近年、スローライフと言うことで田舎暮らしが見なおされているが、私は元々赤穂の田舎に生まれ育って、学生時代だけの7年間だけ都会に住んだ。
ただ、中学校・高校と姫路という都会に通学していたので、中途半端な地元人である。上郡は結婚して上の息子が4歳くらいに家を建てて引っ越したので、かれこれ18年の暮らしということになる。
この上郡の村では赤穂の昔の暮らしが残っていて、引っ越ししてきた時に下肥を普通に畑にやっているのを見て驚いた(下水のできた今は殆ど無い)。また、当時は在家の報恩講があった。今でもお寺で行う報恩講を続けている村もある。
村に移り住んだ都会の人にとって大きな壁は、村付き合いである。
以前の隣保の葬式は夫婦二人が参加し、女性は朝のまかないで6時頃から出て、男性も朝食を一緒にとった。最近では集会所で葬式を行うことが多くなって、まかないも軽減されてきたが、夫婦が出ることには変わりない。
そして、村作業が特に男性には負担となる。この時期は田植え前で溝掃除があり、道具を持って朝の8時から10時過ぎまで行う。
女性でも参加可能だが、全く参加しないと2千円支払わねばならない。以前住んでいた赤穂の大津という村では、女性が参加すると負担金をとられた。高齢の男性より作業ができるのに理不尽な扱いでもあった。
この、不参加料は村によっては6000円と高額の所もあり、そうしないと参加する人がどんどん減ってしまう。上郡の新興住宅地は500円ほどで、それを払って参加しない人も多いようである。
この村でも理不尽なのは、水田の用水路の掃除まで全員が行う。
下水の完備した現在では、農地を持たない人にとって、用水路は殆ど関係ないのだが、昔からのしきたりでそうなっている。赤穂の大津では水利組合に入っている農家だけが行っていた。
私は村の組(村が3つの組に分かれている)の会計を行っている。その役割としてこの溝掃除の時に飲み物を用意するのだが、スーパーに家内と買い出しに行き、二人で配った(普通は一人でする。家内は配った後で家に戻った)。
本当は冷えた缶ビールも作業終了時に配るのも必要なのだが、参加できない高齢者の寄付で、今回は組長が用意してくれた。
方々に散らばっている村人に配るのも一手間で、あぜ道を籠を持って配ったりもした。作業終了後も村の重鎮と缶ビールを飲みながら会話のお付き合いをして、空き缶を持って帰った。
住民が行う作業は、他に公園の草刈りを隣保(組には3つの隣保がある)で、村祭り前の道作りを組全員で、2月初旬の畦焼きも組全員で行っている。
他に毎月21日は組の村寄り合いで7時から集荷所に集まり、正月の初旬に村全体と、組の発寄り合いとがそれぞれ行われる。こういう村の付き合いが都会から来た人には大きな負担となり、特に回ってきた隣保長はそれらの世話役となるので、それを行った後で村から出て行ってしまう人もあった。
これは地元に昔から住んでいる人にとっても結構負担となり、15軒ある私の隣保も隣保長ができる家は10軒ほどで、高齢世帯や若い若者の単身世帯には無理である。
こういう付き合いを覚悟して入村した家族には問題ない。ただ、売りに出された家屋敷が安いからと引っ越ししてきた人にとっては、大きな問題となり、途中で出ていった家族も何軒かある。
葬式や祭りだけでなく、作業の多い村への引っ越しは、事前によく調べてから考えた方が無難で、それなりの覚悟が必要だ。
また、高齢者になってからの引っ越しには無理があるように思う。一方、村の方も過疎対策を考えるなら、こういう村作業を工夫して軽減を考えるべきで、上郡町も代行したり、助成しなくては過疎は止まらないと思う。
自然豊で米の美味しいこの地域を担う人が、少しでも増えるように、時代変化に応じて改革すべきだろう。それが、昔のしきたりに固執する世代にはなかなか通じないのが悩みの種である。
播磨の西外れにある私の生まれ育った赤穂や、今暮らしている上郡に関すること、農作業,山野河海の恵み、趣味の水泳、音楽、専門である有機農業や、教育、文化人類学、民俗学に関することなどを、きままに記してみます。
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2012年5月21日月曜日
2012年5月20日日曜日
障害者スポーツ大会 2012/05/19(土)
私は現在特別支援学校に勤務しているので、学校以外の障害者のイベントに関わる機会もたまにある。
今年も兵庫県障害者のじぎくスポーツ大会が行われ、昨年度担任した生徒に水泳を指導した関係から、三木市の三木山総合公園屋内プールで開かれた水泳大会に引率していくことになった。
因みにこの時期には他の競技も違った会場で行われ、今週は水泳と卓球、来週は陸上競技、フライングディスク、ボーリングの個人競技、団体競技としてはバレーボール、バスケットボール、ソフトボール、サッカー、フットベースボールが行われる。
会場は三木市の総合防災公園が中心だが、神戸や明石に設定されている種目もある。水泳は知的障害者と身体障害者が合同で行うことになっていたが、今回は視力障害者も参加されていた。
私は元々水泳は趣味で始めたものが高じて、マスターズにも参加するようになり、一般高校の水泳部の顧問をするようにもなった。
学生時代は剣道をかじった程度で、水泳の指導に関しては全くの素人であった。兵庫県は市川高校、報徳学園、須磨学園など全国的にも名前の知れわったった強豪高校があって、オリンピック選手などを輩出していた。
(ただ、水泳は市川高校を除いて、冬場に温水プールで練習できないこともあって、トップ選手は殆どスイミングクラブチームで主に練習している。普通のクラブでも冬場だけ温水プールを利用させて貰うケースが殆どであり、私も生徒を温水プールに引率するのが、大きな負担であった)。
私の住む上郡では市川高校水泳部のOBが、かつては町民プールで水泳の指導を行ってくれており、特にマスターズでは芦田コーチというマスターズの指導経験が長い方に教わって大変勉強になった。
私は三木市の地理が不案内で道を間違えて、受付の9時を過ぎてから会場に入ったので、既にウォーミングアップが始まっており、二階のギャラリーも満員であった。
知的障害者の水泳指導は、西播磨特別支援学校が屋内温水プールに隣接してあるので非常に盛んで、光都スポーツクラブというスイミングクラブチームもあり、どちらも熱心な指導者がついて国体選手送り出すほどのレベルであった。
今回もその選手や保護者の方が大勢来られており、ギャラリーの一角はその人達で一杯であった。他は個人参加が多く、リレーチームを出したのは6団体であった。
私は一般の水泳大会へは何度も生徒を引率して参加して、大会運営の係をしてきたのだが、障害者の大会へは昨年初めて参加し、昨年は応援のみで今回は初めて引率となった。
大会の運営は地元や水泳連盟の方が行ってくれており、係を務める必要がなかった。原則生徒の場合は保護者が責任を持って参加する形になっているので(それで参加しづらい生徒もいる)、引率教師は応援や補助程度である。
私が指導していた生徒は中学校から水泳部に所属しており、健常者に混じってレースにも参加していた。
個人的にその中学校の水泳部顧問を知っていたこともあって、その卒業生の生徒を個人的に指導した。それは学校には水泳に関するクラブも同好会もなかったからである。
この生徒は昨年はいきなりこの大会に参加して、50m自由形の少年の部で2位になったが、1位とは10秒近くの差があった。
今回は昨年の夏休みに私と泳ぎ込んだこともあったので、100m自由形に参加したが、やはり、高校生ではないが、少年の部にはすごい選手がいて、20秒近くの差を付けられての2位だった。因みに1位は1分2秒、うちの生徒は1分22秒であった。
普通の高校生選手の記録と比較すればそれ程のタイムではないが、知的障害者の選手のタイムは素人のスイマーにはかなわない。
一方、身体障害者の泳ぎもすばらしく、その障害によっては知的障害者とは変わらない。また、麻痺の強い人の泳ぎも心を動かせるものがある。
以前私が肢体不自由の特別支援学校(当時は養護学校)で担任していた選手も参加していたが、気の毒なのはたった一人で50m背泳を泳がなくてはならなかったことである(障害の内容でレースの組が違うから)。
彼は国体に参加したことがあって経験豊富とはいえ、もっと競技者が増えて一人で泳がなくて済むようになって欲しいと思う。
一般では学校の水泳大会とスイミングクラブチームの水泳大会が別々に行われているが、学校の選手もスイミングクラブチームの大会への参加は可能である。
その運営は水泳連盟が中心に行っている。それに対して、知的障害者の水泳はスペシャルオリンピックスとこののじぎくスポーツ大会は全く別の組織で運営されており、スペシャルオリンピックスの選手はこの大会に参加しているが、逆はない。
学校でクラブチームが殆ど無いので、スペシャルオリンピックスチームの参加者の方が多いと思うが、今後両者の交流がもっとなされれば良いように思う。
身体障害者の保護者の知り合いにたまたま会ったが、現在中学生なので、その方が指導しているが、今後高校で続けていくのが悩みの種のようだった。
一般に比べてまだまだ規模も小さく、盛り上がりもそう高くはないのだが、勝ち負けやタイムにそう拘りを持たず、和気藹々と参加できる手作りの雰囲気はすばらしいと思う。
日頃練習した成果はなかなか発揮できる場所が障害者にはないので、小学生からご老人まで参加できるこの大会をもっと広めていって欲しいと思った。
是非、障害者と関わりのない方でも、実際に会場に来て頂ければ、テレビで放映される障害者のスポーツ大会の雰囲気とは違ったところも感じて頂けると思う。
今年も兵庫県障害者のじぎくスポーツ大会が行われ、昨年度担任した生徒に水泳を指導した関係から、三木市の三木山総合公園屋内プールで開かれた水泳大会に引率していくことになった。
因みにこの時期には他の競技も違った会場で行われ、今週は水泳と卓球、来週は陸上競技、フライングディスク、ボーリングの個人競技、団体競技としてはバレーボール、バスケットボール、ソフトボール、サッカー、フットベースボールが行われる。
会場は三木市の総合防災公園が中心だが、神戸や明石に設定されている種目もある。水泳は知的障害者と身体障害者が合同で行うことになっていたが、今回は視力障害者も参加されていた。
私は元々水泳は趣味で始めたものが高じて、マスターズにも参加するようになり、一般高校の水泳部の顧問をするようにもなった。
学生時代は剣道をかじった程度で、水泳の指導に関しては全くの素人であった。兵庫県は市川高校、報徳学園、須磨学園など全国的にも名前の知れわったった強豪高校があって、オリンピック選手などを輩出していた。
(ただ、水泳は市川高校を除いて、冬場に温水プールで練習できないこともあって、トップ選手は殆どスイミングクラブチームで主に練習している。普通のクラブでも冬場だけ温水プールを利用させて貰うケースが殆どであり、私も生徒を温水プールに引率するのが、大きな負担であった)。
私の住む上郡では市川高校水泳部のOBが、かつては町民プールで水泳の指導を行ってくれており、特にマスターズでは芦田コーチというマスターズの指導経験が長い方に教わって大変勉強になった。
私は三木市の地理が不案内で道を間違えて、受付の9時を過ぎてから会場に入ったので、既にウォーミングアップが始まっており、二階のギャラリーも満員であった。
知的障害者の水泳指導は、西播磨特別支援学校が屋内温水プールに隣接してあるので非常に盛んで、光都スポーツクラブというスイミングクラブチームもあり、どちらも熱心な指導者がついて国体選手送り出すほどのレベルであった。
今回もその選手や保護者の方が大勢来られており、ギャラリーの一角はその人達で一杯であった。他は個人参加が多く、リレーチームを出したのは6団体であった。
私は一般の水泳大会へは何度も生徒を引率して参加して、大会運営の係をしてきたのだが、障害者の大会へは昨年初めて参加し、昨年は応援のみで今回は初めて引率となった。
大会の運営は地元や水泳連盟の方が行ってくれており、係を務める必要がなかった。原則生徒の場合は保護者が責任を持って参加する形になっているので(それで参加しづらい生徒もいる)、引率教師は応援や補助程度である。
私が指導していた生徒は中学校から水泳部に所属しており、健常者に混じってレースにも参加していた。
個人的にその中学校の水泳部顧問を知っていたこともあって、その卒業生の生徒を個人的に指導した。それは学校には水泳に関するクラブも同好会もなかったからである。
この生徒は昨年はいきなりこの大会に参加して、50m自由形の少年の部で2位になったが、1位とは10秒近くの差があった。
今回は昨年の夏休みに私と泳ぎ込んだこともあったので、100m自由形に参加したが、やはり、高校生ではないが、少年の部にはすごい選手がいて、20秒近くの差を付けられての2位だった。因みに1位は1分2秒、うちの生徒は1分22秒であった。
普通の高校生選手の記録と比較すればそれ程のタイムではないが、知的障害者の選手のタイムは素人のスイマーにはかなわない。
一方、身体障害者の泳ぎもすばらしく、その障害によっては知的障害者とは変わらない。また、麻痺の強い人の泳ぎも心を動かせるものがある。
以前私が肢体不自由の特別支援学校(当時は養護学校)で担任していた選手も参加していたが、気の毒なのはたった一人で50m背泳を泳がなくてはならなかったことである(障害の内容でレースの組が違うから)。
彼は国体に参加したことがあって経験豊富とはいえ、もっと競技者が増えて一人で泳がなくて済むようになって欲しいと思う。
一般では学校の水泳大会とスイミングクラブチームの水泳大会が別々に行われているが、学校の選手もスイミングクラブチームの大会への参加は可能である。
その運営は水泳連盟が中心に行っている。それに対して、知的障害者の水泳はスペシャルオリンピックスとこののじぎくスポーツ大会は全く別の組織で運営されており、スペシャルオリンピックスの選手はこの大会に参加しているが、逆はない。
学校でクラブチームが殆ど無いので、スペシャルオリンピックスチームの参加者の方が多いと思うが、今後両者の交流がもっとなされれば良いように思う。
身体障害者の保護者の知り合いにたまたま会ったが、現在中学生なので、その方が指導しているが、今後高校で続けていくのが悩みの種のようだった。
一般に比べてまだまだ規模も小さく、盛り上がりもそう高くはないのだが、勝ち負けやタイムにそう拘りを持たず、和気藹々と参加できる手作りの雰囲気はすばらしいと思う。
日頃練習した成果はなかなか発揮できる場所が障害者にはないので、小学生からご老人まで参加できるこの大会をもっと広めていって欲しいと思った。
是非、障害者と関わりのない方でも、実際に会場に来て頂ければ、テレビで放映される障害者のスポーツ大会の雰囲気とは違ったところも感じて頂けると思う。
2012年5月17日木曜日
大学生の勉強時間 2012/05/16
先日NHKなどのマスコミで大学生の勉強時間が日本では少ないということが大きく取り上げられた。
たまたま通勤時でラジオでNHKのニュース解説を聞いていたが、論説者自身が自分の大学時代の勉強時間が少なかったことを言っていたのも皮肉だった。
どちらかというとエリートであるNHKの論説者が自分のことを棚に上げて、大学生の勉強不足を批判するのは矛盾である。
そもそも、机に向かって本を読んだりレポートを仕上げたりすることだけが勉強なのか?
時間量が大学生の勉強の質を表しているものなのか?
そういうことへの考慮もないまま、単に学校以外での学校の勉強の延長としての学習だけを取り上げることには疑問を感じる。
そもそも、生まれつき記憶力の良い者は、授業中に聞いた内容が直ぐに理解できて頭に入ってしまい復習する必要がない。
私が学んだ学校で教師から、友達の家に遊びに行って、自分はおろか友達の勉強の邪魔をして、現役で東大に行った生徒の話を聞かされた。
私の通った学校は私学だったので、高校3年になると予備校のような授業になっていたので、充分授業内容は東大に行けるものだったのかもしれないにしろ、力のある者はそれほど受験勉強に時間を掛けない。
それは、私が勤めていた公立高校でもリフティングで世界大会に出場しながら、現役で旧帝大の国立大学の医学部に合格した生徒がいたことからも分かる。
普通はそういう秀才のことは例外として扱われるが、逆に長時間勉強しても結果が出せないのも例外とすべきなのだろうか?
要するに、人によって程度の差はあるにせよ、単に時間だけでは計れないのである。
自分の場合、高校時代も大学時代もあまり机に向かった記憶がない。一番机に向かっていたのと思うのは、中学受験の時と卒論、修論の仕上げの時だけだ。
小学校6年生であるにも関わらず、朝の3時頃まで勉強して、8時には小学校に登校したのだから、我ながらたいしたものである。
ところが、勉強の甲斐があって私立中学に合格したが、小学校6年までは勉強嫌いで野生児だったので、中学校の2年くらいから再び勉強嫌いで音楽や恋に目覚め勉強をしなくなった。
そうなると授業中も上の空である。私学に通ったプライドや親や親戚の責めから、浪人して大学受験をしたが、志望叶わず滑り止めの大学しか通らなかった。こういう話はどこでも転がっている。
そこで奮起して芸能界や文壇で名を上げれば自慢話になるのだが、私の場合は勉強もしないのに研究を志して挫折してしまった。
私は文学書以外はあまり本を読まなかった。大学時代も文化人類学は英文の論文を読むというのが重要だったが、苦手であった。
私が研究に取り憑かれたのは、奄美諸島の与路島に魅せられたからであった。フィールドワークを重ねるうちにもっと続けたいと思い、できもしないフランス語も少し勉強して、お情けで大学院に入れて貰った。
当然、英語力などの学力がない上に、経済力もなかったので、家庭教師のアルバイトに明け暮れたり、人に頼ったりしたが、学生は続けられなくなった。
そこで、研究もできそうな教師になったのだが、それは甘い選択でもあった。
今は自分の研究の成果を発表するために2作目の出版への取り組みをしている。
これが最後と思っているので、何としても納得いくものをと思うので、研究を位置づけるために色々と文献を読み始めた。
読めば読むほど深みにはまり、一日二時間以上読書に充てても未だに最後の詰めができない。仕事が終わってから二時間以上を一週間というと、週あたりでは授業以外の学習時間として平均的な日本の大学生を上回っている。
こういう生活が3年近くになり、糖尿病さえ患ってしまった。
「少年老い易く学成り難し」とはよく言ったものである。
成功者でもない田舎教師が言うと値打ちがないが、私が今でも勉強意欲を持って居続けられるのは、大学時代のフィールドワークやクラブ活動を中心とした友達関係、恋愛、アルバイトによる社会経験であったと思う。
大学受験のために生活体験を犠牲にしている日本の学生は、大学時代にこそ生活体験を多くして欲しいと思う。
自分の娘も理系の大学生で、下宿して仕送りも少ないので、アルバイトをよくしているしクラブも熱心である。それで専門コースで一番になったと言っていた(いちおう国立だが、他の学生はあまり勉強しないのかも知れない)。
私は卒業できるのならアルバイトはおおいに結構だと思っている。
ただ、大学生がゲームや漫画のような一人で隠ってしまう時間の使い方するのは、机上での勉強と同じで生活体験ができないので私は反対である。
たまたま通勤時でラジオでNHKのニュース解説を聞いていたが、論説者自身が自分の大学時代の勉強時間が少なかったことを言っていたのも皮肉だった。
どちらかというとエリートであるNHKの論説者が自分のことを棚に上げて、大学生の勉強不足を批判するのは矛盾である。
そもそも、机に向かって本を読んだりレポートを仕上げたりすることだけが勉強なのか?
時間量が大学生の勉強の質を表しているものなのか?
そういうことへの考慮もないまま、単に学校以外での学校の勉強の延長としての学習だけを取り上げることには疑問を感じる。
そもそも、生まれつき記憶力の良い者は、授業中に聞いた内容が直ぐに理解できて頭に入ってしまい復習する必要がない。
私が学んだ学校で教師から、友達の家に遊びに行って、自分はおろか友達の勉強の邪魔をして、現役で東大に行った生徒の話を聞かされた。
私の通った学校は私学だったので、高校3年になると予備校のような授業になっていたので、充分授業内容は東大に行けるものだったのかもしれないにしろ、力のある者はそれほど受験勉強に時間を掛けない。
それは、私が勤めていた公立高校でもリフティングで世界大会に出場しながら、現役で旧帝大の国立大学の医学部に合格した生徒がいたことからも分かる。
普通はそういう秀才のことは例外として扱われるが、逆に長時間勉強しても結果が出せないのも例外とすべきなのだろうか?
要するに、人によって程度の差はあるにせよ、単に時間だけでは計れないのである。
自分の場合、高校時代も大学時代もあまり机に向かった記憶がない。一番机に向かっていたのと思うのは、中学受験の時と卒論、修論の仕上げの時だけだ。
小学校6年生であるにも関わらず、朝の3時頃まで勉強して、8時には小学校に登校したのだから、我ながらたいしたものである。
ところが、勉強の甲斐があって私立中学に合格したが、小学校6年までは勉強嫌いで野生児だったので、中学校の2年くらいから再び勉強嫌いで音楽や恋に目覚め勉強をしなくなった。
そうなると授業中も上の空である。私学に通ったプライドや親や親戚の責めから、浪人して大学受験をしたが、志望叶わず滑り止めの大学しか通らなかった。こういう話はどこでも転がっている。
そこで奮起して芸能界や文壇で名を上げれば自慢話になるのだが、私の場合は勉強もしないのに研究を志して挫折してしまった。
私は文学書以外はあまり本を読まなかった。大学時代も文化人類学は英文の論文を読むというのが重要だったが、苦手であった。
私が研究に取り憑かれたのは、奄美諸島の与路島に魅せられたからであった。フィールドワークを重ねるうちにもっと続けたいと思い、できもしないフランス語も少し勉強して、お情けで大学院に入れて貰った。
当然、英語力などの学力がない上に、経済力もなかったので、家庭教師のアルバイトに明け暮れたり、人に頼ったりしたが、学生は続けられなくなった。
そこで、研究もできそうな教師になったのだが、それは甘い選択でもあった。
今は自分の研究の成果を発表するために2作目の出版への取り組みをしている。
これが最後と思っているので、何としても納得いくものをと思うので、研究を位置づけるために色々と文献を読み始めた。
読めば読むほど深みにはまり、一日二時間以上読書に充てても未だに最後の詰めができない。仕事が終わってから二時間以上を一週間というと、週あたりでは授業以外の学習時間として平均的な日本の大学生を上回っている。
こういう生活が3年近くになり、糖尿病さえ患ってしまった。
「少年老い易く学成り難し」とはよく言ったものである。
成功者でもない田舎教師が言うと値打ちがないが、私が今でも勉強意欲を持って居続けられるのは、大学時代のフィールドワークやクラブ活動を中心とした友達関係、恋愛、アルバイトによる社会経験であったと思う。
大学受験のために生活体験を犠牲にしている日本の学生は、大学時代にこそ生活体験を多くして欲しいと思う。
自分の娘も理系の大学生で、下宿して仕送りも少ないので、アルバイトをよくしているしクラブも熱心である。それで専門コースで一番になったと言っていた(いちおう国立だが、他の学生はあまり勉強しないのかも知れない)。
私は卒業できるのならアルバイトはおおいに結構だと思っている。
ただ、大学生がゲームや漫画のような一人で隠ってしまう時間の使い方するのは、机上での勉強と同じで生活体験ができないので私は反対である。
2012年5月13日日曜日
毛虫の大発生と減った鳥 2012/05/13(日)
私は上郡と赤穂で畑をしている。赤穂は所有する畑を父親が調子が悪くなってから、自分が代わりにやり始めて、亡くなった後も続けている。
上郡は近所の人から借りて作っているのだが、最近気になることがある。それは上郡では鳥が減ったと言うことだ。
赤穂は海浜公園の近くにあることもあって、カラス対策が大変で、先日も畑の枇杷の木の摘果と袋掛け、そして防鳥ネット張りをした。
去年はネットをすればカラスはある程度防げたが、椋鳥はネットの上から袋を破いて食べられた。
今回はネットが枝葉にあたらないように工夫し、テグス糸も脅しで張った。
上郡でも庭の梅の木が雀などに荒らされたりするので、テグスを張ったり、カラスの模造品をぶら下げたりしたが、苺に関しては誰もネットを張っていない。
赤穂では隣の畑の人が、厳重に苺にネットをしているのと対称的である。そういえば上郡ではカラスの姿もあまり見ないし、雀の姿もずいぶん減った。この季節は雀は子育てで、以前は家の樋などで巣を作って、うるさくて困るくらいだった。
去年までは庭木のかなめの木に沢山集まってきて、うるさいので枝をだいぶ刈り込んだくらいである。それが最近は数匹やってくる程度で、ねぐらにすることもない。
その影響かも知れないが、代わりに庭木に毛虫が大発生した。
気がついたら梅の木の葉が食われて、枝だけになっているところもある。始めは火箸を使って一匹ずつ捕まえていたのだが、だんだん無理だと分かってきて、葉の無い枝を切り落として始末したりした。
そして、かなめの木に異常繁殖した毛虫を見て、農薬を使うことに踏み切った。スプレーで売っているものだが、それを使うとぼろぼろと毛虫が沢山落ちてきた。
これまで何度も毛虫には悩まされたが、今年ほど深刻な状態になったことはなかった。
私は畑も庭木も無農薬、無化成肥料で通しており、虫対策は主に寒冷紗や自然農薬を用いた。梅の実は毛虫を落とす時に殆ど落としてしまったので、今年は梅の収穫は諦めた。
それなら最初から梅にも農薬を使えば良かったのだが、農薬を使うことには躊躇いがどうしてもあったのである。
毛虫が異常に発生しているのは私の家だけかも知れないが、近所では庭木を農薬で防除しているのを見たので、防除していない家に集中したのかも知れない。
毛虫の大発生が何に原因するのか考えると、冬が寒かったのが一気に熱くなったことや、越冬のために鳥が上郡から減ったことによるのかも知れないと思う。
もともとうちの近辺では竹林が多く、以前は大きい木が何本もあったので、鳥のお宿に事欠かないところであった。
ただ、姫路の市川近郊のようなカラスの大群は冬場の一時を除いていない。たまに鷹などの猛禽類も渡来したり、コウノトリがやってきて話題になったりもした。そういえば、鷺もあまり見かけないし、鳧もずいぶん少ない。
気象変化によるものなのか、近年水田で多く行われている無人ヘリによる農薬散布のせいなのか、分からない。
去年はあまりの猛暑でキヌヒカリがあまりとれなかったとも聞く。機械化でただでさえ落ち穂や落ち米の減った水田に食べる物がなくなったせいかも知れない。
「沈黙の春」は農薬などの化学物質だけの問題でなく、温暖化による極端な気象変化や、農作業の機械化とも関係しているのではないかと思えてくる。
上郡は近所の人から借りて作っているのだが、最近気になることがある。それは上郡では鳥が減ったと言うことだ。
赤穂は海浜公園の近くにあることもあって、カラス対策が大変で、先日も畑の枇杷の木の摘果と袋掛け、そして防鳥ネット張りをした。
去年はネットをすればカラスはある程度防げたが、椋鳥はネットの上から袋を破いて食べられた。
今回はネットが枝葉にあたらないように工夫し、テグス糸も脅しで張った。
上郡でも庭の梅の木が雀などに荒らされたりするので、テグスを張ったり、カラスの模造品をぶら下げたりしたが、苺に関しては誰もネットを張っていない。
赤穂では隣の畑の人が、厳重に苺にネットをしているのと対称的である。そういえば上郡ではカラスの姿もあまり見ないし、雀の姿もずいぶん減った。この季節は雀は子育てで、以前は家の樋などで巣を作って、うるさくて困るくらいだった。
去年までは庭木のかなめの木に沢山集まってきて、うるさいので枝をだいぶ刈り込んだくらいである。それが最近は数匹やってくる程度で、ねぐらにすることもない。
その影響かも知れないが、代わりに庭木に毛虫が大発生した。
気がついたら梅の木の葉が食われて、枝だけになっているところもある。始めは火箸を使って一匹ずつ捕まえていたのだが、だんだん無理だと分かってきて、葉の無い枝を切り落として始末したりした。
そして、かなめの木に異常繁殖した毛虫を見て、農薬を使うことに踏み切った。スプレーで売っているものだが、それを使うとぼろぼろと毛虫が沢山落ちてきた。
これまで何度も毛虫には悩まされたが、今年ほど深刻な状態になったことはなかった。
私は畑も庭木も無農薬、無化成肥料で通しており、虫対策は主に寒冷紗や自然農薬を用いた。梅の実は毛虫を落とす時に殆ど落としてしまったので、今年は梅の収穫は諦めた。
それなら最初から梅にも農薬を使えば良かったのだが、農薬を使うことには躊躇いがどうしてもあったのである。
毛虫が異常に発生しているのは私の家だけかも知れないが、近所では庭木を農薬で防除しているのを見たので、防除していない家に集中したのかも知れない。
毛虫の大発生が何に原因するのか考えると、冬が寒かったのが一気に熱くなったことや、越冬のために鳥が上郡から減ったことによるのかも知れないと思う。
もともとうちの近辺では竹林が多く、以前は大きい木が何本もあったので、鳥のお宿に事欠かないところであった。
ただ、姫路の市川近郊のようなカラスの大群は冬場の一時を除いていない。たまに鷹などの猛禽類も渡来したり、コウノトリがやってきて話題になったりもした。そういえば、鷺もあまり見かけないし、鳧もずいぶん少ない。
気象変化によるものなのか、近年水田で多く行われている無人ヘリによる農薬散布のせいなのか、分からない。
去年はあまりの猛暑でキヌヒカリがあまりとれなかったとも聞く。機械化でただでさえ落ち穂や落ち米の減った水田に食べる物がなくなったせいかも知れない。
「沈黙の春」は農薬などの化学物質だけの問題でなく、温暖化による極端な気象変化や、農作業の機械化とも関係しているのではないかと思えてくる。
千種の水汲み2012年春 2012/05/12
我が家ではお茶やコーヒーのみならず、料理に用いる水は殆ど千種から汲んできた水を用いている。きっかけは息子が子どもの頃、アトピーや喘息で飲食物に気を遣っていたことによる。
赤穂にしろ上郡にしろ千種川の水が水道水であるので、水自体は全然問題ないのであるが、消毒に用いられるカルキや、古くなった水道管に問題があるように思えた。
初めの頃は千種スキー場にあるラドン水を給水する施設にまで汲みに上った。冬場はその施設は閉鎖されるので、近くの自然の水がわき出ている場所で汲んだりもした。
容器は看護師をしている親戚の人から貰った透析用の水を入れる10Lのポリ容器が30あまり、他は一般で売っている18Lのポリ容器である。汲んできた水が無くなりそうな頃に、千種まで出かけていくのが恒例である。
自家用車が2002年からはステップワゴンになったが、それ以前はハイラックスのピックアップトラックであったので、その荷台に40近い容器を並べて汲みに行った。
かれこれ20年近くこの水汲みが続いているのである。
費用は現在の平成の大馬鹿門入口の水汲み場では100円で約43Lで、上郡から往復100kmあるので、ガソリン代が1400円かかる。
だいたい、交通費と合計で2500円くらいの費用で、約400Lの水を購入することになる。
この作業工程には三時間の時間が費やされるので、それを夫婦二人の時給計算で考えると高いかも知れないが、だいたい三ヶ月に一度くらいの割合で、千種町まで楽しくドライブすると思えばコストとは思えない。
このところ私は水を運ぶのが仕事で、家内は運転と水を自動給水器から入れる仕事をする。
私には心地良いドライブである。途中の道の駅で買い物したり、以前はよく南光町の「ひまわりの館」で、一緒に行った子ども達と力うどんを食べるのも楽しみだった。
今日は佐用町のコメリに寄って買い物をする用事も兼ねていた。何よりも千種川沿いの自然の移りゆく風景を楽しむことができた。
特に夏場は観光にもなっている南光町のひまわりの風景が良かった。今日は曇ってはいたが、新緑の山々がとても清々しかった。
自宅のある上郡から、千種川沿いの国道373号線を通って千種へ行くのだが、今日は土曜であるにも関わらずダンプの数が非常に多い、千種川の河川改修工事のダンプカーである。地元のダンプのみならず、神戸からのものまである。
それらが狭い国道を行き来しているので、特に交差点では気を遣った。上郡の鞍居川の合流付近は河川工事もかなり進んで見違える広さになっていた。
佐用町を中心とした災害の復旧工事も進んで、久崎では新しい住宅が多く建ち並んでいる。
川幅を広げるための工事や河原や川底の砂を採ったり、ブロックで補強する工事が急ピッチで行われている。折角の清流も茶色く濁っていた。
それは徳久を過ぎたあたりまで続いており、蛍の里と言うには無理があったし、鮎なども棲めそうになかったが、災害対策なので仕方ないことだと、家内と話をした。
途中見た水田では既に田植えを始めているところもある。千種川の上流付近の水田はいつも早いが、このところの気温の低さからは違和感を感じる。
かなり高齢の老夫婦が水を張った田を均しているのだが、その田に這いつくばるような姿が、そこまでしなくてもと思う一方、年老いて尚夫婦で元気に頑張られることに敬意を感じざるを得なかった。
家内と二人で感心し合ったが、こうやって二人で水を汲みに来られるのもいつまでできるか分からないとも思う。10kg以上の重い容器の水を、ちょっと段になって高い位置の給水機から運んだり、自宅の納戸に運ぶのは、そこそこ重労働だからである。
千種町の役場を過ぎて山の麓にある給水場に行くと、土曜日であるにも関わらず誰もいない。私たちのように大量の水を汲む人がいると、かなり待たなくてはならない。
だから以前は代休になった平日や、勤めている高校は定期考査中に休みが取りやすいので、その日に計画して行くことが多かった。
一昨年からは家内が勤めに出た関係で休日しか行くことができない。だから人が多く汲みに来ていないか心配なのである。ところがこのところその心配は杞憂に終わっている。
不景気のせいなのだろうか、水を汲みに来る人はめっきり減っているのである。さっそく車を汲みやすいように傍に留めて外に出てみると、新緑の山であるのに、まるで冬の寒さである。
天気も曇っていて、家内は寒さに備えた服装をしていなかったので、寒風の中非常に寒がった。千種の道の駅の道路端の気温は15℃ほどだったと思うが、体感的には10℃を下回って感じた。少々オーバーだが、先日山で吹雪のために亡くなった人の話題を家内とした。
寒さに震えながら何とか汲み終えそうな頃に、富山ナンバーの軽自動車がやってきて、中から大学生らしい青年が降りてきた。
水を汲むのかと思いきや、物珍しげに給水場を眺めている。おそらく美味しい水の富山の人は、わざわざ水を買うのが珍しいのかも知れない。
それとも地元で水を売る参考にしていたのかも知れない。汲み終わって帰ろうとした頃、別の親子らしき女性二人が水汲みに来たので、車を移動させ恒例の大菩薩の石碑の前の拝殿に拝みに行った。
家内はいつも賽銭は5円で、私は気前よく?50円以上は出している。これも美味しい水を飲ませて貰っている感謝の気持ちである。
途中佐用の町に迂回してコメリに行き、ズッキーニの種や母の日のプレゼントの花を買って帰った。
車中ではラジオを聞くことが多いが、千種町付近では入らなくなるので、音楽を聴く。懐かしいゴスペラーズの「永遠に」が流れると、二十歳で若くして病死した姪を思い出して気持ちが沈まざるを得なかった。
それは彼女の大好きな曲で、葬儀の時もずっと流れていたからである。選んで聴いた訳ではなかったのだが、命日はこの季節であったことを思い出させたくれたのも、何かの縁だと感じた。
自宅に帰って息子にも手伝わせて、水の入った重い容器を階段下の納戸に運ぶ。そこにずっと保存していて、3ヶ月以上置いておいても大丈夫である。
米も30kgの買い置きがあるし、田園地帯の我が家では少々の災害への備えは大丈夫である。千種の水を汲んで健康を守ることと、災害対策は体力か続く限り続けたいと思っている。
自然豊かな千種の山の水は我々住民の宝であり、わざわざ姫路から汲みに来る人もいる。
姫路近辺には他にも何カ所か有料の水汲み場もあるようだが、私はここが一番良い。
あまり宣伝すると人が多くやってきて、水を汲むのに時間がかかるのは困るが、千種の地元の人が管理し維持できるだけの利用が無くては困ることも事実である。
赤穂にしろ上郡にしろ千種川の水が水道水であるので、水自体は全然問題ないのであるが、消毒に用いられるカルキや、古くなった水道管に問題があるように思えた。
初めの頃は千種スキー場にあるラドン水を給水する施設にまで汲みに上った。冬場はその施設は閉鎖されるので、近くの自然の水がわき出ている場所で汲んだりもした。
容器は看護師をしている親戚の人から貰った透析用の水を入れる10Lのポリ容器が30あまり、他は一般で売っている18Lのポリ容器である。汲んできた水が無くなりそうな頃に、千種まで出かけていくのが恒例である。
自家用車が2002年からはステップワゴンになったが、それ以前はハイラックスのピックアップトラックであったので、その荷台に40近い容器を並べて汲みに行った。
かれこれ20年近くこの水汲みが続いているのである。
費用は現在の平成の大馬鹿門入口の水汲み場では100円で約43Lで、上郡から往復100kmあるので、ガソリン代が1400円かかる。
だいたい、交通費と合計で2500円くらいの費用で、約400Lの水を購入することになる。
この作業工程には三時間の時間が費やされるので、それを夫婦二人の時給計算で考えると高いかも知れないが、だいたい三ヶ月に一度くらいの割合で、千種町まで楽しくドライブすると思えばコストとは思えない。
このところ私は水を運ぶのが仕事で、家内は運転と水を自動給水器から入れる仕事をする。
私には心地良いドライブである。途中の道の駅で買い物したり、以前はよく南光町の「ひまわりの館」で、一緒に行った子ども達と力うどんを食べるのも楽しみだった。
今日は佐用町のコメリに寄って買い物をする用事も兼ねていた。何よりも千種川沿いの自然の移りゆく風景を楽しむことができた。
特に夏場は観光にもなっている南光町のひまわりの風景が良かった。今日は曇ってはいたが、新緑の山々がとても清々しかった。
自宅のある上郡から、千種川沿いの国道373号線を通って千種へ行くのだが、今日は土曜であるにも関わらずダンプの数が非常に多い、千種川の河川改修工事のダンプカーである。地元のダンプのみならず、神戸からのものまである。
それらが狭い国道を行き来しているので、特に交差点では気を遣った。上郡の鞍居川の合流付近は河川工事もかなり進んで見違える広さになっていた。
佐用町を中心とした災害の復旧工事も進んで、久崎では新しい住宅が多く建ち並んでいる。
川幅を広げるための工事や河原や川底の砂を採ったり、ブロックで補強する工事が急ピッチで行われている。折角の清流も茶色く濁っていた。
それは徳久を過ぎたあたりまで続いており、蛍の里と言うには無理があったし、鮎なども棲めそうになかったが、災害対策なので仕方ないことだと、家内と話をした。
途中見た水田では既に田植えを始めているところもある。千種川の上流付近の水田はいつも早いが、このところの気温の低さからは違和感を感じる。
かなり高齢の老夫婦が水を張った田を均しているのだが、その田に這いつくばるような姿が、そこまでしなくてもと思う一方、年老いて尚夫婦で元気に頑張られることに敬意を感じざるを得なかった。
家内と二人で感心し合ったが、こうやって二人で水を汲みに来られるのもいつまでできるか分からないとも思う。10kg以上の重い容器の水を、ちょっと段になって高い位置の給水機から運んだり、自宅の納戸に運ぶのは、そこそこ重労働だからである。
千種町の役場を過ぎて山の麓にある給水場に行くと、土曜日であるにも関わらず誰もいない。私たちのように大量の水を汲む人がいると、かなり待たなくてはならない。
だから以前は代休になった平日や、勤めている高校は定期考査中に休みが取りやすいので、その日に計画して行くことが多かった。
一昨年からは家内が勤めに出た関係で休日しか行くことができない。だから人が多く汲みに来ていないか心配なのである。ところがこのところその心配は杞憂に終わっている。
不景気のせいなのだろうか、水を汲みに来る人はめっきり減っているのである。さっそく車を汲みやすいように傍に留めて外に出てみると、新緑の山であるのに、まるで冬の寒さである。
天気も曇っていて、家内は寒さに備えた服装をしていなかったので、寒風の中非常に寒がった。千種の道の駅の道路端の気温は15℃ほどだったと思うが、体感的には10℃を下回って感じた。少々オーバーだが、先日山で吹雪のために亡くなった人の話題を家内とした。
寒さに震えながら何とか汲み終えそうな頃に、富山ナンバーの軽自動車がやってきて、中から大学生らしい青年が降りてきた。
水を汲むのかと思いきや、物珍しげに給水場を眺めている。おそらく美味しい水の富山の人は、わざわざ水を買うのが珍しいのかも知れない。
それとも地元で水を売る参考にしていたのかも知れない。汲み終わって帰ろうとした頃、別の親子らしき女性二人が水汲みに来たので、車を移動させ恒例の大菩薩の石碑の前の拝殿に拝みに行った。
家内はいつも賽銭は5円で、私は気前よく?50円以上は出している。これも美味しい水を飲ませて貰っている感謝の気持ちである。
途中佐用の町に迂回してコメリに行き、ズッキーニの種や母の日のプレゼントの花を買って帰った。
車中ではラジオを聞くことが多いが、千種町付近では入らなくなるので、音楽を聴く。懐かしいゴスペラーズの「永遠に」が流れると、二十歳で若くして病死した姪を思い出して気持ちが沈まざるを得なかった。
それは彼女の大好きな曲で、葬儀の時もずっと流れていたからである。選んで聴いた訳ではなかったのだが、命日はこの季節であったことを思い出させたくれたのも、何かの縁だと感じた。
自宅に帰って息子にも手伝わせて、水の入った重い容器を階段下の納戸に運ぶ。そこにずっと保存していて、3ヶ月以上置いておいても大丈夫である。
米も30kgの買い置きがあるし、田園地帯の我が家では少々の災害への備えは大丈夫である。千種の水を汲んで健康を守ることと、災害対策は体力か続く限り続けたいと思っている。
自然豊かな千種の山の水は我々住民の宝であり、わざわざ姫路から汲みに来る人もいる。
姫路近辺には他にも何カ所か有料の水汲み場もあるようだが、私はここが一番良い。
あまり宣伝すると人が多くやってきて、水を汲むのに時間がかかるのは困るが、千種の地元の人が管理し維持できるだけの利用が無くては困ることも事実である。
2012年5月6日日曜日
鷲羽山ドライブ 2012/05/06(日)
この五月の連休中は上郡以外はせいぜい赤穂に行く程度で、どこにも出かけなかった。広島の大学で学ぶ娘は鈍行列車で家に戻り、一泊しただけでまた鈍行列車で戻っていった。
おそらく気分転換に帰省しただけであろう。私も学生時代から、気分転換に電車に乗って出かけることが多かった。田舎暮らしの今は、電車で出かけるのは手間のかかる気分転換である。
たいていは自家用車に乗って出かける。
買い物は姫路程度だが、一年に一度の日帰りドライブとなると、東は京都、西は広島、北は鳥取、南は高知くらいになる。休みにちょっとドライブでは、そんなに遠くには出かけない。
今回も出かける時間が10時半だったので、倉敷方面に出かけることにした。
子どもが幼い頃には、日曜日は伊部(備前焼で有名)の近くのホームセンターに出かけ、赤穂の私の両親を訪ねて戻ってくる日課となっていた。
ルートは国道二号線で、ホームセンター迄行き、そこから国道250線で海沿いに赤穂まで行き両親の家に行く、そして、千種川沿いに戻ってくるものである。この季節は「山笑う」というが、新緑が美しい。
途中、山のツツジが咲いているのを眺めたりした。また、海沿いの景色も良くて、日生を過ぎた所から、鹿久囲島などの内海は穏やかで、心が落ち着いたものである。
今日は結局、国道二号線で倉敷まで行ったのだが、どこにも寄らずに鷲羽山に行くことにした。
やはり五月の連休中に、小学生だった二人の子どもを、連れてきたことがあった所である。ここには子どもと遊べる遊園地もあって、地区の子供会でバス旅行にも来たことがある。
今回は10年ぶりくらいの家内と二人きりのドライブなのだが、家内は子供会のバス旅行は憶えていたが、子どもと家族で鷲羽山に来たことは忘れてしまっていた。
家内は余程大きなイベント以外は直ぐに忘れてしまう方で、昔の想い出を語るのは殆ど私の方である。
私は一度見た風景はたいてい記憶する方で、今回も家族で来た時の風景を懐かしく思い出していた。
水島コンビナートは相変わらず壮大な風景で、昔、日暮れに来た時に見た、夕焼けと煙突からの炎のコントラストが忘れられない。
児島坂出ルートの瀬戸大橋を鷲羽山から眺める風景も懐かしく、潮の流れの速いところをゆっくりと貨物船が通るのも10年前と変わりない。
変わってしまったのは観光客である。連休中にも関わらず殆ど混雑がない。
以前、子どもを近くのおもちゃ館に連休中に連れて行こうとして、渋滞で断念した時と大違いである。
鷲羽山展望台付近も、地元の人のイベントが行われて、有志が衣装をそろえて、地元の踊りなどを披露していたが、どうも客は身内らしい。
そこの出店でそれぞれ400円の「たこめし」と「タコの天ぷら」を買って二人で分けて食べたのだが、午後一時過ぎであるのに、出店していた魚屋は引き上げていく。
各テントはB級グルメ風なのだが、やはり近所の自治会の人がやっている感じであった。
踊りが済んでビンゴゲームとなると、多くの人が一斉に舞台付近に集まってくるのを見たが、これも地元の人という雰囲気であった。
展望レストラン付近には賑わいもなく、土産物屋も閑散としている。以前子どもと来た時は途中で弁当を買って、この付近で景色を見ながら食べたのだが、家内は憶えていない。当時は混雑していて、観光施設の中に入るのもためらわれた。
観光客が少ないのは坂道が多くてお年寄りには不向きであること、子どもが楽しめるコーナーがないことなどだろう。
当然、ゲーム世代の若者には人気がない。いくらすばらしい景色があっても、それだけでは客を呼べない時代となってしまったようだ。おいしいタコに関わる食事も、イベントを少し盛り上げる程度でしかない。
人はショッピングモールで楽しむ時代になり、雄大な風景を楽しむ時代は終わった。
遊覧船の客引きの案内の人が、ハンディーマイクで放送した後で、何のためらいもなく、声を出して大あくびをしていることが、この雰囲気を象徴していた。そんな中でタクシーに乗ってきた大学生風の四人の女性客が、古典的な観光客に思えて、観光スポットの威厳を示してくれた。
観光バスも一台もなく、良く言えば落ち着いた観光地、悪く言えば見捨てられた観光地のようにも思えて、時代の移り変わりを感じざるを得なかった。
帰りは家内に運転を代わって貰い、穂の出た麦畑などの風景などをゆっくり見て、昔を一人で思い出しながら家路についた。
家のことや農作業で連休は費やされるのだが、一日それから解放されて、ささやかなドライブに行くのは、私にとってはかけがえのない一時である。
出不精の家内あっても、何とか付き合ってくれるので、孤独ではない。これで子ども夫婦とか孫が一緒ならもっと楽しいのだろうが、その日が訪れるのは、いつのことやら・・・。
五月の連休に私たち家族や兄弟の家族が両親の家に集まり、一緒に食事をしたり、ドライブしたことも遠い昔になってしまった。
過去に拘りのない家内とは昔話はあまり出来ないのだが、聞いてくれなくても横にいる家内に語りかけられるのも、ささやかな幸せであろう。
そして、仕事のことが頭からやっと離れられたのが、何よりも幸せであった。
おそらく気分転換に帰省しただけであろう。私も学生時代から、気分転換に電車に乗って出かけることが多かった。田舎暮らしの今は、電車で出かけるのは手間のかかる気分転換である。
たいていは自家用車に乗って出かける。
買い物は姫路程度だが、一年に一度の日帰りドライブとなると、東は京都、西は広島、北は鳥取、南は高知くらいになる。休みにちょっとドライブでは、そんなに遠くには出かけない。
今回も出かける時間が10時半だったので、倉敷方面に出かけることにした。
子どもが幼い頃には、日曜日は伊部(備前焼で有名)の近くのホームセンターに出かけ、赤穂の私の両親を訪ねて戻ってくる日課となっていた。
ルートは国道二号線で、ホームセンター迄行き、そこから国道250線で海沿いに赤穂まで行き両親の家に行く、そして、千種川沿いに戻ってくるものである。この季節は「山笑う」というが、新緑が美しい。
途中、山のツツジが咲いているのを眺めたりした。また、海沿いの景色も良くて、日生を過ぎた所から、鹿久囲島などの内海は穏やかで、心が落ち着いたものである。
今日は結局、国道二号線で倉敷まで行ったのだが、どこにも寄らずに鷲羽山に行くことにした。
やはり五月の連休中に、小学生だった二人の子どもを、連れてきたことがあった所である。ここには子どもと遊べる遊園地もあって、地区の子供会でバス旅行にも来たことがある。
今回は10年ぶりくらいの家内と二人きりのドライブなのだが、家内は子供会のバス旅行は憶えていたが、子どもと家族で鷲羽山に来たことは忘れてしまっていた。
家内は余程大きなイベント以外は直ぐに忘れてしまう方で、昔の想い出を語るのは殆ど私の方である。
私は一度見た風景はたいてい記憶する方で、今回も家族で来た時の風景を懐かしく思い出していた。
水島コンビナートは相変わらず壮大な風景で、昔、日暮れに来た時に見た、夕焼けと煙突からの炎のコントラストが忘れられない。
児島坂出ルートの瀬戸大橋を鷲羽山から眺める風景も懐かしく、潮の流れの速いところをゆっくりと貨物船が通るのも10年前と変わりない。
変わってしまったのは観光客である。連休中にも関わらず殆ど混雑がない。
以前、子どもを近くのおもちゃ館に連休中に連れて行こうとして、渋滞で断念した時と大違いである。
鷲羽山展望台付近も、地元の人のイベントが行われて、有志が衣装をそろえて、地元の踊りなどを披露していたが、どうも客は身内らしい。
そこの出店でそれぞれ400円の「たこめし」と「タコの天ぷら」を買って二人で分けて食べたのだが、午後一時過ぎであるのに、出店していた魚屋は引き上げていく。
各テントはB級グルメ風なのだが、やはり近所の自治会の人がやっている感じであった。
踊りが済んでビンゴゲームとなると、多くの人が一斉に舞台付近に集まってくるのを見たが、これも地元の人という雰囲気であった。
展望レストラン付近には賑わいもなく、土産物屋も閑散としている。以前子どもと来た時は途中で弁当を買って、この付近で景色を見ながら食べたのだが、家内は憶えていない。当時は混雑していて、観光施設の中に入るのもためらわれた。
観光客が少ないのは坂道が多くてお年寄りには不向きであること、子どもが楽しめるコーナーがないことなどだろう。
当然、ゲーム世代の若者には人気がない。いくらすばらしい景色があっても、それだけでは客を呼べない時代となってしまったようだ。おいしいタコに関わる食事も、イベントを少し盛り上げる程度でしかない。
人はショッピングモールで楽しむ時代になり、雄大な風景を楽しむ時代は終わった。
遊覧船の客引きの案内の人が、ハンディーマイクで放送した後で、何のためらいもなく、声を出して大あくびをしていることが、この雰囲気を象徴していた。そんな中でタクシーに乗ってきた大学生風の四人の女性客が、古典的な観光客に思えて、観光スポットの威厳を示してくれた。
観光バスも一台もなく、良く言えば落ち着いた観光地、悪く言えば見捨てられた観光地のようにも思えて、時代の移り変わりを感じざるを得なかった。
帰りは家内に運転を代わって貰い、穂の出た麦畑などの風景などをゆっくり見て、昔を一人で思い出しながら家路についた。
家のことや農作業で連休は費やされるのだが、一日それから解放されて、ささやかなドライブに行くのは、私にとってはかけがえのない一時である。
出不精の家内あっても、何とか付き合ってくれるので、孤独ではない。これで子ども夫婦とか孫が一緒ならもっと楽しいのだろうが、その日が訪れるのは、いつのことやら・・・。
五月の連休に私たち家族や兄弟の家族が両親の家に集まり、一緒に食事をしたり、ドライブしたことも遠い昔になってしまった。
過去に拘りのない家内とは昔話はあまり出来ないのだが、聞いてくれなくても横にいる家内に語りかけられるのも、ささやかな幸せであろう。
そして、仕事のことが頭からやっと離れられたのが、何よりも幸せであった。
千種川のシジミ採り
五月の連休の4日は良く晴れたし、潮の状態も良いので、久しぶりにシジミを採りに息子と赤穂まで出かけた。
赤穂の坂越橋を南に少しくだったところには河原に駐車場があって、家族連れなどがよくシジミを拾って楽しんでいる。
私が子どもの頃はシジミはあまり人気が無くて(今でも上郡のような田舎の人には人気がなく、溝の淡水のシジミは誰も食べない)、今日のように大勢の人が押しかけることはなかった。
もっと南の河口付近にある唐船という兵庫県で一番低い山の近くには、昔から潮干狩りをさせる有料の浜があって、私たち地元の子どもは昔は無料で入らせてくれたりもしたのでよく行った。
唐船ビーチは貝を蒔いていて有料だが、自然の貝が採れるところは何カ所かあるのは知っているが、今日は手堅く採れるシジミを掘ることに敢えてした。
場所は人の多い西側の河原ではなくて、東側の河原である。こちらは火葬場が近くにある。駐車場も無いので地元の人以外はあまり来ない。私は車を止められる場所を知っているので、そこに車を置いて、草に覆われた道を下って河原に下りた。
こちら側では中州になったところに一人いるだけで 、誰もいない。川の中に入って掘ってみると、しばらく濁って何も見えなくなるが、一つ二つ大きなシジミが出てきた。
ここは海の水が上ってくるところなので、干潮でないと入れない。引き潮に下る川の水が、濁った水を下流に流してくれて、掘り起こされた貝を露わにしてくれる。人がまだ掘っていないような、青のりの生えた川底を選んで掘ってみるとそこそこ採れた。
さすが清流と言われている千種川の水と、あまり工場のない海の水が混じった所に住む貝はよく育ってでかい。数時間で直径30cm程のざるの底に一杯採れたが、近くで採っていた年配の方は買い物籠にどっさりと採ってこちらに戻ってきた。その中州には人があまり寄りつかないので、貝も大きいし数も多いようだ。
シジミで思い出すのは、子どもの頃に母親や兄弟、近所の人らと一月遅れのひな祭りに、赤穂大橋北側の東側の河原で野遊びとしてシジミ採りに来たことだ。
当時は雛壇を飾る裕福な家はそう無く、ひな祭りと言えば、よもぎ餅にちらし寿司、そして貝掘りだった。
町に住む人は川の中に入って貝を掘って探すだけでも楽しいのかも知れない。田舎に住む私たちは食事のおかずにならないと、無駄な仕事をしたような気分になる。上郡の近所の人の休日の楽しみはパチンコか釣りであることが多い。実益を伴わないと楽しめないようだ。
私は実益の伴わない山登りや、サイクリングもするが、それは気晴らしである。こういう実益を伴う貝掘りは、子どもの頃、生まれ故郷の鳥撫(天和)に父親のバイクの後ろに乗せられて採りに行ったりした。
まさしく世代を超えての、伝統ある実益を伴う遊びである。今日は息子と来たが、はたして孫と一緒に来られる日が来ることやら・・・、それまでシジミが枯渇していませんように・・・
赤穂の坂越橋を南に少しくだったところには河原に駐車場があって、家族連れなどがよくシジミを拾って楽しんでいる。
私が子どもの頃はシジミはあまり人気が無くて(今でも上郡のような田舎の人には人気がなく、溝の淡水のシジミは誰も食べない)、今日のように大勢の人が押しかけることはなかった。
もっと南の河口付近にある唐船という兵庫県で一番低い山の近くには、昔から潮干狩りをさせる有料の浜があって、私たち地元の子どもは昔は無料で入らせてくれたりもしたのでよく行った。
唐船ビーチは貝を蒔いていて有料だが、自然の貝が採れるところは何カ所かあるのは知っているが、今日は手堅く採れるシジミを掘ることに敢えてした。
場所は人の多い西側の河原ではなくて、東側の河原である。こちらは火葬場が近くにある。駐車場も無いので地元の人以外はあまり来ない。私は車を止められる場所を知っているので、そこに車を置いて、草に覆われた道を下って河原に下りた。
こちら側では中州になったところに一人いるだけで 、誰もいない。川の中に入って掘ってみると、しばらく濁って何も見えなくなるが、一つ二つ大きなシジミが出てきた。
ここは海の水が上ってくるところなので、干潮でないと入れない。引き潮に下る川の水が、濁った水を下流に流してくれて、掘り起こされた貝を露わにしてくれる。人がまだ掘っていないような、青のりの生えた川底を選んで掘ってみるとそこそこ採れた。
さすが清流と言われている千種川の水と、あまり工場のない海の水が混じった所に住む貝はよく育ってでかい。数時間で直径30cm程のざるの底に一杯採れたが、近くで採っていた年配の方は買い物籠にどっさりと採ってこちらに戻ってきた。その中州には人があまり寄りつかないので、貝も大きいし数も多いようだ。
シジミで思い出すのは、子どもの頃に母親や兄弟、近所の人らと一月遅れのひな祭りに、赤穂大橋北側の東側の河原で野遊びとしてシジミ採りに来たことだ。
当時は雛壇を飾る裕福な家はそう無く、ひな祭りと言えば、よもぎ餅にちらし寿司、そして貝掘りだった。
町に住む人は川の中に入って貝を掘って探すだけでも楽しいのかも知れない。田舎に住む私たちは食事のおかずにならないと、無駄な仕事をしたような気分になる。上郡の近所の人の休日の楽しみはパチンコか釣りであることが多い。実益を伴わないと楽しめないようだ。
私は実益の伴わない山登りや、サイクリングもするが、それは気晴らしである。こういう実益を伴う貝掘りは、子どもの頃、生まれ故郷の鳥撫(天和)に父親のバイクの後ろに乗せられて採りに行ったりした。
まさしく世代を超えての、伝統ある実益を伴う遊びである。今日は息子と来たが、はたして孫と一緒に来られる日が来ることやら・・・、それまでシジミが枯渇していませんように・・・
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