前回のブログでかぐや姫の神田川を引用したが、私は一時東京の中野に住んでいたので、神田川は近くにあった。
しかし、情緒のないコンクリートで固められた神田川には、全く魅力を感じなかった。
私にとって思いで深いのは、むしろ恩田川である。
先日大学が恩田川の近くにあったという同じ職場の若い職員から、恩田川沿いをよく走ったという話を聞かされた。
自分もこの川の土手をジョギングしたり、散歩したり、自転車で走ったりしたので話がはずんだ。
私は大学院時代、東京都の中野、新宿区西落合、そして横浜市緑区長津田に住んでいた。
毎年引っ越しをするという、引っ越しマニアでもあった。
当時は部屋に荷物も大して無くて、気楽な引っ越しだった。
私は長津田のアパートで、修士論文を必死になって書いていた。
引き籠もって書いている内に、心身ともまいってしまい、それを紛らすために川沿いを散歩し始めたのが始まりだった。
散歩をすることから、ジョギングに変わり、何もかも忘れて夢中で走っていたのを憶えている。
その川沿いのジョギングは、赤穂では大津川と千種川、龍野では栗栖川、上郡では高田川と千種川、姫路では市川と場所が変わった。
川の流れを眺めながら、移ろう季節を感じながら走っていた。
その始まりは恩田川だったのだなと、改めて気がついた。
ジョギングはしなかったけれど、名古屋では天白川や山崎川、新宿区の西落合では妙正寺川には想い出がある。
都会の中の川には、心を安らげる趣があった。
それは桜が植えてあったり、川原には草花が咲いていたからだろう。
その頃、付き合っていた女性とも川沿いをデートすることが多かったように思う。
残念ながら恩田川にはそういうロマンチックな想い出はないけれど、夢破れ帰郷した後も一番思い出したのは恩田川の景色だった。
だから、機会があって10年以上前に東京に行った時に、ついでに寄って写真を撮ってきた。
美空ひばりの「川の流れのように」(作詞秋元康)の歌詞は、川により沿う人の気持ちを上手く表していると思う。
まさしく、私の長い人生をもそこに映すことのできるものだと感じるこの頃である。
播磨の西外れにある私の生まれ育った赤穂や、今暮らしている上郡に関すること、農作業,山野河海の恵み、趣味の水泳、音楽、専門である有機農業や、教育、文化人類学、民俗学に関することなどを、きままに記してみます。
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2019年12月19日木曜日
2019年12月17日火曜日
学生時代の写真からの激励
このところ入院した母の世話や今後のことを考えると、老後の不安を実感せざるを得なかった。
自分自身も持病や身体や容貌の変化に、後ろ向きに考えることが多かった。
そんな中で、ふと学生時代の写真を取り出してみた。
かぐや姫の「神田川」の歌詞ではないけれど、「若かった あの頃 何も恐くなかった」時代である。
私には大切な優しさが欠けていたと苦笑しつつ、当時の自分や親しかった人たちをながめる。
当然、そこには今の自分とは全く違う自分がいる。
残念ながら、大学や大学院の頃に親しかった人とは会う機会が無いので、今の様子は分からない。
私はその頃出逢った人たちを、その頃の年齢の人として思いを寄せている。
高校時代の同級生とは同窓会で会って、ショックを受けたのだから、学生時代の仲間とは会わない方が花なのかも知れない。
写真は高校時代まではそこそこあるのに、高校を卒業してから職に就くまではあまりない。
私はその年数は9年にも及ぶ。
自分にとっては、10代後半から20代後半までの一番若々しかった頃である。
同世代の人たちも、みんな美しく輝いて見えるし、自分自身も今と比べてはハンサムに見える。
写真を見るうちに、昔の気分に引き戻されてきた。
このまま老け込んではいけない。
身体より先に、心が老け込んでどうするんだ!
と、自分に叱咤激励をした。
家族の昔の写真はどうしても、ノスタルジーを感じてしまっていたが、学生時代の写真は励ましとして刺激となった。
子どもが成長した今は、ある意味で学生時代と変わらなくなったところも多い。
そして、当時は将来に不安を抱えていたと同じように、老後に不安は抱えている。
また、今は「何も恐くない」というよりも、「何もかも恐い」と感じている。
その代わり、家内には笑われそうだが、若い頃よりは優しくなってはいると思っているのだが・・・
自分自身も持病や身体や容貌の変化に、後ろ向きに考えることが多かった。
そんな中で、ふと学生時代の写真を取り出してみた。
かぐや姫の「神田川」の歌詞ではないけれど、「若かった あの頃 何も恐くなかった」時代である。
私には大切な優しさが欠けていたと苦笑しつつ、当時の自分や親しかった人たちをながめる。
当然、そこには今の自分とは全く違う自分がいる。
残念ながら、大学や大学院の頃に親しかった人とは会う機会が無いので、今の様子は分からない。
私はその頃出逢った人たちを、その頃の年齢の人として思いを寄せている。
高校時代の同級生とは同窓会で会って、ショックを受けたのだから、学生時代の仲間とは会わない方が花なのかも知れない。
写真は高校時代まではそこそこあるのに、高校を卒業してから職に就くまではあまりない。
私はその年数は9年にも及ぶ。
自分にとっては、10代後半から20代後半までの一番若々しかった頃である。
同世代の人たちも、みんな美しく輝いて見えるし、自分自身も今と比べてはハンサムに見える。
写真を見るうちに、昔の気分に引き戻されてきた。
このまま老け込んではいけない。
身体より先に、心が老け込んでどうするんだ!
と、自分に叱咤激励をした。
家族の昔の写真はどうしても、ノスタルジーを感じてしまっていたが、学生時代の写真は励ましとして刺激となった。
子どもが成長した今は、ある意味で学生時代と変わらなくなったところも多い。
そして、当時は将来に不安を抱えていたと同じように、老後に不安は抱えている。
また、今は「何も恐くない」というよりも、「何もかも恐い」と感じている。
その代わり、家内には笑われそうだが、若い頃よりは優しくなってはいると思っているのだが・・・
2019年12月9日月曜日
プールに戻った海豚
私は1年くらいプールから遠ざかっていた。
ずっと、プールに行きたいという気持ちが起こらなかった。
農作業で忙しかったり、腕が痛かったりと理由はあるが、それは単なる言い訳だった。
プールに行く気が起こらない。
行っても、もうつまらないように思えた。
その間、ずっと散歩で体は動かしてはいたが、どちらかというと気持ちはずっと後ろ向きだった。
今日は久しぶりにプールに行ってみようと思った。
理由は気分転換を少ししたかっただけだった。
子どもが幼い頃に通っていた相生のプールに行った。
もう、30年近くもこのプールで泳いでいる。
ただ、不思議なのだが、プールの駐車場に車を駐めると、これからの泳ぎのモードになる。
過去の想い出よりも、これから自分はどのように泳げるのかということに気持ちが向かうのだ。
そして、プールサイドに立つと、今泳いでいる人たちよりも、もっと良い泳ぎをしたいと思う。
長年の練習で刻み込まれた泳ぐ姿を披露したいと思う。
ところが、いざ泳ぎ始めると、右腕の痛みは強く、すぐに息も上がってしまう。
クイックターンもまともに壁さえ蹴れない。
ちっとも周りに格好良い姿など見せられない。
ただ、以前していたメニューを少しでもこなそうと思うだけである。
不思議に、まともに泳げないと、何とか良い泳ぎをしようと思う。
自分の泳ぎに集中できた。
見渡せば、知っているコーチなどがいて懐かしく思う。
相生のプールの良いところは、見覚えのあるコーチや事務の人が今もいることだ。
中には私が水泳部の顧問をしていた頃に、他校ではあるが現役選手で活躍していたコーチもいる。
上郡にはそういうコーチは誰も残っていない。
このプールは想い出のいっぱい詰まったプールだけれど、感傷的な気持ちにさせられるわけではない。
それは、今でも以前と同じように、一生懸命泳ぐちびっ子がいて、それを見守るお母さんが上のギャラリーのいる雰囲気だからだ。
自分のための練習ではありながら、見られていることを意識する。
実際は、ギャラリーは自分の子どもだけ、コーチは生徒だけを見て、泳いでいる人だけ隣で泳いでいる人を意識して見る。
それでも、自分なりに良い泳ぎをしたいと思って、泳ぎに集中できる。
今日泳いだことで、泳ぐことが、私の心を支えていたことが実感できた。
長い間泳げなかったのは、水泳が心の支えであったことに気がついていなかったからだろう。
自分を失うというのは、こういうことだったのかと改めて気がついた。
ずっと、プールに行きたいという気持ちが起こらなかった。
農作業で忙しかったり、腕が痛かったりと理由はあるが、それは単なる言い訳だった。
プールに行く気が起こらない。
行っても、もうつまらないように思えた。
その間、ずっと散歩で体は動かしてはいたが、どちらかというと気持ちはずっと後ろ向きだった。
今日は久しぶりにプールに行ってみようと思った。
理由は気分転換を少ししたかっただけだった。
子どもが幼い頃に通っていた相生のプールに行った。
もう、30年近くもこのプールで泳いでいる。
ただ、不思議なのだが、プールの駐車場に車を駐めると、これからの泳ぎのモードになる。
過去の想い出よりも、これから自分はどのように泳げるのかということに気持ちが向かうのだ。
そして、プールサイドに立つと、今泳いでいる人たちよりも、もっと良い泳ぎをしたいと思う。
長年の練習で刻み込まれた泳ぐ姿を披露したいと思う。
ところが、いざ泳ぎ始めると、右腕の痛みは強く、すぐに息も上がってしまう。
クイックターンもまともに壁さえ蹴れない。
ちっとも周りに格好良い姿など見せられない。
ただ、以前していたメニューを少しでもこなそうと思うだけである。
不思議に、まともに泳げないと、何とか良い泳ぎをしようと思う。
自分の泳ぎに集中できた。
見渡せば、知っているコーチなどがいて懐かしく思う。
相生のプールの良いところは、見覚えのあるコーチや事務の人が今もいることだ。
中には私が水泳部の顧問をしていた頃に、他校ではあるが現役選手で活躍していたコーチもいる。
上郡にはそういうコーチは誰も残っていない。
このプールは想い出のいっぱい詰まったプールだけれど、感傷的な気持ちにさせられるわけではない。
それは、今でも以前と同じように、一生懸命泳ぐちびっ子がいて、それを見守るお母さんが上のギャラリーのいる雰囲気だからだ。
自分のための練習ではありながら、見られていることを意識する。
実際は、ギャラリーは自分の子どもだけ、コーチは生徒だけを見て、泳いでいる人だけ隣で泳いでいる人を意識して見る。
それでも、自分なりに良い泳ぎをしたいと思って、泳ぎに集中できる。
今日泳いだことで、泳ぐことが、私の心を支えていたことが実感できた。
長い間泳げなかったのは、水泳が心の支えであったことに気がついていなかったからだろう。
自分を失うというのは、こういうことだったのかと改めて気がついた。
2019年12月7日土曜日
今は漕ぎいでな
前のブログで自称「旅を忘れたフィールドワーカー」と名乗った。
10年ほど前までは、奄美や鹿児島に行って追跡調査などをしていた。
実は定時制の高校に移ったのも、もう一度調査旅行に出たかったということもあった。
しかし、定時制は予想に反して、進路部長等を担当したので全日制よりも負担が多くなり、まとめて休みが取れなくなってしまった。
結局、早期退職して研究の機会を得るために執筆に励んだが、家内との約束の半年は過ぎてしまった。
元々、構想していたのは半年で完成できる内容ではなかった。
そしてその後、目的も果たせず職を転々として、現在の常勤の臨時教諭となっている。
考えてみれば、私は教師という職業は続けていたのだが、職場は転々としてきた。
常勤講師を含めると全部で教員では11校、長期研修生(大学院)1校、指導員1施設、インストラクター1施設ということになる。
「職を転々」という言葉はあまり良い意味に聞こえないのと同じく、職場を転々というのもあまり良い意味とは言えないかも知れない。
ただ、住居は結婚して借家に住んだが、現在の家を建ててからは住居を移らずに済んだ。
弟たちが転職や単身赴任などもあって住居を転々としたのとは対照的ではある。
考えようによっては、職場を生業の場と思えば、生活の糧を得るために場所を転々と移動してきたのと同じなのである。
家に居る時は、食事や睡眠が時間として多いので、職場が主な活動の場所であったわけだ。
ただ、家での私は農作業によっても、生活の糧の一部を得ていたので、職場だけに依存していたわけではない。
最近、後藤明氏の『海のモンゴロイド』(2003年 講談社)を、わくわくしながら読んでいた。
専門書で有りながら、ロマンを感じさせる内容だった。
後藤氏は「われわれ(日本人)は、もともと移動してきた民であり、また多方面の知識やアイデアを取り入れる、柔軟な頭を持った民」とし、
「移動するということに対して、何かネガティブなイメージ」を歴史的に築いてきたことに、現代の日本人の自信喪失の原因を見いだす。
その一方で安定した職場を得られなかった「就職氷河期」世代の問題を考えると、自由に活動できたエリート研究者の主張の限界も感じはする。
そういう意味では、公務員として安定した収入を得ながら、転勤という旅をし続けられたのもそれに似ているのかも知れない。
研究者なら日本国中、または、世界を駆け巡ることが出来たのだろうが、私にはできなかった。
その代わりに、海人が守り続けたような「嶋(シマ)」には、居続けることは出来た。
奄美の与路島では、旅に出る人の安全と無事に戻ってくることを祈る習慣があった。
最近、朝日新聞で与路島の北にある加計呂麻島出身者の、大阪での孤独死を大きく取り上げていた。
その人のシマにも同じような習慣はあっただろうと思うが、祈る人も絶えていたのかも知れない。
奄美に限らず、農村の多くは若い人の働く場が失われ、老人達が取り残されている。
それと同じように、賑やかな都会でありながら、誰にも看取られない孤独死が増えているよいう。
そして、東京は直下型地震で壊滅的な災害を受ける可能性を指摘されながら、拡大し続けている。
関東大震災後の歴史が教訓として残っているのにも関わらずである。
所詮、東京(江戸)は破壊と創造を繰り返すと言えばそれまでだが、そのために多くの市民が命を落として良いはずがない。
東京に限らず、大都会の自然災害における脆弱ぶりは指摘され続けている。
今こそ、大都会からの船出が必要なのでは無いだろうかと思う。
後藤氏は前述の書の中で「クック諸島:ルーの物語」という航海神話を紹介している。
人口増加で困窮した海人たちが、勇気を持って新しい嶋を求めて旅立っていく神話である。
危機を前にした大都市の話として考えるべき時が来たように思う。
10年ほど前までは、奄美や鹿児島に行って追跡調査などをしていた。
実は定時制の高校に移ったのも、もう一度調査旅行に出たかったということもあった。
しかし、定時制は予想に反して、進路部長等を担当したので全日制よりも負担が多くなり、まとめて休みが取れなくなってしまった。
結局、早期退職して研究の機会を得るために執筆に励んだが、家内との約束の半年は過ぎてしまった。
元々、構想していたのは半年で完成できる内容ではなかった。
そしてその後、目的も果たせず職を転々として、現在の常勤の臨時教諭となっている。
考えてみれば、私は教師という職業は続けていたのだが、職場は転々としてきた。
常勤講師を含めると全部で教員では11校、長期研修生(大学院)1校、指導員1施設、インストラクター1施設ということになる。
「職を転々」という言葉はあまり良い意味に聞こえないのと同じく、職場を転々というのもあまり良い意味とは言えないかも知れない。
ただ、住居は結婚して借家に住んだが、現在の家を建ててからは住居を移らずに済んだ。
弟たちが転職や単身赴任などもあって住居を転々としたのとは対照的ではある。
考えようによっては、職場を生業の場と思えば、生活の糧を得るために場所を転々と移動してきたのと同じなのである。
家に居る時は、食事や睡眠が時間として多いので、職場が主な活動の場所であったわけだ。
ただ、家での私は農作業によっても、生活の糧の一部を得ていたので、職場だけに依存していたわけではない。
最近、後藤明氏の『海のモンゴロイド』(2003年 講談社)を、わくわくしながら読んでいた。
専門書で有りながら、ロマンを感じさせる内容だった。
後藤氏は「われわれ(日本人)は、もともと移動してきた民であり、また多方面の知識やアイデアを取り入れる、柔軟な頭を持った民」とし、
「移動するということに対して、何かネガティブなイメージ」を歴史的に築いてきたことに、現代の日本人の自信喪失の原因を見いだす。
その一方で安定した職場を得られなかった「就職氷河期」世代の問題を考えると、自由に活動できたエリート研究者の主張の限界も感じはする。
そういう意味では、公務員として安定した収入を得ながら、転勤という旅をし続けられたのもそれに似ているのかも知れない。
研究者なら日本国中、または、世界を駆け巡ることが出来たのだろうが、私にはできなかった。
その代わりに、海人が守り続けたような「嶋(シマ)」には、居続けることは出来た。
奄美の与路島では、旅に出る人の安全と無事に戻ってくることを祈る習慣があった。
最近、朝日新聞で与路島の北にある加計呂麻島出身者の、大阪での孤独死を大きく取り上げていた。
その人のシマにも同じような習慣はあっただろうと思うが、祈る人も絶えていたのかも知れない。
奄美に限らず、農村の多くは若い人の働く場が失われ、老人達が取り残されている。
それと同じように、賑やかな都会でありながら、誰にも看取られない孤独死が増えているよいう。
そして、東京は直下型地震で壊滅的な災害を受ける可能性を指摘されながら、拡大し続けている。
関東大震災後の歴史が教訓として残っているのにも関わらずである。
所詮、東京(江戸)は破壊と創造を繰り返すと言えばそれまでだが、そのために多くの市民が命を落として良いはずがない。
東京に限らず、大都会の自然災害における脆弱ぶりは指摘され続けている。
今こそ、大都会からの船出が必要なのでは無いだろうかと思う。
後藤氏は前述の書の中で「クック諸島:ルーの物語」という航海神話を紹介している。
人口増加で困窮した海人たちが、勇気を持って新しい嶋を求めて旅立っていく神話である。
危機を前にした大都市の話として考えるべき時が来たように思う。
2019年12月3日火曜日
孫達の活躍が励まし
昨日(12・1)、神奈川県に住む弟夫婦と、就職して東京に住んでいる姪と単身赴任で名古屋にいる姪の父親(弟)が見舞いに来てくれた。
せっかく来るのだから、京都の観光を兼ねてきたという。
母には孫が合計で6人居る。
その内、4人は既に社会人となって働いている。
そして、一人だけ結婚して所帯を持った。
姪の一人は東京の企業に今年就職したが、それは私が東京の大学院に通っていた頃に通学で使っていた鉄道会社である。
鉄道勤務の様子を色々と話を聞かせてもらって懐かしく思った。
新米社員は色々経験させられるらしく、今は駅員をしているという。
大学時代はダンスをするような活発な娘だったので、アナウンスも臆せずやっているようだ。
パイロットになった甥っ子のことも聞いた。
初フライトは羽田から宮崎だったという。
親もその初フライトに客として乗っていったそうだ。
こういうことで、長年の親の苦労に報いることが出来るのだと感心した。
西の方にもフライトするようなので、これから上郡上空も飛んでくるかも知れない。
うちの娘は造船会社で、船にも試運転の時に乗るようだ。
そう考えると、母の孫達は空、海、陸の交通関係に関わっているということだ。
私の父も祖父も曾祖父も海運関係に従事していたことを考えると運命的なことを感じたりもする。
それに比べて、肝心の私を含んだ息子達は、色々の持病を抱えているのが現実なのだ。
誰も交通関連の仕事には今は就いていない。
隔世遺伝とも言うべきなのだろうか。
ともかく、私の母は持病を持つ息子達の様子より、孫達の元気に働く様子の方が励みになったようだ。
そして、旅を忘れたフィールドワーカーの私にも大きな励みとなった。
せっかく来るのだから、京都の観光を兼ねてきたという。
母には孫が合計で6人居る。
その内、4人は既に社会人となって働いている。
そして、一人だけ結婚して所帯を持った。
姪の一人は東京の企業に今年就職したが、それは私が東京の大学院に通っていた頃に通学で使っていた鉄道会社である。
鉄道勤務の様子を色々と話を聞かせてもらって懐かしく思った。
新米社員は色々経験させられるらしく、今は駅員をしているという。
大学時代はダンスをするような活発な娘だったので、アナウンスも臆せずやっているようだ。
パイロットになった甥っ子のことも聞いた。
初フライトは羽田から宮崎だったという。
親もその初フライトに客として乗っていったそうだ。
こういうことで、長年の親の苦労に報いることが出来るのだと感心した。
西の方にもフライトするようなので、これから上郡上空も飛んでくるかも知れない。
うちの娘は造船会社で、船にも試運転の時に乗るようだ。
そう考えると、母の孫達は空、海、陸の交通関係に関わっているということだ。
私の父も祖父も曾祖父も海運関係に従事していたことを考えると運命的なことを感じたりもする。
それに比べて、肝心の私を含んだ息子達は、色々の持病を抱えているのが現実なのだ。
誰も交通関連の仕事には今は就いていない。
隔世遺伝とも言うべきなのだろうか。
ともかく、私の母は持病を持つ息子達の様子より、孫達の元気に働く様子の方が励みになったようだ。
そして、旅を忘れたフィールドワーカーの私にも大きな励みとなった。
2019年11月30日土曜日
孫の手
昨晩、母の頼まれごとがあって、病院に見舞いに行った。
病室で母と話をしていると、孫二人(私にとって甥と姪)が母親と見舞いに来てくれた。
インフルエンザの予防注射をしたついでに寄ってくれたという。
久しぶりに会った二人は思ったより大きくなっていた。
この二人は赤穂で生まれ、赤穂で育ってきた。
そして、母は時折、孫の家に行って食事をしたりして楽しく過ごしたしていた。
私の子供も幼い頃は毎週のように、私の実家に行ってじいちゃん・ばあちゃんと会う機会はあった。
しかし、子ども達は学校中心の生活になって、盆正月や冠婚葬祭以外に会う機会は殆どなくなっていた。
それに比べて、近くに住んでいた弟夫婦の孫達は、普段から会う機会が続いていた。
だから、母にとって一番親しい孫と言えるのかも知れない。
因みに私の姪は高校生だが、妙な縁で姪の担任の先生をよく知っている。
というのも、担任の先生が大学生時代、私の勤めていた高校へ教育実習に来た時に、私が指導教官になったからだ。
私は初めての経験で、私の家にまで来てもらって指導したことも憶えている。
今は立派な先生になり、姪の担任をしてもらって、喜んでいる。
早いものでその姪も来年から短大に行くことが決まった。
家から通えるところなので、赤穂から離れることはない。
私の娘はどこの学校へ行っても、私の知り合いがいて、それが負担だったようだ。
地元を離れて行った大学には、初めて私の知り合いがいなくてほっとしたようだ。
逆に息子は、私の知り合いの先生に、よく声をかけてもらって喜んでいた。
そして、今でも地元の上郡で暮らしている。
ベッドの周りで色々話をして、そろそろ帰ると言うことになった。
姪は母の枕元に行って、母の手を握って、「おばあちゃん 元気になってね」と励ましてくれた。
「やはり、女の子は優しいね」と褒められるのを見た甥も、同じようにそばに行って母の手を握って励ましてくれた。
母は非常に喜んで、久しぶりに笑顔を見せてくれた。
一時は今後のことを悲観して、元気を失っていた母だが、孫達の手は大きな励ましとなったようだ。
私のような実の子どもでも、この歳になってはなかなか出来ないことを、若い孫達はためらいなくしてくれる。
母だけでなく、私も含めて老いたる者は、若い世代に支えられていることを感じざるを得なかった。
病室で母と話をしていると、孫二人(私にとって甥と姪)が母親と見舞いに来てくれた。
インフルエンザの予防注射をしたついでに寄ってくれたという。
久しぶりに会った二人は思ったより大きくなっていた。
この二人は赤穂で生まれ、赤穂で育ってきた。
そして、母は時折、孫の家に行って食事をしたりして楽しく過ごしたしていた。
私の子供も幼い頃は毎週のように、私の実家に行ってじいちゃん・ばあちゃんと会う機会はあった。
しかし、子ども達は学校中心の生活になって、盆正月や冠婚葬祭以外に会う機会は殆どなくなっていた。
それに比べて、近くに住んでいた弟夫婦の孫達は、普段から会う機会が続いていた。
だから、母にとって一番親しい孫と言えるのかも知れない。
因みに私の姪は高校生だが、妙な縁で姪の担任の先生をよく知っている。
というのも、担任の先生が大学生時代、私の勤めていた高校へ教育実習に来た時に、私が指導教官になったからだ。
私は初めての経験で、私の家にまで来てもらって指導したことも憶えている。
今は立派な先生になり、姪の担任をしてもらって、喜んでいる。
早いものでその姪も来年から短大に行くことが決まった。
家から通えるところなので、赤穂から離れることはない。
私の娘はどこの学校へ行っても、私の知り合いがいて、それが負担だったようだ。
地元を離れて行った大学には、初めて私の知り合いがいなくてほっとしたようだ。
逆に息子は、私の知り合いの先生に、よく声をかけてもらって喜んでいた。
そして、今でも地元の上郡で暮らしている。
ベッドの周りで色々話をして、そろそろ帰ると言うことになった。
姪は母の枕元に行って、母の手を握って、「おばあちゃん 元気になってね」と励ましてくれた。
「やはり、女の子は優しいね」と褒められるのを見た甥も、同じようにそばに行って母の手を握って励ましてくれた。
母は非常に喜んで、久しぶりに笑顔を見せてくれた。
一時は今後のことを悲観して、元気を失っていた母だが、孫達の手は大きな励ましとなったようだ。
私のような実の子どもでも、この歳になってはなかなか出来ないことを、若い孫達はためらいなくしてくれる。
母だけでなく、私も含めて老いたる者は、若い世代に支えられていることを感じざるを得なかった。
2019年11月29日金曜日
丸山海岸2019年秋
赤穂市の御崎から坂越に抜ける県道32号の海岸線には、福浦海岸、大塚海岸、丸山海岸がある。
アース製薬の前にも、広い浜辺があるが、そこですごした経験は殆どなかった。
私が子供の頃は、直接大塚海岸に抜ける自動車道がなくて、向山の山道を山越えするか、御崎の方から回っていくしかなかった。
歩いてなら大塚海岸が尾崎小学校から一番近かった。
小学校の遠足でも、大塚古墳を見るついでに、大塚海岸に行ったりしていた。
古墳の下にも小さな浜辺もあるが、海水浴を行うのは野外活動センターがある広い浜辺である。
特別支援学校に勤務していた時は、何度もこのセンターと海岸を利用させてもらっていた。
丸山海岸は、幼稚園や小学校のちょっとしたバス旅行や遠足でやってきていた。
切り立った岩場に上って、先生に注意されたりしたが、その岩場が丸山海岸の魅力になっている。
仕事の就いた独身の頃も、仲間と一緒に泳いだり、魚を捕ってバーベキューをした。
子供が出来た後も、親戚と一緒に海水浴に来た。
この海岸は、私の50年以上の想い出が残っているところである。
そこで、見ている景色は様々な記憶の景色が、背景に投影されたものでもある。
丸山海岸には広い駐車場があるし、公衆便所があるのでちょっと休憩をするのにも良い。
何よりも浜辺が広く、西側は崖にはなっていなくて、山際にキャンプ場がある。
私が行った日は平日だったが、大きなテントが3張も駐車場付近に、そして木々の中に1張あった。
たいてい、ここに来る時にはテントが張ってある。
以前から、亀の手を獲ったり、わかめを拾ったりしたのは東側であり、崖になっているところである。
その、岩場を過ぎると、また小さな浜辺になる。
そこでは、アサリも少しは採れたが、多くの人が採り尽くしたようだ。
その岩場にしゃがみ込んで、海の様子や景色を眺めた。
何度も言うように、私は船の上で育ったので、海を見ると心が和む。
一人で過ごしても、孤独を感じない。
それが、母なる生みたる所以かも知れない。
アース製薬の前にも、広い浜辺があるが、そこですごした経験は殆どなかった。
私が子供の頃は、直接大塚海岸に抜ける自動車道がなくて、向山の山道を山越えするか、御崎の方から回っていくしかなかった。
歩いてなら大塚海岸が尾崎小学校から一番近かった。
小学校の遠足でも、大塚古墳を見るついでに、大塚海岸に行ったりしていた。
古墳の下にも小さな浜辺もあるが、海水浴を行うのは野外活動センターがある広い浜辺である。
特別支援学校に勤務していた時は、何度もこのセンターと海岸を利用させてもらっていた。
丸山海岸は、幼稚園や小学校のちょっとしたバス旅行や遠足でやってきていた。
切り立った岩場に上って、先生に注意されたりしたが、その岩場が丸山海岸の魅力になっている。
仕事の就いた独身の頃も、仲間と一緒に泳いだり、魚を捕ってバーベキューをした。
子供が出来た後も、親戚と一緒に海水浴に来た。
この海岸は、私の50年以上の想い出が残っているところである。
そこで、見ている景色は様々な記憶の景色が、背景に投影されたものでもある。
丸山海岸には広い駐車場があるし、公衆便所があるのでちょっと休憩をするのにも良い。
何よりも浜辺が広く、西側は崖にはなっていなくて、山際にキャンプ場がある。
私が行った日は平日だったが、大きなテントが3張も駐車場付近に、そして木々の中に1張あった。
たいてい、ここに来る時にはテントが張ってある。
以前から、亀の手を獲ったり、わかめを拾ったりしたのは東側であり、崖になっているところである。
その、岩場を過ぎると、また小さな浜辺になる。
そこでは、アサリも少しは採れたが、多くの人が採り尽くしたようだ。
その岩場にしゃがみ込んで、海の様子や景色を眺めた。
何度も言うように、私は船の上で育ったので、海を見ると心が和む。
一人で過ごしても、孤独を感じない。
それが、母なる生みたる所以かも知れない。
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