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2018年4月15日日曜日

プールの主

4月になって初めて上郡のプールに行った。
去年買った年券は既に期限が切れていたので、利用券を1枚買った。
これから先、あまり利用できそうに無いので、年券も回数券も買わないことにした。
プールにはいつもの二人が、練習をしていた。
その一人、M氏はこのプールの主のような人で、私がここで泳ぎ始める以前からの利用者である。
その前は、町の職員としてこのプールの管理をしたり、指導をしたりしていた。
今は3年程前に早期退職して、ほぼ毎日泳ぎに来ている。
私も、去年は再就職する前では、同じように毎日のように泳ぎに来ていた。

考えてみれば、当時から顔なじみの人は数人しかいない。
受付の人も、監視員も、そしてスイミングスクールのコーチも変わってしまった。
スイミングスクールは町と契約して請け負っているが、よく業者が替わる。
そして、去年から新たに入った業者は今年も継続しているが、顔なじみの若い男性コーチは1年で辞めてしまったそうだ。
私は、最初は相生のプールで泳いでいた。
子供がそこのスイミングスクールに通っていて、その傍で泳いでいた。
20年程前に上郡高校に赴任し、水泳部の顧問となって、上郡のプールを冬場に利用させてもらうようになった。
子供も相生のスイミングスクールから上郡のスイミングスクールに替わり、スクールとも良いお付き合いをさせてもらった。
M氏とはその頃からのお付き合いで、一緒にマスターズチームに所属しレースに参加していた。

その後、私は兵庫県立大学附属高校に替わり、そこでも水泳部の顧問として上郡のプールも利用させてもらった。
顧問としてのプールの利用をしなくなっても、たびたび泳ぎに来ては元気な仲間に会うのが楽しみだった。
そんな仲間も一人減り、二人減りとなって、知った人が4~5人となってしまった。
その間にもスクールのちびっ子たちはどんどん成長し、巣立っていった。
中には近畿大会や全国大会に出場して活躍した選手もいる。
また、M氏の息子さんのように、就職した後でも毎日泳ぎに来ているスクールの選手の卒業生もいる。
彼とも時々プールで会って、そばで泳いだり話をするのが楽しみだ。
本当はかつて世話になったコーチなども会いたいのだが、会えないのが残念だ。

泳ぎ疲れて、プールのスタート台下で水面をながめながら、かつての様子を思い出すことが多い。
色んな風景が蘇る。
プールの中の風景は昔と同じままだからだ。
そうしながらふと思ったのは、自分たちはこのプールの主のような存在なのかなと言うことだ。
池や沼の主のような鯉やウナギのように、長くそこに生き続けているのが自分たちなのかなと思う。
稚魚たちは川をつたって、大海に出て行く。
年老いたり傷ついたものはいつしか消えていく。
残った池の主である魚の主の中の主が、M氏なのだろうと思う。
いつか、かつての選手たちが、子供を連れてやってきてくれるかもしれない。
長く同じプールでそれを楽しみにしているのが、私たちなのである。


2018年4月14日土曜日

三月の節句と潮干狩り

上郡に移り住んでから、海との関わりがあまり無くなってしまった。
生まれ育った赤穂は身近に海と川があり、海産物にあふれていた。
今は高級品のようになってしまった穴子などは、母親が七輪でよく焼いてくれた。
毎日のように穴子が続くので、「また 穴子か」と思っていた。
また、シャコやカレイ、エビ、小ぶりの蟹なども鍋いっぱいに炊いて食べた。
今、それを今しようとすると肉よりもよっぽど高くつく。
因みに、小学生頃は牛肉は年に数回食べられるもので、普段はかしわ、たまに豚肉だった。
鶏は家でも飼っていた。

女の節句は地元では月遅れの4月3日にしていた。
そもそも、その日に食べるよもぎ餅は、新暦の3月頃にはあまり生えていない。
女の節句と言えば、よもぎ餅を思い出す。
そして、野遊びとして弁当を持って貝掘りに出かけたりした。
これは、大学時代から村落調査に出かけた奄美の3月3日の節句と通じる。
奄美や沖縄ではこの日に海に出て潮干狩りをする。
潮干狩りと言っても、砂浜のアサリを掘り起こすのではなくて、潮の引いた磯などで魚介類を獲るのである。
潮が引くと、珊瑚の磯についている貝などを拾えるし、穴に入ったタコもつかまえられる。
地元赤穂でやっていた潮干狩りとは桁違いのダイナミックさがある。
ただ、赤穂のアサリの味は奄美の魚介類よりも勝っていたと思っている。
(残念ながら今年は貝毒の影響で、西播地域の貝は食べられない)

私が奄美に惹かれたのも、子供の頃の行事に通じる物が残っていたからでもある。
海のそばに生活していた人々の同じ風習は遠く離れていても共通している。
ただ海の無い地域に住んでいる人にとっては、海で釣りなどをすることは特別の楽しみでもあるようだ。
私は小さい頃から、潮干狩りや釣りは日常のものだったので、生活の一部のように感じている。
だから、多くの金をかけて船釣りや釣り堀に行きたいとは思わない。
去年は赤穂でSUPをしながら、アサリなどをついでに獲った。

先日(4/8)は急に思い立って、赤穂の海に出かけた。
亀の手でも獲って食べようと思ったからである。
子供の頃は食べようと思わなかったが、アサリがあまり取れなくなったので、獲って食べてみると意外にいける。
それはあくまで海に行く言い訳で、海に行くと気持ちが晴れるからである。
木造運搬船に乗せられ、子供の頃から海に親しんでいた自分には、海に行くと気持ちが落ちつく。
かつて名古屋や東京に住んでいた頃も、気分が滅入るとよく行った。
今回は、亀の手以外にも流れてきたわかめも獲ってきた。
1m以上もあるわかめが根がついたまま流れ着いていた。
このように、魚介類を獲ることによって、ボーと海を眺めるより、もっと海に親しめる。
そして、海から戻ると、いつもの風景が違って見えるから不思議だ。
何よりもそれが、一番の収穫なのである。
今度は、昔の頃や奄美と同じように、旧暦の3月3日頃に行ってみようと思っている。


2018年4月12日木曜日

年金より安い給与

私の母親は亡くなった父親から受け継いだ年金で暮らしている。
銀行に振り込まれた年金を毎月定額引き出して、母親に届けるのが私の役割である。
以前、父親が亡くなった時に、私の被扶養者にしようとして書類を揃えたら、年金の額が多いので被扶養者にできなかった。
父親は65歳まで働き続けたので、その分、年金額も多かった。
その年金を受け継いだので、母親の受け取る年金はそこそこの額がある。
以前は、母親に私の息子の給与より年金の方が高いと言っていた。
息子は介護の仕事をしているが、正社員では無い。
結構、夜勤をしているのだが、母親の年金よりも低い額だった。

今日、職場で扶養者の話が出た。
その中で、現在の私の給与は手取りでは、母親の年金より低いと言うことに気がつかされた。
給料を計算してくれている事務の人には
「うちは 給料は安いもの」と、こと無げに言われてしまった。
「ああ そうか 自分は母親の年金以下でこの仕事をしているのだ」
と、我ながら哀れさを感じた。
繁忙期には、非常に忙しくて、先日も昼ご飯をまともに食べられなかった。
以前勤めていた若い職員でも体重が7kgも減ったという過酷な現場
臨時雇用の職員の給与は年齢関係なく同じである。
母親の年金は高いと言っても、私の給与の方が総額は上で、諸経費を引かれて手取りになると私の方が低くなる程度である。

ただ、この歳になると再雇用は難しく、近所の人でも殆どの人は退職後は再雇用される人はいない。
私の場合は早期退職なので、年金支給までの生活のために必要なので無理をしてでも働いている。
最も深刻だったのは、昨年の収入額によって住民税の額が決まるので、3ヶ月分の住民税は私の1ヶ月分の給与となった。
私は3ヶ月分の住民税は払うために、1ヶ月働いたことになる。
ということは、4ヶ月働いてやっと退職後1年分の住民税と言うことである。
江戸時代は5公5民だったが、退職後に関しては住民税は4公8民ということになる。
当然、所得税なども払っているので、もっと納税分が多い。
去年まで給与がそこそこ高かったから仕方ないが、改めて税というものの厳しさを考えさせられた。

ただ、いくら年金暮らしで不安なく楽に暮らせても、母親のように医療費などに多くを費やす状況は幸せとは良いづらい。
近所の年金暮らしのみの人は、気楽そうに見えるのだが、それほど生き生きしているとはあまり感じない。
年金をもらいながらも、農作業やアルバイトで収入を得ている人の方が元気そうだ。
要するに仕事は収入額だけの問題では無く、健康を損なわないことを前提として、生活に活力を与えられるかどうかだと思う。
現在の私は、慣れない仕事に生活の活力も奪われている状況でもあるが、もう少し我慢してみようと思っている。
今年からは住民税も下がるので、税金を払うために必要な額の仕事をしないで済む。
給与の額よりも、研究や生活が充実できる仕事をしようと思っている。
今の仕事がそうなってくれればと思うが、たとえそうなっても期限付きであることも確かだ。
年金支給までと言うだけでなく、死ぬまでの人生設計を立てねばならない。
これからは学校の家庭科の授業でも教えるそうだ。
はたして、役に立つのだろうか?
今の職場の若い人を見ていると、今を生きるのが精一杯のような気がする・・・





2018年4月9日月曜日

黄昏れて分かる親父

この桜の季節になると亡くなった親父を思い出す。
調子が悪くなって、通院に付き添っていたのもこの頃だし、亡くなったのもこの頃だった。
私は幼かった頃は、結構父親に可愛がられていたと思う。
どこに行くのも、自転車やバイクに乗せられて連れていってもらった。
ところが、ガキ大将だった私は、だんだんと反抗的となり、高校時代は毎日のように口げんかをしていた。
それは、親父の仕事や生活ぶりが自分には尊敬や威厳を感じなかったことも大きい。
肉体労働の職工で、家に帰ると酒を飲んでテレビを見るのが楽しみだった。
特に、プロレスやボクシングが大好きで、それがかかると食い入ってみていた。
そして、年取ってくると、今の私も同じだが酒を飲んで寝てしまうことが多くなった。

父親は何事にも細かい性格で、家計も父親が握っていた。
母親は逆に大雑把で、父親には頼り切っていたように思う。
父親との関係が悪化したのは、私がバンド演奏にのめり込んでいった頃からである。
私に限らず、兄弟は母親と同じ歌好きだった。
私学の高い授業料を払ってもらいながら、私は勉強もまともにせずに、バンド練習にのめり込んでいった。
それにともない、成績もどんどん悪くなっていった。
私はプロになりたい夢はあったが、それ程甘い世界でも無いことも知っていた。
だから、そこそこ良い大学に入ってからバンド活動を続けようと甘い考えを持っていた。
その程度だったから案の定、大学に入って軽音楽部に入ったが、直ぐに止めてしまった。
父親にとっては、バンド活動こそエリートコースを踏み外した原因と思っていたようで、それを許した母親を責めることもあった。
掛け替えのない音楽を理解せず、母親を責めるそういう父親には強い反感を持っていた。
実は、その父親は老後の一番の楽しみが、民謡やカラオケだったのだから、歌が老後には掛け替えのないものになっていた。

そんな父親に対しても、自分が所帯を持った頃から、自然に構えないで関われる関係になった。
そして、自分が早期退職してしばらく無収入になって、父親の家族に対していかに尽くしてきたことを思い起こすことが多くなった。
父親は4人も息子を大学に進学させて、結婚させた。
家だけで無く、田畑を自分で増やしていった。
高度経済成長時期であったという好条件だけで無く、寸暇を惜しんで働いていた成果のように思う。
それに対して、私は子供は二人大学に入れただけだし、まだ結婚もさせていない。
家は建てたが、田畑は増やしていない。
自分は父親以上の成果に及んでさえいないのである。

今の高校にあたる赤穂中等学校を祖父に中退させられ、家業の木造運搬船に乗りその後企業に転職した父親。
中卒資格の父親に対して敬意を表してこなかった自分が恥ずかしく思えるようになった。
人付き合いが苦手で、子供の教育費が必要な頃はひたすら働いていて、甲類の安い焼酎を楽しみにしていた。
その焼酎が後に脳梗塞の原因となり、77歳で亡くなることになった。
決して賢明な生き方では無かったと思うが、精一杯父親なりに生きたと思う。
黄昏れた今頃になって、それが分かるようになるとは情けないが、それも順送りかなとも思う。
父親は、厳格でわがままな祖父のことを、良く言うことはあまりなかった。
祖父は父親と一緒に船に乗り、厳しく仕事を教え込んでいたこともある。
一家の中心として働くことの厳しさを教えるのが父親の役割だったのだと思う。
従来、父親とは子供にとって、そういう存在だったのかも知れない。
死んでからでも、存在価値が分かってくれればそれで良い役割なのだろう。
写真は木造運搬船の上での父親と私


2018年4月7日土曜日

農ある生活2018春

春になって、周りの人たちは家から出てきて畑や田で農作業をし始めた。
定年退職した人などは、こういう農村でも冬場は、家に閉じこもっている人も多い。
近所の知人は一冬で太ってしまったと、突き出たおなかを撫でていた。
冬場も、中には毎日欠かさず散歩をしている人もいたが少なかった。
やはり、春になって暖かくなると途端に増えてくる。
まるで、冬眠から目覚めた蛙や熊のようである。
やはり、きっかけは桜の花を見に行きたいと言うこと。
同じ散歩をするなら、桜の咲く道を歩こうというものである。
散歩の途中では、農作業をしている人に声をかけたりする。
散歩をしている内に知り合ったり、いつも見かけている人であり、殆どは名前も知らない。
元々地元の人は、互いに名前やどういう人かを知っているが、私のように移り住んだ者は互いに知らないが気軽に話せる。
「何を植えるんですか」「菊です」
ある散歩で知り合った人は兼業農家で、出荷用の菊も親子で栽培している。

散歩でよく会う近所の人の中には、道ばたで話し込んでいるのをたまに見かける。
散歩は単に歩くだけが目的では無い。
人と挨拶をしたり、話をしたり、道ばたの食用になる物を採ったり拾ったりする。
私のように犬の散歩をしている人もいるが、近所の人は私と違って家の周りだけである。

散歩が終わると、晴れた日は畑に出て作業をする。
晴れているのに、家の中にいると気が滅入るような気がするからである。
本当は勤めのない日は、執筆や研究を進めるべきなのだが、この季節は駄目である。
勤めのストレスを解消するには、私は机より畑である。
先日は、畑のそばのセリも摘んできた。
以前摘んだヨモギは、天日で乾燥させて、焼酎に漬けたり、お茶にして飲んでいる。
定年退職した近所の友人も、畑仕事と趣味のギターで明け暮れているが、よもぎ酒を教えて上げた。
そろそろ、タラの芽が出そうかなと楽しみにしている。











2018年4月5日木曜日

金の無い大学生活

私の大学生活は物置暮らしから始まった。
国公立大学に合格できなかったので、授業料を出してもらうだけでやっとで、名古屋の叔父を頼っての進学だった。
叔父の家に間借りすることも提案されたが、大学から遠いし気兼ねなので、叔母が経営していた喫茶店の裏にある物置に住むことになった。
もともと、そこはアパートで住まいにしていたのだが、その頃は従兄弟の勉強部屋兼物置になっていた。
そこに居候して、叔母の喫茶店で食事を頂いていた。
しかし、そんな不自由な生活も半年で終わり、同じ学科の友人に誘われて、友人の二間あるアパートの一つをシェアさせてもらった。
その友人は大学を再受験して出て行く予定だったが上手くいかず、色々あって結果的には私がその部屋を半額で住むことができるようになった。
大家さんは子供のいないご夫婦で、風呂は無いが2DKの部屋を、ありがたいことに1万円で貸してくれた。

私は授業料は出してもらっていたが、特別奨学金36,000円と仕送り20,000円で暮らさねばならなかった。
つまり、部屋代を1万円払って、46,000円で暮らさねばならなかった。
アルバイトも色々やったが、クラブ活動のために固定したものはしなかった。
文化人類学研究会というクラブに入っており、村落調査の費用もかかったので貯金する必要もあった。
そこで、食費を極力減らして、極力倹約する生活をした。
朝食は主にパンの耳を食べ、昼食は学食をつかい、ご飯と冷や奴で155円で済ませた。
夕食は自分で作ったカレーや、卵ご飯、インスタントラーメンが多かった。
ただ、夜は友達の下宿に遊びに行って、金を出し合って飲んだり、安い焼き鳥屋で飲み食いする楽しみもした。
また、当時付き合っていた下宿暮らしの彼女から、下宿のまかないの夕食をたまに頂くお裾分けがご馳走でもあった。
下宿暮らしの友人も貧しい者が多く、近くの池で藻をとってきたり、飼っていた観賞魚やドジョウを食べたりする者もいた。
しかし、貧しくて辛いという思いは無く、貧しさを互いに自慢して愉快に暮らしていた。
そして、そんな我々に最大のご馳走をしてくれたのが大学の先生で、ボーナスの時にはウナギのフルコースを食べさせてくれたりした。
コンパも必ず参加して、ゼミのコンパの二次会は大学の先生の奢りで普段に無い贅沢をさせてもらった。

風呂も冬場は1週間に2回ほどで、夏場は大学のプールのシャワーに石けんやシャンプーを持ち込んで洗った。
服もジーパンとトレイナーを数枚使い回し、冬場はどてらを大学にも着ていった。
夏場の履き物は下駄が主で、安い雪駄を履いたりもした。
一番恥ずかしかったのはパンの耳を買う時で、普通の食パンを買うついでに30枚ほど5円で買った。
当然、食パンよりパンの耳が目的で、パンの耳がある時しかそのパン屋さんでは買わなかったので目的はバレていた。

こんな生活をしていても、本代(多くは古本)はケチらなかったし、一年に2度奄美諸島の与路島に部員と村落調査に出かけていた。
神戸からフェリーの二等室を使い、与路でも1泊3食付き3,000円の民宿を使ったり、家を借りて自炊したりした。
調査は2週間が普通だったので、7~8万円ほど使っていたことになる。
メンバーの中には、名古屋大学医学部の女性もいたが、彼女は帰りはひとり飛行機を使っていた。
村落調査は決して楽なものでは無かったが、仲間と充実した日々が過ごせて掛け替えのない経験となった。
何よりも、自分にとってはその後の人生を変えるものとなった。
だから、日頃の貧しい生活もこの村落調査の目的があったので、全く苦にならなかった。
決してその村落調査がその後の生活を約束していたわけでは無い。
ただ、自分を夢中にさせてくれる魅力がそこにあり、そして今の自分につながった。
だから、自分は苦学生だったとは思ってないし、金が無かったことに拘りは無い。
ただし、国公立に進学した弟は、その分仕送りも多く生活が楽だったので、羨ましくは思っていた。
こんな私でも、結果的には希望する大学院の進学ができ、研究職には就けなかったが教職には就けた。
金は無かったが、貧しさを愉快に思い、村落調査を夢中でやりながら過ごした大学生活の成果でもあるのかなとも思う。





2018年4月2日月曜日

岡山でのカルチャーショック

岡山県で働き出して、3ヶ月経とうとしている。
そろそろ慣れてきたところだが、なかなか慣れないことも多くある。
岡山弁もさることながら、気質がこれほど違うものかと思い知らされた。
30年間も西播磨で仕事をしていたので仕方ないといえば仕方ない。
思い出したのは、入学した大学が名古屋にあって、その時受けたカルチャーショックだ。
岡山県の人も知っているが、名古屋弁と岡山弁は似たところがある。
奈良や京都からのを中心とした距離が同じくらいにあり、関西文化圏と接していることも共通している。
言語が古墳時代までに遡るかどうか分からないが、尾張出身の藩主池田氏とは関係ない地域でも似たような状態のようだ。
ただ、広島出身の家内の両親や親戚と話していて、名古屋弁との共通性を感じてこなかった。
また、広島は移民も多く、家内の両親のように他県への転出も多い。
しかし、岡山は県内に留まる人が多く、名古屋とも似ている。
職場の臨時職員の若い人に、兵庫県の方が賃金も高いし、職場も多いからと兵庫県での転職を薦めても嫌がられる。
どうしても県内に留まりたいようだ。

私に関しては岡山に対する偏見など無く、むしろ親しみを持っていた。
姫路にあった母校の中学・高校の同級生にも岡山県の生徒がいたからである。
しかし、岡山の人は兵庫に対しては距離感を持っているようだ。
これは兵庫の方も一般の人は、それ以上に距離感を持っていることも確かである。
岡山の人以上に、兵庫の人は岡山に足を運ぶことは少ないと思う。
それは電車の便を見ても分かるし、広告やイベント情報などでも分かる。
それには、やはり言葉の問題が大きい。
関西人はどこへ行っても、関西弁を使う。
現に私も職場で播州系関西弁を使っている。
先日、「すんません」という言葉を注意された。
私は親しみを込めて使ったのだが、岡山では安易に使うと怒りをかうようだ。

名古屋で受けたカルチャーショック程では無いにしても、適応力の落ちた今の年齢では結構大変である。
名古屋は経済的には先進地域だったので、からかったり馬鹿にしても問題は無かった。
「大いなる田舎」「文化不毛の都市」とか、「みゃー みゃー猫みたい」とテレビなどでも揶揄されていた。
しかし、関心度全国35位の今の岡山をからかうと良い関係を損なう。
岡山には誇れる物や、良いイメージが必要だと思う。
姫路に関しては品行や治安で、結構悪く言われることも多いが、世界に誇れる姫路城がそれを払拭している。
姫路城に匹敵できる象徴が岡山には残念ながら無い。
赤穂に関しても、こんなちっぽけな町でも、全国に通じる忠臣蔵がある。
一方、岡山は横溝正史の「八つ墓村」「獄門島」の世界になってしまう。
因みに横溝正史自身は兵庫県神戸市出身というのも皮肉である。
今の岡山のイメージを高め、からかわれる程強くなれるにはどうすれば良いのか。
そうなれば、私も気を遣わずに会話ができる。
岡山県の観光大使になったブルゾンちえみに託すしか無いのだろうか・・・・