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2023年9月22日金曜日

もち麦の栽培と調理

 昨年秋にもち麦の種は、播種用のダイシもち麦と食用の玄麦を用いました。

播種用の方は思ったより量が少なかったので、収穫した物は次年度用に置いています。

食用の方もちゃんと育って、多く実りました。

蒔いて、芽が伸びた後に、麦踏みを一度した程度で、殆ど何もしませんでした。

それでもちゃんと実って、色づいたので刈り取りをしたのですが、面倒くさいので、普通に草刈り機で刈ってしまったのです。

それが大きな間違いで、バラバラになった麦を集めるのも一苦労で、結局山積みにしてブルーシートを掛けて放ってしまいました。

その後、脱穀しようと足踏み脱穀機を使おうとしましたが、上手くいかず、結局手で穂をちぎって、最初は大きな鍋を臼代わりにつきました。

篩を使ってそぎ落としたりもしましたが、なかなか効率よくいきません。

そこで、家に今は使っていない精米機があるのを思いだして、それを使いました。

ちぎった穂を精米機に掛けると。上手く脱穀できました。

ただ、できる分量は少なくて、一生懸命3時間ほどやって、一週間分食べる量ができる程度でした。

そこで、皮付きのダイシもち麦を買って、家のもち麦と半々で炊きました。

ところが、今までより非常に固くて、ちょっと消化不良気味になりました。

それで、分かったのですが、精米機は脱穀だけで無く、精白もしてくれていたのです。

だから、私は今まで完全に玄麦100%を食べていたのではなくて、幾分か精白したもち麦を食べていたということなのです。

因みに古くなった家の精白機で4分ほど回していますが、何分搗きになったか分かりません。

その後は買ったダイシもち麦も6分ほど精白して炊いています。

因みに家では3~4時間程度水に浸け後炊いて、シャトルシェフに5~6時間入れてます。

固いときは電子レンジでもう一度加熱してます。

水加減が難しくて、水気が残っていたり、お粥のようになることがありましたが、芯が残っていたことはありません。

これからは、大豆や蕎麦の実などの雑穀も入れて色々工夫してみる予定です。

これから私は水稲の米から卒業したいと思っています。

稲を作るなら陸稲にしようと思っています。

理由は、村の中で水稲を作る場合、水利組合に入って管理や補修作業等の仕事をしなくてはいけません。

そもそも、水稲は田圃一枚借りねばならず、それに対応できる機械など持っていません。

農薬なしでは、病気や害虫にやられるし、除草剤を使わないと、大変な除草作業となります。

その点で、稲以外の雑穀類は、無農薬で問題なかったし、夏も冬も雑草取りに追われることは無かった。

肥料も有機石灰と油粕と鶏糞を最初にすき込んだだけで、追肥はしなかった。

何よりも皮肉なことですが、雀が激減(農薬の空中散布のせいと思われる)していて、その食害が殆どない。

30年ほど前に、赤穂で小麦を作ったときには、雀や鳩の食害に手を焼きました。

確かにお米のご飯は美味しいと思うけれど、私の場合は糖尿病としての警戒感が勝るので、安心して食べられる雑穀の方が食べる喜びを感じています。



2023年9月20日水曜日

逃げるは恥だが役に立った早期退職

私は57歳にして高校教諭の職を辞した。

本当は55歳の免許更新時に退職しようと思ったのだが、事務長から強く引き留められたこともあって、退職を諦めその後定時制に変わった。

定時制も同じように多忙を極め糖尿病も悪化したので、たった1年で早期退職した。

その後、色んなアルバイトや臨時の仕事をしたが、結局常勤や非常勤のの高校教師に戻ってしまっていた。

昨年は賃労働は一切しなかったのだが、今年は家内に申し訳なくて非常勤講師を引き受けた。

昨年度からの新課程では定期考査や成績処理が煩雑になり多忙で、随分と過酷だった。

私は昨年勤務していないので全くその認識がなく、頼んできた校長が元同僚だったので、気安く安請け合いしたのが運の尽きだった。

何度も辞めたいと思ったが、何とか1学期は切り抜けた。

それでも、夏休みのお陰で、ここ10年ほども果たせなかった、糖尿病の改善が果たせたのだ。

 これは、早期退職して、農作業にも力を注ぐことができ、もち麦を自分で栽培して食べることができたお陰だと思う。

もし、去年賃労働をしていたら、そこまで出来ていなかっただろうと思う。

だから、来年は年金も満額出るので、農作業と研究中心の生活に戻したいと思っている。

そんな中で、血糖値が異常に高いのに、激務に健康を顧みられない現役教師を見かけている。

かつて、60歳前の現役で亡くなった人は、真面目で責任感の強い人が殆どだった。

私は自律神経失調症になって、仕事を続けるのが辛く病院に通いながら休みがちになった時期がある、その時も責任が重く多忙を極めていた。

先日も他校で一緒に仕事をした女性教師が精神的に病んで長期の病欠に入った。

彼女は学生時代少林寺拳法をしていたような闊達な人で、一緒だった職場でもその快活な仕事ぶりに感心させられていた。

その彼女は以前勤めていた学校に戻ってきて、その変貌に失望していた。

責任を背負わなくてはならない教師が追い詰められていくのを見ると、当時の自分と重なってしまう。

15年ほど前は教師志望が多くて、生徒を教育学部に入れるのが困難な時代があった。

その当時高校生だった娘は教員にはなろうとはしなかったので、自分も薦めなかった。

今の現場をみるとつくづく、教師を薦めずに良かったと思う。

ある早期退職した非常勤講師から聞いたのだが、その娘さんはが父親と同じように教師になったが、娘さん自身いつも帰宅が遅く、仲間の新任教師が辞めていくという。

教師を追い詰めていく政策(例えば免許更新)がなされ、その政策を担ったのも同じ教師自身で有ることも事実だ。

不登校の生徒や退職や病欠の教師が増えた学校は疲弊しているとしか思えない。

今回の新課程の指導方法は、私どものような非常勤講師には耐えられないように思うし、常勤の教師もまた一つ仕事を大きく増やされたと思う。

途中で辞めたいくらいだが、いったん引き受けた以上は何とか冬を乗り切ってから逃げようと思う。

「逃げるは恥だが役に立つ」は、ハンガリーのことわざ「Szégyen a futás, de hasznos.」[7] の和訳で「恥ずかしい逃げ方だったとしても生き抜くことが大切」の意味(逃げるは恥だが役に立つ - Wikipedia)だそうだ。

沖縄の「命ドゥ 宝」とも通じて、早期退職の私には相応しい言葉のように思える。

問題なのはむしろ逃げ先で、そこでどう生き抜いていくかを考えるのが重要だろう。


2023年9月12日火曜日

玄麦(もち麦)の血糖値低下効果

 久しぶりに投稿するのは、その書きたい衝動に駆られたからです。

実は、この7月に糖尿病の検査数値、HgA1cが7.0にもなって、危機感を抱いていました。

ところが、この8月に6.5、9月にはなんと6.1まで下がり、薬も変わりました。

お医者さんも驚きの改善です。

実は7月はちょうど、母の死も重なっていたので、その影響もあって7.0になって、このままでは薬を強くせねばならないところまで来ていたからです。

ただ、幸いなことに非常勤講師を務める高校は夏休みに入って、実家と自分の家の後片付けや農作業に打ち込むことができました。

また、収穫して置いた、もち麦も脱穀、籾すりをしてようやく食べることが可能になったのです。
外での仕事はアイスベストと空調服を着て行いましたが、午前中の仕事でダウンし、午後からはゆっくりと過ごしました。

体重もそこそこ減ったと思います(実は怖くてなるべく気にしないようにしていた)。

玄麦(もち麦)は水にしっかりと漬けておいて、煮た後シャトルシェフに入れておきました。

最初は固くて、アゴがだるくなるほどでしたが、水を増やしたりして、少しは柔らかくなりました。

最初は玄米と玄麦が半々くらいにして食べていたですが、今はほぼ玄麦100%です。

当然固いので、今まで使っていなかった部分入れ歯も毎食つけています。

また、仕事の始まった今月からは職場にも持って行っています。

ただ、肉体労働が減ったので、体重は減っていません(体重計は先月新たに買いました 身長は173cmで86kgを行き来してます)。

お医者さんが言うには、もち麦そのものの成分が良いのではなく、しっかり噛むことが良いのだろうということです。

玄麦はしっかり噛まないと飲み込めないのです。

ネットでは玄麦100%は良くないと書いてあったと思います。

当然、消化に悪く、当初はおならが頻繁に出ました。

今でも出ていますが、腸がなれたのか、回数や量は減ったと思います。

家内には健康のためだと言って、我慢して貰っています。

この玄麦食事療法はその人の胃腸の強さで割合を考えた方が良いでしょう。

強靱な胃腸の方以外は、徐々に割合を増やしていった方が良いと思います。

なお、玄麦は私は自分で作った有機作物ですが、ネットでも売っています。

麦は冬場に栽培するので、稲ほど農薬に頼らなくて良いと思います。

私も無くなったら購入しようと思っています。

それと、もう少しすればタカキビ(コウリャン)やサツマイモも収穫できるので、それも加えようと思っています。

ジャガイモやサツマイモを主食に試しましたが、今までの食生活とかなり違うので続けづらかったですが、麦食は米食にかなり近くて続いています。

よかったら試してください。


2020年3月31日火曜日

あの素晴らしい日々よもう一度

私は大学に入った時は研究者を目指すつもりなどなかった。
どちらかというとミュージシャンになりたかった。
しかし、村落調査のサークルに入って、その魅力にとりつかれてしまった。
そして、いつしか大学院へ行って研究を続けたいと思った。
当然、語学や専門は大して勉強していなかったので、ゼミの先生からは都立大学大学院に入るのは(卒業後)二~三年はかかると言われた。
それは、都立大の先輩の中でそういう人がいて、私の大学がその先輩の大学のレベルより低かったのでそう思われたようだ。
当時の都立大学大学院の先輩は、都立大からの進学はあまりなく、他の国公立や有名私学の出身者が殆どで、中には東大を出た人もいた。
そう言われた私は、学部を留年か卒業かは分からないが、大学院での必要な資金を稼いでいるうちに合格できるかもしれないくらいに思っていた。
ところが、現役で合格してしまい、親からの支援も全くなく、非常に貧しい生活を余儀なくされた。
私の兄弟は4人男兄弟で、弟も大学に進学したので、親には私を支援する余力は全くなかった。
その時のことは、以前に「人生を左右する奨学金」というタイトルで、くわしく書いている。
そして、今回の退職でその大学院時代におくった生活に逆戻りすることになった。

三年前に早期退職した時には、家内との約束した研究するための半年の期限が切れて、それ以降は常勤の仕事を始めた。
NPOの農業に始まって、閑谷学校の指導員、プールのインストラクター、定時制高校の常勤臨時講師、常勤臨時教諭と続いた。
プールのインストラクターは、非常勤であったが、それほど長くは勤めていない。
この4月からは、自分の希望で非常勤講師をすることになった。
常勤を求められたが、常勤の勤めはどうしても拘束時間が長くて、思うように研究が進まなかったからだ。
何としても、今年度中に出版までこぎ着けたかったので非常勤講師をお願いした。
当然そうなると、収入が大きく減るので、家計的には厳しくなる。
今回も家内には苦労をかけることになる。

家内には貧乏学生だった頃の話をする。
当然、「時代が違う」と一蹴される。
確かに、車も携帯電話も持たなかった当時と比べれば、生活費はかなり違う。
ただ、当時の東京近郊の暮らしは、結構生活費も高くついていた。
東京中野の風呂・便所なしの6畳一間の1kアパートで23,000円
新宿区の西落合の風呂なし2DKで37,000円
横浜緑区の長津田の風呂・便所有りの2DKで48.000円かかった。
現在は家のローンは払い終わっているので、固定資産税が家賃のようなものだが、月額に直せば一万円ほどだ。
電気代や水道代は当時とそう変わらないと思う。
大学院生時代は、通学費、授業料や本代もかかったのだから、結構経費はかかっている。
その分、今より食費や衣料費などを削っていたように思う。
特に東京中野での暮らしは貧しかったのだが、家庭教師をし始めてからは、美味しいケーキにありつけていた。

学部生の頃も、院生のころも貧しい生活をしていたのに、惨めに思ったことは無い。
周りの仲間もみんな貧しかったからだ。
そして、若さ故に将来にもそんなに不安を感じてはいなかった。
それは支えてくれている人がいたことと、第一線の研究をするのだという意欲があったからだと思う。
それを同時に失った時に、とてつもない不安に襲われた。
今は、研究機関に属してはいないけれど、第一線の研究をしようという意欲がある。
何よりも、幾分の蓄えと自分を支えてくれている家内や家族がいる。
大学院生の時のような気持ちを持つ条件がそろっているのである。
確かに昔のように大きな夢を描くことはできないが、生きる意味を見いだせるし、果たせなかった研究課題をやり遂げる目標がある。
それが地位、名誉、収入には結びつかないかもしれない。
豪華客船や列車の旅や豪華な料理を食べることもできないだろう。
そのかわり、心豊かで充実した日々が送れるように思える。

ポツンと一軒家に多くの人が魅力を感じるのは、単に人里を離れているからでは無い。
世間に惑わされずに、不便ながらも自分なりの世界で自由な生活をしていることに憧れるからだと思う。
何も人里離れて一軒家に住まなくても、どこにでもその気になればそういう生活は可能だと思う。
ある意味で自分にとって大学院時代の一時期が、東京圏の中のポツンと一軒家だったのかも知れない。
これから常勤の仕事から、非常勤の仕事に変わるのは、ポツンと一軒家暮らしになるのと似ているように思える。
それに付き合う家内には気の毒にも思うが、いずれその良さにも気づいてくれるのではないかと願っている・・・
貧しくても夢を抱いて、ずっとときめき続けていたあの素晴らしい日々よもう一度・・・












2020年3月25日水曜日

されど1年

東京オリンピックが1年延長されることが決まった。
そのニュースを聞いて私は「自分はもう一年我慢できなかった」と思わず家内の横で口走った。
1986年のちょうど今頃、修士論文が上手く仕上がらなくて、指導教官の教授から、もう一年頑張るように勧められていた。
自分は修士は三年目で、修論のためにアルバイトも辞めて、パラサイトの状態にあった。
その立場からも精神的に自分で自分を追い詰めて、十二指腸潰瘍を患い、入院するように医者から言われたのはその数ヶ月前だった。
こんな状況をもう一年続けることは、心身ともできないと、半ば自暴自棄になって、修論は通してもらうことにした。

修論は博士に行けるかどうかの試練で、多くの先輩は死ぬ思いで苦しんでいたのは知っていた。
知った人の中には情緒不安定になって治療を受けたり、ぎっくり腰になって救急車で運ばれた人もいた。
何より、良い論文が書けなくて、博士課程に進学するのを諦めた先輩の文献を、私は月賦で譲り受けていた。
私は村落調査を使って修論を書くという上での、心構えがきっちりできていなかった。
調査してすぐは、どうしても資料の整理も付かず、しかもどの資料も使いたくなる。
だから、しばらく時間をおいて、じっくり資料を整理し、分析しなければならない。
結局、手を広げすぎて、まとめきれなくなってしまったのである。
だから、先輩達が普通3年(本来は2年)で書き上げるところを、4年かかっても恥ずかしくは無かったのだ。
だけれど、ぎりぎりの状態で過ごした1年が延長されるという苦しみが耐えられないように思えた。

今から考えれば、既に下書きができていたので、もう少し手直しすれば良いだけだった。
アルバイトも再開して、暮らしも楽にできたはずだった。
おそらく、そういうアドバイスは博士課程の多くの先輩や、仲間から受けていたはずだ。
多くの先輩は、今までやってきたことが無駄になることを惜しんで、強く引き留めてくれた。
しかし、錯乱して自分を失った私の心には、どんなアドバイスも優しい言葉も届かなかった。
60年あまりも生きると、たかがもう1年くらい我慢できたはずだと思う。
当時25歳での1年は、25分の1、今は60分の1である。
1年の重みが今の2.4倍あると思える。
60歳の今の感覚では約2年半に匹敵する。
ただ、人生を左右する上での一年は、大切な一年として我慢して堪えることも必要であることをそのすぐ後に思い知る。
私は研究する機会どころか大切な人も傷つけ、同時に失うことになってしまった。
大学時代からの親友には、「(フェデリコ・フェリーニ監督の映画)「道」*の主人公(ザンパノ)と同じだ」と言われた。
大切な人のことをろくに考えもせず、その愛情の上にあぐらをかき続けていたのは自分であった。
そして、映画とは違い、自分ではなくその人が去って行き、その存在の大きさを思い知って慟哭する。
この悲劇は私の心に傷となって今も消し去ることはできない。

もう一年我慢できていたら、別の人生が開けていたかも知れないし、大切な人を失わなくて済んだのかも知れない。
ただ、この経験があったからこそ、その後の人生で同じような過ちをするまいと生きてこられた。
そして今のように、故郷で自分らしい生活もできている。
この道で暮らしていける研究者にはなれなかったが、細々と研究は続けられている。
そして何よりも、30年以上も連れ添える伴侶にも巡り会い、家族を築くことができた。
人生において、もう1年我慢することの意味は、人によって大きく違うだろう。
多くのアスリートは、前向きに考えられていると思うが、ぎりぎりで耐えている人もいるだろう。
我慢できても我慢できなくても、その1年をどう評価するかはその後の人生にかかっているようにも思える。

ただ、今更思う。
たかが1年・・・我慢できていたら・・・・・
されど1年 本当に悔しいけれど・・・
      小いさ過ぎた自分の限界だった・・・

*道 (1954年の映画)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%93_(1954%E5%B9%B4%E3%81%AE%E6%98%A0%E7%94%BB)






2020年3月23日月曜日

壊れかけの家

この週末は父の13回忌で赤穂の親元の家を片付けて、法事を行った。
コロナウィリスの感染が無ければ、読経してもらった後は、近くのホテルでみんなで宿泊する予定だった。
しかし、この騒ぎでホテルに宿泊することは取りやめになった。
母が感染してはいけないというので、名古屋や東京近辺に住む弟たちは参加するのを迷った。
しかし、今施設に入所してリハビリをしている母が、感染を警戒して外泊どころか面会もできなくなった。
それで、却って参加するのをためらっていた弟やその家族も参加できることになった。
ただ、家で仕出しをとったり、買い出しをして、こじんまりとやることになった。
だから、その準備や片付けが却って大変になってしまった。

私の実家はもう既に築45年以上となり、特に居間の床などが壊れかけている。
色々と修理する必要が出ているのだが、母が一人で暮らすだけだし、その後に誰も住む予定が無い。
無理して全面的に修理する必要が無いと言うことで、何とか母が暮らせるだけにしてあった。
このところ、母も調子が悪くて、集まって食事などをする機会が無かった。
法事も、これまで殆ど食事は宿泊施設を使っていた。
だから、この家で飲食をするのは何年かぶりということだった。
以前は兄弟の家族が集まって、賑やかに盆や正月を過ごした。
今回は、その場にいた父も母もいない。
ただ、私には甥、両親には孫が結婚して、その嫁が加わってくれた。
残念ながら神奈川県の葉山に住む弟夫婦だけは参加できなかった。

寺の住職さんは、その息子さんを高校で教えた関係から親しくて、色々と話が弾んだ。
赤穂の情報は色々と住職さんから聞くことができた。
また、この法事は去年結婚した甥夫婦のお披露目のようにもなった。
甥はパイロットをしているので、その話を聞かせてもらった。
やはり、上郡の上空も飛んでいるというので、これから空を眺めるのが楽しみになった。
また、みんなには美味しい赤穂の坂越の牡蠣も食べてもらった。

これから家をどうするかなど、弟と話をした。
母が亡くなった後、リフォームしてまで、住もうという親族は誰もいない。
いずれ解体して処分せねばならないだろう。
ただ、家を掃除したり片付けたりしている時に、ふとこの家であったことを思い出した。
この家を舞台にして、色々な物語が繰り広げられた。
親兄弟だけではなく、隣の祖母家族との関わりも多かった。
私は友達を招いて泊まらせて、賑やかにやったこともある。
付き合っていた彼女や恋人との想い出もある。
そして、家内との思い出も残っている家である。
多くの想い出が刻まれた家は、その記憶を甦らせてくれる場所でもある。
できることなら残しておきたい。
しかし、これから先、年金暮らしをするのに、固定資産税など余分な経費をかけられない。
想い出だけのために家は維持できないのだと思う。
せめて、母が元気な内だけは、何とか守っていきたいと思ってはいるのだが・・・




2020年3月10日火曜日

壊れかけのラジカセ

ふと収納箱の片隅にあったカセットテープが目に付いた。
中学生の頃から社会人になるまで、ずっとそばに有ったのはラジカセだった。
それがMDになり、CDになっていった。
そして、MP3で聴くようになってから、全くカセットとは縁が切れてしまった。
最近は、音楽は聞き飽きたMP3より、Youtubeで聴く方が多くなった。
いつしか、家にはCDもカセットも再生できるレコードプレイヤーは殆ど壊れて使えなくなってしまっていた。
どうしても、昔のカセットの音を保存したくて、カセットの音楽をMP3に変換するカセットプレーヤーをネットで買った。
USBメモリーに直接MP3で録音できるタイプを買った。

ところが、最初は上手くいったのに、途中で録音が止まったり、記録されたファイルが壊れていたりした。
何が原因か分からないので、とりあえずパソコンのマイク入力で録音することにした。
これには、マイク設定や必要なアプリのインストールしたりして面倒だった。
しかし、そうしてもマイク入力にすると、エコーがかかってしまい不自然になる。
ひょっとしら、USBメモリーに問題があるのかと、新しい超高速メモリータイプというのを買ってきた。
そうすると上手く録音できるようになった。
要するに書き込みが間に合っていなかったようだ。

持っていた多くのカセットテープも最初はどこにしまったか分からなくなっていた。
VHSは大切に座敷の押し入れにしまっていたのだが、押し入れにも無い。
ひょっとしたらと思い、庭の倉庫の棚を調べてみると、二箱の段ボールにいっぱい無造作に入っていた。
それをクリアーボックスに移していたが、タイトルを見るたびに昔の記憶が甦った。
今でもCDで手に入れることはできるけど、それには当時と同じだけの時間が必要になる。
金銭面ではレンタルで借りてやすくできるけれど、当時ほど時間をかけることはできない。
カセットテープの音楽を聴いてみると、殆ど劣化していなくてそこそこいい音がしている。
確かに雑音や機械音がするけれど、心なしかCDやYoutubeより親しみある音に感じる。
MP3で保存しておいて、カセットで聴き続けても良いと思った。

それにしても、残された多くのカセットを手に取ってみると、今より幅広いジャンルの音楽を聴いていたことが分かる。
特に、最近では殆ど聴かなくなったJazzもある。
大学時代にはよく友達や彼女とジャズ喫茶に行って聴いていたのを思いだした。
バンド活動をやめてからも、ずっと音楽はそばにあった
中でもラジカセは人生においても、本当の幸せを教え続けてくれていたのかも知れない。