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2024年12月12日木曜日

豆乳への転換

今、酪農家が餌代などの高騰で採算が合わず廃業が急増しているという。

餌代の影響は近辺の水田地帯にも影響しているようで、牛の餌用の稲が多く作られている。

牛乳は学校給食では欠かせないので、酪農家が無くなってしまうことはないことは確かだろう。

小学生の頃からなじんできた牛乳や乳製品は生活に欠かせなくなっている。

それに対して、豆乳は私の子どもの頃には、豆腐屋で販売されていたが、匂いが強くて私は苦手で飲めなかった。

大学生の頃には、紙パック入りの豆乳があったので、たまに買って飲む程度だった。

自分で大豆を作るようになって、その活用方法として豆乳を自分で作るようになった。

リサイクルショップで豆乳製造機を買って作ったのだが、いい加減な分量で作っていたせいもあって味が薄く家族には不評だった。

残りかすのおからは食べづらく、機械の後片付けも大変なので結局使わなくなった。


一方、ヨーグルトは簡単に牛乳パックでつくれる電気製品を買って、家内はだいぶ前から作って毎朝食べていた。

ヨーグルトにはブルーベリーの実やジャム、酢をいれたり、粉末の青汁やシナモンを加えている。

豆乳で作られたヨーグルトが発売された時に、家内は牛乳と同じ方法で試しに作ってみたのだがうまくいかなかった。

このところ、豆乳ヨーグルトがよく出回ってきたので、家内は再チャレンジした。

最初うまく効かなかったが、発酵時間を長くすることによってうまく作れるようになった。

それを一番喜んだのは家内自身だった。

家内は牛乳ヨーグルトを昼食後に食べて仕事に出かけていたが、おなかがぐるぐると鳴って困っていたそうだ。

それが豆乳ヨーグルトに変えてから、鳴らなくなったという。

味は牛乳の方がおいしいのだが、健康面からすると豆乳の方が良いし、家内のおなかにはもってこいである。


豆乳に関してホームページの「世界を旅する豆乳」に歴史や、中国での事情が載っているが、中国では牛乳より歴史が古いそうだ。

現在でも中国では朝食に欠かせない飲み物になっているそうで、日本と大きく違っている。

豆乳は機械さえあれば大豆を買って自分でも作れるし、私のように畑で作った大豆も利用できる。

今年は黒大豆がそこそこできたので、黒大豆の豆乳を作ろうと思っている。

味は牛乳製品にはかなわないが、日本人の食生活には豆腐の方がなじんでいるし、これからは豆乳ももっと活用するべきだと思う。

何より牛を育てるより、大豆を栽培する方が簡単で、枝豆でも食べられるし、昔は葉っぱは飼料や肥料にも使っていたという。

刈り取った後の枝葉は、こういう田舎では焚きつけに用いたり、焚き火として火にあたったりしている。


これまでは安い穀物飼料を輸入して牛を育てたり、大豆そのものも飼料として使われることが多かったが、円安を機会に見直すべきだろう。

豆乳が世界的に普及すれば、世界の食糧事情も良くなるはずだ。

飲みやすい調整豆乳もあるので、学校給食も牛乳から豆乳に換えても良いのではないかと思う。

アマゾンが飼料用の大豆畑になって自然破壊がなされているのだから、日本は本気で大豆生産を推進すべきだと思う。

これからの食糧危機では地産地消が重要となってくる。

そのことからも、牛乳から豆乳への転換は大切なことだと思う。

そもそも、遊牧民は別として東アジア人の身体に合っていない牛乳を普及させようとしたこと自体が間違いなのだ。

因みに調べてみたらカルピスも豆乳で作ったのがあったそうだが、どうも販売を中止しているようだ。

ぜひ改良を加えて、牛乳製よりも安価で効能が高い物を開発して欲しい。

とにかく、我が家の豆乳ヨーグルトへの転換は新しい時代への一歩だと思う。






2024年12月9日月曜日

あの世は生きてる人のため

母が死んでから1年半を過ぎようとしている。

家の処分について以前から相談していた不動産屋から連絡がいきなりあった。

担当者が代わって、もう一度検討したいという。

見て貰った結果、家屋敷を綺麗に片付けてから、中古で売り出してはどうかと言うことになった。

ずっと、更地にしなければ売れないと思っていたのだが、自分たちの育った家屋敷が残る方が嬉しい。

更地で売却しても採算面でかなり厳しいことと、人口減で売却の可能性も低いと思っていたので、赤字さえならなかったら良いと思って、中古で売ることにした。


そこからが大変で、放っていた片付けをしなくてはならない。

母の生活感が残っている居間は、今までどうしても手がつけられなかった。

生きていた頃の記憶が蘇って、抱き続けていた母への申し訳なさの気持ちが込み上がってきたからだ。

ただ、1年半も過ぎるとその生々しい記憶も薄らいで、ようやく片付けをすることが、それほど苦痛では無くなっていた。

古物商にも来て貰って食器類を処分したが、まだ多くの遺品が残されている。

不動産屋は処理業者を紹介すると言ってくれたが、概算費用を聞くと50万円ほどかかりそうなので、できる限り自分ですることにした。

私は軽トラでずっと生活しているので、それを活用すれば問題ないのだが、大きな荷物運びには二人は最低必要だ。

今後は息子の手も借りねばならなくなった。


家の処分のことで思い当たるのは、アイヌの人のことだ。

アイヌの人は大人が亡くなると、その人が住んでいた家を焼く習慣が古くはあった。

理由はその人があの世で住む場所として必要だからということだった。

さすがにかつてのアイヌのような茅葺きとは違う現代の家は焼くことができないが、衣服や布団類を焼く理由に使えると思った。

本当は死の穢れ意識とか、想い出を消し去るためとしても、あの世で使ってくれると思った方が気が楽になる。

極楽浄土とかあの世は、死んだ人のためにあると考えがちだが、本当は残された家族やこれから死に向かう人にとってありがたい信仰で有ると思う。

信仰を失っているとしても他界をイメージする方が、現代人としても心の救いになるだろう。


かつて、家を代々継いでいける時代は、あの世の先祖と会うためのお墓や、祀るための仏壇などがあった。

年中行事にはあの世から戻ってくる、ご先祖様をお迎えする意識があった。

現代は子どもに継がせるる仕事も、子どもと一緒に住める家もなくて、かつての遺産を残せない未開人と変わらない状態になってきている人が多い。

未開人の多くは家は殆ど仲間と協力し合って建てていて、壊したり建て替えるのも簡単だった。

そして、亡くなった人は葬られた後、顧みられることは殆ど無い。

現代では家屋においては子育てには向かないだろうから、子育て期間中だけの家と独身時代や老後の家とを分けて考える方が良いだろう。

子育てのための家は、借家か売ることを前提に建てておいて、子育てが済んだら子どもに負担とならない簡単に処分できる家屋敷を探せばいい。

墓や仏壇も作ってもらわずに自然葬にしてもらい、自然に戻るという他界観を持っていれば良いと思う。

今の私にとってのあの世は、かつて未開人がイメージしていた、この世の鏡としてのあの世であるから、かつての死後の扱われ方になんら拘りは無い。

ただ、父母は昔ながらの扱われ方を持ち続けていただろうから、仏壇で供養を続けている。

父母は時代の変化を分からないまま逝くことができた最後の世代だろう。

私は墓や仏壇で供養して貰わなくても良いし、年忌供養もして貰わなくて良いと思っている。








2024年12月6日金曜日

大きなのっぽの古スピーカー

私の机の上の棚に、大きなのっぽの古スピーカー(H:48cm W:26cm D:20cm)を置いてある。

農閑期の冬場は暮れるのが早いので、PCで一人カラオケを夕方にするのを楽しみにしている。

その時に、このスピーカーを通して重低音の心地よい音楽が流れてきていた。

当然アンプが必要なのだが、もともと大きなステレオコンポ用だったが、コンポが壊れてスピーカーだけ使っていた。

コンポに代わるものは、ミニコンポが余っていたので、それを代用にしていた。

そして、ついにその代用のミニコンポも壊れてしまった。


そもそも大きなステレオコンポは、買って持て余した弟に頼まれて40年程前に買ってやったものだった。

ソニー製でCDは無く、レコード盤とカセットのプレーヤーがついていた。

時代遅れとなり、無用の長物化してレコードプレーヤーとスピーカー以外は廃棄した。

ミニコンポの方は、30年ほど前のもので、CDとMDのプレーヤーが付いていたが、音が出なくなって、主に家内がラジオを聴くのに使っていた。

ラジオを聴くのもアンテナが必要で、結局携帯ラジオに取って代わられて使わなくなっていたので私がアンプ代わりに使っていたのだ。


PC用の小型スピーカーもあって使ってみたが、やはり大型スピーカーとは雲泥の差で、なんとか使えないか考えた。

新しいコンポを買おうと思ったが、外部スピーカが接続できるのは最低4万円ほどする。

ネットで色々調べたら、PCにラインでもBluetoothでも接続できるパワーアンプがあることを知った。

5000円近くするが、コンポなどを買うよりもよほど安い。

早速ネットで購入して接続するのだが、一番手こずったのは、スピーカーの線をバナナプラグに繋ぐことだった。

以前は線の先を穴に差し込むだけで良かったのだが、今はバナナプラグが一般的なようだ。

これもハンダ付けとネジ式があって、最初一緒に購入したのがハンダ付式でハンダを使わず接続するのに苦労した。

その後、小さなコンポの置いてあったスピーカーにはネジ式のバナナプラグを接続して、時々パワーアンプを活用している。


本当のオーディオマニアなら、お金にいとめをつけないで、良い製品を買うのだろう。

私は音そのものよりも、伴奏として音楽を楽しんでいるのだから、そこまで音質に拘る必要は無い。

そもそもカラオケ音源がMIDIなので音質にも限界があるのだ。

こうして、40年前の古スピーカーを使い続けることができるようになった。

防音装置の無い部屋で、いい音を楽しめるのは田舎暮らしの特権だ。

そして、カラオケもその音に負けないような大きな声で楽しんでいる。


考えてみれば、こんなに40年以上も続けて使っている電気製品は無い。

実は、使っていないけれど残してある大切な電気製品がもう一つある。

それは高校一年生に買ったGrecoのレスポールコピーのエレキギターだ。

大学時代には軽音部で仲間のギタリストから、音がカスで安物のエレキと馬鹿にされたが、貯金をつぎ込んでやっと買えた思い入れがある。

ステージでは殆ど活躍することができなかったが、キダタローのラジオ番組に出た時には使った。

今はマイクが故障していて音がまともに出ないので、机の横に置きっぱなしだ。

こちらは、50年ほどの付き合いのある電気製品なので、何とか修理して使ってみたいと思っている。

デジタルの家電や楽器ができて便利になっているのだが、こういうアナログの電気製品は愛着があって死ぬまで捨てられないと思う。

アコーシック製品同様に電気製品にも「魂」を感じているからだと思う。




2024年12月3日火曜日

カルピス回帰

 私はドライブに際して、箱買いにしていたペットボトルのお茶を持参することが多い。

それは夏場は水分不足で便通が悪くなっていたことへの対策で、今は十二指腸潰瘍の痛みの軽減だ。

ところがこの日曜日に持って出るのを忘れて、途中で買う必要に迫られた。

できるだけ痛みを軽減するためと思って、ミルクティーを買おうとしたが売り切れてしまっていた。

ふと隣を見るとカルピスウォーターがある、これだと思って早速買った。

そして、車の中で冷たいのを口に含んで暖めながら、少しずつ飲んでいった。

しばらくすると、それまでシクシクと痛かったのが無くなってきた。

新しい発見だと思い、帰りにスーパーによって、今はペットボトルで売っている原液のカルピスを買った。


カルピスのことをWikipediaで調べた。

なんと歴史は1908年(明治41)に溯り、30歳の三島海雲は内モンゴル(現在の中華人民共和国・内モンゴル自治区)を訪れ、そこで口にした酸乳を参考にしたそうだ。

製造販売は1919年(大正8)からだそうだが、自分ちの父母が生まれる前から有ったのだ。

私の子どもの頃は高価な飲み物で、家ではたまにしか飲めなかった。

家内はお中元などで貰うのを楽しみにしていたそうだが、うちにはそういうものは一切無かった。

青いアワ玉のついた瓶に入った原液のカルピスは、贈答品になるほどの高級品だったのだ。

ただ、幼稚園では夏場のプール遊びの後で、やかん一杯に作ったカルピスをみんなに飲ませてくれた。

家では滅多に飲めなかったので、いまだにその時の情景とおいしさを憶えている。

また、近くの絵の指導をしている先生のところに、入会をお願いするのに母はカルピスを買って持って行ったのを憶えている。

頼み事をする時にも役に立ったものだったようだ。

思春期では男子校だったので、カルピスが精液の隠語となってイメージを損なってしまったので、その後ほとんど飲まなくなってしまったいた。


今は十二指腸潰瘍の痛み対策としてかなり薄めて使っているが、それでも甘く感じてしまう。

既に糖質60%オフの原液も売っているようだが、糖尿病の身としてはできるだけゼロに近づけたい。

そこで考えたのは、今食べている豆乳ヨーグルトを水に溶かすことだ。

我が家は以前からヨーグルトを家で作っていたが、牛乳から豆乳に変えることに家内は成功した。

種菌は売っている豆乳ヨーグルトで、無調整の豆乳も売っているところは限られていて手間ではあるようだ。

家内は特に牛乳をちゃんと消化できないようなので、豆乳の方が栄養価でも優れていると思った。

ただ、薄めると飲みづらくなったので、原液のカルピスを少し足して飲むとおいしかった。


100年以上の歴史があり、健康食品として旧日本軍でも使われたという優れものである。

年月に耐えているということは、それなりの効能があるということだろう。

栄養面だけでなく胃壁などを保護するために、色んな飲み方ができるかもしれない。

十二指腸潰瘍を再発した私には、救世主になって欲しいと思う。

モンゴルの知恵が、こうして現代に活かされていることが何よりも愉快だ。



2024年11月29日金曜日

安上がり長時間デスクワーク対策

 私は完全退職以来、読書をしたりものを書いたりということで、特に農閑期ではデスクワークの時間が増えてしまった。

現在は十二指腸潰瘍で苦しんでいるのだが、以前の農繁期では腰痛で苦しんでいた。

その時に買ったのが、立ったまま操作するのに使うノートパソコンスタンド パソコン台だった。

ノートPCはディスプレイを大型に拡張して使っているので、外付けのキーボードとマウスを乗せて使っていた。

慣れるのに時間がかかったうえ、やはり夜などは疲れているので、立ってしようとは思わなかった。

それで、椅子に座る時間が増えてしまって、とうとう十二指腸潰瘍を再発させてしまった。


十二指腸潰瘍は腹が空くと痛くなるのだが、食事をした後も座った姿勢でいると痛くなった。

ただ、車ではリクライニングができるので、身体を楽にさせると痛みは治まった。

また、散歩したり泳いだりすると、痛みも軽減されたり忘れることができた。

ところが、今回は用事があって、図書館で時間を潰さなくてはいけなくなった。

図書館は立ち読みする場所などないので、窓際の机が高くて椅子も使えるし、立ってでも読める場所を見つけてそこで雑誌を読んでいた。

やはり、立って読み続けると、疲れてきたので、座面の高い椅子に座ってみると、意外にも痛みが来ない。

つまり、座面の低い位置の姿勢が長く続くことで、痛みが来ていたということだった。


そこで、さっそく戻ってから、立って座れる椅子を探すと、可動式の机用の可動式椅子というのが見つかった。

要するに、座ったり立ったりしてデスクワークをする可動式デスクには可動式の椅子が必要だったのだ。

そこでそれを注文しようかと考えたが、ふと以前買ったアウトドアチェア 伸縮式 キャンプ椅子のことを思い出した。

これは農作業用に買って使っているのだが、これを椅子の上に置いて使ってみると、座り心地はすこぶる悪いが何とか使える。

また、以前にニトリで丸形の分厚いクッションを買っていて、使わずにいたのを思い出して上にのせると、座り心地も良くなった。

ずっと立ってPCを使うことを考えれば、ちょっとした休憩として使えば問題ない。


考えてみれば、動物は同じ姿勢でいられるのは横たわっている時だけだろう。

これも床ずれなどを起こして問題となるが、立ったままとか座ったままよりはましであるが仕事にはならない。

座ったままの場合、楽そうに見えるが、意外と腰やお尻、胃腸に悪い。

長時間自転車に乗る人や、車を運転する人などは、腰痛持ちが多いことはよく知られている。

机にかじりついている研究者も、痔とか腰痛、胃腸の潰瘍に苦しんでいる人もよく知られている。

また、腰をかがめてする仕事の多い農家の人も、腰や背中が曲がってしまって、その痛みに苦しんでいる人を知っている。

その点で言えば教師は立ったり座ったり、スポーツをしたりして健康面では悪くなかったはずだ。

しかし、それを打ち消すだけのストレスを受けるブラックな仕事になってしまったということだ。


一方家内のリューマチは、同じ姿勢が悪いだけで無く、動かさなければ痛みが増してくる。

だから、ドライブに行く時は、助手席にいるより運転をしたがっている。

最初は、私が違反して減点され運転免許証の停止が間近なのが理由だったが、その心配がなくなっても運転をしたがった。

私の運転が不安だというのでは無くて、どうもリューマチの痛み対策であることを、私が同じ姿勢で痛むことを言うと話してくれた。

人にはなかなか理解されない痛みがそれぞれあって、家内には十二指腸潰瘍の痛みがあまり理解できないようだ。

とにかく、人は同じ姿勢を長時間できるような身体の仕組みになっていないということは確かであり、それを意識しないと身体を壊すことになる。

ところが、小学生の頃からじっと机の前で座っていることが習慣づけられて、身体を動かすことの大切さをだんだん忘れさせられてきてしまった。

特に受験勉強などはその極めつけだろう、また大学生の論文作成などもそうだと思う。

同じ姿勢を続けることが、身体に悪いことを強く意識せねばならないと思った。





2024年11月26日火曜日

酒と病

毎晩ビールを楽しみにしていた家内はリューマチを患って以来、医者から飲酒を止められてしまった。

今でも関節の痛みが続いているせいもあって、酒類は一滴も飲まない。

その代わりに、コーヒーや緑茶を何杯も飲むので、私はカフェイン中毒だと言っている。

私は逆に、コーヒーやお茶は何杯も飲もうとは思わない。

その代わり、ビール、ワイン、日本酒、焼酎と毎日欠かさず少しずつ飲んでしまっていた。

ところが、十二指腸潰瘍を再発して以来、一滴も飲む気がしなくなった。

飲むと痛むのが分かっているからで、結局家内のリューマチと同じになってしまった。

不思議なもので、入院時は別として体調が悪くても飲んでいた酒類が欲しくないのである。

これは以前に痔を患って漢方を飲んだ際に、酒を飲むと気分が悪くなったので、漢方を飲んでる間飲めなかった時以来である。

断酒するにはこの方法があると思ったが、そこまでして断酒する必要が無かった。


考えてみれば、大学や大学院時代には普段はそう酒は飲んでいなかった。

たまに飲むとかなり飲んだが、毎日飲む金も無かったし、飲まないと済まないわけではなかった。

飲酒以外に楽しいことがいっぱい有ったからだと思う。

ただ、修士論文作成時は、酒が必要となり、タバコとトウガラシとの相乗効果で体調を崩していった。

毎日晩酌をし始めたのは、教職について結婚してからだと思う。

酒の量が増えたのは、二校目の困難校に赴任してからで、肝臓数値が悪くて病院にかかった。

そして、痔も患ったために、一時は酒も飲めないような常態になっていった。

転勤して痔を手術して、酒も普通に飲めるようになった。


その後転勤を繰り返したが、病と回復の繰り返しになった。

痔の次になったのは痛風であったが、この時もしばらくは飲めなかった。

次の糖尿病は教育入院中だけで無く。退院後もしばらくは飲まなかった。

次に入院したのは脱腸だったが、入院中だけ飲まなかった。

一方、タバコは大学院時代はチェーンスモーカーで缶ピースが好きだったが、金が無いので普段は新生(SHINNSEI)を吸っていた。

それが子どもの誕生を機会に、何とか時間を掛けて辞めて、今では吸おうとは思わない。

私の場合は酒も持病の糖尿病に良くないし、酒を飲むとどうしても食事量が多くなって肥満になって健康を害している。

ただ、大きく違うのは、タバコと違って家族には直接迷惑をかけることはないのである。

また、一度友人の医者に勧められて禁酒をしたが、逆に自律神経失調症を患ってしまった経緯もあった。

だから、酒は私の精神状態を保つための薬とも言える。


私の父は完全にアルコール依存症であった。

休みの日は朝、昼、晩と安い焼酎を飲んで、3日で一升ほど飲んでしまっていた。

休みに子どもとドライブなどに行く時は、カップ酒などを持ち込んで後部座席で飲んでいた。

実は祖父も酒好きで、朝から酒を飲んでいたが、コップ一杯に留めていた。

祖父は結局脳梗塞で亡くなったが、83歳まで生きて当時としては長生きだった。

父は、脳梗塞を患ってから、さすがに酒を止めたが77歳で亡くなった。

亡くなるまで、子供らが集まって飲むたびに、「飲むな 飲むな」と言い続けていた。

その私の兄弟でも難病の持病を抱えている次男は殆ど飲めないし、痛風の四男はビールが禁じられている。

長男の私と三男が相変わらず、何でも多く飲んでいるのである。


今後、我々兄弟がどれだけ長生きできるかで、酒の評価も分かるだろう。

父の兄弟は父以外は普通に酒を嗜んでおり、酒での差は分からなくて、大企業の勤め人だった三男の父と五男が早く死に、自営業だった次男や雇われ店長だった四男は長命だ。

私の解釈では、大きい組織の方がストレスが多くて、自分の健康管理を優先できないのだろうと思う。

私も、県立学校の教職員として同じような立場にあった。

一番健康を害した次男の弟は、初任は一流企業の丸の内本社勤めだった。

ストレスから逃れるために早期退職した自分が、酒と関連のある十二指腸潰瘍を再発させるのも皮肉だ。

もう酒に頼らなくてもストレスはさほど無いはずなのに、以前からの飲み方が止められていない。

学生時代のように、飲酒以外の楽しみをもう一度見つけて、酒との関わりを変えていこうと思う。

実は昨日からギターの弾き語りの練習をしているが、もっとギターの腕を上げて再び舞台に立ったりYoutubeにアップしたいと思っている。







2024年11月23日土曜日

忘れじの渚の想い出

私が中学生の時に初めてシングルレコードを買ったのは、ミッシェル・ポルナレフの「忘れじのグローリア」だった。

英語もままならないのに、フランス語など分かりもしないどころが、文字をたどって発音することもできなかった。

それでも音を耳コピーして、たどたどしくまねて歌っていた。

彼の曲は日本では「愛の休日」が一番有名だと思うが、どの曲も日本人の情感に合って惹きつけられたように思う。

私はその後、ポルナレフの日本公演のライブ盤などを買って何度も何度も聴き続けていた。

そして「愛の願い(Love Me Please Love Me)」などを、一部だけよく口ずさむことが多かった。


赤穂には大好きな海岸が何カ所か有るが、やはり一番好きなのは唐船ビーチだ。

いまでこそ、ビーチと言われているが、子どもの頃は塩田の先にある堤防の向こうの砂浜でしかなかった。

小学生の頃から潮干狩りや魚釣り、海水浴によく友達と一緒に行った。

年頃になってからは、友人と夜にたき火をして騒いだり、彼女とデートするのにも使った。

この唐船の海岸だけでなく、千種川の河口から続く東側の河原の方が、私には青春を刻んだ場所であった。

この近くの高校に勤めるようになって、ここに来る機会も多くなった。

校内マラソン大会には、唐船山のすぐそばで立ち番もしたりした。


毎日のようにこの砂浜に通ったのは、近くの高校の定時制に勤め始めた時だった。

定時制の勤務時間は昼過ぎからなので、家で昼食をした後で運動がてらで唐船に来て歩いてから職場に行った。

たった1年定時制の勤務をして早期退職した数年後に、同級生の校長に頼まれて、再び定時制の非常勤講師をすることになった。

そのときは、授業前の夕方にまず唐船を散歩した。

必ずその時にスマホで聴いたのは、ミッシェル・ポルナレフの「渚の想い出(Tous les bateaux, tous les oiseaux)」である。


きみにあげよう

海とカモメを
そして金の果実
宝の島
星のうえの
大きな舞踏会を
泣かないで、僕の恋人(一部ネットから引用)


これは海にちなんだ曲だが、「ラース家の舞踏会(Le Bal des Laze)」や「哀しみの終わる時(Ça n'arrive qu'aux autres)」などをYouTubeで聴きながら歩いた。

そして、海浜公園に入って中に小高い芝山があって、そこから海と島を眺めながら、時に仰向けになったりして聴いていた。

ポルナレフの甘くて切ない曲が、目の前の景色とすごく合っていた。


先日は久しぶりに通院するのに時間ができたので、寄ってみた。

夕日に染まった海岸を昔のようにポルナレフを聴きながら歩いた。

しかし、かつての姿を失っていた。

温暖化の影響か、昔海に出ていたコンクリートの波消しは波を被り、昔はたくさんいたカモメも見当たらない。

そして、何よりも千種川の河口の河原が浸水している。

唐船から伸びる1km程の防波堤は、江戸時代に造られ300年以上の歴史をもつ。

塩田のために築かれた防波堤は海面上昇のために役立つことになっている。

私にとっては忘れじの渚である。

家内にはできればここに散骨して欲しいと言っている。

5年程前の風景、向こうの大きな島は小豆島、小さいのは取揚島