私の子どもの頃は父親に育休など無く、子どもが生まれる時には母方の祖母が泊まりがけで家にきて手伝ってくれていた。
弟は3人いるが次男は年子だからよく分からないが、3番目の時は私は幼稚園児で4番目の時は小学生だったのでよく憶えている。
3番目は自宅で生まれ、4番目は病院で生まれたが、特に4番目の時は上に子どもが3人もいたので、その世話をする祖母がいなければ出産は不可能だった。
私も祖母の手伝いをして、洗濯物を入れたりしたのを憶えている。
父は仕事へ行って帰ってくるだけで、一緒に家事をした覚えはなく、気にいらないと祖母の手前いつもよりきつく叱ったように思う。
母方の祖母は夫は戦死しており娘家族と隣の相生市に住んでいたのだが、ことあるごとに泊まりがけで来てくれて、小学生のいとこも連れてくることもあった。
私が赤穂の鳥撫で暮らしていた時の幼い写真にもその祖母は多く写っていて、そのころから母の子育てを手伝っていたことが分かる。
その祖母の家族は赤穂で隣同士に家を建てたので、大きな家族のような関係になった。
祖母は毎日こちらの家に来たし、私もしょっちゅう隣に行った。
一方、年子で手のかかる私は、父方の鳥撫の本家にいる人の世話になっていたが、尾崎に移り住んだ後では本家に預けられることが多かった。
父方には祖父と祖母、伯父夫婦と娘、そしてまだ学生の叔母がいた。
伯父夫婦は木造船での運搬の仕事をしていたので、家に居ることは少なくて、祖父母と叔母、従姉がいて、私はそこで家族同然に過ごしていた。
祖母とよく買い物にバスに乗って加里屋まで出かけて、欲しいものを買ってもらったりしていた。
従姉とは歳は6歳離れていたのだが、一緒に遊んでもらったり、風呂も一緒に入ってくれた。
地域の子供会のバス旅行にも叔母と従姉と一緒に宝塚まで連れて行ってもらったことも憶えている。
元々、私は幼稚園に行くまで鳥撫に住んでいたので、周りの人もよく分かってくれていた。
私は優しくされる本家の方が居心地が良くて、尾崎の家に帰るのを嫌がるほどだった。
私の母としても手のかかる私が本家に行っていた方が助かるのだが、父がそれをあまり気に入らなかったようで、父から母を通して呼び返されていた。
本家が私をしっかり面倒見てくれたのは、息子家族の子育てを手伝うこと以外にも、場合によって私が家業の船の運送業を継ぐこともありうることもあった。
また、一人娘の従姉の兄弟のようにしておきたいという意味も有ったと思う。
だから私には叔母と従姉のふたりお姉ちゃんがいたのと同じだったが、大きく生長していくにしたがって疎遠になっていった。
それでも歳がいっても、ふたりのお姉ちゃんとは、その頃のままの感じで接することが多かった。
実の兄弟では一番上として兄貴面していたが、ふたりのお姉ちゃんの前では可愛い弟のような立場でいられた。
そのふたりのお姉ちゃんも近年若くして亡くなってしまい、敬称なしで名前を呼んでくれる人はいなくなってしまって寂しくなってしまった。
最近は親元や親戚から離れたところで就職して、そこで結婚して家族を持つことが多い。
この時に大きな負担となるのは子育てであろう。
いくら父親に育休が認められたり、ベビーシッターを雇うことができたとしても、私が子どもの頃のような手厚い協力は得られない。
初めての子どもの時は、娘は実家に戻って出産することもできるだろうが、2番目3番目となるとそう簡単では無い。
そういう子育て支援がなければ二人三人と子どもを産むことは躊躇うのが当たり前だと思う。
父親も育児に携わらなくてはいけない時代と思わなければならないと思うが、やはり昔のお婆ちゃんやお姉ちゃんの代わりにはならないだろう。
政府が少子化を問題にするなら、そういう肉親の子育て援助が簡単にできる政策も望まれると思う。
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