定であった。
しかし、西播磨を活性化するほどの起爆剤にはなっておらず、膝元の上郡は過疎化に苦しんでいる。
実は附属高校・中学は上郡町にあるのである。
しかし、町にいて親しみも、なじみも無い学校になってしまっている。
このフェスティバルで出会ったのは、殆ど昔の教員仲間である。
附属高校や職業高校を中心としたブースがあったので、出会って当たり前なのだ。
知っている地元の人は一家族だけだった。
雨の中、入場者の数も少なく、商品の売れ行きも悪かった。
目立ったのはスーツを着た人たちで、いかにも役人という風貌で仕事で来たという感じであった。
その人たちの中にはスーツに長靴という格好で、巡り歩いている関係者もいた。
知事さんも雨の中、ブースを覗いて声をかけてくれた。
このフェスティバルが済んだら、また静かな鹿の遊ぶ町に戻るだろう。
中心となっている、光都プラザの店舗は入れ替わりも多く、空き店舗のオーナーを募集している。
広島大学は賀茂学園都市の中核として発展に貢献したようだ。
娘が通っていた関係で何度か行ってみたが、同じテクノポリスでも雲泥の差である。
国立と県立の差といえばそれまでだが、もっと工夫が必要だろう。
何よりも地元との関係をもっと親密にする必要があるように思う。
それにはもっと便利で安いアクセス方法が必要である。
鹿との衝突や冬の雪に苦しめられる、道路も問題だ。
賀茂学園都市も雪で事故は多いそうだが、それ以上に危険な坂道を抱えている。
いっそ播磨自動車道を無料化して、姫路バイパスとつないではどうだろうか?
私は新聞に折り込まれた広告で知ってはいたが、別段関心も無く行くつもりは
無かった。ところが、販売の応援で行く必要ができて、28日だけ朝早くから出かけることになった。朝の8時前には雨の中、既に多くのブーステントで準備が始まっていた。
販売の準備をしながら、メインステージのリハーサルを見たりもした。
自分もこういう舞台で演奏できたらなと思いつつ、雨に濡れた芝生の上で重いキャリアを押した。
開会セレモニーは多くの関係者が挨拶を行っていた。
この企画は西播磨県民局県民交流課、兵庫県県民生活課が中心となって開催されたものである。
県政150周年とまちびらき20周年を記念した一大イベントである。
ちょうど今播磨自動車道が播磨新宮ICから山崎JCTまでの延長工事を行っている。
中国縦貫道と播磨道を連結させた時に、この公園都市に賑やかな商業プラザを創る計画らしい。
ウィキペディアによれば
「開発開始から30年にあたる2015年の報告では、区域人口は1,434人であり、当初の計画人口25,000人に対し僅か 5.7%にとどまっている。
主に公共施設や研究施設等が立地しており、造成地の大半は現在売り出し中」
ということで、現段階で言えば、成功しているとはいえないだろう。
私はかつてこの公園都市の一角にあった大学付属高校に勤務していた。
この教育大学を除いて公立大学ではあまり例を見ない中学部を併設させて以来人気は上がっているようだ。
私は中学部ができて二年目で転任したので内情はよく分からないが、志望数からするとそう思える。
Spring-8をはじめとする研究機関や大学、多くの企業を誘致して発展する予定であった。
しかし、西播磨を活性化するほどの起爆剤にはなっておらず、膝元の上郡は過疎化に苦しんでいる。
実は附属高校・中学は上郡町にあるのである。
しかし、町にいて親しみも、なじみも無い学校になってしまっている。
このフェスティバルで出会ったのは、殆ど昔の教員仲間である。
附属高校や職業高校を中心としたブースがあったので、出会って当たり前なのだ。
知っている地元の人は一家族だけだった。
雨の中、入場者の数も少なく、商品の売れ行きも悪かった。
目立ったのはスーツを着た人たちで、いかにも役人という風貌で仕事で来たという感じであった。
その人たちの中にはスーツに長靴という格好で、巡り歩いている関係者もいた。
知事さんも雨の中、ブースを覗いて声をかけてくれた。
このフェスティバルが済んだら、また静かな鹿の遊ぶ町に戻るだろう。
中心となっている、光都プラザの店舗は入れ替わりも多く、空き店舗のオーナーを募集している。
広島大学は賀茂学園都市の中核として発展に貢献したようだ。
娘が通っていた関係で何度か行ってみたが、同じテクノポリスでも雲泥の差である。
国立と県立の差といえばそれまでだが、もっと工夫が必要だろう。
何よりも地元との関係をもっと親密にする必要があるように思う。
それにはもっと便利で安いアクセス方法が必要である。
鹿との衝突や冬の雪に苦しめられる、道路も問題だ。
賀茂学園都市も雪で事故は多いそうだが、それ以上に危険な坂道を抱えている。
いっそ播磨自動車道を無料化して、姫路バイパスとつないではどうだろうか?
過酷な現実
教員がブラック企業と言われるようになってきたが、それは過重勤務によるものである。
それとは違い、賃金の遅滞、不払い、労使契約もまともに行わないなど、まともな雇用がんされないケースを初めて知った。
元大手団体の役員だったM氏の経営するNPOに職員になる過程で既にその現実が露呈されていた。
高齢のM氏は、約束の時間を守らないどころか、日時さえも誤ってメモをしていた。
IT関係は全くできず、メールが使えないために、口頭での約束に頼るのだが、それがある意味彼の武器だった。
紹介された直営店の担当者に会うなり、いきなり給料の支払いの遅延や、従業員がすぐやめていくことを知らされた。
作業現場はそれに加えて、通勤費の不払い、残業手当の不払いを知らされた。
NPOと言えども、最低限守るべきものだと思う。
有機農業と口にするけれど、有機農業の認証は受けてもいなかった。
それどころか、販売品がなくなると、平気で別の直売所から保証のない作物を買い転売していた。
作業現場も劣悪で、機械や道具もまともに無く、他の従業員も雇用されて半年未満だった。
作業員は販売員以上に入れ替わりが激しかった。
一緒に働き始めたY氏は、二日働いてやめていき、私も早めに手を引くことにした。
今日もイベントが家から近くの会場であったが、その企画団体との親密さとは裏腹に、全く精彩を欠くものだった。
私が30年勤務して表彰してくれた、知事さんも店に顔を出してくれたのだが・・・
私の「夢のムコウ」の現実は、極端な社会の一面を見せつけてくれた。
教員生活の中で、こういう社会の現実を知らずにいたことは、ある意味で恥ずかしいことかもしれない。
若者の夢や希望を潰していく現実を目の当たりにして、頭から水をかぶせられた思いがした。
果たして昨日から作業現場の正職員が、無断で休んで仕事に出てきていない。
それとは違い、賃金の遅滞、不払い、労使契約もまともに行わないなど、まともな雇用がんされないケースを初めて知った。
元大手団体の役員だったM氏の経営するNPOに職員になる過程で既にその現実が露呈されていた。
高齢のM氏は、約束の時間を守らないどころか、日時さえも誤ってメモをしていた。
IT関係は全くできず、メールが使えないために、口頭での約束に頼るのだが、それがある意味彼の武器だった。
紹介された直営店の担当者に会うなり、いきなり給料の支払いの遅延や、従業員がすぐやめていくことを知らされた。
作業現場はそれに加えて、通勤費の不払い、残業手当の不払いを知らされた。
NPOと言えども、最低限守るべきものだと思う。
有機農業と口にするけれど、有機農業の認証は受けてもいなかった。
それどころか、販売品がなくなると、平気で別の直売所から保証のない作物を買い転売していた。
作業現場も劣悪で、機械や道具もまともに無く、他の従業員も雇用されて半年未満だった。
作業員は販売員以上に入れ替わりが激しかった。
一緒に働き始めたY氏は、二日働いてやめていき、私も早めに手を引くことにした。
今日もイベントが家から近くの会場であったが、その企画団体との親密さとは裏腹に、全く精彩を欠くものだった。
私が30年勤務して表彰してくれた、知事さんも店に顔を出してくれたのだが・・・
私の「夢のムコウ」の現実は、極端な社会の一面を見せつけてくれた。
教員生活の中で、こういう社会の現実を知らずにいたことは、ある意味で恥ずかしいことかもしれない。
若者の夢や希望を潰していく現実を目の当たりにして、頭から水をかぶせられた思いがした。
果たして昨日から作業現場の正職員が、無断で休んで仕事に出てきていない。
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