私は社会教育施設で、新入生のオリエンテーション(研修)に立ち会う機会が多い。
そこで思い出したのは、自分が淳心中学部の一年生の時に受けたオリエンテーションだ。
たぶん、それは入学式前の春休みに行われた。
場所は姫路仁豊野のカトリック淳心の家だった。
後に一時はベトナム難民定住支援施設である姫路定住促進センターを開設されたところである。
オリエンテーションは高校3年生の先輩が中心に行ってくれていた。
当時は、学生運動が盛んなころで、おそらく学生自治の一環として行われていた。
オリエンテーションは、生徒中心に行われ、教師は付き添いのみが数人いたように思う。
そこで、先輩から教わったことは殆ど忘れたが、記憶に残っているのは、その施設は神父さんが日本語の勉強をしたということ。
嘘か誠か分からないが、亡くなった神父さんの幽霊が出るということ。
そして、先輩が踊りながら歌ってくれた、「鬼のパンツ」である。
鬼のパンツは良いパンツ 強いぞ 強いぞ
5年はいても 破れない 強いぞ 強いぞ
という、あの有名な「鬼のパンツ」の歌である。
他にも、学生運動や学生自治のことも教わったと思うが、殆ど思えていない。
因みに、その年の学園祭「淳心祭」には、「淳心解体」と窓から垂れ幕が下ろされ。
教室にはベトナム戦争を考える展示や討論もなされていた。
そして、東大から来たという全学連の卒業生がシュプレヒコールをあげていたように記憶する。
今では考えられない学校の生徒自治は、受験戦争の中で消滅していった。
生徒自治でなされたオリエンテーションを受けた新入生は、その後見事に受験戦士に変身していったのも皮肉である。
名誉ある受験戦士になれなかった私は、「鬼のパンツ」を今も口ずさんでいるのだが・・・
播磨の西外れにある私の生まれ育った赤穂や、今暮らしている上郡に関すること、農作業,山野河海の恵み、趣味の水泳、音楽、専門である有機農業や、教育、文化人類学、民俗学に関することなどを、きままに記してみます。
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2018年4月22日日曜日
2018年4月21日土曜日
パチンコと投資
週末のパチンコ屋の前を通るたびに、駐車場に多くの車が置かれているのに驚く。
パチンコに全く興味のない自分にとっては、せっかくの休みになぜ不健康なギャンブルに夢中になるのだろうと思う。
ただ、以前勤めていた学校の教師の中にも、パチンコが大好きな人もいて、様子を聞いていたのでその麻薬的な魅力も分からなくはない。
普段の生活の中で、これほど刺激的な遊びはそうないのかも知れない。
一瞬にして、一日分の給料以上の報償が得られるわけだから。
近所の知り合いに、金融機関に勤めていた友人がいた。
彼は職業柄、金の計算には細かく、家では家計も自分で握っていたという。
ところが、ことパチンコになると計算が狂うらしく、収支決算は完全に赤字で、貯蓄しておけば庭に蔵が建つくらいつぎ込んでしまった。
ギャンブルとは、そういう冷静な計算を麻痺させてしまう、魔力があるようだ。
私が魔力にとりつかれなかったのは、小さい頃から両親から競馬やパチンコなどのギャンブルを犯罪のように教えられてきたからかも知れない。
それに対して、株や為替などの金融投資はどうなのだろうか。
これも父親が株で損をしたことで、投機目的の方は罪悪感が強く、配当目的の社内株のみ親は買っており譲り受けた。
以前勤めていた職場では、投機目的の株に夢中の人がいて、常に株価をチェックしていた。
彼は2億円儲けたら、仕事は辞めると言っていたくらいだから、相当の収益を上げていたようだ。
こちらは、パチンコと違って社会情勢などや、投資家の駆け引きを知っておかねばならず、気晴らしにはならない。
ただ、パチンコの偶然性よりもリスクは低い。
村の中ではやはり、パチンコをする人は多いが、株をやっている人はあまり聞かない。
学校の職員には、パチンコをする人も株をやる人もいたがパチンコも株も少数派だった。
いずれにしても、仕事とは違う刺激的な収入が得られる機会なのである。
こういう機会を得ることで、雇われの身から解放されているのかも知れない。
私も、家内の勧めもあって退職金を幾ばくか投資に回したが、その値動きで額面では今の安い月給以上の損害を出すことにも慣れた。
汗水垂らして得るお金と、投資の金は別物だと考えるようにした。
だから、これはささやかに自由人であることのリスクと考えようとも思う。
パチンコなどのギャンブルも、あまり割に合うとは思えないが、自由人であることの証なのかも知れない。
問題なのは、収入も得ない学生や、収入の少ない勤労者が、単にその刺激にとりつかれて、ギャンブル中毒になることだ。
投資にせよ、ギャンブルにせよ、大きな権力によって仕組まれているものなので、その仕組まれた魔力にとりつかれると自由を失う。
単に、愛の奴隷ならぬギャンブルの奴隷になってしまう・・・
パチンコに全く興味のない自分にとっては、せっかくの休みになぜ不健康なギャンブルに夢中になるのだろうと思う。
ただ、以前勤めていた学校の教師の中にも、パチンコが大好きな人もいて、様子を聞いていたのでその麻薬的な魅力も分からなくはない。
普段の生活の中で、これほど刺激的な遊びはそうないのかも知れない。
一瞬にして、一日分の給料以上の報償が得られるわけだから。
近所の知り合いに、金融機関に勤めていた友人がいた。
彼は職業柄、金の計算には細かく、家では家計も自分で握っていたという。
ところが、ことパチンコになると計算が狂うらしく、収支決算は完全に赤字で、貯蓄しておけば庭に蔵が建つくらいつぎ込んでしまった。
ギャンブルとは、そういう冷静な計算を麻痺させてしまう、魔力があるようだ。
私が魔力にとりつかれなかったのは、小さい頃から両親から競馬やパチンコなどのギャンブルを犯罪のように教えられてきたからかも知れない。
それに対して、株や為替などの金融投資はどうなのだろうか。
これも父親が株で損をしたことで、投機目的の方は罪悪感が強く、配当目的の社内株のみ親は買っており譲り受けた。
以前勤めていた職場では、投機目的の株に夢中の人がいて、常に株価をチェックしていた。
彼は2億円儲けたら、仕事は辞めると言っていたくらいだから、相当の収益を上げていたようだ。
こちらは、パチンコと違って社会情勢などや、投資家の駆け引きを知っておかねばならず、気晴らしにはならない。
ただ、パチンコの偶然性よりもリスクは低い。
村の中ではやはり、パチンコをする人は多いが、株をやっている人はあまり聞かない。
学校の職員には、パチンコをする人も株をやる人もいたがパチンコも株も少数派だった。
いずれにしても、仕事とは違う刺激的な収入が得られる機会なのである。
こういう機会を得ることで、雇われの身から解放されているのかも知れない。
私も、家内の勧めもあって退職金を幾ばくか投資に回したが、その値動きで額面では今の安い月給以上の損害を出すことにも慣れた。
汗水垂らして得るお金と、投資の金は別物だと考えるようにした。
だから、これはささやかに自由人であることのリスクと考えようとも思う。
パチンコなどのギャンブルも、あまり割に合うとは思えないが、自由人であることの証なのかも知れない。
問題なのは、収入も得ない学生や、収入の少ない勤労者が、単にその刺激にとりつかれて、ギャンブル中毒になることだ。
投資にせよ、ギャンブルにせよ、大きな権力によって仕組まれているものなので、その仕組まれた魔力にとりつかれると自由を失う。
単に、愛の奴隷ならぬギャンブルの奴隷になってしまう・・・
2018年4月20日金曜日
家庭訪問
この季節は小学校、中学校の多くでは家庭訪問を行っている。
子供が小学生、中学生の頃は、それに備えて家内は家を掃除したり、花を飾ったりしていた。
その意味では、家がきれいになる良い機会であった。
私は高校採用だったので、本来は家庭訪問は特別指導以外にはあまりない。
ただ、特別支援学校は高等部であっても小・中学部と同じように行うし、職業高校では担任として全家庭に家庭訪問を行った。
それは、家庭の様子を知っておいた方が、その生徒を良く理解できると言うことだった。
職業高校では、土木科の担任をしていたが、土木科長の勧めで夏休みに家庭訪問を行った。
通学範囲が広いため、東は姫路の広畑から南は御津、そして北は安富、西は相生まで駆け巡った。
元気者の土木科の生徒は、自分の家や住んでいる地域を知ってくれていることで、親しみを感じてくれるようだった。
ただ、中には訪問を拒んで、結局マンションまで行っても出てくれなかった家もあった。
その生徒は父子家庭で、DVが行われている可能性があって、保護者と是非会いたかったが、結局会えなかった。
他にも、訪れても玄関口で立ち話程度で、来て欲しくないかったという態度の母親もいた。
しかし、高校での家庭訪問を不思議ながらも、多くは歓待してくれた。
私自身、家庭の様子を知ることによって、その生徒の理解に非常に役になった。
特別支援学校は、家でどんな生活をしているかがよく分かって良かった。
学校での様子と、家での様子が大きく違う生徒もいた。
播磨特別支援学校は当時は全寮制で、遠く神戸の生徒もいて、神戸まで家庭訪問を行った。
その生徒の家は駅前で定食屋兼たこ焼き屋をしていて、昼ご飯をご馳走してもらったりもした。
ただ、自分には苦い経験があって、姫路の特別支援学校では福崎まで家庭訪問をした時、家が分からずうっかり歩道に車を駐めたままにしていた。
戻ってくると、しっかり駐車違反の札が貼ってあった。
罰金は1万8000円で、痛い出費となった。
これは、田舎の住まいの自分には、歩道に駐めておくというのは普通の感覚だったからだ。
後で考えたら、周りは田園風景だったが、近くに駅があった。
このように家によっては、場所が分かりづらく、車で路地裏まで入っていくのに苦労する場所もあった。
自分が小学校の頃は、担任の先生に道案内を頼まれたことがある。
地元出身ではなかった稲沢先生と一緒に自転車で家を回った。
当時住んでいた赤穂の尾崎は、道や家は地元以外の人には非常に分かりづらい所だった。
また、淳心学院では新入生の全家庭を必ず校長先生が一人で家庭訪問された。
校長先生はベルギー人で、当時の赤穂の尾崎で白人を見かけることはそれ以外ではあり得なかった。
ちょうど夕食時だったので、カレイの煮付けをお出しすると、上手に身を箸でそいで食べられたので驚いた。
当時はまだ古い作りの悪い家だったので、来てもらうのは恥ずかしかったが、今から考えるとありがたいことであった。
校長先生が家庭訪問することは、普通はどの学校でもあり得ないからだ。
学校と家庭を結ぶ家庭訪問は、家庭にとっても教師にとっても負担ではあるが、大切な行事のように思える。
近年、取りやめる学校も増えてきたようだが、お互いに理解できる良い機会のように思う。
ただ、仕事や生活に追い詰められている家庭には、それなりの配慮や許容も必要だとも思う。
以前、雨が降る中、玄関の軒先で雨に濡れながら話をしたこともあるが、それも仕方ないことだと思う。
家の中に入れてもらえなくても、中の様子は分かった。
それだけでも、大きな収穫であった。
子供が小学生、中学生の頃は、それに備えて家内は家を掃除したり、花を飾ったりしていた。
その意味では、家がきれいになる良い機会であった。
私は高校採用だったので、本来は家庭訪問は特別指導以外にはあまりない。
ただ、特別支援学校は高等部であっても小・中学部と同じように行うし、職業高校では担任として全家庭に家庭訪問を行った。
それは、家庭の様子を知っておいた方が、その生徒を良く理解できると言うことだった。
職業高校では、土木科の担任をしていたが、土木科長の勧めで夏休みに家庭訪問を行った。
通学範囲が広いため、東は姫路の広畑から南は御津、そして北は安富、西は相生まで駆け巡った。
元気者の土木科の生徒は、自分の家や住んでいる地域を知ってくれていることで、親しみを感じてくれるようだった。
ただ、中には訪問を拒んで、結局マンションまで行っても出てくれなかった家もあった。
その生徒は父子家庭で、DVが行われている可能性があって、保護者と是非会いたかったが、結局会えなかった。
他にも、訪れても玄関口で立ち話程度で、来て欲しくないかったという態度の母親もいた。
しかし、高校での家庭訪問を不思議ながらも、多くは歓待してくれた。
私自身、家庭の様子を知ることによって、その生徒の理解に非常に役になった。
特別支援学校は、家でどんな生活をしているかがよく分かって良かった。
学校での様子と、家での様子が大きく違う生徒もいた。
播磨特別支援学校は当時は全寮制で、遠く神戸の生徒もいて、神戸まで家庭訪問を行った。
その生徒の家は駅前で定食屋兼たこ焼き屋をしていて、昼ご飯をご馳走してもらったりもした。
ただ、自分には苦い経験があって、姫路の特別支援学校では福崎まで家庭訪問をした時、家が分からずうっかり歩道に車を駐めたままにしていた。
戻ってくると、しっかり駐車違反の札が貼ってあった。
罰金は1万8000円で、痛い出費となった。
これは、田舎の住まいの自分には、歩道に駐めておくというのは普通の感覚だったからだ。
後で考えたら、周りは田園風景だったが、近くに駅があった。
このように家によっては、場所が分かりづらく、車で路地裏まで入っていくのに苦労する場所もあった。
自分が小学校の頃は、担任の先生に道案内を頼まれたことがある。
地元出身ではなかった稲沢先生と一緒に自転車で家を回った。
当時住んでいた赤穂の尾崎は、道や家は地元以外の人には非常に分かりづらい所だった。
また、淳心学院では新入生の全家庭を必ず校長先生が一人で家庭訪問された。
校長先生はベルギー人で、当時の赤穂の尾崎で白人を見かけることはそれ以外ではあり得なかった。
ちょうど夕食時だったので、カレイの煮付けをお出しすると、上手に身を箸でそいで食べられたので驚いた。
当時はまだ古い作りの悪い家だったので、来てもらうのは恥ずかしかったが、今から考えるとありがたいことであった。
校長先生が家庭訪問することは、普通はどの学校でもあり得ないからだ。
学校と家庭を結ぶ家庭訪問は、家庭にとっても教師にとっても負担ではあるが、大切な行事のように思える。
近年、取りやめる学校も増えてきたようだが、お互いに理解できる良い機会のように思う。
ただ、仕事や生活に追い詰められている家庭には、それなりの配慮や許容も必要だとも思う。
以前、雨が降る中、玄関の軒先で雨に濡れながら話をしたこともあるが、それも仕方ないことだと思う。
家の中に入れてもらえなくても、中の様子は分かった。
それだけでも、大きな収穫であった。
2018年4月19日木曜日
一期一会の仕事
私の今の仕事は、一度会った人とはもう二度と会えないかも知れない仕事である。
学校の教師は特別な場合を除いて、最低1年間は生徒と関わる。
しかし、社会教育施設の指導員は、近隣のよく利用する学校などを除いて、一度限りの関わりになる。
本来は教師も授業は一期一会の気持ちで臨むべきなのだろうが、年間計画の一連の位置づけとして関わる。
この施設を利用する学校や企業などは、新1年や初任者の研修として利用する。
だから、一生に一度利用する人が多いようだ。
先日もある学校の生徒と二日関わって、最後に挨拶をした時に拍手を頂いた。
まるで、離任式のようだった。
教師にとっては、離任式はそう多くあるものでは無い。
それが、社会教育施設では何度と繰り返されるのかも知れない。
二日とか三日とか凝縮した時間に、大きな意味づけを与えようとするのがこの施設の役割である。
教師を長くやっていた者としては、多くの事を生徒に伝えたいという気持ちはある。
しかし、自分自身を振り返れば、授業風景の記憶はあまりない、
それよりも、臨海学校などの行事の記憶が鮮明だ。
食事になぞらえるなら、学校での授業が普段の朝昼晩の食事で、こういう施設の行事は滅多にないご馳走と言うべきかも知れない。
そういうご馳走を提供するのが私たち指導員の仕事なのだろう。
考えてみれば、そういう仕事は他にも多くあるように思う。
旅館やホテルなどは似たような仕事だし、交通機関の仕事もそれに近いのではないかと思う。
そういう仕事は多くは、裏方として目立たないことが多い。
私は指導員として学校の活動を別の角度で見てみるのは良い機会となった。
学校教師ではない立場で生徒や教員の様子を見ると、色々と気がつかされることが多い。
学校の中の教員の立場で見て、気がつかずにいたことが多いのである。
そして、自分自身が教師集団の一人として、形に拘り続けていたことも分かる。
一期一会とは元来茶道に関わる言葉で、どの茶会でも一生に一度のものと心得て、主客ともに誠意を尽くすべきという意味合いのものだと言う。
学校での授業のように日常化された学びの場と違い、こういう非日常の社会教育施設の方がそれを実現できる場のように思える。
それを担えることに、喜びを感じるべき仕事なのかも知れない。
ただ、現実的には学校の教員よりもかなり不遇であるのが実情である。
学校の教師は特別な場合を除いて、最低1年間は生徒と関わる。
しかし、社会教育施設の指導員は、近隣のよく利用する学校などを除いて、一度限りの関わりになる。
本来は教師も授業は一期一会の気持ちで臨むべきなのだろうが、年間計画の一連の位置づけとして関わる。
この施設を利用する学校や企業などは、新1年や初任者の研修として利用する。
だから、一生に一度利用する人が多いようだ。
先日もある学校の生徒と二日関わって、最後に挨拶をした時に拍手を頂いた。
まるで、離任式のようだった。
教師にとっては、離任式はそう多くあるものでは無い。
それが、社会教育施設では何度と繰り返されるのかも知れない。
二日とか三日とか凝縮した時間に、大きな意味づけを与えようとするのがこの施設の役割である。
教師を長くやっていた者としては、多くの事を生徒に伝えたいという気持ちはある。
しかし、自分自身を振り返れば、授業風景の記憶はあまりない、
それよりも、臨海学校などの行事の記憶が鮮明だ。
食事になぞらえるなら、学校での授業が普段の朝昼晩の食事で、こういう施設の行事は滅多にないご馳走と言うべきかも知れない。
そういうご馳走を提供するのが私たち指導員の仕事なのだろう。
考えてみれば、そういう仕事は他にも多くあるように思う。
旅館やホテルなどは似たような仕事だし、交通機関の仕事もそれに近いのではないかと思う。
そういう仕事は多くは、裏方として目立たないことが多い。
私は指導員として学校の活動を別の角度で見てみるのは良い機会となった。
学校教師ではない立場で生徒や教員の様子を見ると、色々と気がつかされることが多い。
学校の中の教員の立場で見て、気がつかずにいたことが多いのである。
そして、自分自身が教師集団の一人として、形に拘り続けていたことも分かる。
一期一会とは元来茶道に関わる言葉で、どの茶会でも一生に一度のものと心得て、主客ともに誠意を尽くすべきという意味合いのものだと言う。
学校での授業のように日常化された学びの場と違い、こういう非日常の社会教育施設の方がそれを実現できる場のように思える。
それを担えることに、喜びを感じるべき仕事なのかも知れない。
ただ、現実的には学校の教員よりもかなり不遇であるのが実情である。
2018年4月18日水曜日
屋根より低い鯉のぼり
お向かいの家では先日来鯉のぼりが、軒下で泳いでいる。
よく見てみると、兄弟二人の名前が書いているので、長男の後で次男の名前も書き足したようだ。
その鯉のぼりを見ると、息子のために買った同じような鯉のぼりを思い出した。
大きな鯉のぼりは、予算の関係で買えなかった。
ナイロン繊維製で、真鯉は長さ2m程で、緋鯉とセットで5万円ほどしたと思う。
だから、右の写真のように、玄関の軒下であまり泳げなかった。
私自身は、家には人からもらったという、古い薄汚れた大きな鯉のぼりがあったのを憶えている。
父親は、洗濯物を干すのに立てた垂木の上で泳がせていた。
だから、平屋の屋根より高い鯉のぼりだった。
今から思えば、当時屋根より高い鯉のぼりは、屋号を持つような裕福な家であった。
そんな中で、分家の父親は少々見栄を張ってくれたようだ。
近所で屋根より高い鯉のぼりをあげているのは、一軒のみである。
その家は、跡取りの息子家族と一緒に住んでおられる。
鯉のぼりを上げ下げするのは、おじいさんの仕事である。
屋根より高い鯉のぼりは、「うちには跡継ぎの孫がいるのだぞ」という、意味合いを持つようだ。
お向かいさんは、おじいさんが孫の顔を見ずに亡くなっている。
屋根より低い鯉のぼりは、そのことを表してもいる。
ただ、子供の健やかな成長を願う親の気持ちは、その高さとは関係ない。
どんな鯉のぼりでも、親の気持ちや、家族の気持ちが込められている。
よく見てみると、兄弟二人の名前が書いているので、長男の後で次男の名前も書き足したようだ。
その鯉のぼりを見ると、息子のために買った同じような鯉のぼりを思い出した。
大きな鯉のぼりは、予算の関係で買えなかった。
ナイロン繊維製で、真鯉は長さ2m程で、緋鯉とセットで5万円ほどしたと思う。
だから、右の写真のように、玄関の軒下であまり泳げなかった。私自身は、家には人からもらったという、古い薄汚れた大きな鯉のぼりがあったのを憶えている。
父親は、洗濯物を干すのに立てた垂木の上で泳がせていた。
だから、平屋の屋根より高い鯉のぼりだった。
今から思えば、当時屋根より高い鯉のぼりは、屋号を持つような裕福な家であった。
そんな中で、分家の父親は少々見栄を張ってくれたようだ。
近所で屋根より高い鯉のぼりをあげているのは、一軒のみである。
その家は、跡取りの息子家族と一緒に住んでおられる。
鯉のぼりを上げ下げするのは、おじいさんの仕事である。
屋根より高い鯉のぼりは、「うちには跡継ぎの孫がいるのだぞ」という、意味合いを持つようだ。
お向かいさんは、おじいさんが孫の顔を見ずに亡くなっている。
屋根より低い鯉のぼりは、そのことを表してもいる。
ただ、子供の健やかな成長を願う親の気持ちは、その高さとは関係ない。
どんな鯉のぼりでも、親の気持ちや、家族の気持ちが込められている。
2018年4月17日火曜日
ブラタモリの誘致
私は毎回放送されるブラタモリを楽しみにしている。
日本各地の名所を、地質を中心にして面白く紹介してくれているからだ。
地質そのものだけでなく、それと関連する動植物も多く登場する。
そして、そこに培われた人々の生活の営みがよく分かる。
単なる名所案内に留まらない、奥深い歴史の解説でもある。
私は残念ながら、地質学には疎い。
日本各地の名所を、地質を中心にして面白く紹介してくれているからだ。
地質そのものだけでなく、それと関連する動植物も多く登場する。
そして、そこに培われた人々の生活の営みがよく分かる。
単なる名所案内に留まらない、奥深い歴史の解説でもある。
私は残念ながら、地質学には疎い。
最近では、赤穂が「恐竜時代のカルデラの中にできた町だったことが判明」http://www.aist.go.jp/aist_j/press_release/pr2016/pr20160808/pr20160808.html
というニュースで、国内最大級の第四紀カルデラである阿蘇カルデラや姶良カルデラに匹敵と知って驚いた。
何となく、眺めていた風景がそういう地質学的な意味を持っていたとは感慨深い。
播州赤穂の塩の歴史や、相生の造船の歴史がそれと関連していれば、ブラタモリの番組の格好の材料となるだろう。
ひょっとして、その外縁部にあたる上郡も、赤松氏の歴史と関連できたら急浮上である。
風光明媚なこの地域の風景を、地質学的に意味づけていけば、観光客により魅力をアピールできると思う。
以前、赤穂民俗研究会で活動している時に、「赤穂には赤穂義士しかないのか」と嘆く人がいた。
当の本人も、ボランティアで赤穂城の案内もしていたのだが・・・
赤穂義士、忠臣蔵は確かに、日本中で通用するが、赤穂の歴史の一面に過ぎない。
赤穂は古代においては、吉備と播磨の境界にもなったところだし、塩の歴史も古い。
ただ、姫路の姫路城のように、訪れる人を異次元に導くようなスポットは残念ながらなかった。
赤穂海浜公園は、親子が楽しめる落ち着いた公園だと思うが、赤穂城からも赤穂御崎からも離れている。
そして、もったいないのは、近隣の相生、上郡、室津、日生などと連携した地域全体のアピールが足りないと思う。
このカルデラは周辺の地域全体を巻き込んで、恐竜カルデラ異次元地帯を形成できるんじゃないだろうか。
赤穂が今までの住みたい魅力ある町に加えて、訪れたい魅力ある町が加味されば、この地域全体が活性化できると思うのだが・・・
(神戸新聞NEXT 2016/8/8)
以前、赤穂民俗研究会で活動している時に、「赤穂には赤穂義士しかないのか」と嘆く人がいた。
当の本人も、ボランティアで赤穂城の案内もしていたのだが・・・
赤穂義士、忠臣蔵は確かに、日本中で通用するが、赤穂の歴史の一面に過ぎない。
赤穂は古代においては、吉備と播磨の境界にもなったところだし、塩の歴史も古い。
ただ、姫路の姫路城のように、訪れる人を異次元に導くようなスポットは残念ながらなかった。
赤穂海浜公園は、親子が楽しめる落ち着いた公園だと思うが、赤穂城からも赤穂御崎からも離れている。
そして、もったいないのは、近隣の相生、上郡、室津、日生などと連携した地域全体のアピールが足りないと思う。
このカルデラは周辺の地域全体を巻き込んで、恐竜カルデラ異次元地帯を形成できるんじゃないだろうか。
赤穂が今までの住みたい魅力ある町に加えて、訪れたい魅力ある町が加味されば、この地域全体が活性化できると思うのだが・・・
2018年4月15日日曜日
プールの主
4月になって初めて上郡のプールに行った。
去年買った年券は既に期限が切れていたので、利用券を1枚買った。
これから先、あまり利用できそうに無いので、年券も回数券も買わないことにした。
プールにはいつもの二人が、練習をしていた。
その一人、M氏はこのプールの主のような人で、私がここで泳ぎ始める以前からの利用者である。
その前は、町の職員としてこのプールの管理をしたり、指導をしたりしていた。
今は3年程前に早期退職して、ほぼ毎日泳ぎに来ている。
私も、去年は再就職する前では、同じように毎日のように泳ぎに来ていた。
考えてみれば、当時から顔なじみの人は数人しかいない。
受付の人も、監視員も、そしてスイミングスクールのコーチも変わってしまった。
スイミングスクールは町と契約して請け負っているが、よく業者が替わる。
そして、去年から新たに入った業者は今年も継続しているが、顔なじみの若い男性コーチは1年で辞めてしまったそうだ。
私は、最初は相生のプールで泳いでいた。
子供がそこのスイミングスクールに通っていて、その傍で泳いでいた。
20年程前に上郡高校に赴任し、水泳部の顧問となって、上郡のプールを冬場に利用させてもらうようになった。
子供も相生のスイミングスクールから上郡のスイミングスクールに替わり、スクールとも良いお付き合いをさせてもらった。
M氏とはその頃からのお付き合いで、一緒にマスターズチームに所属しレースに参加していた。
その後、私は兵庫県立大学附属高校に替わり、そこでも水泳部の顧問として上郡のプールも利用させてもらった。
顧問としてのプールの利用をしなくなっても、たびたび泳ぎに来ては元気な仲間に会うのが楽しみだった。
そんな仲間も一人減り、二人減りとなって、知った人が4~5人となってしまった。
その間にもスクールのちびっ子たちはどんどん成長し、巣立っていった。
中には近畿大会や全国大会に出場して活躍した選手もいる。
また、M氏の息子さんのように、就職した後でも毎日泳ぎに来ているスクールの選手の卒業生もいる。
彼とも時々プールで会って、そばで泳いだり話をするのが楽しみだ。
本当はかつて世話になったコーチなども会いたいのだが、会えないのが残念だ。
泳ぎ疲れて、プールのスタート台下で水面をながめながら、かつての様子を思い出すことが多い。
色んな風景が蘇る。
プールの中の風景は昔と同じままだからだ。
そうしながらふと思ったのは、自分たちはこのプールの主のような存在なのかなと言うことだ。
池や沼の主のような鯉やウナギのように、長くそこに生き続けているのが自分たちなのかなと思う。
稚魚たちは川をつたって、大海に出て行く。
年老いたり傷ついたものはいつしか消えていく。
残った池の主である魚の主の中の主が、M氏なのだろうと思う。
いつか、かつての選手たちが、子供を連れてやってきてくれるかもしれない。
長く同じプールでそれを楽しみにしているのが、私たちなのである。
去年買った年券は既に期限が切れていたので、利用券を1枚買った。
これから先、あまり利用できそうに無いので、年券も回数券も買わないことにした。
プールにはいつもの二人が、練習をしていた。
その一人、M氏はこのプールの主のような人で、私がここで泳ぎ始める以前からの利用者である。
その前は、町の職員としてこのプールの管理をしたり、指導をしたりしていた。
今は3年程前に早期退職して、ほぼ毎日泳ぎに来ている。
私も、去年は再就職する前では、同じように毎日のように泳ぎに来ていた。
考えてみれば、当時から顔なじみの人は数人しかいない。
受付の人も、監視員も、そしてスイミングスクールのコーチも変わってしまった。
スイミングスクールは町と契約して請け負っているが、よく業者が替わる。
そして、去年から新たに入った業者は今年も継続しているが、顔なじみの若い男性コーチは1年で辞めてしまったそうだ。
私は、最初は相生のプールで泳いでいた。
子供がそこのスイミングスクールに通っていて、その傍で泳いでいた。
20年程前に上郡高校に赴任し、水泳部の顧問となって、上郡のプールを冬場に利用させてもらうようになった。
子供も相生のスイミングスクールから上郡のスイミングスクールに替わり、スクールとも良いお付き合いをさせてもらった。
M氏とはその頃からのお付き合いで、一緒にマスターズチームに所属しレースに参加していた。
その後、私は兵庫県立大学附属高校に替わり、そこでも水泳部の顧問として上郡のプールも利用させてもらった。
顧問としてのプールの利用をしなくなっても、たびたび泳ぎに来ては元気な仲間に会うのが楽しみだった。
そんな仲間も一人減り、二人減りとなって、知った人が4~5人となってしまった。
その間にもスクールのちびっ子たちはどんどん成長し、巣立っていった。
中には近畿大会や全国大会に出場して活躍した選手もいる。
また、M氏の息子さんのように、就職した後でも毎日泳ぎに来ているスクールの選手の卒業生もいる。
彼とも時々プールで会って、そばで泳いだり話をするのが楽しみだ。
本当はかつて世話になったコーチなども会いたいのだが、会えないのが残念だ。
泳ぎ疲れて、プールのスタート台下で水面をながめながら、かつての様子を思い出すことが多い。
色んな風景が蘇る。
プールの中の風景は昔と同じままだからだ。
そうしながらふと思ったのは、自分たちはこのプールの主のような存在なのかなと言うことだ。
池や沼の主のような鯉やウナギのように、長くそこに生き続けているのが自分たちなのかなと思う。
稚魚たちは川をつたって、大海に出て行く。
年老いたり傷ついたものはいつしか消えていく。
残った池の主である魚の主の中の主が、M氏なのだろうと思う。
いつか、かつての選手たちが、子供を連れてやってきてくれるかもしれない。
長く同じプールでそれを楽しみにしているのが、私たちなのである。
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