このところずっと、右足の小指の内側が腫れて痛い。
始まりは靴擦れだったのだが、それに霜焼けが加わった。
私は去年まで冬場でも通気性の良い履き物を履いていた。
それでもひどい霜焼けになったことは無かった。
それは赤穂という暖かい気候の土地で働くことができたからだった。
ところが今の職場は上郡以上に寒い。
先日も雨が降っているのに路面が凍り付いていて、職員が転んだので氷をお湯で溶かしたりした。
靴入れは屋外にあり、履き替えるとしばらくは冷たさを我慢しなくてはいけない。
また、仕事場はエアコンはついているが、足下は寒い。
今まで霜焼けに悩まされた経験があまりないので、気にしないでいた。
このところ、小指は腫れ上がりこらえながら歩かねばならなくなった。
靴下を二枚履きにしたら、かえって血行が悪くなったり、すれたりして悪化したようだ。
たまりかねて薬局へ行ったが、今使っている薬以上の物は無かった。
今使っている薬は、紫雲膏という臭い塗り薬でそれが一番効くと薬剤師さんに言われた。
この薬は数年前に足の甲の外側がちょっと霜焼けになった時に買って使った物である。
それは売り切れて置いてなかったので、霜焼けの人が今年は多いのだろうと思った。
その時に中から血行を良くする栄養剤を飲むと良いと薦められたが、値段があまりに高いので家にあるもらった栄養剤を飲むことにした。
他に足に貼るカイロも買ったり、暖かいスリッパや足もとに敷くマットも買った。
夜は風呂上がりに、入念に薬を塗って栄養剤も飲んだ。
これで駄目なら病院に行くつもりであった。
とにかく万全の態勢で今日(2/14)が仕事に臨んだ。
朝は寒かったが、昼頃から暖かくなったせいもあって、前日より痛みは軽くなった。
新しい職場は色々と試練の連続であるが、こういう予期せぬ試練もある。
本来なら症状が軽いうちに、万全の手を打っておけば良かった。
例えば足に貼るカイロも、当初値段が高いから靴下の二枚履きにしたのが間違いだった。
霜焼けは英語でfrostbiteと言うらしい。
霜や寒気が噛むと言う意味から、「寒霜が噛んだ小指が痛い」と歌ってしばらくは痛みを耐えるしかなさそうだ。
結果
2月16日に私は仕事で山に登らねばならなくなった。
そして、足の靴連れは致命的なダメージを受けてしまった。
たまりかねて、今日(2/17)皮膚科に行かねばならなくなった。
さっさと医者にかかっていれば良かったというありきたりの結論となった。
播磨の西外れにある私の生まれ育った赤穂や、今暮らしている上郡に関すること、農作業,山野河海の恵み、趣味の水泳、音楽、専門である有機農業や、教育、文化人類学、民俗学に関することなどを、きままに記してみます。
ページビューの合計
2018年2月17日土曜日
2018年2月14日水曜日
生き方の違い
昨日(2/8)からとある大学が勤め先に研修に訪れていた。
その中の教員として見覚えのある顔、しかし、下の名前は出てきても姓が出てこない。
ネットで大学の教員を調べたら、やはり出ていた。
Aさんは転職前は高校の管理職であったが、早期退職して大学の教員になったことは知っていた。
それがどこの大学だったのか憶えてなかった。
Aさんの夫も大学の職員として働いていて、昨年も私の勤め先の高校であっていた。
来ていた大学の他の職員の方にAさんのことを聞くと、学科長さんだという。
転職してすぐに学科長になっているとは、さすがだなと感心した。
Aさんとは20年程前のとある養護(特別支援)学校で同僚だったが、当時からやり手であった。
今朝見かけたので、話しかけると昔のままである。
懐かしさのあまり、色々と身の上話をした。
Aさんと一緒に働いていた学校の同僚には、Aさんと同じように管理職になって頑張っている女性がいた。
一方、私はその学校で同僚だった男性教員が早期退職しているのをうらやましく思って、自分もそうありたいと思って実行した。
女性の方が学校という場に情熱を燃やし、自分のような男性の方が消極的になる状況なのである。
私はそれはそれで良いと思っている(Aさんにはハッパをかけられたが・・・)。
情熱と能力のある女性はもっともっと管理職や大学教員になるべきだと思う。
私にとって学校は確かにやりがいのある教育現場ではあるが、それが全てでは無いとずっと思っていた。
もともと文化人類学を専攻していた自分にとって、ヒトにとっての学びの場というものを根本的に考えたかった。
今、同じ職場の史跡担当の職員に、大学で臨時講師を務めながら安い時給で働いている人がいる。
彼は大学の通信制で考古学を学んだ苦学生だったが、情熱と努力で子育てを担いながら研究活動を続けている。
待遇的には決して恵まれていないのだが、研究に対する情熱をすごく感じさせる好人物である。
私はことあるごとに、彼と歴史や教育について語り合い、勇気と元気をもらっている。
彼より安全な生活を選んだ私だが、地位財産にあまり執着していない点は似ている。
自分が本当にやりたいことがあれば、どんな境遇であっても生きがいを得る方法もあるような気がする。
世間の人にとっては、それなりの額の年収を捨てて今の仕事をしていることが理解しづらいと思う。
「人生、金だけじゃ無いよ」と、せめて格好だけつけさせてほしい。
ただ、Aさんとの再会は、違った意味でも自分に奮起を促してくれた。
彼女から「何かあったら」とわざわざ帰りがけに頂いた名刺は、お守り代わりに大切にしておこう・・・
その中の教員として見覚えのある顔、しかし、下の名前は出てきても姓が出てこない。
ネットで大学の教員を調べたら、やはり出ていた。
Aさんは転職前は高校の管理職であったが、早期退職して大学の教員になったことは知っていた。
それがどこの大学だったのか憶えてなかった。
Aさんの夫も大学の職員として働いていて、昨年も私の勤め先の高校であっていた。
来ていた大学の他の職員の方にAさんのことを聞くと、学科長さんだという。
転職してすぐに学科長になっているとは、さすがだなと感心した。
Aさんとは20年程前のとある養護(特別支援)学校で同僚だったが、当時からやり手であった。
今朝見かけたので、話しかけると昔のままである。
懐かしさのあまり、色々と身の上話をした。
Aさんと一緒に働いていた学校の同僚には、Aさんと同じように管理職になって頑張っている女性がいた。
一方、私はその学校で同僚だった男性教員が早期退職しているのをうらやましく思って、自分もそうありたいと思って実行した。
女性の方が学校という場に情熱を燃やし、自分のような男性の方が消極的になる状況なのである。
私はそれはそれで良いと思っている(Aさんにはハッパをかけられたが・・・)。
情熱と能力のある女性はもっともっと管理職や大学教員になるべきだと思う。
私にとって学校は確かにやりがいのある教育現場ではあるが、それが全てでは無いとずっと思っていた。
もともと文化人類学を専攻していた自分にとって、ヒトにとっての学びの場というものを根本的に考えたかった。
今、同じ職場の史跡担当の職員に、大学で臨時講師を務めながら安い時給で働いている人がいる。
彼は大学の通信制で考古学を学んだ苦学生だったが、情熱と努力で子育てを担いながら研究活動を続けている。
待遇的には決して恵まれていないのだが、研究に対する情熱をすごく感じさせる好人物である。
私はことあるごとに、彼と歴史や教育について語り合い、勇気と元気をもらっている。
彼より安全な生活を選んだ私だが、地位財産にあまり執着していない点は似ている。
自分が本当にやりたいことがあれば、どんな境遇であっても生きがいを得る方法もあるような気がする。
世間の人にとっては、それなりの額の年収を捨てて今の仕事をしていることが理解しづらいと思う。
「人生、金だけじゃ無いよ」と、せめて格好だけつけさせてほしい。
ただ、Aさんとの再会は、違った意味でも自分に奮起を促してくれた。
彼女から「何かあったら」とわざわざ帰りがけに頂いた名刺は、お守り代わりに大切にしておこう・・・
2018年2月12日月曜日
冬の御崎海岸
今日は赤穂へ一人で買い物に行ったついでに、御崎の海岸をドライブして帰ることにした。
大塚海岸から丸山海岸にかけての道を通っている時に、ふと子供の頃の記憶が蘇った。
小学生の5年生頃だったと思う。
私は友達と学校から帰って、海岸沿いの山を探検のつもりで歩いたことがある。
尾崎小学校から東に行くと向山があり、そこの中腹から丸山海岸に行ける。
そして、海岸の道を海を眺めながら大塚海岸の上、そして御崎公園と歩いて回って帰った。
子供の足にしては大変長い距離に思えた。
途中で、車で駐車している人が乗せて上げようと言ったが断った。
先生から知らない人の車に乗せてもらってはいけないと言われていたからである。
冬場は小学校の授業中に裏山に登ることが多かったことを思い出した。
体力作りの一環だったと思うが、向山によくみんなで登った。
私の3年の担任だった小島先生は、普段からよく生徒を山に連れて行ってくれた。
時には先生がおやつまで用意してくれていた。
自分たちは普段から、尾崎の八幡神社の裏山は遊び場になっており、いつでもよく登って遊んだ。
裏山の椿林の椿の木に枝を渡して、チンパンジーの寝床のようなものを作ったりした。
また、水源地への階段の横の笹だけの中は、冬場でも暖かいのでそこに隠れこんでおやつを食べたりした。
思い出せば冬場でも、家にじっとしていたことは無かった。
同じ海岸の景色を見ても、幼い頃から親しんできた景色は全然意味が違う。
確かに塩田はもうないし、家島は当時とは形が違っている。
遠足などで訪れた丸山海岸の様子もかなり違っている。
それでもしっかりと昔の記憶を蘇らせてくれる。
その丸山海岸に降りてみると、寒風が吹きすさむ中でテントが2張立っていた。
自分たちが幼い頃に、住処(すみか)と称して、冬場でも椿山や笹藪の中で楽しく過ごしたのと一緒のように思えた。
金がなくても友達と一緒にいれば楽しく遊べたあの頃。
今の私がこれから、向かおうとしている世界なのかも知れない。
※写真は現在の海浜公園から見た向山(丸山)
大塚海岸から丸山海岸にかけての道を通っている時に、ふと子供の頃の記憶が蘇った。
小学生の5年生頃だったと思う。
私は友達と学校から帰って、海岸沿いの山を探検のつもりで歩いたことがある。
尾崎小学校から東に行くと向山があり、そこの中腹から丸山海岸に行ける。
そして、海岸の道を海を眺めながら大塚海岸の上、そして御崎公園と歩いて回って帰った。
子供の足にしては大変長い距離に思えた。
途中で、車で駐車している人が乗せて上げようと言ったが断った。
先生から知らない人の車に乗せてもらってはいけないと言われていたからである。
冬場は小学校の授業中に裏山に登ることが多かったことを思い出した。
体力作りの一環だったと思うが、向山によくみんなで登った。
私の3年の担任だった小島先生は、普段からよく生徒を山に連れて行ってくれた。
時には先生がおやつまで用意してくれていた。
自分たちは普段から、尾崎の八幡神社の裏山は遊び場になっており、いつでもよく登って遊んだ。
裏山の椿林の椿の木に枝を渡して、チンパンジーの寝床のようなものを作ったりした。
また、水源地への階段の横の笹だけの中は、冬場でも暖かいのでそこに隠れこんでおやつを食べたりした。
思い出せば冬場でも、家にじっとしていたことは無かった。
同じ海岸の景色を見ても、幼い頃から親しんできた景色は全然意味が違う。
確かに塩田はもうないし、家島は当時とは形が違っている。
遠足などで訪れた丸山海岸の様子もかなり違っている。
それでもしっかりと昔の記憶を蘇らせてくれる。
その丸山海岸に降りてみると、寒風が吹きすさむ中でテントが2張立っていた。
自分たちが幼い頃に、住処(すみか)と称して、冬場でも椿山や笹藪の中で楽しく過ごしたのと一緒のように思えた。
金がなくても友達と一緒にいれば楽しく遊べたあの頃。
今の私がこれから、向かおうとしている世界なのかも知れない。
※写真は現在の海浜公園から見た向山(丸山)
2018年2月10日土曜日
干し大根活用
今期はどういうわけか、大根が育ちすぎているのが多かった。
私が作っている品種は春になってもすが入りにくいタキイの「緑輝」だが、大きすぎると大味になる。
そこで、20本ほど太いのを抜いてそのまま干すことにした。
二階のベランダの庇の下でこの時期まで干して置いた。
去年は酒粕を使って30本ほど漬物を拵えた。
おいしく食べられたが、何せ酒粕代がばかにならない。
今年は何とか安く済ませようと考えた。
まず、「ためしてガッテン」でやっていた焼酎で練った酒粕漬け。
干した大根を縦に8等分くらいにして、大きめのタッパにつけ込んだ。
1週間ほどして取り出してそのまま銀杏に切って、保存用のタッパにいれ食べやすくした。
家内に試食してもらったところ、苦いという。
これは去年もそうだが、焼酎を入れるとどうしても苦くなる。
その苦さをごまかすために、練りわさびを適当に加えた。
入れた時は、涙が出るほどつんときたが、まさしくわさび漬け大根。
日が経つとこなれてきて、いくつでも食べられる。
もう一つは、キムチの素漬け。
キムチの素は大抵の野菜や山菜に使うことができる。
こちらは最初から食べやすい大きさに切って小さなタッパに入れた。
まさしくカクテキもどきである。
カクテキほどみずみずしくは無いが、私は食感がこちらの方が好きだ。
葉野菜が高騰している今は、こうして乗り切るしか無い。
といっても、大根も今年は馬鹿にならない値段である。
大根をあげて喜ばれる年は今までに無い。
私が作っている品種は春になってもすが入りにくいタキイの「緑輝」だが、大きすぎると大味になる。
そこで、20本ほど太いのを抜いてそのまま干すことにした。
二階のベランダの庇の下でこの時期まで干して置いた。
去年は酒粕を使って30本ほど漬物を拵えた。
おいしく食べられたが、何せ酒粕代がばかにならない。
今年は何とか安く済ませようと考えた。
まず、「ためしてガッテン」でやっていた焼酎で練った酒粕漬け。
干した大根を縦に8等分くらいにして、大きめのタッパにつけ込んだ。
1週間ほどして取り出してそのまま銀杏に切って、保存用のタッパにいれ食べやすくした。
家内に試食してもらったところ、苦いという。
これは去年もそうだが、焼酎を入れるとどうしても苦くなる。
その苦さをごまかすために、練りわさびを適当に加えた。
入れた時は、涙が出るほどつんときたが、まさしくわさび漬け大根。
日が経つとこなれてきて、いくつでも食べられる。
もう一つは、キムチの素漬け。
キムチの素は大抵の野菜や山菜に使うことができる。
こちらは最初から食べやすい大きさに切って小さなタッパに入れた。
まさしくカクテキもどきである。
カクテキほどみずみずしくは無いが、私は食感がこちらの方が好きだ。
葉野菜が高騰している今は、こうして乗り切るしか無い。
といっても、大根も今年は馬鹿にならない値段である。
大根をあげて喜ばれる年は今までに無い。
2018年2月8日木曜日
畦焼き2018年
今年も村の畦焼きが今日(2/4)行われた。
昨日は勤め先で芝焼きが行われ、地方新聞の記者も取材に来ていた。
そちらの方は、茶色の芝生の絨毯が炎の赤によって、一面黒に塗り替えられる面白さがあった。
作業する方は、火をつけることより、バケツで延焼を食い止めたり、植えられた木を守るのに精一杯だった。
村の方の畦焼きは、こんな日に行って良いのかと思えるほど風が強い中行われた。
芝生と違い背の高い枯れ草は大きな炎を巻き上げた。
あちらこちらで畦や川原を焼くので、この近辺は霧のように煙で覆われた。
こちらも延焼を食い止めるのが面倒な作業となった。
そんな中で、去年一緒に作業をした人が今年も元気で作業をしているのを感慨深く思った。
というのも、去年一緒に作業をしている時に、腰が痛いというので理由を聞くと癌が肺から転移したという。
しかも、ステージ4でかなり深刻な様子だった。
その後の村作業は、たいてい奥さんが出るようになっていた。
畦焼きは重労働では無いので、本人が出てきたようだった。
70代半ばとはいえ、ステージ4でも元気でいられることを改めて知った。
このまま元気で、来年の畦焼きも一緒に作業できることを願った。
それにしても畦焼きは毎年繰り返されるのだが、危険を冒して何の意味があるのかと毎年考える。
火事予防だとか、害虫予防だとか聞いたがあまり納得いかない。
たぶん草が生える季節になって、草を刈りやすくするためだろうと思う。
勤め先の芝焼きで実は困ったことが起こっていた。
芝に火をつけるトーチの針金が外れて黒い灰に紛れてしまったのだ。
それは芝刈り機の故障につながってしまう。
村の畦焼きはそれ専用のトーチを竹で作ったり、量販店で専用のガストーチを買ったりする。
勤め先で使ったキャンプファイヤー用のトーチは見栄えは良くても、後の芝刈りのことを考えていなかった。
たぶん、取材だけを意識したからだろう。
昨日は勤め先で芝焼きが行われ、地方新聞の記者も取材に来ていた。
そちらの方は、茶色の芝生の絨毯が炎の赤によって、一面黒に塗り替えられる面白さがあった。
作業する方は、火をつけることより、バケツで延焼を食い止めたり、植えられた木を守るのに精一杯だった。
村の方の畦焼きは、こんな日に行って良いのかと思えるほど風が強い中行われた。
芝生と違い背の高い枯れ草は大きな炎を巻き上げた。
あちらこちらで畦や川原を焼くので、この近辺は霧のように煙で覆われた。
こちらも延焼を食い止めるのが面倒な作業となった。
そんな中で、去年一緒に作業をした人が今年も元気で作業をしているのを感慨深く思った。
というのも、去年一緒に作業をしている時に、腰が痛いというので理由を聞くと癌が肺から転移したという。
しかも、ステージ4でかなり深刻な様子だった。
その後の村作業は、たいてい奥さんが出るようになっていた。
畦焼きは重労働では無いので、本人が出てきたようだった。
70代半ばとはいえ、ステージ4でも元気でいられることを改めて知った。
このまま元気で、来年の畦焼きも一緒に作業できることを願った。
それにしても畦焼きは毎年繰り返されるのだが、危険を冒して何の意味があるのかと毎年考える。
火事予防だとか、害虫予防だとか聞いたがあまり納得いかない。
たぶん草が生える季節になって、草を刈りやすくするためだろうと思う。
勤め先の芝焼きで実は困ったことが起こっていた。
芝に火をつけるトーチの針金が外れて黒い灰に紛れてしまったのだ。
それは芝刈り機の故障につながってしまう。
村の畦焼きはそれ専用のトーチを竹で作ったり、量販店で専用のガストーチを買ったりする。
勤め先で使ったキャンプファイヤー用のトーチは見栄えは良くても、後の芝刈りのことを考えていなかった。
たぶん、取材だけを意識したからだろう。
2018年2月6日火曜日
見上げてごらん夜の星を
地方から東京へ集団就職し定時制高校に通っていた生徒たちは、励まされたというこの名曲。
作詞家の永六輔が定時制出身だったというように、どこで聞いたのか私はいつしか思い込んでしまった。
定時制の高校に勤務していた頃はそれを完全に信じていた。
しかし、ネットで経歴を調べても、それは出てこない。
ともあれ、この曲は特別支援学校でも手話を用いながら歌ったりして、大切に歌ってきた曲だった。
定時制に勤めている時は、夜の帰りに空を眺めながら口ずさんだりした。
私が学年主任をしていたある学年は、修学旅行に行きたいという生徒の数が足りなくて中止になった。
担任の先生や教頭、学年主任の私も校長の指示で、旅行を勧めに家庭訪問を夜遅くしたりもした。
一度延期になった旅行の計画も、その後旅行社と綿密に立て直したのだが、どうしても人数が足りなくて断念せざるを得なかった。
今は3年で卒業する生徒も多くいるので、4年まで通う生徒とは一緒に行けるのは最後の年だった。
3年で卒業する生徒にとっては卒業前の寒い夜、修学旅行が中止になったペナルティーが行われた。
校長の指示で修学旅行の代わりに、学年所属の教師と生徒だけで校舎周りの溝掃除が夜の学校で行われることになった。
当然、生徒には学校への感謝の気持ちと言うことにして、ペナルティーの意味は伝えられる筈もなかった。
生徒たちは一生懸命、暗くて寒い中、溝掃除をしてくれた。
担任の先生が他の学年の授業に行っても、副担任の先生と一緒に黙々と続けてくれた。
重いリアカーをひいて、上がった泥を捨てに行ってくれた。
汚れたじょれんやスコップなどの道具も、冷たい水道水で洗ってくれた。
途中でへたってしまう高齢の生徒もいたが、真面目な生徒は普段以上に一生懸命してくれた。
普段は授業をよくサボる生徒が意外に頑張ってくれて嬉しかった。
見上げた夜の寒空には、だいぶ欠けた月だけが生徒たちを上の方から見つめてくれていた。
私は汗が冷えて震えながらも、生徒たちへの感謝の気持ちで心が熱くなった。
ただ、この曲を聴くと、その時のやましさと悔しさ、一教員としての不甲斐なさの気持ちが時に蘇る。
作詞家の永六輔が定時制出身だったというように、どこで聞いたのか私はいつしか思い込んでしまった。
定時制の高校に勤務していた頃はそれを完全に信じていた。
しかし、ネットで経歴を調べても、それは出てこない。
ともあれ、この曲は特別支援学校でも手話を用いながら歌ったりして、大切に歌ってきた曲だった。
定時制に勤めている時は、夜の帰りに空を眺めながら口ずさんだりした。
私が学年主任をしていたある学年は、修学旅行に行きたいという生徒の数が足りなくて中止になった。
担任の先生や教頭、学年主任の私も校長の指示で、旅行を勧めに家庭訪問を夜遅くしたりもした。
一度延期になった旅行の計画も、その後旅行社と綿密に立て直したのだが、どうしても人数が足りなくて断念せざるを得なかった。
今は3年で卒業する生徒も多くいるので、4年まで通う生徒とは一緒に行けるのは最後の年だった。
3年で卒業する生徒にとっては卒業前の寒い夜、修学旅行が中止になったペナルティーが行われた。
校長の指示で修学旅行の代わりに、学年所属の教師と生徒だけで校舎周りの溝掃除が夜の学校で行われることになった。
当然、生徒には学校への感謝の気持ちと言うことにして、ペナルティーの意味は伝えられる筈もなかった。
生徒たちは一生懸命、暗くて寒い中、溝掃除をしてくれた。
担任の先生が他の学年の授業に行っても、副担任の先生と一緒に黙々と続けてくれた。
重いリアカーをひいて、上がった泥を捨てに行ってくれた。
汚れたじょれんやスコップなどの道具も、冷たい水道水で洗ってくれた。
途中でへたってしまう高齢の生徒もいたが、真面目な生徒は普段以上に一生懸命してくれた。
普段は授業をよくサボる生徒が意外に頑張ってくれて嬉しかった。
見上げた夜の寒空には、だいぶ欠けた月だけが生徒たちを上の方から見つめてくれていた。
私は汗が冷えて震えながらも、生徒たちへの感謝の気持ちで心が熱くなった。
ただ、この曲を聴くと、その時のやましさと悔しさ、一教員としての不甲斐なさの気持ちが時に蘇る。
2018年2月4日日曜日
通学路事故
毎年のように通学の児童の列に車が突っ込み、死傷者を出す事故が起こっている。
今回の岡山での事故は、勤め先の近くだっただけに人ごとに感じなかった。
実は息子と娘も小学校の時に同じような経験をしている。
幸い家の子供は軽い怪我で済んだが、二人とも病院に2泊入院した。
6人いた児童の中には、あわや足の切断かというほど重傷の女子もいたし、長い間入院を余儀なくされた女子もいた。
そして、事故に遭った全ての子は、その後車に対しての恐れがトラウマとなって残った。
事故の知らせを聞いたのは、私は出勤前だった。
近くの交差点で一旦停止を怠った車が出会い頭に直進車とぶつかり、そのはずみで児童の列に突っ込んだようだった。
駆けつけた時に、一人の女子がいなくて探していたら、現場から15m程離れた側溝に仰向けになって倒れていた。
痛がるその子を水の流れる溝から抱え上げて、救急車の来るのを待った。
幸い背中のランドセルで水位より高く顔が出ていたが、もし、うつ伏せに落ちていたら死んでいたかも知れない。
この事故はマスコミでも多く報道されて、通学路の安全の重要性が叫ばれた。
しかし、その後も同じような事故は繰り返されてきた。
現代においては、完全に安全な通学路というのは無いだろう。
小学生だけでなく、中学生や高校生もそうである。
中学生や高校生は単独の事故が多いので、あまり報道されないだけである。
私も担任している生徒が自転車に乗って通学途中に事故に遭い、重傷を負った経験がある。
これは当然車優先の社会システムを築いてきたつけであることは間違いない。
スクールバスを用いずに登校させるのであれば、通学路の安全措置を施すべきである。
また、道路整備が難しいのであれば、積極的にスクールバスをもっと増やすべきだと思う。
以前勤めていた特別支援学校では、多い時には11台のスクールバスを維持していた。
通学での運動確保の代用は、登校してから時間を確保すれば良い。
学力も大事だが、体力も欠かせない。
歩行通学の少ない特別支援学校では、体作りの時間を確保している場合が多い。
一般の学校でも見倣うべきだと思う。
かつて私が中学高校だった時も、中間体操として毎日2時間目後の休憩時間に上半身裸で校庭を走らされた。
冬の雪降る中は辛かったが、愉快な時でもあった。
ともかく、安全面だけでは無く、健康体力面でも考えねばならない問題だと思う。
今回の岡山での事故は、勤め先の近くだっただけに人ごとに感じなかった。
実は息子と娘も小学校の時に同じような経験をしている。
幸い家の子供は軽い怪我で済んだが、二人とも病院に2泊入院した。
6人いた児童の中には、あわや足の切断かというほど重傷の女子もいたし、長い間入院を余儀なくされた女子もいた。
そして、事故に遭った全ての子は、その後車に対しての恐れがトラウマとなって残った。
事故の知らせを聞いたのは、私は出勤前だった。
近くの交差点で一旦停止を怠った車が出会い頭に直進車とぶつかり、そのはずみで児童の列に突っ込んだようだった。
駆けつけた時に、一人の女子がいなくて探していたら、現場から15m程離れた側溝に仰向けになって倒れていた。
痛がるその子を水の流れる溝から抱え上げて、救急車の来るのを待った。
幸い背中のランドセルで水位より高く顔が出ていたが、もし、うつ伏せに落ちていたら死んでいたかも知れない。
この事故はマスコミでも多く報道されて、通学路の安全の重要性が叫ばれた。
しかし、その後も同じような事故は繰り返されてきた。
現代においては、完全に安全な通学路というのは無いだろう。
小学生だけでなく、中学生や高校生もそうである。
中学生や高校生は単独の事故が多いので、あまり報道されないだけである。
私も担任している生徒が自転車に乗って通学途中に事故に遭い、重傷を負った経験がある。
これは当然車優先の社会システムを築いてきたつけであることは間違いない。
スクールバスを用いずに登校させるのであれば、通学路の安全措置を施すべきである。
また、道路整備が難しいのであれば、積極的にスクールバスをもっと増やすべきだと思う。
以前勤めていた特別支援学校では、多い時には11台のスクールバスを維持していた。
通学での運動確保の代用は、登校してから時間を確保すれば良い。
学力も大事だが、体力も欠かせない。
歩行通学の少ない特別支援学校では、体作りの時間を確保している場合が多い。
一般の学校でも見倣うべきだと思う。
かつて私が中学高校だった時も、中間体操として毎日2時間目後の休憩時間に上半身裸で校庭を走らされた。
冬の雪降る中は辛かったが、愉快な時でもあった。
ともかく、安全面だけでは無く、健康体力面でも考えねばならない問題だと思う。
登録:
投稿 (Atom)