先日、赤穂御崎の海が見晴らせる展望公園で、ふと目にしたのが、突々先生の作品展のポスターだった。
雨が降っていたから、たまたま休憩所に寄ったのだが、そこの柱に貼ってあった。
偶然とは言え、何かに導かれたようで気持ちが高揚した。
この「突々」という珍しい名前は、私が育った尾崎にあった名前でよく憶えていた。
尾崎は塩田の関係で方々から浜子が集まってきた影響もあって、珍しい名前がいっぱいあった。
ただ私の石原という苗字は、子どもの頃は西の方にしか無くて、尾崎ではすぐによそ者だと分かってしまっていた。
私が小学生の頃に絵を習っていた突々先生に関係していることは分かった。
ただ、そのお父さんも日本画家だったのでその人かもと思って、赤穂図書館に寄ってパンフレットを見て確かめてご本人と分かった。
私はそのパンフレットをもらって、すぐに家内に見せて自分がこの人から絵を教わっていたことを話した。
家内は私が絵付けしたマグカップを見て、訳の分からない妙な絵と笑っていた。
確かに絵付けするときは何も考えずに思いつくままに描いたのだが、自分としては作為のある絵よりそちらの方が好きだったのだ。
突々先生に習っていたと言うことで、これで私の訳の分からない絵も見直してもらうことになった。
絵を習っていた当時は、先生は高校の美術の先生だった。
日曜日の朝に近所の小学生などに絵を教えてくれていた。
絵を習いに行って楽しかったのは、絵を描くことだけで無く、家の中でおもちゃのボーリングなどのゲームをよくして遊ばせてくれた。
また、天気の良い日などには外に出て、近くの山などでスケッチをしたのだが、そこでも身体を使ったゲームなどで遊ばせてくれた。
絵に関しては色々と教わっていたはずなのだが、私は自分の思うようにしか描けない雑な性格だったので教えられたように丁寧には描けなかった。
先生に褒められた経験もあまりなくて、上達させようとする先生の意に添え無かったように思う。
また、日本画家のお父さんがたまに指導されると、居残りさせられて厳しく手ほどきを受けたのでそちらの方が恐かった。
私は絵の具で汚れた水をこぼすことが多かったので、よく奥さんなどにも叱られていた。
集まってきている小学生は、どちらかというと裕福な家の子どもだったので、私のような貧しい家の子はいなかった。
私の母親が無理して習わせたのは、幼稚園の頃から選ばれて市民文化祭に絵を展示してもらっていたので期待したのかもしれない。
幼稚園からオルガン教室で習っていたが、練習するのが嫌で上達せずに辞めてしまっていた。
この絵の教室も、剣道をやったりソフトボールをする方が忙しくなって辞めてしまった。
小学校でも絵はたまに市民文化祭に出してはもらっていた。
高学年で担任の宗藤先生も絵が得意な人で、私を放課後残して絵を指導してくれたりしたが、先生の気に入るようなできばえにはならなかった。
とにかく、乱雑な性格で、きちっと筆を洗った水を取り替えなかったので、汚れた感じの絵に仕上がってしまうことが多かった。
その性格は姫路の私立中学校でも改まらずに、美術の先生には全く相手にされなかった。
たまに、紙粘土で自分像を造ると気持ちが入って良い作品ができたと思ったが、東京藝大から教育実習に来ていた先輩には「柄に似合わず」と言われてしまった。
同級生からもどちらかというと田舎の荒くれ者的な目で見られていて、繊細な作品は不似合い思われていた。
それでも、絵を描くこと自体は好きで、スケッチブックに憧れの女性の似顔絵を描いて楽しんでいた。
大学に入るとかぐや姫の「神田川」の曲に習って、恋人をモデルにしてボールペンで絵を描いて下宿の壁に貼っていた。
それを絵の得意な友達が見て褒めてくれたときには、複雑な気持ちではあったが嬉しかった。
ただ、研究の方に力が入っていき、年賀状のプリントゴッコくらいしか描く機会が無くなってしまっていた。
教師になってからは、たまに黒板に絵を描く程度でどちらかというと、特別支援学校では生徒の絵を教える立場になった。
その中には山下清画伯のような描き方で、美術の先生も感心するような生徒がいて、「○○画伯」と呼んでいた。
もし、私が突々先生のちゃんとした弟子になっていれば、彼のこともきちっと指導できたかもしれないと今は思っている。
残念ながら先生は既に亡くなっておられるが、私は小学生に戻ったような気持ちになってこれから絵を描いてみても良いかなと思っている。
生成AIなどを使って簡単に絵ができる時代だからこそ、アナログの素朴な絵の方が面白いかもしれない。
突々先生が木版画に拘ったことも分かるような気がする。
少しでも指導を受けた者として、これから自分なりの絵を描いてみようと思った。
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