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2018年3月11日日曜日

親子で過ごす至福の時間

先日の日曜日(3/4)に私が勤めている施設で、親子でアウトドアを楽しむイベントがあった。
乳幼児から小学校の低学年と親子が集まって、ゲームや昼食作り、工作などを楽しんだ。
お父さんも多く参加してくれて、親子のふれあいが楽しそうで微笑ましかった。
考えてみれば、我が家でこういうイベントに参加したことはなかった。
家族だけで公園や動物園や海水浴、キャンプに出かけ、たまに親戚と一緒だったりした。
知らない人同士の家族でも、一緒に楽しめることは良いことだと思った。

振り返ってみれば、自分の育った家族で一緒に旅行に行ったことはあまりない。
せいぜい、親戚の家に泊まりに行く程度だった。
今日(3/7)もそんな話を母親としていたら、母親は私たちが大学生の時や結婚して孫ができた頃の旅行のことを言い出した。
大型レンタカーや小型バスを借りて、よく日帰りで遠くまで行ったが、何度か泊まりがけでも出かけた。
私たち家族にとっては、両親が費用を殆ど負担してくれるのでありがたかった。
両親にとっても、その頃一緒に出かけるのをとても楽しみにしていた。
特に子供好きの父は、カップ酒などを持ち込んで上機嫌だった。
私たちが子供の頃には、家族旅行など殆どしなかった分、両親にとっては息子家族と一緒に過ごした日々が至福の時だったようだ。
その後、弟夫婦や家族に箱根旅行や北海道旅行にも連れて行ってもらったが、それにもまして息子家族と行った小旅行が思い出深いようだった。

残念ながら、私の子供は独身でたまに一緒にドライブするが、大抵は友達と旅行を楽しんでいる。
この先に自分の両親が過ごしたように、子や孫との至福の時を過ごすのは期待できないように思える。
ただ、自分の子供たちが小学生だった頃まで、いろんな所に行って親子で過ごした日々は私にとっては至福の時だったと思う。
20年程前、勤めていた学校の先輩教師が子供と過ごす日々を大切にするようにアドバイスをくれた。
先輩教師は子供と過ごすべき時期に、部活動の仕事が忙しくて一緒に過ごせなかったことを悔やんでいた。
私は当時、特別支援学校勤めが多かったので、部活動の仕事は殆ど無かった。
だから、子供と一緒に過ごせる時間を多く持つことができた。
今は、時々その当時撮った写真やビデオを眺めて、当時に戻った気分を味わっている。
子育ての頃は、生活のために必死に働かなければならない時期なので、親子で過ごす時間を大切にする心の余裕は無い。
早く子育てが終わって自由になりたいと思ったこともある。
その自由を手に入れた今は、逆にその頃に戻りたいと思っている。
失って初めて知るのは親子が一緒に過ごせた至福の時間だった。


2018年3月9日金曜日

「2018年問題」の現実

改正労働契約法により2013年4月を起点に有期雇用契約が5年を経過した人に無期雇用に転換する権利が付与される。
パートやアルバイトなどの短時間勤務の非正社員であっても、5年勤務すれば正社員と同じように定年まで雇用が保障されることになる。
ただし、NHKラジオでの解説を聞くと、これはあくまで「定年までの雇用の保障」であって、正社員並みの待遇が保証されるわけでは無い。
私は昨年まで正職員として身分は保障されていた。
早期退職をして、現在期限付き臨時職員として働いている。
私自身は自分がやりたいと思う仕事を、契約期間に限らずやりたいと思っている。
ただし、不安のない生活のためには、賃労働を意にそぐわなくても行うつもりである

一般に職場には立場の違う有期雇用職員がいると思う。
役員待遇で、雇用管理する職員。
退職後請われて雇用された中間管理職員。
学校出たばかりとか、長期間正社員を経験していない若い職員。
子育てをしながら仕事を続けている女性職員。
私のように、長年勤めた正職員を退職した後にハローワークを通じて再就職した職員。
等々、他にもいろんな立場の人がいると思う。
同じ期限雇用職員でも、立場は違うし思いも異なる。
ただ、共通しているのは役員待遇を除いて雇用の継続は意のままにならない。
その代わり、条件が良いところがあれば、転職することも可能である。
現実的には、その良い条件の職場はそんなに無いのが実情だ。
ステップアップを目指して転職する若い職員も不安はあるようだ。
それでも、若い職員は正職員を望んでいることがよくわかる。

ブラックな職場と言われている教職に長く勤めた私には、正職員の厳しさも分かってはいる。
しかし、子育てや住宅を手に入れようとする人には、正職員である必要があるだろう。
そして、正職員でなければ、せめて無期限の雇用の確保と思うのは無理はない。
また、退職後の再就職した人も生活の安定や生きがいで雇用の確保を求めている。
かつての終身雇用、年功序列は一部の人にしかなされていない。
学校現場でもそうで無い人が少なからずいる。
そもそも、あたかも日本の労働慣行とされる仕組みも時代の産物である。
これからは同一労働、同一賃金の時代になってくるだろう。
現に私は若い人と同じ賃金で働いている。
有能な人は、転職してステップアップするチャンスも増えている。
一方、私のような年を重ねている者にとっては、ステップアップは殆ど無理である。

これからは、それぞれ思いを持った人がそれぞれの働き方で勤めるしかない。
家族主義の組織は時代遅れとなった。
自分の身は自分で守るしかない。
組織の一員として思いやる余裕はなくなる。
では、誰が思いやってくれるのか。
弱さを自覚した個人がお互いに助け合うしかない。
それが家族なのか、親族なのか、友達なのか、縁故なのか。
せめて、弱い立場の個人がネットで情報を交換し助け合うべきか?









2018年3月6日火曜日

祖母と「わかば」

もともと、私の父親はここいらで言う「シンヤ」で分家筋であった。
だから、父方の祖父母とは一緒に住んでいなかった。
母方の祖母はもともとは、相生で伯母家族と住んでいたのだが、赤穂の同じ敷地内に一緒に家を新築して住み始めた。
だから、母方の祖母が自分が中学生くらい頃から、隣に住んでいたことになる。
隣と言っても垣根も無く、同じ敷地内に二件家が建っているという感じである。
当然行き来は頻繁で、祖母はしょっちゅう我が家に来るし、自分たちもしょっちゅう隣を訪れた。

母方の祖母は、隣に住む前から、ことあるごとに我が家に泊まり込みでやってきてくれていた。
というのも、祖父は戦死していなかったので自由に動けたことと、私の家は兄弟が4人もいて、母親に助けが必要だった。
私の家は、中学校までは尾崎の磯釜というところにあって、古く小さな家を父親が安く買い求めたものだった。
人が寝られる間は二つしか無く、便所や風呂は外にあり、炊事場も土間だった。
玄関も北向きで、東に床の間があり、西側は隣の家とつながっていた。
そういう粗末な家に祖母や、伯母家族はよく泊まりに来てくれていた。
そして、自分たちの家族も当時相生の会社関連の長屋住宅に住む祖母の家によく泊まりに行った。

先日、「わかば」というタバコが値上がりすると言うのを聞いて祖母を思い出した。
小学生の頃、よく頼まれて買いに行ったからだ。
当時は確か50円だったと思う。
タバコに関しては、後に伯母から結核予防のために祖母は吸い出したと聞いた。
伯母の夫、つまり祖母にとっての娘婿は結核で亡くなった。
伯母と一緒に一生懸命に看病していたのだと思う。
また、看護婦ではなかったが、普通は嫌がる結核患者さんの世話もしていたという。
今は肺がんを心配するタバコだが、当時は結核予防として信じられていたようだ。
それがきっかけとして、祖母は当時は吸っていたが、隣に住みだした頃はもう吸っていなかった。

その祖母は私ら兄弟に「偉くならんでええ(良い)」と事あるごとに言っていた。
受験勉強に励んでいる自分たちには、老人の戯言のように思い受け流していた。
しかし、この歳になると、その意味がよく分かる。
そして、同じ言葉を言うようになっている。
細やかながら、仲良く肩寄せ合って暮らせることがいかに難しいか。
祖母がそばに暮らしていた年月があったからこそ、肩寄せ合う価値が少しでも分かるように思える。
安い「わかば」を結核予防に吸っていた時代は、誰もがそれを知っていたのかもしれない。

2018年3月3日土曜日

干からびたカッパ

私は特別支援学校に勤めていた頃、生徒がいきなり後ろから「あ! カッパがいる」と言われたことがある。
というのも、私の頭のてっぺんあたりは薄くなっており、その下の髪の毛が伸びていたのでカッパのようになっていた。
その生徒は観たまま正直に叫んだだけなのだ。
それ以来、なるべく髪の毛を短く刈って、カッパの頭にならないようにしてきた。
水泳好きの私は、普段から水泳のことをよく話していたので。
「水もしたたるいい男(プールで泳いで)」と職場の若い職員に紹介文を書かれて、上手いこと言うなと感心した。
皮肉ともとれるが、これからは自己紹介に使えそうだなとも思った。
これまではハンドルネームなどでは、「イルカ」ではなく「海豚」を用いた。
可愛いカタカナのイルカより、海の豚の漢字があっていると思った。

その海豚ないしカッパが、ここ二ヶ月ほどプールから遠ざかっていた。
行きたい行きたいと思いながら、プールには行けなかった。
通勤でプールの傍を通り、電器がついていると思いつつ素通りしてしまっていた。
当然、行く気で泳ぐ用意はしてはいた。
しかし、仕事が終わって夕方になり、寒いし疲れているしで結局行かずじまいに終わった。

今日(3/2)は朝から休みで、しかも天気が良くて気温も高い。
夕方、クロの散歩をして、先日風でずれた波板を直してからプールに出かけた。
ちょうど、スイミングの生徒がタイムを計っていた。
そのすぐ横で、アップを始めた。
いつもの「負ケルモンカ」の癖が出て、アップなのにスピードを出してしまった。
久しぶりなので、肩や足にに疲労や痛みがなくて思ったよりスムーズに泳げた。
しかし、正直なものでしばらく泳ぐと、腕が疲れて思うように動かせなくなってしまった。

久しぶりにいつもの水泳仲間と話すのも楽しい。
火野正平が自転車で佐用町に来てうどんを食べていたのが、テレビで出ていたという。
彼はずっと自転車に乗っているのでは無くて、放映される区間だけ自転車に乗っているそうだ。
テレビで少し観るたびに、お尻は痛くないのかと気にしていたが、全然問題なかったわけである。
私も自転車は好きだが、お尻が気になって長い距離は敬遠している。
そんな話をしたり、同じ水泳仲間の知り合いの息子さんから父親の様子を聞いたりもした。
彼の父親は水泳もやるが、退職後は山にも良く登っている。
冬山にも登っていると聞いて、本格的だなと感心した。

不慣れな仕事を憶えることや、人間関係に疲れ果て水泳も歌もできていない。
まさしく干からびたカッパなのである。
今日は干した大根を漬物にしたが、干からびた人間は食えない。
これからは無理をしてでも、頭に水をかけようと思う。
水も滴るイイ男として・・・





2018年2月27日火曜日

新聞配達と洋菓子

先日、朝,新聞を取りに玄関先にでたら、新聞が来ていない。
この頃、月に一度ほどこういうことがある。
たぶん、普段と違う人が配ってミスをするのだろう。
休みが十分とれない配達員のことを思うと、あまり怒れない。
実は、私もかつて配達員を数ヶ月だけしたことがある。
私は父親の意に反して大学受験に失敗して予備校に通うことになった。
弟も受験生なので、下宿させる余裕が無かった。
それで、私は朝日新聞の奨学生に応募した。
授業料の前借りはせずに済んだが、予備校近くの販売所に住み込んで朝夕刊を配達することになった。

販売所は阪急春日野道駅の北にあり、神戸特有の坂の多い街だった。
販売所の店主は元トラック運転手で、凄みのある人だった。
新聞配達は思ったよりも辛く、失敗の連続だった。
私は原付免許と持っていたので、急な坂道の場所が担当になった。
中には15階建てのマンションがあり、階段を上がったり下がったりせねばならなかった。
たまに配り忘れて、電話がかかってきて届けに行き、電話代10円を渡そうとすると「嫌らしい」と断られ蔑まれたこともある。
受験勉強もまともにできず、「何でこんなことをやっているんだろう」と配りながら涙が流れたりした。

そんな中でも、一緒に頑張った奨学生仲間とは励まし合って仲良くできた。
苦しい時の友というのは、本当にありがたいと思った。
ただ、新聞配達を辞めてから一度きり会っただけで、その後会うことは無かった。
自分としては途中で辞めたやましさと、当時の苦い思い出を思い出すのが嫌だった。
配達を辞めてからは、自宅から御影の大道予備校まで長時間通うことになり、だんだん休みがちになった。
そして、共通一次試験初年の大学受験でも上手くいかず、希望の大学には行けなかった。

そんな、良い思い出の無い新聞配達だが、心に残る思い出がいくつかある。
その一つは、洋菓子工場の宿直のおじさんのことだ。
私が配っていた洋菓子工場の宿直のおじさんは、よく新聞受けにその工場で作る洋菓子を紙でくるんで置いてくれていた。
私はありがたくそれを頂き、配りながらほおばったりした。
その洋菓子にずいぶん慰められたし、たまにおじさんも声をかけてくれて励まされた。
しかし、そのおじさんもしばらくすると退職になってしまった。
その最後の日に、おじさんは待っていてくれて、挨拶してくれた。
私ははずかしながら、軍手をしたまま握手をしてしまった。
何も礼儀作法を知らない、未熟者と思われたかも知れないと今でも悔いが残っている。
都会の世知辛い町に、世間のことを何も知らない若者に暖かく接してくれる人がいるということを教えてくれた。
そのおじさんと洋菓子は、新聞配達をしていたからこそ知り得た思いやりだった。


2018年2月24日土曜日

ギター・マンドリンの音

今日(2/23)、久しぶりにギター・マンドリンの演奏を聴いた。
これは、私の勤める施設で合宿をして練習をしていた大学のクラブが、お礼にと職員のために演奏をしてくれたのである。
演奏曲は「浜辺の歌」だった。
この曲を聴いて、総務課の女性課長さんが逸話を聞かせてくれた。

課長さんがとある高校を離任する際に、吹奏楽部の生徒が課長さんのために演奏してくれたという。
それは、前もって先生が「どんな曲が好きですか」と聞いてくれていた。
課長さんは当時亡くしたばかりのお母さんが好きだったその「浜辺の歌」を答えたという。
事務方の課長さんは、学校の離任式には出られないので、3月31日にわざわざ吹奏楽部や、練習していたクラブの部員がこの曲で送ってくれた。
この曲を聴いて、課長さんは涙が止まらなかった。

今日、聴かせてもらった演奏は、偶然だがそういう一生忘れ得ない思い出を喚び戻すものだった。
寒い季節に、山の中の施設に籠もって練習を重ねた学生さんの優しい気持ちが伝わってきた。
私はかつて龍野実業高校でギターマンドリン部の副顧問をしたことがあった。
部員が集まらず、潰れかけていたが、音楽を愛する気持ちを持って何とか持ちこたえてがんばっていた。
この大学のクラブも一時より部員数は少ないそうだが、こうして維持できているのは、音楽に対する深い気持ちがあるからだと思う。

最近、貸しビデオで「オケ老人」を観て、考えさせられたのは、音楽は上手い下手では無くて、いかに心を通じ合える演奏ができるかと言うことだった。
当然、演奏が下手すぎても無理だが、優れているからといって、心が通じるとは限らない。
そして、課長さんの逸話では無いけれど、人生の深い思い出に結びついてくる。
私ももう一度日々の生活の中に、音楽を刻んでいきたいと思う。

帰って行く学生さんに「マンドリンの音は、この山の中に合っていたね」と声をかけた。
彼は笑顔で頷いた。




2018年2月20日火曜日

千種水汲み2018年冬

去年の秋に汲んできた水も無くなってしまった。
今年は非常に寒いので、千種まで水を汲みに行けるか心配した。
かつて、冬に水汲みに行った時に駐車場にも雪が溜まっていたりしたことがある。
何よりも、凍結して水が出ないのではないかと思った。
家内は以前に千種町に問い合わせたことがあるが、その日によって出ないことがあると言われたという。
千種川監視のライブカメラで付近の様子を見たが、思ったより雪は無さそうだ。
行って駄目なら、ドライブに出かけたと思って諦めることにした。
今日(2/17)、出かける時は上郡も冬空の天気で、晴れてはいたが風が吹きすさんでいた。

千種に近づくに従って、空が曇ってきて、路面が濡れてきた。
さすがに、南光町のキャンプ場でテントを張っている人はいなかった。
ただ、スキー場に向かう車や、帰ってくる車に出会うことは無かった。
時間が昼前だから少ないとも思えるが、以前と比べるとスキー客は減ったことを感じる。
以前は冬場の娯楽はスキーくらい無くて、若い人は誰でもスキーを楽しんだと思う。
スキーをしなくても、子供を連れて雪遊びを楽しんだ。
今は、マラソンブームで冬場はレースも多い。
また、ゲームやスマホで暖かい室内で楽しんでいる人も多いのだろう。
とにかく、前も後ろも車のいない道路を車は走った。

千種町に入ると雪が散らつき始めて、雪国であることを実感させた。
道路端に雪は残ってはいるが、大した量では無い。
水汲み場付近にも雪はそれ程積もっていなかった。
ただ、雪が降り注ぐ中、じっと水を入れることになった。
いつも使う向かって右にある給水販売機は100円入れても水は出ないどころが、お金も返ってこなかった。
左手の販売機につなぎ直すと普通に出たのでほっとした。
雪の中を指がかじかみ、フタを閉めるのも手間取りながら何とか入れていった。
途中で車がやってきて、出てきた年配の男性と話をしたが、この上にも水汲み場がスキー場の所以外にもう一つあるようだった。
その人はそちらの方に向かった。

水を汲み終わり、車に乗り込んでかじかんだ手を温めた。
昼も過ぎていたし、寒いので道の駅に立ち寄る気にはなれなかった。
雪は来た時よりも多くなっていた。
ところが、南光町あたりから景色は一変した。
雪国から脱出して、まるで南国に来たようだ。
南光町とはよく言ったものだ。
千種から戻ってくる者には、光注ぐ南の町なのである。
それから室内は暖かくなり、ドライブらしくなった。

上郡に戻ってくると、今度は風の強さがひどく感じるようになった。
風の吹きすさぶ中を家にの中に水を入れた容器を運び入れた。

雪国に行ったことを実感できた水汲みになった。