寒くなると、寝室は雨戸を閉めるので、朝は暗いままだ。
どうしても夜更かしをするので、朝起きるのが遅くなる。
12月からは朝から仕事にも行くので、朝早く起きる習慣をつけねばならない。
そこで、いつも寝る時に聞くiPadを目覚ましに使うことにした。
その目覚まし曲は、B'zのCalling、関西弁で言うと「呼んでまっせ」と言うところだろうか。
歌詞の内容は、もっと切実な叫びだろうが、朝はその程度の感覚である。
スヌーズなので、6時半に一回イントロが鳴ると、止める。
そして、10分間隔でなって、7時に1コーラスかけて停止する。
すると、隣で寝ている家内も否応なしに起きざるを得ないのである。
そして、この曲を聴くと元気に目覚めることができるのである。
以前このブログで「いつかのメリークリスマス 2012/12/17」で少し触れたが、B'zは以前勤めていた上郡高校の生徒と関わりが深い。
その生徒は、エレキギターの速弾きが得意で、二人で学園祭に出るというので、彼が選んできた。
教師生活の中で、職員バンドは忘年会や、文化祭、同窓会等々いろんなところでステージに立った。
しかし、生徒と組んだのはK君とだけである。
結局、バンドはベースも入って3人になったが、殆どB'zの曲で、1曲だけAerosmithのI don't want to miss a thingを私の希望で入れた。
このステージは本格的な、音響装置を業者を頼んでセッティングしていたので、私にとってこれまで最高の音響環境だった。
初期のB'zのように音源とかぶせてカバーした。
残念ながら、彼には仲間や友達が居なかったので、写真やビデオは残っていない。
でも、そのステージは今でも鮮明に記憶に残っている。
生徒が盛り上がりすぎて、生徒指導部長が押さえに入ったくらいだったからだ。
B'zを聴いたりすると、K君のことをよく思い出す。
彼は特別進学コースにいながら、大学進学を希望せず、音響関係の専門学校に行ったはずである。
因みに私は彼の担任では無く、授業を担当しているだけだった。
一日6時間もギター練習をする程のギター好きで、親も諦めていたようである。
周りと音楽に関して妥協が無かったのでバンドが組めず、私と組んだわけである。
彼とは練習だけで無く、音楽に関してもよく話をした。
修学旅行でグァム島へ行って、彼は浜辺で泳ぎもせず、私に音楽のことを切々と訴えかけてきた。
私も、その道で生きていきたいと思っていた頃があるので、彼の気持ちはよく分かっていた。
しかし、これで生活することも大変だと言うことも分かっていた。
彼には大学に行くよう何度も勧めたが駄目だった。
彼が今どんな仕事についているのか気がかりだが、自分で選んだ道に後悔はしていないだろうと思う。
私は大学の途中で別のことに惹かれて、その道から離れてしまった。
私にとってのCalling(天職)は歌手では無かった。
気の多い自分が30年も続けられたのだから、教職がCallingだったのかもしれない。
今はそこから離れたので、新しいCallingが呼んでるかも・・・
播磨の西外れにある私の生まれ育った赤穂や、今暮らしている上郡に関すること、農作業,山野河海の恵み、趣味の水泳、音楽、専門である有機農業や、教育、文化人類学、民俗学に関することなどを、きままに記してみます。
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2017年11月30日木曜日
2017年11月28日火曜日
ガジュマルのガジュ子
私は勝手に植物にも名前をつける。
しかも、安易な名前だ。
以前世話していたハイビスカスはビス子
長年世話しているガジュマルはガジュ子である。
ハイビスカスは花を咲かせるので女性っぽくて良いのだが、ガジュマルは花をつけない。
ガジュ男でも良かったが、それでは寅さんに出ていた佐藤蛾次郎を連想してしまう。
彼を嫌いなわけではないが、あのイメージはちょっと・・・
そしたら、もっとかわいい名前をつけてやれよと思うかもしれない。
しかし、それも抵抗があった。
なぜならガジュマルは奄美ではケンムン(カッパのような妖怪)が宿る木と言われ、伐ると目が痛くなったりするという。
(上の写真は与路島の珊瑚の石垣とガジュマル)
シマの人もよく分かっていて、防風林の木であるので、伐ることを禁じていたこと。
木を伐ると白い液が出るので、それに目がやられて痛いと言っていた。
だから、可愛すぎるのもイメージに合わない。
買ってきたのは、もう20年ほど前だと思う。
子供が小さい折、家族で加西のフラワーセンターへ行き、人参ガジュマルとして買った。
人参ほどの大きさだったのが、今では上の写真のように1mを超している。
もっと手入れして、盆栽のように小さく育てれば良かったのだが、手を抜いて大きくなってしまった。
そうすると、冬場は寒さに弱いので、玄関に取り込んで置く。
それでも玄関は寒いので、春頃には葉っぱや小枝は枯れてしまっていた。
去年はさすがに根元付近まで枯れていたので、もう駄目だと思い庭にひっくり返しておいた。
すると、夏近くになると新しい枝葉が復活しているではないか。
やはり、ケンムンが居着くだけしぶとい木である。
部屋の中に入れるのは、ケンムンの関係で抵抗は少しあった。
因みに、奄美の人は真剣にケンムンの存在を信じている人も居る。
それでも生け垣以外に、庭で盆栽のように石を抱かせて育てている人もいた。
本土の人にとっては、今更カッパなんてと思うかもしれないが、まだ生きているのである。
私はケンムン話を嫌と言うほど聞かされたので、まるっきり信じていないわけでは無い。
ただ、防風林として大切してきた意味を汲んで、今回は部屋のスペースが空いたので置いた。
二階まで持って上がるのは大変な労力だったが、一度持って上がったら、夏場はベランダに出せば済む。
これから奄美与路島の原稿を書く時には、このガジュ子が助けてくれるだろう。
ただケンムンが出てきて相撲はとりたくないが・・・
しかも、安易な名前だ。
以前世話していたハイビスカスはビス子
長年世話しているガジュマルはガジュ子である。
ハイビスカスは花を咲かせるので女性っぽくて良いのだが、ガジュマルは花をつけない。
ガジュ男でも良かったが、それでは寅さんに出ていた佐藤蛾次郎を連想してしまう。
彼を嫌いなわけではないが、あのイメージはちょっと・・・
そしたら、もっとかわいい名前をつけてやれよと思うかもしれない。
しかし、それも抵抗があった。
なぜならガジュマルは奄美ではケンムン(カッパのような妖怪)が宿る木と言われ、伐ると目が痛くなったりするという。
(上の写真は与路島の珊瑚の石垣とガジュマル)
シマの人もよく分かっていて、防風林の木であるので、伐ることを禁じていたこと。
木を伐ると白い液が出るので、それに目がやられて痛いと言っていた。
だから、可愛すぎるのもイメージに合わない。
買ってきたのは、もう20年ほど前だと思う。
子供が小さい折、家族で加西のフラワーセンターへ行き、人参ガジュマルとして買った。
人参ほどの大きさだったのが、今では上の写真のように1mを超している。
もっと手入れして、盆栽のように小さく育てれば良かったのだが、手を抜いて大きくなってしまった。
そうすると、冬場は寒さに弱いので、玄関に取り込んで置く。
それでも玄関は寒いので、春頃には葉っぱや小枝は枯れてしまっていた。
去年はさすがに根元付近まで枯れていたので、もう駄目だと思い庭にひっくり返しておいた。
すると、夏近くになると新しい枝葉が復活しているではないか。
やはり、ケンムンが居着くだけしぶとい木である。
部屋の中に入れるのは、ケンムンの関係で抵抗は少しあった。
因みに、奄美の人は真剣にケンムンの存在を信じている人も居る。
それでも生け垣以外に、庭で盆栽のように石を抱かせて育てている人もいた。
本土の人にとっては、今更カッパなんてと思うかもしれないが、まだ生きているのである。
私はケンムン話を嫌と言うほど聞かされたので、まるっきり信じていないわけでは無い。
ただ、防風林として大切してきた意味を汲んで、今回は部屋のスペースが空いたので置いた。
二階まで持って上がるのは大変な労力だったが、一度持って上がったら、夏場はベランダに出せば済む。
これから奄美与路島の原稿を書く時には、このガジュ子が助けてくれるだろう。
ただケンムンが出てきて相撲はとりたくないが・・・
2017年11月26日日曜日
無くてはならないコウノトリ
10月に台風が来る前に一度コウノトリは来ていた。
しかし、稲刈りもすっかり済んで、霜が降りてあたりが真っ白になっても、今年は来ていなかった。
毎日散歩するたびに、いつもの鉄塔を眺めたり、餌場のため池を覗いたりした。
餌場には多くの鴨がいて、コウノトリが来る前に餌が無くなってしまうのではないかと心配していた。
それがやっと二日前(11/24)にやってきた。
それはいつもコウノトリを追っかけているO氏が教えてくれた。
コウノトリのさっちゃんの弟が来ているという。
O氏には豊岡の飼育場から連絡が入ったり、知り合いにすぐに連絡してもらえる。
実はO氏は、深刻な病気を抱えていて、普段はあまり出歩くことが無い。
コウノトリがやって来ると、途端に元気が出て、車で追っかける。
彼をパパラッチに変えるのがコウノトリなのである。
しかも、素晴らしい写真を撮ってくれる。
今日(11/26)の朝、いつもの鉄塔にとまっているコウノトリを、私も見ることができた。
O氏はいなかったけれど、早速、どこで情報を得たのか見知らぬ人がカメラを持って撮っていた。
私は鉄塔の傍をゆっくり眺めながら、クロと通り過ぎていった。
心なしか、こちらを見ているような気もした。
とにかく、久しぶりに会えて嬉しい。
ずっと、心待ちにしていたからだ。
鷹や、ノスリなどはとっくに来ていて、それも嬉しかったが、コウノトリの存在感には勝てない。
彼がいるだけで、風景が一変したように感じる。
これで、さっちゃんもやって来ればもっと嬉しい。
もう何年も前からやって来たコウノトリだが、最初は物珍しいだけだった。
近所の人や、遠く離れた人もわざわざ見に来て、写真を撮ったりもした。
今は近所の人もそう騒がず、今年も来たねと思う程度である。
散歩好きの私には、この季節には無くてはならない存在になっている。
私には赤ちゃんを運んできてくれることはないが、何か幸せを運んできてくれるような気がする。
病を抱えたO氏が元気づけられるように、コウノトリはこの地域の人に元気を与えられる。
この土地が選ばれているというだけで、この土地の素晴らしさの証明になるからだ。
いずれまた、見直されて若い人も戻ってきてくれるだろう。
しかし、稲刈りもすっかり済んで、霜が降りてあたりが真っ白になっても、今年は来ていなかった。
毎日散歩するたびに、いつもの鉄塔を眺めたり、餌場のため池を覗いたりした。
餌場には多くの鴨がいて、コウノトリが来る前に餌が無くなってしまうのではないかと心配していた。
それがやっと二日前(11/24)にやってきた。
それはいつもコウノトリを追っかけているO氏が教えてくれた。
コウノトリのさっちゃんの弟が来ているという。
O氏には豊岡の飼育場から連絡が入ったり、知り合いにすぐに連絡してもらえる。
実はO氏は、深刻な病気を抱えていて、普段はあまり出歩くことが無い。
コウノトリがやって来ると、途端に元気が出て、車で追っかける。
彼をパパラッチに変えるのがコウノトリなのである。
しかも、素晴らしい写真を撮ってくれる。
今日(11/26)の朝、いつもの鉄塔にとまっているコウノトリを、私も見ることができた。
O氏はいなかったけれど、早速、どこで情報を得たのか見知らぬ人がカメラを持って撮っていた。
私は鉄塔の傍をゆっくり眺めながら、クロと通り過ぎていった。
心なしか、こちらを見ているような気もした。
とにかく、久しぶりに会えて嬉しい。
ずっと、心待ちにしていたからだ。
鷹や、ノスリなどはとっくに来ていて、それも嬉しかったが、コウノトリの存在感には勝てない。
彼がいるだけで、風景が一変したように感じる。
これで、さっちゃんもやって来ればもっと嬉しい。
もう何年も前からやって来たコウノトリだが、最初は物珍しいだけだった。
近所の人や、遠く離れた人もわざわざ見に来て、写真を撮ったりもした。
今は近所の人もそう騒がず、今年も来たねと思う程度である。
散歩好きの私には、この季節には無くてはならない存在になっている。
私には赤ちゃんを運んできてくれることはないが、何か幸せを運んできてくれるような気がする。
病を抱えたO氏が元気づけられるように、コウノトリはこの地域の人に元気を与えられる。
この土地が選ばれているというだけで、この土地の素晴らしさの証明になるからだ。
いずれまた、見直されて若い人も戻ってきてくれるだろう。
2017年11月25日土曜日
越境の学校
一般に姫路城と言えば、天守閣付近のいわゆる内曲輪を指していると思う。
しかし、その外側に中曲輪があり、ここは元々は武家屋敷地で石垣に囲まれ、大きな門も備わっていた。
その外側が外曲輪で、いわゆる城下町として繁華街ともなっている。
私の通った淳心学院は中曲輪にあり、校舎のすぐ傍に高い石垣の土手と、その外側に深い堀もあった。
通っていた頃は世界遺産では無かったが、国宝だったので勝手に石垣の土手に穴を開けて遊んでいると、教師から注意された。
淳心学院は中高一貫なので6年間通うことになる。
学年が上がるに従って、上階に教室が上がっていく。
美しい姫路城も間近に見えるようになる。
当時の教室は建て替えられて、もう無いのであるが、本国ベルギーがダイヤモンドで稼いで景気が良かった時代のものであった。
だから、廊下には大理石が用いられており、その中に化石が見られることもあった。
ただ、作りは悪かったようで、雨漏りがしだしたので建て替えたようだ。
新しい校舎になってからは一度も行ったことが無く、あまり行きたいとも思わない。
やはり、昔の校舎あっての母校である。
私が勤めていた赤穂高校も赤穂城の中にあった時代の人は、同じ気持ちだろう。
最近閑谷学校のことをテレビなので特集されて興味を持つようになった。
歴史を耐え抜いた学校で、たかだか50年で建て替えたのとは訳が違う。
また、当然教員採用試験の教職教養では必須項目であったし、教育史を学ぶ上で欠かせない学校である。
上郡町民としては、大鳥圭介が学んだ学校として知っておかねばならない。
私はうかつにも、三木露風が学んでいたことは知らなかった。
龍野の学校に長く勤め、龍野実業の校歌の作詞者でもある。
先日閑谷学校へ行った時に、ゆかりある人物として三木露風はあったが、大鳥圭介はなく残念に思った。
閑谷学校は備前の人だけではなくて、播磨からも学びに来ていたと言うことである。
それでふと思ったのは、母校の淳心学院も少し似ていることだ。
私の同級生には、日生などのような岡山県から通ってきている生徒が何人かいた。
閑谷学校のように時代を動かす人材まで輩出していないが、近隣から多くの生徒が学びに来たところは似ている。
そして、淳心の卒業生の中には、テレビや国会で活躍している人もいる。
公立校が藩校なら、淳心のような私立校は閑谷学校のような役目を果たしてきたのかもしれない。
公立中学校が丸刈りを強制して詰め襟の制服だった時に、長髪で背広だった。
その自由な校風に憧れて、当時は淳心を希望した生徒も多かったと思う。
長年公立学校の教師を勤めており、公立校の良さも分かるし、以前勤めていた県大付属高校もそういう雰囲気を持っていた。
淳心には偏差値で輪切りにされてしまっている現在の公立高校には無いものがあった。
ただ、今は中学受験のために低学年から受験勉強をさせられ、偏差値の輪切りになっているようだ。
私は因みに小学校6年の5月から担任の先生のすすめで中学受験を始めた。
それまでは剣道やボーイスカウト活動等で、宿題もまともにやっていなかった。
担任の先生が、私が勉強もせずしょっちゅうケンカしたりしていたので、このまま地元の中学に行くとまずいと思ったのだと思う。
それでも当時は十分合格できたのである。
そして、当時の大学進学実績は今よりも断然良い。
ただ、私は自由な校風を謳歌しすぎて、大学受験には失敗した。
両親は赤穂市から奨学金まで借りてくれて、返済してくれたのに、今から思うと親不孝だったと思う。
それでも、淳心での自立心を鍛えられた経験がその後の人生に活かすことができたと思う。
これからの学校として、受験テクニックや偏差値と関係なく、未来を見据えた学校が必要に思える。
学校は今まで立身出世のためにあった。
これからの学校は地域に根ざした社会教育とともにあるべきだと思う。
国家や自治体、企業のためだけで無く、公共を担える人材作り。
家族や親戚、地域の人と生活を共に築いていける社会を担う人材。
閑谷学校が奥深い山里に築かれていたのも、なんとなくそれと関係していたように思える。
しかし、その外側に中曲輪があり、ここは元々は武家屋敷地で石垣に囲まれ、大きな門も備わっていた。
その外側が外曲輪で、いわゆる城下町として繁華街ともなっている。
私の通った淳心学院は中曲輪にあり、校舎のすぐ傍に高い石垣の土手と、その外側に深い堀もあった。
通っていた頃は世界遺産では無かったが、国宝だったので勝手に石垣の土手に穴を開けて遊んでいると、教師から注意された。
淳心学院は中高一貫なので6年間通うことになる。
学年が上がるに従って、上階に教室が上がっていく。
美しい姫路城も間近に見えるようになる。
当時の教室は建て替えられて、もう無いのであるが、本国ベルギーがダイヤモンドで稼いで景気が良かった時代のものであった。
だから、廊下には大理石が用いられており、その中に化石が見られることもあった。
ただ、作りは悪かったようで、雨漏りがしだしたので建て替えたようだ。
新しい校舎になってからは一度も行ったことが無く、あまり行きたいとも思わない。
やはり、昔の校舎あっての母校である。
私が勤めていた赤穂高校も赤穂城の中にあった時代の人は、同じ気持ちだろう。
最近閑谷学校のことをテレビなので特集されて興味を持つようになった。
歴史を耐え抜いた学校で、たかだか50年で建て替えたのとは訳が違う。
また、当然教員採用試験の教職教養では必須項目であったし、教育史を学ぶ上で欠かせない学校である。
上郡町民としては、大鳥圭介が学んだ学校として知っておかねばならない。
私はうかつにも、三木露風が学んでいたことは知らなかった。
龍野の学校に長く勤め、龍野実業の校歌の作詞者でもある。
先日閑谷学校へ行った時に、ゆかりある人物として三木露風はあったが、大鳥圭介はなく残念に思った。
閑谷学校は備前の人だけではなくて、播磨からも学びに来ていたと言うことである。
それでふと思ったのは、母校の淳心学院も少し似ていることだ。
私の同級生には、日生などのような岡山県から通ってきている生徒が何人かいた。
閑谷学校のように時代を動かす人材まで輩出していないが、近隣から多くの生徒が学びに来たところは似ている。
そして、淳心の卒業生の中には、テレビや国会で活躍している人もいる。
公立校が藩校なら、淳心のような私立校は閑谷学校のような役目を果たしてきたのかもしれない。
公立中学校が丸刈りを強制して詰め襟の制服だった時に、長髪で背広だった。
その自由な校風に憧れて、当時は淳心を希望した生徒も多かったと思う。
長年公立学校の教師を勤めており、公立校の良さも分かるし、以前勤めていた県大付属高校もそういう雰囲気を持っていた。
淳心には偏差値で輪切りにされてしまっている現在の公立高校には無いものがあった。
ただ、今は中学受験のために低学年から受験勉強をさせられ、偏差値の輪切りになっているようだ。
私は因みに小学校6年の5月から担任の先生のすすめで中学受験を始めた。
それまでは剣道やボーイスカウト活動等で、宿題もまともにやっていなかった。
担任の先生が、私が勉強もせずしょっちゅうケンカしたりしていたので、このまま地元の中学に行くとまずいと思ったのだと思う。
それでも当時は十分合格できたのである。
そして、当時の大学進学実績は今よりも断然良い。
ただ、私は自由な校風を謳歌しすぎて、大学受験には失敗した。
両親は赤穂市から奨学金まで借りてくれて、返済してくれたのに、今から思うと親不孝だったと思う。
それでも、淳心での自立心を鍛えられた経験がその後の人生に活かすことができたと思う。
これからの学校として、受験テクニックや偏差値と関係なく、未来を見据えた学校が必要に思える。
学校は今まで立身出世のためにあった。
これからの学校は地域に根ざした社会教育とともにあるべきだと思う。
国家や自治体、企業のためだけで無く、公共を担える人材作り。
家族や親戚、地域の人と生活を共に築いていける社会を担う人材。
閑谷学校が奥深い山里に築かれていたのも、なんとなくそれと関係していたように思える。
2017年11月23日木曜日
再就職が決まって
再就職が決まって、髪を染めた時
もう若くないさと 君に言い訳したね
と、どこかで聴いた歌をもじって口ずさみました。
そもそも原曲(『いちご白書をもう一度』も、就職が決まってから髪を切るのはおかしい。
モデルになった人は、本当は就職活動の時に髪を切っていたというのをどこかの記事で読んだことがある。
私は今までまともな就職活動をしたことが無かった。
教員採用試験も面接があったが、既に臨時講師をしていたので、その延長という感じだった。
しかも、採用試験は幸いにして一度だけで済んだ。
今回ほど、就職活動の難しさを感じたことは無い。
(知っていれば、教師の時に生徒へ説得力ある話ができただろう)
最初にハローワークから紹介された遺物整理の臨時職員も、落とすため長い面接を経験させられた。
前の人は10分もかからなかったのに、私は1時間近く尋問に近い質問にさらされた。
二人しか応募していなくて、当然その若い女性が採用されたようだ。
出来レースとはすぐ分かったが、落とすのに時間を無為に使わされたのがしゃくだった。
次の仕事はネットで調べた。
NPOであるし、面接した社長さんも元大きな組織の重要ポストに居た人だから信用した。
しかし、その仕事はblack以前の詐欺に近いものだった。
ハローワークを通して同時に採用された人は、簡易裁判に訴えると言っていた。
給料が未払いだったからである。
私は半分研修だったと思って、給料は半分諦めている。
途中でやめた人に給料を払っていないと、前から勤めていた人に聞いていたからである。
その次からの、仕事選びには慎重になった。
ネットも用いるが、ハローワークにも行って相談した。
就職活動の経験が無いので、求人票に書かれている裏の意味もよく理解できていなかった。
例えば事務職員でも、受付や客の応対がありといえば、若い女性を望んでいる。
給料がかなり安いので分かりそうなものなのだが、気がつかず応募してすぐ辞退した。
また、施設だからと言って指導員を募集しているとは限らない。
経理の経験が無いと言うことで、門前払いになったこともある。
そういういくつかの苦い経験をしている内に、約束の半年はとっくに過ぎてしまった。
結局自分には教員の経験を活かすところしか無いという結論に至った。
そこでダメ元で、学童(放課後指導員)に応募した。
近くの町の施設だし、時間も一日6時間働いて、月収15万円は良いと思った。
しかし、学童の仕事は女性が多いし、若い人にも人気があると思った。
それと併行して、ネットでも見つけ、わざわざハローワークからも通知を頂いた社会教育施設にも応募しようと思った。
そこでは指導員と言っても、雑務が多いというのは想像ができた。
それでも教員免許が必要だったので、競争相手が少ないと思った。
結局、私はその社会教育施設にとりあえずの再就職が決まった。
研究には適した学童の方も合格したのだが、精神的な負担を考えてそちらを選んだ。
これからは、学童も男性を求めていることも分かった。
冒頭の歌は、再就職の内定をもらった時に家内に歌った。
実は私は面接の前に、10年以上使ったことも無い洗髪料を買ってきて染めた。
真っ黒にすると不自然なので、グレーにするものを買った。
白髪ではおじいさんに見えると言われたからでもある。
教師をしていた時には生徒の目も気にしなかった白髪。
面接では少しでも若く見せようと思った。
再就職が決まっても、たぶん染め続けねばならないだろう。
私の父親は若い者に馬鹿にされないようにと、現役時代は髪を黒く染め続けていた。
ただ、父親同様、髪が薄いことへの対処がまだ残っている・・・
もう若くないさと 君に言い訳したね
と、どこかで聴いた歌をもじって口ずさみました。
そもそも原曲(『いちご白書をもう一度』も、就職が決まってから髪を切るのはおかしい。
モデルになった人は、本当は就職活動の時に髪を切っていたというのをどこかの記事で読んだことがある。
私は今までまともな就職活動をしたことが無かった。
教員採用試験も面接があったが、既に臨時講師をしていたので、その延長という感じだった。
しかも、採用試験は幸いにして一度だけで済んだ。
今回ほど、就職活動の難しさを感じたことは無い。
(知っていれば、教師の時に生徒へ説得力ある話ができただろう)
最初にハローワークから紹介された遺物整理の臨時職員も、落とすため長い面接を経験させられた。
前の人は10分もかからなかったのに、私は1時間近く尋問に近い質問にさらされた。
二人しか応募していなくて、当然その若い女性が採用されたようだ。
出来レースとはすぐ分かったが、落とすのに時間を無為に使わされたのがしゃくだった。
次の仕事はネットで調べた。
NPOであるし、面接した社長さんも元大きな組織の重要ポストに居た人だから信用した。
しかし、その仕事はblack以前の詐欺に近いものだった。
ハローワークを通して同時に採用された人は、簡易裁判に訴えると言っていた。
給料が未払いだったからである。
私は半分研修だったと思って、給料は半分諦めている。
途中でやめた人に給料を払っていないと、前から勤めていた人に聞いていたからである。
その次からの、仕事選びには慎重になった。
ネットも用いるが、ハローワークにも行って相談した。
就職活動の経験が無いので、求人票に書かれている裏の意味もよく理解できていなかった。
例えば事務職員でも、受付や客の応対がありといえば、若い女性を望んでいる。
給料がかなり安いので分かりそうなものなのだが、気がつかず応募してすぐ辞退した。
また、施設だからと言って指導員を募集しているとは限らない。
経理の経験が無いと言うことで、門前払いになったこともある。
そういういくつかの苦い経験をしている内に、約束の半年はとっくに過ぎてしまった。
結局自分には教員の経験を活かすところしか無いという結論に至った。
そこでダメ元で、学童(放課後指導員)に応募した。
近くの町の施設だし、時間も一日6時間働いて、月収15万円は良いと思った。
しかし、学童の仕事は女性が多いし、若い人にも人気があると思った。
それと併行して、ネットでも見つけ、わざわざハローワークからも通知を頂いた社会教育施設にも応募しようと思った。
そこでは指導員と言っても、雑務が多いというのは想像ができた。
それでも教員免許が必要だったので、競争相手が少ないと思った。
結局、私はその社会教育施設にとりあえずの再就職が決まった。
研究には適した学童の方も合格したのだが、精神的な負担を考えてそちらを選んだ。
これからは、学童も男性を求めていることも分かった。
冒頭の歌は、再就職の内定をもらった時に家内に歌った。
実は私は面接の前に、10年以上使ったことも無い洗髪料を買ってきて染めた。
真っ黒にすると不自然なので、グレーにするものを買った。
白髪ではおじいさんに見えると言われたからでもある。
教師をしていた時には生徒の目も気にしなかった白髪。
面接では少しでも若く見せようと思った。
再就職が決まっても、たぶん染め続けねばならないだろう。
私の父親は若い者に馬鹿にされないようにと、現役時代は髪を黒く染め続けていた。
ただ、父親同様、髪が薄いことへの対処がまだ残っている・・・
2017年11月21日火曜日
フラリードッグ
愚犬クロがまたもや逃亡を図った。
前回はちょうど一ヶ月ほど前に、山に逃げて夕方まで帰ってこなかった。
その時は、ハーネスをちゃんと装着していなかったので抜けてしまった。
無理矢理ひっぱたので、ハーネスが抜けてしまい、逃げてしまった。
悪いことに、山際の柵がイノシシにこじ開けられていて、そこから山に入ってしまった。
夕方、家の周りをうろついていると、近所の人が知らせに来てくれたので、捕まえに行くとまた逃げてしまった。
夜になって、庭で音がするので家内に見に行ってもらうと、置いておいた餌を食べていたので捕まえた。
それから、一週間の散歩禁止の謹慎処分となった。
今回は、つないでいたバックルが簡単に外れてしまった。
ひょっとした弾みで以前もとれていたので、気にはなっていた。
最初はクロの方もとれたことが分からなかったが、私が捕まえるのをしくじって逃亡した。
家内にも応援を求めて、挟み撃ちにして捕まえようとしたが、うれしげに逃げていった。
山が近くにあり、逃げ込むと無理なので諦めて帰った。
そして、犬小屋の近くに前回と同じように餌をおいて待っていた。
私は前回の謹慎処分を覚えていたら、ひょっとしたら戻ってこないかもしれないと思った。
しかし、前回よりもずいぶん早く昼には戻ってきて餌を食べていたので捕まえた。
以前は柵に入れていて逃亡を図り、一晩帰ってこなかったこともあった。
今回は最短で戻ってきた。
自由な空腹より、不自由な満腹を選んだわけである。
おとなしい犬なので、迷惑をかけることは無いと思っているが、近所の人から通報されるのは恥ずかしい。
何よりも呼んで戻ってこないというのが憎たらしいのである。
何匹も犬を飼ってきたが、このように逃亡を図る犬は初めてだ。
それは野良犬をやっていたせいでもあるのだが、しつけにも失敗している。
主人の気持ちを逆なでして逃亡する割に戻ってくる。
逃亡するならまた野良犬になる覚悟で逃げてみろと言いたい。
しかし、罰が待っていても必ず戻ってくる。
昔、ポールニューマンの主演映画で「暴力脱獄」というのがあり、主人公ルークは殺されるまで刑務所から脱獄し続けた。
彼は最後まで囚人に甘んじなかったのである。
トラは既に、囚人ならぬ飼い犬に甘んじている。
野良犬の惨めさをよく知っているのだろう。
なぜか子供を一番怖がる。
おそらく一番いじめられたのは子供たちにだろう。
それでいて、逃亡を図りたいのだから、困ったものである。
まるで、伝書鳩のようなフラリーマン(帰宅を嫌がるサラリーマン)がたまに羽目を外して飲みにいくようなものかもしれない。
クロがフラリーマンに似ているのか、フラリーマンがクロに似ているのか?
所詮どちらも、家なしには生きていけない・・・・
前回はちょうど一ヶ月ほど前に、山に逃げて夕方まで帰ってこなかった。
その時は、ハーネスをちゃんと装着していなかったので抜けてしまった。
無理矢理ひっぱたので、ハーネスが抜けてしまい、逃げてしまった。
悪いことに、山際の柵がイノシシにこじ開けられていて、そこから山に入ってしまった。
夕方、家の周りをうろついていると、近所の人が知らせに来てくれたので、捕まえに行くとまた逃げてしまった。
夜になって、庭で音がするので家内に見に行ってもらうと、置いておいた餌を食べていたので捕まえた。
それから、一週間の散歩禁止の謹慎処分となった。
今回は、つないでいたバックルが簡単に外れてしまった。
ひょっとした弾みで以前もとれていたので、気にはなっていた。
最初はクロの方もとれたことが分からなかったが、私が捕まえるのをしくじって逃亡した。
家内にも応援を求めて、挟み撃ちにして捕まえようとしたが、うれしげに逃げていった。
山が近くにあり、逃げ込むと無理なので諦めて帰った。
そして、犬小屋の近くに前回と同じように餌をおいて待っていた。
私は前回の謹慎処分を覚えていたら、ひょっとしたら戻ってこないかもしれないと思った。
しかし、前回よりもずいぶん早く昼には戻ってきて餌を食べていたので捕まえた。
以前は柵に入れていて逃亡を図り、一晩帰ってこなかったこともあった。
今回は最短で戻ってきた。
自由な空腹より、不自由な満腹を選んだわけである。
おとなしい犬なので、迷惑をかけることは無いと思っているが、近所の人から通報されるのは恥ずかしい。
何よりも呼んで戻ってこないというのが憎たらしいのである。
何匹も犬を飼ってきたが、このように逃亡を図る犬は初めてだ。
それは野良犬をやっていたせいでもあるのだが、しつけにも失敗している。
主人の気持ちを逆なでして逃亡する割に戻ってくる。
逃亡するならまた野良犬になる覚悟で逃げてみろと言いたい。
しかし、罰が待っていても必ず戻ってくる。
昔、ポールニューマンの主演映画で「暴力脱獄」というのがあり、主人公ルークは殺されるまで刑務所から脱獄し続けた。
彼は最後まで囚人に甘んじなかったのである。
トラは既に、囚人ならぬ飼い犬に甘んじている。
野良犬の惨めさをよく知っているのだろう。
なぜか子供を一番怖がる。
おそらく一番いじめられたのは子供たちにだろう。
それでいて、逃亡を図りたいのだから、困ったものである。
まるで、伝書鳩のようなフラリーマン(帰宅を嫌がるサラリーマン)がたまに羽目を外して飲みにいくようなものかもしれない。
クロがフラリーマンに似ているのか、フラリーマンがクロに似ているのか?
所詮どちらも、家なしには生きていけない・・・・
2017年11月19日日曜日
千種水汲み2017年秋
当初は猪名川町まで行って,道の駅でそばを食べるつもりだった。
家内が汲んできた水がもう残り少ないと言うので、急遽一緒に千種へ水汲みに行くことになった。
大分前からこの日曜(11/19)は寒くなると天気予報で知っていたので、ネットで道に雪が無いのを確かめてから出かけた。
このところ、JAや町、商工会のイベントがあちこちで開かれている。
道沿いにはその幟が立っているが、ちょうど白旗祭りの幟も立っていた。
昨日は「ひょうご歴史フォーラム」が上郡で開かれた。
「発祥の地、赤松から考えるー赤松氏研究の新展開ー」というテーマだった。
2年ほど前から、白旗城の麓の赤松氏の館跡が発掘調査されている。
その中間報告を兼ねていた。
全国的にも、室町期の館跡の発掘調査は少なくて、成果が上がれば全国初と言うことらしい。
基礎的知識が無いので、この時代の館なるものがどういう役割を持っていたのか分かっていなかった。
この時代は、山城と普段居住する館とは分かれていたことは知っていた。
ただ、聞いてみると、館は来客を接待したり、宴会を催す場のようだった。
どうも一遍上人絵伝の「武士の館」のイメージとも違うようである。
ともかく、まだ研究途上のようで、これから色々と分かってくるということで、楽しみである。

ちょうど、その赤松の村を通り過ぎる時に、毎年11月23日に行われる白旗城祭りの準備がなされていた。
昨日フォーラムに行って初めて知ったのだが、白旗は源氏の旗に由来し、元々は赤松城と言っていたそうだ。
現代からすれば白旗は降参する時の悪いイメージがあるが、この城は落ちない城として宣伝している。
私も一度だけ登ったが険しい坂道だった。
地元の人は毎年この道を整備しているそうである。
千種までの道沿いに見える景色は、秋そのものであり素晴らしい紅葉が続いた。
千種に近づくと、林業の関係で針葉樹が多くなるのだが、そこまでは紅葉の絨毯を敷いたような山が続く。
南光町のキャンプ場も多くの宿泊者がいて、テントを張っている人もいた。
千種に近づくと、路面が濡れている。
どうも雪雲が流れてきて降らしたらしい。
そして、やがて紅葉の谷間から白い雪をかぶった山が見えてきた。
針葉樹の緑、広葉樹の赤、雪山の白が見事なコントラストとして、眼前に広がった。
当然水汲所には、汲みに来た人はなく。
時折晴れたり、時折みぞれや、あられの降る中で、ホースをつないで軽トラに載せた容器に注いだ。
ふたを開け閉めする指先が凍えて感覚を失っていたが、今年初めてのジャンパーが寒さを防いでくれた。
自販機にコインを入れるだけの家内の方が、足下が寒くて足踏みをせねばならなかった。
いつものように、水汲所のそばのお祈り所に手を合わせてから、今回は途中どこにも寄らずに家に戻った。
今回はそばもうどんも食べられなか
ったが、紅葉狩りで心がいっぱいに満たされた。
家内が汲んできた水がもう残り少ないと言うので、急遽一緒に千種へ水汲みに行くことになった。
大分前からこの日曜(11/19)は寒くなると天気予報で知っていたので、ネットで道に雪が無いのを確かめてから出かけた。
このところ、JAや町、商工会のイベントがあちこちで開かれている。
道沿いにはその幟が立っているが、ちょうど白旗祭りの幟も立っていた。
昨日は「ひょうご歴史フォーラム」が上郡で開かれた。
「発祥の地、赤松から考えるー赤松氏研究の新展開ー」というテーマだった。
2年ほど前から、白旗城の麓の赤松氏の館跡が発掘調査されている。
その中間報告を兼ねていた。
全国的にも、室町期の館跡の発掘調査は少なくて、成果が上がれば全国初と言うことらしい。
基礎的知識が無いので、この時代の館なるものがどういう役割を持っていたのか分かっていなかった。
この時代は、山城と普段居住する館とは分かれていたことは知っていた。
ただ、聞いてみると、館は来客を接待したり、宴会を催す場のようだった。
どうも一遍上人絵伝の「武士の館」のイメージとも違うようである。
ともかく、まだ研究途上のようで、これから色々と分かってくるということで、楽しみである。
ちょうど、その赤松の村を通り過ぎる時に、毎年11月23日に行われる白旗城祭りの準備がなされていた。
昨日フォーラムに行って初めて知ったのだが、白旗は源氏の旗に由来し、元々は赤松城と言っていたそうだ。
現代からすれば白旗は降参する時の悪いイメージがあるが、この城は落ちない城として宣伝している。
私も一度だけ登ったが険しい坂道だった。
地元の人は毎年この道を整備しているそうである。
千種までの道沿いに見える景色は、秋そのものであり素晴らしい紅葉が続いた。
千種に近づくと、林業の関係で針葉樹が多くなるのだが、そこまでは紅葉の絨毯を敷いたような山が続く。
南光町のキャンプ場も多くの宿泊者がいて、テントを張っている人もいた。
千種に近づくと、路面が濡れている。
どうも雪雲が流れてきて降らしたらしい。
そして、やがて紅葉の谷間から白い雪をかぶった山が見えてきた。
針葉樹の緑、広葉樹の赤、雪山の白が見事なコントラストとして、眼前に広がった。
当然水汲所には、汲みに来た人はなく。
時折晴れたり、時折みぞれや、あられの降る中で、ホースをつないで軽トラに載せた容器に注いだ。
ふたを開け閉めする指先が凍えて感覚を失っていたが、今年初めてのジャンパーが寒さを防いでくれた。
自販機にコインを入れるだけの家内の方が、足下が寒くて足踏みをせねばならなかった。
いつものように、水汲所のそばのお祈り所に手を合わせてから、今回は途中どこにも寄らずに家に戻った。
今回はそばもうどんも食べられなか
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