1845年から1849年にかけてのアイルランドの大飢饉は総死者数100万人で人口の20%以上を喪失したと言われている。
教科書的にはジャガイモが疫病で不作となったのが原因としか知られていないが、なぜジャガイモにそこまで頼ったかの原因こそ重要だ。
それは農地が細分化されてしまっていたので、零細農家がジャガイモに頼らざる得なかったからだ。
その原因は不在地主を優遇した政策にあったのであり、根本的な飢饉の原因は英国政府にある。
播磨の西外れにある私の生まれ育った赤穂や、今暮らしている上郡に関すること、農作業,山野河海の恵み、趣味の水泳、音楽、専門である有機農業や、教育、文化人類学、民俗学に関することなどを、きままに記してみます。
1845年から1849年にかけてのアイルランドの大飢饉は総死者数100万人で人口の20%以上を喪失したと言われている。
教科書的にはジャガイモが疫病で不作となったのが原因としか知られていないが、なぜジャガイモにそこまで頼ったかの原因こそ重要だ。
それは農地が細分化されてしまっていたので、零細農家がジャガイモに頼らざる得なかったからだ。
その原因は不在地主を優遇した政策にあったのであり、根本的な飢饉の原因は英国政府にある。
このところ日本の大学の最高峰の東大教授の不祥事が大きくマスコミを賑わしている。
高額の接待もさることながら、性風俗施設での接待が関心を煽っている。
学者が聖人君子で無ければならないとは言わないけれど、表に出てはまずいことはあくまでプライベートで行うべきだったはずだ。
上が上なら下も下で、このところ小中学校の教師の猥褻行為が大きく報じられてもいる。
高校に関しても、私は勤務していた学校で、男子生徒に対する男性教師の猥褻行為で懲戒免職になった例を身近に見ている。
我々が教師に成り立ての頃は、組合活動も活発で「教職は聖職では無い」と労働者としての権利を獲得しようと認められていない活動をする教師もいた。
私が務めていたとある高校の労組の長は、選挙中に選挙カーに乗って応援したことを自慢していた。
教職員は待遇面での権利を獲得して行った一方で、人事面での作為で組合組織は弱体していき、管理体制が厳しくなって行った。
大学の教員並みに認められていた自宅研修が認められなくなり、高校社会科は地理歴史と公民に分けて弱体化が図られた。
私学でも予備校と変わらない受験指導中心の学校が伸びていき、自由で自ら学んでいこうという学校は受験結果を出せずに人気が落ちていった。
そのきっかけは我々から経験した大学共通一次試験だったと思う。
共通一次やその後のセンター試験は、自分で考える力よりも出題者の意図をくみ取るテクニックが重要だった。
あの頃から、私学にしても偏差値でランクづけられた大学への受験テクニック勉強が中心となった。
一番問題となるのは、大学に入ってからも自ら学ぼうという姿勢が生まれないことだと思う。
大学の教員をしている大学ゼミの同級生から、今の学生は本を買って読むことは無いと聞かされた。
手短にネットで調べられるし、近年では生成AIでレポートの簡単に作成できるからだ。
私も高校までは大して社会問題や政治に関わる本を読むことは無かったけど、大学に入ってから大学の先輩や先生から刺激を受けて読み始めた。
テレビや新聞も下宿には無かったので、社会問題や時事が掲載されている雑誌を買って読んだり、本は大学図書館で借りたり本屋などで買った。
学生時代は金が無かったので、当時はしっかりした古本屋が大学近くにもあって専門書などはそこで安く手に入れた。
そして何よりも、大学の同じ学科の先生とは飲む機会が非常に多くて、飲んだ折りに知識を得たり徹底的に議論で打ちのめされていた。
何よりも、自らしっかりと学び考える姿勢を身につけさせられた。
それは、型どおりの講義やゼミでは得られない貴重な経験だった。
その大学の先生が学生とではなくて、企業の社員と飲んだりソープランドに行くことに熱心だったとしたらどうだろか?
その同級生の大学の先生から、今中国からの優秀な留学生が大学院に多く来るようになったと聞かされた。
アメリカのトランプ大統領の影響で、アメリカの名門大学に行くような学生が日本に来るようになったという。
アメリカの先端企業はアジアの留学生からの優秀な人材で発展してきたのだから、これからはその分野での凋落も考えられるだろう。
そして、それは今後の日本は留学してきた中国人が支えてくれるのかもしれない。
受験勉強の競争を煽るだけで、心身ともの成長を支援せず自殺に追い込んだりし、大学生になってからも就職活動に役立つことしか学ばない学生を作るだけの日本。
ブラックとなった職業に魅力が無くなり優秀な人材を確保できない小・中・高校。
人材を育てることよりも、欲望に走る教員が幅をきかせる大学。
そんな日本に未来はあるのだろうか?
あれほどまで米問題が騒がれたのに、今行われている衆議院選挙の演説では米問題がテーマになっていない。
食品の消費税を無くしても、肝心の食品が値上がってしまえば安くはならないのに・・・
うちは近所の米農家から玄米30kgを去年は9000円で分けてもらっていたのだが、今年は13000円に値上がりとなった。
先日備蓄米を5kgを2000円ほどで買ったので、近所の玄米は白米の備蓄米よりも高額になったということだ。
その農家へは村作業の用水路の溝掃除や、道作りなどで協力しても、その値段でしか売ってもらえないのだ。
米の暴落が云々されているが、高市政権となればJAを守るだろうからそれは無いだろう。
米が高止まりの状態で米離れが進み、来年度から米農家への減反が奨励されるだろう。
そうなると却って将来の食糧問題への対策は遅れてしまうだろう。
アメリカの食料生産は大分前から、いずれ輸出できなくなるだろうと言われてきている。
一番大きな問題は地下水の枯渇だが、人口も増え続けているのでそんなに長く輸出は続けられないだろうと言われている。
むしろ、ロシアの方が温暖化の影響で食料生産を増やしているようだ。
アメリカが食料で当てにならなくなったら、ロシアに頼るしかないだろう。
世界情勢がめまぐるしく変化しているのに、日本は旧来の権益を守ることに終始している。
前政権では新しい米生産のビジョンを示したのに、高市政権では元に戻してしまった。
企業献金問題からも分かるし、統一協会問題からも分かるように、自民党はそういう組織からの支援で成り立っているので、思い切った改革ができないのだ。
今回の選挙は高市総理の泣き落としで、自民が単独で過半数をとると予測されている。
この政権のままではおそらく中国との関係は改善できず、暴走するアメリカへの従属を強化していくだろう。
エマニュエル・トッドはアメリカの白人の学力が崩壊することと関連して次のように述べている。
一方で日本、韓国、中国、ベトナムからの(アメリカへの)移民の子どもたちは、一世代から二世代の間、こうした学力崩壊から守られてきた。それは権威主義的な家族構造によるだけでなく、教育を神聖視する儒教の伝統に負うところか大きいが、この伝統はそれ自体が「家族継承」に根づいている。イギリスやフランスでも同様の現象か見られる。
我々東アジアの教育の底流には儒教があり、教師の地位は高く維持されてきた。
アメリカに親密な関係を築いた安倍元総理が教師の誇りを踏みにじる教員免許更新制などから学校のブラック化を招いて崩壊に瀕している。
高校生などの自殺が増えているのも、今まで学校に依存していた家庭や生徒に応えるだけの余力を教師が失ってしまったからかもしれない。
そして、もっと深刻なのは受験テクニックだけ得意で歴史や政治に興味が無かった生徒たちが有権者となり、簡単に政治家の煽動に乗せられてしまうことだ。
アメリカの白人と似た学力の崩壊ともいえるかもしれない。
この同情選挙で高市氏が率いる自民党が大勝することになるかもしれない。
そのことで、安易に軍事力にものを言わせて利益をむさぼるアメリカに追随することで、日本はアメリカ以上に崩壊していくだろう。
すでにヨーロッパは親中外交に舵を切っているというのに、アメリカの犠牲になるつもりなのだろうか?
今の日本はかつて鄧小平が目指した「韜光養晦」を日本なりに見習うべき状況にあると思う。
平和的な国際環境を確保して、実質経済を立て直し、心豊かな暮らしを再建するときなのだと思う。
身を滅ぼしかねないホストやホステスに貢ぐ男女のように、今の有権者は高市総理の甘い魅力?に狂ってしまったのかもしれない・・・・・
*1 エマニュエル・トッド 大野 舞訳 2024 『西洋の敗北―日本と世界に何が起きるのか』 文藝春秋 312-313
先日来、コウノトリが昨年子育てをした巣作り用の鉄塔に、つがいで停まるのを見かけるようになった。
寒い間は一緒にいたり、離れていたりして餌を探しているのを見かけていた。
時にはしばらく見かけなくて、少し離れた餌場に出かけているようだった。
上郡の高田地区の貯水池は多くが水を落としていて、餌が探しやすくなっている。
そこでは他の鳥に混じって餌をついばんでいるのをよく見かけていた。
千種川でも上郡より下流の有年のあたりには、広い中州があるので、そこでも見かけることがあった。
ところが、上流では鷺はよく見かけるのに、コウノトリを見かけることはまず無い。
コウノトリは鷺が捕ることができる、すばしこい小魚が捕れないのだろうと思う。
その代わり、大きなネズミや地中で冬眠中の蛇や蛙なども捕って食べることができるのだ。
このところ、カラスの大群を見かけるようになったのだが、意外と大量に残された柿には群がっていない。
残された柿を毎日食べているのは、群れを作るワタリガラスではなくて、地元に居着いたカラスだ。
例年ならほとんど食べ尽くされていてもおかしくないのに、黒く熟してぶら下がっている。
その見捨てられた熟し柿を、毎朝散歩の折りに愚犬クロに与えているのだが、場所によっては木の下に多く落ちていて、木の枝から捕ってやる必要が無い。
今年はカラスだけでなく、落ちた柿を食べる狢なども飽きてしまっているのかもしれない。
私は堆肥を作るのに干し草を積んでいるのだが、その上に捨てておいた卵の殻が食べられていて糞もしてあった。
狢たちも栄養のバランスをとっているのだろう。
この冬は例年よりも温度が下がり、上郡では-8℃を経験した。
ところが、どういうわけかクロはかなめの木の下に、毛布を敷いてそこで眠っている。
風の強いときは、自分の小屋に毛布を引きずり込んで眠るのだが、寒い朝にはかなめの下で眠っているのを朝に新聞を取りに出る時に見かけている。
プラスティックでできている犬小屋の中よりも、木の下の方が心地よいのだろうと思う。
そう言えば弟はスウェーデンの木造建築方法を取り入れた暖かい家を建てて住んでいた。
生きている木には凍結を防ぐ自らの力だけで無く、周りにも温もりを与えてくれる力があるのかもしれない。
寒い中でも、こうしてコウノトリが巣作りを始めたり、小鳥たちが元気に飛び回っているのを見ると春を感じる。
また、毎年自然に生えてくれる菜花も花を咲かせてくれるようになった。
体感的にはまだまだ寒いし、テレビニュースなどでは、連日雪情報やアメリカの大寒波が報じられている。
そんな映像を見ているより、氷点下で少々寒くてもぬくい格好で散歩すれば心が温まる。
例年は2月の初めの日曜日に畦焼きを村の人が集まって行うのだが、今年は消防署などからの通達で中止になってしまった。
春を招く畦焼きはあたりを一度真っ黒にして、それも肥料になって新しい芽を育む。
それができない今年はどんな春を迎えるのか、少々不安ではある。
今私が座っている椅子は、1984年にリサイクルショップで買った黒椅子だ。
脚はスチールで座面と背もたれが一体化した簡単なつくりの物で、価格は忘れたが安かった。
なぜ買った年を憶えているかというと、大学院修士の二年目で新宿区の西落合に引っ越しして部屋が一つ増えたので、机と椅子を買ったからだ。
引っ越した理由は今まで二年ものあいだ、遠く離れて暮らしていた恋人と一緒に住むためだった。
そのアパートは二間になったけど、その一つの部屋は机と椅子をおけばいっぱいになった。
そして便所はあったけど風呂は付いていなかったので、近くの銭湯に行かねばならなかった。
二人は入籍したが甘い新婚生活にはほど遠く、当時流行っていた歌でたとえると、「花嫁」で一緒になって「神田川」の暮らしを始めたようなものだった。
ただ、翌年は働いていた妻のことを考えて、横浜の長津田で見つけた安い家賃の風呂付きアパートに引っ越した。
この椅子はずっと自分の研究には欠かせないものとなった。
特に修士論文を書いていたときには何日間も徹夜になって、一日中この椅子に座ったまま過ごした。
しかし、1年長く3年在籍して書いた論文は完成には不十分で、もう一年するように教官から慰留されたが、博士への進学を自ら断念した。
そして、駆け落ちまでして一緒になって私を支えてくれた伴侶も去って行った。
恋人時代を含めて6年間のふたりの愛は終わりとなってしまった。
それでも、私は教師になってもう一度一緒にやり直せないかと、生まれ故郷に帰ることにした。
その時に辛い想い出となる机を含めて家財道具は全て処分した。
だけど、研究において私を支え続け、私の身体に一番馴染んでいたこの残された黒椅子だけは捨てられなかった。
実家に戻って初めて教員採用試験を受ける勉強も受験日まで期間が短かったのでこの椅子に座って必死に取り組んだ。
当時は公務員人気が高く、教員になるのもかなり難しかった。
また、受験後に臨時で勤めた中学校や高校の授業のための教材研究も行っていた。
何とか補欠合格して4月には採用が決定されて、連絡を取ったが去って行った伴侶は戻ってくることは無かった。
私を立ち直らせようとする母に勧められるまま見合いをして再婚した。
その時に職場の友人からお祝いに何が良いかと問われて机と答えると、立派な木製の机と椅子を贈ってくれた。
この黒椅子は実家に残したまま、新しい机と椅子を伴って借家での本当の新婚生活が始まった。
しばらくは新しい机と椅子で教師の仕事の準備ややり残した研究を続けていた。
だけど、新しい椅子は身体にも合わないし、高さを調節するネジが緩んで効かなくなった。
しばらく座布団を重ねたりして我慢したが、実家に置いてある黒椅子を使うことにした。
その時は単に必要に迫られて使い始めただけで、そんなに愛着があったわけでは無かった。
家も新築して引っ越ししたのだが、やはり黒椅子も一緒だった。
新しく買ったテーブルの椅子も使ってはみたけど、やはり黒椅子にはかなわなかった。
勤めている学校の職員室などの机には座り心地の良い椅子もあったのだが、家でも買って使おうとは思わなかった。
身体に合った黒椅子があるのに、高いお金を払って買う必要が無かったからだ。
そして、研究したことも本にまとめて出版することもできた。
退職して年金も入り始めたので、金銭的な余裕も出来た。
研究する時間が多く取れ始めたので、立位でのパソコン操作をするために新しい可動式の椅子も買った。
しかし、結局落ち着いて仕事ができるのは黒椅子で今も使っている。
そろそろ耐久性も限界だと思うので新しい椅子をネットで探してはいる。
40年以上も重い私の身体を支え続けてきたので、休ませてやるべきかなとも思う。
ただ、結婚式で職場の友人からお祝いにもらった机同様、苦楽をともにしてきたこの黒椅子を死ぬまで捨てるつもりは無い。
私の身体の一部となって、切り離されなくなっているからだ。
この数日、強烈な寒波のせいで、上郡は最低気温がー6℃くらいになっている。
毎朝の愚犬クロとの散歩はこのところ氷点下の中で行われていて、防寒の服装で寒さは防げるのだが、露出している顔が寒風で痛い。
立派な毛皮に覆われているクロは寒さなど平気で、庭で寝ているときも下に毛布を敷いて、小屋の外で寝ていたりしている。
猛暑の夏は散歩では元気がなかったが、今は元気に走り出すことさえある。
私は寒さの中の散歩は苦行のようなもので、楽しむような余裕などない。
昨日(1/21)は地元上郡のプールは寒いことが分かっていたので、隣の相生のプールに行った。
上郡のプールは年券を買って安く泳いでいるのだが、こちらは10回5000円の回数券で負担は多いが室温も水温も高いのでこうい日にはうってつけなのだ。
本当は水泳の練習としては熱すぎるのだが、寒さに震えながら泳ぐよりはずいぶんましなのだ。
午後のすいている2時過ぎにプールに入ると、ずいぶん賑やかである。
地元相生のミッション系私立幼稚園の園児たちが楽しんでいる。
その横のプールサイドでは外国人のシスターが白い修道服を着て立っている。
暖かいプールの中で元気いっぱいに遊んでいるのだ。
私もプールに入るなり、「暖か~」と叫んでしまった。
というのも、いつも一緒に練習するマスターズ選手がいたからだ。
彼は自分はパドル練習は終わったからと言って、フィン、パドルが使用可能な練習コースの標識を一般コースのと交換してくれた。
外が寒かったので、本当に温泉に入った心地になったまま泳ぎ始めた。
高い温度で練習するのは最初は身体には負担を感じてしんどいのだが、そのうち温度にも慣れて楽になってきた。
さすがに高齢のご老人の数はいつもよりずいぶん少ない。
たぶん、プールに入るまでと出てからの寒さを考えて控えているのだと思う。
大勢の園児たちも泳ぐのが終わって、プールサイドでプールフロアーといわれる水深を浅くするためのベンチを横にして目隠しにして着替えている。
更衣室で着替えさせるには男女を別にしなければならないので、引率の先生だけでは手が足らないのだろうと思う。
そのうちに男の子が真っ裸で出てきたが、どうもトイレに行きたかったようだ。
その賑やかな園児たちが去って行くと、代わりにスクールの生徒たちが入ってきた。
練習コース・一般コース・歩行コースもそれぞれ一人使用している程度だったが、そのうちに私一人になってしまった。
それも午後3時を越えると、中学生らしき男子も入ってきて賑やかに楽しんでいる。
中年の本格的な練習をしそうな人も入ってきたので、私は練習を終えて上がりコースをその人に譲った。
学校では冬場は耐寒マラソンというのが一般的だ。
私も中学・高校の時には風に雪が舞う中を上半身裸で毎日中間体操と称して、運動場を走らされていたのを思い出す。
それはそれで風邪に負けない身体作りとしては悪くはないと思う。
ただ、自由に遊びたい園児や、走らされるのが嫌いな児童生徒には冬場でも温水プールで楽しみながら身体を動かせてやって欲しいと思う。
私は知的障害の特別支援学校をトータル7年間務めたが、走るのを嫌がる肥満傾向の児童生徒を無理矢理走らせることにやましさも感じていた。
本当は楽しく身体をいっぱい動かせるのが良いのに決まっている。
私立の幼稚園ではそれもあって冬場でも温水プールにこさせているんだと自分なりに解釈した。
その一方、私の自宅近辺では冬場のこういう寒い日は家にこもって、ひたすらテレビを見ている人が少なからずいる。
そういう人は春になるとまるまると太って姿を見せるようになる。
そういう人には温水プールを温泉と思って、泳げない人でも歩いたら健康に良いし、幸せを感じると思うのだが・・・・・・
高市総理が解散を公表して以来、選挙争点は消費税問題に終始している。
マスコミもその話題を中心に報道している。
それ以外では、総理の解散権乱用問題である。
しかし、大きな問題となっている台湾有事問題に関しては、与野党両党とも言及していない、マスコミも取り上げてこなかった。
与党にとっては外交において大変重要な課題であるが、はっきり明言してしまうと中国からの新たなる制裁を招く可能性を危惧するのだろう。
野党としては、高市総理いじめになるので、可愛そう選挙にしてしまってますます高市総理に有利になると見ていると思う。
しかし、立憲民主党と公明党の新党結成は、戦争への危機感から成立したように思うのだが、中国よりと見られることにも警戒しているようにも思える。
肝心のマスコミも、似たような思惑で台湾有事問題を取り上げてこなかったが、やっと弁護士の八代英輝氏が20日、TBS系「ひるおび」で、
「高市さんになって劇的に変わったのは日中関係だと思う。日中関係について、高市さんの対応であったり、スタンスを支持するのかどうかというのは、この選挙の一つの裏テーマとしては大きいと思う」と訴えた。(八代英輝氏 解散総選挙の裏テーマに言及「高市さんになって劇的に変わったのは…」)
という発言がなされた。
彼の指摘はまさしくその通りで、世界情勢を見ていると、トランプ大統領の世界秩序を崩壊させる言動に、大きく変化しようとしている。
中国やロシアはその動きを冷ややかに見ているのだろうと思う。
トランプが中国とロシアと同じように独裁的な軍事国家になろうとしているのを、中国・ロシアは脅威と感じる一方で、西側陣営の分裂のチャンスと思っているだろう。
このような世界情勢で、台湾有事問題はまさしくアメリカと親密に動くか、距離を保つかの重大な岐路に立たされているはずだ。
この選挙に隠された日本の存亡に関わる非常に重大な問題なのだ。
このところの選挙は兵庫県知事選挙といい、前橋市長選挙といい、善悪や倫理に基づくものではなく、同情という感情が選挙の勝敗を分けている。
おそらく、この流れで行くと高市総理への感情移入から大勝する可能性がある。
高市総理も、議院内閣制の根幹に関わるのに、総理大臣の間接選挙という主張を行なっているのだ。
歴史的に見ても感情は時代を動かしてきている。
今行われているウクライナ戦争が続いているのも、両国民の感情に寄るところが大きいだろう。
国政選挙においても、以前に大平首相が選挙中に亡くなって同情票が集まって自民党は大勝した。
われわれ国民は感情に流されずに、今後の日本の運命を変えることになるかもしれない今回の衆議院選挙に立ち向かわねばならないと思う。
可愛そう選挙ではなく、世界の中で日本がどう進んでいくかを、国民が判断する重大な選挙なのだと思う。
高市総理は軍事的に普通の国になると言っているが、いままで普通と思われていた国民国家が消滅しているのが欧米なのだ。*1
*1 エマニュエル・トッド 大野 舞訳 2024 『西洋の敗北―日本と世界に何が起きるのか』 文藝春秋 p34
私はまだ完全ではないが、自然農法を行なっている。
自然農法は草マルチが基本で、畑をできる限り耕さないのだが、畝はしっかりと高くしている。
自然農法を始めてそれほどの年数が経っていないので、安い鶏糞をどうしても使わざるを得なかった。
ところが、今まで簡単に作ることができていた大根が何年も続いてうまくできなくなった。
それはダイコンハムシが芽を食い荒らして全滅したりしていたからだ。
完全に不織布で覆うといくらかは成長したが、その完全に覆うのが難しくて、害虫が少しでも入り込んでしまうとそれでおしまいになる。
そんな折りに近所の人から種をまく前には肥料をやらずに、芽が出てきてから液肥をやると被害が無いと聞いた。
それを聞いて、鶏糞をすき込んだり撒いたりすることはやめようと思った。
鶏糞は非常に安くて化学肥料のように使えて良いのだが、以前に老齢の農家の人から虫がわくとは聞いていた。
まさしくこのことだろうということが分かったのだ。
草や葉と一緒に混ぜ込んでしっかりと発酵させた堆肥にすれば違ってくるのだろうが、それをやってこなかった。
自然農法は肥料は使わないのだが、刈草と同時に米糠は多く用いられる。
以前もEMぼかしという有機肥料を自分で作っていたときには、米糠はよく使っていた。
その時は大量に購入したりしたのだが、このところ無人精米所で糠を持って帰らせてくれるところ(以後、糠取所)が増えたので、それを利用することにした。
ところが、これが簡単では無かった。
まず、けっこう米糠を利用している人が多くて、町内の糠取所では取りに行ってもあまり残っていなかった。
たまたま、鳥取の道の駅で30kgの米袋に入れた米糠が500円で売ってあったので、それを購入したのだが、常時置いているわけでは無く、結局買えたのは二袋だけだった。
また、隣の赤穂の糠取所を偶然見つけて、そこに多く残ってあるのを知ったので、平日にベランダボックスと小型手箕を持って行っていくらか確保できた。
土曜は毎週赤穂に行くので、普通車にベランダボックスを積んで立ち寄ったがいつも残っていなくて、平日でも通院などの機会に立ち寄ってもほとんど残っていなかったりした。
おそらく赤穂にも平日でも持って帰る競争相手がいるので、必ずしも残っていないことが分かった。
そこで、辛抱強く糠取所に立ち寄ることにして、町内の糠取所もプールに行くついでに寄ろうとした。
ところが、町内の糠取所では精米している人がいつもいて、車を横付けしたところを糠をとるのは憚られてなかなか機会が得られなかった。
こうなったら、日曜の家内とのドライブついでに糠を取りに行こうと、車に空振りした土曜からのベランダボックスを積んだままにしておいた。
しかし、前に見つけておいた国道沿いの糠取所には狭い駐車場に、精米する人の車が停まっていて立ち寄ることさえできなかった。
そこでダメ元で、地元まで帰ってきたときに、いつも空振りしている糠取所に寄ってみた。
すると、日曜日の夕方のせいなのか、精米する人も居なくて、糠取所にはあふれるほど糠が残っていた。
赤穂の糠取所でも経験したことの無い量の糠を手に入れて、そのベランダボックスを持つことさえ大変だった。
町内の競争相手は土日には取りに来ていなかったのかもしれない。
赤穂は週末の家庭菜園する人が多く、上郡町内では平日にしっかりと農作業をして土日は休んでいるのかもしれない。
とにかく、これからは空振りをおそれずこまめに立ち寄ることにした。
鶏糞はいつでもホームセンターで安く売っていて、手軽で便利なのに対して、米糠は無料ではあるが簡単には手に入らない。
通販でも売ってはいるが、とても手の出る価格では無い。
これからいつでも米糠の回収を心がけて行くしかないのだが問題点もある。
それは、米糠を取るときにどうしても米糠を被ってしまうことがあるので、それなりの服装を考えていないと後悔することだ。
私の場合はプールに行くときはスポーツウェアで、ドライブではジーンズが多いのでそんなに困ることは無いが、カジュアル服の家内には手伝ってもらえない。
ともかく、百姓を志すからには、根気よく気長に、そして気取らずに日々を送っていかねばならないと、糠取り作業から改めて思い知った。
実は近所には自衛隊に勤めている奥さんがいて、先月も北海道に訓練のために3週間家を留守にしておられた。
その間、旦那さんと二人の小学生の子どもが家に残されていたのだが、奥さんの実家は少し遠くにあって、以前のように手伝いに来ておられなかった。
近所の年配の人はその旦那さんが「よく我慢しているな」と言うが、私は「奥さんの給料が良いからだろう」と返事している。
我々より上の世代は大黒柱としての男の役割を自負していたが、今の若い世代にはそういう感覚はもうないだと思う。
普段も自衛隊の奥さんは、旦那さんよりも早く家を出るし、土日のどちらかは勤務に就いている。
旦那さんが子どもの学校や習い事の面倒を主に見ているのだ。
しかし、そういう例は先輩教師にもいて、奥さんがやり手の教師だったので、同じ教師の旦那が子どもの面倒や家事を行っていた。
もっと古くは、パーマネント屋経営している奥さんの旦那が、子どもがいながら全く働いていなかったのも見ている。
いまでも、町内の散髪屋さんで旦那さんは一切作業をせずに、喋るだけの人もいる。
いわゆる髪結いの亭主は今も健在なのだ。
自衛隊の奥さんの旦那さんは、仕事勤めをしているだけ立派なのだ。
私はもし台湾有事になって日本が参戦したら、この奥さんも夫と子どもを残して戦地に行かねばならないのかと思う。
子どもは小学校の文集に自分の将来の夢は自衛隊と書いてあった。
2009年の自衛隊イラク派遣以降は自衛隊は現実の戦争とは無縁だった。
その時も非戦闘地域に限られていたのだが、台湾の有事ではそうはいかないだろう。
男女平等になっているのだから、伴侶や子どもがある理由で女性だけ戦地への派遣を逃れることはできないようにも思う。
もし、戦死したら小学生の子どもたちは、母親を失うことになる。
高市総理はそういうことも含めて、台湾有事には参戦するつもりでいるのだろうか?
高田渡は反戦歌のつもりで「自衛隊に入ろう」を作ったのに、防衛庁(防衛省)から自衛隊のPRソングとして依頼を受けたそうだ。*1
自衛隊に入ろう 入ろう 入ろう
自衛隊に入ればこの世は天国
男の中の男はみんな
自衛隊に入って花と散る
この曲は今の日本では反戦歌では無く、愛国の歌として歌われるかもしれない。
そして男の中の男だけでは無く、男女ともに花と散る覚悟で自衛隊に入るのだろう。
先日来、久米宏の追悼特集が放送されているが、私が一番感動したのは、彼が自分たちの世代はなんとか戦争をしないで済んだことを語っていたことだ。
クイズ番組や歌番組でどちらかというと娯楽のイメージもあったのだが、彼の底に貫いていたのは反戦だった。
彼が後の世代に託した反戦の思いは、奇しくも彼が亡くなる前に高市総理によって踏みにじられた。
いつまでもつづけよう
どんなに海が汚れても
永遠(とわ)に栄えあれこのきずな
*1 Wikipedia 「自衛隊に入ろう」自衛隊に入ろう - Wikipedia
先日高市総理が首相官邸に引っ越しするときに、 裸足に雪駄を履いていたというのでネットでも大騒ぎになったという。
その雪駄は私が学生時代に履いていた安物の雪駄とは大違いである。
雪駄は使われる材料によってピンキリで、底に皮が使われているような高級品は手が出ない。
高市総理の雪駄は奈良県の「DESIGN SETTA SANGO(デザイン セッタ サンゴウ)」 のブランド品だった。
私は学生時代は下駄は滑りやすいので大学では使いづらく、主に風呂に行くときなどに使っていた。
雪駄は夏場にゴム底のものを使っていたが、一番気に入っていたのは自転車のタイヤを底に張った職人雪駄であった。
なぜ雪駄が良かったかというと、靴下をはかなくて良いし、サンダルよりも歩きやすかったからだ。
しかし、その雪駄でとんでもない痛い思いをしたことは、以前に「下駄に釘」で詳しく書いたが、その経験から遠ざかった。
本来は和服を着るときに雪駄を履くので、お寺のお坊さんは今でも履いておられる。
剣道などの武道をしている人には稽古着着用時の雪駄も持っていると思う。
しかし、洋服姿で雪駄を履いている人は全く見かけなくなった。
私の学生時代もそういう格好をしているのは私くらいで、他には見かけることは無かった。
大学に自転車で通ったいたが、夏場の雪駄と冬場のどてらは自分のトレードマークとして反骨精神を示そうとしていた。
それでも恋人は嫌がらずに傍にいてくれた。
ただし、大学院は電車に乗っていったので、どてらはさすがに着るのは躊躇った。
以前は安い雪駄や下駄は量販店でも置いてあったが、最近は全く見かけなくなった。
ちゃんとした専門の店に行くか、ネットで注文するしか無い。
ネット調べたら私の大好きな畳表を使ったものは2000円ほどするし、他のものもそれ以上の価格ばかりだ。
下駄に関しては安い価格のものがあって欲しいとは思うのだが、買いたいと思わない理由がある。
着物や浴衣を着る機会が全くないのと、散歩では使えない。
散歩は毎日犬と一緒で、しかも最低7000歩は歩く。
道も舗装されていないところを選んで歩くので、下駄や雪駄は適していない。
家の庭で履くのは安いサンダルやスリッパで十分なのだ。
やはり下駄や雪駄は都会にあって反骨精神を示せるのであって、田舎ではただの変わり者やヤクザ者としか見られそうに無い。
高市総理は地元メーカーの宣伝と私とは全く方向の違う反骨精神をうまく雪駄に託したように思える。
冒頭解散後の選挙にもその雪駄はかなり活きてくるのかもしれないが、私が渋谷駅の階段でで躓いて生爪を剥がしたのと同じような経験をするかもしれない。
私は高市総理が横須賀に停泊しているの米軍の原子力空母の上で、トランプ大統領の横ではしゃぎながら手をふっているのを見て、日本人として恥に思えた。
かつて、白洲次郎はマッカーサーに対して、「日本は戦争に負けたけど奴隷になったわけでは無い」と言い放ったという。
一方で、当時のトルーマン大統領は日本人を猿として「虚実の自由」という檻の中で飼うのだと言ったという。
高市総理の台湾発言を含んだ振る舞いは白洲次郎の示した誇りも無く、トルーマンの目的通りになった「飼われた日本人」となっていることを証明した。
マスコミでも、アメリカに軍事力で守っている日本だから、アメリカに対して正論はいえないと平然と述べられている。
日本はマスコミでさえ猿に成り下がってしまったのかもしれない。
これは我々の世代の責任かもしれない。
上の世代が安保闘争や赤軍派事件を起こして、世間から信頼を失っていくに従って、政治への関心が薄れていってしまった。
それでも、中高一貫のだった私の私立の学校では、上級生は学生集会を開いて学生運動を行い、文化祭では東大に行った卒業生が戻ってきてシュプレヒコールを行った。
そういう姿を見ながらも政治への関心は薄く、一人だけ東大へ行って民青に入って海外にも渡って活動したが、その後は活動をやめて今は立派な弁護士になった同級生がいる。
我々の世代は石油ショックで就職するのが困難となって、京大や九大に進学したものでも高校教師になった時代だった。
よく言われているが、学生運動の活動家は企業戦士になってその後活躍していったのだった。
企業戦士のお陰で日本は経済大国になったが、バブル経済が弾けて第二の敗戦を迎えて現在も低迷している。
そして、「虚実の自由」の檻でアメリカの猿であることに疑問を感じなくなってしまった。
そのアメリカが第二次大戦後に築いてきた秩序を根本的に破壊しようとしている。
確かに、ロシアや中国の方がその先鞭となったかもしれないが、それと同等以上に露骨で浅ましい。
アメリカは誇りと恥を見失ってしまったのだろうか?
それとも、自国の経済が崩壊しかかって、隠していた真の姿が露呈しているのだろうか?
そもそも、戦争をし続けないと国家が維持できなくて、今までは正義の仮面をかぶって戦争していただけなのだ。
トランプ大統領はその仮面をかなぐり捨てて、隠していた欲望をむき出しにしているだけなのだと思う。
我々日本人は白洲次郎の言葉を思い出そう。
それはアメリカに従って戦争する奴隷兵士になってはならないということだ。
アシル・ンベンベは2016年の著書 "POLITIQUES DE L'INIMITIE"(訳本は2025年『ネクロポリティクス―死の政治学』人文書院)次のように述べている。
その結果、戦争は民主主義においてだけでなく政治や文化においても目的であり必然であると定められる。戦争はいまや、治療薬でありながら毒物に、つまりわたしたちのファルマコンになった。かたや戦争は、わたしたちの時代のファルマコンとなったことで、その代価として恐ろしい情動を解き放ったのである。その情動はいよいよわたしたちの社会を圧迫して民主主義から退出させ、植民地支配のもとでまさにそうであったように、それを憎しみの社会へと変質させる[前掲書13-14]。
まさしく、彼の予言は現在的中して進行している。
平和憲法を掲げる日本人は現代も繰り広げられている植民地戦争に加担してはならない。
そして、平和を維持し続けていることを世界に示すのが使命だと思う。
老齢の俳優が日本の総理大臣に同情のコメントを発しているのだが、総理の言動は参戦だけで無く、企業の倒産を招いて路頭に迷う人も出る可能性があるほど重いものだ。
芸能人や評論家がコメントするのとは次元が違う。
同情するのは総理の言動を猿芝居だと笑うのと一緒だ。
私たち夫婦とペットとしての犬との関わりは子育てよりも長い。
今飼っている犬は夫婦として3代目であるが、私は子どもの頃から犬好きで実家で飼い続けていたが、家内は子どもの頃に一度だけ飼った経験があるだけだった。
結婚してすぐには子どもができなくて、その代わりに犬を飼って育てることにした。
そのころはまだペットブームにはなっておらず、3万円でシェルティーを獣医さんに斡旋して貰ってわけてもらった。
そのシェルティーは雌で、モモという名前にしたが、小さい頃は家の中で飼っていた。
結婚してしばらくは妻も仕事を続けており、妻の帰りが遅いときはモモを相手に時間を過ごした。
夫婦の会話はモモによって保つことができた。
最初に夫婦で住んでいたのは赤穂市の大津というところで周りは山に囲まれていた集落だったが、山陽自動車道の赤穂ICがあり、近くに高架の道路が通っていた。
やがて、子どもの出産で実家に戻った妻の代わりに、家に残された私の相手をしてくれたのがモモだった。
モモも大きくなるにつれて、散歩の際にヒモを外したりすると逃げ出してしまうことがあって、ダンプにひかれそうになり急停止させて運転手に謝ったこともある。
それでもなんとか躾けてヒモを外してもちゃんと私にしっかりとついてくるようになった。
モモは大きくなってからは、子どものことも考えて庭の犬小屋で飼っていた。
やがて、子どもも少しずつ大きくなって、モモとも遊ぶようになり、モモの小屋に入り込むこともあった。
借りた家は平屋だったので夏が暑くて、午後の暑い日は庭に茣蓙を敷いて、モモを交えて子どもと涼んだりした。
娘も誕生して、娘はモモをおもちゃのように耳や尻尾などを引っ張ったりしてもて遊んでいた。
ただ、妻が言うには、私が見てないところでは反撃もしていたという。
畑で農作業をするときも連れて行ったが、ちゃんと踏んではいけないところを教えると、それをずっと忘れずに守った。
モモは雷が極端に恐くて一度パニックになって逃げ出してしまった。
しばらくして戻ってきたときには首輪が無かったので、誰かに捕まった後で逃げ出したのだろうと思った。
やがて、上郡に家を新築して移り住んだのだが、隣にも雑種の犬が飼われてあって、夜に放し飼いをするので咬まれて怪我したことがあった。
30年以上前のことではあるが、当時の村では猟犬の紀州犬でさえ、夜に放し飼いをする人もいた。
一番可哀想だったのはダニが多くて、それに咬まれたことが原因で腎臓を悪くして亡くなってしまった。
モモが亡くなるときはほとんど泣いたことの無い家内も泣いていた。
最近家内の母が亡くなったのだが、世話を長くしていたせいもあったのか、涙は見せなかったのとは対照的だ。
私は庭の隅に埋めてやった。
人にとっては環境の良い田舎であったのだが、モモにとっては厳しい環境であったので寿命を縮めてしまった。
家族で泊まりがけで出かけるときには、私か家内の親の家に預けたのだが、餌を食べずに困らせていた。
普段から食にはうるさくて安いドッグフードは食べないので、缶詰のドッグフードや肉を買ってきて料理して与えたりした。
怪我をしたり皮膚の病気になったりして手もかかったが、家族のみんなから愛される素敵な犬だった。
何よりも子どもがいなかった頃の私たち夫婦の間を取り持ってくれたことを感謝せねばならない。
年末年始の1週間の休みがあって、その間なんともみっともないジョギングをしてたのだが、ようやく昨日(1/5(月))今年初めてプールで練習した。
本当はその前日には既に利用できたのだが、日曜はドライブの後は家で過ごすことにしている。
午後1時半から泳ぐように家を出て、隣町の相生で泳ぐことにした。
因みに上郡のプールはまだ利用できない。
駐車場では多くの車が停まっていたので、プールも多いと覚悟したが、下駄箱を見るとそうでもなかった。
トレーニング室のお客さんが多いらしい。
プールに入ると、いつも練習で一緒になるマスターズ選手が既に泳いでいて、一般コースしか空いてないのでそちらに入ると、練習コースのポストと交換してくれた。
彼はもうパドルの練習をしたので必要ないとのことだった。
実は練習コースしかフィンやパドルは使えないので、一般コースではフィンなしで泳ぐしか無かったのを気遣ってくれた。
もう一つ練習コースが隣にあるのだが、そこでは黙々とクロールで泳ぎ続けているかなり年配の男性がいて、一緒に泳ぐのは無理だと思って一般コースに入ろうとしたのだった。
ところが、それが逆に中学生と思われる女性選手をすぐ後に呼び込んでしまった。
彼女も黙々泳ぐ人と一緒に泳げないと判断して、私の泳いでいるコースに入ってきた。
同じくらいの泳力なら、左回りで回すのだが、選手と私ではスピードが違いすぎるので、半分で分けて練習することを提案した。
それは彼女もフィンやパドルを使用しており、それを使われるといくら私がフィンをつけていてもすぐに追いつかれてしまうからだ。
ただ、彼女は多くの選手と練習するのが慣れているので、一度も手足が接触せずに4種目の練習をお互いにすることができた。
普通は黙々泳ぐだけなら、一般コースでも泳げるので練習コースを譲るものだが、二人が気を遣いながら練習している横で、そのご老人は平然と2時間ほど泳ぎ続けていた。
かなり時間が過ぎてそのご老人がプールから上がった後は、私の方がそちらに移って練習をした。
知り合いのマスターズ選手も却ってポストを交換したことが、選手とのハードな練習になったことを気の毒がっていた。
それでも私と泳いだ方が、黙々と泳いでいる人の横で練習するより良かったのではないかと話したが、私の身体には結構応えていた。
実は最後のメニューとして200m個人メドレーの練習もするのだが、最初のバタフライを泳いでいると太ももが痙りそうになったので50mで中止した。
そして、最後の4種目の25mダッシュもできず、クールダウンした。
マスターズ選手から平泳ぎの最近のキックの仕方を教わってその練習をしたことも原因があるが、初泳ぎで選手の横でのハードな練習が一番の原因だと思う。
どうしても隣を意識してスピードを上げたり、回しを速くしてしまうからだ。
まあ、気持ちを引き締めてくれた初泳ぎとして喜ぶべきだと良い風に思うことにした。
私は今は散歩で7000歩以上歩くのと、プールで1時間半泳ぐことを糖尿病治療の一環として行っている。
ところが、プールは年末年始の一週間閉まってしまって利用できない。
今年は喪中で神社に参拝もできないので考えたのが、ジョギングの再開である。
実は以前には市民マラソンにも参加するほど走り好きだった。
しかし、体重を落とさないまま練習をしすぎて、10年前に鼠経ヘルニアで手術しなくてはならなくなった。
その手術は腹腔鏡手術だったが、初めて全身麻酔をして行い、その後遺症で出臍になって、プールでは恥ずかしい思いをしている。
その手術以来、再発が怖いのでジョギングはできなかった。
まず、ジョギング用のシューズがないので、年末にネットでasicsの安売りを買った。
それを履いて12月29日の夕方から走り始めたというか、早歩きを始めた。
足や腸に負担をかけないようになるべく舗装していない道を選んだ。
以前は1kmほど歩きながらアップしてから、5km~10kmを1kmを5~6分ペースで走っていた。
今回もまず歩いてアップしてジョグをし始めたのだが、続かない。
無理をすればもう少し走れそうだが、怖くて無理ができないのだ。
初日はジョギングというより、早歩きの散歩という感じだった。
ただ、最後に行なう小学校の駐車場の鉄パイプの低いフェンスを使ったストレッチは気持ちのいいものだった。
元日の夕方も腹を空かすために前とコースを変えてジョギングを行った。
たいして走れないので、首にネックホーンをかけて音楽を聴きながらジョグしたり歩いたりを繰り返した。
田舎の良いところは、舗装していない道が多くあって、それを使えばけっこう距離をかせぐことができる。
山ぎわの坂を上がっていくと、村の景色が一望できて気持ちがいい。
犬との散歩よりも良いのは、どこに行っても良いし、他の人や犬を気にしなくていいということだ。
音楽を聴きながら自分の世界に浸って、最後は腹もすくし、気持ちも良い。
ただ、太ももの筋肉が痛い。
プールでの鍛え方とは違い、着地の衝撃がけっこう応えるようだ。
私は以前は早朝や夕方にはジョギングで遠くまで走っていた。
特に赤穂高校に勤めている時は、勤務時間が終わると近くの川沿いの道や海岸道路、海浜公園の中を走るのが楽しみだった。
特に唐船海岸から海を眺めると、小豆島や家島群島が見えて美しい。
そのあたりは、かつて私が子供のころから慣れ親しんだ場所で、高校生ころでも走ったことがあった。
私が通院しているその高校近くにある医院の先生は、海岸の道を中心に遠く御崎まで走っていくそうだ。
御崎は急な坂も多いのだが、眺めは抜群に良いので自分も挑戦してみたいとずっと思っていた。
とりあえずは少しずつ体重を落として、少しでも昔のように走りたいと思っている。
上郡の同じ地区の知り合いの人はずっと早朝にジョギングをしている。
その方も早歩きと変わらないくらいのスピードだが、坂道でも同じペースで走っていて無理もしていない。
私もしばらくはその人を見習ったジョギングを続けたいと思っている。
鼠経ヘルニアの手術から11年目の再スタートである。
このごろ私は昔の自分の日記を読んで、当時を振り返ると同時に、ブログのネタにもしている。
ところが、もともと字が汚いうえに、年によっては筆ペンで書いている。
すべて、スキャンしてデジタル化しているのだが、Googleドキュメントを使ってOCRでテキスト化するのは不可能だ。
そこで、以前紹介したPLAUD(革命的自動音声文字起こしPLAUDの感動)を活用し始めた。
今回は、筆ペンで書いていた1984年の正月前後の日記をテキスト化した。
1984年は大学院に進学して初めての正月で、東京から赤穂の実家に帰省したことを1月7日に振り返っていたので、当時の正月の過ごし方を知るのにちょうど良かった。
筆ペンで書いた日記は読みづらくて、全く読めない字もあった。
Plaud Note AIボイスレコーダー は長い間使っていないのでまず充電に時間がかかった。