私は大学院の博士課程への進学を諦めて、高校教諭になるまでの一年間は就職浪人であった。
教師になる人の中には、学部4年から採用試験を受けて、合格しない時はその後講師経験を積む人もいるし、大学院に進学して採用試験を受ける人もいる。
私は進学そのものを断念し切れていなかったので、当初はアルバイトで生活を立て直そうとした。
最初のアルバイトは、横浜の緑区で工事前に行う建築物の状況調査を行うアルバイトだった。
そこは学生アルバイトやミュージシャン志望の若者などを中心とした人たちの職場だった。
職場には相談に乗ってくれる人生の先輩がいて、仕事以外の場で随分助けられた。
ただ、将来正職員になれる可能性もなく、続けていく魅力も無かったので、塾の講師に転職した。
その塾はいくつかある系列塾の一つだった。
塾講師も、赤裸々な塾長争いの現実を知り、熟練塾講師の虚栄にまみれつつも、不安定な生活を目の当たりにした。
結局、仕事に追われる現実では、進学も不可能と思い、塾講師も辞めて実家に戻ることにした。
先日母親とその時の話をしたが、当時の私は精神的不安定で、手が震えていたという。
当時、都立大学の博士課程の先輩にも相談していたが、その先輩の経験からの勧めで精神科の治療も受けていた。
博士課程に進学できた先輩の中にも、精神的に追い詰められていた人もいたのである。
研究者の就職難のあおり、馬の糞の修士から、博士に上がるのは相当過酷なものだった。
赤穂の実家に戻った私は、とりあえず生活の不安はなくなった。
ただ、立場上居心地が良いものではなかった。
とりあえず、必死で教員採用試験の勉強をした。
他にも新聞社への就職も考えて、神戸新聞の説明会を受けたが、場違いな感じがした。
求人広告をみても、当時既に25歳を過ぎていた既卒の自分には、良い就職口はなかった。
自分には高校教師になるしか道が残っていないことを思い知らされた。
その後の講師経験については、すでにこのブログで書いたとおりである。
ただ、このような精神的に不安定な時代に、助けられたのは母親の助力が一番大きかったが、それ以外にも職場で助けられた。
どの職場にも相談に乗ってくれる先輩がいたし、心を開いてくれる同僚がいた。
電話で話をしたり、食事や飲む機会を設けてくれた。
現在の私は再就職浪人と言うべきなのか、フリーターと言うべきなのか分からない。
天下りの上司と違い、完全に平職員なので、教員採用試験前と同じである。
ただ、この職を長く続けていくことはできないし、それを希望しているわけでもない。
相談できる先輩もいないし、若い同僚とは目標がまるっきり違う。
若い人も同じようにこの職は長く続けられないが、男性はここでの経験から新たなる職にチャレンジしようとしている。
女性にとっては、臨時職員としては収入が良いのでなるべく長く勤めたいようだ。
私はやりたいことをしたいために、生活を安定させ活動資金を手に入れるために働いている。
若き小説家やミュージシャンの中には、コンビニや食堂にに勤めて作品を書き続けている人もいたようなので、それに近いのではないかと思っている。
この際、自分自身をフリーターと開き直った方が気が楽かも知れない。
そういうば、昔は月影兵庫とか花山大吉という時代劇があった。
用心棒や店の手伝いをしながら旅を続ける浪人と渡世人の物語である。
私は博打をやらないし、ボディーガードができるほど強くないので、素浪人とはいえないかもしれない。
それでも、江戸時代に傘張りや手習い所の師匠をしていた浪人と同じと思えば良いのかもしれない。
フリーターほど、自由人でもない、ファッショナブルな生活をしていない。
時代劇の素浪人のように、好きな酒を安いつまみで楽しんで満足できる生活。
ちゃんとした作品を書いていない今の生活に近いのかも知れない。
そういえば、同じ職場で宿直のバイトをしている年配者は、ゴルフや酒を楽しむために働いていらっしゃる。
年金だけでは、贅沢できないので働いているのである。
まさしく現代の素浪人である。
この際、スロウニン(slowing man)と造語を作っても良いかもしれない。
slow lifeを楽しむ人々をそう呼んでも良いのじゃないだろうか?
おじさんにはカタカナは不似合いなので、素労人と漢字を当ててみようかと思う。
播磨の西外れにある私の生まれ育った赤穂や、今暮らしている上郡に関すること、農作業,山野河海の恵み、趣味の水泳、音楽、専門である有機農業や、教育、文化人類学、民俗学に関することなどを、きままに記してみます。
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2018年5月3日木曜日
2018年5月2日水曜日
レイニーブルー
私が好きな徳永英明の曲に『レイニーブルー』という、ラブソングがある。
曲は雨の中で、別れた恋人との過去の思い出すイメージだ。
雨がうまく泪を表現していると思う。
一方、カーペンターズの『Rainy Days And Mondays(雨の日と月曜日は)』孤独で憂鬱な雨の日をうまく表現している。
同じ雨でも、情感がまるで違う。
実は、今の私にとって、雨は作っている作物のためにはすごくありがたい恵みの雨である。
それに対して、仕事の上では雨になると、予定した野外での活動ができなくなって、煩雑な内容となり負担が重くなる。
まさしく雨は憂鬱な日なのである。
天気予報にこれほど過敏になるのは久しぶりである。
実は、特別支援学校で作業学習の農作業を担当していた時もそうだった。
雨の日の作業には、やることが無くて苦労することが多かった。
今のようなゆとりの無い生活では、雨の日に過去の思い出にしっとり浸ることなど滅多に無い。
仕事のことなど考えずに、すっぽりとレイニーブルーの世界に浸りたいと思う。
そういえば、家の愚犬クロは強い雨の日はレイニーブルーの世界ならず、Rainy Days And Mondaysの憂鬱な目で私を見つめる。
少々の雨の日は散歩に出かけるので、「雨に唄えば」の状態になる。
ここには、私以上に雨に一喜一憂する存在がいたわけである。
クロにとって、散歩が一日の全てであるからである。
曲は雨の中で、別れた恋人との過去の思い出すイメージだ。
雨がうまく泪を表現していると思う。
一方、カーペンターズの『Rainy Days And Mondays(雨の日と月曜日は)』孤独で憂鬱な雨の日をうまく表現している。
同じ雨でも、情感がまるで違う。
実は、今の私にとって、雨は作っている作物のためにはすごくありがたい恵みの雨である。
それに対して、仕事の上では雨になると、予定した野外での活動ができなくなって、煩雑な内容となり負担が重くなる。
まさしく雨は憂鬱な日なのである。
天気予報にこれほど過敏になるのは久しぶりである。
実は、特別支援学校で作業学習の農作業を担当していた時もそうだった。
雨の日の作業には、やることが無くて苦労することが多かった。
今のようなゆとりの無い生活では、雨の日に過去の思い出にしっとり浸ることなど滅多に無い。
仕事のことなど考えずに、すっぽりとレイニーブルーの世界に浸りたいと思う。
そういえば、家の愚犬クロは強い雨の日はレイニーブルーの世界ならず、Rainy Days And Mondaysの憂鬱な目で私を見つめる。
少々の雨の日は散歩に出かけるので、「雨に唄えば」の状態になる。
ここには、私以上に雨に一喜一憂する存在がいたわけである。
クロにとって、散歩が一日の全てであるからである。
2018年5月1日火曜日
母の父への思い
私の母方の祖父は太平洋戦争で戦死した。
航空母艦の機関兵として、東シナ海で亡くなった。
記憶が正しければ、「雲龍」という航空母艦だったように思う。
魚雷攻撃を受けて、沈没前に機関室からデッキに出てきたが、艦と共に沈んだという。
祖父はもともと職業軍人だったが、退役して神戸で祖母と米屋を営んだ後、造船会社勤めをしていた。
幼い母と母の姉の娘二人と妻を残しての出征だった。
(写真は出征時のものではなく、若き日の現役時代)
ふと眠る前に、祖父がどんな思いで妻子を残し戦地に赴いたのだろうかと思うと泪がこぼれた。
私が村落調査で通った奄美与路島では、祖父母のタマシは孫に残していくと言われていた。
私自身も、父方、母方を問わず祖父母の思いが、自分たち孫に込められていると思っている。
時々、自分は戦死した母方の祖父の生まれ変わりであると思ってみたりする。
妻子を残して戦死した祖父が、孫として生まれ変わったとしたら、どうあるべきかということだ。
残された写真を見ると、私がその祖父に一番似ているわけでは無く、従兄弟の一人の方が余程似ている。
そのように孫がそれぞれ考えれば、自分の母親や伯母を大切にするだろうなと思ったりもする。
亡くなった祖母とは、孫たち皆は関わりが多かったが、晩年は老人施設に入って疎遠であったのが悔やまれる。
本来なら戦死という状況に関わらず、祖父母と孫はもっと身近な関係であった筈だと思う。
それはお墓参りという形だけでは無く、親子関係においての祖父母の存在の意味においてでもある。
これは、自分の子供に対しても、自分の父母の思いも考えるべきだと言うことになる。
親子がギクシャクした時には、その関係を補足してくれる場合もあるし、子供の子育ての補助であったりする。
無縁社会とは、そういう暮らしの関わりや、命や思いの繋がりさえ消えてしまう社会なのだろうか。
戦死した祖父を思うことは、大切にすべきことは何かを考えるきっかけになっている。
航空母艦の機関兵として、東シナ海で亡くなった。
記憶が正しければ、「雲龍」という航空母艦だったように思う。
魚雷攻撃を受けて、沈没前に機関室からデッキに出てきたが、艦と共に沈んだという。
祖父はもともと職業軍人だったが、退役して神戸で祖母と米屋を営んだ後、造船会社勤めをしていた。
幼い母と母の姉の娘二人と妻を残しての出征だった。
(写真は出征時のものではなく、若き日の現役時代)
ふと眠る前に、祖父がどんな思いで妻子を残し戦地に赴いたのだろうかと思うと泪がこぼれた。
私が村落調査で通った奄美与路島では、祖父母のタマシは孫に残していくと言われていた。
私自身も、父方、母方を問わず祖父母の思いが、自分たち孫に込められていると思っている。
時々、自分は戦死した母方の祖父の生まれ変わりであると思ってみたりする。
妻子を残して戦死した祖父が、孫として生まれ変わったとしたら、どうあるべきかということだ。
残された写真を見ると、私がその祖父に一番似ているわけでは無く、従兄弟の一人の方が余程似ている。
そのように孫がそれぞれ考えれば、自分の母親や伯母を大切にするだろうなと思ったりもする。
亡くなった祖母とは、孫たち皆は関わりが多かったが、晩年は老人施設に入って疎遠であったのが悔やまれる。
本来なら戦死という状況に関わらず、祖父母と孫はもっと身近な関係であった筈だと思う。
それはお墓参りという形だけでは無く、親子関係においての祖父母の存在の意味においてでもある。
これは、自分の子供に対しても、自分の父母の思いも考えるべきだと言うことになる。
親子がギクシャクした時には、その関係を補足してくれる場合もあるし、子供の子育ての補助であったりする。
無縁社会とは、そういう暮らしの関わりや、命や思いの繋がりさえ消えてしまう社会なのだろうか。
戦死した祖父を思うことは、大切にすべきことは何かを考えるきっかけになっている。
2018年4月28日土曜日
播磨丸の浮き輪
実家の屋根裏は物置になっている。
捜し物があって、屋根裏をのぞいてみると、船の救命用の浮き輪が三つある。
昔からずっとあったものだが、全然気にかけてなかった。
父親は大切に屋根裏に三つも置いていたのだ。
しかも、太い桁に並べて縛ってあった。
その一つを頂くことにした。
そして、家では玄関の軒下につるしてみた。
浮き輪には「赤穂 播磨丸」と書いてあった。
持って帰る時に、船の名前を母に聞いたら、第7播磨丸とか、第3播磨丸とか、はっきりしなかった。
とにかく、鳥撫で木造運搬船を所有していたのは親戚が多く、番号で区別した播磨丸と称していたようだ。
もう、60年近く前の物になるので、表面はボロボロであったが、麻の綱はしっかりしていた。
父親は、捨てがたく屋根裏に置いていたのだろうが、これだけ年期が入ると骨董品として面白い(家内には不評)。
実は、船の石油ランプももらってきて、座敷の軒下に吊していた。
これは、赤と緑の一対の一つである。
船は左舷が赤ランプ、右舷が緑ランプだからである。
今はこのような石油ランプは使っていないと思う。
家にあるのは、赤ランプで実家には緑ランプが居間にある。
近所の人でも、これが船のランプであることが分かる人は、そう多くない。
父が船に愛着を持っていたことを、今になって気がつかされた。
船の話をする時は、あまりいい話は無かったのだが、苦労を共にした船の名残は捨てられなかったのだろう。
私自身は、小さい頃は父に船乗りになると約束していたそうだ。
しかし、父自身が船乗りを辞めてしまったので、約束は反故になった。
母からは船乗りにはなるなと言われてきたので、自分自身もあえて船乗りにならなかった。
ただ、自分の娘が造船設計に携わって、時に試運転で船に乗るのも妙な縁である。
私は、せめてSUPの船長を勤めているのだが・・・
捜し物があって、屋根裏をのぞいてみると、船の救命用の浮き輪が三つある。
昔からずっとあったものだが、全然気にかけてなかった。
父親は大切に屋根裏に三つも置いていたのだ。
しかも、太い桁に並べて縛ってあった。
その一つを頂くことにした。
そして、家では玄関の軒下につるしてみた。
浮き輪には「赤穂 播磨丸」と書いてあった。
持って帰る時に、船の名前を母に聞いたら、第7播磨丸とか、第3播磨丸とか、はっきりしなかった。
とにかく、鳥撫で木造運搬船を所有していたのは親戚が多く、番号で区別した播磨丸と称していたようだ。
もう、60年近く前の物になるので、表面はボロボロであったが、麻の綱はしっかりしていた。
父親は、捨てがたく屋根裏に置いていたのだろうが、これだけ年期が入ると骨董品として面白い(家内には不評)。
実は、船の石油ランプももらってきて、座敷の軒下に吊していた。
これは、赤と緑の一対の一つである。
船は左舷が赤ランプ、右舷が緑ランプだからである。
今はこのような石油ランプは使っていないと思う。
家にあるのは、赤ランプで実家には緑ランプが居間にある。
近所の人でも、これが船のランプであることが分かる人は、そう多くない。
父が船に愛着を持っていたことを、今になって気がつかされた。
船の話をする時は、あまりいい話は無かったのだが、苦労を共にした船の名残は捨てられなかったのだろう。
私自身は、小さい頃は父に船乗りになると約束していたそうだ。
しかし、父自身が船乗りを辞めてしまったので、約束は反故になった。
母からは船乗りにはなるなと言われてきたので、自分自身もあえて船乗りにならなかった。
ただ、自分の娘が造船設計に携わって、時に試運転で船に乗るのも妙な縁である。
私は、せめてSUPの船長を勤めているのだが・・・
2018年4月27日金曜日
鳴きの洗濯機とのお別れ
家の洗濯機は、ここ数年以上毎朝鳴き続けていた。
脱水の度に、「キー キー」と悲鳴を上げた。
その悲鳴は、周囲数十メートル響き渡った。
おそらく都会ではとっくに、苦情が出て買い換えられていただろう。
風呂からの給水ホースも破れて使えず、バケツで家内は風呂の水を汲み入れてもいた。
そこまでしても、使い続けるのは愛着ではなく、勿体ないからだった。
それには、私が早期退職して、金銭的に余裕がなかったことも確かである。
そんな中、ようやく家内は買い換える決心をした。
家電店の会員DMで特別安い情報を得たからである。
これで、近所迷惑な洗濯機ともお別れができた。
家内が、洗濯機を買う時に店員からもっと静かな洗濯機を勧められたそうである。
都会では、マンションでは洗濯機の音に気を遣わねばならないのだろう。
また、一戸建てでも、隣家とは接近しているので、音には気を遣うのだと思う。
我が家の洗濯機の音が遠くまで響くのは、周りに家が少ないからである。
そして、夜中には音が出るので、洗濯しない。
田舎の一番の騒音は、一晩中騒音を出し続ける米の乾燥脱穀機。
そして、早朝に農薬散布するラジコンヘリの音である。
昼間に行う農作業の農機の音は、殆ど気にならない。
そういえば、先日職場で話していて、シカの鳴く声も迷惑にいう人もいた。
近所では、猟犬を中心とした犬の鳴き声は、場合によって夜中にも聞こえる。
我が家の犬は、無駄吠えはしないが、もし夜中に安易に鳴けば、二階から水を浴びせられるので、滅多に夜中には鳴かない。
鹿の鳴き声などは、季節によっては当たり前のことである。
鶏に関しては、近所に家のない家では問題ないが、そうでないとさすがに苦情が出る。
それは、朝早く鳴いて、睡眠を邪魔するからである。
こういうような事情で、よく鳴く洗濯機は延命できた。
都会なら、数年以上前に最期を迎えていたはずである。
これも、不便であっても安上がりな、田舎住まいのメリットかも知れない。
ただ、鹿の鳴き声や、猟犬の無駄吠え、蛙や蝉の鳴き声が嫌いな人には住みづらい所かも知れない。
私には、工場、車、飛行機などの騒音の方が、うるさく感じるのだが。
それよりも、住宅内外の生活音に関しては、田舎ではあまり問題にならないのが良いと思う。
私の、たまに歌う歌を除けば・・・・
脱水の度に、「キー キー」と悲鳴を上げた。
その悲鳴は、周囲数十メートル響き渡った。
おそらく都会ではとっくに、苦情が出て買い換えられていただろう。
風呂からの給水ホースも破れて使えず、バケツで家内は風呂の水を汲み入れてもいた。
そこまでしても、使い続けるのは愛着ではなく、勿体ないからだった。
それには、私が早期退職して、金銭的に余裕がなかったことも確かである。
そんな中、ようやく家内は買い換える決心をした。
家電店の会員DMで特別安い情報を得たからである。
これで、近所迷惑な洗濯機ともお別れができた。
家内が、洗濯機を買う時に店員からもっと静かな洗濯機を勧められたそうである。
都会では、マンションでは洗濯機の音に気を遣わねばならないのだろう。
また、一戸建てでも、隣家とは接近しているので、音には気を遣うのだと思う。
我が家の洗濯機の音が遠くまで響くのは、周りに家が少ないからである。
そして、夜中には音が出るので、洗濯しない。
田舎の一番の騒音は、一晩中騒音を出し続ける米の乾燥脱穀機。
そして、早朝に農薬散布するラジコンヘリの音である。
昼間に行う農作業の農機の音は、殆ど気にならない。
そういえば、先日職場で話していて、シカの鳴く声も迷惑にいう人もいた。
近所では、猟犬を中心とした犬の鳴き声は、場合によって夜中にも聞こえる。
我が家の犬は、無駄吠えはしないが、もし夜中に安易に鳴けば、二階から水を浴びせられるので、滅多に夜中には鳴かない。
鹿の鳴き声などは、季節によっては当たり前のことである。
鶏に関しては、近所に家のない家では問題ないが、そうでないとさすがに苦情が出る。
それは、朝早く鳴いて、睡眠を邪魔するからである。
こういうような事情で、よく鳴く洗濯機は延命できた。
都会なら、数年以上前に最期を迎えていたはずである。
これも、不便であっても安上がりな、田舎住まいのメリットかも知れない。
ただ、鹿の鳴き声や、猟犬の無駄吠え、蛙や蝉の鳴き声が嫌いな人には住みづらい所かも知れない。
私には、工場、車、飛行機などの騒音の方が、うるさく感じるのだが。
それよりも、住宅内外の生活音に関しては、田舎ではあまり問題にならないのが良いと思う。
私の、たまに歌う歌を除けば・・・・
2018年4月26日木曜日
無縁社会と若者
報道番組で、アメリカでは好景気であるにもかかわらず、若者の路上生活者が多いという。
大学を出ても就職につけず、家族との関係も悪いので頼ることができない女性を映し出していた。
報道番組では、アメリカは思いのほか学歴社会で、職を得る機会を失うと路上生活者に簡単に転落するそうである。
以前から、日本に来て働くALT(外国語指導助手)の先生と話をしていて、親子関係が非常にドライなのに気がついていた。
両親は離婚経験を持ち、現在は実の父親とは疎遠な場合が多かった。
そして、その母親の生活と、本人の生活は全く切り離して考えているようだった。
確かに、日本でも両親と一緒に暮らす夫婦は少なくなっている。
ただ、一緒に暮らさなくても、関係はそれなりに保ち続けている。
これは両親が離婚していない場合に限られるのかもしれない。
身の回りでも夫婦離婚や別居が増えて、子供と親の関係が疎遠になった例を見ている。
親が離婚して両方とも家を離れ、兄弟だけが残されたケースでは、兄がニートになった弟を養ったりしている。
親戚からも手を差し伸べられず、この先のことが心配される。
自分の生活を守ることで精一杯となり、親子でさえ助け合えない人もいる。
果たして、こういう無縁社会に親孝行などを、道徳として学校でどう教えたら良いのだろう。
学校が生み出した学歴社会とは、親の家業や職業を乗り越えて自己実現を果たすことが可能な社会だった。
しかし、それが果たせたのは一部で、多くは親からの家業も、親が得ていた職業さえ得ることができない。
学校は親の家業や、職業を継承する教育ができるのだろうか?
企業と結びついた学歴社会に学校は、いかに新しい方向が示し得るのだろうか?
学歴社会の成功者がその答えを出しうるのだろうか?
そして、親や、親戚、地域のしがらみから、自由になろうとした我々の世代は、この無縁社会で孤独死の不安を抱えている。
これが自己実現の末路だったとは・・・
大学を出ても就職につけず、家族との関係も悪いので頼ることができない女性を映し出していた。
報道番組では、アメリカは思いのほか学歴社会で、職を得る機会を失うと路上生活者に簡単に転落するそうである。
以前から、日本に来て働くALT(外国語指導助手)の先生と話をしていて、親子関係が非常にドライなのに気がついていた。
両親は離婚経験を持ち、現在は実の父親とは疎遠な場合が多かった。
そして、その母親の生活と、本人の生活は全く切り離して考えているようだった。
確かに、日本でも両親と一緒に暮らす夫婦は少なくなっている。
ただ、一緒に暮らさなくても、関係はそれなりに保ち続けている。
これは両親が離婚していない場合に限られるのかもしれない。
身の回りでも夫婦離婚や別居が増えて、子供と親の関係が疎遠になった例を見ている。
親が離婚して両方とも家を離れ、兄弟だけが残されたケースでは、兄がニートになった弟を養ったりしている。
親戚からも手を差し伸べられず、この先のことが心配される。
自分の生活を守ることで精一杯となり、親子でさえ助け合えない人もいる。
果たして、こういう無縁社会に親孝行などを、道徳として学校でどう教えたら良いのだろう。
学校が生み出した学歴社会とは、親の家業や職業を乗り越えて自己実現を果たすことが可能な社会だった。
しかし、それが果たせたのは一部で、多くは親からの家業も、親が得ていた職業さえ得ることができない。
学校は親の家業や、職業を継承する教育ができるのだろうか?
企業と結びついた学歴社会に学校は、いかに新しい方向が示し得るのだろうか?
学歴社会の成功者がその答えを出しうるのだろうか?
そして、親や、親戚、地域のしがらみから、自由になろうとした我々の世代は、この無縁社会で孤独死の不安を抱えている。
これが自己実現の末路だったとは・・・
2018年4月25日水曜日
大福にはトマトジュース
今の職場は利用者さんの手土産や、職員の差し入れで甘い物が多く配られる。
私は糖尿病なので、配る人も奥さんにと言って渡してくれる。
私は持って帰られない物は、断るが持って帰られる物は持って帰って家内と分けて食べる。
大概は、半々だが、甘すぎるのは少しだけちぎって食べる。
ビスケット類はあまり好きではないので、テーブルに置いておくと、家内か息子が食べている。
わたしも申し訳ないので、たまに甘くないタコせんや、牡蠣せんを持って行ったりした。
今日は部長さんが、大福まんじゅうを「奥さんに」とくれたので。
「よめさんと 仲良く分けて食べますわ」と答えた。
そして、私と同じ糖尿病なので、お返しにトマトジュースの「理想のトマト」渡した。
「糖尿尿にはトマトジュースを食事の前に飲むといいそうですよ」と言い添えて。
それにしても、手土産などは殆ど甘い物が多くて、もらうにしても、あげるにしても自分には複雑である。
誰にもトマトジュースや野菜ジュースはあげられない。
極めつけは、カカオ85%のチョコレートをあげようとしたら、チョコレートではないと断れてしまった。
私にはカカオ85%でも十分甘いのであるが、一般の人は苦いだけなのだそうだ。
甘くなければチョコレートではないという。
そういえば、昔はワインと言えば、赤玉ワインのような甘いワインだった。
いつしか、本格的な甘くないワインが定着したように、甘くないチョコレートも定着するだろう。
そうしたら、お返しにカカオ85%のチョコレートができる。
とにかく、糖尿病の人や、予備軍の人が多い時代なのだから、手土産などは甘い物という慣習は改めるべきだと思う。
トマトジュース、野菜ジュース、甘くないチョコレート、昔のように茶請けの漬物などでも良いのではないだろうか・・・
私は糖尿病なので、配る人も奥さんにと言って渡してくれる。
私は持って帰られない物は、断るが持って帰られる物は持って帰って家内と分けて食べる。
大概は、半々だが、甘すぎるのは少しだけちぎって食べる。
ビスケット類はあまり好きではないので、テーブルに置いておくと、家内か息子が食べている。
わたしも申し訳ないので、たまに甘くないタコせんや、牡蠣せんを持って行ったりした。
今日は部長さんが、大福まんじゅうを「奥さんに」とくれたので。
「よめさんと 仲良く分けて食べますわ」と答えた。
そして、私と同じ糖尿病なので、お返しにトマトジュースの「理想のトマト」渡した。
「糖尿尿にはトマトジュースを食事の前に飲むといいそうですよ」と言い添えて。
それにしても、手土産などは殆ど甘い物が多くて、もらうにしても、あげるにしても自分には複雑である。
誰にもトマトジュースや野菜ジュースはあげられない。
極めつけは、カカオ85%のチョコレートをあげようとしたら、チョコレートではないと断れてしまった。
私にはカカオ85%でも十分甘いのであるが、一般の人は苦いだけなのだそうだ。
甘くなければチョコレートではないという。
そういえば、昔はワインと言えば、赤玉ワインのような甘いワインだった。
いつしか、本格的な甘くないワインが定着したように、甘くないチョコレートも定着するだろう。
そうしたら、お返しにカカオ85%のチョコレートができる。
とにかく、糖尿病の人や、予備軍の人が多い時代なのだから、手土産などは甘い物という慣習は改めるべきだと思う。
トマトジュース、野菜ジュース、甘くないチョコレート、昔のように茶請けの漬物などでも良いのではないだろうか・・・
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