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2018年9月17日月曜日

スポーツ心臓

私は5年程前から、心電図の検査をすると異常な波形が出るようになった。
職場の健康診断で精密検査を受けるように指示され、かかりつけの総合病院で検査を受けた。
その結果は心臓に異常はなく、いわゆるスポーツ心臓だろうと言われた。
その頃は、水泳をやったりジョギングをしたりで、スポーツを盛んにしていて、脈拍も1分間に50回代であった。
スポーツ心臓とはネットなどで調べると、心臓が大きくなったり、壁が厚くなったりする。
しかし、スポーツ選手にはまったく正常であり、危険ではないという。
私の場合も、若干血圧は高かったけれど、全然問題はなかった。

今は激しい運動は殆どなくなったけど、緩やかな運動は続けている。
その分、脈拍も多くなり、血圧は逆に下がったりしている。
しかし、先日心電図の検査をすると、依然異常な波形が出ている。
以前の職場では精密検査の結果を報告していたので、問題なかった。
今回はいったん退職しているので、検査を受けた病院が問題視してしまった。
以前に別の病院で問題ないと言われたことを言っても、納得してくれない。
それはこの病院で受けた過去のデーターと、今回のデーターだけで判断した結果である。
その間の精密検査の結果は、別の病院にあるので考慮されない。
医師にとっては手に入るデーターが全てなのであろう。

こんなところで、スポーツ心臓が災いするとは思わなかったが、現代の医学の普通の検査では常識外ということが分かった。
そういえば、健康番組で病気の原因が分からず、いくつもの病院を渡り歩く話をよく特集している。
そして、結果として名医と呼ばれる医者が、常識をくつがえし原因を特定するというものだ。
普通の医者の常識的な見方では見つからないのが難病である。
スポーツ心臓は難病ではないのだが、常識的な心電図の見方では異常と見なされる。
私の場合は名医を探す必要はなく、かかりつけの総合病院で健康診断を受けられれば問題なかったのだ。
また、病院同士でデーターや検査結果の情報交換が簡単に行われれば、問題ないはずである。
スポーツをやり過ぎて、ちょっと厄介な身体になっているようだ。

2018年9月14日金曜日

時には昔の話を

以前、岡山県立美術館に行った帰り、車の中で加藤登紀子の「時には昔の話を」がラジオから流れてきた。
「紅の豚」のエンディング曲で使われたこの曲は、ずっと良い曲だなとは思ってはいた。
でも、歌詞の内容についてまで、意識することはなかった。
それが、「小さな下宿屋に いくにんもおしかけ 朝までさわいで 眠った」という歌詞が私の記憶をふいに蘇らせた。
学生時代の自分たちの風景である。
加藤登紀子の歌の世界は学生運動の時代であるが、私は文化人類学を学びあった仲間との時代である。
学生運動のように熱い時代ではなく、しらけながらも理想の世界を語り合った。
大学院の時には子持ちの人もいて、雑魚寝した後朝早く起きて、子供を保育園に送りに行くと言って帰って行った。

ふと、その歌がもう一度聴きたくて、Youtubeで夜空を観ながら聴いてみた。
加藤登紀子の語りかけるような、低くて心に響く歌声に魅了されながら、自分も歌いたくなった。
そのカラオケにあわせて小声で歌ってみると、しんみりと心地よい。
そして、「今でも見果てぬ夢を描いて 走り続けているよね」という歌詞に今の自分を重ねていた。
3年も早く早期退職して、見果てぬ夢を実現しようとしている自分、結局自分は昔のままなのだと思った。
それは見方によれば成長のないこと、また見方によれば初心を貫くこととなる。
ただ、歌詞と同じように「夢を描いて」であって、「夢を追って」ではない。
「描く夢」は生活の中で、変わっていった。
この歳になると「歩き続ける」ことはできるけど、「走り続ける」ことはできない。
そして、傍で寄り添ってくれる家族はいるけど、朝まで語り合える仲間は今はいない。
昔のままなのは、結局「見果てぬ夢を描く」ことだけなのかもしれない。

昔のことの話をするのは、自分の歩んでいく姿勢をもう一度確かめることだと思う。
金が無くても不安がなかったのは、自分の可能性を信じられたからだと思う。
可能性が狭まった今は、金が無いことの不安はつきまとう。
でも、当時よりは不安は少ないはずなのである。
不安を忘れるために仲間と語り明かし、飲み明かしたところもあった。
あの頃の自分の姿を、感傷じみた思い出話としてではなく、これからの自分への檄として話したい。

2018年9月12日水曜日

眺めの良いトイレ

以前、昔の淳心学院のトイレから、美しい姫路城が見えて、それを眺めながら小用をたすことの爽快さを書いた。
実は、うちの二階のトイレは東側に小さな窓がついていて、座って用をたすときに周りの景色が見える。
東側の山は椿峠のある山で、車の行き来が分かるので、雪の日や、先日のように通行止めの時に動きがよく分かる。
山際まで、水田が広がっていて、稲の生育の様子や、仕事をする人の様子もよく分かる。
何よりも、季節季節に彩りを変えていってくれる、山の景色には心癒やされる。
そんなに長く座っているわけではないが、朝の一時に安らぎを得られるのはありがたい。

ただし、今年の異常な夏は、このトイレを試練の場に変えてしまった。
トイレには、気温計を置いていたが、35℃くらいになることもある。
そして、東側から日光が降り注ぎ、いくらスダレをしていても暑い。
この密室空間では、外の景色を見る余裕もなく、暑さと戦っていた。
汗びっしょりになり、トイレを済ました後でシャワーを浴びねばならなかった。
なぜ、そこまでして2階のトイレを使うかというと、1階のトイレの流れが悪いからである。
家内から流すこつを教えてもらって、実行した頃は、既に灼熱の夏は終わっていた。
実は、それまで「流れる」という家内の言う言葉を信用していなかった。
涼しくなってきた今となっては、二階のトイレの方が快適である。
1階のトイレの窓からは隣の倉庫しか見えないし、そもそも窓に背を向けて用を足す。

よく、金の便器とか、この上なくきれいなトイレというのが脚光を浴びてきた。
景色を眺めながら、ゆっくりと用がたせるトイレというのはあまり聞いたことがない。
昔の淳心学院でさえ、座って用を足すときには姫路城は観られなかった。
そういう意味で、うちの二階のトイレは得がたい場所である。
ただ、お客さんにすすめる場所ではないので、誰にもお見せして自慢できない。
トイレの神様の歌でもあるように、トイレは大切な場所である。
奄美の与路島では、「生」と「死」を司る神様がいると言われた。
神様をお迎えするには、きちっと掃除はできていないが気がかりではある。
それでも、健康と心に関わっている大切な所として、ありがたく感謝すべき場とは思っている。



2018年9月10日月曜日

診療所の待合所

このところ体調を崩して、ついに病院に行かねばならなくなってしまった。
私は定期的には赤穂の中央病院に通っている。
以前は知り合いに会う機会が多くて、待っている時間はそういう人と話す機会も何度かあった。
ただ、最近では滅多に知り合いと会うことはなくなっていた。
今回は、自宅近くの診療所に行くことになった。
すると、近所のYさんがやってきて、待っている間色々と話をする。
Yさんは、村では挨拶をする程度の人なのだが、初めて話をするのにずいぶんと立ち入った話もした。
それは同じ村でいつも顔を合わせているし、同じ村の仲間という気安さがあるからである。
その人は、元々御両親は高知県出身だが、仕事の関係で尼崎などで暮らした後で、退職後に村に移り住んだことを初めて知った。
自然が大好きで、庭にはいっぱい花や野菜が植えている。
退職後に移り住んだ人は、村の人との付き合いは難しいのだが、Yさんは隣村の特定の仲間と仲良くしている。
ちなみに、私たちは子育てを通して、村に溶け込んでいった。
子供は夫婦だけでなく、地域の人とのかすがいにもなる。

そのうち、知り合いのOさんも夫婦連れでやってきて、色々と村仕事のことや、墓地の相談をした。
Oさんは診療所でなくてもよく話をする人だが、診療所でも話をする良い機会になった。
桂文珍の落語ネタで病院の待合所を題材にしたものがあるが、それに似たような雰囲気なのかも知れない。
病院に来ていないと調子が悪いのかと心配するネタである。
私の母親も以前は、近所の医院に足繁く通い、そこで話をするのを楽しみにしていたようだった。
その母親も入院して以来、総合病院に転院して一人で気軽に通えなくなった。
一人で気軽に通える病院の待合所こそ、コミュニケーションの場になる。
今のところ、私はそういう仲間には入っていないが、仲間入りするのもそう遠くはないように思えた。

2018年9月7日金曜日

高齢者ボランティア

一躍、尾畠春夫さん(78)が山口県周防大島町で行方不明の子供を救助したことで有名になり、高齢者がボランティア活動で活躍していることが知れ渡った。
尾畠さんのような災害地のボランティアは注目されて、マスコミにも多く取り上げられている。
その一方で、家内が加わっている町内の高齢者に対する給食ボランティアなどは、あまりよく知られていない。
家内は高齢者ではないが、この給食ボランティアは他の自治体にもあり、高齢者も多く加わっているという。
高齢者に安く昼食を配るボランティア活動なのだが、利用するご老人の方が配達するボランティアの人より若かったりするという。

この高齢者のボランティアに関して、アメリカの高齢者を長く研究してきた佐野(藤田)眞理子が、「高齢者」山下晋司編『公共人類学』2014 東京大学出版会で報告している。
それは、アメリカのシニア・センター,とりわけ,ミール(食事)・プログラムを中心とした公共サービスのことである。
佐野氏は日本の高齢者に対するメディアの「孤独死」や「無縁社会」の報道に対して、アメリカの状況で疑問を投げかけている。

まず、アメリカでは
「一人暮らしの高齢者」は当たり前であり,むしろ,自立・独立の象徴として称賛されるからである.また,一人で暮らしをしているからといって,社会的に孤立しているとは限らない.」
という。

私は、自分自身、家族や親戚、地縁関係が崩れて、孤独に陥る高齢者を自分の将来として不安を抱き続けてきた。
現代の社会のシステムからすれば、それが当然の成り行きのように考えていた。
しかし、アメリカでは「一人暮らしの高齢者」に対するケアを1980年代から既に行っており、対策がなされてきていた。
各地のシニア・センターでは.高齢者が,1日1回は,温かい,栄養バランスの取れた食事ができるように.ミール・プログラムが提供された。
そして、実際の食事を提供するサービス運営には,高齢者のボランティアの協力が果たす役割が大きかった。
高齢者ボランティア自身も自分の能力を発揮できることで、自尊心を持つことができる。
また、センターに来られない人たちは,同じメニューの宅配食が配られる。
近年は宅配利用者が増えてきているようだが、重要なのは高齢者によるボランティア活動である。

日本では格差が広がり、学校給食が大切な食事になっている児童生徒もいる。
これを高齢者にも自治体の給食と言うことになれば、財政は持たないだろう。
高齢者自身がお互いに助け合う気持ちを持って、給食センターを担えるシステムを作れば可能だと思う。
行政は、そのセンターを設置しボランティアの活動を活用するのである。
これには企業や高所得者の寄付も必要となる。
場合によっては農家や漁業関係などの生産者からの協力も得れば良いとも思う。
自分の母親の介護が必要となり、自分自身も遠からずそうなる歳になって改めて考えさせらている。
災害ボランティアは確かに大切だが、こういう目立たないけれど誰にとっても関わりのある高齢者へのボランティアを真剣に考えねばならないと思う。
「孤独死」や「無縁社会」を克服し、高齢者を通した未来への社会進化を果たす一歩のような気がする。


2018年9月5日水曜日

星の見えるベッド

今、寝室として、以前まで娘が使っていた二階の東側の部屋を使っている。
その部屋の窓は、東側と南側にあって、夜になると星をベッドに横たわりながら眺めることができる。
私は主だった星座は判別できるが、明けの明星、宵の明星以外の星は殆どわからない。
ただ、今年は火星大接近と言うことで、南側の窓にひときわ赤く輝いている火星は判別して眺めている。

小学生の頃は、尾崎小学校で夜に星の観察会があって、母親や兄弟と一緒に出かけたりした。
一生懸命、北斗七星や北極星を探したのを憶えているし、流れ星に心躍らせた。
星が一番すごいと思ったのは、夏休みに奄美大島に村落調査に行くフェリーの上だった。
夜、フェリーの一番上のデッキの上から見える星は、こんなに星が空にあったのかと思った。
空から星が降り注いでくるのではないかというほど、迫ってくるものがあった。
他にもキャンプに行ったときには、星空を何度も眺めたが、東シナ海の洋上で観た星ほどのスケールではなかった。
本当は、訪れた奄美の与路島でも美しかったはずだが、夜に家の外にいるときは、ハブを警戒して懐中電灯で照らした足下ばかり見ていた。
また、確かに姫路科学館のプラネタリウムの星も幻想的で美しかったが、自然に勝るものではなかった。

その洋上の星には叶わないが、気軽に横になって眺められるベッドは、フェリーのデッキよりも居心地が良い。
20代の頃に感じた心象が、星空と共に時に蘇ってきて、当時の自分であるかのように錯覚する。
また、星空を眺めながら、眠ってしまうことができる。
そして、お気に入りの音楽を聴きながらも眺められる。
夜中にふと目が覚めると、月が昇っていて得をした気分にもなる。
周りに明かりの少ない上郡ならではの恵なのである。
果たして娘はこの星空を憶えているのだろうか。
私は娘の置いてあったベッドと同じ位置にして寝ている。
寝坊助の娘は、星を眺めることすらなかったかも知れない。
お月さんや星がずっと、窓からずっとのぞいていたというのに・・・



2018年9月2日日曜日

あきらめの夏休み

私は教員になったので、社会人になってからも夏休みとの関わりがずっとあったのが、今年は盆休みさえもなかった。
そして、何よりも母親が8月3日入院して、23日退院し、その後しばらく我が家にいたので、その世話で忙しかった。
ようやく、母も自宅で少しずつ日常生活に戻りつつあり、今後デイサービスを受けながら一人暮らしを続ける予定である。
しかし、以前のよりも生活を気をつけてやらねばならず、弟夫婦と協力し合って支援していくつもりだ。
幸いなことに、10月からは母の世話ができそうな、仕事もみつかった。
その仕事の話は、急に日曜(8/26)に美術館へ行った帰りの車の中で進んだ。
その時、口から出てきた言葉は「捨てる神あれば、拾う神ありやな」であった。
仕事の上でも、生活の上でも見通しが立ちづらい中で、降ってわいてきた話だったからである。

若い頃のように、自分の仕事や子育てだけを考えていたら良かった立場は終わり、自分の親のことを考えねばならない立場になった。
人によっては、仕事や、子育てが大変で親の面倒は見られないという人もいるだろう。
そんな中で、少しでも多くそれができるというのは、ありがたいことだと思っている。
それは、早期退職していたと言うこともあるが、退職後の考え方自体が変化して、生活重視志向になっていた。
以前から、生活のための仕事であって、仕事のための生活ではないと思っていた。
実際は、仕事のための生活を余儀なくされている場合が多かったと思う。
そんな中で、生活のための仕事ができるというのは、恵まれていることかも知れない。

先日ニュースで、女性が子育てのために離職して、失われる金額3兆円というのがあった。
失われるのではなくて、子育てこそ3兆円には換えられない価値があるのだと私は思う。
何でも金に換算した価値でしか評価できないことを助長するマスコミには疑問を感じた。
老人介護に関しても、同じことが言えると思う。
つくづく大変なことだとは思ったが、金には換えられない価値があるからこそ何とか続けられると思う。
しかし、それは子育てと同じで、決して一人ではできず、周りの協力や支援が必要だと身にしみて分かった。
人類は子育てを協力し合って社会進化したという。
これからは老人介護を通じても、社会進化するときが来たようにも思える。
誰もが子供はいなくても、必ず老後はやって来る。
夏休みはあきらめても、老後をあきらめるわけにはいかない。