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2019年5月4日土曜日

平成の後片付け

平成が終わった。
私が赤穂から上郡の今の新居に移ったのは平成5年であった。
新しく令和が始まるからというのでは無いが、この10連休を利用して家の周りを片付けた。
そしたら、外に置いていたキッチンワゴンテーブルの引き出しから、ディズニーランドの一日パスポート券が出てきた。
’97.8.22(平成9年)の子供用二枚で、おそらく子供のために記念にとっておいたんだと思う。
このディズニーランドで家族で過ごしたのは、家内の弟の結婚式に行くついであった。
家族4人で色々出かけたが、4人だけでホテルに泊まった旅行は、今のところこれっきりである。
懐かしいと思いつつ、今回は思い出に浸っている場合でも無い。
何せ、片付けせねばならないものが山積みなのである。

家内に言わせればゴミを拾ってくるという。
たぶん、実家から持って帰ってきた、父が使っていた自転車や、大工道具のことを言っているだろう。
私は使うつもりで持って帰ったのだが、結果的にはあまり使っていない。
しかし、捨てるには忍びないので、家の周りの片隅に置いてある。
とにかく私はなかなか捨てることが出来ない性格で、家の周りが酷い状態になっていた。
それも、ここ数日の片付けによって幾分は見られるようになった。

家の周りは少しは片付いたが、家の中には平成の時代物がいっぱいある。
私はほぼ平成が、教員生活に匹敵する。
昭和の終わりに教師になり、平成の終わりに早期退職をした。
因みに今度の天皇陛下は、学年としては私と同じである。
60間近になって、本来の役目に就かれるというのも、考えさせられる。
私は、60前に退職をして、第二の人生を考えている。
第二の人生を、本来の役目にすることが出来るのか?
いや、天皇陛下を見習うなら、自分も本来の役目に就くべきなのだろう!

このところ、若かりし頃の暮らしを懐かしみ、この先の老後を憂うことが多かった。
令和になったことで、その平成の暮らしに区切りをつけ、新しい暮らしを築く必要があると思うことにした。






2019年5月3日金曜日

グリーンエリア

私が学んだ南山大学にはグリーンエリアという、広い芝生の広場が正門から入って少し歩いたところにあった。
大学は丘陵を利用して建築されたもので、校舎もその起伏が利用されていた。
グリーンエリアはなだらかな谷間という感じで、噴水も備えられていた。
芝生はよく手入れがされていて、昼休みなどの休み時間には学生が、芝生の上で自由に過ごした。
そして、学校の行事にも利用され、大学祭以外でも受難劇もここで行われた。
そこで一緒に時間を過ごしたのは、同じクラブや学科の仲間であったが、季節の良い時にはゼミもそこで行うこともあった。
特に今のような若葉の季節には、芝生に寝転んで、私はそのまま寝てしまうこともあった。

私は、他に20代半ばでは東京都立大学(首都大学東京)、40代後半では兵庫教育大学の院生として過ごしたが、こんな学生が憩える芝生は無かった。
兵庫教育大学も丘陵に建てられたものであったので、似たような環境だったが、こんなに広い芝生は無かった。
その代わり、広大な駐車場があって、車で通学していたので、車の中で昼寝したりした。
ただ、周りは森林であったので、一人で弁当を持ち込んでそこで食べたりもした。
さながら森に引き籠もった、世捨て人の感じだった。
南山大学は、決して本意の大学ではなかったが、一番自分の肌に合った大学で、ここで学べて良かったと今は思っている。
この初夏の良い季節になると、グリーエリアで過ごした時間や仲間のことを思い出す。
それを思い出させてくれるのは、我が家の庭の小さなグリーンエリア擬きである。
芝生は無く雑草に覆われているけれど、遠くの若葉の山々が見える場所で、ビールを飲んで昼寝ができる。
ただ、ご近所さんに生け垣越しに「タケノコいらんか?」と不意に声かけられて、現実に引き戻されもするけれど・・・

2019年5月1日水曜日

千種水汲み2019春

4月28日の日曜日の午後から、千種に水を汲みに出かけた。
10連休の二日目で、交通情報では渋滞の様子が流されていた。
千種に行く時に渋滞に遭うのは、南光町のひまわり祭の時くらいである。
いつものように、車の量は多くは無かった。
ただ、南光町のキャンプ場では家族連れの立派なテントがいっぱい張ってあった。
ホテルで高いお金を使うより、安くてゆっくりできるキャンプが人気あるのが分かる。
我が家でも、夏場は子供の小さい頃は千種高原でキャンプしたりした。
この南光町のキャンプ場には、弟の家族と一緒に、水遊びをしに来たこともある。
今は、まだ肌寒いこの季節から、多くの家族がキャンプを楽しんでいる。
普段都会の中で暮らしている人にとって、新緑の中で過ごすだけでも、楽しいことなのだろうと思う。

千種の町についた頃から、山の景色は変わってしまった。
上郡の数週間前の風景に逆戻りなのである。
まだ緑は薄く、山桜が咲いていた。
ただ、八重桜も咲いていて、桜を楽しむことが出来た。
ところが、いざ水をくみ始めると思わぬ寒さにびっくり。
家内は日頃から寒さに弱いので、寒い寒いと言い続けていた。
陽が照っていれば、これほど寒くは無かったのだろう。
やはり千種は千種なのである・・・





曜変天目茶碗と鳥獣戯画

平成最後の日、家内と電車に乗って出かけた。
当初の目的は、大阪の香雪美術館で「鳥獣戯画」と「明恵」の特別展を観る予定だった。
家内はこのために「朝日友の会」に入会して、招待券を一枚手に入れていたからである。
そして前もって日にちを決めて、家内は「春の関西1デイパス」を買ってくれていた。
これがあると、つい欲が出て遠くへ足を伸ばしてしまう。
今回も、早く家を出ることが出来たので、奈良まで行くことにした。
奈良では国立博物館で「藤田美術館展」が開かれ、特に「曜変天目茶碗」を家内は観たがっていた。
私は、学芸員の資格を持っていながら、あまり博物館や美術館には足を運ばなかった。
最近は家内と出かける目的が、美術館や博物館に行くということが多くなった。
夫婦によっては、一緒に宝塚歌劇やコンサートを観に行く人もいる。
残念ながら、私と家内とは演劇や音楽では趣向がかなり違う。
趣向を何とか合わせられるのが、美術品や歴史的展示物ということなのである。

大阪から大和路快速に乗ると、車内は国際色豊かになった。
前の席には白人の女性と男性が座ることになった。
隣の席でも、ラテン系の男女が4~5人、賑やかに話している。
欧米の人たちの独特の香水の匂いが、車内いっぱいに充満していた。
奈良駅に11時半に着いて、少し早いが、まずは昼ご飯を食べることにした。
この選択は正解であったことを、後に分かった。
せっかく奈良まで来て、奈良の名物を食べれば良いのだが、前回同様の駅にある和食チェーン店で定食を食べた。
バスに乗って博物館まで向かったのだが、途中で道が渋滞して動かなくなった。
会場までは遠くないので、一つ前の停留所で降りて歩いた。
時間からすれば、もう一つ前の停留所で降りた方が良かったように思う。

博物館の二階の展示場に入ってまず驚いた。
すごい列が出来ている。
曜変天目茶碗を最前列で観るための列なのである。
最前列で観るためには一時間ほどかかるという。
大阪に戻って、香雪美術館に行こうと思っていたので、最初は諦めた。
しかし、展示物をざっと見終えると、やはりせっかくここまで来たのだからと思い、並ぶことにした。
最前列でないなら人越しに観ることも出来るが、背の低い家内には見えそうにないと思ったののも大きな理由である。
家内は済まなそうに言ったが、自分としてもこの機会にしっかりと観ておきたかった。
一時間も並んで観た茶碗は、期待が大きかっただけに少しがっかりした。
思った程の輝きや色を見せてくれるものでは無かったからである。
ただ、画像や映像ではなく、実物を間近に見ることそのものに価値があるのだろう。

そもそも、この茶碗は家康が水戸徳川家に授けて、それを後に藤田平太郎が手に入れたものだという。
藤田平太郎の父親伝三郎は、元長州の商人で児島湾干拓でも有名である。
閑谷学校に勤めていた頃、藤田中学校が宿泊研修に来たが、その藤田は彼に因んだものであるという。
親子とも実業家で、美術収集家であった。
茶碗が時の権力者や富豪の手に移り、その展示を庶民が高い拝観料で一時間も並んで観る。
そういえば、去年行われた村のご開帳でも、村人は高い寄付金を要求され、たまたま隣保長にあたった我が家は奉仕を求められた。
ご開帳される仏像が、寄付による寺の修理を可能にした。
それと同じように、この茶碗は藤田美術館の改築にどれだけ役に立つのだろう。
庶民にとって、仏像も茶碗もありがたいものを、身銭を切って拝むということで同じだと思うと滑稽で愉快に思えた。
ただ違うのは、その価値を与えるのは、一方では権力と富と結びついた美意識、一方では土地のしがらみに結びついた信仰心である。

思わぬ時間がかかったので、拝観はそこそこにして、バスに乗り込み駅に向かった。
帰りはさすがに渋滞は無かった。
電車もうまく快速に乗り込めて、大阪に向かった。
途中乗り込んできた若い女性二人が韓国語を話していたので、まだ観光地にいる気分だった。
香雪美術館は駅から歩いて12分というので、時間は問題ないと思っていた。
ところが、家内のスマホに頼った道順がよく分からなくなってしまった。
前もって地図であたりの様子を調べておくべきだった。
色々人から教わって、結局たどり着いた時は、4時半で閉館30分前になってしまっていた。
急いでざっと観た後、もう一度じっくりと鳥獣戯画を眺めた。
テレビの特集で観てはいたのだが、実物を観ると生き生きと感じて面白い。
映像では感じられない、描いた人の筆遣いが伝わってくるからだろう。
明恵の絵にしろ、書にしろ、実物にはその人の息づかいが、時間を越えて伝わってくる。
自分はデジタル画像やパソコンなどで表現しているが、もう一度アナログでの表現の価値を見直した。

帰りの新快速はドアの前の補助席に姫路まで座ることになった。
座れるだけましなのだが、もう少しゆったりと旅を楽しめないものかと思った。
せっかく心を豊かにしてくれる工芸品や美術品を鑑賞しながら、旅そのものは通勤とかわりがない。
旅そのものが楽しめるようにするためには、上郡は「特急はくと」も使える。
それには午前中、特に車中で催す尿意対策に一番有効な決め手なのである。
次回から大阪より遠くに旅する時には、特急を使うことを家内に切に訴えた。
特急料金は心を豊かにする必要経費なのであると私は思う・・・










2019年4月24日水曜日

閑谷学校との縁

私は昨年の今頃は閑谷学校の研修指導員として忙しい日々を過ごしていた。
若い人の中で、同じような仕事をするのは、60を前にした私にはかなり過酷なものだった。
それでも、体は運動や農作業で鍛えてきたので、体重を落としながらも何とか病気にはならずに過ごせた。
その閑谷学校も6月いっぱいで退職して、次のスイミングスクールの指導員に転職した。
それから一度だけ訪ねて行き、偶然駐車場で研修課長さんにお会いできた。
事あるごとに、閑谷学校で働いた時のことを思い出した。

それが縁というのは不思議なもので、今勤めている高校のOBが備前市長をしていて、その講演を聞く機会を得られた。
そういえば、閑谷学校で何度かお目にかかった人だった。
講演の中でも閑谷学校のことを触れておられた。
以前ブログで「越境の学校」という題で、閑谷学校のことに触れた。
今の備前市長さんは岡山県の寒河から、兵庫県の高校に通ってきていたという。
閑谷学校へ播州地域から学びに行ったのとは逆であり、淳心学院と同じである。
近年では備前市では無いけれど、岡山白陵高校には、兵庫県からも多く通学しているようなので、再び西への流れも復活している。

備前市長さんは、赤穂、上郡、備前が地域ポータルサイトで情報を共同で発信していることを言われていた。
閑谷学校に研修しに来る学校の中にも、赤穂市の中学校や、上郡の高校が含まれている。
元々中世では、備前は赤松氏の所領だったこともあるし、歴史的には関わりの多いところであった。
どうしても、播州地域は姫路が中心となるが、それとは色の違う文教地域ができればと思う。
また、備前市には企業もそこそこあって、働く場所としても考えられるだろう。

閑谷学校で研修することがあった生徒には、親しみを感じる場所にもなる。
姫路城に対抗するには、もうすこし大がかりに整備をする必要があると思う。
場合によっては、赤穂、姫路と広域に人を呼び寄せるマップが必要に思える。
その中で、閑谷学校と関わる大鳥圭介のゆかりのある上郡はそう関わっていくべきか
赤松氏ゆかりの落ちない白旗城や、赤松氏の館の復元などを通じてもっとアピールすべきだろう。




2019年4月22日月曜日

60歳からの暮らし

普通は60歳という歳は、大きな区切りの年となる。
私は既に早期退職しているので、一つの区切りは過ぎているが、やはり区切りになることは間違いない。
一般では60歳を過ぎても、再任用、再雇用で働く人も多いようだ。
私も、全く稼ぐことを止めるつもりは無い。
稼ぐ量を減らしたり、やり方を変えようと思っている。
これからは、自分の心身にしっかりと向き合わねばならない。

本当は、年齢に関わらず心身に気を遣い、健康を保つ必要がある。
しかし、殆どの人は仕事優先の生活の中で、何らかの不調を来してきたと思う。
私は既に20代の大学院生時代に、研究と生活の板挟みで十二指腸潰瘍を患っていた。
30代では、仕事についてからは、腰痛が酷くなったり、痔を煩い一ヶ月も入院した。
40代では、自律神経を患ったり、肥満が続いて、後の糖尿病の原因を作っていた。
50代では、糖尿病で教育入院したり、鼠径ヘルニアで入院して手術を受けた。
要するに、病気を患いながらも、若さと家族への思いで、乗り切ってきただけなのである。
しかし、50代頃から、周りで亡くなっていく人が身近に感じるようになった。
自分も死というものを意識しながら、暮らしていかねばならないと感じるようになった。
また、いくら生きていても、認知症を患ってしまったり、一人暮らしの孤独な生活に不安を感じる。
60歳を過ぎても、仕事に邁進できる人は、そういう不安を回避できる立場か、健康管理を日頃維持している人か、無思慮な人であろう。

子育ても終わっている60歳からの暮らしは、自分を上手く老いさせて行くことをまず考えねばならないと思っている。
研究や趣味を続けていったり、農作業に勤しむのもそのためなのである。
そして、必要なお金は無理をしない程度に、稼ぎ続けねばならないと思う。
それは稼ぐための暮らしから、暮らしのための稼ぎへの転換だ。
それは既に早期退職した時から既に始まっている。
早期退職した村の人たちが、その参考になった。
60歳になった今からは、もう少し肩の力を抜いて暮らしていこうと思っている。



2019年4月19日金曜日

研究と生活

今日(4/18)の朝日新聞に、優秀な研究者が安定した職をえらずに、結婚生活にも躓き自死した話が掲載されていた。
以前から、博士課程の定員を増やしたのに、研究職が得られないという話は良く聞いていた。
私は、研究職に応募しながら、いつも書類選考で落ちていたが、高校教師としての収入は確保できていた。
生活のために必死で研究している人の業績に勝てるはずも無かった。
しかし、いくら業績を積んでも職に就けないとなると、研究というのを根本的に考え直さねばならないだろう。

私はそもそも研究至上主義では無かった。
大学院に進んだ時も、研究者になれる可能性のある大学だから選んだ。
そうでない大学院には行くつもりも無く、博士課程から別の大学院に行くつもりは無かった。
研究職志望は、大学4年からのことで、それまでには教職に就けるように教員免許取得は怠らなかった。
因みに私が進学した大学院の研究室では、殆どの人が教員免許は持っていなかった。
それでも修士課程の3年間は、博士に進学し研究を続けたいために、必死になった。
また、自分を支えてくれる人もいた。
多くを犠牲にして自分なりに努力したが、結局良い論文を書くことが出来なかった。
そして、その支えてくれた人まで失ってしまった。
その時に、踏ん張って研究を続けることを選ぶか、生活を立て直すことを選ぶか、ずいぶん迷い苦しんだ。

何とか研究を続けたいと思い、アルバイトをした。
アルバイト先で目にしたのは、夢の実現のためにアルバイトをしている若者。
塾の講師をした時も、東大を出ながら塾講師をしている30代半ばの人の不安定な生活にショックを受けた。
安定した家庭生活を得るためには、自分には教員になる道しか残されていないと思った。
そして、未練を多く残したまま、東京を後にした。
その時の思いは、その後教師になってもひきづり続けていた。
教員生活を続けながら、良い論文や作品を書いて、研究職に就きたいと思った。
一方で、教師の仕事は多忙だったが、夢中にさせる魅力もあった。
そして、趣味で色々なことができ、仲間とも楽しく過ごせた。
何よりも、結婚し、子供ができて、普通の家庭が築けたことが一番の幸せになった。
実はつい最近まで、東京で生活が破綻した時代に戻った夢を見ていた。
「どうしよう、このままは結婚もできない」と思いながら目を覚ます。
横では家内がすやすやと眠っているのを見て我に返って安心する。
こんな悪夢を何度も繰り返し視て目が覚めた。

私は今も研究は続けている。
研究のために早期退職したと表向きは言っているが、それが全てでは無い。
研究はあくまで、自分が生きた時代はどんな時代だったのかを知る手がかりだ。
何も分からず、流されて死んでいったというのでは、面白くない。
地位も名誉も金銭もそれほど得られたわけでは無いが、幾分か自分の生きている世界と時代が分かってきた。
それでも、一番大事なのは家族や仲間と一緒に過ごす日々の暮らしだと思っている。
そして、その日々の暮らしを、大きく支えてくれているのが、研究であることも事実である。
また、その研究を続けるには、自分には多くの趣味が必要であるとも思っている。