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2023年10月15日日曜日

シバ栗が一番

 栗の季節になった。

丹波篠山では大きくて甘い栗が売られ出した。

圧力を掛けてはじいた栗は格別に美味しい。

この時期の篠山は観光客で一杯なのだが、年に一度は訪れている。

それにもまして、今の私の楽しみは散歩の道すがらシバ栗を拾いそれを食べることだ。

シバ栗は木によって大きさも違うが、ドングリよりも小さい物も多い。

しかし、普通に店頭で売っている栗よりも甘くて美味しい。

近所の山には植えながら放置してしまった栗の木もあり、近くの人が勝手に拾ったりしている。

私も以前は、なるべく早く散歩に出かけて拾ってきたりした。

大きい栗はそうして皆が拾うが、シバ栗は見向きもされず、鹿などの動物の餌になっている。

だから、動物との競争にはなるが、朝早く行くとポケット一杯くらいにはなることもある。

この季節は大粒のシバ栗のある遠くの山にまで、散歩に出かけることもある。

以前は面倒なので茹でたりしていたが、今年からはシャトルシェフを使って蒸している。

蒸したシバ栗をテーブルに置いておいて、おやつやつまみ代わりに食べている。

因みにテーブルの上には、家で穫れたサツマイモ、落花生や買った銀杏も同じように蒸した物が並ぶ。

家内には栗の皮などが下に落ちるのでいつも小言を言われている。

日本人の前歯はシャベル状になっていると言うことだが、栗の実を皮からへずりとるのにちょうど良い。

小さな栗は爪で剥くのは面倒なので、全部歯で剥いて食べている。

だから、食べかすは鹿などの動物のものとよく似ている。

石臼で磨り潰していた縄文人よりも退化してしまっている・・・・



2023年10月13日金曜日

サツマイモへの思い入れ

 私の父はサツマイモを非常に大事に育てた。

私の幼かった頃は、稲も作っていたし、小麦も作っていた。

おそらくそれで、家族の主食は賄われていたと思う。

職工で昼間もきつい肉体労働をしていたのに、夏場は早朝や夕方に田畑に出たり、休日は農作業をいつもしていた。

子どもが4人もいたので、米は足らなかったのだろうと思うが、朝は小麦を製粉して貰ってホットケーキ(当時はべた焼きと言った)をみんなで食べた。

田圃は一枚は高校用地に売れ、残った一枚に新しい家を建てたので、畑だけが残った。

父はそこで、一番食糧になるサツマイモ作りに力を注いだ。

家のローンや子どもを大学に入れるのに、出費がかさむのでそれを補うためだったのだろう。

サツマイモは自分で苗を作るほどで、冬場は一つずつ靴下などにいれて、リビングの暖かい場所に置いていた。

また、干し芋にしたり、固くして粉にして食べたりしていた。

私は当時はサツマイモは好きになれなかったが、大学に入って下宿生をしていたときは、芋を送って貰って食糧の足しにした。

安いラーメンばかりで飽きていたので、サツマイモは主食に近い形で食べていた。

父は晩年はサツマイモを掘るのも辛くなったようで、私が掘るのを手伝ってあげることも多かった。

そういうサツマイモだが、自分自身は貧乏学生の時代に嫌というほど食べたので、自分であまり作ろうとは思わなかった。

家内もサツマイモはそれほど好きではなく、弁当のおかず程度に欲しいというだけなので、少しだけ作っていた。

しかし、今年からは食糧自給に向けて、サツマイモの作付けを大幅に増やした。

冬場はもち麦を中心とした麦類とジャガイモ、夏場はタカキビを中心とした雑穀とサツマイモが私の食糧自給戦略である、

そして、今年のサツマイモの出来はまずまずだ。

先日来、収穫した芋はふかして、小腹が空いたときや、酒の当てにして食べている。

かつての奄美や沖縄の人のように主食にはできないが、副食としてこれからもしっかり作り続けようと思う。

それにしても、私はだんだん親父に似てきたようだ。

2023年10月9日月曜日

ど根性大根大ちゃんになれない大根

 2005年、兵庫県相生市でアスファルトを割ってそそり立った大根が一世を風靡した。

時々、その場所を通るが、そこにはちゃんと案内が立っている。

それと引き換え、うちの大根と蕪はダイコンハムシにやられて、蕪は壊滅、大根はボロボロの状態でしなっている。

1回目は普通に蒔いて、ボロボロになったので、2回目は同じ所に蒔いて、百円ショップの不織布を被せて置いた。

しかし、一度入ったハムシは居続けたようで、今度はどちらも根こそぎ喰われてしまった。

もう今年は駄目かとも思ったが、蕪なら間に合うと思い、別の場所をバナーで焼いて、肥料(有機石灰と鶏糞)を入れ耕しておいた。

春菊が虫予防に効くというので、あらかじめ買っておいた種を真ん中に蒔いた。

そして、昨日(10/8)種を買いに行ったら、10月でも間に合う大根の種があったので、蕪と一緒に買って帰った。

今日は昨日からの雨で畑はぬかるんでいたが、朝早く起きて大根と蕪の種を蒔いた。

そして、あらかじめネットで買っておいた不織布を被せて、今度は厳重にその裾も抑えて置いた。

はたして、今度こそ上手くいくかどうか分からないが、3回買った種代だけでも馬鹿にならない。

どうしても、農薬を使いたくないので、こんなに苦労する。

以前は少し大きくなったところを青虫にやられて困ったが、壊滅状態になったことは無かった。

これも、農薬空中散布のせいで、天敵が減ってしまったせいかもしれない。

というのも、私は畑防衛隊と名付けたアマガエルが非常に少ないし、カマキリや蜘蛛も減ってしまった。

ただ、コオロギはそこそこいるが、ありがたいことにイナゴはずいぶんと減った。

近所の農家は農薬を普通に使っているので、ネットを使わずに立派に育っている。

最近は大根なども値上がりしているので、農薬使って作った方が安上がりなことも確かだろう。

皮肉なもので、ハムシのいないアスファルトの道の側で作った方が、大根は逞しく育つ時代なのだろうか?

町の真ん中では、農薬の空中散布など絶対あり得ないから・・・・・

2023年10月7日土曜日

非正規雇用と心の支え

 私は大学院時代に親からの支援が一切無くて、アルバイトに打ち込まざるを得なかった。

家庭教師のアルバイトをするまでは、郵便局で短期働いたり、警備会社で高校の宿直や交通整理をしたりした。

宿直の仕事は身体的にも精神的にも負担が重くて、長く続けられなかった。

家庭教師は家庭教師センターに登録して紹介してもらい、裕福な家を常時数軒掛け持っていたので、比較的収入を上げることができた。

しかし、当然ながらアルバイト中心の生活となり、何のために大学院に進学したのか分からない状態だった。

その後、私を支援してくれる人のお陰で、研究に打ち込めたが、結果としては研究も生活も破綻してしまった。

破綻しても未練から、しばらく設計事務所で常勤のアルバイトをしたり、塾のアルバイトをしていたが、生活にも精神的にも行き詰まってしまった。

失意の内に赤穂に戻ってからは、教員になるしか道が開けそうに無かったので、試験までは親の厄介者になった。

試験が終わってからは中学校の短期間の常勤臨時講師と赤穂市の発掘調査のアルバイトをしてすごし、採用前は高校の産休裏の常勤臨時講師をしていた。

大学時代の短期アルバイトを含めて、10年くらいは非正規の仕事をしていたことになる。

その間、年金も横浜市に支払ったはずなのに、その記録は消えてしまっていた。

採用された教師は57歳で早期退職したので、64歳の今日まで7年間は無職や非正規雇用で過ごしてきた。

それができたのは家内の理解と支えがあったらなのだが、若いときの非正規の仕事以上に悲哀を味わわざるを得なかった。

それは、正規の仕事を30年間してきたから余計に感じたのかもしれない。

やはり、仕方ないとは言え、若い人からぞんざいに扱われるのが一番辛かった。

また、仕事を引き受けてから、最初の話と大きく違うこともあり、管理職と実務者の意向の違いが甚だしく、正規以上の過酷さを強いられることもある。

そもそも、授業の時給換算であるので、その準備や定期考査の採点、評価、課題の点検に費やす時間は無給となる(学校によって有給もあるが時間としては割に合わない)。

いくら授業自体の時給が高くても、それに付随する労力を換算すると決して高くは無い。

しかも、一クラスしか無い授業の場合は、時間換算で行くと兵庫県の最低時給を下回るはずである。

そして、通勤時間の負担は、常勤よりも重くなる。

また、夏休み等の長期休みには無給になるので、プールの監視員のような短期のアルバイトを入れて体を壊した若い教師もいた。

だから、正規の教師になる目的を持っている、教師そのものにやり甲斐を感じている、家にいてもやることが無い等、という人しか続けられないと思う。

非常勤講師には過重な新課程に移行している現在、私には家にいてもやることがないからと、引き受けられるような生やさしいものには思えない。

私は今年度、その新課程の過重さを知らなかったものだから、勤務内容も交渉せずに安請け負いしてしまった自分を恥じている。

選択科目が多い高校では非常勤講師は欠かせないだろうに、もう私のような脳天気の退職教師(管理職は見透かしていたようだ)はそんなに多くはいないと思う。

ただ、正規の仕事の時のように、辞めることはいつでも自由だと思い、追い詰められて自律神経を患うことは無い。

以前のように出勤前の吐き気も最近はあまりない。

先日もぞんざいに扱われたのがきっかけで、正規の時に言ったことも無かった「来年度は絶対辞めます」と管理職に公然と言った(後日、実際に継続を断った)。

それは、自分たちが正規の時は、非常勤の人にはそれなりに気を使っていたことを引き合いに出してのことだった。

また別の所では、冗談を粧いながら、管理職に騙されて今年は勤めているが、来年はここで仕事はしないと公言している(こちらも後日、継続を断った)。

非正規は不安定ではあるけれど、辞める選択肢があって、精神的に自分を追い詰めてしまわなくても済む。

来年度からは年金が満額出るので、家内に迷惑を掛けなくて済むと強気でいられるのも確かだ。

やはり、私にとって非常勤講師で働いた動機は、家内への配慮だった。

そして何より、自分を今精神的に救ってくれているのは、若いときからの研究なのである。

希望に満ちた生活を破綻させた研究なのだが、今は心のより所になっている。

それも、家内の理解があってのことで、ありがたく思っている。

たぶん家内も私から研究をとったら、気儘なぐうたら人間でしかないと思ったからなのかもしれない。

皮肉なもので、正規の教師としての仕事の経験は心の支えにはならず、非正規の時にしていた研究の方が心の支えとなっているのだ。

プロの研究者は正規の仕事も心の支えにもなっているのかもしれないが、プロはプロなりに追い込まれてもいるのだろうとも想像はする。

私の研究はプロで無いばかりか、金を多額つぎ込んでそこからの収入もなく、全く道楽でありながら気楽でいるのは少々恥ずかしい。

身を削ることが美徳であるなら、自分は全くそれに欠けているのかもしれない。

研究につぎ込む金は、近所の人がパチンコに金をつぎ込むよりはましぐらいにしか思っていない。

今、ちょうど研究しているのはデヴィッド・グレーバー2016(2011)『負債論―貨幣と暴力の5000年』に関連したものだ。

この高名な人類学者は59歳で波乱な人生を閉じている。

アナーキストでありながら、結局商業経済の中で命を縮めたように思える。

私は恩師である故村武精一先生のお言葉「長生きしてこそ研究は生きる」を信じている。

因みにこのお言葉は、現役で癌で亡くなった知人である人類学者を悼んでおっしゃったものだ。

また、同じく恩師の石川栄吉先生も80歳で亡くなられるまで、ずっと研究を続けておられた。

私は多くの人に「恩」という人間経済の「負債」を背負っているのだが、佐久間寛氏の「返済論」ではないけれど、商業経済とは無縁の研究を通して少しずつ「返済」していこうと思っている。


2023年9月28日木曜日

快適な暮らしの果てに

 私はブログを書く時間も惜しんで、研究のための文献を読みあさり、原稿も書き進んでいた。

しかし、どんな素晴らしい研究も、研究者自身の生活は、自ら食糧等を生産する行為とは結びついていないと思うようになった。

どんなに現代文明の批判を行っていても、その文明の恩恵を享受しているのだ。

以前、割り箸を使うことを批判してマイ箸の使用を訴えていた学生が、燃費の悪い車を乗り回していたのと同じなのだ。

今年の異常な暑さが環境破壊が原因だと分かっていて、乗り切るためにはそれを助長するエアコンでしのぐしか無い自分とも同じだ。

何よりも、私が研究している奄美大島のシマジマは、黒糖地獄と言われていた時代の方が元気だった。

開発が進んできたのに、過疎はいっこうに止まらない。

開発、生活向上という価値観で行けば、見捨てられる運命なのだ。

かく言う私も、寂れ行く田舎にいて、自分は何を追い求めてきたのだろうかと自問している。

しかし、皮肉なもので、多くのことを犠牲にして打ち込んだ仕事のお陰で、年金を受給でき生活の不安もずいぶん解消できる。

それなのに、子や孫と楽しく過ごす時間がもてた父母と同じことができそうにない。

中学校しか出ていない父母の方が、大学院まで出た私よりも、余程生き甲斐を感じながら生きていたのだ。

私は父母よりも、たぶん良い食事をして、快適な暮らしをして、遠くまで旅行に出かけられている。

なのに、子や孫や親戚、友人との関わりにおいては、格段父母の方が充実していたのだ。

ただ、田舎で細々と百姓をしながら暮らすことをおぼえたお陰で、近所の人や散歩の途中で会う人と、ちょっとしたふれ合いができていることが慰めだ。

今、非常勤で勤めている職場には、家にいてもやることが無いから、片道1時間半もかけて遠くから通っている人がいる。

その人は75歳で、仕事があることに喜んでおられる。

その一方私は、先日職場でぞんざいに扱われて、自分の経験が自分の価値にはなっていないことを身にしみて知って哀しみや悔しさを覚えた。

やることが無いからだとか、金が無いからだとか思われて、仕事を回して貰う立場から逃れたいと思った。

それが長く教師を務めたなれの果てであることも自覚した。

だから、これからは本来あるべき生活とは何かを考えながら、暮らしていこうと思う。

私の父親が最後まで百姓することに拘ったように、自分も拘り続けようと思っている。

それは私が奄美でお世話になったオッショーやアンマの暮らしとも通じる。


2023年9月26日火曜日

雀・燕激減と農薬空中散布

 昨日(9/25)夕方、犬の散歩をしながらふと気がついた。

以前なら、実った稲の周りには鳥よけがなされていたのに全くない。

上郡に引っ越ししてきたときに一番驚いたのは、田圃で鳥を脅すためのプロパンガスをを使った爆音機の音だった。

さすがに、それは苦情が出たのか、禁止されたのか、聞かなくなって久しい。

つい最近までは、田圃の中には鳥よけテープがしっかりと張られていたし、呪いのようにジャガイモを串刺しにして、周りに立てている人もいた。

つい数年前までは、雀に稲をかなり食べられている田圃も見かけた。

夕方でもあって雀は家にでも帰ったのだろうかとも思ったが、ネットで調べたら雀や燕が激減しているとある。

そう言えば、家の庭の木には雀がよく集まってきて、うるさいくらいだったのに、最近はそういうことが無い。

燕や蝙蝠も最近はあまり見かけない。

そこで、今日(9/26)は朝の散歩で気をつけてみてみた。

田圃の周りには殆どいないのだが、農業倉庫の回りや、山ぎわの家屋の屋根や草原、稗の生えた水田利用の大豆畑にはしっかりいた。

サギやカラスは沢山いたが、燕は殆ど見かけなかった。

ネットでは新しい建築方法のせいで、棲めなくなったことも原因と言うが、上郡は古い建築方法の家がかなり残っている。

そこで、歩きながら色々考えたのだが、近年で思い当たることは農薬の空中散布だ。

最近ではリモコンヘリだけで無く、ドローンも使って、広範囲に使用され始めた。

そして、もう一つ気がついたのは、以前は蜘蛛の巣がいっぱい、葉や穂の周りにあったのに、それがほとんど無い。

空中散布の広範囲に拡がる強力な効果で虫がいなくなって、雀や燕、蝙蝠、蜘蛛の餌が無くなり、生きていけなくなったのだと思う。

また、農薬のしっかり染みこんだ米に、雀は危険を察知しているのかもしれない。

現に、米を食べない小鳥やサギなどは田圃の周りに沢山いる。

ネットで調べたら、日本ではどんどん空中散布を広げているというが、EUでは農薬の空中散布は原則的に全面禁止だそうだ。

それを知って、早速私は無農薬の玄米をネットで予約した。

近所の農家から美味しくて、安い玄米を買っていたのだが、雀や燕を犠牲にした米は控えようと思う。

たとえその農家が農薬の空中散布をしていなくても、近くでしていれば同じことになる。

これからは少々高くても、無農薬のお米を家族の健康のためと無農薬栽培の農家を応援するために買うことにした。

そして、畑で無農薬、無化学肥料で作ったもち麦やタカキビのくずは、雀のため畑の隅に置いてやることにした。

せっかく、コウノトリが3羽も長くいてくれていたのに、雀のいなくなった村はその価値を台無しにしてしまう。


後日談

今日(9/28)夕方散歩していたら、雀の大群が稔った田圃に群がっているのを見かけた。

山の坂を下りたその田圃だけに、大群が集中しているのだ。

理由は分からないが、農薬をあまり使っていないのかもしれないとも思った。

そう言えば、散歩の時によく会って話をする農家の方から、「おるところには、いっぱいおる」と聞かされていた。

そして、幸生剤も除草剤を使っていないと思われる大豆を植えている田圃には、稗がいっぱい生えていて、それに雀が群がっている。

農薬散布を行わない自分の家の周りにも、人通りの少ない日中には、雀はそこそこ群がっているようだ。

農薬を使っている田畑は自分たち人間でも臭いで分かるので、それと同程度の能力のある鳥には農薬を使っているのが分かるのかもしれない。

一方、絶滅しかかっているとは言え、稲を食い荒らす雀を見かけると、苛立ってしまっている自分もいる。

ただ、稔りの季節は、雀にやられてしまわないように工夫することこそ、田舎暮らしの面白さと考えるしか無いか・・・・



2023年9月24日日曜日

もしあの時100万円あれば

 私は家内がテレビの宝くじのコマーシャルを観て、「宝くじに当たって7億円でも入れば何でもできるのに」という度にこう言う。

「俺は(大学)院時代に100万円さえあったら、人生は変わっとった。お金の価値など単に額やない。」

「そうね、私と結婚せずに済んだもんね」

と必ず言われるので、

「いや、100万円無かったから、お前と結婚できたんやから、無かって良かったんや」

と、いつも繕って誤魔化すのが定番だ。

よくよく考えたから、当時お金が無かったから、私を支えてくれた人と手作りの暮らしをすることができた。

それが破綻したのは、金が無かったからでは無く、夢と希望を自分で消し去ってしまったからだ。

ただ、大学時代は特別奨学金の36,000円があったが、大学院時代には貰える可能性があった、60,000円が貰えなかった。

この差は100万円以上の差となって、自分自身を追い詰めていたとことも確かだとも思う。

もし、大学院時代に奨学金が貰えてたら、自分も私を支えてくれた人も精神的に追い詰めなくて済んだかもしれない。

その一方で、あの時の破綻があって、お金以上の本当の価値が少しは分かる。

夢や希望さえ有れば少々の貧しさは感じない。

逆に今のように貯金と年金やバイトで、暮らしに不安が無くても、残された健康寿命の不安を抱えねばならない。

必要なお金は、夢と希望を分かち合える人と支え合って生きていくのに、暮らしにあった額で良い。

支え合って生きてい行ける人を失って、一人ぼっちになってしまったら、何億円あっても全く価値がない。

そういう意味では、夢と希望があっても現実的に食べていけない人と、お金があっても一人ぼっちで孤独な人を結びつけてあげる方法があれば良いのかもしれない。

ということで、本当はあの時に自分に100万円無くても、支え合って生きていく価値をしっかり分かっていれば破綻は無かった。

目の前にあるお金に換えられない価値を、当時は認識、理解できなかっただけなのだ。

夢と希望を恋愛に結びつけることができるのが、若さの特権だった。

日々の安寧を愛情に結びつけることができるのが、歳を重ねた者の特権でもある。

しかし、そのかけがえのない「若さの特権」の行き場を失った理由を、家内には100万円で誤魔化して取り繕うしかないのが今の私でもある。