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2012年6月28日木曜日

水耕栽培と多層栽培

たまたま本屋の農業園芸コーナーで水耕栽培という本の題名に惹かれて立ち読みし、先日購入した。
ペットボトルや発泡スチロールを用いて過程でも手作りでできる方法が載せてあった。
そこで、ネットであれこれ調べると、課題は肥料の面と肥料を入れた水を循環させる点にあった。
有機栽培を目指す自分としては、無機肥料が一般的で有機肥料は一部高価な商品に限られることが問題にとなる。
ただ、有機の液肥を自分で開発するつもりであれば可能だと思えた。

実は冬場の学校での週2回計3時間の農園作業の指導をどうするのか悩んでいたので、イチゴの水耕栽培をやってみようと思った。
苗は我が家のがあるので、本に書いてあるようにラインから苗を増やしてやってみよう。
原木椎茸の菌打ち作業と組み合わせれば、何とか冬場を乗り切れそうである。

また、たまたまテレビで見た鈴木高広氏の多層栽培には驚いた。食べることしか考えてなかった芋を燃料として使うことは全く考えていなかったからだ。
実は今年は去年とれたジャガイモに芽が出てしまい、コンテナ3杯ほど捨ててしまった。
今年は何とか保存しようと乾燥して燻製にしてみるつもりだった。
燃料として用いるのなら燻製する必要がない。
鈴木氏は電力化を目標としているが、その前に暖房や木炭の代用として可能であるように思う。
そもそも、ハウス栽培の燃料として乾燥芋を用いればよい。

ネットで「芋エネルギーは日本を救う」を読んだが、 
「全国の芋の年間収穫量は2~3kg/㎡。1年かけて4時間分の太陽光のエネルギーしか固定できない計算です。現在の農業が非常に効率悪く行われているかがわかりました。・・・日光の5%しか植物が必要としないのであれば、棚をマンションのように多層に重ねて、光を分散させてやればいい。当然、下の棚には光が届きにくいので、比較的弱い光でも育つ作物で、なおかつ日本全国で栽培可能なもの。そうやって探していくと、現時点で最も優れていたのが芋」という。
すると、水耕栽培と多層栽培を組み合わせられれば良いわけである。
ただ、現在のところやっと根菜類の水耕栽培が可能になったところというのであるが、芋は比較的肥料を多く求めないので、砂に液肥を用いてみる手があるだろうと思い実験してみるつもりである。

田舎にいて農地を求めることが意外と難しいと思っていたが、水耕栽培と多層栽培はその課題を克服してくれるように思う。
一方、ハウス農家も、高いビニール資材や燃料代を節約するために、薪ストーブを使って乾燥芋を燃料として用いる手はどうだろうか?
芋の乾燥はビニールハウスを用いれば問題ない。
 少し、農業に希望がもてたような気がした。

2012年6月23日土曜日

鳥は「盗り」~枇杷の収穫 2012/06/23

今日枇杷の実の収穫を行った。実は残ったらっきょうを収穫して、黒大豆の種を蒔いたり、薩摩芋の蔓を採って植えるつもりであった。
ところが、赤穂の畑に行ってみると、あれほど厳重に防鳥ネットを張っていたのにも関わらず、袋がけした枇杷のみが食い荒らされていた。
こちらも、うかつであった。枇杷の熟れ具合を調べていなかった。

防鳥ネットをして油断もあった。最初家内はあまり上手に採っているので、人が採ったと疑ったが、地面に食い荒らされた残骸が残っていたり、突いた実が落ちていたので殆どは鳥のせいだと思う。
おそらく以前にも採っていった椋鳥ではないかと思う。
確かに、人も通りがけで採っていく人もいたかも知れない。姫路では農作物を採っていく人が多くて困ることを聞いていた。赤穂のこのあたりでは、あまりそう言う話は聞かない。

枇杷のみを採るつもりが無かったので、脚立も用意していなかった。そこでいっそうのこと枝毎残りを採ることにした。
以前採られた時も、腹立ち紛れにばっさりと枝を多く落としたことがあった。枇杷は強いもので翌年もちゃんと実をつけてくれた。
今回は本当は前もって剪定しておいて、ネット張りやすくするために低くするつもりでいた。それを今やるだけのことである。
そもそも、これだけ手間を掛けて袋がけして駄目なものは、剪定によって枯れても惜しくはない。鳥にやるくらいなら伐ってしまいたいくらいである。

収まらない怒りを抑えながら、ばっさばっさ切り落として、家内に残った実をちぎって貰ったら、意外に残っていて買い物袋一杯にはなった。
大きさも袋がけの時に2~3個になるよう摘果したり、枝を剪定したので大きく、3cm位になっている。
枇杷は剪定や摘果を怠ってそのまま実をならすと種だらけのみになり、人にあげるどころか、自分家でも食べて貰えない。
人にあげても恥ずかしくない実にはなっていた。

しかし、半日掛けて袋がけ剪定した労力の半分以上は採りに持って行かれてしまった。
人は動物や昆虫の労力を搾取するのが普通なのだが、今回は鳥に我々の労力を搾取されてしまった。
動物愛護や失われる自然を惜しむ立場でいた者が、とんだしっぺ返しを喰らってしまった。
貴重な休みの土日の時間を使って大切に果樹を管理している者としては、収穫物の半分以上も鳥に差し上げる気にはなれない。

ネットによれば鳥の語源は「飛ぶ」ことにあり、古代では狩猟の対象で「獲る」ことからという説もあるという[http://gogen-allguide.com/to/tori.html]今の私の感情からすれば、大切な農作物を「盗る」から「鳥(とり)」である。
恐竜の生き残りとされる鳥の方が、先住民で入植した人類の方が新参者なのかも知れないが、ツバメなどは例外としてなかなかうまく共存できないものだと思う。

まだ、無花果も夏場にはあるし、来年の枇杷の収穫は虫も通さぬ防風用ネットを駆使して、対抗しようと思っている。
落花生はカラスにやられて、赤穂では作るのは諦めたが、果樹ばかりはそう簡単に撤退できないので、何とか今度は勝利したい。
数の減ってきた上郡と違い、赤穂の鳥はなかなか手強い。
農村地帯ではない赤穂の方がかえって自然が残っているのかも知れない。

やもりのやっちゃん

我が家では風呂の窓にへばりつくヤモリのことをやっちゃんと親しみを込めて呼んでいる。
やっちゃんは1匹ではなくて、多い時には3匹ほどにもなるが、すべてやっちゃんと呼んでいる。
今年も冬の眠りから覚めたやっちゃんが現れた。

自分の小さい頃は風呂や便所が屋外にあったので、隣の塀にへばりついていたヤモリが怖くて嫌だった。
蛇はつかむことができたが、トカゲやヤモリは苦手で、触ることも見るのも嫌だった。

ところが、くもりガラスの向こうで白い腹を見せて動き回るヤモリはとても可愛いく思えている。
やっちゃんは窓にへばりついて、風呂の明かりに集まる蛾を待っている。
ひらひらガラスにまとわりつく蛾を、じっと待ち伏せて来たところに飛びついたり
離れた蛾の所まで走っていって捕まえようとする
ところが、蛾もそう簡単には捕まらない
風呂に入ると、じっとその狩の様子に見とれてしまう

やっちゃんもうまい下手があって、うまいのは体も大きく小さい仲間を追っ払う
やっちゃん同士は縄張り争いも激しく、しっぽで威嚇したり、たまに鳴いたりする
尻尾がちぎれたのは、ケンカで失ったようだ
追い払われる小さいのを応援するが、 大概は逃げ出してしまう
ところが、大きいのが失敗して、その逃げた方向に蛾が来て小さいのが、それを頂くこともあって面白い

家内もその様子を風呂で見ているので、やっちゃんの話題で盛り上がる
家内は長風呂なので、やっちゃんを見るのが何よりも楽しみのようだ
暑がりの私は湯船から出てながめることもしばしばある
夏場のやっちゃんはお風呂のお供なのである

ただ、蛾にすれば、可愛い目をしたやっちゃんも、獰猛な恐竜の生き残りなのだろう。
どうしても、蛾の立場にたって考えることはできないけど・・・

赤穂弁と多方言主義

「よしてっけえ」というのは私が育った赤穂の尾崎あたりでは、何か遊びや、集まりに自分も入れて欲しいという時に使う言葉であった。
中学校から姫路に通い出したのだが、「よしってけえ」というと「どういう意味や」と笑われた。
同じように「よして」という言葉を連発していた1年上の先輩は、「よして」というあだ名がつけられてしまった。

赤穂では「でーしょん」という言葉をこの地域の特徴ある言葉として、「でーしょん祭」を企画したりしている。
「でーしょん」というのは関西弁の「どないしてん」、標準語の「どうしてる」 にあたるが、「でーなんね(どうしてるんだ)」とか「でーしたらえん(どうしたら良いの)」という言葉もよく使う。
私は小学校の担任の先生に「でーしょんだっせ いっしゃん(私のニックネーム)」とよく叱られたので、下級生からもそう言ってからかわれた。
赤穂高校に勤めていた相生出身の先生が生徒から「でーしたら、えんですか?」と聞かれて、意味が分からなかったと聞いた時、思わず苦笑してしまった。

私は赤穂でも「尾崎のがんら(柄が悪い)」と言われて、一番言葉遣いが悪いとされる地域に育った。
小学校の時は方言を使うと言い直させられた。それが授業以外でもするように教師から求められて、互いに監視し合う雰囲気になってしまった。
私は中学校から赤穂を離れた関係で、あまり赤穂弁は話せない。弟はずっと尾崎なので、弟らと話をする時は、尾崎弁やら姫路弁やら関西弁が混じる。
父親はもともと赤穂の西外れでの鳥撫出身なので、備前の言葉の混じった独特の言葉を使っていた。
母親は生まれは備前福河だが、相生育ちなのでそれも赤穂とは違う言葉使っていた。ようするに家の中では多方言地帯になっていたのである。

家内は両親とも広島県出身なので、家の中では広島弁が共通語である。それが家を出ると相生弁だったので、言葉やイントネーションが両方入り交じった妙な言葉をよく使う。
本籍も結婚する前迄は広島県だったので、「おまえは広島県人や」と冗談を言うと、「なんですいね 兵庫県人じゃけん」と冗談で言い返す。

ところが、テレビで育ち、友達も少なかった息子は方言が使えない。しかも、漢字言葉を連発する。方言が我が家で途絶えてしまうのはコウノトリの絶滅以上に哀しい。
私は教師という職業柄、授業では標準語を使うように心がけてはいるが、授業を離れると色々渾然とした方言を使っている。
以前は気取った言い方の時には、大学院時代に住んでいた所の、東京弁をつかい女房に皮肉を言われた。
だから、東京で暮らす弟が帰ってきて東京弁を使うと、お尻がむづ痒くなる。
文章を書く時は東京弁に近い標準語で違和感はないが、話す時は東京弁はカタカナ英語以上に違和感を感じる。

近年職場で英語を用いることを強制する企業が現れ始めた。
グローバライゼーションに日本がついていくためだという。
日本はずっと中国で生まれた漢字言葉を多用してきた。ただし、書き言葉としてである。
言文一致と良いながら、明治時代の小説の漢字言葉には閉口する。
そう言いながら、このブログも漢字言葉を用いないとまともに書けない。
ようするに、中国が世界でも冠たる文明の先進地域の時は、知識層を中心にグローバライズされていたのである。

英語がイギリスやアメリカの帝国主義の影響でスタンダードになった今、それに追随する必要はあるとは思う。
それなら、従来通り書き言葉やちょっとした日常会話に留めて、日常会話には方言を使うことをおすすめする。
東京に集まった地方出身者が、会議で方言と英語でバトルしている姿は愉快に思える。

「おみゃーさんよ それまちがっとるで いかんわ」
「あほか おーとんきまっとるやろ」
「That's right!」
「でーしたらえんですか? 課長!」
「わしゃ 広島じゃけん まかせるわ」
「ざけるんじゃーねーぞ!」
「くん しがたや はごさんくぁ-」
「んだ!」

という風な会話がなされるとは思わないが、遊び心を失った組織こそ、グローバライゼーションに取り残されるように思う。
正確に意思疎通をするだけが言葉ではない。
世界を背負おうとするなら、「よしてっけえ」と叫ぼう。
企業の仲間内で固まってしまわずに・・・ 

2012年6月20日水曜日

やはり減った鳥などの生き物

鳥はやはり減ったと思う。家内とも話したが一番に上がったのはケリだった。
ケリは上郡に来て初めて知った鳥だが、田んぼの中にいて「キキキキー」とうるさく鳴いて、人にまで向かってくる気の強い鳥だ。
この鳥は自分の縄張りを、同じケリ同士で競うが、カラスなどに対しても攻撃する。
時々夜中にも鳴いて、賑やかなやつだなと思っていた
ところが、このところいるにはいるが、数が本当に少ない

次に全く見ないのが、アマサギでこれは田植え時分に必ずいた。
最初は、季節的に頭の部分が黄色くなるのかと思っていたが、そういう種類で夏だけ来る渡り鳥だという。
サギはいろんなサギを見かける。ダイサギやコサギ以外にも、ゴイサギやアオサギも見ることもある。
ところが、田植えの時に必ず沢山いたアマサギを全く回りで見かけていない。

カラスや鳶も減ったと思う
カラスと鳶が空中戦をするのが面白くて、でかいのにカラスにやられている鳶を応援したくなるのだが、その風景をとんと見ない。
カラスは冬に集団で見かけることがあるが、夏でもいついているカラスをあまり見かけない
カラスは電柱にとまって「かあ かあ」と人が近づくとうるさく鳴くし、どういう訳か屋根の温水器をこつこつ突いていた。

相変わらず蛙は田んぼでうるさく鳴いている。
ただ、数は以前よりも減ったと思う。特にアマガエルとかツチガエルが少なくなった。
そう言えば蛇も今年はあまり見かけない。
家の近くではマムシさえ道路で車にひかれているのをたまに見かけたが、このところシマヘビやカラス蛇を見かけない。
ひょっとしたら、蛙とか小さな昆虫が減ったからかも知れない
そういえば川の小魚も減っているように思う。

哺乳類に関しても、確実に鹿以外の動物は減っている
よく見かけた狸や狐も最近見ないし、猪も降りてきていない
このところ厳重に鉄柵を山際に張り巡らしたので、降りて来られないのかも知れない。

これらの動物や昆虫が減った原因として考えられるのは、近年行われている無線ヘリによる空中農薬散布が第一に考えられる。
また、減反で草の生えている田が減ったことや、冬場から春先のレンゲ畑が減ったことなども考えられるがよく分からない。
まさか、心配している山崎断層地震の予兆とは思いたくないが、868年(貞観10年)に起こったことの再現になる。
ただ、東北大震災との関連からいくと、東北では翌年の869年に貞観三陸地震(M9.0)が起こっている。
列島の歪みの関連からすると、地震が前後してもおかしくないと思うので、用心に越したことはないだろう。

2012年6月17日日曜日

ジャガイモ掘り

ジャガイモを掘る季節になった。
この季節は雨が多いので、芋を掘るのはかなり重労働である。高齢になった家内の両親はジャガイモを作るのは数年前に止めてしまった。
一昨年はビニールマルチをしなかったので、雨上がりの芋掘りが土が重くて大変で、熱中症になってしまった。
それに懲りて、昨年からはビニールマルチを使用しているので、掘るのは幾分楽にはなった。
アルミ製のフォークス状の掘り起こし機で、家内や息子にも手伝ってもらった。
これは備中鍬を使うより簡単だが、掘り残しがでるので後でもう一度備中鍬で掘り起こしたが、一人で全部やるよりは楽ではあった。

ジャガイモは上郡の畑にキタアカリを、赤穂の畑にメークインを植えたが、上郡の方は葉が枯れる病気になったので、早々と先週から掘っていた。
キタアカリはもともとそんなに多くとれないが、早く掘ったせいもあって、小ぶりで量も多くなかった。
メークインは例年より小ぶりだが、コンテナ3杯半とれて上出来であった。
西隣の畑のNさんは、今年はジャガイモは全滅したという。万田酵素で作った種芋を貰い、切り口をよく乾燥させて、マルチも用いて植えたのだが、植えた時に3日間雨が降って、腐ってしまったという。
かつて、自分にはジャガイモを全滅させたことは無かったので、雨よりも種芋の質に問題があるように思えた。

ジャガイモ掘りで一番困るのは、蟻である。マルチをしていると特に蟻の巣が多くなる。
掘る時にその巣を壊すことになるので、怒った?蟻が服の中に入り込んで手足をかむことが多い。
蟻にかまれると赤く腫れて、痛がゆくしばらくは治らない。
私は今回、右手の二の腕の内側をかまれた。家内は肘の下あたりをかまれて、私よりもひどく腫れ上がっている。
今年は例年よりも、大きくて黒い蟻が多くいたように思う。
その一方でミミズも沢山いたが、幸いにモグラや鼠はいなかった。
掘り起こした後は虫などを求めて、よくカラスなどが来るのだが、大勢で作業をやっているので寄りつけない。
そこで近くの木の上で悔しげに?鳴いたり、バタバタ騒いでいた。

赤穂は朝曇っていたのだが、昼になるにしたがって晴れてきて、芋を掘るには過酷な状態になってきた。
先週まで喉が渇くと食べていた畑の金柑も、先日来の雨で多くが腐っていて、最後に少しだけ奥の方のが食べられただけだった。
赤穂の畑の金柑は大変甘くてみずみずしくて、喉の渇きを癒すにはもってこいだった。
わざと採らずにおいていた金柑もおしまいになった。

ジャガイモを掘る一方で、らっきょうを掘っていたが、その後にマルチを張って、薩摩芋の蔓も植え足した。
この蔓は、上郡の裏の畑で芋から生やしたものと、早くから植えていた1本50円の蔓の脇芽が伸びたものを使った。
これで買った芋づるが70本、 生やした蔓が40本ほどになった。1本50円の苗も買った20本以上は増やしたので、もし同じように芋がなってくれれば、蔓は25円以下のコストになる。
例年よりも多く植えたのは、例年よりも生活費を切り詰めたいという思いからだ。

冬場の薩摩芋と夏場のジャガイモ
どちらも主食にはならないが、食生活には欠かせない。
このところ、干した輪切りの大根の燻製が成功し、干したニンニクの燻製もまあまあなので、ジャガイモも干して燻製にしようかとも思っている。
ジャガイモは日持ちは良いが、芽を出させて捨ててしまうことが今年は多かった。
一方でポテトチップスを買って食べるので、日頃から簡単に食べられるようにしておくのも、食べ切ってしまうこつのように思った。

2012年6月15日金曜日

平家伝説と小野豆

私の住んでいる上郡の高田地区には小野豆という山頂集落があり、今では廃屋も目立つが、何軒かまだ暮らされている。そこには平家伝説が残っていて、上郡町のホームページには次のような物語が載せてある。

小野豆の集落は、寿永4年(1185年)、壇ノ浦で源氏との戦いに敗れた経盛たちが、播磨の国の西端、相生の入り江に上陸し、人目を避けて山深いこの地に隠れ住んだといわれています。その小野豆へ源氏の追手が現れ、川に茄子の蔕が流れているのを発見し、草や木を掻き分けて探している最中、鶏の鳴き声が聞こえ、経盛はジャンジャン穴と呼ばれる洞窟に潜んでいるところを見つけられてしまい、助かる見込みがないと判断し、自害したと伝えられています。経盛の死後、家来たちは小野豆で一番見晴らしのよい場所に主を弔いました。その後、そこに建てられた寺は経盛の法名の真勝院から真勝寺と名づけられ、山号は三位卿の三位をとって三位山としました。また、小野豆の集落では、この由緒から昭和6年まで鶏を飼ったり、茄子を作ることはしていませんでした。[http://www.town.kamigori.hyogo.jp/cms-sypher/www/info/detail.jsp?id=7069]

この小野豆にはよく運動がてら散歩に行くのだが、たまにジャンジャン穴にも立ち寄ったりする。ただ、入口がえらく狭くて本当に中に入ったのかと思うくらいである。
そこから少し上にある平家塚からは遠く瀬戸内海を見ることができ、確かに物語の叙情を醸し出してくれる。
真勝寺も以前は残っていたが、いつの間にか取り壊されて、跡地だけが残っている。住んでいる方もご老人が多いので、不便なこともあり、いずれ廃村になってしまうかも知れない。ただ、寒い上郡にあっては霜も降りず、意外と暖かい暮らしやすいところと言われている。
もっと山奥に入れば、ゴルフ場にしかかって道だけが残った所が広がり、山歩きやモトクロスもできる。
私は以前は桑の実などを採りによく山に登った。ここには以前住んでいた人が植えていた桑以外に、柚なども残っており、誰も採らずに放置されていたりする。
しだれ桜は有名だが、道が狭いため事故が起きたりするので、シーズンでは麓の空き地に車は停めて、歩いて上がった方が賢明である。途中で見える風景もなかなか良い。
移り住むか、山小屋を持ちたいと思った集落だが、大雨で道が途絶したりする。
手入れできない植林された場所は木が倒れたまま放置されたり、山肌が崩れたりしている。
ちょっと住むのをためらう場所となってしまった。

最近奄美のことを色々調べる内に、喜界島には小野津という所があり、そこの近くにも平家伝説が残されていることが分かった。
観光案内のホームページには次のようなことが書いてある。

その昔、壇ノ浦の戦いに敗れ、南島に落ち延びた「平家の落人」が残したものであると伝えられております。
1202年、平盗盛を主将とする平家の残党200余名が志戸桶の「沖名泊」に流れ着き、島に上陸すると、源氏の追っ手に備えて陣地を作り、現在の早町港の監視と海上の見張りをした場所が「平家森」と言われております。[http://kikaijimanavi.com/rekisibunka/a/heikemori.shtml]

奄美諸島には数多く平家伝説が残っており、たまたま地名が「おのず」と「おのつ」と似通っているだけかも知れない。
そもそも、奄美では与路(ヨロ)は本来、本来ユンと発音していたりして、漢字読みが従来の発音ではない場合が多い。
これは上郡に関しても昔発音されていたのとは違う漢字表記音になっているかも知れない。
共通しているのは、外部からの侵入に対する警戒である。上郡の小野豆は昭和初期まで警戒を続けていたことが分かる。
喜界島は琉球王朝に対しても最後まで抵抗していたことから分かるように、本来は独立性の強い先進地域であった。

また、加計呂麻島(カケロマジマ)の生馬(イケンマ)の生まれ、美人 ウラトミは役人の妾になるのを拒み小舟に乗り流されて小野津に着きここで暮らす、娘のムチャカナも美人であったが故に友の嫉妬にあい死を遂げる[http://www.synapse.ne.jp/~bak/kikai/introduction/kikai2.html]。という抵抗の物語も体制への抵抗を物語っている

上郡の歴史も赤松氏の嘉吉の乱における室町幕府への抵抗はあまりにも有名である。
この上郡は中世において播磨の中心であったのにも関わらず、現在はあまり知られていない。明治維新期に活躍した大鳥圭介と上郡を結んで考えてくれる人も少ない。

一端歴史の時流から離れてしまうと、忘れられるところは喜界島と共通しているのかも知れない。

現代の上郡町は兵庫県で学校給食が唯一無い校区として保護者には評判が悪い。市町村合併の際も、すったもんだして結局赤穂市との合併は果たせなかった。
赤穂生まれの私はまた赤穂人にもどれることを楽しみにしていたが・・・
ただ、私のような東京から都落ちした者にとって、晴耕雨読のできる自然豊かなふさわしい場所のように思えたりもしている。別に隠れて住んでいるわけではないが・・・