この12月13日、私にとって大切な義父が亡くなった。
享年88歳だから、天寿を全うしたと言っても良いかもしれない。
ただ、最近まで非常に元気だったので、私も周りの者も心の準備ができていなかった。
葬儀にはもう十何年も会っていない親戚が集まった。
私にとってはその最後に会ったのは、やはり葬儀での時だった。
義父は広島県のある島で生まれ育った。
今でも船でないと渡れない島である。
義母も島育ちだが、その島は橋が架かり車で直接行ける。
行こうと思えば行けなくはなかったのだが、きっかけが無かった。
通夜の夜、私は葬儀会館に子供や義理の弟夫婦と夜伽をした。
義弟夫婦とは、正月や盆に毎年のように会うのだが、こうしてじっくり飲み明かすことは無かった。
義弟は私の中学校高校の後輩でもあり、共通の話題も事欠かなかったが、内容の濃い話は余りしなかった。
義理の弟夫婦とは20年以上の付き合いがありながら、今までの浅い関わり方を考えざるを得なかった。
葬式の後の食事でも、義母方の親戚と色々と話ができた。
栽培しているミカンのことや、島の様子や昔の葬式の話などをした。
義父の家はは浄土宗で、室津の浄運寺さんにお願いした。
火葬が終わり、浄運寺まで出向いて初七日まで済ませた。
その日は小春日和の穏やかな日で、浄運寺からは室津の湾の景色が心を和ませてくれた。
そこでは、義父方の親戚で網干に住んでいる人から、この付近の湾に沈む沈没船と遺物について聞いた。
私にとって非常に関心のあることを、親戚の人もやっていたことを初めて知った。
これから、法事に際しては近しい親戚とはまた会えるだろう。
しかし、遠い親戚はまたこういう葬式で無いと会えないのかもしれない。
本当なら、お祝いの機会に会えれば良いと思うが、悔やみの機会にしか会えないのが残念だ。
ただ、大切な義父を失ったことは、非常に残念ではあるが、義弟を中心とした親戚との絆を確かめられたのは慰めとなった。
葬儀社の宣伝で「生きるための儀式」として宣伝文句がいままでは空々しく思えていた。
こういう機会を得て、確かに、残された者にとってあの世に旅立つ人が、与えてくれた大切な機会なのだと思える。
人と人との関わりが希薄になっていく時代にあって、残された数少ない深い関わりの場となっているのかもしれない。
そして、夫婦や親子が一緒になってその大切な絆を大切にしなければならないとも思った。
播磨の西外れにある私の生まれ育った赤穂や、今暮らしている上郡に関すること、農作業,山野河海の恵み、趣味の水泳、音楽、専門である有機農業や、教育、文化人類学、民俗学に関することなどを、きままに記してみます。
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2017年12月19日火曜日
2017年12月7日木曜日
AKB58の悩み
私は先日(12/1)より、備前市の社会教育施設で働き始めたので、AKB58ととなった。
A:赤穂で生まれ、K:上郡で暮らし、B:備前市で働く58歳である。
初日の職場カルチャーショックにさいなまれた。
上郡の自宅から赤穂高校へ行くほどの距離なのに、異次元の世界なのである。
岡山(備前)弁が飛び交う世界。
「~じゃろう」「~せられー」「ぼっけー」がふんだんに用いられ、30年ぶりのカルチャーショックを受けた。
私は大学が名古屋だったので、そこで名古屋弁の洗礼を受けた。
そして大学院は東京で、こちらは東京弁の日常化の洗礼を受けた。
職場は尼崎も経験したが、殆どが播州内に収まっていたので、言葉の違和感はさほどでは無かった。
かつて入院していた赤穂中央病院では看護師や患者がそこそこ岡山弁だった。
ただそれは、二週間ほどで終わった。
今回の違和感は仕事について以来と言うことになる。
家に居ても、よく耳をすませれば近所に備前から来た人が話をしている。
しかし、少数派なので意に留めなかった。
ところが、今度の職場は播州弁をしゃべる私が少数派どころか、唯一の存在なのである。
名古屋でも東京でも播州弁を失うことはなかった。
ただ、奄美に行った時は習いたての「シマ口(奄美語)」を使うことを心がけた。
今回は岡山弁を習って使うかどうか迷っている。
わざと使うと、不自然に感じられるかもしれない。
以前から主張している「多方言主義」で行くしかないかなとも思っている。
幸い、今度の職場には両親とも赤穂の人が居るので、ニュアンスも理解してもらえるだろう。
気をつけねばならないは、遠くから来た人を案内をする時に播州弁で話すと、違和感を感じさせるかもしれない。
その時は、東京で身につけた標準語を用いようと思っている。
残念なのは、せっかく身につけた名古屋弁や奄美語を活かす機会が無いことだ。
教師をしていた時は、時々紹介していた。
名古屋や奄美からの来所者を待つしかないか・・・
A:赤穂で生まれ、K:上郡で暮らし、B:備前市で働く58歳である。
初日の職場カルチャーショックにさいなまれた。
上郡の自宅から赤穂高校へ行くほどの距離なのに、異次元の世界なのである。
岡山(備前)弁が飛び交う世界。
「~じゃろう」「~せられー」「ぼっけー」がふんだんに用いられ、30年ぶりのカルチャーショックを受けた。
私は大学が名古屋だったので、そこで名古屋弁の洗礼を受けた。
そして大学院は東京で、こちらは東京弁の日常化の洗礼を受けた。
職場は尼崎も経験したが、殆どが播州内に収まっていたので、言葉の違和感はさほどでは無かった。
かつて入院していた赤穂中央病院では看護師や患者がそこそこ岡山弁だった。
ただそれは、二週間ほどで終わった。
今回の違和感は仕事について以来と言うことになる。
家に居ても、よく耳をすませれば近所に備前から来た人が話をしている。
しかし、少数派なので意に留めなかった。
ところが、今度の職場は播州弁をしゃべる私が少数派どころか、唯一の存在なのである。
名古屋でも東京でも播州弁を失うことはなかった。
ただ、奄美に行った時は習いたての「シマ口(奄美語)」を使うことを心がけた。
今回は岡山弁を習って使うかどうか迷っている。
わざと使うと、不自然に感じられるかもしれない。
以前から主張している「多方言主義」で行くしかないかなとも思っている。
幸い、今度の職場には両親とも赤穂の人が居るので、ニュアンスも理解してもらえるだろう。
気をつけねばならないは、遠くから来た人を案内をする時に播州弁で話すと、違和感を感じさせるかもしれない。
その時は、東京で身につけた標準語を用いようと思っている。
残念なのは、せっかく身につけた名古屋弁や奄美語を活かす機会が無いことだ。
教師をしていた時は、時々紹介していた。
名古屋や奄美からの来所者を待つしかないか・・・
2017年12月2日土曜日
望まれる呑み鉄専用車両
「六角精児の呑み鉄本線・日本旅」(NHK)は大好きな番組で、いつも見ている。
実は私も以前は「呑み鉄」だった。
学生時代は青春切符を使って色々と列車で回ったり、帰省に用いたりした。
思い出残るのはいくつかあるが、一人で四国一周した時が一番飲んでいた。
なぜなら、四国の日本酒は格別に美味かったからだ。
「梅錦」「司牡丹」「土佐鶴」等々色々あった。
そして、四国は当時電化もされず、単線だったので鈍行は特急や急行を先に通すため、駅でずいぶん待たされた。
だから、ビールや酒で間を持たすしか無かった。
食べるのは宇高連絡線フェリーの中のうどんから始まっていた。
海端の駅でベンチに座り海を眺めてビールを飲んだ。
ユースホテルで知り合った若者に途中で車に乗せてもらったが、後部座席で呑んでいたので、雰囲気が悪くなり降りた。
やはり、呑むのは列車の中とか、バスの中しか無理だろう。
酒好きの私の父親は、ドライブには必ずワンカップを持参した。
家族は嫌がったが、それが父親の楽しみだったので黙認していた。
呑み鉄にしろ、呑み車にしろ、最大の問題はトイレである。
私がビールではなく、酒を選んでいたのはトイレが近くなるからだ。
ドライブの時は父親のために、何度もパーキングに止まった。
私は列車に乗る時は、必ずトイレのある車両に乗る。
今回の「三江線を呑む! 2017/11/29 放送」は一両編成のトイレなしに六角さんは乗っていた。
しかも、いきなりビールを飲んでいる。
トイレはどうするのだと心配したが、ちゃんとふらっと途中下車していた。
彼はトイレは近くないのかもしれないが、何となく途中下車が計画的に思えた。
この三江線は素晴らしい川沿いの景色で来年3月に廃止される前に乗ってみたいと思った。
私は川沿いの鉄道は飯田線が一番好きだった。
地元に帰って田舎では車が便利で、鉄道は滅多に使わない。
青春切符はご老人がよく使い、その時期は列車も満杯だ。
今度の仕事は休みが平日になりそうなので、呑み鉄をしようかと思っている。
ただ心配なのはこの歳になると、呑み鉄をするとただのアル中に思われかねない。
以前も、前に座っていたご老人が、いきなりワンカップを飲み始めてそう思った。
どうせ飲むのならかっこよく、ウィスキーやジンの方が良いかもしれない。
いつも飲んでいる芋焼酎は匂いで気づかれるので、まだ黒糖焼酎が良いかもしれない。
因みに奄美に行くフェリーは、見知らぬ者同士で黒糖焼酎の宴会船と化していた。
豪華列車も良いけれど、呑み鉄専用車両ないしコーナーをJRさんもうけてほしい・・・
実は私も以前は「呑み鉄」だった。
学生時代は青春切符を使って色々と列車で回ったり、帰省に用いたりした。
思い出残るのはいくつかあるが、一人で四国一周した時が一番飲んでいた。
なぜなら、四国の日本酒は格別に美味かったからだ。
「梅錦」「司牡丹」「土佐鶴」等々色々あった。
そして、四国は当時電化もされず、単線だったので鈍行は特急や急行を先に通すため、駅でずいぶん待たされた。
だから、ビールや酒で間を持たすしか無かった。
食べるのは宇高連絡線フェリーの中のうどんから始まっていた。
海端の駅でベンチに座り海を眺めてビールを飲んだ。
ユースホテルで知り合った若者に途中で車に乗せてもらったが、後部座席で呑んでいたので、雰囲気が悪くなり降りた。
やはり、呑むのは列車の中とか、バスの中しか無理だろう。
酒好きの私の父親は、ドライブには必ずワンカップを持参した。
家族は嫌がったが、それが父親の楽しみだったので黙認していた。
呑み鉄にしろ、呑み車にしろ、最大の問題はトイレである。
私がビールではなく、酒を選んでいたのはトイレが近くなるからだ。
ドライブの時は父親のために、何度もパーキングに止まった。
私は列車に乗る時は、必ずトイレのある車両に乗る。
今回の「三江線を呑む! 2017/11/29 放送」は一両編成のトイレなしに六角さんは乗っていた。
しかも、いきなりビールを飲んでいる。
トイレはどうするのだと心配したが、ちゃんとふらっと途中下車していた。
彼はトイレは近くないのかもしれないが、何となく途中下車が計画的に思えた。
この三江線は素晴らしい川沿いの景色で来年3月に廃止される前に乗ってみたいと思った。
私は川沿いの鉄道は飯田線が一番好きだった。
地元に帰って田舎では車が便利で、鉄道は滅多に使わない。
青春切符はご老人がよく使い、その時期は列車も満杯だ。
今度の仕事は休みが平日になりそうなので、呑み鉄をしようかと思っている。
ただ心配なのはこの歳になると、呑み鉄をするとただのアル中に思われかねない。
以前も、前に座っていたご老人が、いきなりワンカップを飲み始めてそう思った。
どうせ飲むのならかっこよく、ウィスキーやジンの方が良いかもしれない。
いつも飲んでいる芋焼酎は匂いで気づかれるので、まだ黒糖焼酎が良いかもしれない。
因みに奄美に行くフェリーは、見知らぬ者同士で黒糖焼酎の宴会船と化していた。
豪華列車も良いけれど、呑み鉄専用車両ないしコーナーをJRさんもうけてほしい・・・
2017年11月30日木曜日
目覚めろ!Calling
寒くなると、寝室は雨戸を閉めるので、朝は暗いままだ。
どうしても夜更かしをするので、朝起きるのが遅くなる。
12月からは朝から仕事にも行くので、朝早く起きる習慣をつけねばならない。
そこで、いつも寝る時に聞くiPadを目覚ましに使うことにした。
その目覚まし曲は、B'zのCalling、関西弁で言うと「呼んでまっせ」と言うところだろうか。
歌詞の内容は、もっと切実な叫びだろうが、朝はその程度の感覚である。
スヌーズなので、6時半に一回イントロが鳴ると、止める。
そして、10分間隔でなって、7時に1コーラスかけて停止する。
すると、隣で寝ている家内も否応なしに起きざるを得ないのである。
そして、この曲を聴くと元気に目覚めることができるのである。
以前このブログで「いつかのメリークリスマス 2012/12/17」で少し触れたが、B'zは以前勤めていた上郡高校の生徒と関わりが深い。
その生徒は、エレキギターの速弾きが得意で、二人で学園祭に出るというので、彼が選んできた。
教師生活の中で、職員バンドは忘年会や、文化祭、同窓会等々いろんなところでステージに立った。
しかし、生徒と組んだのはK君とだけである。
結局、バンドはベースも入って3人になったが、殆どB'zの曲で、1曲だけAerosmithのI don't want to miss a thingを私の希望で入れた。
このステージは本格的な、音響装置を業者を頼んでセッティングしていたので、私にとってこれまで最高の音響環境だった。
初期のB'zのように音源とかぶせてカバーした。
残念ながら、彼には仲間や友達が居なかったので、写真やビデオは残っていない。
でも、そのステージは今でも鮮明に記憶に残っている。
生徒が盛り上がりすぎて、生徒指導部長が押さえに入ったくらいだったからだ。
B'zを聴いたりすると、K君のことをよく思い出す。
彼は特別進学コースにいながら、大学進学を希望せず、音響関係の専門学校に行ったはずである。
因みに私は彼の担任では無く、授業を担当しているだけだった。
一日6時間もギター練習をする程のギター好きで、親も諦めていたようである。
周りと音楽に関して妥協が無かったのでバンドが組めず、私と組んだわけである。
彼とは練習だけで無く、音楽に関してもよく話をした。
修学旅行でグァム島へ行って、彼は浜辺で泳ぎもせず、私に音楽のことを切々と訴えかけてきた。
私も、その道で生きていきたいと思っていた頃があるので、彼の気持ちはよく分かっていた。
しかし、これで生活することも大変だと言うことも分かっていた。
彼には大学に行くよう何度も勧めたが駄目だった。
彼が今どんな仕事についているのか気がかりだが、自分で選んだ道に後悔はしていないだろうと思う。
私は大学の途中で別のことに惹かれて、その道から離れてしまった。
私にとってのCalling(天職)は歌手では無かった。
気の多い自分が30年も続けられたのだから、教職がCallingだったのかもしれない。
今はそこから離れたので、新しいCallingが呼んでるかも・・・
どうしても夜更かしをするので、朝起きるのが遅くなる。
12月からは朝から仕事にも行くので、朝早く起きる習慣をつけねばならない。
そこで、いつも寝る時に聞くiPadを目覚ましに使うことにした。
その目覚まし曲は、B'zのCalling、関西弁で言うと「呼んでまっせ」と言うところだろうか。
歌詞の内容は、もっと切実な叫びだろうが、朝はその程度の感覚である。
スヌーズなので、6時半に一回イントロが鳴ると、止める。
そして、10分間隔でなって、7時に1コーラスかけて停止する。
すると、隣で寝ている家内も否応なしに起きざるを得ないのである。
そして、この曲を聴くと元気に目覚めることができるのである。
以前このブログで「いつかのメリークリスマス 2012/12/17」で少し触れたが、B'zは以前勤めていた上郡高校の生徒と関わりが深い。
その生徒は、エレキギターの速弾きが得意で、二人で学園祭に出るというので、彼が選んできた。
教師生活の中で、職員バンドは忘年会や、文化祭、同窓会等々いろんなところでステージに立った。
しかし、生徒と組んだのはK君とだけである。
結局、バンドはベースも入って3人になったが、殆どB'zの曲で、1曲だけAerosmithのI don't want to miss a thingを私の希望で入れた。
このステージは本格的な、音響装置を業者を頼んでセッティングしていたので、私にとってこれまで最高の音響環境だった。
初期のB'zのように音源とかぶせてカバーした。
残念ながら、彼には仲間や友達が居なかったので、写真やビデオは残っていない。
でも、そのステージは今でも鮮明に記憶に残っている。
生徒が盛り上がりすぎて、生徒指導部長が押さえに入ったくらいだったからだ。
B'zを聴いたりすると、K君のことをよく思い出す。
彼は特別進学コースにいながら、大学進学を希望せず、音響関係の専門学校に行ったはずである。
因みに私は彼の担任では無く、授業を担当しているだけだった。
一日6時間もギター練習をする程のギター好きで、親も諦めていたようである。
周りと音楽に関して妥協が無かったのでバンドが組めず、私と組んだわけである。
彼とは練習だけで無く、音楽に関してもよく話をした。
修学旅行でグァム島へ行って、彼は浜辺で泳ぎもせず、私に音楽のことを切々と訴えかけてきた。
私も、その道で生きていきたいと思っていた頃があるので、彼の気持ちはよく分かっていた。
しかし、これで生活することも大変だと言うことも分かっていた。
彼には大学に行くよう何度も勧めたが駄目だった。
彼が今どんな仕事についているのか気がかりだが、自分で選んだ道に後悔はしていないだろうと思う。
私は大学の途中で別のことに惹かれて、その道から離れてしまった。
私にとってのCalling(天職)は歌手では無かった。
気の多い自分が30年も続けられたのだから、教職がCallingだったのかもしれない。
今はそこから離れたので、新しいCallingが呼んでるかも・・・
2017年11月28日火曜日
ガジュマルのガジュ子
私は勝手に植物にも名前をつける。
しかも、安易な名前だ。
以前世話していたハイビスカスはビス子
長年世話しているガジュマルはガジュ子である。
ハイビスカスは花を咲かせるので女性っぽくて良いのだが、ガジュマルは花をつけない。
ガジュ男でも良かったが、それでは寅さんに出ていた佐藤蛾次郎を連想してしまう。
彼を嫌いなわけではないが、あのイメージはちょっと・・・
そしたら、もっとかわいい名前をつけてやれよと思うかもしれない。
しかし、それも抵抗があった。
なぜならガジュマルは奄美ではケンムン(カッパのような妖怪)が宿る木と言われ、伐ると目が痛くなったりするという。
(上の写真は与路島の珊瑚の石垣とガジュマル)
シマの人もよく分かっていて、防風林の木であるので、伐ることを禁じていたこと。
木を伐ると白い液が出るので、それに目がやられて痛いと言っていた。
だから、可愛すぎるのもイメージに合わない。
買ってきたのは、もう20年ほど前だと思う。
子供が小さい折、家族で加西のフラワーセンターへ行き、人参ガジュマルとして買った。
人参ほどの大きさだったのが、今では上の写真のように1mを超している。
もっと手入れして、盆栽のように小さく育てれば良かったのだが、手を抜いて大きくなってしまった。
そうすると、冬場は寒さに弱いので、玄関に取り込んで置く。
それでも玄関は寒いので、春頃には葉っぱや小枝は枯れてしまっていた。
去年はさすがに根元付近まで枯れていたので、もう駄目だと思い庭にひっくり返しておいた。
すると、夏近くになると新しい枝葉が復活しているではないか。
やはり、ケンムンが居着くだけしぶとい木である。
部屋の中に入れるのは、ケンムンの関係で抵抗は少しあった。
因みに、奄美の人は真剣にケンムンの存在を信じている人も居る。
それでも生け垣以外に、庭で盆栽のように石を抱かせて育てている人もいた。
本土の人にとっては、今更カッパなんてと思うかもしれないが、まだ生きているのである。
私はケンムン話を嫌と言うほど聞かされたので、まるっきり信じていないわけでは無い。
ただ、防風林として大切してきた意味を汲んで、今回は部屋のスペースが空いたので置いた。
二階まで持って上がるのは大変な労力だったが、一度持って上がったら、夏場はベランダに出せば済む。
これから奄美与路島の原稿を書く時には、このガジュ子が助けてくれるだろう。
ただケンムンが出てきて相撲はとりたくないが・・・
しかも、安易な名前だ。
以前世話していたハイビスカスはビス子
長年世話しているガジュマルはガジュ子である。
ハイビスカスは花を咲かせるので女性っぽくて良いのだが、ガジュマルは花をつけない。
ガジュ男でも良かったが、それでは寅さんに出ていた佐藤蛾次郎を連想してしまう。
彼を嫌いなわけではないが、あのイメージはちょっと・・・
そしたら、もっとかわいい名前をつけてやれよと思うかもしれない。
しかし、それも抵抗があった。
なぜならガジュマルは奄美ではケンムン(カッパのような妖怪)が宿る木と言われ、伐ると目が痛くなったりするという。
(上の写真は与路島の珊瑚の石垣とガジュマル)
シマの人もよく分かっていて、防風林の木であるので、伐ることを禁じていたこと。
木を伐ると白い液が出るので、それに目がやられて痛いと言っていた。
だから、可愛すぎるのもイメージに合わない。
買ってきたのは、もう20年ほど前だと思う。
子供が小さい折、家族で加西のフラワーセンターへ行き、人参ガジュマルとして買った。
人参ほどの大きさだったのが、今では上の写真のように1mを超している。
もっと手入れして、盆栽のように小さく育てれば良かったのだが、手を抜いて大きくなってしまった。
そうすると、冬場は寒さに弱いので、玄関に取り込んで置く。
それでも玄関は寒いので、春頃には葉っぱや小枝は枯れてしまっていた。
去年はさすがに根元付近まで枯れていたので、もう駄目だと思い庭にひっくり返しておいた。
すると、夏近くになると新しい枝葉が復活しているではないか。
やはり、ケンムンが居着くだけしぶとい木である。
部屋の中に入れるのは、ケンムンの関係で抵抗は少しあった。
因みに、奄美の人は真剣にケンムンの存在を信じている人も居る。
それでも生け垣以外に、庭で盆栽のように石を抱かせて育てている人もいた。
本土の人にとっては、今更カッパなんてと思うかもしれないが、まだ生きているのである。
私はケンムン話を嫌と言うほど聞かされたので、まるっきり信じていないわけでは無い。
ただ、防風林として大切してきた意味を汲んで、今回は部屋のスペースが空いたので置いた。
二階まで持って上がるのは大変な労力だったが、一度持って上がったら、夏場はベランダに出せば済む。
これから奄美与路島の原稿を書く時には、このガジュ子が助けてくれるだろう。
ただケンムンが出てきて相撲はとりたくないが・・・
2017年11月26日日曜日
無くてはならないコウノトリ
10月に台風が来る前に一度コウノトリは来ていた。
しかし、稲刈りもすっかり済んで、霜が降りてあたりが真っ白になっても、今年は来ていなかった。
毎日散歩するたびに、いつもの鉄塔を眺めたり、餌場のため池を覗いたりした。
餌場には多くの鴨がいて、コウノトリが来る前に餌が無くなってしまうのではないかと心配していた。
それがやっと二日前(11/24)にやってきた。
それはいつもコウノトリを追っかけているO氏が教えてくれた。
コウノトリのさっちゃんの弟が来ているという。
O氏には豊岡の飼育場から連絡が入ったり、知り合いにすぐに連絡してもらえる。
実はO氏は、深刻な病気を抱えていて、普段はあまり出歩くことが無い。
コウノトリがやって来ると、途端に元気が出て、車で追っかける。
彼をパパラッチに変えるのがコウノトリなのである。
しかも、素晴らしい写真を撮ってくれる。
今日(11/26)の朝、いつもの鉄塔にとまっているコウノトリを、私も見ることができた。
O氏はいなかったけれど、早速、どこで情報を得たのか見知らぬ人がカメラを持って撮っていた。
私は鉄塔の傍をゆっくり眺めながら、クロと通り過ぎていった。
心なしか、こちらを見ているような気もした。
とにかく、久しぶりに会えて嬉しい。
ずっと、心待ちにしていたからだ。
鷹や、ノスリなどはとっくに来ていて、それも嬉しかったが、コウノトリの存在感には勝てない。
彼がいるだけで、風景が一変したように感じる。
これで、さっちゃんもやって来ればもっと嬉しい。
もう何年も前からやって来たコウノトリだが、最初は物珍しいだけだった。
近所の人や、遠く離れた人もわざわざ見に来て、写真を撮ったりもした。
今は近所の人もそう騒がず、今年も来たねと思う程度である。
散歩好きの私には、この季節には無くてはならない存在になっている。
私には赤ちゃんを運んできてくれることはないが、何か幸せを運んできてくれるような気がする。
病を抱えたO氏が元気づけられるように、コウノトリはこの地域の人に元気を与えられる。
この土地が選ばれているというだけで、この土地の素晴らしさの証明になるからだ。
いずれまた、見直されて若い人も戻ってきてくれるだろう。
しかし、稲刈りもすっかり済んで、霜が降りてあたりが真っ白になっても、今年は来ていなかった。
毎日散歩するたびに、いつもの鉄塔を眺めたり、餌場のため池を覗いたりした。
餌場には多くの鴨がいて、コウノトリが来る前に餌が無くなってしまうのではないかと心配していた。
それがやっと二日前(11/24)にやってきた。
それはいつもコウノトリを追っかけているO氏が教えてくれた。
コウノトリのさっちゃんの弟が来ているという。
O氏には豊岡の飼育場から連絡が入ったり、知り合いにすぐに連絡してもらえる。
実はO氏は、深刻な病気を抱えていて、普段はあまり出歩くことが無い。
コウノトリがやって来ると、途端に元気が出て、車で追っかける。
彼をパパラッチに変えるのがコウノトリなのである。
しかも、素晴らしい写真を撮ってくれる。
今日(11/26)の朝、いつもの鉄塔にとまっているコウノトリを、私も見ることができた。
O氏はいなかったけれど、早速、どこで情報を得たのか見知らぬ人がカメラを持って撮っていた。
私は鉄塔の傍をゆっくり眺めながら、クロと通り過ぎていった。
心なしか、こちらを見ているような気もした。
とにかく、久しぶりに会えて嬉しい。
ずっと、心待ちにしていたからだ。
鷹や、ノスリなどはとっくに来ていて、それも嬉しかったが、コウノトリの存在感には勝てない。
彼がいるだけで、風景が一変したように感じる。
これで、さっちゃんもやって来ればもっと嬉しい。
もう何年も前からやって来たコウノトリだが、最初は物珍しいだけだった。
近所の人や、遠く離れた人もわざわざ見に来て、写真を撮ったりもした。
今は近所の人もそう騒がず、今年も来たねと思う程度である。
散歩好きの私には、この季節には無くてはならない存在になっている。
私には赤ちゃんを運んできてくれることはないが、何か幸せを運んできてくれるような気がする。
病を抱えたO氏が元気づけられるように、コウノトリはこの地域の人に元気を与えられる。
この土地が選ばれているというだけで、この土地の素晴らしさの証明になるからだ。
いずれまた、見直されて若い人も戻ってきてくれるだろう。
2017年11月25日土曜日
越境の学校
一般に姫路城と言えば、天守閣付近のいわゆる内曲輪を指していると思う。
しかし、その外側に中曲輪があり、ここは元々は武家屋敷地で石垣に囲まれ、大きな門も備わっていた。
その外側が外曲輪で、いわゆる城下町として繁華街ともなっている。
私の通った淳心学院は中曲輪にあり、校舎のすぐ傍に高い石垣の土手と、その外側に深い堀もあった。
通っていた頃は世界遺産では無かったが、国宝だったので勝手に石垣の土手に穴を開けて遊んでいると、教師から注意された。
淳心学院は中高一貫なので6年間通うことになる。
学年が上がるに従って、上階に教室が上がっていく。
美しい姫路城も間近に見えるようになる。
当時の教室は建て替えられて、もう無いのであるが、本国ベルギーがダイヤモンドで稼いで景気が良かった時代のものであった。
だから、廊下には大理石が用いられており、その中に化石が見られることもあった。
ただ、作りは悪かったようで、雨漏りがしだしたので建て替えたようだ。
新しい校舎になってからは一度も行ったことが無く、あまり行きたいとも思わない。
やはり、昔の校舎あっての母校である。
私が勤めていた赤穂高校も赤穂城の中にあった時代の人は、同じ気持ちだろう。
最近閑谷学校のことをテレビなので特集されて興味を持つようになった。
歴史を耐え抜いた学校で、たかだか50年で建て替えたのとは訳が違う。
また、当然教員採用試験の教職教養では必須項目であったし、教育史を学ぶ上で欠かせない学校である。
上郡町民としては、大鳥圭介が学んだ学校として知っておかねばならない。
私はうかつにも、三木露風が学んでいたことは知らなかった。
龍野の学校に長く勤め、龍野実業の校歌の作詞者でもある。
先日閑谷学校へ行った時に、ゆかりある人物として三木露風はあったが、大鳥圭介はなく残念に思った。
閑谷学校は備前の人だけではなくて、播磨からも学びに来ていたと言うことである。
それでふと思ったのは、母校の淳心学院も少し似ていることだ。
私の同級生には、日生などのような岡山県から通ってきている生徒が何人かいた。
閑谷学校のように時代を動かす人材まで輩出していないが、近隣から多くの生徒が学びに来たところは似ている。
そして、淳心の卒業生の中には、テレビや国会で活躍している人もいる。
公立校が藩校なら、淳心のような私立校は閑谷学校のような役目を果たしてきたのかもしれない。
公立中学校が丸刈りを強制して詰め襟の制服だった時に、長髪で背広だった。
その自由な校風に憧れて、当時は淳心を希望した生徒も多かったと思う。
長年公立学校の教師を勤めており、公立校の良さも分かるし、以前勤めていた県大付属高校もそういう雰囲気を持っていた。
淳心には偏差値で輪切りにされてしまっている現在の公立高校には無いものがあった。
ただ、今は中学受験のために低学年から受験勉強をさせられ、偏差値の輪切りになっているようだ。
私は因みに小学校6年の5月から担任の先生のすすめで中学受験を始めた。
それまでは剣道やボーイスカウト活動等で、宿題もまともにやっていなかった。
担任の先生が、私が勉強もせずしょっちゅうケンカしたりしていたので、このまま地元の中学に行くとまずいと思ったのだと思う。
それでも当時は十分合格できたのである。
そして、当時の大学進学実績は今よりも断然良い。
ただ、私は自由な校風を謳歌しすぎて、大学受験には失敗した。
両親は赤穂市から奨学金まで借りてくれて、返済してくれたのに、今から思うと親不孝だったと思う。
それでも、淳心での自立心を鍛えられた経験がその後の人生に活かすことができたと思う。
これからの学校として、受験テクニックや偏差値と関係なく、未来を見据えた学校が必要に思える。
学校は今まで立身出世のためにあった。
これからの学校は地域に根ざした社会教育とともにあるべきだと思う。
国家や自治体、企業のためだけで無く、公共を担える人材作り。
家族や親戚、地域の人と生活を共に築いていける社会を担う人材。
閑谷学校が奥深い山里に築かれていたのも、なんとなくそれと関係していたように思える。
しかし、その外側に中曲輪があり、ここは元々は武家屋敷地で石垣に囲まれ、大きな門も備わっていた。
その外側が外曲輪で、いわゆる城下町として繁華街ともなっている。
私の通った淳心学院は中曲輪にあり、校舎のすぐ傍に高い石垣の土手と、その外側に深い堀もあった。
通っていた頃は世界遺産では無かったが、国宝だったので勝手に石垣の土手に穴を開けて遊んでいると、教師から注意された。
淳心学院は中高一貫なので6年間通うことになる。
学年が上がるに従って、上階に教室が上がっていく。
美しい姫路城も間近に見えるようになる。
当時の教室は建て替えられて、もう無いのであるが、本国ベルギーがダイヤモンドで稼いで景気が良かった時代のものであった。
だから、廊下には大理石が用いられており、その中に化石が見られることもあった。
ただ、作りは悪かったようで、雨漏りがしだしたので建て替えたようだ。
新しい校舎になってからは一度も行ったことが無く、あまり行きたいとも思わない。
やはり、昔の校舎あっての母校である。
私が勤めていた赤穂高校も赤穂城の中にあった時代の人は、同じ気持ちだろう。
最近閑谷学校のことをテレビなので特集されて興味を持つようになった。
歴史を耐え抜いた学校で、たかだか50年で建て替えたのとは訳が違う。
また、当然教員採用試験の教職教養では必須項目であったし、教育史を学ぶ上で欠かせない学校である。
上郡町民としては、大鳥圭介が学んだ学校として知っておかねばならない。
私はうかつにも、三木露風が学んでいたことは知らなかった。
龍野の学校に長く勤め、龍野実業の校歌の作詞者でもある。
先日閑谷学校へ行った時に、ゆかりある人物として三木露風はあったが、大鳥圭介はなく残念に思った。
閑谷学校は備前の人だけではなくて、播磨からも学びに来ていたと言うことである。
それでふと思ったのは、母校の淳心学院も少し似ていることだ。
私の同級生には、日生などのような岡山県から通ってきている生徒が何人かいた。
閑谷学校のように時代を動かす人材まで輩出していないが、近隣から多くの生徒が学びに来たところは似ている。
そして、淳心の卒業生の中には、テレビや国会で活躍している人もいる。
公立校が藩校なら、淳心のような私立校は閑谷学校のような役目を果たしてきたのかもしれない。
公立中学校が丸刈りを強制して詰め襟の制服だった時に、長髪で背広だった。
その自由な校風に憧れて、当時は淳心を希望した生徒も多かったと思う。
長年公立学校の教師を勤めており、公立校の良さも分かるし、以前勤めていた県大付属高校もそういう雰囲気を持っていた。
淳心には偏差値で輪切りにされてしまっている現在の公立高校には無いものがあった。
ただ、今は中学受験のために低学年から受験勉強をさせられ、偏差値の輪切りになっているようだ。
私は因みに小学校6年の5月から担任の先生のすすめで中学受験を始めた。
それまでは剣道やボーイスカウト活動等で、宿題もまともにやっていなかった。
担任の先生が、私が勉強もせずしょっちゅうケンカしたりしていたので、このまま地元の中学に行くとまずいと思ったのだと思う。
それでも当時は十分合格できたのである。
そして、当時の大学進学実績は今よりも断然良い。
ただ、私は自由な校風を謳歌しすぎて、大学受験には失敗した。
両親は赤穂市から奨学金まで借りてくれて、返済してくれたのに、今から思うと親不孝だったと思う。
それでも、淳心での自立心を鍛えられた経験がその後の人生に活かすことができたと思う。
これからの学校として、受験テクニックや偏差値と関係なく、未来を見据えた学校が必要に思える。
学校は今まで立身出世のためにあった。
これからの学校は地域に根ざした社会教育とともにあるべきだと思う。
国家や自治体、企業のためだけで無く、公共を担える人材作り。
家族や親戚、地域の人と生活を共に築いていける社会を担う人材。
閑谷学校が奥深い山里に築かれていたのも、なんとなくそれと関係していたように思える。
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