先日、ふとAmazonで自分の著書が37,000円とか52,000円で売り出されているのを見て驚いた。
しばらくして、「この本は現在、取り扱いできません」という表示に変わったが、定価3,000円が10倍以上に取引されるとはどういうことかと思った。
今は、「日本の古本屋」で検索すると、3,580円の値段をつけている本屋があった。
普通の本は古本で買うと値段が安いのだが、定価以上の値段が付くということはどういうことなのかも考えた。
要するにそれなりにニーズはあるのだが、出版社は再版しないだろうと言うことで、プレミアムが付いたということかなと思う。
私は現在二作目を執筆中だが、なかなか思うように進んでいない。
次の本は一作目の内容がよく分かるように論を進めているので、二作目によって評価が上がることを期待している。
だから、二作目によって、一作目の再版も可能ではないかとも思っているのである。
だから、再版が不可能と評価されるのは、執筆への発憤材料にもなった。
私は調査研究をしていた学生時代の日記や手紙を繙くのを避けていた。
夢が叶わなかったことの原因を、生活のあり方に帰したので、まともに向き合うことが辛かった。
しかし、歳のせいにして、気弱になっていく自分が、当時どういう思いで、また、どういう支えがあって研究を続けていたのかを振り返ろうと思った。
それらを繙いていくと、自分が当時のことを決めつけていたり、誤解していたことが多かったことに気がついた。
そして、研究と当時の暮らしや人との関わりは一体のものであったと改めて気がついた。
これは、今も同じことで、私が研究を続けられているのは、ありがたいことに家内が理解して支えてくれているからだ。
今は、どうしても仕事の上でのストレスもあって、執筆活動が疎かになりがちだが、当時のように追い詰められているわけではない。
だから、却っていい加減にもなっているし、モチベーションを失いがちである。
その自戒の意味を込めて、当時のことをしっかりと自分で受け止めようと思えるようになった。
それができるまで、35年という年月はあまりにも長すぎるが、それが歳を重ねることの意味なのだろう。
そして、何よりも自分が夢かなわなかった本当の理由が分かったように思う。
それは、自分がその当時に出来ることの見極めが出来ていなかったということだ。
今もそうだが、ある期間に仕上げねばならないことは、その期間で出来ることを見極めることが一番重要だ。
当時、妙な意地があったり、欲を出し手を広げすぎて、まともな修士論文に仕上がらなかった。
それは、早期退職して、半年で出版できなかったことと重なる。
今は、期間を延長することができる、本当は当時もできたのだが、当時の自分は自分を見失っていた。
そしてその結果、その時に夢と掛け替えのない絆を失ってしまった。
今改めて、その経験から次の作品に気を引き締めて臨もうと思う。
それは当時、私を支えてくれていた方への少しでも感謝の気持ちを表したいからである。
そして何よりも、今も自分を支えてくれている家内の苦労に、恥じないようにと思うからである。
播磨の西外れにある私の生まれ育った赤穂や、今暮らしている上郡に関すること、農作業,山野河海の恵み、趣味の水泳、音楽、専門である有機農業や、教育、文化人類学、民俗学に関することなどを、きままに記してみます。
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2020年1月5日日曜日
2020年1月1日水曜日
庚子に期待を込めて
私の元旦は例年通り、愚犬との散歩から始まった。
神社への賽銭だけポケットに入れて、初陽を拝みながらまずは散歩する。
歩き始めてしばらくして、いきなりクロがダッシュして引っ張られて、痛めている腕がうずいた。
元旦早々、クロを怒らねばならなくなった。
そもそも、クロには元旦だからという意識はないのだから仕方ない。
考えてみれば、子どもの頃は元旦から親に叱られたこともある。
それとあまり変わりは無いのかも知れない。
いつもの観音さんと、荒神さんのお参りを済ませて、自宅で朝の祝いを簡単に済ませた。
今年も例年通り、息子は勤務、娘は旅行で、二人だけの年越し、そして元旦となった。
そして、宮総代として10時までに八幡神社に行かねばならなかったので、そうゆっくりは出来ない。
早々に身支度を調えて、自治会長さんのと落ち合わねばならなかった。
この日ばかりは、上着とネクタイの正装をしなくてはならない。
寒い境内に備えて、しっかり防寒対策をして出かけた。
祭礼を待っている間に、同年代で別の村の宮総代の人と話をした。
その人は、元金融関係に勤めていた人で、私より二つ上で、退職して年金暮らしをしている。
東京で単身赴任していたということもあって、色々と共通の話ができていた。
その人は、今は農作業の悠々自適の生活をしておられる。
聞いてみれば、JAの農産物の直売所に里芋を出荷している言う。
儲けにはならないけど、ネットから売り上げ情報が入ってくるのが、わくわくして楽しいそうだ。
暮らしを維持するための出荷ではなくて、自分の作った農産物を買ってもらえると言うことが喜びになっているようだ。
私が思い描いていた暮らしを実現していることを知って、非常にありがたかった。
宮総代は面倒な役割だと思い続けていたが、こういう情報をもらえる良い場でもあるときがついた。
70歳以上の年配が大半を占めて、地元出身ではない自分は会話にはなかなかついて行けなかった。
自分と共通話題での会話が出来る数少ない宮総代がいてくれるだけありがたい。
また、自分が地元の高校で教鞭を執っていた時の教え子に声をかけられた。
私は当然憶えていなかったが、しっかり名前を覚えてくれていて嬉しかった。
今は失業中で、再就職のための訓練を行っているという。
年齢も39歳で氷河期と言われた世代でもある。
こうやって地元の神社の祭礼に一般参加して、広く関わりを持とうというのは良いことだと思った。
どうしても、神社の行事は年寄りと子どもの行事になってしまうが、若い世代や働き盛りの人にも加わってもらいたい。
今の若い宮司は、今年から小学生に秋祭り浦安の舞の参加、正月に絵馬の奉納など、新しい取り組みも行ってくれている。
地域が寂れていく中、もっともっと地元のことを考える人が増えていってくれればと願わずにはいられない。
今、地球が温暖化で環境崩壊が叫ばれ、日本は地震や猛烈台風など災害の危機が懸念されている。
「庚子」が表す意味は、新たな芽吹きと繁栄の始まりだそうである。
この危機的な状態を変えて行くには、新しい考え方生き方が必要だと思う。
私は今年こそ、執筆でもそれを訴え、生活でも実践していきたいと思っている。
神社への賽銭だけポケットに入れて、初陽を拝みながらまずは散歩する。
歩き始めてしばらくして、いきなりクロがダッシュして引っ張られて、痛めている腕がうずいた。
元旦早々、クロを怒らねばならなくなった。
そもそも、クロには元旦だからという意識はないのだから仕方ない。
考えてみれば、子どもの頃は元旦から親に叱られたこともある。
それとあまり変わりは無いのかも知れない。
いつもの観音さんと、荒神さんのお参りを済ませて、自宅で朝の祝いを簡単に済ませた。
今年も例年通り、息子は勤務、娘は旅行で、二人だけの年越し、そして元旦となった。
そして、宮総代として10時までに八幡神社に行かねばならなかったので、そうゆっくりは出来ない。
早々に身支度を調えて、自治会長さんのと落ち合わねばならなかった。
この日ばかりは、上着とネクタイの正装をしなくてはならない。
寒い境内に備えて、しっかり防寒対策をして出かけた。
祭礼を待っている間に、同年代で別の村の宮総代の人と話をした。
その人は、元金融関係に勤めていた人で、私より二つ上で、退職して年金暮らしをしている。
東京で単身赴任していたということもあって、色々と共通の話ができていた。
その人は、今は農作業の悠々自適の生活をしておられる。
聞いてみれば、JAの農産物の直売所に里芋を出荷している言う。
儲けにはならないけど、ネットから売り上げ情報が入ってくるのが、わくわくして楽しいそうだ。
暮らしを維持するための出荷ではなくて、自分の作った農産物を買ってもらえると言うことが喜びになっているようだ。
私が思い描いていた暮らしを実現していることを知って、非常にありがたかった。
宮総代は面倒な役割だと思い続けていたが、こういう情報をもらえる良い場でもあるときがついた。
70歳以上の年配が大半を占めて、地元出身ではない自分は会話にはなかなかついて行けなかった。
自分と共通話題での会話が出来る数少ない宮総代がいてくれるだけありがたい。
また、自分が地元の高校で教鞭を執っていた時の教え子に声をかけられた。
私は当然憶えていなかったが、しっかり名前を覚えてくれていて嬉しかった。
今は失業中で、再就職のための訓練を行っているという。
年齢も39歳で氷河期と言われた世代でもある。
こうやって地元の神社の祭礼に一般参加して、広く関わりを持とうというのは良いことだと思った。
どうしても、神社の行事は年寄りと子どもの行事になってしまうが、若い世代や働き盛りの人にも加わってもらいたい。
今の若い宮司は、今年から小学生に秋祭り浦安の舞の参加、正月に絵馬の奉納など、新しい取り組みも行ってくれている。
地域が寂れていく中、もっともっと地元のことを考える人が増えていってくれればと願わずにはいられない。
今、地球が温暖化で環境崩壊が叫ばれ、日本は地震や猛烈台風など災害の危機が懸念されている。
「庚子」が表す意味は、新たな芽吹きと繁栄の始まりだそうである。
この危機的な状態を変えて行くには、新しい考え方生き方が必要だと思う。
私は今年こそ、執筆でもそれを訴え、生活でも実践していきたいと思っている。
2019年12月31日火曜日
60歳の意味
私は4月に60歳になったので、本来の定年退職の歳は2020年の3月である。
早々と早期退職して今は臨時教諭たけど、来年度からは再任用扱いになる。
要するに臨時講師より賃金の低い給与体系となるのである。
60歳の定年退職から、年金支給までの期間を再任用やら再雇用で生活を維持せねばならない。
私は諸事情より、常勤の再任用より、非常勤の講師を今のところ望んでいる。
おかしなことに、それは自分が大学院時代に経験したことと重なるのである。
自分には兄弟が多くて、親からの学費や生活費を全く受けられない状態で大学院に進んだ。
東京に出てすぐにしたのはアルバイト探しだった。
中野の郵便局から始まり、警備会社での交通整理や夜警、そして家庭教師となった。
都立大学への授業料を滞納して出席停止寸前までになった。
その時に、恩師石川栄吉先生から「金貸してあげようか」と言われ、「何とかします」と答えたのを憶えている。
なにせ、名古屋では家賃1万円のところで暮らしていたのが、2万3千円となり物価もけっこう高かった。
アルバイトをする関係から、ちゃんと風呂にも入らねばならなかった。
大学時代は特別奨学金があり、それほどアルバイトをしなくて済んでいた。
大学院時代では奨学金が受けられなかったので、アルバイトをするしかなかったのである。
そういう生活をした経験がある私だが、家内は自宅から大学に通学して、結婚するまで親元を離れたことがなかった。
確かに、子どもに教育費がかかる頃は、生活費と切り詰めたことはある。
しかし、生活費そのものに困窮した経験は無いと思う。
私は大学時代や大学院時代に、本当に生活費に困る生活を体験しているので、家内とは経済感覚がどうも違うようだ。
だから、なるべく家内には金の不自由をかけたくは無いと思っていて、大学院当時と同様アルバイトに精を出さねばならない。
このところ、大学時代や大学院時代に残されたものを整理していた。
自分は夢が実現できなかった辛い経験から、残された物を長い間手にすることはできなかった。
しかし、老いぼれて自信を喪失していく自分への戒めを込めて、当時の自分をもう一度見つめ直そうと思った。
20歳代の自分や、そこに寄りそってくれた人を再現すると、色んな思いがこみ上げてきた。
そこにいる自分は、今の自分の過去の姿だけれど、今の自分とは全く違う。
これは、自分の子ども達の幼い時の姿を見るのとそう変わりは無かった。
過去を背負い込んでいたように感じていたのだが、実はとっくに別の自分になっていたようだ。
しかし、精一杯生きていた当時の自分を、厳しい目は持ちながらも、良いことも悪いことも含めて受け止めてやらねばならないと思った。
若い頃の激動の時代は、今の平穏な生活とは大きく違う。
しかし、今の生活も最初から平穏だったわけではない。
この歳になって、家内とゆっくりこたつに入って、とりとめない話が出来るのも、そういう経験の延長上になる。
60歳になった今だからこそ、過去の自分をしっかりと受け止めて、自分なりの墓碑銘を自分で刻んでおきたい。
自分には墓はいらないけれど、惚けて自分でなくなる前に、せめて文章として残しておきたいと思っている。
そういう意味で、人生という物語の締めくくりをしなくてはならないと考えさせられた年となった。
早々と早期退職して今は臨時教諭たけど、来年度からは再任用扱いになる。
要するに臨時講師より賃金の低い給与体系となるのである。
60歳の定年退職から、年金支給までの期間を再任用やら再雇用で生活を維持せねばならない。
私は諸事情より、常勤の再任用より、非常勤の講師を今のところ望んでいる。
おかしなことに、それは自分が大学院時代に経験したことと重なるのである。
自分には兄弟が多くて、親からの学費や生活費を全く受けられない状態で大学院に進んだ。
東京に出てすぐにしたのはアルバイト探しだった。
中野の郵便局から始まり、警備会社での交通整理や夜警、そして家庭教師となった。
都立大学への授業料を滞納して出席停止寸前までになった。
その時に、恩師石川栄吉先生から「金貸してあげようか」と言われ、「何とかします」と答えたのを憶えている。
なにせ、名古屋では家賃1万円のところで暮らしていたのが、2万3千円となり物価もけっこう高かった。
アルバイトをする関係から、ちゃんと風呂にも入らねばならなかった。
大学時代は特別奨学金があり、それほどアルバイトをしなくて済んでいた。
大学院時代では奨学金が受けられなかったので、アルバイトをするしかなかったのである。
そういう生活をした経験がある私だが、家内は自宅から大学に通学して、結婚するまで親元を離れたことがなかった。
確かに、子どもに教育費がかかる頃は、生活費と切り詰めたことはある。
しかし、生活費そのものに困窮した経験は無いと思う。
私は大学時代や大学院時代に、本当に生活費に困る生活を体験しているので、家内とは経済感覚がどうも違うようだ。
だから、なるべく家内には金の不自由をかけたくは無いと思っていて、大学院当時と同様アルバイトに精を出さねばならない。
このところ、大学時代や大学院時代に残されたものを整理していた。
自分は夢が実現できなかった辛い経験から、残された物を長い間手にすることはできなかった。
しかし、老いぼれて自信を喪失していく自分への戒めを込めて、当時の自分をもう一度見つめ直そうと思った。
20歳代の自分や、そこに寄りそってくれた人を再現すると、色んな思いがこみ上げてきた。
そこにいる自分は、今の自分の過去の姿だけれど、今の自分とは全く違う。
これは、自分の子ども達の幼い時の姿を見るのとそう変わりは無かった。
過去を背負い込んでいたように感じていたのだが、実はとっくに別の自分になっていたようだ。
しかし、精一杯生きていた当時の自分を、厳しい目は持ちながらも、良いことも悪いことも含めて受け止めてやらねばならないと思った。
若い頃の激動の時代は、今の平穏な生活とは大きく違う。
しかし、今の生活も最初から平穏だったわけではない。
この歳になって、家内とゆっくりこたつに入って、とりとめない話が出来るのも、そういう経験の延長上になる。
60歳になった今だからこそ、過去の自分をしっかりと受け止めて、自分なりの墓碑銘を自分で刻んでおきたい。
自分には墓はいらないけれど、惚けて自分でなくなる前に、せめて文章として残しておきたいと思っている。
そういう意味で、人生という物語の締めくくりをしなくてはならないと考えさせられた年となった。
2019年12月22日日曜日
十二指腸潰瘍
先日ふと話の中で、十二指腸潰瘍の話が出た。
長い間忘れていたが、以前かかっていた持病である。
私がなったのは大学院時代で、修士論文を書いている時であった。
胃腸が弱っているのに、辛い唐辛子などを食べたのが原因だったようにも思う。
当時の痛みは相当なもので、どんな姿勢をしても痛みが治まらなかった。
我慢しきれないで医者に診てもらったら、入院するように言われた。
当然、論文を書いている最中に入院するわけには行かない。
薬を飲んで何とか我慢したことを憶えている。
私と話をした人は、中学校の時にかかったそうだ。
十二指腸潰瘍は空腹時に痛みを感じるのが特徴だ。
その人は当時は一日7回も食事をしたそうだ。
私は教職について二校目の学校で、ストレスなどから胃腸の調子が悪くなり、医者の友人に診てもらった。
私は十二指腸潰瘍のことはすっかり忘れていたのだが、バリウムを飲んで調べたらその痕跡が見つかった。
友人の医者言うには、十二指腸潰瘍は完治はしない、ただ、粘膜で傷跡を保護するだけだという。
つまり、再び痛くなったのは、その粘膜の保護がちゃんと出来なかったからだ。
この十二指腸潰瘍の恐ろしさについては、当時はよく分かっていなかった。
次に赴任した学校で、同僚のお父さんが十二指腸潰瘍で亡くなって初めて知った。
痛みを我慢して、十二指腸から多量失血したということだった。
今は良い薬が出来て、この病気は恐いものでは無くなっていると聞く。
しかし、一度傷ついた腸は二度と元には戻らない。
私の場合は大学院時代の苦しみが、身体に刻まれ続けられると言うことだ。
話を聞いていると、私の年代の男性は、胃腸にポリープや潰瘍痕を抱えている人も少なからずいる。
肉体労働が主であった以前は身体の見える部分に傷が残っていた。
デスクワークの多い仕事は、身体の見えない部分に傷が残っているようだ。
そして、レントゲンにも移らないのは心の傷だろう。
ただ、このよう内なる傷は完治でき無くても、保護は出来るようだ。
自分を労ると言うことは、自分で自分を保護してやることのようだ。
長い間忘れていたが、以前かかっていた持病である。
私がなったのは大学院時代で、修士論文を書いている時であった。
胃腸が弱っているのに、辛い唐辛子などを食べたのが原因だったようにも思う。
当時の痛みは相当なもので、どんな姿勢をしても痛みが治まらなかった。
我慢しきれないで医者に診てもらったら、入院するように言われた。
当然、論文を書いている最中に入院するわけには行かない。
薬を飲んで何とか我慢したことを憶えている。
私と話をした人は、中学校の時にかかったそうだ。
十二指腸潰瘍は空腹時に痛みを感じるのが特徴だ。
その人は当時は一日7回も食事をしたそうだ。
私は教職について二校目の学校で、ストレスなどから胃腸の調子が悪くなり、医者の友人に診てもらった。
私は十二指腸潰瘍のことはすっかり忘れていたのだが、バリウムを飲んで調べたらその痕跡が見つかった。
友人の医者言うには、十二指腸潰瘍は完治はしない、ただ、粘膜で傷跡を保護するだけだという。
つまり、再び痛くなったのは、その粘膜の保護がちゃんと出来なかったからだ。
この十二指腸潰瘍の恐ろしさについては、当時はよく分かっていなかった。
次に赴任した学校で、同僚のお父さんが十二指腸潰瘍で亡くなって初めて知った。
痛みを我慢して、十二指腸から多量失血したということだった。
今は良い薬が出来て、この病気は恐いものでは無くなっていると聞く。
しかし、一度傷ついた腸は二度と元には戻らない。
私の場合は大学院時代の苦しみが、身体に刻まれ続けられると言うことだ。
話を聞いていると、私の年代の男性は、胃腸にポリープや潰瘍痕を抱えている人も少なからずいる。
肉体労働が主であった以前は身体の見える部分に傷が残っていた。
デスクワークの多い仕事は、身体の見えない部分に傷が残っているようだ。
そして、レントゲンにも移らないのは心の傷だろう。
ただ、このよう内なる傷は完治でき無くても、保護は出来るようだ。
自分を労ると言うことは、自分で自分を保護してやることのようだ。
2019年12月19日木曜日
窓の向こうに恩田川
前回のブログでかぐや姫の神田川を引用したが、私は一時東京の中野に住んでいたので、神田川は近くにあった。
しかし、情緒のないコンクリートで固められた神田川には、全く魅力を感じなかった。
私にとって思いで深いのは、むしろ恩田川である。
先日大学が恩田川の近くにあったという同じ職場の若い職員から、恩田川沿いをよく走ったという話を聞かされた。
自分もこの川の土手をジョギングしたり、散歩したり、自転車で走ったりしたので話がはずんだ。
私は大学院時代、東京都の中野、新宿区西落合、そして横浜市緑区長津田に住んでいた。
毎年引っ越しをするという、引っ越しマニアでもあった。
当時は部屋に荷物も大して無くて、気楽な引っ越しだった。
私は長津田のアパートで、修士論文を必死になって書いていた。
引き籠もって書いている内に、心身ともまいってしまい、それを紛らすために川沿いを散歩し始めたのが始まりだった。
散歩をすることから、ジョギングに変わり、何もかも忘れて夢中で走っていたのを憶えている。
その川沿いのジョギングは、赤穂では大津川と千種川、龍野では栗栖川、上郡では高田川と千種川、姫路では市川と場所が変わった。
川の流れを眺めながら、移ろう季節を感じながら走っていた。
その始まりは恩田川だったのだなと、改めて気がついた。
ジョギングはしなかったけれど、名古屋では天白川や山崎川、新宿区の西落合では妙正寺川には想い出がある。
都会の中の川には、心を安らげる趣があった。
それは桜が植えてあったり、川原には草花が咲いていたからだろう。
その頃、付き合っていた女性とも川沿いをデートすることが多かったように思う。
残念ながら恩田川にはそういうロマンチックな想い出はないけれど、夢破れ帰郷した後も一番思い出したのは恩田川の景色だった。
だから、機会があって10年以上前に東京に行った時に、ついでに寄って写真を撮ってきた。
美空ひばりの「川の流れのように」(作詞秋元康)の歌詞は、川により沿う人の気持ちを上手く表していると思う。
まさしく、私の長い人生をもそこに映すことのできるものだと感じるこの頃である。
しかし、情緒のないコンクリートで固められた神田川には、全く魅力を感じなかった。
私にとって思いで深いのは、むしろ恩田川である。
先日大学が恩田川の近くにあったという同じ職場の若い職員から、恩田川沿いをよく走ったという話を聞かされた。
自分もこの川の土手をジョギングしたり、散歩したり、自転車で走ったりしたので話がはずんだ。
私は大学院時代、東京都の中野、新宿区西落合、そして横浜市緑区長津田に住んでいた。
毎年引っ越しをするという、引っ越しマニアでもあった。
当時は部屋に荷物も大して無くて、気楽な引っ越しだった。
私は長津田のアパートで、修士論文を必死になって書いていた。
引き籠もって書いている内に、心身ともまいってしまい、それを紛らすために川沿いを散歩し始めたのが始まりだった。
散歩をすることから、ジョギングに変わり、何もかも忘れて夢中で走っていたのを憶えている。
その川沿いのジョギングは、赤穂では大津川と千種川、龍野では栗栖川、上郡では高田川と千種川、姫路では市川と場所が変わった。
川の流れを眺めながら、移ろう季節を感じながら走っていた。
その始まりは恩田川だったのだなと、改めて気がついた。
ジョギングはしなかったけれど、名古屋では天白川や山崎川、新宿区の西落合では妙正寺川には想い出がある。
都会の中の川には、心を安らげる趣があった。
それは桜が植えてあったり、川原には草花が咲いていたからだろう。
その頃、付き合っていた女性とも川沿いをデートすることが多かったように思う。
残念ながら恩田川にはそういうロマンチックな想い出はないけれど、夢破れ帰郷した後も一番思い出したのは恩田川の景色だった。
だから、機会があって10年以上前に東京に行った時に、ついでに寄って写真を撮ってきた。
美空ひばりの「川の流れのように」(作詞秋元康)の歌詞は、川により沿う人の気持ちを上手く表していると思う。
まさしく、私の長い人生をもそこに映すことのできるものだと感じるこの頃である。
2019年12月17日火曜日
学生時代の写真からの激励
このところ入院した母の世話や今後のことを考えると、老後の不安を実感せざるを得なかった。
自分自身も持病や身体や容貌の変化に、後ろ向きに考えることが多かった。
そんな中で、ふと学生時代の写真を取り出してみた。
かぐや姫の「神田川」の歌詞ではないけれど、「若かった あの頃 何も恐くなかった」時代である。
私には大切な優しさが欠けていたと苦笑しつつ、当時の自分や親しかった人たちをながめる。
当然、そこには今の自分とは全く違う自分がいる。
残念ながら、大学や大学院の頃に親しかった人とは会う機会が無いので、今の様子は分からない。
私はその頃出逢った人たちを、その頃の年齢の人として思いを寄せている。
高校時代の同級生とは同窓会で会って、ショックを受けたのだから、学生時代の仲間とは会わない方が花なのかも知れない。
写真は高校時代まではそこそこあるのに、高校を卒業してから職に就くまではあまりない。
私はその年数は9年にも及ぶ。
自分にとっては、10代後半から20代後半までの一番若々しかった頃である。
同世代の人たちも、みんな美しく輝いて見えるし、自分自身も今と比べてはハンサムに見える。
写真を見るうちに、昔の気分に引き戻されてきた。
このまま老け込んではいけない。
身体より先に、心が老け込んでどうするんだ!
と、自分に叱咤激励をした。
家族の昔の写真はどうしても、ノスタルジーを感じてしまっていたが、学生時代の写真は励ましとして刺激となった。
子どもが成長した今は、ある意味で学生時代と変わらなくなったところも多い。
そして、当時は将来に不安を抱えていたと同じように、老後に不安は抱えている。
また、今は「何も恐くない」というよりも、「何もかも恐い」と感じている。
その代わり、家内には笑われそうだが、若い頃よりは優しくなってはいると思っているのだが・・・
自分自身も持病や身体や容貌の変化に、後ろ向きに考えることが多かった。
そんな中で、ふと学生時代の写真を取り出してみた。
かぐや姫の「神田川」の歌詞ではないけれど、「若かった あの頃 何も恐くなかった」時代である。
私には大切な優しさが欠けていたと苦笑しつつ、当時の自分や親しかった人たちをながめる。
当然、そこには今の自分とは全く違う自分がいる。
残念ながら、大学や大学院の頃に親しかった人とは会う機会が無いので、今の様子は分からない。
私はその頃出逢った人たちを、その頃の年齢の人として思いを寄せている。
高校時代の同級生とは同窓会で会って、ショックを受けたのだから、学生時代の仲間とは会わない方が花なのかも知れない。
写真は高校時代まではそこそこあるのに、高校を卒業してから職に就くまではあまりない。
私はその年数は9年にも及ぶ。
自分にとっては、10代後半から20代後半までの一番若々しかった頃である。
同世代の人たちも、みんな美しく輝いて見えるし、自分自身も今と比べてはハンサムに見える。
写真を見るうちに、昔の気分に引き戻されてきた。
このまま老け込んではいけない。
身体より先に、心が老け込んでどうするんだ!
と、自分に叱咤激励をした。
家族の昔の写真はどうしても、ノスタルジーを感じてしまっていたが、学生時代の写真は励ましとして刺激となった。
子どもが成長した今は、ある意味で学生時代と変わらなくなったところも多い。
そして、当時は将来に不安を抱えていたと同じように、老後に不安は抱えている。
また、今は「何も恐くない」というよりも、「何もかも恐い」と感じている。
その代わり、家内には笑われそうだが、若い頃よりは優しくなってはいると思っているのだが・・・
2019年12月9日月曜日
プールに戻った海豚
私は1年くらいプールから遠ざかっていた。
ずっと、プールに行きたいという気持ちが起こらなかった。
農作業で忙しかったり、腕が痛かったりと理由はあるが、それは単なる言い訳だった。
プールに行く気が起こらない。
行っても、もうつまらないように思えた。
その間、ずっと散歩で体は動かしてはいたが、どちらかというと気持ちはずっと後ろ向きだった。
今日は久しぶりにプールに行ってみようと思った。
理由は気分転換を少ししたかっただけだった。
子どもが幼い頃に通っていた相生のプールに行った。
もう、30年近くもこのプールで泳いでいる。
ただ、不思議なのだが、プールの駐車場に車を駐めると、これからの泳ぎのモードになる。
過去の想い出よりも、これから自分はどのように泳げるのかということに気持ちが向かうのだ。
そして、プールサイドに立つと、今泳いでいる人たちよりも、もっと良い泳ぎをしたいと思う。
長年の練習で刻み込まれた泳ぐ姿を披露したいと思う。
ところが、いざ泳ぎ始めると、右腕の痛みは強く、すぐに息も上がってしまう。
クイックターンもまともに壁さえ蹴れない。
ちっとも周りに格好良い姿など見せられない。
ただ、以前していたメニューを少しでもこなそうと思うだけである。
不思議に、まともに泳げないと、何とか良い泳ぎをしようと思う。
自分の泳ぎに集中できた。
見渡せば、知っているコーチなどがいて懐かしく思う。
相生のプールの良いところは、見覚えのあるコーチや事務の人が今もいることだ。
中には私が水泳部の顧問をしていた頃に、他校ではあるが現役選手で活躍していたコーチもいる。
上郡にはそういうコーチは誰も残っていない。
このプールは想い出のいっぱい詰まったプールだけれど、感傷的な気持ちにさせられるわけではない。
それは、今でも以前と同じように、一生懸命泳ぐちびっ子がいて、それを見守るお母さんが上のギャラリーのいる雰囲気だからだ。
自分のための練習ではありながら、見られていることを意識する。
実際は、ギャラリーは自分の子どもだけ、コーチは生徒だけを見て、泳いでいる人だけ隣で泳いでいる人を意識して見る。
それでも、自分なりに良い泳ぎをしたいと思って、泳ぎに集中できる。
今日泳いだことで、泳ぐことが、私の心を支えていたことが実感できた。
長い間泳げなかったのは、水泳が心の支えであったことに気がついていなかったからだろう。
自分を失うというのは、こういうことだったのかと改めて気がついた。
ずっと、プールに行きたいという気持ちが起こらなかった。
農作業で忙しかったり、腕が痛かったりと理由はあるが、それは単なる言い訳だった。
プールに行く気が起こらない。
行っても、もうつまらないように思えた。
その間、ずっと散歩で体は動かしてはいたが、どちらかというと気持ちはずっと後ろ向きだった。
今日は久しぶりにプールに行ってみようと思った。
理由は気分転換を少ししたかっただけだった。
子どもが幼い頃に通っていた相生のプールに行った。
もう、30年近くもこのプールで泳いでいる。
ただ、不思議なのだが、プールの駐車場に車を駐めると、これからの泳ぎのモードになる。
過去の想い出よりも、これから自分はどのように泳げるのかということに気持ちが向かうのだ。
そして、プールサイドに立つと、今泳いでいる人たちよりも、もっと良い泳ぎをしたいと思う。
長年の練習で刻み込まれた泳ぐ姿を披露したいと思う。
ところが、いざ泳ぎ始めると、右腕の痛みは強く、すぐに息も上がってしまう。
クイックターンもまともに壁さえ蹴れない。
ちっとも周りに格好良い姿など見せられない。
ただ、以前していたメニューを少しでもこなそうと思うだけである。
不思議に、まともに泳げないと、何とか良い泳ぎをしようと思う。
自分の泳ぎに集中できた。
見渡せば、知っているコーチなどがいて懐かしく思う。
相生のプールの良いところは、見覚えのあるコーチや事務の人が今もいることだ。
中には私が水泳部の顧問をしていた頃に、他校ではあるが現役選手で活躍していたコーチもいる。
上郡にはそういうコーチは誰も残っていない。
このプールは想い出のいっぱい詰まったプールだけれど、感傷的な気持ちにさせられるわけではない。
それは、今でも以前と同じように、一生懸命泳ぐちびっ子がいて、それを見守るお母さんが上のギャラリーのいる雰囲気だからだ。
自分のための練習ではありながら、見られていることを意識する。
実際は、ギャラリーは自分の子どもだけ、コーチは生徒だけを見て、泳いでいる人だけ隣で泳いでいる人を意識して見る。
それでも、自分なりに良い泳ぎをしたいと思って、泳ぎに集中できる。
今日泳いだことで、泳ぐことが、私の心を支えていたことが実感できた。
長い間泳げなかったのは、水泳が心の支えであったことに気がついていなかったからだろう。
自分を失うというのは、こういうことだったのかと改めて気がついた。
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