今、私が作っている作物の中で、唯一自家製の種(鱗片)を用いているのがニンニクである。
これは父親から受け継いだもので、市販されているニンニクよりも数倍臭いがきつい。
というのも、学校の調理実習で持って行ったら、うちのニンニクを使うと、手に付いた臭いが三日落ちないと、苦情を若い人から言われたことがある。
それはちょっと大袈裟だと思うが、市販のニンニクは臭いが少なく、大玉になっている。
特に中国産などはその傾向が強く、値段も安い。
だから、自分や家内の実家を除いて、他の人にあげることは殆ど無い。
そもそも父親がニンニクを作り始めたのは、自分たち兄弟の健康のためだった。
始めはクコの葉や実を採ってきたり、栽培した。臭いのきつい豆乳も飲まされたりした。
自分は今でこそ身体は強い方だが、小さい頃は気管支炎を起こして直ぐに熱を出した。
弟たちも胃腸が弱かったりした。そこで、親は色々と健康に良いものを探して、ニンニクを作り始めたようだ。最初は小さいものしかできず、大した物がとれなかったという。
ところが、私の憶えている限り、父親の作るニンニクは、非常に大きい。
父親は薩摩芋を作ることと、ニンニクを作ることが得意であった。
私もニンニクを作ろうと、借りている畑で作ってみたが、小さい物しかできない。
ところが、父親が調子を崩してから、赤穂の唐船の近くにある実家の畑で自分が作り出したが、父親と同じ様な大きいニンニクができる。
父親は極端に畑に金を掛けるのを嫌がって、あまり買った肥料を使わず、古くは下肥を、近年では薩摩芋の蔓を埋め込んだりしていた。
私は買ってきた菜種油滓、鶏糞、有機石灰を基本として、堆肥を畑の枇杷の木の根元で作って与えており、父親とはやり方が違う。ということは、肥料の差で大きさが違うということではない。
今年は実家の畑だけでなく、上郡の家の裏で借りた水田転用の畑でも植えた。
それは、あまりにも里芋がセスジスズメにやられたからである。
ニンニクは唐辛子や酢と混ぜて、害虫の忌避剤にもしていたし、赤穂の畑は比較的虫の被害が少ないのはニンニクのお陰ではないかと思ったからである。
ところが、赤穂の畑は分けつした芽も取らずに放っておき、一方で上郡の畑では脇芽も取ったり、肥料も多めにやったのにも関わらず、断然赤穂の方が大きいニンニクができた。
赤穂が砂地、上郡が粘土質という土質の違いもあるし、赤穂は海のそばでマグネシウムなどの成分が良いのかも知れない。
確かに、赤穂では隣の畑もニンニクを作っていて、品種も違うこともあって大きいのができている。
ただ、その市販で買った種を用いたニンニクは病気に弱いらしく、自分の家の畑は良いできであった年に、隣では枯らしてしまっていた。
家内の実家はあげた種で作っているが、うまくいったと言うことを聞いたことがない。やはり、父親が残したニンニクは、長年種として残してきたことと、畑がニンニクにあった土壌になったことが幸いしているのだろうと思う。
上郡の畑は、水田の転用地なのでどうしても水はけが悪く、あまりニンニクには合っていないかもしれないが、何年も作り続ける内に、土壌も変化して、ニンニクに適してくるかも知れない。残念ながら借地なのでいつまで続けられるか分からないが・・・
癌の予防に良いと言って母親も、作ってあげると喜んでくれる。
私が食べ過ぎてニンニク臭いと家内は嫌がるのだが、調子が悪い時や、疲労が溜まったり、頑張る必要があるときにはニンニクに頼っている。
親父の残してくれたニンニクは自分にとって宝物である。
そのうち見なおされて、出荷したら売れるようになるかも知れない。
その日が来るまで、赤穂の畑とニンニクの種は守り通さなくてはいけない。
それがちょっとした、親父への供養だと思っている。ちょっと臭い浪花節になってしまった・・・。
播磨の西外れにある私の生まれ育った赤穂や、今暮らしている上郡に関すること、農作業,山野河海の恵み、趣味の水泳、音楽、専門である有機農業や、教育、文化人類学、民俗学に関することなどを、きままに記してみます。
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2012年5月31日木曜日
ペーロン花火
行くつもりの無かったペーロンの花火大会に行くことになった。理由は留守番である。
家内の実家が相生にあるが、用事があって家を空けなければならない。
花火の日は留守が多いので空き巣にやられるという。家の前に車があって電気が点いていれば大丈夫だろうと言うことで、とりあえず行って花火を見ることにした。
家内の実家から港までは少し距離があるが、打ち上げる音を聞いてから歩いていって充分間に合う。渋滞する車をよそに、家族と花火を見ながら港まで行く。
子供の小さかった頃は、歩道には歩いて港に向かう人がいっぱいいたのに、若い人夫婦の連れが少しいただけ、釣具屋の前の歩道橋あたりで、やっと見物客に出会った。
それでも、本町商店街の前の交差点では、通行止めにした道を右折させるために、警察官や警備が沢山立っており、そこからは大勢の見物客がひしめいていた。
本町商店街の方に目を転じると、シャッターが下ろされて閑散としている。いくら花火がみられないとはいえ、以前はこの通りにも人が溢れていた。
出店の数も少なくなっていて、やっと播磨病院あたりになって昔の賑わいを感じた。そこからは、いつも見物する市役所の前まで行くのが大変で、たどり着いても多くの人がロータリーの道路に座って見物している。
高い駐車場ができた関係で、見通しは良くないのだが、市役所の植え込みの段に腰を掛けて、見物することにした。腹に応える懐かしい「ドン」という音。
音に驚いて泣いている赤ん坊。街は寂れていくが、花火は昔よりも数倍賑やかに夜空を彩っていた。
ただ、賑やかだけではなく、スイカを象ったものやら、顔らしきものやら工夫がなされていた。怖がる子供をよそに、花火は老若男女楽しめる。
特に若い男女や子連れの家族にとっては、想い出作りの良い機会である。私らのような熟年夫婦にとっても、昔のことを話題にしながら楽しめる良い機会である。
帰りの渋滞が心配なので、後ろ髪を引かれる思いで帰路に就く。これは以前からそうなのだが、何度も何度も花火を振り返りつつ、時に名残惜しんで立ち止まったりして、また、人通りの無くなった家内の実家に戻った。
花火は見ているときは楽しいのだが、終わってしまうと、いつもうら哀しい気持に襲われる。来年まで見ることができないというだけではなくて、儚さの最たるものだから、行く時の流れを投影してしまうのだろう。
幼い時に見た自分、学生の頃の自分、幼い子供と見た自分、そして今の自分。花火の姿はどんどん変わり、それを見る人の様相も変わり、そして、何より街が変わった。
それでも、花火を見てその幻想的な時間を過ごしたいという気持は変わらない。
毎日巨額の費用を掛けて楽しませてくれるディズニーランドとは違って、一年に一度だけの精一杯の時間を超えた「夢と奇蹟の世界」は掛け替えのないものに感じる。
震災の影響で中止された去年の分まで、楽しませてくれた花火を、誰もが讃えた。
子ども達は絵に残していくだろうし、実際に絵に描かない多くの人でも、カメラやビデオ以上に美しい花火を心に描くことができたと思う。
家内の実家が相生にあるが、用事があって家を空けなければならない。
花火の日は留守が多いので空き巣にやられるという。家の前に車があって電気が点いていれば大丈夫だろうと言うことで、とりあえず行って花火を見ることにした。
家内の実家から港までは少し距離があるが、打ち上げる音を聞いてから歩いていって充分間に合う。渋滞する車をよそに、家族と花火を見ながら港まで行く。
子供の小さかった頃は、歩道には歩いて港に向かう人がいっぱいいたのに、若い人夫婦の連れが少しいただけ、釣具屋の前の歩道橋あたりで、やっと見物客に出会った。
それでも、本町商店街の前の交差点では、通行止めにした道を右折させるために、警察官や警備が沢山立っており、そこからは大勢の見物客がひしめいていた。
本町商店街の方に目を転じると、シャッターが下ろされて閑散としている。いくら花火がみられないとはいえ、以前はこの通りにも人が溢れていた。
出店の数も少なくなっていて、やっと播磨病院あたりになって昔の賑わいを感じた。そこからは、いつも見物する市役所の前まで行くのが大変で、たどり着いても多くの人がロータリーの道路に座って見物している。
高い駐車場ができた関係で、見通しは良くないのだが、市役所の植え込みの段に腰を掛けて、見物することにした。腹に応える懐かしい「ドン」という音。
音に驚いて泣いている赤ん坊。街は寂れていくが、花火は昔よりも数倍賑やかに夜空を彩っていた。
ただ、賑やかだけではなく、スイカを象ったものやら、顔らしきものやら工夫がなされていた。怖がる子供をよそに、花火は老若男女楽しめる。
特に若い男女や子連れの家族にとっては、想い出作りの良い機会である。私らのような熟年夫婦にとっても、昔のことを話題にしながら楽しめる良い機会である。
帰りの渋滞が心配なので、後ろ髪を引かれる思いで帰路に就く。これは以前からそうなのだが、何度も何度も花火を振り返りつつ、時に名残惜しんで立ち止まったりして、また、人通りの無くなった家内の実家に戻った。
花火は見ているときは楽しいのだが、終わってしまうと、いつもうら哀しい気持に襲われる。来年まで見ることができないというだけではなくて、儚さの最たるものだから、行く時の流れを投影してしまうのだろう。
幼い時に見た自分、学生の頃の自分、幼い子供と見た自分、そして今の自分。花火の姿はどんどん変わり、それを見る人の様相も変わり、そして、何より街が変わった。
それでも、花火を見てその幻想的な時間を過ごしたいという気持は変わらない。
毎日巨額の費用を掛けて楽しませてくれるディズニーランドとは違って、一年に一度だけの精一杯の時間を超えた「夢と奇蹟の世界」は掛け替えのないものに感じる。
震災の影響で中止された去年の分まで、楽しませてくれた花火を、誰もが讃えた。
子ども達は絵に残していくだろうし、実際に絵に描かない多くの人でも、カメラやビデオ以上に美しい花火を心に描くことができたと思う。
2012年5月30日水曜日
久々の東京(修学旅行)
この5月27日(日)から29日(火)まで修学旅行で生徒を引率をして東京まで行ってきた。
東京は2007年に行って以来であるが、今回のように上野・浅草やディズニーランドへは1997年に家族で行って以来である。横浜の中華街や山下公園はもっと古い。
私の通った大学院は東京にあったので、東京都の中野区中野(1985年)、新宿区西落合(1986年)、横浜市の長津田(1987年)に住んだことがある。
特に私は院生と言っても、半分は主に家庭教師などののアルバイトで明け暮れていたので、方々に行く機会が多かった。
しかも、毎年引っ越しをしてその界隈のことは詳しい。2007年は自分が教えていた学年が修学旅行でその期間の授業が無くなったので、年休をとって住んでいた界隈を訪問した。
住んでいた地域はどちらかというと、開発から取り残された地域であまり変貌は無かったが、今回行った上野・浅草はスカイツリーの影響という面で、ディズニーランド、横浜の山下公園付近はは湾岸開発という面で大きく様変わりしていた。
以前は東京で高くて目立つ存在は新宿副都心の高層ビルという風に思っていたが、スカイツリーの存在はそれを変えてしまった。
浅草は特に近くにあって、浅草寺の境内でもそれをバックに記念写真を撮ったりした。
日曜ということもあったが、仲見世通りは人通りで溢れかえり、ここでこれだけ人手が多い経験は、東京在住していたときに行った三社祭以来である。
バスガイドさんも観光の人の流れが変わってしまったので、現在分析中だという。どちらかというと一歩裏に入るといかがわしい感じのした浅草が、国際的な観光地に変わりつつあった。
少し立ち寄ったお台場のフジテレビ付近は、ウォーターフロントと呼ばれる以前しか知らなかったので、まさしく初めての経験である。
私はそこから少し離れるが、家庭教師をした生徒が大田区にいた関係で、その生徒と海岸に魚釣りに行ったことが何度かあって、喧噪な都心から離れた隠れた憩いの場所という感じだった。
また、奄美に調査に行くときは晴海埠頭からフェリーに乗ったので、その近辺はバスで何度か通っていたが、そこは殺風景なゴミの島というイメージしかなかった。
この臨海副都心こそ今の東京を代表しているのだという感じがした。新宿副都心しか知らなかった私はまさしく過去の人であった。
ディスニーランドはたまたま近隣の学校が日曜に運動会が開かれて、その代休ということで、月曜であるにも関わらず超満員状態であった。
「夢と魔法の国」はまさしく現実から別世界に案内してくれたのだが、自分の子どもを喜ばせようと来たときと違って、作られたアニメーションの世界は手が込んで、すばらしい演出にも関わらず、何時間も並んで味わうに値するものとは思えない。
確かに夜のパレードなどは華やかで、その雰囲気に我を忘れるほどであるし、日中もあちらこちらで生演奏をして楽しませてくれている。
でも、出発前夜に見た相生のペーロン前夜祭の花火大会の方が、同じ一瞬の別世界体験でありながら、時間を超えた記憶と感情を呼び起こしてくれた。
自分には小さいときにディズニーランドで楽しんだ経験がないからか知れない。
ただ、小さいの時にテレビで見たウォールト・ディズニーの世界の方が、雄大な自然とのふれ合いや、アニメの愉快さが有ったように思う。
その番組は楽しみで欠かさず見ていた。それに対して、最新技術の3Dやロボット仕掛けの人形での演出が手が込めば手が込むほど、却ってその作為的な部分だけが目に付くようになり、孫のができれば連れてきたいとは思うが、自分が楽しむために来たいとは思わない。
歳のせいなのかもしれない。
むしろ、今回行った中で山下公園の氷川丸は過去の世界を臭いと共に再現してくれた。調査でフェリーに乗る経験の多かったので、この船が大海原を進んでいく様子が想像できる。
操舵室の古めいた羅針盤や、通信室のモールス無線機など、映画でしか見たことのない物に触ってみると、本物でしか味わえない想像を得られる。
昔、デートで来た時には素通りした氷川丸は、今も修学旅行の生徒とご老人にしか人気がないようだ。
一般が200円、障害者は無料のこの船は、高額なディズニーランドとは違った想像豊かな世界に連れて行ってくれた。
また、中華街の食事は、料金の高くてまずいホテルのバイキングよりも数倍美味しくて、お腹が一杯になった。
東京での3日間は、変わりゆく世界と変わらない世界を目の前にして、どう本物を見極めていくかを考えさせられる良い機会になった。
修学旅行は仕事として精神的も肉体的にも厳しいものではあるが、生徒だけではなく教師にも勉強になる機会でもあるように思える。
それは体験によって作為的に得ようというのではなく、楽しみながら自然に味わえる現実と想像の世界でもある。
できればもっと費用を安くして、ゆっくりと体験できればもっと良いものになるような気がするが・・・
東京は2007年に行って以来であるが、今回のように上野・浅草やディズニーランドへは1997年に家族で行って以来である。横浜の中華街や山下公園はもっと古い。
私の通った大学院は東京にあったので、東京都の中野区中野(1985年)、新宿区西落合(1986年)、横浜市の長津田(1987年)に住んだことがある。
特に私は院生と言っても、半分は主に家庭教師などののアルバイトで明け暮れていたので、方々に行く機会が多かった。
しかも、毎年引っ越しをしてその界隈のことは詳しい。2007年は自分が教えていた学年が修学旅行でその期間の授業が無くなったので、年休をとって住んでいた界隈を訪問した。
住んでいた地域はどちらかというと、開発から取り残された地域であまり変貌は無かったが、今回行った上野・浅草はスカイツリーの影響という面で、ディズニーランド、横浜の山下公園付近はは湾岸開発という面で大きく様変わりしていた。
以前は東京で高くて目立つ存在は新宿副都心の高層ビルという風に思っていたが、スカイツリーの存在はそれを変えてしまった。
浅草は特に近くにあって、浅草寺の境内でもそれをバックに記念写真を撮ったりした。
日曜ということもあったが、仲見世通りは人通りで溢れかえり、ここでこれだけ人手が多い経験は、東京在住していたときに行った三社祭以来である。
バスガイドさんも観光の人の流れが変わってしまったので、現在分析中だという。どちらかというと一歩裏に入るといかがわしい感じのした浅草が、国際的な観光地に変わりつつあった。
少し立ち寄ったお台場のフジテレビ付近は、ウォーターフロントと呼ばれる以前しか知らなかったので、まさしく初めての経験である。
私はそこから少し離れるが、家庭教師をした生徒が大田区にいた関係で、その生徒と海岸に魚釣りに行ったことが何度かあって、喧噪な都心から離れた隠れた憩いの場所という感じだった。
また、奄美に調査に行くときは晴海埠頭からフェリーに乗ったので、その近辺はバスで何度か通っていたが、そこは殺風景なゴミの島というイメージしかなかった。
この臨海副都心こそ今の東京を代表しているのだという感じがした。新宿副都心しか知らなかった私はまさしく過去の人であった。
ディスニーランドはたまたま近隣の学校が日曜に運動会が開かれて、その代休ということで、月曜であるにも関わらず超満員状態であった。
「夢と魔法の国」はまさしく現実から別世界に案内してくれたのだが、自分の子どもを喜ばせようと来たときと違って、作られたアニメーションの世界は手が込んで、すばらしい演出にも関わらず、何時間も並んで味わうに値するものとは思えない。
確かに夜のパレードなどは華やかで、その雰囲気に我を忘れるほどであるし、日中もあちらこちらで生演奏をして楽しませてくれている。
でも、出発前夜に見た相生のペーロン前夜祭の花火大会の方が、同じ一瞬の別世界体験でありながら、時間を超えた記憶と感情を呼び起こしてくれた。
自分には小さいときにディズニーランドで楽しんだ経験がないからか知れない。
ただ、小さいの時にテレビで見たウォールト・ディズニーの世界の方が、雄大な自然とのふれ合いや、アニメの愉快さが有ったように思う。
その番組は楽しみで欠かさず見ていた。それに対して、最新技術の3Dやロボット仕掛けの人形での演出が手が込めば手が込むほど、却ってその作為的な部分だけが目に付くようになり、孫のができれば連れてきたいとは思うが、自分が楽しむために来たいとは思わない。
歳のせいなのかもしれない。
むしろ、今回行った中で山下公園の氷川丸は過去の世界を臭いと共に再現してくれた。調査でフェリーに乗る経験の多かったので、この船が大海原を進んでいく様子が想像できる。
操舵室の古めいた羅針盤や、通信室のモールス無線機など、映画でしか見たことのない物に触ってみると、本物でしか味わえない想像を得られる。
昔、デートで来た時には素通りした氷川丸は、今も修学旅行の生徒とご老人にしか人気がないようだ。
一般が200円、障害者は無料のこの船は、高額なディズニーランドとは違った想像豊かな世界に連れて行ってくれた。
また、中華街の食事は、料金の高くてまずいホテルのバイキングよりも数倍美味しくて、お腹が一杯になった。
東京での3日間は、変わりゆく世界と変わらない世界を目の前にして、どう本物を見極めていくかを考えさせられる良い機会になった。
修学旅行は仕事として精神的も肉体的にも厳しいものではあるが、生徒だけではなく教師にも勉強になる機会でもあるように思える。
それは体験によって作為的に得ようというのではなく、楽しみながら自然に味わえる現実と想像の世界でもある。
できればもっと費用を安くして、ゆっくりと体験できればもっと良いものになるような気がするが・・・
2012年5月26日土曜日
夏をつげるペーロン
今年もペーロンがやってくる。去年は東北大震災のため自粛して無かった。
子どもの頃から私にとってペーロンは、舟漕ぎ競争よりも花火である。今でこそあちこちで花火大会は催しされるが、夜空に大輪を咲かせる花火は、この地方では相生のペーロンしかなかった。
自分の母親が相生育ちであり、小学生の頃までは母方の祖母家族が旭町に住んでいた。
そこにはIHI(石川島播磨重工)の社宅があって、棟続きの長屋のような造りであった(因みに私の父はIHIの修理工であった)。ペーロンではよくその祖母の家に行ったのだが、始めは立ち並ぶ長屋作りの家の中で、祖母の家を探すのが難しくて、間違えて他の人の家に入ってしまったこともあった。
港まで親たちと一緒に花火を見に行くこともあったが、人混みで父親に肩車して貰わないと、仕掛け花火は見えなかった。港まで行かずに祖母の家の二階から眺めることもあった。
幼い自分にこの花火のどーんと腹に響く音と、夜空を彩る光の渦がまるで別世界にいる気持ちにさせた。
泊まりがけで見に行ったときは、翌日のパレードや屋台も楽しかった。ただ、舟漕ぎはあまり見る気にはなれなかった。
ところが、このペーロンの時期は中学高校時代には中間試験の期間に近く、さすがに行くことができない。
相生出身の家内もわざと中間試験をペーロン時期にしていたと怒っていたが、五月の末が中間試験というのは学校の日程上仕方ないのである。
それより、姫路の私学に通っていた私には、義士祭が期末試験中であることの方が悔しかった。近隣の公立校では期末試験は終わっていた。
ただ、このペーロンは年によっては中間考査が終わっていることもあり、高校2年の時には相生の友達に誘われて、地元の会社社長の家に呼ばれたことがある。
IHIの関係者とも関わりのあるその家で、パーティーというのを初めて味わった。
また、バンドを一緒に組んだ先輩の親はIHIの重役で、大きな家に住んでいたが、そこにはバンド仲間や先輩の同級生が集まった。
花火は特別にビルの屋上から見ることもできたし、花火の後は歌って騒いで大騒ぎをした。
私は勉強をするために私学に行ったのに、音楽と遊びに目覚めてしまい。
高校3年という受験生にとって大切な年に、こともあろうに当時付き合っていた年上の彼女と試験中であるのにも関わらず、花火を見に行ったことがある。
悪いことは出来ないもので、私を見かけた近所の人に、母親に告げ口されてしまった。私は当然、友達の家に勉強しに行くと言っていたのだが、見事にばれてしまった。
ただ、理解があったのか諦めていたのか、叱られはしなかった。勉強には口うるさい母親だったので、不思議に思えた。18歳のほろ苦くて忘れられないペーロンである。
大学に入ってからしばらくはペーロンとは縁がなかったが、結婚して家内が相生であったことから、家内の実家に呼ばれて花火を見に行くことが多くなった。
家内の家は駅近くなので、家からは見えない。歩いて港まで行って見ることが多かった。
近隣から大勢の人が集まってくるので、車は大渋滞だし、歩く暴走族までやってきて喧噪な雰囲気の中、昔より派手になった花火を堪能した。
一度、子どもを連れて行って、途中で雨に降られて困ったこともあったが、家内の親戚なども訪れて賑やかで楽しい夜であった。
このペーロンが白龍の中国語読みであることは、若い頃は知らなかったし、この祭りが長崎の造船所の職人がもたらしたものであることも、ニュースなのでは報道されていたが、あまり関心はなかった。
ところが、学生時代、私は奄美諸島の与路島と言うところに研究で訪れるようになり、このペーロンと同じ舟漕ぎを経験することになった。
その島ではフナショというが、沖縄のハーリーと同じである。ペーロンのような舟漕ぎ競争は東南アジアを中心に広く行われていて、近年世界大会も開かれていた。
海の神や稲作との関わりがあると思われるが、琉球諸島の舟漕ぎ競争は地域や村で行われる大きな祭りである。
与路島では青年団の舟に乗って、桃の木で作った手製の櫂を握らされて、練習から本番まで付き合った。壮年団とビール1ケースのかかった本番では、直線では青年団が速いのだが、折り返しで技術の差がでて、破れてしまった。
ずぶ濡れになるし、横腹は痛くなるし大変な競技だったが、美しい珊瑚礁の浜で、貴重な体験をさせて貰った。
本来のペーロンは花火ではなくて、舟漕ぎ競争が主なのだが、私の記憶には花火とパレードしかない。相生市民にはチームを作って参加する舟漕ぎ競争の方が大切なのだろう。
本来は海の神への安全祈願のあった祭りは、みんなの娯楽になったが、世代を超えて続けていく行事に根付いたことは良いことだと思う。
一企業がもたらした外来文化ではあるが、遠く琉球諸島や東南アジアと連なっていることもイメージして、祭りを継承して欲しいと思う。
子どもの頃から私にとってペーロンは、舟漕ぎ競争よりも花火である。今でこそあちこちで花火大会は催しされるが、夜空に大輪を咲かせる花火は、この地方では相生のペーロンしかなかった。
自分の母親が相生育ちであり、小学生の頃までは母方の祖母家族が旭町に住んでいた。
そこにはIHI(石川島播磨重工)の社宅があって、棟続きの長屋のような造りであった(因みに私の父はIHIの修理工であった)。ペーロンではよくその祖母の家に行ったのだが、始めは立ち並ぶ長屋作りの家の中で、祖母の家を探すのが難しくて、間違えて他の人の家に入ってしまったこともあった。
港まで親たちと一緒に花火を見に行くこともあったが、人混みで父親に肩車して貰わないと、仕掛け花火は見えなかった。港まで行かずに祖母の家の二階から眺めることもあった。
幼い自分にこの花火のどーんと腹に響く音と、夜空を彩る光の渦がまるで別世界にいる気持ちにさせた。
泊まりがけで見に行ったときは、翌日のパレードや屋台も楽しかった。ただ、舟漕ぎはあまり見る気にはなれなかった。
ところが、このペーロンの時期は中学高校時代には中間試験の期間に近く、さすがに行くことができない。
相生出身の家内もわざと中間試験をペーロン時期にしていたと怒っていたが、五月の末が中間試験というのは学校の日程上仕方ないのである。
それより、姫路の私学に通っていた私には、義士祭が期末試験中であることの方が悔しかった。近隣の公立校では期末試験は終わっていた。
ただ、このペーロンは年によっては中間考査が終わっていることもあり、高校2年の時には相生の友達に誘われて、地元の会社社長の家に呼ばれたことがある。
IHIの関係者とも関わりのあるその家で、パーティーというのを初めて味わった。
また、バンドを一緒に組んだ先輩の親はIHIの重役で、大きな家に住んでいたが、そこにはバンド仲間や先輩の同級生が集まった。
花火は特別にビルの屋上から見ることもできたし、花火の後は歌って騒いで大騒ぎをした。
私は勉強をするために私学に行ったのに、音楽と遊びに目覚めてしまい。
高校3年という受験生にとって大切な年に、こともあろうに当時付き合っていた年上の彼女と試験中であるのにも関わらず、花火を見に行ったことがある。
悪いことは出来ないもので、私を見かけた近所の人に、母親に告げ口されてしまった。私は当然、友達の家に勉強しに行くと言っていたのだが、見事にばれてしまった。
ただ、理解があったのか諦めていたのか、叱られはしなかった。勉強には口うるさい母親だったので、不思議に思えた。18歳のほろ苦くて忘れられないペーロンである。
大学に入ってからしばらくはペーロンとは縁がなかったが、結婚して家内が相生であったことから、家内の実家に呼ばれて花火を見に行くことが多くなった。
家内の家は駅近くなので、家からは見えない。歩いて港まで行って見ることが多かった。
近隣から大勢の人が集まってくるので、車は大渋滞だし、歩く暴走族までやってきて喧噪な雰囲気の中、昔より派手になった花火を堪能した。
一度、子どもを連れて行って、途中で雨に降られて困ったこともあったが、家内の親戚なども訪れて賑やかで楽しい夜であった。
このペーロンが白龍の中国語読みであることは、若い頃は知らなかったし、この祭りが長崎の造船所の職人がもたらしたものであることも、ニュースなのでは報道されていたが、あまり関心はなかった。
ところが、学生時代、私は奄美諸島の与路島と言うところに研究で訪れるようになり、このペーロンと同じ舟漕ぎを経験することになった。
その島ではフナショというが、沖縄のハーリーと同じである。ペーロンのような舟漕ぎ競争は東南アジアを中心に広く行われていて、近年世界大会も開かれていた。
海の神や稲作との関わりがあると思われるが、琉球諸島の舟漕ぎ競争は地域や村で行われる大きな祭りである。
与路島では青年団の舟に乗って、桃の木で作った手製の櫂を握らされて、練習から本番まで付き合った。壮年団とビール1ケースのかかった本番では、直線では青年団が速いのだが、折り返しで技術の差がでて、破れてしまった。
ずぶ濡れになるし、横腹は痛くなるし大変な競技だったが、美しい珊瑚礁の浜で、貴重な体験をさせて貰った。
本来のペーロンは花火ではなくて、舟漕ぎ競争が主なのだが、私の記憶には花火とパレードしかない。相生市民にはチームを作って参加する舟漕ぎ競争の方が大切なのだろう。
本来は海の神への安全祈願のあった祭りは、みんなの娯楽になったが、世代を超えて続けていく行事に根付いたことは良いことだと思う。
一企業がもたらした外来文化ではあるが、遠く琉球諸島や東南アジアと連なっていることもイメージして、祭りを継承して欲しいと思う。
2012年5月22日火曜日
苺とそら豆のシアワセ 2012/05/22
先日来裏の畑で苺が沢山色づき始めた。旬彩蔵という上郡のJAの直販の店で、24ポット2000円という安い苗であったので少々心配したが、立派な実がなり味も良い。
近所でもさすがに色づき始めるとネットを苺にかけ始めたが、全く掛けていない畑もある。カラスもあまり沢山苺がなっているので、食べ飽きたのかも知れない。
苺は一年中畑の一角を占領するし、手間もかかるので面倒な作物だが、家族が喜んでくれるし、小さな子どもや孫がいるところでは必ず作っている。
だから、自分の家で作らなくても、お裾分けが期待できるのだが、今年は畑も広くなったので自分でも作ることにした。
取れたてででかいを、憚ることなく口に入れる至福は何よりも代え難い。農薬など一切使っていないので、全く安心なのである。
今年は他に今まであまり成功しなかったそら豆も植えた。そら豆は小さい頃私の親は沢山作っていて、この季節は甘く炊いたのを毎日のようにおかずに出された。
それでも余るのであんこのようにして、蒸しまんじゅうの中に入れておやつにしてくれたが、小豆よりも生臭いのであまり好きではなかった。今は種自体が高くて多くは植え付けられない。
今回も10株程度である。
それでも、昔に比べて粒が大きくて、電子レンジで加熱しただけなのにすごく美味しい。買ってきたそら豆と比較にならない。
まさしく産地直送の味は自分で作っている者しか味わえない最大の贅沢である。赤穂では高い会費を払って市民農園が貸し出されるようになったが、非常に人気があると地元の新聞に書いてあった。上郡では農家の跡継ぎが意外と畑仕事をしない。
そもそも、男は田で、女が畑という役割分担もあったのだが、田をしない男は畑もしない。やる人は徹底的に綺麗にするので、私のように草と共に育てていたら顰蹙ものであるが、私はそういう批難に屈することはない。
農薬も化成肥料も使ってないのだぞという、プライドもある。趣味で畑作りをする人でも農薬や化成肥料を平気で使う人がいるが、それなら買ってきた方が安くて済む。
農家は見た目を気にする消費者のために農薬を使い、採算を取るために化成肥料を用いる。
自分で作る価値は、惜しまぬ労力と工夫に裏付けられた安全である。しまも、うまく作れば絶対味も良い。
今は普通にいろんな作物が作れだしたが、かれこれ20年の経験の結果である。父親と一緒にしていたときは、草抜きや芋の掘り起こし作業を主にさせられていたので、あまり好きではなかった。
家族のために自分でやり始めて 、最初は玉葱でさえうまく作れなかったが、難しい作物を除いてだいたいうまくいくようになった。
ただ、白菜のように夏の暑いときに種から作ることは、一度成功はしたが手間が多くて今は敬遠している。種まきは家内の仕事だったが、勤めに出始めてあまり出来なくなった。
畑仕事を夫婦や親子で力を合わせてするときには、ささやかな幸せを感じる。
この経験は今の特別支援学校での農園作業と指導でも役に立っている。
家でも職場でも農作業をするのは辟易するところもあるし、顔は日焼けして真っ黒になって教師には見えないのがちょっと気になる。
それでも、こうして美味しい収穫物を口にすると、労を惜しまず頑張ってしまう。田舎ではパチンコが一番賑わっているが、不景気なご時世こそ畑が若い人で賑わって欲しい。
農作業は新しいスポーツであり、ゲームだと思えばパチンコやゴルフよりも、エコで生産的で格好良い。
近所でもさすがに色づき始めるとネットを苺にかけ始めたが、全く掛けていない畑もある。カラスもあまり沢山苺がなっているので、食べ飽きたのかも知れない。
苺は一年中畑の一角を占領するし、手間もかかるので面倒な作物だが、家族が喜んでくれるし、小さな子どもや孫がいるところでは必ず作っている。
だから、自分の家で作らなくても、お裾分けが期待できるのだが、今年は畑も広くなったので自分でも作ることにした。
取れたてででかいを、憚ることなく口に入れる至福は何よりも代え難い。農薬など一切使っていないので、全く安心なのである。
今年は他に今まであまり成功しなかったそら豆も植えた。そら豆は小さい頃私の親は沢山作っていて、この季節は甘く炊いたのを毎日のようにおかずに出された。
それでも余るのであんこのようにして、蒸しまんじゅうの中に入れておやつにしてくれたが、小豆よりも生臭いのであまり好きではなかった。今は種自体が高くて多くは植え付けられない。
今回も10株程度である。
それでも、昔に比べて粒が大きくて、電子レンジで加熱しただけなのにすごく美味しい。買ってきたそら豆と比較にならない。
まさしく産地直送の味は自分で作っている者しか味わえない最大の贅沢である。赤穂では高い会費を払って市民農園が貸し出されるようになったが、非常に人気があると地元の新聞に書いてあった。上郡では農家の跡継ぎが意外と畑仕事をしない。
そもそも、男は田で、女が畑という役割分担もあったのだが、田をしない男は畑もしない。やる人は徹底的に綺麗にするので、私のように草と共に育てていたら顰蹙ものであるが、私はそういう批難に屈することはない。
農薬も化成肥料も使ってないのだぞという、プライドもある。趣味で畑作りをする人でも農薬や化成肥料を平気で使う人がいるが、それなら買ってきた方が安くて済む。
農家は見た目を気にする消費者のために農薬を使い、採算を取るために化成肥料を用いる。
自分で作る価値は、惜しまぬ労力と工夫に裏付けられた安全である。しまも、うまく作れば絶対味も良い。
今は普通にいろんな作物が作れだしたが、かれこれ20年の経験の結果である。父親と一緒にしていたときは、草抜きや芋の掘り起こし作業を主にさせられていたので、あまり好きではなかった。
家族のために自分でやり始めて 、最初は玉葱でさえうまく作れなかったが、難しい作物を除いてだいたいうまくいくようになった。
ただ、白菜のように夏の暑いときに種から作ることは、一度成功はしたが手間が多くて今は敬遠している。種まきは家内の仕事だったが、勤めに出始めてあまり出来なくなった。
畑仕事を夫婦や親子で力を合わせてするときには、ささやかな幸せを感じる。
この経験は今の特別支援学校での農園作業と指導でも役に立っている。
家でも職場でも農作業をするのは辟易するところもあるし、顔は日焼けして真っ黒になって教師には見えないのがちょっと気になる。
それでも、こうして美味しい収穫物を口にすると、労を惜しまず頑張ってしまう。田舎ではパチンコが一番賑わっているが、不景気なご時世こそ畑が若い人で賑わって欲しい。
農作業は新しいスポーツであり、ゲームだと思えばパチンコやゴルフよりも、エコで生産的で格好良い。
2012年5月21日月曜日
村作業 2012/05/20(日)
近年、スローライフと言うことで田舎暮らしが見なおされているが、私は元々赤穂の田舎に生まれ育って、学生時代だけの7年間だけ都会に住んだ。
ただ、中学校・高校と姫路という都会に通学していたので、中途半端な地元人である。上郡は結婚して上の息子が4歳くらいに家を建てて引っ越したので、かれこれ18年の暮らしということになる。
この上郡の村では赤穂の昔の暮らしが残っていて、引っ越ししてきた時に下肥を普通に畑にやっているのを見て驚いた(下水のできた今は殆ど無い)。また、当時は在家の報恩講があった。今でもお寺で行う報恩講を続けている村もある。
村に移り住んだ都会の人にとって大きな壁は、村付き合いである。
以前の隣保の葬式は夫婦二人が参加し、女性は朝のまかないで6時頃から出て、男性も朝食を一緒にとった。最近では集会所で葬式を行うことが多くなって、まかないも軽減されてきたが、夫婦が出ることには変わりない。
そして、村作業が特に男性には負担となる。この時期は田植え前で溝掃除があり、道具を持って朝の8時から10時過ぎまで行う。
女性でも参加可能だが、全く参加しないと2千円支払わねばならない。以前住んでいた赤穂の大津という村では、女性が参加すると負担金をとられた。高齢の男性より作業ができるのに理不尽な扱いでもあった。
この、不参加料は村によっては6000円と高額の所もあり、そうしないと参加する人がどんどん減ってしまう。上郡の新興住宅地は500円ほどで、それを払って参加しない人も多いようである。
この村でも理不尽なのは、水田の用水路の掃除まで全員が行う。
下水の完備した現在では、農地を持たない人にとって、用水路は殆ど関係ないのだが、昔からのしきたりでそうなっている。赤穂の大津では水利組合に入っている農家だけが行っていた。
私は村の組(村が3つの組に分かれている)の会計を行っている。その役割としてこの溝掃除の時に飲み物を用意するのだが、スーパーに家内と買い出しに行き、二人で配った(普通は一人でする。家内は配った後で家に戻った)。
本当は冷えた缶ビールも作業終了時に配るのも必要なのだが、参加できない高齢者の寄付で、今回は組長が用意してくれた。
方々に散らばっている村人に配るのも一手間で、あぜ道を籠を持って配ったりもした。作業終了後も村の重鎮と缶ビールを飲みながら会話のお付き合いをして、空き缶を持って帰った。
住民が行う作業は、他に公園の草刈りを隣保(組には3つの隣保がある)で、村祭り前の道作りを組全員で、2月初旬の畦焼きも組全員で行っている。
他に毎月21日は組の村寄り合いで7時から集荷所に集まり、正月の初旬に村全体と、組の発寄り合いとがそれぞれ行われる。こういう村の付き合いが都会から来た人には大きな負担となり、特に回ってきた隣保長はそれらの世話役となるので、それを行った後で村から出て行ってしまう人もあった。
これは地元に昔から住んでいる人にとっても結構負担となり、15軒ある私の隣保も隣保長ができる家は10軒ほどで、高齢世帯や若い若者の単身世帯には無理である。
こういう付き合いを覚悟して入村した家族には問題ない。ただ、売りに出された家屋敷が安いからと引っ越ししてきた人にとっては、大きな問題となり、途中で出ていった家族も何軒かある。
葬式や祭りだけでなく、作業の多い村への引っ越しは、事前によく調べてから考えた方が無難で、それなりの覚悟が必要だ。
また、高齢者になってからの引っ越しには無理があるように思う。一方、村の方も過疎対策を考えるなら、こういう村作業を工夫して軽減を考えるべきで、上郡町も代行したり、助成しなくては過疎は止まらないと思う。
自然豊で米の美味しいこの地域を担う人が、少しでも増えるように、時代変化に応じて改革すべきだろう。それが、昔のしきたりに固執する世代にはなかなか通じないのが悩みの種である。
ただ、中学校・高校と姫路という都会に通学していたので、中途半端な地元人である。上郡は結婚して上の息子が4歳くらいに家を建てて引っ越したので、かれこれ18年の暮らしということになる。
この上郡の村では赤穂の昔の暮らしが残っていて、引っ越ししてきた時に下肥を普通に畑にやっているのを見て驚いた(下水のできた今は殆ど無い)。また、当時は在家の報恩講があった。今でもお寺で行う報恩講を続けている村もある。
村に移り住んだ都会の人にとって大きな壁は、村付き合いである。
以前の隣保の葬式は夫婦二人が参加し、女性は朝のまかないで6時頃から出て、男性も朝食を一緒にとった。最近では集会所で葬式を行うことが多くなって、まかないも軽減されてきたが、夫婦が出ることには変わりない。
そして、村作業が特に男性には負担となる。この時期は田植え前で溝掃除があり、道具を持って朝の8時から10時過ぎまで行う。
女性でも参加可能だが、全く参加しないと2千円支払わねばならない。以前住んでいた赤穂の大津という村では、女性が参加すると負担金をとられた。高齢の男性より作業ができるのに理不尽な扱いでもあった。
この、不参加料は村によっては6000円と高額の所もあり、そうしないと参加する人がどんどん減ってしまう。上郡の新興住宅地は500円ほどで、それを払って参加しない人も多いようである。
この村でも理不尽なのは、水田の用水路の掃除まで全員が行う。
下水の完備した現在では、農地を持たない人にとって、用水路は殆ど関係ないのだが、昔からのしきたりでそうなっている。赤穂の大津では水利組合に入っている農家だけが行っていた。
私は村の組(村が3つの組に分かれている)の会計を行っている。その役割としてこの溝掃除の時に飲み物を用意するのだが、スーパーに家内と買い出しに行き、二人で配った(普通は一人でする。家内は配った後で家に戻った)。
本当は冷えた缶ビールも作業終了時に配るのも必要なのだが、参加できない高齢者の寄付で、今回は組長が用意してくれた。
方々に散らばっている村人に配るのも一手間で、あぜ道を籠を持って配ったりもした。作業終了後も村の重鎮と缶ビールを飲みながら会話のお付き合いをして、空き缶を持って帰った。
住民が行う作業は、他に公園の草刈りを隣保(組には3つの隣保がある)で、村祭り前の道作りを組全員で、2月初旬の畦焼きも組全員で行っている。
他に毎月21日は組の村寄り合いで7時から集荷所に集まり、正月の初旬に村全体と、組の発寄り合いとがそれぞれ行われる。こういう村の付き合いが都会から来た人には大きな負担となり、特に回ってきた隣保長はそれらの世話役となるので、それを行った後で村から出て行ってしまう人もあった。
これは地元に昔から住んでいる人にとっても結構負担となり、15軒ある私の隣保も隣保長ができる家は10軒ほどで、高齢世帯や若い若者の単身世帯には無理である。
こういう付き合いを覚悟して入村した家族には問題ない。ただ、売りに出された家屋敷が安いからと引っ越ししてきた人にとっては、大きな問題となり、途中で出ていった家族も何軒かある。
葬式や祭りだけでなく、作業の多い村への引っ越しは、事前によく調べてから考えた方が無難で、それなりの覚悟が必要だ。
また、高齢者になってからの引っ越しには無理があるように思う。一方、村の方も過疎対策を考えるなら、こういう村作業を工夫して軽減を考えるべきで、上郡町も代行したり、助成しなくては過疎は止まらないと思う。
自然豊で米の美味しいこの地域を担う人が、少しでも増えるように、時代変化に応じて改革すべきだろう。それが、昔のしきたりに固執する世代にはなかなか通じないのが悩みの種である。
2012年5月20日日曜日
障害者スポーツ大会 2012/05/19(土)
私は現在特別支援学校に勤務しているので、学校以外の障害者のイベントに関わる機会もたまにある。
今年も兵庫県障害者のじぎくスポーツ大会が行われ、昨年度担任した生徒に水泳を指導した関係から、三木市の三木山総合公園屋内プールで開かれた水泳大会に引率していくことになった。
因みにこの時期には他の競技も違った会場で行われ、今週は水泳と卓球、来週は陸上競技、フライングディスク、ボーリングの個人競技、団体競技としてはバレーボール、バスケットボール、ソフトボール、サッカー、フットベースボールが行われる。
会場は三木市の総合防災公園が中心だが、神戸や明石に設定されている種目もある。水泳は知的障害者と身体障害者が合同で行うことになっていたが、今回は視力障害者も参加されていた。
私は元々水泳は趣味で始めたものが高じて、マスターズにも参加するようになり、一般高校の水泳部の顧問をするようにもなった。
学生時代は剣道をかじった程度で、水泳の指導に関しては全くの素人であった。兵庫県は市川高校、報徳学園、須磨学園など全国的にも名前の知れわったった強豪高校があって、オリンピック選手などを輩出していた。
(ただ、水泳は市川高校を除いて、冬場に温水プールで練習できないこともあって、トップ選手は殆どスイミングクラブチームで主に練習している。普通のクラブでも冬場だけ温水プールを利用させて貰うケースが殆どであり、私も生徒を温水プールに引率するのが、大きな負担であった)。
私の住む上郡では市川高校水泳部のOBが、かつては町民プールで水泳の指導を行ってくれており、特にマスターズでは芦田コーチというマスターズの指導経験が長い方に教わって大変勉強になった。
私は三木市の地理が不案内で道を間違えて、受付の9時を過ぎてから会場に入ったので、既にウォーミングアップが始まっており、二階のギャラリーも満員であった。
知的障害者の水泳指導は、西播磨特別支援学校が屋内温水プールに隣接してあるので非常に盛んで、光都スポーツクラブというスイミングクラブチームもあり、どちらも熱心な指導者がついて国体選手送り出すほどのレベルであった。
今回もその選手や保護者の方が大勢来られており、ギャラリーの一角はその人達で一杯であった。他は個人参加が多く、リレーチームを出したのは6団体であった。
私は一般の水泳大会へは何度も生徒を引率して参加して、大会運営の係をしてきたのだが、障害者の大会へは昨年初めて参加し、昨年は応援のみで今回は初めて引率となった。
大会の運営は地元や水泳連盟の方が行ってくれており、係を務める必要がなかった。原則生徒の場合は保護者が責任を持って参加する形になっているので(それで参加しづらい生徒もいる)、引率教師は応援や補助程度である。
私が指導していた生徒は中学校から水泳部に所属しており、健常者に混じってレースにも参加していた。
個人的にその中学校の水泳部顧問を知っていたこともあって、その卒業生の生徒を個人的に指導した。それは学校には水泳に関するクラブも同好会もなかったからである。
この生徒は昨年はいきなりこの大会に参加して、50m自由形の少年の部で2位になったが、1位とは10秒近くの差があった。
今回は昨年の夏休みに私と泳ぎ込んだこともあったので、100m自由形に参加したが、やはり、高校生ではないが、少年の部にはすごい選手がいて、20秒近くの差を付けられての2位だった。因みに1位は1分2秒、うちの生徒は1分22秒であった。
普通の高校生選手の記録と比較すればそれ程のタイムではないが、知的障害者の選手のタイムは素人のスイマーにはかなわない。
一方、身体障害者の泳ぎもすばらしく、その障害によっては知的障害者とは変わらない。また、麻痺の強い人の泳ぎも心を動かせるものがある。
以前私が肢体不自由の特別支援学校(当時は養護学校)で担任していた選手も参加していたが、気の毒なのはたった一人で50m背泳を泳がなくてはならなかったことである(障害の内容でレースの組が違うから)。
彼は国体に参加したことがあって経験豊富とはいえ、もっと競技者が増えて一人で泳がなくて済むようになって欲しいと思う。
一般では学校の水泳大会とスイミングクラブチームの水泳大会が別々に行われているが、学校の選手もスイミングクラブチームの大会への参加は可能である。
その運営は水泳連盟が中心に行っている。それに対して、知的障害者の水泳はスペシャルオリンピックスとこののじぎくスポーツ大会は全く別の組織で運営されており、スペシャルオリンピックスの選手はこの大会に参加しているが、逆はない。
学校でクラブチームが殆ど無いので、スペシャルオリンピックスチームの参加者の方が多いと思うが、今後両者の交流がもっとなされれば良いように思う。
身体障害者の保護者の知り合いにたまたま会ったが、現在中学生なので、その方が指導しているが、今後高校で続けていくのが悩みの種のようだった。
一般に比べてまだまだ規模も小さく、盛り上がりもそう高くはないのだが、勝ち負けやタイムにそう拘りを持たず、和気藹々と参加できる手作りの雰囲気はすばらしいと思う。
日頃練習した成果はなかなか発揮できる場所が障害者にはないので、小学生からご老人まで参加できるこの大会をもっと広めていって欲しいと思った。
是非、障害者と関わりのない方でも、実際に会場に来て頂ければ、テレビで放映される障害者のスポーツ大会の雰囲気とは違ったところも感じて頂けると思う。
今年も兵庫県障害者のじぎくスポーツ大会が行われ、昨年度担任した生徒に水泳を指導した関係から、三木市の三木山総合公園屋内プールで開かれた水泳大会に引率していくことになった。
因みにこの時期には他の競技も違った会場で行われ、今週は水泳と卓球、来週は陸上競技、フライングディスク、ボーリングの個人競技、団体競技としてはバレーボール、バスケットボール、ソフトボール、サッカー、フットベースボールが行われる。
会場は三木市の総合防災公園が中心だが、神戸や明石に設定されている種目もある。水泳は知的障害者と身体障害者が合同で行うことになっていたが、今回は視力障害者も参加されていた。
私は元々水泳は趣味で始めたものが高じて、マスターズにも参加するようになり、一般高校の水泳部の顧問をするようにもなった。
学生時代は剣道をかじった程度で、水泳の指導に関しては全くの素人であった。兵庫県は市川高校、報徳学園、須磨学園など全国的にも名前の知れわったった強豪高校があって、オリンピック選手などを輩出していた。
(ただ、水泳は市川高校を除いて、冬場に温水プールで練習できないこともあって、トップ選手は殆どスイミングクラブチームで主に練習している。普通のクラブでも冬場だけ温水プールを利用させて貰うケースが殆どであり、私も生徒を温水プールに引率するのが、大きな負担であった)。
私の住む上郡では市川高校水泳部のOBが、かつては町民プールで水泳の指導を行ってくれており、特にマスターズでは芦田コーチというマスターズの指導経験が長い方に教わって大変勉強になった。
私は三木市の地理が不案内で道を間違えて、受付の9時を過ぎてから会場に入ったので、既にウォーミングアップが始まっており、二階のギャラリーも満員であった。
知的障害者の水泳指導は、西播磨特別支援学校が屋内温水プールに隣接してあるので非常に盛んで、光都スポーツクラブというスイミングクラブチームもあり、どちらも熱心な指導者がついて国体選手送り出すほどのレベルであった。
今回もその選手や保護者の方が大勢来られており、ギャラリーの一角はその人達で一杯であった。他は個人参加が多く、リレーチームを出したのは6団体であった。
私は一般の水泳大会へは何度も生徒を引率して参加して、大会運営の係をしてきたのだが、障害者の大会へは昨年初めて参加し、昨年は応援のみで今回は初めて引率となった。
大会の運営は地元や水泳連盟の方が行ってくれており、係を務める必要がなかった。原則生徒の場合は保護者が責任を持って参加する形になっているので(それで参加しづらい生徒もいる)、引率教師は応援や補助程度である。
私が指導していた生徒は中学校から水泳部に所属しており、健常者に混じってレースにも参加していた。
個人的にその中学校の水泳部顧問を知っていたこともあって、その卒業生の生徒を個人的に指導した。それは学校には水泳に関するクラブも同好会もなかったからである。
この生徒は昨年はいきなりこの大会に参加して、50m自由形の少年の部で2位になったが、1位とは10秒近くの差があった。
今回は昨年の夏休みに私と泳ぎ込んだこともあったので、100m自由形に参加したが、やはり、高校生ではないが、少年の部にはすごい選手がいて、20秒近くの差を付けられての2位だった。因みに1位は1分2秒、うちの生徒は1分22秒であった。
普通の高校生選手の記録と比較すればそれ程のタイムではないが、知的障害者の選手のタイムは素人のスイマーにはかなわない。
一方、身体障害者の泳ぎもすばらしく、その障害によっては知的障害者とは変わらない。また、麻痺の強い人の泳ぎも心を動かせるものがある。
以前私が肢体不自由の特別支援学校(当時は養護学校)で担任していた選手も参加していたが、気の毒なのはたった一人で50m背泳を泳がなくてはならなかったことである(障害の内容でレースの組が違うから)。
彼は国体に参加したことがあって経験豊富とはいえ、もっと競技者が増えて一人で泳がなくて済むようになって欲しいと思う。
一般では学校の水泳大会とスイミングクラブチームの水泳大会が別々に行われているが、学校の選手もスイミングクラブチームの大会への参加は可能である。
その運営は水泳連盟が中心に行っている。それに対して、知的障害者の水泳はスペシャルオリンピックスとこののじぎくスポーツ大会は全く別の組織で運営されており、スペシャルオリンピックスの選手はこの大会に参加しているが、逆はない。
学校でクラブチームが殆ど無いので、スペシャルオリンピックスチームの参加者の方が多いと思うが、今後両者の交流がもっとなされれば良いように思う。
身体障害者の保護者の知り合いにたまたま会ったが、現在中学生なので、その方が指導しているが、今後高校で続けていくのが悩みの種のようだった。
一般に比べてまだまだ規模も小さく、盛り上がりもそう高くはないのだが、勝ち負けやタイムにそう拘りを持たず、和気藹々と参加できる手作りの雰囲気はすばらしいと思う。
日頃練習した成果はなかなか発揮できる場所が障害者にはないので、小学生からご老人まで参加できるこの大会をもっと広めていって欲しいと思った。
是非、障害者と関わりのない方でも、実際に会場に来て頂ければ、テレビで放映される障害者のスポーツ大会の雰囲気とは違ったところも感じて頂けると思う。
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