ラジオから、合唱で「涙そうそう」が流れてきた。
普段、夏川りみやビギンが歌うのを聴いても、思い出すことはあまりない。
しかし、合唱は悲しい記憶を甦らせてしまう。
それは、娘が小学6年生の時に、仲良くしていた友達が病気で亡くなったことである。
しばらくの闘病生活の後、あっけ亡くなくなってしまった。
その女子児童のために、小学校の卒業式で卒業生みんなで先生に頼んで歌ったのは「涙そうそう」だった。
私は運動会以外は、小学校にあまり行かなかった。
参加したご両親は遺影を抱きながら、じっと聴いておられた。
そして、その姿を見、歌を聴きながら涙がとめどなく流れ、写真に残すどころではなくなってしまった。
幼くして子供が亡くなることが、どんなに哀しいことかを知った。
そして、何よりも同じ子をもつ親として、子を亡くした親の気持ちが痛いほど伝わってきた。
ただ、子育てが終わり、娘も自立して生活している今は、娘に対しての思いは違ってきた。
過去の楽しかった思い出と、今の娘を結びつけてしまうのは、親の勝手な思い入れだと思うようになった。
自分もそうだったように、子供は成長して、別の人格を身につけていく。
親を頼り、一緒に過ごした子供とはもう違うのである。
過去の「子供」はもうそこにいない。
身体としては死んではいないけれど、人格は生まれ変わっているのである。
子供を亡くした親は、過去の体と心だけを思い出にして生きていかねばならない。
このことは、過去の子供の思い出に浸ってしまったとしたら、私たちのような子供が成長した親も同じである。
そう言いながら、時々子供の昔のビデオを私は観ているので、過去にすがって生きている部分もある。
そういう時には、自分が親から離れて自立していった時の気持ちを、あえて思い出そうと思っている。
子供を子供として失うのが早いかどうかはあるけれど、親も新しい人格を築かなくてはならないのかなと思っている。
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