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2024年10月18日金曜日

もしも ピアノが弾けてたら

 俳優西田敏行が亡くなった。

私は、高校生くらいから西田敏行に似ていると言われ続けていた。
当時の若い世代では、三枚目俳優の西田敏行に似ていると言われるのは、容貌をからかわれているに等しく、そう言われた私は苛ついた。

知り合いから「西田トシちゃーん」とからかわれるのが嫌だった。

でも、西田敏行本人は好きな俳優だった。

私が西田俊行が演じた役で一番好きまなのは「池中玄大80キロ」だ。

今の私は87キロあるが、身長が174cmあるので、80キロ超で166cmの西田俊行とは同じような体型なのかもしれない。

ただ、私は彼のような俳優になりたいとは一度も思ったことはなかった。

でも西田敏行や六角精児を見ていると、自分にはできそうにないけど役者の魅力が分かる。

単に役を演じさせられているのではなく、人間の色んな面を自分の個性として表現できる面白さがあると気がついた。

今では西田敏行に似ているといわれるのは褒め言葉のように思えるようになった。

でも最近は大物俳優になりすぎていたので、言われることはなくなっていた。


今回の訃報の報道で、色々と知ったけれど、中でも売れるまでの苦労話は身につまされた。

彼をあれだけの俳優に育てたのは、養父母であり妻だったのだ。

彼はそれにしっかりと応えて、感謝を忘れていなかったようだ。

自分も研究者を志した時に、支えてくれる人がいながら、それに応えられるような謙虚さが貫けなかった。

彼は大物俳優や仲間とうまく関わって愛される存在になることができていた。

私も大学時代には森繁久弥のようにうなぎを食べさせてくれる先生がそばにいてくれた。

大学院でも、伴侶以外にも多くの先生や先輩が手を差し伸べてくれていた。

その支えにちゃんと感謝して応えようとする気持ちがあったら、研究生活は破綻することはなかったと思う。

その破綻のことは「されど1年」で詳しく書いている。


役者も研究者も似たところがあるが、研究者は定職に就くこともできるし、教師などのつぶしがきく。

役者は仕事が無くなってしまえば終わりだし、つぶしもあまりきかないという厳しい環境だ。

いっぽう、役者は経済的に大きな富を得たりや多くの人に愛される存在になれる。

そんな中で自分の容貌や性格をうまく活かして、大成していった西田敏行は尊敬すべき人だと思う。

しかし、その努力や苦労のはけ口としてのたばこや酒が、身体をむしばんでいたことも確かなようだ。

私も酒・たばこが原因で、既に大学時代に十二指腸潰瘍を患い、大学院では修論執筆中に医者から入院を指示されるほど悪化させていた。

その時は入院せずに薬と運動・節制で回復させたが、その後もたびたび再発していた。

もし、研究者になっていたら、彼よりも短命だったかもしれない。

役者も研究者も身体を犠牲にしてしまうところの共通点はあるようだ。


作詞阿久悠の「もしも、ピアノが弾けたなら」は、不器用な人間の気持ちを歌ったものだが、西田敏行自身は大変器用な人間だったと思う。

何でも器用にこなせる人こそ、不器用さをまとって歌い多くの人を魅了した。

単に器用だけではなくて、山田洋次監督に楯突くなど反権威主義の精神と実力をも持っていたようだ。

私自身は本当に不器用なので、気持ちを伝えることができるピアノが実際に弾けてたら良かったと思う。

バンド活動でも、ピアノが弾けてたら道が開けていたかもしれない。

私を支えてくれている伴侶や先生に、感謝の言葉を伝えられるすべを持ち合わせていない不器用者だった。

そして、何より実力もないのに権威に楯突いて潰れていった。


だけど ぼくにはピアノがない きみと夢みることもない

心は いつでも空まわり 聴かせる夢さえ遠ざかる


実際に私の夢は若き日に糟糠の伴侶と共に遠ざかってしまった。

彼は私のように不器用な者の気持ちを歌やドラマ・映画でうまく表現してくれていた。

不器用な人間をあえて演じることで、彼は役者として励ましてくれていたのだと思う。

彼のように深いところまで気持ちが伝わってくる俳優は、これからもそう生まれないように思える。

私はかつて西田敏行に容貌だけでも似ていると言われたのだから、もう少しは彼に近づきたいと思う。









2024年10月16日水曜日

中学受験の動機と成り行き

 私は中学受験をして私学に中学高校と通った。

以前は、「おぼっちゃま だったのね」と、同僚の女性から嫌みを言われたりしていた。

私は開き直って、「そうやで おぼっちゃん やったんやで」と嘯いていた。

しかし、現実は赤穂市から特別に奨学金を借りて通っていた。

この奨学金は貧しくても勉強を頑張る生徒のためのもので、母親から民生委員の人が口添えしてくれたと聞いていた。

奨学金の返済は親がその後に払ってくれたが、詳しくは聞いてなかった。

自分自身は、大学、大学院と奨学金をもらっていたが、教員になって免除されていたので、親の苦労には無頓着だった。


なぜ、そこまでして授業料の高い私学へ行ったかというと、自分自身は良い大学へ行くためという意識はあまりなかった。

自身の子どもを私学に行かせていた担任の先生の強い勧めで、特に母親がその気になったのだが、私は最初はあまり乗る気でなかった。

ただ、一匹狼的なゴンタクレ(ガキ大将)であった当時の私は、となりの町の番長グループに絡まれて、同じ歳のガキ大将とタイマン張って殴っていた。

私は殴り合いの喧嘩は殆どしなかったが、剣道を習っていたので打ち込む術に長けていた。

そのガキ大将とは中学校から同じ校区で一緒になるので、面倒なことになることで気が重かった。

後に小学校の同級生(剣道少年団でのライバルのガキ大将)にそのガキ大将のことを聞いたら、彼はその男と中学校では喧嘩を続けていたという。

当時はほんとの「おぼっちゃま」を除いて、そういう喧嘩による番長支配が公立中学や一部の高校では当たり前の時代が続いていた。

私の父親からも、自分の喧嘩の話は聞かされており、「負けて泣いて帰ってくるな」とよく言われていた。

そういう、番長支配の世界を脱出できるのが私立中学だったので、担任の先生は勉強はできたがゴンタクレである私の将来を考えて強く勧めてくれたように思う。

家内は私とは違って、女子校の私立中学に行っても大した大学に行けそうになかったので、受験しなかったと言っている。

普通の女子は番長支配の関係はなくて、むしろいかに勉強で男子よりも有利に立つかを考えていたようで、公立の中学高校では勉強に励んで良い成績だった。

そういう家内も一流大学を目指しながら、3流大学に甘んじたので私と結果は同じだった。


当然ながら、私立中学へ入ってからは、良い大学に入らねば恥ずかしいとは思っていた。

ただ、大学がどういうところで、大学を出てどういう職業に就くかを漠然としか考えていなかった。

とにかく、私は入って恥ずかしくない大学を目指す程度で、ちゃんと将来を考えて医学部や東大京大を目指した同級生とは大違いだった。

中学受験では、同じように受験した同級生への対抗心や落ちたら格好悪いと必死に勉強し、合格できたこと自体は嬉しかった。

何せ、当時の公立中学校は丸刈り強制であったのがしなくて良いし、制服もネクタイに背広で格好良かった。

赤穂にあっては、私が育った柄の悪いと言われた町とは、距離を置けることで卑屈にならずに済んだ。

受験勉強の延長で中学校2年生くらいまでは何とか上位の成績でいられた。

しかし、当然ながらちゃんとした大学進学の目的のない状態では勉強に熱が入らなくなっていった。

結果としては、ロックバンド活動や男女関係にのめり込んで勉強が手につかず、教師からは不良グループとして嫌われる仲間の一員になった。

さすがに体裁悪くて直前には焦って大学受験をがんばったが、一浪しても3流大学しか入れなかった。


その程度の大学なら、何も高い授業料を払ってまで、私学に行かせる必要がなかったというようなことを父親には言われた。

母親は歌手になりたかった方なので、私のバンド活動を容認していたのだが、それが悪いと父親からずっと責められていた。

確かに結果からすればそうなのだが、今となれば私学に行って良かったと思っている。

何せ番長支配の世界から抜け出せたことは助かった。

実は、小学校の頃は女子からさえ恐れられるほどの悪ガキだったが、軟派な不良程度に修まることができた。

そのおかげで、公立中学校・高校出身の生徒よりも歌に恋愛に自由を謳歌できた。

そこらへんが、中学高校と勉強での競争にさらされて、恋愛に無縁だった家内とは大きく違っていた。

こんな二人が結婚したのも、見合いという仕組みがまだしっかりと残っていたからで、常日頃、「普通ならふたりは恋愛結婚はありえなかったね」と私は言っている。

ただ、3流大学まではその延長上で何とかなったが、権威による試練にさらされた公立の大学院でしくじった原因はこの自由気ままな姿勢からだったのだろう。

一方、教師になってからは役人型教員と肌が合わず苦労もしたが、番長支配が残っていた学校以外では生徒とはうまくやれたと思う。

現在は東大京大の合格者ランキングでは低迷している母校だが、自分にとってはありがたい学校だった。










2024年10月14日月曜日

狩猟採集民はなぜスリムか?

 このところ狩猟採集民の民族誌を読んでいるのだが、考えさせられた。

狩猟採集民は確かに運動量も多いが、仕事時間は産業社会の勤労者より少ない。

食べるものも比較的豊富だが、保存方法が限られているので、みんな分配し合って食べてしまう。

余った時間はゆっくりくつろいで、眠ったりおしゃべりしている。

食料は狩猟による肉よりも採集された植物系のものが主体だ(冬場の高緯度地帯は例外)。

ところが、狩猟で大量の肉が手に入ると、一部は干し肉等にするようだが、殆どは食べてしまう。

そして、何よりも思い切り食べた後で、歌ったり踊ったりして楽しみ、おなかがすくとまた肉を食べるという。

場合によっては、翌日の朝が過ぎても踊っていることもあるという。

あまり儀式や祭りらしいものがなくて、大きな獲物が手に入った時が祭りのようだ。

そして、食料の少ない季節には、歌や踊りは殆どないようだ。


そこで思い出したのは、奄美の人が八月(旧暦)には、毎晩踊り明かしていたということだ。

この季節は季候も良く、食料にも恵まれている時期である。

本土では盆踊りとして、月遅れの新暦8月に踊ることが多くて、新暦10月頃には秋祭りで神輿やだんじりで身体を動かす。

本土の踊りは食料とは関係ないようで、有名な青森のねぶた祭は七夕との関係があるそうだ。

本土ではどうも踊りは食料とは切り離されているようにも思える。

その点で言えば、奄美や沖縄の方が食料や飲食と密接で自然に思えてくる。

祝い事の宴会の最後では六調などの踊りで締められるのが普通で、特に沖縄の結婚披露宴の締めでの全員参加のカチャーシーは圧巻だ。

飲食でいっぱい身体に栄養を入れた時は、歌ったり踊ったりする方が肥満にならなくて健康的と言える。

最後に踊ることを考えたら、泥酔することもできないだろう。


そういうことでは、私の父母が生きていた頃は、両親と兄弟家族が集まって飲むと必ずカラオケに行って、歌うことはもちろん、場合によっては踊ったりしていた。

この家風は家内には全く合わなくて、カラオケボックスから帰ってしまうことの方が多かった。

家内の方は親戚が集まってもカラオケをすることはなくて、ひたすら飲んで食べておしゃべりをしていた。

だから、夫婦でカラオケに行くことは全くない。

職場での忘年会ではカラオケが定番だったが、私は職員バンドを組んで演奏するのが楽しみだった。

機材を持って帰らねばならないので、飲めないケースもあったが、翌日持って帰ることにして宴会を楽しんだりした。

現役の教員をやめて一番淋しく思うのは、仲間と飲む機会がなくなったことだ。

職員全体の宴会だけではなくて、気のあったもの同士が飲食した後で、よくカラオケに行って楽しんだ。


このところ、肥満を解消するために、酷暑の中で無理な散歩や水泳をして、かえって身体を壊してしまった。

これからは、狩猟採集民を見習って、歌や踊りをもっと取り入れて、楽しみながら肥満解消をしたいと思う。

ご婦人方はカーブスなんかでの運動が人気だそうで、それはおしゃべりしながら運動できるからだそうだ。

競技スポーツと違って健康スポーツは楽しくないと長続きしないと思う。

今まで、競技スポーツ型の水泳練習をしていたが、仲間とおしゃべりしたり、楽しい泳ぎを工夫した方が良いと思うようになった。

また、パソコンを使っての一人カラオケやギターの弾き語りも大切だと思う。

そういえば狩猟採集民も、狩りの仕草を踊りに取り入れていたが、日本では安木節が似たようなものだろう。

男にはフラダンスなどの踊りがないので、ああいう座敷芸などを練習するのも楽しいかもしれない。

歌と踊りは人類にとって、健康と喜びに欠かせないようことを、狩猟採集民から改めて教えられた。





2024年10月12日土曜日

不都合な核兵器の真実

 被団協のノーベル平和賞が決まった。

日本は、核兵器禁止条約に加盟しないままである。

理由は、同盟国のアメリカの核の傘に守られているからである。

そもそも、そういうことは核兵器の存在自体を容認していることになる。

核の傘の本質は、守ってもらっているだけでなく、脅されているのだということもちゃんと報道しなければならないと思う。

唯一の被爆国日本が核武装をすることに一番反対するのはアメリカだろう。

アメリカは核の使用を正当化しているのだから、日本が広島・長崎の報復として核攻撃をしても文句は言えないからだ。


アメリカに守られているし、脅されているから核兵器禁止条約には賛成できないと、政府も正直に言えば良い。

核兵器を禁止するには、アメリカが原爆投下の過ちを認める以外に、道は開けないことくらい分かっている。

被団協がノーベル平和賞をもらっていなかった理由に、アメリカの存在が大きかったと言われている。

被団協がアメリカへの賠償を求めているように受け止められていたともいう。

核使用の現実が迫って、さすがのノーベル賞も被団協を前面に出さざるを得なかったのが現実だろう。

そもそも、プーチン自体がアメリカが原爆投下してうまく日本を支配しているのに、なぜ使って悪いのだと思っているようだ。

今使わないのは、まだ勝つ見込みが立っていないからだ。

アメリカが原爆を投下できたのは、勝てる確証があってとどめを刺したのと、次の対ソ連戦略からだというのは分かるはずだ。

万一負けていたら、ドイツのホロコースト同様に大量虐殺として断罪されていただろう。

朝ドラの「虎に翼」のおかげでモデルである三淵嘉子氏の「原爆裁判」がやっと注目され始めたが、戦争犯罪であることを訴え続けるべきだ。


日本政府は世界の核兵器の現実から逃れられないことは確かだろう。

核兵器さえ持っていれば、脅しにも使えるし、攻め込まれて征服されることはないからだろう。

しかし、そういうの国家の戦略と対抗して世界中の人々は連帯し、核兵器廃絶の運動を繰り広げられるはずだ。

その一歩は、アメリカの原爆使用の誤りの共通理解から始めるべきだろう。

被団協などの活動が、核兵器使用をタブー化していったとも言われているが、核兵器所有もタブー化していくべきだろう。

地球環境問題への世界的な市民運動と同様に、核兵器廃絶の市民運動を繰り広げるべき時が来ていると思う。

核抑止力が核脅し力になったウクライナ戦争や、イスラエルの核施設攻撃の可能性がある今だからこそ、ノーベル賞が与えられた。

そして、日本人はこの「不都合な核兵器の真実」から目を背けずに、核兵器廃絶に取り組む歴史的責任を背負っていると思う。



2024年10月8日火曜日

酷暑に耐えた作物たち

 今年は、酷暑に雨不足で、夏物野菜は早々と駄目になった。

そんな中で、元気なのはオクラだけと以前書いたが、実は落花生、黒大豆、サツマイモなども何とか枯れずに残っていた。

落花生をまず最初に少し掘ってみたが、まだ大きく育っていなかった。

おそらく。水が不足して実が大きくならなかったのだろうが、小さいのがいっぱいついていたので、他のはしばらく置いておくことにした。

次に、サツマイモ(シルクスイート)を掘ったが、元気が無いので最近水をやってきた甲斐もあったのか、芋はそこそこできていた。

黒大豆も枝豆として食べようと一株刈り取ってみたが、やはり水不足なのか実は太っていなかった。


私は、黒マルチ(地面の覆い)を使わず、草マルチでやったが、しっかりとマルチングができていなかったので、草がかなり生えてきて、それを刈ったり抜いたりが大変だった。

草マルチを用いる自然農法というのは、そんなに容易いものではないことを思い知らされた。

ただ、苦労の甲斐あって、草と一緒ではあるが、元気に育ってくれて一安心した。

このところ、気温も下がって、雨も降り出したので、これからもっと太ってくれると思う。

一方、期待を込めて育てた高黍(コーリャン)は実が殆ど入っていない。

干魃に強いとされるのだが、枯れない代わりに実が殆ど太らなかったので実験的に秋植えの高黍を育てている

周りの稲は元気に育って、今収穫を迎えている。

やはり、水田はこういう日照りや高温に耐えられる優れものだと思い知った。

ちゃんと、川からの水を絶やさず、万一のための貯水池も作ってある。

こんな、破綻気象でも水稲だけは問題なく育っていたのだ。

日照りに不作なしというのは、こういうことであり、むしろ冷害の方が稲には悪いことが実感して分かった。


以前には、温暖化の時代は、稲よりも芋の方が適していると言われていたように思うが、里芋などは暑さで葉が枯れてしまった。

いくら、水があっても暑さにあの広い葉っぱは持たないようだ。

そういえば、池の蓮もずいぶん枯れていたのが、このところ涼しくなって復活してきた。

広い葉を持つ植物はどうも高温に弱いようで、考えてみれば熱い乾燥地帯で育つのは葉のないサボテンだった。

一番早くに駄目になったのはキュウリだったことを考えても、大きな葉を持つ作物は日照りと高温に気をつけねばならない。

これからは暑さ対策の寒冷紗が必需品となるだろう。


私は酷暑の時代で稲に代わる作物を考えたが、今年に関しては稲が一番耐えられる作物であることが分かった。

メタンガスを多く出す水田から乾田で栽培することも考えているようだが、水田だからこそ高温に耐えられたように思う。

ただ、西日本は台風による風水害をあまり受けなかったことも今年は幸いしている。

台風の常襲地帯の琉球諸島や南九州では、稲よりもサツマイモなどの方が適していることも事実である。

私自身は、現代の機械化された稲作に取り組むの二の足を踏んでいるのだが、資金面もさることながら安全面でも不安を抱えている。

今朝の朝日新聞の記事に、農家の事故の多さは、他の産業の10倍だと書いてあった。

一番の原因は高齢化とされるが、機械化されてなければ、起きない事故ばかりだ。

土木建築現場で、機械化されてそれを担うのは決して高齢者だけではないことを考えれば、いかに今の機械化農業が問題を抱えているか分かる。

現在は稲ばかりでなく、商品作物の殆どが機械化されてきているのだから、高齢者ばかりに頼らない人材確保が急がれる。


政府は時給を上げて臨時職員の生活を安定させようとしているが、時給が上がったらますます、農業は機械に追いまくられるだろう。

大型野菜農家で働いた年配の人から聞いたのだが、機械に併せて作業するのはかなり厳しいものだそうで、二度と働きたくないと言っていた。

テレビのニュースや特集では子どもたちののんびりした農業体験が流されているが、収益を上げるための機械化農業のことも知っておく必要があるだろう。

今回の米騒動から対策すべきことは多くあるのに、政治家は政策よりも選挙対策でまともに機能していない。

都市に住む人はせめて関心を持って、農家を支援する世論を作り上げて欲しいと思う。





2024年10月4日金曜日

私を導いてくれた光バイト

 今は闇バイトが世間を騒がしている。

ネットで集められた若者が中心に、高齢者や女性の単身者を狙って強盗に入ったりしている。

捕まれば一生台無しになってしまいかねないリスクを冒すほどのうまみがあるように思えない。

目先の高額なバイト料にだまされて、その世界から抜け出せない若者も多いという。

それよりも、汗水を流して働いた方が良いと思うのだが、小さい頃からTV・PCゲームばかりしていたとか身体を動かす経験の少ない人にとっては、どだい無理な話なのかもしれない。

また、そういうバイトをする若者は相談する相手がいないというので、気軽に相談できる窓口も必要なのだろう。


私は中学受験や大学受験で机に縛られていた時期を除いて、身体を動かす方が多かった。

バンド活動でもボーカルやギターでも結構体力が必要だった。

そして、大学時代にサークル活動としての村落調査に必要な金に困ってやったのは、土方(土木作業)のバイトだった。

弟は旧帝大に入っていたので、地元の赤穂に夏休みに戻ったら家庭教師の声がかかった。

私は三流大学の私学であって、短期間でも頼まれるほどの価値がなかった。

ただ、理科系の色白スリムな弟には彼女はなくて、文系で色黒マッチョな私にはちゃんと恋人がいたので、釣り合いはとれていた。

私学であっても家内のように自宅通学していた大学生は家庭教師や塾などのバイトも相生にはあった。

地元赤穂では国公立に通学している学生が殆どいなかったので、夏休みや春休みだけでも頼まれることがあって、医学部に行った多くの同級生も同じようにしていた。


私のバンド仲間だった同級生は、早大法学部の学生だったが、家庭教師や塾は不向きだったので、あえて地元でも東京でも建築現場でバイトしていた。

私より高額の日給をもらい、地下足袋をちゃんと履いて、ビルの上にも上っていると自慢していたが、1980年頃私は日給5,000円で彼は7,000円くらいもらっていた。

以前、受験ドラマ「ドラゴン桜」で、夜の土木作業のバイトが実入りが良いと奨められていたが、大学生ならともかく受験生に向いているバイトとは思わない。

何せ夏の昼間の土方(田舎では夜間の道路工事等は殆ど無い)は、どうやって夕方まで体力を維持するかである。

元気の良い朝に体力を使ってしまったら夕方まで持たなくて、ペースをつかみ身体が慣れるまでに、最低一週間はかかる。

そして、昼休みはどんな場所でも眠る必要があり、汗に濡れた長袖シャツを干しながら、ランニングシャツ一枚で板の上で横になって日陰で眠った。

やっと夕方に仕事が終わり、家に帰って夕食を済ますと泥のように眠りこけた。

問題は仕事が無くなる雨で、身体安めには良いのだが収入面では都合が悪い。

「土方を殺すに刃物はいらぬ 三日雨が降れば良い」とか

「雨が続くと仕事もせずに キャベツばかりかじってた(赤ちょうちん)」の世界である。

まさしく闇バイトならず、晴れ頼みの光バイトなのである。

親方は母親の知人の断酒会を通じての知り合いで、親方のお母さんは日本語が得意ではなくて、電話で連絡を取るのに不自由があった。

親方は強面だが口数も少なく、無理なことを押しつけるようなことは無かった。

そんなきついバイトをしている私に恋人はよく気遣ってくれて、たまの休みに二人で旅行することもできた。


こういう土方をせずに済んだのは大学院時代で、東京の公立大学院生だったので、家庭教師や塾の仕事にありつくことができた。

しかし、博士課程の進学に失敗して地元に戻ると、教諭の病欠や短期留学での短期間の中学での数学や英語の臨時講師(校長特別免許)しかなかった。

これは1~2ヶ月ほどしかなくて、その間を埋める軽いバイトが赤穂には無かった。

そこで、役に立ったのが土方の経験だった。

要するに職安(ハローワーク)から赤穂市の発掘の人夫(作業員)の仕事を紹介されたのだった。

発掘現場は、重機も使うが、丁寧に掘ったり、削ったりする仕事があった。

一緒に働いている仲間は退職したり失業した年配者が多かったが、小指を詰めた中年も混じったりしていた。

また、ご主人が借金の保証人になったために家をとられてしまったご婦人もいたり、脳梗塞で軽い障害を持った人もいた。

暑い夏の作業も辛かったが、凍てつく冬の作業も同じくらい辛いものだった。

しかも、大学院の修士をいちおう修了していたが、考古学はかじった程度で何の役にも立たず我ながら情けなかった。

それでも、そのことがきっかけとなって、市の教育委員会の人が懇意にしてくれて、教員になる道も開けていった。

要するに、土方の経験があったればこそ、発掘に携わり教員になれたとも言える。


今は、ブラックな仕事として、教員の仕事は人気が無いので、私の経験が若い人の役に立たないかもしれない。

言えるのはどんな惨めな時であっても、それなりの下積みのバイトをすれば、何かのチャンスに結びつくということだ。

大学院の修士の時に生活が破綻して、当時は医者から出されたトランキナイザーを飲みながら死ぬことしか考えなかった者でも、土方を通して道が開けた。

そして、どんな不遇な身の上ででも懸命に生きていこうとしている人から人生を学んだことも大きな経験だった。

今でも村で暮らしながら村作業や農作業ができるのも、その土方の経験があるからだ。

今は土木作業の仕事は機械化されて、素人は簡単にできないかもしれない。

それでも、今は人手不足で探せば将来の光となるバイトは見つかると思う。

ゲームばかりしていて不健康だった身体を鍛え直すチャンスかもしれない。

下積みの仕事をしている人から、勇気づけられることもあると思う。








2024年10月2日水曜日

なじみの鳥取

 全国的には鳥取県は余り知られていない。

今回、石破茂が総理大臣になったことで、鳥取も全国ニュースで知れ渡ることになった。

鳥取は私の住む兵庫県の隣の県だが、山陰で中国山地を越えねばならないので、あまりなじみは無かった。

それが、無料で通行できる鳥取道や、智頭線で繋がったことで、兵庫県の南西部とも関わりが多くなっている。

鳥取では安くておいしい海産物が手に入るので、岩見の道の駅には月に一度くらいは車で出かけている。

そこに隣接する食堂で、毎回海鮮丼を家内と一緒に食べている。

値段は少々高くて、回転寿司なら食べきれないくらい注文できるのだが、味は比べものにならない。

冬場に行けばカニなども安く食べられそうだが、雪道に慣れていないので一度も行ったことがない。

この日曜にも岩見に出かけたのだが、いつもは席に着くのも待たされるのに、全く待たされなかった。

おそらく、祭りのシーズンで、そちらに人が動いたのだろうと思う。


私自身は、鳥取出身の人と関わりが大学時代からある。

私が班長をつとめた村落調査サークルに名古屋大学の医学部生が参加してくれたが、彼女は鳥取西高校出身だった。

医学部にかかわらず、民族学に非常に興味を持ってくれて、奄美の調査では普通の民家にも宿泊して頑張ってくれた。

また、大学院でも1年下に鳥取出身の後輩がいて、彼女は飲み会で必ず貝殻節の話題になるので、地元で歌と踊りをおぼえてきて披露してくれた。

自分の研究とはあまり関係なさそうだったので興味が無かったのだが、青谷神寺地遺跡で弥生人の多量の人骨が発掘されて以来興味を持った。

そして、大林太良氏や森浩一氏の倭人研究と非常に関係があり、それは海人として奄美とも通じるものがあると思った。

要するに鳥取など山陰の古代遺跡には、潟湖で暮らしていた海人の生活ぶりが残されているというのだ。

青谷神寺地遺跡は大乱の殺戮の証拠として、イメージとしてはあまり良くないのだが、かつては栄えていた山陰を示す一つの証となっている。


鳥取は寂れたイメージしか無い。

大したレジャー施設も産業もなく、かつては「スタバは無いけど、砂場はある」と揶揄されたほどだった。

石破茂の地元の八頭などはかつては国道29号線で姫路への重要な幹線道路沿いだったようだが、鳥取道にその座を奪われて、山道の好きなドライバーでしか通らない。

八頭は、柿の産地で道沿いに柿畑が広がっている。

私は熟し柿以外は食べないし、家族は柿は好きではないので、道の駅にも寄ることは無い。

それよりも、その奥にある若桜の道の駅には必ず寄って、おいしいアイスもなかを買って車中で家内と半分ずつ食べている。

ガソリンが高くなったので、最近は通らなくなったが、鳥取の浦安海岸から浜坂や香住を抜けて豊岡にいく海岸道路の絶景をかつては楽しんだ。


今は、オーバーツーリズムと縁が無いところだが、山陰自動車道が全船繋がったら混雑してくると思う。

今の鳥取道も連休などでは交通量も多くなって渋滞もするし、トンネルや単車線の影響で重大事故も多発している。

そうなると、旧来の国道をゆっくり走るのも良いのかもしれないが、通行料金がいらないなら山口まで遠出したいと思っている。

今でも、鳥取道は片道だけ使っているのは、下道だけの日帰りには限界があるからだ。

石破さんに頑張ってもらって、山陰自動車道で西日本の山陰地方をほどほどに賑やかにして欲しいとも思う。

かつては倭人や北前船などが活躍して賑わった西日本の山陰の復活を願うばかりだ。

しかし、人望のない石破さん、割り箸政権とも言われているそうで、山陰自動車道が全通するまで持ちそうもないような気もするが、君子は豹変してくれるはずだ・・・・・