ページビューの合計

2025年7月16日水曜日

温暖化時代の水活用

35年前に上郡に引っ越した当初は、これほど暑さに苦しむことは無く、夜などは涼しくてエアコンなどかけることは無かった。 

近年では暑さが厳しくなって、去年まで水道水を使ったミストで二階のベランダや庭の植木を暑さから守っていた。

一日中ミストはかけっぱなしにしておいたので、しっかりと朝にはベランダや庭は濡れていた。

そのかわり、水道代が二ケ月で1万五千円を超えてしまったが、もし、下水も設置したいたらこんな額では済まなかった。

我が家は建築当時の合併浄化槽のままであるので、それだけの費用で済んでいたのだ。

東京ならいざ知らず、こんな田舎でこんな水道代は高すぎるし、普段よりもあまり多いので検査員に漏水を疑われた。

これからも暑い夏は続くと思われるし、いずれ下水施設に繋がなければならないので、安上がりになる暑さ対策を考えた。


まず、水道水から屋根の樋からの雨水を利用しようと思って、300リットルの貯水タンクを買った。

これは家にある軽トラの最大積載重量が350kgなので、それを基準にしたのだが、専業農家の人は500リットルタンクで水を運ぶのが普通だと後で聞いた。

一度、雨がしっかり降ってタンクは一杯になったが、ミストは一日しか持たなかった。

その予想はついていたので、家の近くを流れる水田への用水路を使うことにしていた。

いったん貯めたタンクからのミストは電気ポンプを使い、用水路からタンクへの水の注入はエンジンポンプを使っている。

毎日ミストを使うには最低二日に一回はエンジンポンプでタンクを満たさねばならなくなった。

そして、やはり心配していたことが起こった。

水道水や雨水と違って用水路の水はゴミが多いので、ミストが目詰まりを起こしてしまった。

何が良いか考えているときに、ホームセンターでタカギの散水チューブを見つけた。

さっそく、庭で電気ポンプを使って試したが、ミストと違って数時間もすればタンクは空になってしまった。

毎日エンジンポンプで貯水タンクを満たすのは手間なことになる。


一方、用水路からの畑の水やりにも当初はエンジンポンプを使っていた。

しかし、涼しい早朝にエンジン音を響かせると近所迷惑になる。

そこで、長い電気リールコードを使って、電動ポンプを使って散水することにした。

実は家の前にも用水路はあるが、道路をまたがずに電気コードやホースをひくには40mほど離れた場所の用水路を利用せねばならない。

散水チューブでは時間がかかりすぎるので、スプリンクラーを使って水を撒くことにした。

そして、貯水タンクに水を貯めるのにも、電動ポンプを使い始めた。

その散水チューブは庭の植木や鉢物の水やりに使っていたが、二階に持ってあげてベランダでもミスト代わりに使い始めた。

というのも、二階のベランダには鉢植えした枇杷やガジュマルもあるし、暑さ対策にもなる。

これで、ミストの代用とすることができた。


初期投資としては、去年の夏場の水道代ほどにはなったが、水道代をそれほど気にしなくて済む。

また、電動ポンプを多く使うことで、ガソリン代も節約することができる。

電気代は少し高くなるだろうが、水道代よりは安いと思う。

こういう農業用水での暑さ対策ができるのは、水田地帯に住んでいるからだろう。

ただ、街でも綺麗な水が溝に流れていたり、井戸のある家では同じことができると思う。

また、知り合いの農家では風呂の水を利用している人もいるので、雨水と風呂の水の両方を利用すれば良いかもしれない。


この散水のお陰で家の周りの植物や畑の作物もなんとか元気である。

ただ、雑草も同じく元気なので、その対策もしなくてはならない。

雑草が元気なせいか、キリギリスが元気に鳴いているし、コウノトリも餌取りに来てくれる。

今後は動力源となる電気も太陽光を用いて発電できたらとも思っているが、現段階ではコスト面で厳しい。


かつて、江戸も大阪も運河の水が張り巡らされていたようだ。

それを埋め立ててしまったことも、都市部の温暖化の原因だろう。

人間が汗で身体を冷やすように、街も運河や水路で冷やすことを考える必要があるように思う。

雪国では雪を溶かす水を道路に撒いているのだから、夏に街でも打ち水代わりの水をもっと流しても良さそうだ。

エアコンの電力使用量を減らせば、原子力に頼る電気からの脱皮を図るための対策の一つとなるようにも思える。

また、最近は駐車場に芝生とコンクリートを組み合わせて、アスファルトより涼しくしているところもある。

しかし、このところの暑さと水不足で枯れてしまっているのも見かける。

猛烈に暑いアスファルトの駐車場を芝生や土を使ったものに変えるのに水対策も必要だろう。

我が家の暑さ対策も家の周りの生け垣や土に覆われた庭が重要なところだ。

アスファルトやコンクリートのジャングルからの転換にも水が重要なポイントだろう。


2025年7月14日月曜日

屋内プールでの避暑運動

 かつて、私は高校で水泳部の顧問をしていたが、夏場の練習は暑さとの戦いだった。

近隣の全国大会に出場するような中学校では、夏休みなどは早朝の6時から練習をしていた。

高校では生徒が遠くから通ってきたり、県大付属のように寮生もいたので、そういう練習は不可能だった。

だから、練習後に大きなブルーシートで水面を覆って水温上昇を防いではいたが、昼近くなると水温がどんどん上がって泳ぐのが辛くなる。

そこで、冷たい水道水を足しながら泳がせたりしていた。


水泳部の練習はまだ水の中が殆どだから良いのだが、校内水泳大会などはプールサイドで観戦しなくてはならない。

私が勤めていた肢体不自由の特別支援学校では、屋外プールで校内水泳大会が毎年行われていた。

先日も、プールサイドでお尻をやけどしたニュースがあったが、校内水泳大会では常にプールの水をくみ上げたりして濡らしておくのも大変な労力だった。

また、今は屋外プールでのレースは殆ど無くなったが、当時は西播大会や滋賀県で行われた近畿大会では屋外プールで行われていた。

こちらは審判や招集といった競技役員が大変な苦労があった。

私は西播大会ではスターターも勤めたことがあったが、暑さと緊張でヘロヘロになった。


退職してからはこういう水泳部の顧問としての仕事が無くなって、もっぱら自分の健康と趣味を兼ねて週に3回ほど泳いでいる。

上郡と相生の市民プールで泳いでいるのだが、もっぱら泳いでいる人が少ない都合の良い時間で泳いでいた。

上郡では小学生が午後1時から2時半まで授業で利用していたので、午後からはそれが終わった時間で泳いだ。

7月に入って、小学生の利用も無くなったので、その一番暑くて利用する人の少ないその時間帯で泳ぐことにした。

この時間帯は、家で仕事をするときにはエアコンを付けねばならないので、プールに行くことによって電気代の節約にもなる。

屋内プールの水は屋外プールのような高い温度にはならないので、快適に泳げるのが良い。


この時間帯で快適に運動ができるのは屋内プールだけだと思う。

ところが、この時間帯に外でランニングをしている人がいる。

おそらく、消防署の職員だったり、自衛隊員が自主訓練をしているのだろうと思っていたが、身近な人にもいた。

毎月通っている医院の先生だ。

私はそれを聞いて思わず「自殺行為やで!」と言ってしまった。

この先生はフルマラソンどころか、100kmマラソンにも出る強者だ。

とても、ついて行けないと思ったし、自分は水泳の趣味があって良かったと思った。

ただ、かつて人類が乾燥したアフリカで狩猟採集をしていた頃は、そういうことができて当たり前だったのかもしれない。

ただ、私は海洋適応した人類の末裔として、涼しい屋内プールでいにしえの追い込み漁の疑似体験をする方が良い。






2025年7月12日土曜日

今もまだ動いてる、ゼンマイ式の柱時計

近くに住んでいた家内の母が亡くなり、遺品を整理した。

跡取りの家内の弟は遠くの関東圏で暮らしているし、子どももいなくて盆正月以外の関わりが殆ど無かったので、家への愛着が乏しい。

むしろ、家内や私は子どもを通して家内の両親とは深い関わりがあった。

その一方で、私自身が跡取りの長男で、近くに住む自分自身の両親との関わりがそれ以上にあって、両親の介護、そして葬式から遺品の整理に追われ続けていた。

両親の実家との関わりも強かった私たちに対して、それほどでもなかった家内の跡取りの弟夫婦は遺品に対してもクールなものだった。

何でも簡単に処分しようとしていた。

私は家内の実家には想い出の品はあまりないが、今後使えそうな物は持って帰ることにした。

特に、納屋に放置されていた農業資材や自転車、そして吉岡鍋は欲しいと思って持って帰った。

家内はさすがに緊密に関わっていたので、高価な敷物や食器など価値を知っていたので、捨てられようとするところを持って帰ってきた。

そんな中で、意外なことだったのだが大切に使い続けていたゼンマイ式柱時計を持って帰ってきた。

家内は昔のことに拘りをあまり持たない性格で、せっかく父親が撮ってくれていた幼い頃の写真さえ持って帰ろうともしなかった。


この柱時計は一度壊れたときに、家内の母親は広島県の大崎下島が故郷だったので、同じ島の御手洗で有名な時計屋「新光時計店」さんに直してもらった物である。

見栄えは大したことが無いのだが、わざわざ時間と労力、費用をつぎ込んで、ちゃんと動かし続けてきた価値ある時計だ。

ただ、ちょっとした難点は一時間毎だけでなく30分にボーンと鐘をならすことである。

家内は自分が寝ている部屋のピアノの上に置いたが眠られなくなって、持って帰った夜のうちに居間に持ち込んできた。


私自身はあまり昔のボーンボーン時計には愛着が無い。

私は中学受験したときに不眠症になり、寝間にあった柱時計の音が気になって余計に眠られなくなった。

明け方3時の鐘が鳴っても眠られなくて、情けなかったことを憶えている。

家内が言うにはその柱時計は、家内に時計の見方を教えるために親が買った物だというので、60年以上前の物である。

私の家にあったのは電池式でとっくに処分していたのだが、ゼンマイ式柱時計は月に一度ゼンマイの巻かねばならない年代物だ。

家内は父が亡くなった後は、老いた母に代わって高い位置に設置した柱時計のゼンマイを、実家に戻った際に忘れずに巻いていた。

このところは、その母は入院して家にいなかったので、ゼンマイも巻かずに止まっていた。

それをわざわざ持って帰って復活させたのだった。


我が家の居間にはすでに立派な電波時計があって、自動で時刻を合わせてくれるし、温度や湿度も知らせてくれている。

その時計から少し離れた壁に私はネジ釘を使って設置した。

思ったよりも正確に時間を刻み、時刻をボーボーンとその時刻の回数で知らせてくれるし、30分になっても分かる。

家内は子どもの頃にテレビやラジオからの音楽を直接録音していたときに、この音に邪魔された話をしていた。

母親が時計の見方を教えるために「今何時?」とわざと聞いてきたのは共通していて、腕を時計の針の形に上げて知らせたことも共通していた。


まるで人の心臓の鼓動のように、「チクタク」と音が鳴り続けていて、始めは耳障りにもなったが聞こえて当たり前になった。

時間を知らせる鐘のおかげで時刻を以前よりもしっかり意識するようにもなったと思う。

何でも新しくて便利な物に買い換えてしまう時代に、あえて古くて手がかかる物を使い続けることも愉快だとも思った。

骨董品のように飾っておくのではなく、生活の中で一緒に生き続けていくものだ。

日本人はまだアニミズムの信仰が残っているともいわれているが、道具や機械に愛着を持ってまるで魂があるかのように扱う。

AIの時代になっても、道具や機械と会話をし出したので、ネオアニミズムの世界に生きていくかもしれない。

そして、何よりも大切にしてきたものには、過去の想い出も一緒に生き続けている。

私の両親は墓をもうけずお寺で永代供養して貰い、仏壇と遺影を実家から移してきて、座敷で供養し続けている。

そういう供養としての墓や仏壇の位牌、遺影などとは関わり方がまるで違う。

家内の両親や私たち家族の古い記憶が、さりげなく日常生活の中にまぎれこんで、一緒に生き続けるのがボーンボーン時計である。

「大きなのっぽの古時計」に近づくためには、原曲では100年ではなくて90年なので、その歳まで家内はがんばって生きねばならない。

家内が自分自身の誕生と結婚を語る孫がまだいないのが残念だが、息子と娘に語ることはできる。

原曲では柱時計を買ってきた人は登場しないが、小さな柱時計にはちゃんと買ってきた両親も語っていける。

自慢できるほど立派では無いのだが、これだけの年数を動き続けた道具は他に無くてかけがえのないものだ。

  




2025年7月10日木曜日

汗は冷たいから濡れていたい

 私は森高千里の「雨」が好きで、時々一人カラオケで雨の日なんかに歌っている。

だけどこのところ梅雨が早々と明けてしまい、雨がほとんど降らなくて歌う気になれない。


 雨は冷たいけど 濡れていたいの

 あなたのぬくもりを 流すから


実はこのところ早朝から畑仕事をしているが、ずっと空調服を着ている。

空調服は自分の汗で体を冷やす仕組みになっているので、汗をかくまではむしろ暑い。

だから、早朝に着た空調服用のアンダーシャツは汗で濡れているが、朝食前に脱いだのを朝食後にもう一度着て犬の散歩に出かける。

せっかく暑いおもいをしてかいた汗を再利用するためだ。

このところは、雨が降らないので犬の散歩後も水やりを中心とした農作業をしている。


 汗は冷たいけど 濡れていたいの

 からだのぬくもりを 冷やすから


近所の人の中には蚊に刺されなくて、半袖Tシャツで農作業をしている人もいる。

私は空調服が半袖の時は、防虫ネットを着るし。頭も防虫ネットで覆っている。

今日はさすがに空調服を着ていても、熱く苦しくなったので防虫ネットは脱いでしまった。

実は蚊も陽が照って暑くなるといなくなるが、念のために着ていただけだった。

涼しい早朝や夕方が一番蚊に刺されやすい。

近所の人が涼しいのにそういう時間帯に農作業をしていないのは、蚊の対策が面倒であることも理由である。


空調服は今では夏の必需品になっている。

しかし、近所の人で農作業や村作業で使っている人はあまりいない。

空調服は高価であって、金ににもならない畑作業や村作業にはもったいないからだろう。

しかし、熱中症になったり、脳梗塞や心臓発作を起こして死んだら、元も子もない。

私の父は夏の暑い中で畑仕事を続けて脳梗塞になったことが原因となり亡くなった。

私たちも子供の頃は、ソフトボールや剣道の練習中に水を飲むのが禁じられていたが、父は畑仕事でも水を飲んでいなかった。

昔は、今ほど熱くなくて、水分補給をしなくてもなんとかなった。

しかし、温暖化が進んで簡単に35℃を超えてしまう現代では命取りになってしまう。


雨が降らないので畑の土はからからに乾いている。

それなのに雑草だけは繁茂しているので、水をやりながら草を刈ったり抜いたりしなければならない。

そして、草マルチにするための枯れ草を集めねばならない。

午前10時くらいになると、足がふらつくほど体力を消耗しているので、作業を打ち切っている。

本当はこまめに水分補給をしなければならないことはわかっている。

水を持ち歩くのが面倒なのだ。


家に戻ってずぶ濡れに濡れたアンダーシャツを脱いで、ほとんど水のシャワーを浴びる。

そして、水分補給をしっかりとするのだ。

昼食時までにおなかの中は水分で満たされて、食欲はあまりなくなっている。

そういうときに効果があるのはお手製の野菜シチューで、冷蔵後に冷やしたのを飲んでいる。

自家製のタマネギ、空豆を中心に、にんじんやニンニクを入れてソイリッチで作り置きしたものだ。

これを飲むと元気が出る。

夜に寝る前も、水分補給と言い訳しながら、焼酎のサワーを飲んでいる。


今朝(7/8)、雨はもう上がってしまっていたけど、待ちどうしかった雨が降ってかなり涼しい。

今日は水やりをしなくて済む。

昔の人が真剣に雨乞いをしたことがよくわかる。

作物だけでなく、雑草も元気づけてしまったけど、待ちに待った雨だ。

東京都心のように蚊がいなかったら、雨の中で空調服も脱いで濡れるに任せて濡れたいと思っただろう。

雨の歌は別れや悲しみを歌うことが多いが、雨上がりの夜明けは充電式草刈り機の音も軽快だ。

まさしく

 

  バッテリーはびんびんだぜ

  いつものようにキメて (草を)ブッ飛ばそうぜ


と草を刈りながら歌いたくなった。

2025年7月7日月曜日

神たる子ども

 私は日本本土や琉球でよく7歳までの子どもはカミという古来の信仰は、医療が発達して無くて死んでしまうことが多いからという理由で捉えていた。

確かにそう思っていないと、子どもの死を受け入れられないし、死んでもすぐに生まれ変わるということで気持ちが安らぐ。

死産児や生まれてまもなく死んだ子どもは、普通は葬式をしたり墓に入れたりしなかった。

奄美などは古くは家の軒下に埋めることによって、母胎にまた生まれ変わるとされた。


一方、貧しい親にとっては望まぬ子どもを間引くのに気休めとなっていたようだ。

自分たちと同じ人として殺してしまうことは、罪の意識を背負うことになる。

カミとしてあの世に帰ってもらうと思った方が気が楽になるだろう。

現代でも流産したりや堕胎が行われた時にも、水子の霊として別格に扱うのもそれに近いのだろうと思う。

ともかく、近代化される前は子どもは死と隣り合わせであったが故に、神霊的な存在と思われていたと解釈していた。


しかし、このごろ私はこの解釈で見過ごされていた意味を見いだしている。

子どもは親にとってもその祖父母や親族にとっても、生きがいとなる大切な存在である。

子どもを育てるために必死に働き、その成長で癒やされていく。

場合によって子どものためなら死んでも良いとさえ思う。

これはヒトだけでなく、多くの動物に共通する気持ちだろう。

育児は母親を中心に行われるが、ヒトは特に父親や祖父母、親戚だけでなく、地域の住民も関わっていく。

江戸時代では捨て子も必ず地域の住民が育てるものだった。

御利益を得るカミ様や崇拝する宗教の信仰心とは違って、自然に生まれてくる心情である。

それこそ、子どもは神様となぞられる理由でもあろう。


子どもがどうしてもできない夫婦でも、養子縁組をして子育てはできる。

子どもは老後の面倒を見てくれることを期待するよりも、子育てを通しての生きがいを目的としてできるものだ。

職場で知り合った人の中には、乳児院から引き取った子どもを養子として二人も育てている人がいる。

その人は夫婦に子どもができなかったことから、夫婦の共通の生きがいとして育てていると聞いた。

私の身内には子どもができなかったり、つくらない夫婦もいるが、子育てそのものに関心が薄くて仕事を生きがいにしてしまっている。

現代では金銭を得る仕事が子どもに代わる神様になっているのかもしれない。

なぜなら、金銭こそ欲望を満たしてくれるし、一番将来を保障してくれていると信じているからだ。

私は老いた世代で高級車に乗って羽振りのいい人を見ても羨ましいとは思わない。

本当に羨ましいと思うのは、軽自動車の助手席に可愛い孫を乗せて走っているおじいさんを見かけたときだ。

金銭を誇る人に魅力は感じないし、却って不安を感じる。

それは自然災害や戦争だけで無く、健康を害したり老いてしまったときに、金銭が単なる幻想だった気がつくことが分かっているからだ。

私の近しい人に、病気で入院したら個室に入るので倹約してお金を多く貯めた人がいるが、結局入院しても個室に入らず多額の貯金を残して亡くなった人がいる。

その多額の貯金はその人の面倒をほとんど見ず、自分は子育てもしなかった息子に渡ることとなってている。


少子化の問題は、子育ての親の負担の問題として解決しようとしている。

しかし、金銭を得る仕事を絶対的な神様のように信仰している人にとって、子どもはたいした価値も無いだろう。

国家は学校教育や政策によってそういう人材をも多く育成してきた。

そして、現代の文明や文化が讃えてきたのは偉業をなした英雄であり、貧しくても子育てを懸命に行ってきた人ではない。

人類の幸福を生むとした開発や発展が却って環境を破壊し、子どもの未来を奪ってきている。

今の時代こそ子どもは我々に必要な神様として、その存在に関わる環境問題にも取り組まねばならないと思う。

狂った政治屋が世界を軍事力や経済力で支配しようとする今こそ、子どもの未来を中心に据えねばならないと思う。

宗教やイデオロギーを超えて、必要とされる生きとし生けるものの姿勢だと思う。




2025年7月4日金曜日

母に捧げるレクリエム

 早いもので母が亡くなってから2年が経とうとしている。

昨年の一周忌は午後から赤穂のお寺での法要の後で、海岸近くの赤穂ハイツで会食を行った。

集まったのは子ども家族と一人の母の甥だけだった。

孫のお嫁さんが出産間近だったのでひ孫はひとりだけ来られなかったが、子ども夫婦や孫、ひ孫まで賑やかな会食となった。

今年の三回忌は午前中に同じ寺で法要をして、午後から去年と同じところで会食をすることになっていた。

本当は、会食しているときにカラオケがしたかった。

三回忌の法事にカラオケとは不謹慎に思うかもしれないが、母は歌が大好きで子どもの頃は歌手になるのを夢見ていた。

盆や正月になって子どもの家族が集まってくると、カラオケに行ってみんなで楽しむのが恒例だった。

今回の三回忌が終わると、次の七回忌まで今回のメンバーで集まることは無いだろう、そして次に集まるときには全員そろうことはまず無いと思った。

今回も大阪万博があったから、その観覧をかねて遠く東京から孫家族が来てくれた。

母の子ども夫婦と孫、ひ孫が全員集まることができる最後のチャンスと思ったので、母が好きだった歌をみんなで歌って偲ぼうと思った。

ただ、幼いひ孫の一人が大きな音が苦手だという理由で当初は無理だと言われたのだが、次男が母に対する思いを汲んでくれて賛成してくれた。

次男は遠く神奈川県の葉山から自家用車でドライブ旅行をかねて2泊3日でいつもやって来る。

当日は、早く帰らねばならないので会食後すぐに別の部屋を設定してもらうことに決めていた。


どこか部屋の一室を貸してもらえるのかと思ったら、海が一望できる展望ラウンジを使うことになった。

非常に眺めが良いのだが、他のお客さんは自由に入ることができるので、関係者以外に聴かせることにもなった。

私の家族は仕事があったり、カラオケが苦手だったりしたので、私以外は会食後には帰ってしまった。

大きな音が苦手なひ孫と両親は参加するのを危ぶまれていたが、ラウンジが広かったので距離が保たれて参加できた。

葉山まで帰る次男の弟が先鞭をつけた。

曲は西城秀樹の「ブルースカイブルー」だった。


  青空よ 心を伝えてよ
  悲しみは余りにも大きい
  青空よ 遠い人に伝えて
  さよならと

三回忌に相応しい歌を歌ってくれた。
おそらく、弟がこの曲を歌うのを初めて聴いたので、母の法事のために選んで練習していたのだろうと思う。
次に私はYou Raise me upの歌を母への感謝の意味を込めて歌った。

 I am strong   When I am on your shoulders You raise me up to more than I can be
  貴方の肩に身を預け 私は強くなれる   今以上の私に貴方が私を高めてくれる

あの世にいる母がこれからもきっと私に力を貸してくれると信じて歌った。


幼いひ孫たちが歌える歌をその母親(私の姪)が、エントリーしてくれた。
なつかしい「かもめの水兵さん」だった。
海が見えるラウンジなのでぴったりの歌で、幼くておしゃめなひ孫のかわいい声を聴くことができた。
大人の懐かしい歌と、子どもの童謡をまじえながらのカラオケは楽しいものとなった。
何よりも感動したのは、一番末の弟の若い娘のすばらしい声を聴くことができたことだ。

私にとって姪になるそのKちゃんは、どちらかというとおとなしくて、人とうまく関わることが苦手な子だった。
今は、神戸の方で一人暮らしをしながら、障害を持った児童の施設に勤務している。
その弟家族は両親の近くに住んでいたので、私の父母との関わりも深かった。
特に父はKちゃんをかわいがり、畑からの帰りに作物を届けることを理由にしてよく立ち寄っていたという。
彼女は最初、歌うのを嫌がって冗談半分で「なんぼくれる」と言って断ろうとしたので、「千円やるから、歌って」と私が追い込んだ。
そこで、彼女は一番得意なSuperflyの「愛をこめて花束」を熱唱してくれた。
私は感激のあまり、彼女に握手を求めた。
そして、本人は断りはしたが約束通り千円手渡した。
1万円あげても良いような歌だった。
今回の法事で私にとって一番の収穫は、彼女の歌を初めて聴くことができたことだと思った。

もう二度と、こんな風にみんなと一緒に歌う機会はないかもしれない。
亡き母が法事として与えてくれた素晴らしい時間を過ごすことができた。
できたら、Kちゃんの結婚に際してこういう機会ができたらとも思う。
本当は、私の娘の時もこういう場を設けたかったのだが、コロナの余波でできなかった。
母はひ孫の誕生を心待ちにしていたが、やはりコロナの影響で実際に会うことはできなかった。
私ら夫婦や末の弟夫婦以外は、認知症を患って尊厳を失ってしまった母を知らないから、元気で歌っていた頃を思い出してくれただろう。
私は幼い子どもが帰って行っていなくなってから、残った兄弟らと母を偲んで「愛燦々」を歌ったのだが、なぜか涙が止まらなかった。
きっと、私を通して母が喜びの涙を流していたのだろうと思う。





 









2025年7月2日水曜日

生きられない、お葬式

親戚の葬式に今年は早くも4回参列した。

いとこ、二人のオバ、義母である。

その中で、葬式の場に未成年の子どもがいたのは、一人の父方の叔母だけだった。

これまでは自分の両親や親戚の葬式には必ず子どもがいたのだが、このところ子どものいない葬式が続いている。

これも少子高齢化の影響だと言えばそれまでなのだが、これでは典礼会館CMのコピーである「生きる、お葬式」にはならない。

お葬式の対象となる死者同様に、参列者に死に行く未来の不安を吹き飛ばす子どもがいないからである。

形式だけが先行している今の葬式は、呪文のような読経を長時間我慢して聞くこと、そうして焼香して挨拶する儀式となっている。

そして何万円もした供花を一緒に灰になってもらうために、惜しげも無くお棺に入れてあげるのが唯一心を込める手段となっている。


家で葬式を行っていた頃は、通夜の段階で近所の人が手伝いに来てくれて、すべてまかないをやってくれていた。

それが仕出し弁当に変わり、そして葬儀場ですべてまかなわれることになった。

それによって、確かに近所の人も家族や親戚の負担も軽減されるが、人の死そのものが軽んじられるようになったようにも思う。

かつての葬式は、亡くなった人に対してだけでなく、残された遺族に対しての思いやりの場で有った。

長生きは良いことなのだが、喪主や子どもは現役でなくなったり、再雇用の身分であったりしている。

この場合は職場に対して遠慮が生まれて、現役の遺族は家族葬でするのが当たり前になる。

亡くなった人が高齢で一人暮らしだった場合も、近隣の関係が薄れてやはり家族葬となる。

職場や近隣と切り離されて、ごく親しい関係の人だけの寂しい葬式になることが多くなった。


家族の方も、故人が長生きして周りの家族に負担をかけ続けていた場合は、正直なところ肩の荷が下りてホットすることもある。

親の介護に関われなかった喪主は、その負担をかけた身内に葬式で詫びねばならないこともある。

以前なら長寿を全うして、紅白饅頭を配るところさえあった。

90歳くらい以上の長寿で亡くなった人に対しての敬意さえ薄れてしまった。

かつて元気だった頃の故人の記憶が薄れてしまい、亡くなる前の介護が困難だった頃の記憶だけが強調されてしまう。

長生きして手厚い介護を受けることは、かつて元気で近親者に尽くしていたことに対する感謝の気持ちさえ奪われてしまうことにもなっている。


ただ、葬式や法事に幼い子どもや孫が参列していると、葬式は別の意味を持ってくる。

命が受け継がれたことが実感でき、泣いたり騒いだりしている声の方が、読経の声よりもありがたく感じるのだ。

私の父母の葬式や法事にはいつも幼い子どもが加わっていたので、命が繋がった確認ができ、まさしく「生きる、お葬式」が実感できた。

ところが、そういう幼い子どもがいない場合は、いくら若い青年がいてもそれがあまり実感できるものではない。

私だけかもしれないが、亡くなった故人の魂がこういう幼い子どもなかで息づいていくように感じるからかもしれない。

本当に哀しい葬式とは幼い子どもの参列者がいない「生きられない、お葬式」であるように思える。