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2025年8月17日日曜日

ネズミ、恐るべし

 私は奄美の与路島に村落調査に行っていたとき、教員住宅に長期滞在させてもらったことがある。

墓場の一角にあった当時の教員住宅は、作りも古くネズミがよく出没した。

下手に食べ物を置いておくと囓られてしまい、固形石けんまで囓られていた。

そこを毎日訪ねてきた地元の友達がいたのだが、彼にそのことを話すと「ネズミが聞いているから、言わん方が良い」と諭された。

つまり、ネズミが人間の言葉を理解して、悪口を言っていたら仕返しをするという意味だった。

私たちの感覚では、害になるネズミは即刻駆除というものだが、シマの人の感覚は恨みを買うと不味いというものだと思った。

実は、ネズミは場合によってハブを呼び込んでしまうので、軽視できない存在だったのだ。


周りが農地の上郡の私の家でも時折ネズミが出没して、それを駆除したり追い払うのに苦労している。

ネズミが嫌がるという音や光を発する装置を付けているし、天井を走り回るときには嫌がる匂いの忌避剤や殺鼠剤を置いたりもする。

効き目があるのは一時で、直ぐに慣れられてしまうので、結局は捕まえねばならない。

大きなネズミの入り口は換気扇で、うまくこじ開けて入って来るので、対策をしようと思っていて忘れている。

ハツカネズミほどの小さなネズミは、玄関や窓の隙間が開いていればいつでも入れる。

駆除する方法は粘着トラップだが、そう簡単にはかかってくれない。

まさしくネズミとの知恵比べで、警戒されないように上手に餌などを置かねばならない。

大物がかかったらかかったらで始末が大変で、チューチュー鳴いているのを粘着シートをたたんで持ってゴミ袋に入れねばならない。

大概はその仕事は私の役割なのだが、家内にも先日やってもらったら嫌そうだったがちゃんとできた。


今回も連続して大きいのを2匹捕まえたのだが、問題はそれで解決しなかった。

どういうわけか、ガスコンロの一つが着火しても直ぐに消えてしまう。

家内が下を覗いたら、安全装置の線が切れているという。

どうも、ネズミに囓られたらしい。

食べられもしない細い銅線を囓るなんて嫌がらせか、ただの遊びか。

多くある線の二本しか囓られていないので、匂いがするので囓ったが食べられなかったと言うだけかもしれない。

とにかく修理に出したら手間と費用がかかるので、私が直すことにした。


その囓られた線は非常に細くて、釣りに使うハリス程度なのだ。

銅線のカバーをライターで焼いて剥がして、少し出た銅線を繋ぐのはかなり難しい。

二つの線を上手くねじれないので、テープの代わりに絆創膏を使って止めて置いた。

しばらくはそれで持っていたのだが、しばらくつすると熱で緩んだらしく、またつかなくなってしまった。


今度は家内に手伝ってもらうことにした。

以前手芸のビーズをしていたので、手先が器用だと思ったのだ。

今度はしっかりと銅線を捻ることにして家内にやってもらったのだが、どうもうまく繋がらない。

間違った線に繋いだのかと思ったが、交換してもうまくいかない。

見ていて捻り方が気になっていたので、私が頑張って捻ってみた。

そうしたらうまく行ったが、本来は線を交差して絡ませねばならないのに、家内は線を平行のまま捻ってしまっていたのだ。

こういう電線関係では私はプラモデルのモーター関係で扱っていたのだが、家内にはその経験が乏しかったのが悪かったらしい。

これで面目躍如だが、家内の手先が器用という評価が下がってしまった。


とにかく、自分で修理できたから大した被害とは言えないのだが、もし修理に出さねばならない状態だったら大変なことになっていた。

そういえばネズミにガス管を囓られて事故になったケースも以前はあったように思う。

今はヒューズがついているので大丈夫だと思うが、何をしでかすか分からない大変な相手であることに違いない。

私は常々、ネズミ対策に猫を飼いたいと言っているのだが、家内はその前に部屋を綺麗に片付けてちょうだいと言って了解してくれない。

私は猫を飼うことを決めたら部屋を片付けると言っているのだが、家内は自分がやらされると思っているようだ。

ただ、最近の猫はネズミを捕まえてくれないそうなので、決定的な対策にならないかもしれない。


現代では野良猫や野良犬がいなくなっても、このネズミだけはいなくなりそうに無い依然恐るべき動物だ。

ディズニーランドのミッキーやトムとジェリーのジェリーは人気あるキャラクターなのだが、それらは欧米文化の流れにある。

東アジアや日本では干支の一番となっている食わせものであるし、ドラえもんの耳を囓ってしまった手強い相手なので、猫の方がキャラクターとしては人気がある。

そう言いながら、私は子どもの頃には白いハツカネズミやハムスターを飼っていたこともあって、ネズミそのものを毛嫌いしているわけでは無い。

要するに、家に寄生して害をなすネズミに敵意を感じているのだ。

さすがに毒ヘビは家の中に入ってこないので、当時の与路島の人のように深刻に扱うことはしなくて済んでいる。






2025年8月15日金曜日

日航ジャンボ機墜落事故とブルートレイン

 私は1985年に起きたこの事故のことを鮮明におぼえている。

当時は横浜の長津田に住んでいて、ずっとテレビでニュースを見ていた。

事故は8月12日だったが、私は13日の夕方にブルートレイン(寝台列車)に乗ってツレと山口に向かう予定だった。

ツレの仕事の都合で東京駅で乗る予定だったのに、事故の報道に夢中になってアパートを出ねばならない予定時間が過ぎてしまった。

ツレと電話で連絡を取り合ってから、一か八か一番駅の近い東急田園都市線の田奈駅まで走って行った。

田奈駅から長津田駅まで私鉄に乗り、長津田駅からJR横浜線に急いで乗りかえて横浜駅まで行った。

横浜駅でそのツレが既に乗っているブルートレインに何とか乗り込んで事なきを得たが、ジャンボ機の迷走よりはましにせよ、連れも私も寿命が縮まる思いだった。

事故と自分のハプニングが一緒になって、毎年8月12日はその時の記憶がよみがえってしまう。


今年は事故から40年目にあたり、テレビなどでは色々と特集していたので、ウィキペディア(Wikipedia)で調べてみた。

改めてこの事故が「死者520名という日本では史上最悪の航空事故で、単独機の事故としても世界史上最悪の航空事故となっている」であることに驚いた。

日本だけならともかく、世界史上でも最悪というのは知らなかった。

このところ、亡くなった人を追悼することや、遺族の高齢化で事故の風化を懸念することなどの番組が多い。

しかし、事故の原因が分かっていて、それを政府がきちっと対処しなかったことに対しての報道がなされていない。

世界史上最悪の航空機事故に対する企業と政府の対応の仕方を問題視した特集をもっとしてしかるべきだろう。

戦争の悲惨さが自然災害のように描かれるのとなんら変わりが無い。

戦争はいけない、飛行機事故はいけない、しかし、どちらもなくならない。

勝者側に立った戊辰戦争、日清戦争、日露戦争が否定されず、敗者側に立った太平洋戦争だけが否定されている。

それに似て、事故さえなかったら便利だが危うい飛行機が否定されることは無い。

戦争を多くの人が否定しているのは、太平洋戦争では被害にあった人が身近にいて、国民全体が責任を負わされて戦争そのものを否定させられたからだ。

飛行機自体が否定されないのは、事故で亡くなった人は身近にいなくて、しかも責任はなく、飛行機の構造やシステムを否定されなかったからだと思う。


実は、私の亡父は死ぬまで一度も飛行機に乗ったことが無い。

頑なに飛行機に乗ることを拒み続けたので、両親は海外旅行に一度も行けなかった。

「あんな鉄の塊が空を飛ぶなんて信じられん」というのだ。

実際は鉄の塊では無いのだが、かつて100トンほどの木造船を運航し、造船所で鉄船に関わってきたことからそう感じたのだろう。

本人は言わなかったが、この日航機事故を意識していたのかもしれない。

その一方でその父の孫にあたる私の甥が民間機のパイロットになった。

就職した時は、父は既に他界していなかったのだが、生きていたら孫になんと言っていたのだろうかと思う。

そして、パイロットになった息子を誇らしく思う反面、事故の恐ろしさを知っている両親はこの事故に関してもそれなりの思いがあるだろう。


事故の報道に気をとられて危うく乗り逃しかけたブルートレインは既に廃止されてしまった。

安くて便利な夜行バスもさることながら、何よりも格安航空の影響も大きいと思う。

日航機事故の教訓が活かされてか、航空機事故は殆ど無くなってはいる。

しかし、安全神話はいつかは崩れる。

福島原発のように、予想された自然災害を軽視して起こった事故もある。

去年起きた羽田空港地上衝突事故はパイロットの勘違いによるものだった。

そして、最も忘れてはいけないことは、飛行機こそ戦争では無差別な爆撃を行い、原子爆弾を投下するのに使われたものだ。

そして、今でもミサイルやドローンと共に戦闘機として戦争の主力を担っている。

そのことを考えると、亡くなった父が飛行機を怖れたことを年寄りの戯言(たわごと)と嗤うことはできない。




2025年8月13日水曜日

髭トリマーで十分な頭髪

 去年までは髭を蓄えていて、その経緯は「髭と髪とデニムジャケット」に書いてある。

自分では似合っていてダンディーだと思っていたのだが、やはり髪が白いこともあってかなり老けてみられていることが分かった。

仕事に行っていない上に高齢に見られたら、自分自身の心も老けてしまうように思った。

そこで、せっかく伸ばして手入れしていた髭を、思い切って剃ることにした。

確かに、髭を剃ることで若く見られるようになったが、髭トリマーが不要となってしまった。


そこで、何か使い道は無いかと考えた。

とりあえずは、安い散髪屋でスポーツ刈りにして貰って、伸びてきたら生え際を髭トリマーで短くすることにした。

これは大正解で、耳に当たる髪やうなじの細毛を髭トリマーでカットしてすっきりすることができた。

それを何回か繰り返していたのだが、さすがに3ヶ月以上も経つと頭頂付近の髪も長くなって、生え際とのバランスが悪くなった。

そこで、前髪の一部以外は髭トリマーでカットしてしまうことにしたのだ。


今までは、安物の電動バリカンで刈っていたこともあるのだが、髪の毛が薄い上に細いので綺麗に刈ることができなくなっていた。

その安物の電動バリカンに比べて、切れ味が良くてスムーズに刈っていくことができた。

ただ、髭用で巾も狭くてコームも小さいので、すぐに刃に髪が溜まって切れづらくなったが、こまめに取り除くことによって仕上げることができた。

こうしてやってみると、自分の頭髪は髭の手入れ程度で十分だと言うことを再認識した。

本当は髭のように剃ってしまった方が面倒無くて良いのだが、ただでさえ厳つい体格と陽に焼けた大きな顔で恐いと家内に言われている。

間違いなく、その筋の人と思われるのが分かっているので、スキンヘッドにはしていない。


夏場に相応しいスポーツ刈りは、冬場でも良いことがある。

寒さ対策にニット帽を被ると若く見られるのだ。

それでも髪の毛が髭程度の値打ちしか無いことに淋しさを禁じ得ない。

髭と全く違うのは髪は剃ってしまうと逆に人相が悪くなってしまうことだ。

実は私は発毛剤と勘違いして育毛剤のニューモを使っている。

解約しようかなと思いながら、何とか毛髪が残っているのもこのお陰かなと思って使い続けている。

中途半端に残っているので維持費がかかるのだから、無くなってしまった方が経済的といえば経済的だ。

しかし、このうっすらと残された細毛で人相を守っているのだから、大切しなくてはなるまい。

サザエさんに出てくる波平さんの頭頂部に残された1本の毛と、ある意味では同じなのかもしれない。

2025年8月11日月曜日

家業より軍隊を選び戦死した伯父と祖父

私の亡くなった父から、私の伯父にあたる父の実家の長男(大正15年生)の戦死について聞かされていた。

父によれば、まだ若いし長男だから志願して兵士にならなくても良いのに、一八歳で志願して乗っていた艦船が魚雷攻撃で沈没して一九歳で戦死したという。

一番父が言いたかったのは、「親父と一緒に船に乗るくらいなら軍隊に行った方がましだ」と言った伯父の言葉だった。

軍隊よりも嫌っていた祖父とはどんな人だったかは、父からいろいろ聞かされていたが、とにかく妥協の無い厳しい人だったようだ。

私と関わってくれた祖父は私に対して厳しく接することは無く、少しとっつきにくいがどこにもいる優しいおじいさんだった。

父が祖父と距離を持って接するのに対して、高校までは親しく接して庭師の祖父の手伝いをすることもあった。


この歳になって分かるのだが、祖父は家業の船での運送業(地元の石材輸送)で身を立たせるのに必死だったのだろうと思う。

長男が戦死したこともあって、3男の父にその思いが強くなったようだ。

次男の伯父は祖父の家と家業を継がせて、3男の父には独立させるつもりだったのだろうと思う。

だから、命がけの仕事となる船の運搬業の仕事の厳しさを教え込んでいたのだろう。

志願する前の長男に対しては、祖父の跡継ぎと兄弟を束ねる役割があって、それで祖父は厳しく指導したのだと思う。

軍隊の方が厳しい訓練や上下関係があるのにと一見思えるが、軍隊は家業よりも名誉と報償が与えられる。

伯父にとっては同じように厳しいのだったら、軍隊の方がマシだと感じたかもしれないが、単に親への反発だけだったかもしれない。

そして、家業だったら安全第一で命まで落とさなかっただろうに、命を失ってしまった。


一方で、私の母方の祖父は長男では無かったし、家は魚船程度の船大工で大した家業では無かったので自ら望んで海軍の職業軍人になった。

それなりに兵役を終えて退役して会社で働いていたのだが、幼い娘二人を残して心ならずも招聘されてしまった。

航空母艦の機関兵だったのだが、艦の撃沈と共に戦死してしまった。

もし、職業軍人になっていなかったら、招聘されることは無かったかもしれない。

これも家業の差はあれ、自ら軍隊を選んだ結果だったとも言える。


戦後の日本では軍隊の代わりに家業から企業への転換が進められていった。

私の父もまさしく家業の船での運送業から造船所勤務に転職が行われた。

家業に活かす能力から、企業に活かす能力へと人材育成が進められていった。

私の父は学校での勉強を強要するが、自ら職能訓練をする必要がなくなったので、祖父ほど厳しく子どもを指導する必要がなくなった。

そして、子どもは親と一緒に暮らす必然性も無くなり、親子関係も希薄なものとなっていった。


父は、祖父との親子関係だけを私に語り訊かせていたが、家業の苦労と危険性のみ語り、家業を守ることの重要性とその意議を語ることは無かった。

自分自身が家業を捨てて立派に子どもを育てているという自負もあったのだろうと思う。

しかし、家業を失うことの家や家族の脆弱さに敢えて目をつぶっていたのだろうと思う。

農家が家業を放棄しだしたのも同じだと思う。

まず、娘を安定した収入のあるサラリーマンや公務員に嫁がせて、跡取り息子に何とか農家を継がせようとしたが、当然嫁不足で失敗する。

そして、跡取り息子も家業を放棄して、実家から離れていき、親が取り残されていった。


家業を失ってもみんなが幸せなら良いと思っていた。

しかし、その代償は大きかった。

生活環境と重なる家業は自然環境も大切にせざるを得なかったし、企業のような巨大な力を持ち得なかった。

利益優先の企業は自然環境を大切にする必要は無く、豊かさと引き換えに環境破壊を生じさせた。

そして、公害で汚染された環境に苦しんだ後、現代の温暖化によって灼熱地獄に喘ぐことになった。

こう考えれば戦争は男を家業から引き離し、国家や企業によって環境を破壊させていく先駆けだったように思える。

実は、父が家業を捨てて造船所に転職したのも、夫が戦死した祖母(父にとって妻の母)が造船所に働いていたことによる。

そして、世界一のタンカーを建造したその造船所は、相生湾をひところは死の海にしていた。

その造船所も斜陽産業となり、相生湾は自然を取り戻していって、牡蠣の養殖が湾の入り口で行われている。

祖父が守ろうとした船の運送業もトラック輸送に取って代わられていった。

そして、本家も分家である私の実家も後を継ぐ者を失ってしまった。



2025年8月9日土曜日

三流でも南山大学人類学科で良かった

 先日、近縁者と話をしていて大学の話が出た。

彼は九州大学に入ってまもなく辞めて、予備校に入って早稲田大学に入り直した。

しかし、四年間在籍したにも関わらず中退してしまったのだった。

何をしていたのかと聞いたら、アルバイトをしていたと言うことだった。

とにかく、入ることだけに力を尽くしてしまって、入ってから勉強をする気が無くなったらしい。

そういえば、学年で最下位ながら早大の法学部に現役で入った私のバンド仲間は、大学ではひたすらバイクのサークルに心血を注いでいた。

バイク事故で1年留年したが、ちゃんと卒業できたたのはサークルのお陰だろう。

一方で、都立大学の大学院には早大でしっかり勉強をして入ってきていた優秀な先輩もい

たが、フィールドワーク中に病気で亡くなってしまった。

私は大して受験勉強しなかったから、大学に入ってから勉強したと言ってしまったが、本当は好きなことをやっただけだった。

大学院に行ってから修士の先輩や同級生がいかに大学でしっかりと勉強していたかを思い知らされていた。

因みに都立大学の大学院の社会人類学専攻は学部からの進学は滅多になく、埼玉大学やICU、東京外語大等と多彩で、たまに東京大学からの進学者もいた。

私はそもそも英文を中心とした論文解読が辞書なしではまともにできない、フィールドワーカーに毛が生えた程度に過ぎなかったのだ。

だから、実力を養うための時間がもっと必要だったのだが、気負いだけが空回りして酷い十二指腸潰瘍など、心身も経済力にも限界がきて博士には進めなくなった。


大して勉強もせずにそこそこブランドのある都立大学の大学院に入れたのだから、南山大学人類学科は私にはありがたい大学だった。

家内は高校から曾野綾子の「太郎物語」を読んで南山大学のことを知っていたようだが、私は読みもしなかったので、NHKでドラマ化されて始めて知った。

太郎さんは一流の慶応大学の補欠を蹴って三流の南山大学(小説では北川大学)人類学科に入ったということだ。

学科の同級生にも愛知教育大学を蹴って同じ学科に入って頑張っていた友達もいたが、東大を落ちて入ってきた者はほとんど授業に出てこなかった。

女子が多く、就職とあまり結びつかないので、学科にしっかりなじめている者とそうで無い者がはっきりしていた。

そもそも、南山大学の赤本も買っていなくて、過去問も殆どしなかったし、願書の大学案内もまともに読んでいなかった。

私はこの学科しか合格しなかったので入っただけで、入った当初は単に浪人から解放されることと女子学生が多いのが嬉しいだけだった。

名古屋の叔父にはもう一年浪人することを奨められたし、父親には普通校に行った同僚の娘も南山大に合格して入ると嫌みを言われた。

とにかく惨めな浪人生から解放されて家を出たい一心で、見栄も外聞も捨てて行くことにした。

いい加減に入った大学で最初からうまく行かず、熱心に文化人類学を勉強したわけでも無く、軽音学部、剣道部もなじめず1年の途中で辞めてしまった。

たまたま文化人類学研究会の村落調査サークルに巡り会って、学問に目覚め、恋愛に目覚め、友情を暖めることができた。

奄美での村落調査も、大学によってはゼミなどで教師の指導の下で行うケースが多かったのだが、学生だけで長期的に自由にやれたのが良かった。


実は私の出身高校の淳心には、南山大学の神学科を卒業した英語教師もいたのだが、大学には関心が無かったので、教育実習の時に初めて大学の話をしたのだった。

教師になってからは生徒に南山大学のことを話したが、名古屋に行きたいという生徒もいなくて殆ど関心を持って貰えず、誰も受験してくれなかった。

都立大学も二期校だった頃の人気は無く、担任した生徒に強く勧めたが筑波大学に行ってしまった。

都立大学は社会人類学はブランドを持っていたが、学問に関心の無い生徒には魅力は無い。

ただ二期校時代は、高校の仲の良かった友達が人気と評判の高かった都立大学に入ろうとしたが果たせず、二浪して慶応大学に行った。

二期校で人気の高かった都立大学を落ちて早稲田や慶応にいったケースはそこそこあったようだ。

高校時代の担任の先生に都立大大学院のことを報告したら、名門校に入れて良かったと思わぬお褒めの言葉を頂いた。

やっと三流校の負い目から解放されたけど、私は三流の南山大学の方が、自分に合っていたし好きだった。

都立大学大学院は研究者になれば卒業しても関わりが長く続くようだし、今でも研究室の名簿は送ってきてくれる。

個人的には今でも連絡を取っている人もいるが、大学の仲間のような気楽な関係は少ない。


私が所属した南山大学の人類学科のゼミには、同期の一部が指導教官を中心としたライン仲間を作ってけっこう連絡を取り合っている。

私はゼミで懇意にして貰っていた女友達がいるかと加わったが、残念ながら彼女は入って無くてかなりがっかりしたが、加わって良かったと思っている

今回、そのラインでメンバーの兄弟が不慮の事故で亡くなったことを知った。

年齢的には私より一つ下で、同じ文化人類学研究会の部員でよく知っている後輩だった。

ラインでは彼を思いやる言葉が綴られていた。

私はこういう関係を他には持っていない。

私の人生にとって三流の南山大学人類学科こそかけがえのない存在なのだと改めて思い知った。

今は偏差値などや口コミでランク付けされて、集まってくる学生も以前の大学と違ってしまったようだ。

共通一次が開始された頃の年代である我々の世代は、格付けに左右されない魅力を大学自体に感じることができていた。





2025年8月7日木曜日

待ち焦がれた雨

 私は教師をしていた頃に、雨が大嫌いだった時期がある。

第二次ベビーブーマの生徒が荒れた時代の職業高校に勤めていた頃で、雨が降ると生徒が荒れた。

生徒の多くが自転車通学だったのだが、傘差し運転を無くすために校門で立ち番をして、差して来ている傘を取り上げて学期末まで預からねばならなかった。

本人が規則を無視したのが悪いのに、傘をとられた生徒は不満をぶちまけていた。

教室外などで発散できない生徒が、トラブルを起こすことも雨の日は多かった。

ただ、ハードな練習を外で行うクラブの生徒は、雨が降ると喜んでもいた。

一方で、校内の廊下や階段で練習するクラブもあって、放課後は職員室や準備室から出たくなくなった。

この雨の日の校舎内練習で、近隣の中学校では生徒が死んだところもあった。


そもそも、学校行事では雨が一番大敵だった。

一番嫌な思い出は、肢体不自由の特別支援学校で雨の日の校外学習で姫路城に行った時だ。

車椅子の生徒にカッパを着せるのも大ごとだったが、玄関でカッパを脱がせたりタイヤを拭いたりで大仕事になった。

姫路城内は舗装されていないところもあって、泥濘んだ道で車椅子を押してあげるのも大変だった。

雨で延期になる体育祭や球技大会はまだマシなのだが、雨でも行う文化祭もその対応に追われた。

とにかく、教師をしていた頃に雨を良く思ったことは無かった。


農作業をやり始めて30年以上経つが、やはり雨はあまり良いものではなかった。

作物以上に雑草は伸びるし、トマトなどは実が傷むし、毎日行うズッキーニの受粉も面倒になった。

水田を転用して畑にしているので水はけが悪くて、雨が降り続くとどの作物にも悪い影響が出た。

ところが、近年は夏場には高温で雨が降らないので、水やりに多くの労力をかけねばならなくなった。

現役の教師をしていた頃は、そんなに手がかけられないので、枯れたり萎れたりしたら諦めたりもした。

退職してからは、時間が有るのでその対応に、新たな溝を掘ったりエンジンポンプなどを使って散水するようになった。

それでも、去年までは気持ちが入らなくて、作物のできはあまり良くなかった。

ところが、このところ農作物の値上がりで、必要に迫られて力を入れざるを得なくなった。

朝の5時前に起きて、自宅の裏にある畑の水やりをしながら夏物を収穫した。

エンジンポンプは音が近所に迷惑がかかるので、長いコードリールを使って電動ポンプでくみ上げ、それをまた長いホースで散水した。


その農作業と散歩に関する暑さ対策については「汗は冷たいから濡れていたい」で既に書いいる。

日によって、朝に十分水をやれないときには、夕方にエンジンポンプを使って散水した。

畑だけで無く、庭にある鉢物や植木に水をやるために、300リットルタンクに水を用水路からエンジンポンプでくみ上げていた。

とにかく水の対策にずっと振り回されていたのだ。

雨が降るのをどんなに待ち焦がれていたか。

そして、今朝(8/7)に念願の雨が土砂降りとなってやってきた。

収穫作業を途中で止めて、犬の散歩に切り替えた。

犬の散歩用のカッパを着て、連れ出して30分以上歩いた。

うちのクロは池や用水路に自分から入るくせに、洗われるのを極端に嫌がって抵抗する。

身体も大きく力も強くて爪でひっかかれたりされて、身体を洗うのは諦めているので、冬場以外はあえて雨の日に散歩して、雨で身体を洗い流す。

普段は腹だけ水に浸す程度のクロにとっても約1ヶ月ぶりの全身シャワーと言えるのだ。


台風も夕立もなくて雨が降らない状態で、これほど雨を待ち焦がれたのは生まれて初めてのように思う。

雨がテーマで喜びを表現していて知っている曲は「雨に唄えば」と童謡の「あめふり」くらいだろう。

まさしく、この雨は「雨に唄えば」が相応しいだろう。

だけど、畑やあぜ道ではジーン・ケリーのように傘をもって歌う気分にはなれない。

カッパから流れ落ちる水滴やクロの背中から腹に落ちる濁ったしずくを見て安堵しながらいつもの三好英二の「雨」を唄っていた。


雨に濡れながら 立たずむ女(ひと)がいる
傘の花が咲く 土曜の昼下がり
約束した時間だけが 躰(からだ)をすり抜ける


雨が降ると雨の日に約束のデートをすっぽかして恋人を泣かせた嫌な記憶が、この歌と共によみがえってしまう。

待ち合わせ場所に来ない私を長いこと待った後で、下宿にやってきて怒りながら泣いていた。

優しさの足りない傲慢だった自分を恥じながら、彼女のことをいつも思い出す

どんなに待ち望んで嬉しい雨でも、やはり雨は気分を鎮めてしまう。


2025年8月6日水曜日

元チェーンスモーカーは現ベーパー(電子タバコ)

 本当はタバコをまた吸い始めたかった。

普通のシガレットも良いが、パイプタバコや葉巻が吸いたかった。

学生時代には酒よりも、タバコの方が好きだった。

でも、金が無い頃はシンセイを普段吸って、たまにショートホープを吸ったりした。

しかも、シケモク(吸い残し)もキセルを使ったりして吸っていた。

村落調査の合宿では、サークルの先輩がドイツ産のゲルベ・ゾルテや葉巻を差し入れしてくれたので、タバコの魅力を知りもした。

大学院に入ってからは、家庭教師のアルバイトができたので、缶ピースやパイプを嗜むことができるようになった。

村落調査でもシマの仲の良くなった若い人が、タバコを貰いにやってくるので、そこから色々と話が聞くこともできたし、仲良くなれて家族づきあいができた。

大学院での台湾からの留学生からは、台湾ではタバコのやりとりが付き合いとして大切なことも教わった。

一方で論文を書き始めてから、そのストレスから完全にチェーンスモーカーになり、タバコを吸うことでしか気分転換ができなくなってしまった。


教職に就いてからは、普段からパイプを多く吸い色々と銘柄を試すのが楽しみになって、三宮に出かけたりするときは必ずたばこ屋に寄った。

ただ、パイプはキセル以上に脂を掃除したり、焦げを削ったりするのが面倒だった。

元々は、肺にしっかり入れて吸うタバコでは無くて、香りを楽しむ吸い方だったのでパイプは一番合っていた。

それだけ好きだったタバコも、家内が妊娠したことを知ってから止める決心をして、家では全く吸わなくなった。

ただ、飲む機会などではどうしても欲しくなって、人からもらって吸っていた。

完全に止めるまでに3年以上はかかったと思う。


今回はタバコをまた吸い始めたいと思ったのは、退職して研究に力を入れようと思ったからだ。

机にしがみついている時に、気晴らしとしてミントタブレットや飴、グミを試したが、糖尿病には良くないし飽きてきた。

仁丹なども使い始めて、今でも続いている。

それでも、執筆時には昔のようにタバコを非常になつかしく感じたのだ。

しかしながら、家内がタバコが苦手で匂いが嫌だし咳が出るというので、タバコは諦めざるをえない。

そこで、行きついたのがニコチン・タールなしのベープ(電子タバコ)だった。


ベープの香りは、ミント、レモン、タバコの3種類を使っている。

最初に使ったのは、リキッドを入れて気化させるアトマイザーが小さい物だったので、扱いづらかった。

期待したタバコの香りも、本物とはほど遠くて、気休めで吸う感じだった。

そのうちは、どれも飽きてしまって吸うことをしばらく止めていた。

最近、また何かリラックスできる物はないかとネットで調べたら、CBD(カンナビジオール)という、合法の大麻の抽出液に行きついた。

ベイプを吸う道具も新調してCBDを吸い始めたが、薄いレモンの香りのするタバコのようなふわーとした気分を感じだ。

確かに、リラックスできているようで、酒の量も減ったと思う。

一番効果があったのは睡眠だと思う。

CBDリキッドのレビューでもよく書いてあるが、よく眠れるようになった。

これも濃度によって違うようだが、ふぁ~とした気分を味わいたい時には、85%くらいの高濃度のリキッドを使うらしい。

コスト的には高濃度は物によっては1ml10000円で普通は4000円くらい、私は30%のリキッド(10mlで2832円)を使っているが、私にはこれで十分である。


CBDは合法でも大麻の成分というと、何か危険な感じがするのだが、医療目的にも使われているので安心でもある。

かつて、ドラッグ(薬物)を文献で調べたことがあった。

デイヴイッド・T・コートライト『ドラッグは世界をいかに変えたか-依存性物質の社会史』(春秋社)である。

我々は医食同源と言う言葉を知っていて、基本となる食事が自分の健康を保つことだと分かっている。

あまり知られていないが薬食同源という言葉もあるようだ。

これは特定の食材の効能を強調するときに用いるようだが、実は依存性があってサイコアクティヴ物質をもっている食材をよく摂っていると前出の本に書いてある。

一番好例はカフェインを多く含むコーヒーやお茶などであるが、ドラッグとは意識していないのが普通だろう。

ただ、お茶は古くは薬として使われていたのを知っているし、今でもカテキン効果を期待している。

タバコもドラッグとしてでは無くて、身体に悪いが気分を良くする嗜好品という感覚だと思う。

また、その本では砂糖もかつてはヨーロッパで薬品と見なされていたし、他の薬物同様に奴隷や労働者を酷使するのに欠かせなかった。

ラム酒は黒人奴隷を働かせるのに活用されたのは有名な話だ。

日本では酒、タバコは税金をかけて、ドラッグ依存者を利用しているのだから、ヨーロッパで行われていた搾取とそれほど変わらない。

かつての日本人男性はタバコを吸いながら過酷な仕事をこなしてきたのであり、百害あって一利なしといわれても、ワーカーホリックには欠かせない物だった。

薬と毒は使い方の違いだけだと言われているが、タバコも過剰に吸わなければ気分転換としての薬にもなっていたはずだ。

タバコは癌の原因として目の敵にされてしまっているのだが、糖尿病の原因としての砂糖などの糖類も最近では目の敵になっている。

本当はドラッグそのものに原因があるのでは無くて、過剰な使い方をしてしまうストレスのかかった生活に原因があると思う。

今はゆったりと生活できているので、ストレス解消としてでは無くて、ちょっとした気分転換や快眠のためのベープと上手く付き合いたいと思っている。

今のところ、酒やタバコのように高い税金がかかっていないのが何よりも魅力だ。