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2025年8月11日月曜日

家業より軍隊を選び戦死した伯父と祖父

私の亡くなった父から、私の伯父にあたる父の実家の長男(大正15年生)の戦死について聞かされていた。

父によれば、まだ若いし長男だから志願して兵士にならなくても良いのに、一八歳で志願して乗っていた艦船が魚雷攻撃で沈没して一九歳で戦死したという。

一番父が言いたかったのは、「親父と一緒に船に乗るくらいなら軍隊に行った方がましだ」と言った伯父の言葉だった。

軍隊よりも嫌っていた祖父とはどんな人だったかは、父からいろいろ聞かされていたが、とにかく妥協の無い厳しい人だったようだ。

私と関わってくれた祖父は私に対して厳しく接することは無く、少しとっつきにくいがどこにもいる優しいおじいさんだった。

父が祖父と距離を持って接するのに対して、高校までは親しく接して庭師の祖父の手伝いをすることもあった。


この歳になって分かるのだが、祖父は家業の船での運送業(地元の石材輸送)で身を立たせるのに必死だったのだろうと思う。

長男が戦死したこともあって、3男の父にその思いが強くなったようだ。

次男の伯父は祖父の家と家業を継がせて、3男の父には独立させるつもりだったのだろうと思う。

だから、命がけの仕事となる船の運搬業の仕事の厳しさを教え込んでいたのだろう。

志願する前の長男に対しては、祖父の跡継ぎと兄弟を束ねる役割があって、それで祖父は厳しく指導したのだと思う。

軍隊の方が厳しい訓練や上下関係があるのにと一見思えるが、軍隊は家業よりも名誉と報償が与えられる。

伯父にとっては同じように厳しいのだったら、軍隊の方がマシだと感じたかもしれないが、単に親への反発だけだったかもしれない。

そして、家業だったら安全第一で命まで落とさなかっただろうに、命を失ってしまった。


一方で、私の母方の祖父は長男では無かったし、家は魚船程度の船大工で大した家業では無かったので自ら望んで海軍の職業軍人になった。

それなりに兵役を終えて退役して会社で働いていたのだが、幼い娘二人を残して心ならずも招聘されてしまった。

航空母艦の機関兵だったのだが、艦の撃沈と共に戦死してしまった。

もし、職業軍人になっていなかったら、招聘されることは無かったかもしれない。

これも家業の差はあれ、自ら軍隊を選んだ結果だったとも言える。


戦後の日本では軍隊の代わりに家業から企業への転換が進められていった。

私の父もまさしく家業の船での運送業から造船所勤務に転職が行われた。

家業に活かす能力から、企業に活かす能力へと人材育成が進められていった。

私の父は学校での勉強を強要するが、自ら職能訓練をする必要がなくなったので、祖父ほど厳しく子どもを指導する必要がなくなった。

そして、子どもは親と一緒に暮らす必然性も無くなり、親子関係も希薄なものとなっていった。


父は、祖父との親子関係だけを私に語り訊かせていたが、家業の苦労と危険性のみ語り、家業を守ることの重要性とその意議を語ることは無かった。

自分自身が家業を捨てて立派に子どもを育てているという自負もあったのだろうと思う。

しかし、家業を失うことの家や家族の脆弱さに敢えて目をつぶっていたのだろうと思う。

農家が家業を放棄しだしたのも同じだと思う。

まず、娘を安定した収入のあるサラリーマンや公務員に嫁がせて、跡取り息子に何とか農家を継がせようとしたが、当然嫁不足で失敗する。

そして、跡取り息子も家業を放棄して、実家から離れていき、親が取り残されていった。


家業を失ってもみんなが幸せなら良いと思っていた。

しかし、その代償は大きかった。

生活環境と重なる家業は自然環境も大切にせざるを得なかったし、企業のような巨大な力を持ち得なかった。

利益優先の企業は自然環境を大切にする必要は無く、豊かさと引き換えに環境破壊を生じさせた。

そして、公害で汚染された環境に苦しんだ後、現代の温暖化によって灼熱地獄に喘ぐことになった。

こう考えれば戦争は男を家業から引き離し、国家や企業によって環境を破壊させていく先駆けだったように思える。

実は、父が家業を捨てて造船所に転職したのも、夫が戦死した祖母(父にとって妻の母)が造船所に働いていたことによる。

そして、世界一のタンカーを建造したその造船所は、相生湾をひところは死の海にしていた。

その造船所も斜陽産業となり、相生湾は自然を取り戻していって、牡蠣の養殖が湾の入り口で行われている。

祖父が守ろうとした船の運送業もトラック輸送に取って代わられていった。

そして、本家も分家である私の実家も後を継ぐ者を失ってしまった。



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