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2024年7月16日火曜日

欲しくなくなる感謝状や賞状

 私は兵庫県教員として永年勤務したということで、当時の井戸知事から感謝状を頂いた。

本当は、自分でもらいに行かねばならなかったのだが、県庁までもらいに行くのが面倒くさく思って行くのを断ったら、わざわざ事務長がもらってきてくれた。

25年勤務の時は、同期の先生が預かってきてくれたので、同じようなものだと思っていたので恐縮した。

しばらくは、それ以前にもらった教育委員会からの25年勤務の表彰状は床の間において、感謝状は書斎の本棚の上に載せて置いた。

数年前から、こういうものはこれから先もらうことも無いと思って、座敷の鴨居に教育委員会の表彰状と一緒に飾ってある。

私の知り合いの研究者は博士の大きな学位証を実家の座敷に飾ってあったが、本当はそちらをもらって飾りたかった。

修士の学位証では飾るほどでもないので、大事にしまっておいたが、早期退職後の臨時講師に採用された時に学歴証明に役に立った。

これから先は使うこともないようだから、感謝状と並べて飾っても良いかもしれない。

感謝状と違って、給料計算に役立ってくれたし、母校で出された修士の総数も兵庫県知事の感謝状ほど多くないはずで、修士しかもってない研究者も少なくないはずだ。

そして、博士課程進学に結びつかなかった論文タイトルが書いてあり、見ると心が疼くので却って戒めとして良いかもしれない。


このところ、兵庫県知事がマスコミを賑わしている。

今年で、3年目だそうだから、2年前から多くの永年勤めた退職教員は、この知事の名前で感謝状をもらっているはずだ。

この先、知事を続けるということになれば、来年もこの知事の名前の感謝状が渡される。

これまでもらっている人は、今の知事の名前の入った感謝状を私のように飾っているのだろうか?

同じ県の職員を自殺にまで追い込んだ知事の名前入りの感謝状を飾りたいと思うだろうか?

そして、これから退職する県職員・教員はこの知事から感謝状をもらいたいと思うのだろうか?

これは、県職員だけでなく、知事の名前の入った賞状を受け取る県民みんなの問題でもある。


ところで、小池東京都知事も公職選挙法違反で訴えられていて、失職する可能性があるらしいが、前回の桝添氏も、前々回の猪瀬氏も一期で途中辞任している。

小池さんは今回で3期目だが、同じように辞任どころか失職する可能性も出ている。

兵庫県出身だということで、親しみを感じていた。

ただ、関学を中退した後に、カイロ大学に留学して学士を得たことの真偽が問題となっている。

「学歴なんか、関係ないわ、高卒でも立派に職務を全うしているのよ」と開き直って欲しいところだ。

権力を失って、学歴詐称が明るみになってしまったらどうするのだろう。

そもそもこういう歴代の知事を仰ぐ都民は、都知事の名前入りの感謝状や賞状をありがたいと思っていたのだろうか?

感謝状や賞状に名前を刻む人は、権力だけでなく、名誉も大切にして欲しいと、どちらにも縁の無い私は思う。

ただ、あまり名前の知られていない知事よりも、全国的に知られている知事の名入りの感謝状や賞状もののほうが、話題になるし目立つかもしれない・・・・・





2024年7月12日金曜日

オープンにしたらまずい

 ビートルズのWhy don’t we do it in the road? は、スラングを使ってセックスの表現を用いていたとずっと解釈している。

ネットでは、ポールとジョンの確執を解説しているのだが、セックスの表現に関しては触れていない。

道ん中でも大ぴろっげで(セックスを)やろうぜ!

転じて正々堂々とやろうぜ!

こっそりセックスをしている他の動物を私は知らない。

類人猿の研究者から言えば、人間が他の類人猿と大きく違いとされるのが、セックスの秘匿性だ。

これは、一夫一婦制度には、有効な決まりで、特定の男性と女性にセックスが限定されて、成り立つ制度だ。

一夫多妻制でも、母系制度でも一人だけの相手ではないが、セックスは普通は人前ではやらない。

ただ、祭りの時や歓待儀式、戦闘下では、比較的人前でも行われたこともあったようだ。


このセックスの秘匿性は、売春にも有効だ、

猿の中には、セックスをした見返りに、食べ物をもらう雌もいるようだが、見返りを求めてセックスをしていないようだ。

比較的自由にセックスができる場合は、その価値も高くない。

ただ、特定の雄にしか認められない場合は、その価値は高く、熾烈な争いとなってしまう。

人間にとっても、特定の女性とのセックスの独占は大きな価値を持ってきた。

人は生活力のある男は、特定女性とのセックスを独占できたのだが、そうでない場合は、買春をせざるを得なかった。

だから、ローマの時代から売春は女性にとって大きな収入ともなっていたようだ。

売春・買春は夫婦や家族を築けなかったり、逆に家制度のしがらみから解放できる避難措置でもあったようだ。


ところが、現代の日本では自由なセックスが広がっていき、梅毒の感染も増えているそうだ。

無理にして結婚してまでセックスする必要が無いので、独身でも性欲は満たせられる。

また、経済的に余裕のないものは、ネット上でもエロビデオは氾濫して自慰によって性欲の解消が可能だ。

人類が営々と築き上げてきた家族は、オープンにされたセックスやVRセックスでも崩壊の危機を迎えているようにも思える。

まだ、堂々と人前では行われていないのだが、そのうち特定の場所限定で同性、異性を問わずオープンにできるようになるかもしれない。

その方が、ボノボのように平和に暮らしていけるのかもしれないが、未熟で産まれる赤ん坊にとっては大変なことになる。

誰の子か分からないのに、男は子育てを手伝わないだろう。

母系制では、子供の婆さんや母親の兄弟であるおじさんが大きな役割を果たしたが、それも現代では難しい。

親族や家族が崩壊した現代人の赤ん坊にとっては、セックスのオープンは非常に危うい。

話題にはなりにくいが、少子化の問題とも関連が十分考えられる。



2024年7月8日月曜日

不健康広場

 私が住んでいる村には、村の人が土地を寄付して作られた健康広場がある。

村の人の健康のためと、車社会になって道で子供が遊ぶと危険だから作られたようだ。

子供のためのブランコや滑り台があったが、ブランコは劣化して取り外された。

勿論、村にはそこで遊ぶような子供は既にいない。

近くの村では遊具は全て撤去され、駐車場にされたりしている。

以前は老人が元気で、ゲートボールをしていたが、世話をする人がいなくなって、とっくに使われなくなっている。

そのご老人のために作られたトイレは、誰も使用せず維持費と管理が負担となっている。

だから、老人は維持管理がいらない小学校の運動場を休日に借りて、グランドゴルフを楽しんでいる。


この健康広場は夏休みには、小学生のラジオ体操に使われたが、今は行われていない。

村の行事としては、盆踊りとトンドに使用されたが、盆踊りはコロナの時に中止されて、今年納涼祭として復活する予定だ。

それは、以前は踊りの主力となっていた婦人会が解散してしまい、踊りの主力を欠いてしまったので、踊りができないからだ。

果たして、これが今後維持できるか見通しも立っていない。

唯一、トンドには欠かせないのだが、他の村では個人の田んぼで行っているのが多く、十分田んぼで対応できる。


ということで、この健康広場は殆ど役に立っていないのである。

ところが、草だけは春から生え始めるので、5月から10月頃まで、二つの班に分かれて毎月草刈りにかり出される。

7月は盆前でもあって、村の組(小字)の各家から一人ずつ駆り出される。

ところが、以前は草刈りの後で、墓地の草刈りをしていたのだが、暑いことや人手が足りず、広場の草刈りと同時にするようになった。

墓地には、村全員が墓を持っているわけではなく、村外の人の墓も残っている。

今年はそこに、主力の人員を割かれた形で、健康広場の草刈り作業が行われた。


そうなると、主力でない後期高齢者が健康広場には多くなり、60歳代以下の者は数人で、熊手の女性も多い。

なかには90歳近くで家の庭の草さえも刈れないご老人も、熊手を持って参加している。

80歳以上でもゆっくりと草刈り機でやる人は良いのだが、その熊手のご老人は大きな桜の木陰で立ち尽くしたままである。

作業に出ないからと、出不足金を取られるわけではないので、出てこなくて良いはずなのだが、やはり世間体が悪くて出てこざるを得ない。

もちろん、そんなことお構いなしで、若くても出てこない人もいるのだが、今までの付き合いの良かった人は、そうして出てくるのが普通だ。

私は、80歳以上は免除させてあげたらと、提案したのだが、そうすると人手がなくなると一蹴された。

また、腰痛に苦しんでいる70歳代の人も、無理して出てきて次の日は一日動けなかったどうだ。


特にこの暑い7月は午前8時から始めても、汗まみれになってしまう。

私は冷却ベストと空調服で作業をしたが、殆どの人はそんな格好はしていない。

どういうわけか、パチンコや釣りでけっこう金をつぎ込んでも、そういうものには金をかけない。

やはり、高齢の人は適当に作業した後、まだ終わってないのに途中でやめて立ち話をして休んでいる。

高齢者には酷だと分かっていても、懸命に作業を続けている者にとっては、目障りに感じてしまうのだ。

この不健康極まりない村作業は、どこの村でも負担となって、自動走行の草刈り機や、トラクターにつけた草刈り機を用いているところもある。

時給1000円の時代に、平気でただ働きさせられる村作業を維持しているのは、時代遅れに感じていしまう。

しかし、改められないのが村であり、新しい意見を聞く耳も持ってくれないのも村である。

もう10年もすれば、おそらくこんなやり方はできなくなるだろうが、できなくならないと改められないのも村である。

健康広場はもはや不健康広場となったが、今後もっと過疎と高齢化が進み、いずれそこいらにある竹藪のようになってしまう日がくるだろう。

2024年7月5日金曜日

住宅ローンと債務労働

 身近な人の中に、家を建てたとたんに、転勤となって単身赴任になってしまったり、すぐではなくて子供が転勤で連れて行けなくなった頃に、単身赴任というケースを知っている。

公立の教員が単身赴任するのは、結婚後に採用されて、奥さんや子供の関係で、単身赴任していた人を知っているが、大抵は管理職になるためだった。

私はどちらのケースでもなかったので、単身赴任の経験はないが、民間に勤めている弟3人は単身赴任を全て経験している。

そして、全員が家屋敷を持っている。


元来終身雇用は、労働者を確保するための仕組みだった。

現代は一つの企業や団体しか雇用された経験が無いという人は少ないだろう。

でも、家屋敷をもったり、子供が大きくなってから転職する人は少ないと思う。

弟の一人は、家屋敷を持っていて、通えるところではあるが転職したが、子供がいなかったからできたのだと思う。

私は、家のローンが終わり、子供も独立したので転職したかったが、果たせず早期退職した。

単身赴任が全て悪いとは思わない。

江戸時代の武士は、参勤交代で江戸にいる時は、妻子が人質の大名以外は単身赴任だったようだ。

ただ、現代のように何年も続けて単身赴任生活をすることは無かったようだ。

また、江戸時代は遊郭での楽しみを期待していた武士も多かったようだが、現代ではどうだろう?


発展途上国の人の中には借金を背負って過酷な労働をさせられて、問題になっている。

かつて奄美のヤンチュは税が払えず、身売りして強制的に黒糖生産の労働させられた。

ヤンチュの場合は税さえ厳しくなかったら、債務労働はしなかっただろう。

与路では殆ど自給自足で生活できていたし、貧しくても家は自前で建てられた。

戦前まではこういう自給自足できる人には、税や小作料で借金を背負わせて身売りさせ、強制労働させたり、売春をさせるのが普通だった。

自己破産が可能な現代ではそういうことはできないので、家屋敷のローンを抱えた者が、単身赴任のような強制労働をせざるを得なくなる。

単身赴任が原因で健康を害したり、離婚したり、子供に問題が起こっても、雇用側には一切責任はない。

雇用側の都合で配置転換できるのだ。

ただ、中には親の介護から逃れたりする時に、都合の良い言い訳にできることも確かだから、一方的に雇用者側が悪いとも言い切れない。

一時CMで「亭主元気で留守が良い」流行ったが、わがままな亭主はいない方がましなようだが、退職後の夫婦はどうなったか気になる。


ということで、結婚していない人や、家屋敷にローンを抱えず賃貸などの人は、この強制労働から逃れることができる。

今まで企業が単身赴任で家族をバラバラにしているのを知っている世代は、あえて同じ轍を踏むのだろうか?

結婚しない人や子供を産まない人が増えたのは、こういう経営本位の人事風土が招いた結果ではないだろうか?

かつて『仕事の人類学-労働中心主義の向こうへ』(  中谷文美 宇田川妙子編 2016 世界思想社)を読んでいて、家族や親戚が暮らしのために協力し合っている姿を知った。

賃金労働が当たり前になった現代でも、優先すべきを家族や親戚とすれば働き方も変わってくる。

こういうことを言っても、自己実現を掲げて学歴社会を生き抜いた企業戦士には笑われるだけかもしれない。

確かにその企業戦士もその一方で債務労働者として苦労した人も多かっただろうが、都会の人は家屋敷は立派な財産となったのだろう。

しかし、地方の多くでは家屋敷は財産どころか負の遺産になってしまっている。

このままでは単身赴任までしてローンを支払い維持した家屋敷を、子供に迷惑かけられないので赤字覚悟で処分せねばならない人もいるだろう。

まさしく、地方のサラリーマンは発展途上国の債務労働者とかわらなくなったのではないだろうか?




2024年7月1日月曜日

母の一周忌と孫・ひ孫

 母が亡くなって一年が経って、一周忌の法要を、父の17回忌と併せて行った。

母が亡くなって葬式を済ませた後は、遺品を整理したりするたびに、もっと大切にしてあげれば良かったと後悔ばかりしていた。

今でもその気持ちに変わりはないが、生きていた頃の現実感が次第に無くなって、過去のこととして心の痛みも少しずつ消えていった。

先日も、家内が一周忌を前にして、仏壇のお供えに季節外れの高いミカンを買ってきてくれた。

母はどういうわけか、ミカンを年中食べたがって、夏場でも輸入物の温州ミカンを買ってきて、施設住まいの母に渡した。

元気な頃は、買ってきたミカンをそのまま渡すと、全部いっぺんに食べてしまうので、施設の担当者に預けて、少しずつ出してもらっていた。

私は法事のことで、気が回らなかったのだが、家内が思い出して買ってきてくれたのでうれしかった。


法事には子供や孫、その連れ合い、そしてひ孫も一人加わった。

誰一人赤穂に現在住んでいる者はいなくて、遠くは東京から駆けつけてくれた。

孫の一人は、パイロットをしているので、ロサンゼルスから関空に向かう勤務にしてもらって駆けつけたという。

ひ孫は二人いるが、その一人はまだ、一歳にもなっておらず、母親と一緒に来てくれたのだが、法事の後は実家にしばらく滞在するそうだ。

もう一人のひ孫は、葬式の時には来てくれていたが、今回は母親が臨月で里帰りしているので、来ることはできなかった。

赤穂のお寺で法要を行ったのだが、そのひ孫の発する声が、厳粛な法要には少々耳障りになったが、かえって眠気を覚ましてくれた。。

亡くなった人のための法要だが、幼い命が繋がっていることを実感させてくれるのも、法要だ。

4人の子供のうち、3人までが60歳を越えてしまっているが、その連れ合いは今回事情で二人来られなかった。

6人の孫全員が参列してくれたが、19歳から30歳代と若々しくて元気な姿を見せてくれたのも、何よりもの供養となった。


お寺での法要の後の食事は、弟家族が宿泊の予約をしていた赤穂御崎の宿舎にした。

宿舎は私たち兄弟が育った尾崎にあり、遠く小豆島や家島を望む向山の中にあった。

弟の一人は、事情があって、食事もとらずに帰らねばならないので、海の見えるラウンジで残された家屋敷の今後のことを話し合った。

同じ兄弟でも、長男として両親に深く関わった自分と気持ちの違いを感じざるを得ない。

母の亡くなった当初は、私は早く処分して金銭的な負担を無くそうとしたのだが、父母が一生懸命に我々を育てた大切な場所を少しでも長く残したい気持ちになっていった。

ただ、自分の子供の世代にまで、負担を持ち越すことはできないから、処分せねばならないことも確かであった。

これは両親の兄弟の家の殆どが抱える問題で、既に亡くなった叔父の一人の家屋敷は売却されて、叔母は息子夫婦の家で暮らしている。

本家でさえ、家屋敷に住み続けている孫はいなくて、一人暮らしになっているし、結婚した孫世代に引き継がれた家屋敷は一つも無い。


食事は孫・ひ孫の世代と子供の世代と分かれた席となり、世代を超えて話をする機会も殆ど無かった。

そして、車で帰る必要から飲むことができる者も少なくて、食べ終わるとすぐにお開きになった。

宿泊したのは弟の一家族と私の家族だが、集まれる者が一つの部屋に集まって、飲みながらいろいろ話をしたが、亡くなった父母の話題は殆ど無かった。

今までも、祖父母の法事や父の法事に参加してきたが、故人の思い出を語り合うことはあまりなくて、自分たちの昔話や今の生活ぶりを語り合うことが殆どだった。

葬式とはまた違って、法事は残されてた者に唯一残された大切なコミュニケーションの機会だと思う。

盆や正月に集まって楽しく過ごした雰囲気とは大きく違ってしまったが、孫の世代の連れ合いや子供が新たに加わっている。

この一周忌と来年の三回忌を終えると七回忌まで、このメンバーが集まることはまず無いと思う。

そういう意味では、法事というのは家族親戚のお別れの儀式でもあった。

それでも、久しぶりに弟や甥とゆっくり話できたのが良かったと思う。


なかなか寝付かれない朝を迎えて、朝風呂にも入って、朝食を一緒にとることになった。

たくさん並べられた食事をなんとかこなそうと夢中で食べていた。

すると隣の姪の向こうに座らせてもらっている姪の赤ん坊が、私に向かって呼びかけくる。

当然言葉にはならず、こちらを向いて呼びかけてくるだけなのだが、私も同じように一言返事をする。

それが、何度も何度も繰り返されて、その隣で離乳食を食べさせているその子の祖母には申し訳なく思えるほどだった。

なぜ私にだけ呼びかけてくるのか?

白髭の生えたじいさんが面白いのかなと思ったりした。

食事も済ませて、帰る時にはその女児ともバイバイして別れた。


家に戻ってから、夕方散歩に出かけて、昨日から今日までのことを思い起こしていた。

なぜか姪の子供とのやりとりが一番心に残っていた。

考えてみればこの児は、母が亡くなった後に生まれた初めての女の子である。

母の命が尽きた代わりに誕生した命なのである。

何となく母の面影をその児の笑顔に見いだそうとしていた。

母は歌好きの明るい人だった。

その母がその児を借りて、私に語りかけていたように思えたりもした。


私が長年研究を続けてきた奄美では祖父母の魂が孫に残されると言われた。

奄美ではイキマブリ(生き霊)の信仰があったので、祖父母が生きている間でもそういう意識を持った。

我々は死んだ人の魂を意識するので、亡くなった人の魂の継承をどうしても意識してしまう。

私は今のままでは孫さえいなくて、私の魂を残していく者は誰もいない。

孫のいる弟夫婦はそれだけでも幸せであるように思えた。

少子化問題は単に経済問題ではない。

新しい命を育む心の問題であり、それによって勇気づけられる親や祖父母の問題でもある。

親孝行は子孝行と昔から言われているが、死者や祖先を大切にすることと、子や孫を大切することは同じなのだと思う。

自分だけで生きることに精一杯になっていたり、自分の欲望に任せて生きる人生は、本当は哀しい人生のような気がする。

引き継いだ身体と魂を次の世代に引き継げないのだから。

たとえ血が繋がっていなくても、共に暮らすだけでも魂は引き継がれると思う。

現代とは多くの人が哀しく人生を終える時代になったことも確かなのだろう。


それにしても、私は弟の孫に今回は心を救われた。

葬式の時も別の孫がいたのだが、喪主である私にはその児と関わる気持ちの余裕などなかった。

今回も朝食の出来事がなかったら同じようになっていたかもしれない。

しかも、呼びかけてくれたのはその児からなのだ。

姪の赤ん坊を通して、孫がいなくてもせめて次の世代に残せることを続けようという勇気をもらうことができた。

母の一周忌は母のためだけではなくて、残された子や孫のためのものだったことに気がついた。

来年もそういう機会を得られることに感謝しなくてはいけない。







2024年6月29日土曜日

海人生活の頃

 父は100tほどの木造船で、主に鷆和の御影石などを運んでいた。

私は母親と一緒に船に乗せられていたが、その時の写真を見ると、せいぜい2~3歳である。

ただ、はっきりとした記憶が一つだけあって、操舵室の下の船室で、泣いている時に、雇っていた若い兄さんに操舵室まで連れて上がってもらったことだ。

操舵室には舵の後ろに、子供がいられるくらいのスペースがあった。

一番怖かったのは、「あゆみ」という、船にかけられた幅30㎝ほどの板の橋でと岸壁を移動する時で、揺れると怖いので、たいていは親に助けてもらっていた。

また、便所は海に突き出した箱のようなものに隙間が空いていて、そこに排便するのだが、下の波が怖いのと、雨の日は傘を差してせねばならなかった。


船では自炊していたが缶詰が多くて、母はそれが原因で缶詰をその後滅多に使うことはなかった。

私には記憶が無いのだが、猫もかっていたようで、最近読んだ文献には船に高価な雄の三毛猫を乗せると縁起が良いということで、猫と船とは相性が良いのかもしれない。

船倉の上は板で覆われていて、傾斜はあったが広い遊び場のようになっていた。

私はそこから海に落ちそうになったのだが、干していた洗濯物を自分で踏んづけて壁になって、落ちずにすんだと母から聞かされていた。


父が船生活を辞めるきっかけとなったのは、船が遭難しかかったことだ。

私もかすかに記憶にあるのだが、明石沖の海峡で、時化の中で船のエンジンが止まってしまったそうだ。

波にのまれて転覆しそうな状況で、父は私に「金比羅船船船」を歌えと歌わせた。

「金比羅船 船 おいてに帆かけて しゅらしゅしゅしゅ」

この歌は、訳も分からず教えられていた歌で、同じ歌詞を繰り返し歌っていたと思う。

その甲斐あってか、船は転覆せずにすんだが、一家全員が死ぬ可能性もあった、この事故は廃業を決意させたようだ。


父は造船所の職工になった後でも、伯父の船の手伝いをしたり、伝馬船を改造して漁船にしたりしていた。

船乗りの大切な知識は観天望気で、空の雲の様子を見て、天気を予想していた。

何度も見方を教えてもらったが、結局私には分からなかった。

家にはその頃使っていた道具が残っていて、使える物は使っていたし、納戸にしまい込んでいたのもあった。

双眼鏡は結構長い間使っていた、気圧計は私は今でも時々見ている。

夜間の運航ランプは赤色しかないが、私が庭に飾っている。

第二播磨丸と書かれた浮き輪も庭で雨ざらしにしてしまっている。

上郡の農村地帯には珍しい物なので、海人の子孫を名乗っているような気でいる。


近所の人の中にはプレジャーボートを持っている人もいるが、私は維持費を考えると持てない。

せいぜい、SUPを楽しむ程度なのだが、海は最低月に一度は眺めに行っている。

名古屋に住んでいた時も、東京、横浜に住んでいた時も、むしょうに海が見たくなって見に出かけていた。

そのくせ、川や池、湖は苦手で、泳いだりしたいと思わない。

琵琶湖も淡水の嫌なにおいがあって、好きになれなかった。

逆に山育ちの人は海が苦手なようで、金づちの友人は泳ぎに行っても、海の中にさえ入らなかった。

今の私の夢は、釣りを楽しめるくらいの小さな船かカヌーを持つことだ。

少しでも海人生活に戻りたいと思っている。




2024年6月27日木曜日

多様性の喪失が生んだ観光産業

 六世紀の江南(中国)の文化

「呉人の亡者【もうじや】、建康(今の南京)に住まいし、ちっぽけな冠帽に、ちんちくりんの着物。おのれを阿儂【おいら】と言い、ふたこと目には〈阿〉の連発。菰【まこも】の芽と稗【ひえ】が代用飯【めし】、茶が飲物代わり。じゆんさいの羹【あつもの】をガブガブ、蟹の黄【こ】をクチャクチャ。手には荳蔲【ずく】をつかみ、口には檳榔【びんろう】を嚼【か】む。(中崎)中洲のところで、魚に網うち、すっぽん掬い、菱の実・蓮の根に嚼【かじ】りつき、鶏頭【みずふき】を採り歩いて、蛙や蚌【あさり】の吸物の御馳走。(後略)『洛陽伽藍記』」


考古学者森浩一は、縄文時代の後期から江南文化の流れをくむ倭人が、西日本を中心に生活していたことを述べている。

現在では弥生時代開始が紀元前10世紀頃と古くなったので、弥生時代と言うべきかもしれない。

ただ、考古学は水稲栽培を目安に弥生時代としているので、上の内容では稲とはあまり関係なさそうだ。

それにしても、1400年前の江南の暮らしが、今でも日本に受け継がれていることに驚かされる。

よく、縄文人と弥生人の混血が日本人となったと言われているが、縄文時代から既に渡来による混血が始まっていることは最近のDNA研究で分かっている。

考古学の石器・土器の成果や、人骨が貝塚でしか見つからないので、縄文人は均質だと思われてきたが、それは誤りだろう。

貝、骨や竹、木材、草縄を用いた生活や、食人、風葬の習慣のある古代人の痕跡は日本では殆ど残らない。

だから、縄文時代の石器は北方系、人骨は南方系で矛盾したことになっている。

それより、現代人のDNAに残された多様性の方が確かなのだ。


近代では血のつながりを頼りに民族を創設してきた。

政治家が日本人の単一民族と口にしてきたのも、愛国心を煽り富国強兵のためだった。

日本人の多くは、先祖を国外に見いだそうとはしないのは、まさしく「作られた伝統」である民族意識からだろう。

その民族創設のために、言葉や暮らしぶりを均質させた近代こそ多様性を失った時代はないだろう。

その一方で、衣食住の全てが産業社会の流行に乗って見かけの変化をしてきた。

皮肉なもので、均質化・流行化された近代都市文化とは違う、古来の文化や自然景観がインバウンドの資源となっている。

しかも、観光産業は自動車産業の次に利益を上げているという。

こういうときこそ、我々の住む農村部は、観光産業に力を入れるべきであろう。

オーバーツーリズムに苦しむ観光地から、自然を楽しむ滞在型の観光地として取り組むべきだと思う。


私の住む上郡は赤穂のように観光資源はないが、コウノトリが飛来するほどの自然豊かなところだ。

平家伝説の残る裏山に登れば、遠く瀬戸内海も見える。

播磨高原の山々もきれいだし、千種川の清流や支流も自然がいっぱい残っている。

空き家が増えてきているのだから、それを活用するのも手だろう。

どうしても昔からの集落は、都市部からの受け入れが難しいので、過疎の進む新興住宅街を使うのも手だろう。

産業廃棄物のゴミ捨て場になるよりも、滞在型観光地として地域振興すべきだろうと思う。

赤穂市も忠臣蔵にあぐらをかいていて良かった時代は終わったのだから、近隣の地域ともっと連携すべきだと思う。


ちなみに子供の頃の私は赤穂の地元でとれる、子(黄)持ちの小さな海カニ大好きで、鍋いっぱいにゆでたカニをほおばっていた。

アサリだけでなくバカ貝(青柳)などは、天然物を採ってきておかずにしていた。

蛙は食べなかったが、田んぼの井戸にいるドジョウは大切な食料だった。

スッポンも多くいるが、料理方法を知っている人があまりいなくて、食べる人は限られている。

上郡ではモクズガニが千種川でよくとれて、知り合いは築地に卸しているという。

近所の高田川にもいるが、農薬の関係もあるので捕ろうとは思わない。

姫路のようにレンコンを栽培していないが、蓮池で地元の人の中にはレンコンを掘って食べている。

蕗も山に自然に生えているのを採って食べている。

このように倭人の生活文化がまだ残る地域での一つの産業として、観光も考えてみる必要があるだろう。

自然に優しい農業や山菜の採集を体験できるプロジェクトを考えても良いと思う。

私は稗ではなく、コウリャンの有機栽培に取り組んでいるが、中国浙江省河姆渡からの遺産である水稲も是非有機栽培をしてコウノトリを増やして欲しい。

そうすれば豊岡のように人も呼べるかもしれない。