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2024年3月16日土曜日

思い出作りの子育て

 以前勤めていた高校で、土日も殆ど野球部の顧問として働いていた同僚から聞いた言葉として、忘れられない言葉がある。

「思い出作りに、やってるだけですよ」

つまり、クラブ指導は大した手当が付くわけでは無い。

むしろ、個人的に持ち出しの方が多くなる場合もある。

だからと言って、強豪チームならいざ知らず、甲子園に出られるわけでも無い。

部員の中には、野球の経験が進路に結びつく者もいるが、そうでない生徒の方がむしろ多いだろう。

教師も生徒も高校時代の思い出作りに、打ち込んでいるだけだという、自虐的な言葉である。

この先生には、お子さんも二人いたが、普段の週末は関わってあげられないと言うことで、正月などのクラブを休める時に泊付きの家族旅行を必ずしていた。

それに関しては我が家よりも、しっかり家族サービスはしていた。

しかし、普段は母子家庭のようなものだと、ぼやいていた。


考えてみれば、子育ても思い出作りだ。

子供に一生懸命に、経済的に支援し、時間もそれなりに割いている。

確かにそれが、子供の自立につながっていくのだから、大切な役割を担っている。

それは、高校のクラブ生徒が成長するのと、さほどかわらないかもしれない。

そして、昔なら親元に残ったり、近くにいて、老後の親の面倒を見るのだ普通だった。

しかし、田舎に住む我々親には、それが殆ど期待できない。

私や家内はたまたま、両親の家の近くに住んでいたので、それなりに関わることができたが、一番両親が期待していた弟夫婦は盆正月にも、殆ど帰ってこなかった。

私とても、東京の大学院で学んでいたのだから、もし、順調にいっていたら、地元には戻ってこなかっただろう。

弟と同じようになっていたかもしれない。


自分の隣の県に住む娘夫婦も、盆正月にさえ帰ってこない。

連絡さえ滅多によこさず、親を気遣っている風でも無い。

こちらは、子供が元気であれば良いと思うが、親子というのはこういうものだったのかと思う。

自分達は何とか、親の老後の世話を少しはできたが、自分の子供に同じことを期待しているわけではない。

今は、施設も整っているし、何とかなりそうだからだ。

そういう意味では、子育ては思い出作りだったのだと、納得してしまう。

思い出としては、本当にかけがえのないもので、人生の中で一番の思い出だとも思う。

子供達の写真や、ビデオは今でもたまに見る。

だから、おひとりさまで気楽で良いと言っている人には、気の毒にさえ思う。

そもそも、私たちの世代までは、子育てをするのが当たり前であり、疑問さえ起こらなかった。

今は、子育ては当たり前ではなくなっているようだ。


同性の結婚が認められるようになれば、ますます、子育ての意味が失せるだろう。

同性の恋人や友人と結婚して、扶養してあげたり、扶養して貰うことも可能になるのだろうか?。

健康保険や年金も、同じように同性の恋人や友人と結婚すれば優遇されるのだろうか?

そうしたら、思い出作りに子育てをして、苦労することなど、裕福な人以外は空しくなるだろう。

野球部の顧問の自虐的な言葉を、子育て夫婦が使うようになるように思えてしまう。






2024年3月12日火曜日

鉄道の価値再認識

 大阪で、古代メキシコ展をやっていて、前から家内とふたりで行くことにしていた。

私は仕事を完全退職したので、いつでも行けるのだが、やっと家内が平日に休みが取れたので、行くことができた。

実は、私はこのごろJRを遠くまで使うのに、行きは上郡駅からスーパーはくとに乗っている。

理由は長い時間トイレを我慢するのが辛いからだ。

以前、新快速でトイレのある車両にわざわざ乗って、大阪駅のかなり手前で入ろうとしたら、ずっと使用中になっていた。

どうも、非常に混雑していたので、中の便座に座っていたらしい。

この経験から、尿意をよくもよおす午前中には、特急列車を用いることにした。

昔のように、グリーン車がどの車両にもついていたら、それを利用するのだが、この辺ではまだ通勤時の一部しか無い。

午後はそれほどでもないので、普通に新快速で帰ることができる。


スーパーはくとの自由席は、空いていて快適なのだが、問題はエンジン音である。

骨伝導のイヤホンを持ってきたのだが、うるさくて殆ど聞こえないので、ずっと景色を見ていた。

私は中学高校と姫路まで、予備校時代は神戸まで通学した経験があるので、景色は変われども懐かしく旅情に浸ることができた。

明石からの海の景色を見終えるまで、尿意は我慢してから、用を足した。

やはり、席を立って、何度もトイレに行くのは恥ずかしいからだ。

特急料金は痛いのだが、我慢する辛さに比べれば、自分にとっては必要経費なのだ。


古代メキシコ展の展示は、目を見張るものが多かった。

特に私は今、ジェームズ、C,スコットの文献をもとに、国家について考えているので、この都市国家のあり方には興味が持てた。

国家と兵士、奴隷の関係、そして祭り、生け贄の関係というのは、あまり触れたくないことだが、重要なことだと思っている。

今回の展示は、写真撮影が可能だったので、たくさん撮らせて貰った。


帰りは大阪駅で、ダイヤが乱れてずいぶん待たされた。

新加速では何とか座れたが、車内は混雑しており、行きの特急に比べて旅情は味わうことは出来なかった。

ただ、はくとのようにエンジン音がうるさくないので、骨伝導イヤホンで聞き逃しのラジオを聞くことができた。

普通車に乗り換えの姫路駅でもダイヤが乱れていたが、何とかここでも座ることができた。

ちょうど、学生の帰る時間帯と重なり、大学生や高校生が車内にはたくさんいた。


私は、この一年間ずっと高校生の授業を担当して、高校生とは接する機会はあったのだが、大学生以上の若い世代はあまり接点がなかった。

電車の中には、お年寄りからサラリーマン、高校生まで老若男女がいる。

当たり前の情景なのだが、高校生以外の若い世代を見るのは久しぶりだった。

特に若い女性が、寒さをものとせず、いかに美しく着飾っているかを、改めて感じた。

そのことを家内に言うと

「若い頃のおしゃれは 我慢よ おばちゃんは 見た目より 現実の寒さ対策よ」と

家内は素朴なダウンジャケットを着ている。

因みに私はダサいダウンジャケットを着るのが嫌だったので、中に「ひだまり」の保温肌着を着込んで、ピンクのポロシャツにお気に入りのデニムジャケットを羽織っただけだった。

美術館に行くのに、それなりに我慢のおしゃれが必要と感じたからだ。


普段ドライブに出かけて、店や食堂でもお年寄りしか会う機会のない私には、非常に新鮮に感じた。

若い人のおしゃべりも聞こえるし、若い女性は着飾って花のように咲いている。

車と違って鉄道が良いのは、色んな人の様子を知ることができることだろう。

残念ながら、私は結局一度も鉄道を使った通勤をしなかった。

自宅も職場も駅からかなり遠かったからだ。

せめて、これからはなるべく鉄道を使って、色々回ってみたい。

今回、初めてモバイルICOCAを使って便利なことも分かった。

実は今回、私の大好きな青春18切符のことを忘れていた。

この切符を使って、快速で行けば、時間はかかるが、経費はずいぶんと節約できた。

要するに、トイレに行きたくなれば駅に降りれば良いし、そもそも、快速は新快速ほど混んでいない。

ただ、弱点は一時間に1本未満の運行では、駅に降りると大幅に到着が遅れてしまう。

それでも、何を隠そう、私は学生の頃は乗り鉄だったのだが、職に就いてからは、滅多に鉄道は利用していない。

これからは、乗り鉄に戻って、日本中をゆっくりと駆け巡ろうと思っている。


2024年3月8日金曜日

ただ去りゆく老教師

 「老兵は死なず ただ消え去るのみ」はマッカーサーの退任演説で有名だが、元々はイギリス将校の歌う兵隊歌だったそうだ。

「役割を終えたものは表舞台を去る」という意味だそうだが、私も高校教師としての役割を終えることができた。

3年前、定時制の非常勤講師をしていたときには、教頭から来年の仕事は無いと校長からの伝言を言い渡された。

まだ年金が出ない私は「ああ~ もう定時制にも働く場所が無いのだな」と惨めな気持ちになった。

以前も、県教育委員会に講師登録したが、雇って貰えなかったので、校長の口利きが無いと駄目なんだなと思って講師登録さえしてなかった。


一昨年は、講師登録がデジタル化して簡単になっていたので、ダメ元で登録していた。

すると、元同僚の校長が私の名前を見つけて声をかけてくれた。

最初声をかけてくれたのは、姫路市南西部にある、そこそこ進学実績のある高校だった。

理由は簡単だった。

新課程になって地理の教師が不足し、おまけに地理教諭が産休に入ってしまったからだった。


次に声がかかったのは、宍粟市の山奥にある、一学年一クラスの学校で、生徒の学力にかなり差があり、3つの類型が設置された学校だった。

この学校は、今いる地歴科教師が日本史の受験指導経験が無いから、是非来て指導して欲しいと言うことだった。

仕事について、それは口実であることが直ぐに分かった。

3年生の受験指導は無く、2年生の受験指導と、1年生の公民を持たされたからだ。

知りあいの校長はたった1年で別の高校に転任してしまい、文句の言い様がなかった。

要するに、こちらはあまりにも僻地で、非常勤講師のなり手が見つからなかっただけのようだった。


そして、何よりも私のような老教師に声がかかったのは、新課程の観点別指導法によって、負担が増してしまい、退職教師からのなり手が減ってしまったようだ。

要するに新課程の負担の多さを知らなかった私が、安易に応募したのが間違いだった。

私は、両行併せて3種類もの新課程の試験を作ることになり、1学期の中間試験から音を上げてしまった。

姫路の高校は、入試に使わない文系生徒の地理総合を3クラス担当したが、そのうちの一クラスは私語こそないものの、授業中の態度は酷かった。

宍粟市の高校は、2年生は10人の進学クラスを歴史総合、1年生は全員の公共だった。

生徒の授業中の態度は非常に良く、1年生は反応も良くしていくれて、授業するのは楽しかった。

そして、何よりもこの町は、私が赤穂の尾崎小学校4年の時に担任してくれた先生の出身地で、この町の話も聞かされていた。

私は3年の時には登校拒否になりかけていたが、その先生に替わってからは、ずいぶんと可愛がって貰って元気を取り戻した。

その先生は赤穂に移り住まれたが、先生の生まれ故郷で少しでも恩返しできたことが、自分には感慨深かった。


私は年金が少し出るようになった時点で、途中でも辞めたいと思った。

しかし、途中で辞めるのは無責任に思い、何とか続けることにしたが、次年度の継続は両校とも断った。

姫路の高校の知りあいの校長からは、私を見込んでお願いしたのにと言われたが、いくら見込まれても無理なことは無理だった。


姫路の高校の最後の授業は学年末試験前で、最後の挨拶どころか、試験勉強させた。

職員室では、昼休みに校長・教頭も不在の中で無理矢理挨拶させられた。

宍粟市の高校は2年生は生徒に最後の挨拶できたが、1年生は授業を勘違いしていて挨拶できなかった。

というのも、この高校は普通の授業担当以外に、時給が3分の1程度の支援担当があって、それを授業と勘違いしていた。

だから、1年生は私が来年は来ないことは告げられなかった。

本当は、この1年生だけでも来年度は担当したいくらい、生徒と仲良くなっていた。

職員には挨拶の言葉は用意していたが求められずに、職員室を出るときにお世話になりましたと言っただけだった。


私が辞める理由は、新課程の負担の大きいのが第一だが、それと同じように年齢を考えたことだ。

今日もラジオで著名な方が、80歳で亡くなったと聞いた。

ああ~自分はあと15年したら、同じように死ぬのかなと思った。

この頃、新聞の死亡記事では必ず年齢を見てしまう。

自分の寿命が気になるが、何よりもいつまでしっかりと頭が働くかだ。

私には、し残した研究がある。

それを仕上げなければ、死ぬに死にきれないのだ。

今年度は新課程に振り回されて、あまり研究は進まなかった。

来年度こそ、年金も満額出るので、家内には遠慮無く研究に打ち込めると思った。


確かに高校教師としての表舞台を去るのは淋しいところもある。

しかし、今度はできれば、研究の表舞台に立ちたいと思っている。

老教師は死なず、次のステージに向かうだけだ。

マッカーサーは戦死せずに軍を去ることを誇ったそうだが、私は現役死せずに無事に教壇を去ることを気休めにはできる。

私は、現役死した教師や、退職してまもなく亡くなった教師を幾人も知っている。

また、トラブルを起こして懲戒免職になったり、辞職せざるを得なかった教師も幾人か知っている。

無事に教壇を去ることが簡単そうで、意外と難しかったのだ。

これからの人生は、特に現役で亡くなった方々の英霊に対して、恥ずかしくない生き方と死に方をしなくてはいけないと思っている。



2024年3月6日水曜日

バブル時代との違い

 平均株価が史上最高値で、バブル時代の再来かとも言われている。

ニュースなどでは、かつてのバブルを経験した人が、当時の浮かれたバブル時代とは大きく違うことを話している。

バブル時代に、私たち教職公務員は取り残されていた。

給料が安いので、教師のなり手が無くて、ポスターまで作って募集した。

朝礼で校長が知りあいの中に、教師のなり手はいないかと、呼びかけねばならないほどだった。


教師の待遇も改善された頃には、今度はバブルがはじけて、公務員人気となった。

よく憶えているのは、教師の定年退職者が増えるというので、17年前くらいには、教育学部の人気が高くなった。

生徒の中にも教員志望が増えたのだが、教育学部にはなかなか入られなかった。

しかし、教師の給料が上がった分、周りからの風当たりが強くなっていった。

私が採用された頃は、夏休みなどは、大学教員のように自由に研修ができたのが、だんだんと厳しくなっていった。

また、定時制などは、毎日のように研修がとれるので、出勤時間は授業の始まる前で良かったが、今は勤務時間通りである。

全日制でも、時間外にクラブ活動をしている見返りもあって、夏休みなど暇なときは自由に帰宅できた。

特別支援学校は、クラブは盛んでは無かったが、休憩時間がとれないので、その分早帰りしていた。

ところが、それを見張っていて、教育委員会に訴える、活動家が現れたりした。

それで、早帰りも自由にできなくなっていった。


そのうち、だんだんと教員の仕事量が増していき、年齢構成もいびつなことから、負担の偏りも生じてきた。

そして、あのバブル期のように、教員のなり手がいない。

違うのは、当時は給料が相対的に安いので、なり手が無かった。

今はブラックな職業としてなり手が無い。

クラブ指導など長時間労働が給料に見合わないし、仕事内容も煩雑化されて、ストレスも増してきている。

教員の精神的な疾患も増えているという。

働き方改革に取り残されてしまっているのが実情だと思う。


私たちが若い頃から、学級の生徒人数を減らすことが提案されてきた。

生徒あたりの教員の数は少ないわけではない。

要するに、学校での煩雑な事務的な仕事に教師は追いまくられているのだ。

聞くところによると、やっと学年費の会計が外部委託されるそうだ。

私は、生徒会の会計で、年間1000万円も扱ったことがあるが、できるならこれも外部委託した方が良い。

コンピューター関係も、特定の教師に負担が偏るので、学校外に専門職員を雇用して、派遣できるようにすれば良い。


今度のバブルは一部の富裕層が投資で稼いでいると聞く。

若い人も、高所得の非正規の仕事をしながら、投資で稼げれば、ブラックな職業は避けられるだろう。

物作り、人作りを忘れた、日本の未来は、再びバブルがはじけて、永遠に失われていくのかもしれない。

それを変えていくべき筈の、政治家が一番金に狂ってしまい、それで多くの国民も手懐けられているのだから、手の施しようが無い。

危惧するのは、絶望した若者や弱者がテロに走ってしまうことだ。





2024年2月29日木曜日

核家族では無かった実家

 私は自分の育った家の家族構成は、住民票の上では父母と4人兄弟だった。

中学生までは、それが家の生活単位で、たまに母方の祖母が泊まりがけで母を助けに来てくれていた。

中学生の1年生から、近くに家を建てて、隣に祖母と伯母、いとこ二人が住むようになった。

垣根もない隣には祖母の家族が住むようになり、いつでも出入りできる環境となった。

特に、祖母はしょっちゅう我が家にやってきて、飼っていた小鳥の相手をしたり、好きな焼き芋を食べていた。

父はサツマイモを作ることに凝っており、冬場はストーブの上でいつも焼いていた。

子供達は飽きて食べないので、祖母はそれを遠慮無く食べていった。

小鳥はセキセイインコだったり、文鳥だったりした。

祖母がセキセイインコに「びーちゃん」と呼びかけるので、セキセイインコも言葉を覚えて、同じように「びーちゃん」としゃべっていた。


私も、隣にはいとこの兄もいたので、頻繁に出入りした。

酒の飲める歳になると、行くと昼までも酒が出されて、つい飲んでしまっていた。

親同士はそんなに仲が良いわけではなかったのだが、いとこ同士や、祖母と孫の関係は仲良くやっていた。

いわば、別棟の家族のような関係だった。

しかし、その関係も子供が大きくなって、結婚して所帯を持つと変わっていき、関わりは無くなっていった。

去年の7月に自分の母が亡くなった時も、伯母もいとこも、誰一人参列することは無かった。

伯母は入院しているので仕方なかったが、いとこの特殊な個人的事情や仕事の都合で来られず、時代のなせるわざかなと思って、淋しく思った。


というのも、祖母が亡くなった時には、私は葬式やその後の伯母の事務手続きをを一生懸命手伝った経験があったからだ。

母は姉である伯母よりも、早く亡くなったのだが、伯母は入院していて気弱になっていることから、いとこから知らせないで欲しいと言われて、その通りしている。

おそらく、伯母はいまだに自分の妹が死んだことを知らないでいるだろう。

たぶん、伯母が元気であったなら、こんな疎遠な状態にはなっていなかったと思う。


こうして、姉妹が隣同士で住むというのは、近隣でも珍しいことだったが、祖父が戦死して母子家庭で助け合って育った姉妹の絆でそうなったように思う。

一方、父方の祖父母の方は、父が自分の実家より、嫁の方の関係が親しくなったこともあって、盆正月以外のつきあいはあまりなかった。

祖父母の方は、あととりの伯父やいとこ夫婦、孫も一緒に暮らしていた。

分家した叔父の家族は近くに住んでいたので、孫達がしょっちゅう出入りしていた。

分家した叔父の家族も、完全な核家族では無かった。


私の家族は自分の実家も嫁の実家も車で30分ほどかかるので、しょっちゅう出入りするわけではなく、週末に顔をのぞかす程度だった。

どちらにも内孫がいなかったので、いとこ同士の関係もできなかった。

他の兄弟家族のように、盆正月や冠婚葬祭しか会わない関係ではなかったが、自分たちが育った、祖母家族が傍にいた状態とは大きく違っている。


近くに祖母がいて良かったと思うのは、親とは違う価値観をもっていて、穏やかに接してくれたことだ。

祖母は「偉い人なんかに ならんでええ」とよく言っていた。

両親が勉強頑張って偉い人になれというのとは真逆であって、言われた頃は祖母は時代遅れと思っていた。

しかし、この歳になると、たぶん、孫ができて話すことができたら、同じ言葉をかけてやるだろうと思う。

親は生きていくための力を重視して、それで子供を叱咤激励するのだが、祖母は長い人生で大切なものは何かがよく分かっていたのだろうと思う。

偉くなってしまって、大切な人との関係が疎遠になることが、結局は孤独を生んでしまう。

それが、自分たちの世代なのだろうと思う。


自分は大して偉くはなっていないが、当時の父よりも収入を多く得ている。

最近当時の四〇年前頃の日記を読み返していて、手取りが月給15万円だと、父が言ったことが書かれてあった。

それは。家のローンなど色々引かれてのことだと思うが、五〇歳代半ばにしては厳しい収入だったと思った。

それでも、その頃は私の兄弟や隣の家族とも賑やかに、楽しく暮らせていた。

母が元気だった頃、一番楽しかった時期として、その頃に一緒に泊まりがけで行った旅行を挙げていた。

今の自分にはそれ以上の収入がありながら、そんな楽しい生活は期待できない。

せいぜい、日曜に家内とドライブに行く楽しみしかない。

これが、少しだけ偉くなった生活なのだ。

そんな親の生活を見ていて、誰が子供を作ろうと思うだろうか。

みんなで仲良く楽しめる生活がないのに、がんばって子育てしようと思わない方が当たり前なのだと思う。

これが、頑張って大学を出ても地元に働く場所がない者達の実情のような気がする。

2024年2月20日火曜日

ちょっとした災害ならボランティア不要の時代

 私の父の本家は鷏和の鳥撫という集落にあった。

昭和51年(1976)の時の大雨で裏山が崩れて全壊した。

当時も危険地帯と分かっていたので、祖父母は避難していて無事だったが、近くに住む叔父が家を見に行っていた。

そこに土砂が崩れてきたのだが、幸い叔父は庭にあった池にはまって助かった。

祖父母は一時的に、尾崎にあった我が家にも避難したが、食事や生活が合わないということもあって、そんなに長くはいなかった。


私が憶えているのは、その後しばらく経って、壊れた家を片付けの手伝いに行った時のことだ。

親戚で手伝える者は全員集まって、高校生だった私もかり出された。

そして、集落の多くの人たちも手伝いにやってきてくれていた。

大きい材木などは、大人の男性が担い、私も体格が良かったので手伝った。

その時に、教えて貰ったのは、太い材木を運ぶ時には皆と同じ右肩で担わなければいけないということだ。

以前、違う担い方をして、下ろす時に材の木に巻き込まれて死んだ人がいると言うことだった。

当時は重機も殆ど無く、人手だけが頼りだったが、集落は今と違って元気盛りの人も多かった。


瓦などの小物は女の人も手伝って、リレー方式で片付けていった。

その時、家に思い入れの深かった叔母は涙を流しながら、手渡しをしていたのをよく憶えている。

家だけでなく、崩れた斜面に拵えてあった墓も崩れたので、一緒に山道を運んでいくのを手伝ったりした。

とにかく、集落の皆さんは労を惜しまずに、よく手伝ってくれたと思う。

自分も少しは大人並みに役に立てたのが嬉しかった。


もう今はこの集落にはそういうことが出来る体制にはなっていないだろうし、親戚とてもそのようにできないだろう。

昔は家を建てる時の棟上げには必ず、村の人に餅を巻いたりして振る舞っていた。

今のように作られた部屋をトラックで運んできて組み立てることはまず無かった。

家屋も村の人の祝福を受けて完成されるものだった。

そして、万一、こういう災害に関しては助けてくれるものだった。

私が村落調査をしたある村では、火事を起こした家がその後のお見舞いを受けて、却って元より裕福になるので「焼け福」とまで言われていた。


高齢化が進んだ村や、人間関係の疎遠になってしまった都会では、見ず知らずのボランティアに助けて貰わねばならない。

また、大規模な大災害には、ボランティアは欠かせないだろう。
江戸時代から、他地域からの支援行動はあったという。

それも悪いシステムでは無いとは思うが、それに頼ってばかりはいられないだろう。

地縁血縁の互助関係が崩壊した現代にあっては、それに代わる保証制度が必要だろう。

金銭面では災害保険で対応できるとして、人材の確保のための対策が広域でなされるべきだと思う。

また、昨日も朝のNHKのラジオニュースで聞いたのだが、地域に水などを独自に確保できる施設が必要だと言うことだ。

昨日も近所の人と話したのだが、立派な瓦屋根をもつ二階建て建築は危険極まりない。

今までは、それが豊かさや権威の象徴だったのだが、ただの砂上の楼閣に過ぎなくなってしまった。

今の時代のこれから建物は災害に遭ったときのことを優先的に考える必要に迫られている。


2024年2月17日土曜日

南海トラフ地震の現実

 今まで自分たちは上郡という内陸部で暮らしていたので他人事のように思っていた。

ただ、弟が赤穂の海のそばに家を建てて住んでいるので、気にはなっていた。

ところが、ネットで毎日新聞の被害予想記事を読んではっと気がついた。

娘は、住まいは岡山だが、香川県の坂出の造船所で働いて海のそばで仕事している。

全く他人事ではないことに、今更気づくなんて我ながら恥ずかしい。


前から、不思議に思っていたのだが、死者予想を今回は四国で最大9万人超と平然と記載されていることだ。

コロナの時もパンデミックになれば、こうなるというのが現実化した。

今回も同じように地震が起こればこうなるというのが現実化するのだろうか。

アンダマン人が神話からの掟に従い地震が起こったら山に逃げることで、部族の全員の命が救われたのは有名だ。

要は、逃げるしかないのだが、何よりも地震が起こって逃げられる道と場所の確保だろう。

今回の能登でも車の移動が問題になったが、どんなに経費と時間がかかっても、ともかく車の移動を含めた大がかりな実践避難訓練で備えるべきだろうと思う。

実際に起こって、娘の安否を気遣うことを思うと、切実に対策をお願いしたいと思っている。