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2018年10月9日火曜日

暦通りの休み

私は早期退職以来、暦通りの休みで過ごしていなかった。
閑谷学校に勤める前は、家内の言うところの盆と正月の日々と言えるのかも知れないが、自分の生活としては平日と休日の区別はつけづらかった。
閑谷学校では、研修センターが年末年始以外は閉館することが無かったので、センターのシフトによる勤務であった。
土日にも利用者がいたが、学校等からの電話が無かったので、事務仕事は少なかった。
だから、ベテランの事務職員は電話が少ないだけ、仕事がはかどるから却って楽だと言っていた。
私は長年暦通りの生活をしていたが、学校によってはクラブ指導で土曜日は出勤することが多かった。
休日の仕事は特別な行事や、クラブの競技会などであった。
ただ、当時は年度末の入試業務が休日になることが多かったので、代休にもクラブ指導等で出勤する教師にとっては休日はなかった。
だから、休日は暦通りにはとれないにしろ、閑谷学校では休日はそれなりにとれてはいた。

上郡のスポーツセンターは基本月曜日が休みであった。
私は土曜の午前と、日曜日は勤務を外してもらっていた。
2ヶ月半しかアルバイトをしていなかったので、その期間の祝日は月曜に限られていた。
そして、その日は火曜日と振り替えの勤務となった。
だから、7月から9月までの土日月の三連休は無かった。
月曜日が祝日の日は出勤して、火曜日が休みとなった。
だから、夫婦で休日があうのは日曜日のみとなっていた。

自分は教師をしていた頃は、暦通りというのが当たり前だったが、身近な人にはそうで無い人が多いとあらためて気がついた。
まず、老人介護施設に働いている息子がそうであるし、会社の警備・施設管理の仕事をしている弟などがそうである。
弟夫婦は弟の妻も暦通りの休日では無いので、夫婦の休日が合うことがあまりないという。
閑谷学校では、土日の両方とも出勤というのは無かったので、土日のどちらかは、暦通りの勤務の家内と休日は一緒にはなっていた。

今回、再び暦通りの仕事に戻って、久しぶりに夫婦でドライブに出かけた。
休日は普段やれないことをするので、今回のように3連休で無いと、遠出する気分的な余裕が無い。
私はこの3連休は土曜日は畑仕事、日曜日は村の神社の仕事をしていた。
普段の休日はちょっとした買い物に夫婦で出かけられても、今日(10/8)のようにドライブがてら猪名川まで蕎麦を食べに行くことは無かった。
ドライブで遠出して気分転換ができたので、暦通りに休みが取れるありがたみを改めて感じた。
世の中には暦通りに休みが取れない人が多くいると思うけれど、どのように家族と過ごしているのかと思う。
本来休日は家族や友人や仲間と一緒に過ごせる日だと思うが、それがなかなか難しい人も多いと思う。
そして、完全に退職して暦に縛られる生活が送れるようになった時には、一緒に楽しく過ごせる相手を失っている場合もある。
暦通りの生活ができる今を大切に生きていく価値を考えさせられた。


2018年10月4日木曜日

久しぶりの教壇

この10月1日から再び縁があって教壇に立つことになった。
近隣の定時制の高校で、学期の途中から授業を受け持つことになった。
肩書きは「臨時講師」ということで、いままで書いてきた「教諭」とは違うというのを実感した。
その学校の全日制にはかつて一緒に仕事をした人が多くいて、誰もが年齢を感じさせてくれた。
そして、それなりの役職に就いていて、重責を担っていることが察せられた。

早期退職して1年半、その間に社会教育指導員や水泳のインストラクターを務めたが、どれも初めての経験で慣れるのに苦労した。
それに対して、定時制の仕事は1年とは言え、経験があるのでそれほどの戸惑いはない。
前回は帰宅後に夕食を食べて、糖尿病を悪化させてしまった。
今回は、弁当を持っていって、夕食を職場でとっている。
帰宅後は軽く晩酌をする程度にすませている。
我々のような年齢の者にとって、定時制で一番難しいのは健康管理である。
元気で若い生徒や教職員に混じって、元気に仕事を続けるには何よりも健康が第一である。
それでも、水泳のインストラクターの仕事に比べれば、健康管理は難しくない。
プールに一日4時間も入って、咳も風邪も2ヶ月ほど治らなかった。
何よりも、少々熱があっても、プールに入らねばならないのが辛かった。
これはベテランの人にも一番辛いことだと聞かされた。

昔とは立場が違う教師になったが、肩の力を少し抜いて仕事をやっていきたいと思っている。
とにかく、新たなるステップを次のステップにしっかりと繋げていきたいと思っている。
ぞれは現役の時とは違って、行き先の決まらない道であり、終わりも分からない旅でもある。


2018年9月30日日曜日

我が子と学んだ水泳

私が水泳と深く関わるきっかけとなったのは、子供が水泳教室に通っていたことによる。
今でも、プールには一緒に泳ぐ親子を見かけるが、その光景がとても微笑ましい。
時には、選手にしようと厳しく指導する保護者も見かけるが、たいがいは一緒に泳ぎを楽しんでいる。
私の場合は、相生のプールに子供が通っていたので、土曜日などは送っていって、帰る時間まで泳いだ。
時間帯の違う子供二人通っていたので、ちょうど二時間ほどじっくりと泳げた。
単に、水泳だけが目的ではなく、容姿のすばらしい女性コーチにお目にかかるのも楽しみだった。
スイミングのコーチは、運動をしているだけあってどなたも、容姿端麗であったように思う。

そのうち上郡のプールの方にスイミングを移って、自分もコーチに習うことになった。
ちょうど、高校の水泳部の顧問をやることになったので、良い機会になった。
私は学生時代の頃は、中途半端に剣道をしており、教師になってからも剣道部の顧問をしていた。
赴任した高校は剣道に関しては全国を目指すようなクラブだったので、剣道専門の教員がいて、私はお手伝いする程でもなかった。
水泳部は速い選手は、スイミングで練習することが普通だったので、私のような素人顧問でも勤まった。
最初は、生徒の方に色々と泳ぎ方や練習方法を教わっていた。
たまたま女子が西播磨大会で総合優勝したりして、顧問としてやる気も増してきた。
その後は、どの学校でも水泳部の顧問を続けてきた。

クラブに関しては、教師にとって負担が重いという意見も多い。
確かにそうだと思う。
ただ、水泳に関しては練習時間もそう長くできないし、私は日曜日はレース以外は練習を設定しなかった。
レースには自分の子供も参加することもあって、クラブの部員と一緒に移動することもあった。
残念ながら、上郡中学校には水泳部がなかったので、子供たちは水泳から離れてしまった。
結局、子供と始めた水泳を続けたのは、父親である私一人になってしまった。
上郡のプールでは今も、当時から親子で水泳を続けている人がいる。
子供は一時は水泳から離れたようだが、就職した後でまたプールに戻ってきた。
そうやって、親子で続けられるのも水泳ならではだろう。
親子どころか、孫と祖父母というのも見られるようになっている。
プールの中で、世代を超えて老若男女が関われることが一番素晴らしいことだと思う。

2018年9月28日金曜日

一生の恩人

私が学生生活を続け、大学院に進み、教師になれたのも、大学時代にお世話になった大家さんのおかげだと思っている。
実は、私は名古屋の私立大学に進学できたのは、叔父の家に下宿するという前提条件があった。
4人兄弟の長男である私はには、一つ下の弟も受験を控えており、私学に進学する条件が、叔父の家に下宿することだった。
最初は、叔父の借りていた物置代わりのアパートに暮らさせてもらっていた。
しかし、さすがに不自由を感じたので、友達に相談したところ、友達のアパートは二間あるので、住まないかという。
彼にとっては、下宿代を折半できるし、大学も受け直すつもりだったので、ずっと卒業するまで一緒に暮らすつもりではなかった。

自分も、しばらくは一緒に住まわせてもらって、彼が希望する東京の大学に変わるときに新しい下宿にうつるつもりだった。
なぜなら、当時2万円の下宿代を払う余裕はなかったからだ。
そして、そのつもりで3月には新しい安い下宿も探していた。
アパートの大家さんにもそのことを言うと、下宿代は半分で良いから、居続けても良いよと言われた。
ところが、肝心の友達は受験に失敗し、名古屋に残ることになってしまった。
すでに、大家さんとの話が進んでいて、探していた下宿も断っていたので、自分としても困ってしまった。
友達はそれを見かねて、友達自身が出て新しい下宿を探して住むと言うことにしてくれた。
友達には本当に申し訳ないことになったが、私には本当にありがたいことだった。

それ以来私は、風呂こそないが、2Kでしかも、東と南に窓のあるアパートに一人住むことになった。
しかも、地下鉄池下駅から歩いて10分ほどで、バス停も近い立地条件で月1万円で暮らすことができた。
南山大学には少々遠くて、自転車で通ってはいたので、坂が多くて結構大変であった。
それでも、途中に友達の下宿もあって、しょっちゅう立ち寄っていた。
何よりも、寝室と勉強部屋とを分けることのできる、快適な環境となたった。
これは、赤穂の自宅でも経験のないことだった。
私にとってこのアパート丸美荘は、その後の人生の方向を決める掛け替えのない場所となった。

ずいぶん、大家のお婆さんはお世話になり、病気になったときには食事を持ってきてくれたりしてくれた。
大家さん夫婦には子供がなくて、我が子のように可愛がってくれた。
にも関わらず、ずいぶん好き放題をして、迷惑をかけていたと思う。
卒業後の大学院在籍中に、思い立って挨拶しに行ったときには、既にお婆さんは亡くなっていた。
残されたお爺さんも私の顔を見ても、分からなくなってしまっていた。
ただ、仏壇に手を合わせるしか私にはできなかった。
10年程前に、名古屋に行く機会があったので、アパートを訪ねにいったが、そこにはもうアパートはなかった。
私にとって大切な大家さんの思い出や、大学時代の日々の記憶がいっぱい詰まった場所が失われてしまったことに、底知れぬ寂しさを感じた。

私は、大家さんから受けた恩は、他の人にお返しするしかないということをずっと思い続けている。


2018年9月26日水曜日

泥棒との遭遇

先日相生に住む義母の隣に泥棒が入ったという。
間の悪いことに、その人は裏口でその泥棒に鉢合わせになり、急いで警察に連絡したという。
幸い泥棒も逃げてくれたようで、被害はなかったようだが、パトカーが集まってきて大騒動だったそうだ。
それ以来、義母は泥棒を恐れて、夜間の外出などを控えたりしている。
以前から、相生の駅近くにある義母の家付近では、泥棒の話を聞いていた。
義父が存命の時からも、二階の窓やトイレの窓にはつっかえ棒を念のためにしていたくらいだ。
義父が亡くなって一人暮らしになった義母にとっては、不安な材料が増えたと言える。

私たちは上郡の今の村に引っ越して以来、その泥棒への備えが甘くなっている。
前にもブログでこの書いたが、村全体が防犯になっている。
誰か知らない人が歩いていると、農作業で外に出ている人の注目を浴びる。
夜間は、街灯は殆どないので物騒に思えるが、庭で飼われている犬が不審者に吠える。
特に私の家のクロは、見知らぬ人に吠えることが多い。
ただ、気分次第で吠えないときもあるので、万全とは言えない。
村によっては、猟犬を多く飼っている家もあるので、そういうところには散歩しづらい。
地元の者にとっても、用事のない限りは他の村には、あまり行かないというのが普通だろう。

この高田地区にも、駐在所があるのだが、朝の通学時以外はお巡りさんに滅多にお目にかかることはない。
ただ、こんな田舎でもたまに交通事故もある。
通園や通学する児童生徒の見守りは大切な仕事に変わりはない。
これはお巡りさんだけではなく、地域のボランティアの人の活躍も重要だ。
村の生活は不自由なところが多いが、泥棒などの犯罪からの不安が少ないので、住み心地は悪くない。
これも楽園の大切な条件だろう。


2018年9月23日日曜日

楽園はそばに

人生の9月15日に近所の料理店『四季菜の里 秋翠亭』がテレビ朝日の『人生の楽園』に取り上げられた。
散歩の時にで目にしていた店ではあるが、一度もいったことも無く、どういう店かも知らなかった。
ただ、熱心に畑をやっている人がいるなとは思っていた。
テレビでは隣接する高田台ネオポリスはあまり映されていなかった。
場所的には私の住む中野より、新興住宅地に近く、県道のそばで、コンビニも近くにある。
だから、山深い村というイメージで来られると、がっかりされるかもしれない。
ただ、場所的に山際にあって、見晴らしが良くて、私の散歩道は主人公の秋岡安子さんの散歩道とかぶっていた。
この一帯は水田が広がっているが、番組でも紹介されていた高田米が有名である。
というのは山が落葉樹で覆われて、有機質の水が水田に供給される。
山からの水を利用している高田地区の水田は美味しいのである。
同じ高田地区でも、千種川の水を利用している水田は有機質が少ないので品質は劣る。

この番組を通じて、是非高田米が知れ渡ればと思うが、品薄になって手に入らないのも困る。
でも、飼料米を作っている水田もあるくらいだから、まだ増産する余地はあるようには思える。
そういえば、数週間前にテレビの撮影隊らしき人たちが、朝の水田風景を撮影していた。
たぶんこの番組のための風景取りだったのだろうと思う。
蓮の花の咲く様子も映像で流してくれたので、またそれも関心を呼んでくれれば良い。
これからは、米だけではなくて、野菜も色々と取り組んで行ければと思う。
専業農家だけでなく、一般の人が農作業を楽しめる市民農園のような場所もできれば良い。
採算重視の野菜農家は、出荷先は姫路などになっているようなので、地元で販売できる場所も必要だろう。

この楽園に移り住みたい方は、それなりの覚悟がいると思う。
村の付き合いは、結構密である。
たぶん負担に思うのは、村作業だと思う。
草刈り作業などは。早い村などは朝の6時から始めているところもある。
出不足金を払うところもあるが、ないところの方が実は厳しい目がある。
それに対して、高田台ネオポリスではそういう作業は殆どないようなので、苦手な人はそちらがむいていると思う。
高田台ネオポリスは町の暮らしと同じような生活ができると思う。
しかも、周りの自然を満喫できる。
今は空き家が増えてきて、安い価格で売り出されている。
ただし、坂の多い町なので、高齢者には少々住みづらいかも知れない。

2018年9月20日木曜日

姫路本町68番地の知り合い

先日ふと国立病院への入院という話のきっかけで、母校の淳心学院界隈のことが話題になった。
因みに姫路の国立病院は姫路陸軍衛戍病院であり、淳心学院の敷地には陸軍の第10師団の指令本部があったと聞く。
また、今の美術館の建物は第10師団の倉庫であった。
要するに戦前は軍関連の施設があった場所なのである。

話の相手はもと裁判所にお勤めだった人で、淳心学院のそばの庁舎にお勤めだったという。
姫路城の公園整備で、今は美術館や博物館になっているところには、市役所、裁判所などがあった。
市役所の現在の位置への移転は1980年だそうだから、私が名古屋で学生していた頃に移ったようだ。
姫路市民でもなかったので、市役所にも縁はなかったし、ましてや裁判所には縁はなかった。
何か古めかしい建物が建っているなというくらいしか記憶にない。

裁判所勤めの人との話で出てきたのは、よく飛んできたクジャクの話である。
私は、白いクジャクの方が印象に残っている。
別に放し飼いにしていたわけではないようだが、ケージの上にネットを張っていなかったようで、よく動物園から飛んで出ていた。
私は朝はわざと、駅から遠回りして動物園と姫路城の間の道を通学で通っていたので、そのクジャクはいつも目にしていた。
朝は吠えザルが「ホー オ」と鳴いて賑やかで、生徒の中にはそれを真似してふざけたりした。
また、内堀の中の水鳥を眺めるのも面白く、暇があると姫路城の内堀の周りを散歩したりした。
裁判所勤めの人の気持ちも、その雰囲気に心和ませていたのだろうと思う。
思い出話がクジャクになるのは、そういう環境で過ごしたおかげである。

姫路城の中堀の姫路本町68番地は世界遺産として名だたるものになった。
私などのようにそこで過ごしていた者にとっては、クジャクが飛んできたり、動物園の動物の鳴き声などが思い出せる場所であった。
城の南側の賑やかな場所より、北側の何もない広場の方が落ち着けた。
そして東側の戦前までは軍関連の施設が建っていた場所は、こういう平和な場所に生まれ変わったようだ。
そういう場所で6年間学べたのも、私にとっては掛け替えのない経験だと今は思える。