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2026年8月16日日曜日

若き戦死者の親の悲しみ

 先日夜に、テレビを何気なく見ていたら戦死した特攻隊員の妹さんのことが特集されていた。

強く訴えたかったのは戦死した哀しみだけで無く、その攻撃で戦死したアメリカ軍兵士に対する侘びる気持ちであった。

戦争は死を覚悟した殺し合いと言ってしまえばおしまいなのだが、兵士の家族の哀しみは割り切れるものではない。

今回の番組で特に心に残ったのは、母親が息子を少年兵として送り出した後悔であった。

お兄さんが少年兵として予科練に入隊するのに父親は強く反対したが母親は賛成してくれたので入ることができた。

ところが、特攻隊員となって戦死してしまった後は、母親は食事がまともにとれないくらい心が傷ついてしまい、翌年亡くなってしまったということだった。

自分の息子が強く熱望したことに後押ししたことが、結果的に死に追いやってしまったことの母親として耐えがたい苦しみだったのだと思う。


それを思うと海軍に志願して若くして戦死した伯父のことが気にかかった。

それで、伯父の軍人墓に刻まれている墓碑銘を墓参りした時にスマホで写して文章を読んでみた。

「昭和十八年十八才ニテ海軍機関兵に志願ス 同年四月二十二日 大竹海兵團に入團 同年十月 山彦丸ニ乗船太平洋戦争ニ参加 昭和十九年一月十二日 本州南方方面ニ於テ戦死」

とあった。

大竹海兵団とは広島県大竹市にあったは主に新兵に基礎教育をする機関で、大竹海兵団に入団したのは、延べ約15万4千人といわれている。*1

そして山彦丸は太平洋戦争時に日本海軍の特設工作艦となりました。南方へ伸びて多くの損傷艦船の応急修理にあたりましたが、1944年1月に米潜水艦の攻撃により八丈島沖で沈没しました(AI Overview)

山彦丸は昭和十九年一月二日に小笠原付近で機関室に被雷し、航行不能で八丈島まで曳航されたが、一月十三日に後半部が沈没し十四日に完全に沈没している*2。

伯父の戦死は十二日となっているので、最初の魚雷攻撃で亡くなったことになる。

その時伯父の母親は36歳、父親は43歳だった。


伯父が海軍に志願した理由については「家業より軍隊を選び戦死した伯父と祖父」で私にとって祖父である父親への反発であることは書いた。

伯父が戦死した当時は私の父は十三歳だったので、どれだけ伯父と深い話ができていたか分からない。

私は当時の戦意高揚の風潮から伯父の海軍への憧れもあったように思う。

十六才から父親と稼業であった運搬船に乗って仕事をしていたが、当時の船は機帆船で小さなもので石材を運んでいた。

父親との厳しくて地味な仕事よりも名誉と誇りが持てる海軍に入隊したかったようにも思える。

伯父が任務についた山彦丸は総トン数が6、800t程の損傷艦船の修理を担っていたが、艦砲や機関銃も装備されていた。

父親と一緒に100tにも満たない機帆船で働くのとは雲泥の差の勤務で、使命感と誇りを感じていただろうと思う。


戦死した伯父のことは盆や正月に親戚が集まっても語られることは無かったので、どんな思いで任務に当たっていたかを知ることはできなかった。

私も祖父母には伯父のことをあえて聞くことは無かった。

ただ、伯父が戦死した当時はまだ六才だった五男の叔父が、長男である戦死した伯父を非常に慕っていたことは叔父本人から聞いていた。

そして、その五男の叔父は自分の長男に戦死した伯父と同じ名前をつけた。

同じ名前をもらったいとこも叔父からそのことは聞かされていたと聞いていた。

だから戦死した伯父は甥っ子の名前として甦って、記憶され続けていることになる。

その点で言えば戦死した母方の祖父の名前を継いだ者はいなくて、孫の殆どは記憶していなかったと思う。


実は伯父が戦死してその石原家で初めて生まれ育った男子は私だった。

今考えれば祖母が私のことを非常に可愛がってくれたのがよく分かる。

祖母の口からは聞いたことは無かったが、戦死した息子を重ねてみていたのだろうと思う。

確かに同じ名前の孫もいたが、一番祖母と関わりが多かったのは私だった。

祖母は私が大学や大学院で金銭面で苦労していることを知っていて、ことあるごとに1万円を母に託してくれた。

そして、私の結婚式にも無理して出席してくれた。

祖母の葬式にはなんの恩返しもできなかったと、三十才過ぎの私は人目もはばからず泣いてしまった。


祖母はあまり感情を孫の前では表さなかったが、子供の戦死や事故死、病死などで3人も失っていた。

祖父は昔ながらの頑固一徹だったので祖母は苦労したこともあり、やはり母方の祖母と同じように信仰に救いを求めていた。

精神的に不安定な時期もあったようだが、晩年は多くの子や孫に囲まれて平穏な日々を過ごすことができた。

テレビで特集された特攻隊員の母親のように戦死の原因を負わなかったことも救いだったのだろうと思う。

一方で、祖父は子供から戦死の原因とされて辛かっただろうと思うが、最期まで泣き言や恨み言を言う人では無かった。

ただ、盆や正月で自分の子や孫と一緒に飲食をして楽しむことが無かったのも、伯父の戦死も原因の一つだったのかもしれない。

ただ、私には普通のおじいさんで、盆正月以外は飲食も一緒にして普通に話をしていた。




*1 大竹海兵団と海軍潜水学校の歩みhttps://www.city.otake.hiroshima.jp/soshiki/kyoikuiinkai/shogai/rekishibunkazai/1453512491368.html

*2 山彦丸の船歴  https://tokusetsukansen.jpn.org/J/03_TKS/330_002.htm

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