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2026年1月15日木曜日

自衛隊に入ろう

 実は近所には自衛隊に勤めている奥さんがいて、先月も北海道に訓練のために3週間家を留守にしておられた。

その間、旦那さんと二人の小学生の子どもが家に残されていたのだが、奥さんの実家は少し遠くにあって、以前のように手伝いに来ておられなかった。

近所の年配の人はその旦那さんが「よく我慢しているな」と言うが、私は「奥さんの給料が良いからだろう」と返事している。

我々より上の世代は大黒柱としての男の役割を自負していたが、今の若い世代にはそういう感覚はもうないだと思う。

普段も自衛隊の奥さんは、旦那さんよりも早く家を出るし、土日のどちらかは勤務に就いている。

旦那さんが子どもの学校や習い事の面倒を主に見ているのだ。

しかし、そういう例は先輩教師にもいて、奥さんがやり手の教師だったので、同じ教師の旦那が子どもの面倒や家事を行っていた。

もっと古くは、パーマネント屋経営している奥さんの旦那が、子どもがいながら全く働いていなかったのも見ている。

いまでも、町内の散髪屋さんで旦那さんは一切作業をせずに、喋るだけの人もいる。

いわゆる髪結いの亭主は今も健在なのだ。

自衛隊の奥さんの旦那さんは、仕事勤めをしているだけ立派なのだ。


私はもし台湾有事になって日本が参戦したら、この奥さんも夫と子どもを残して戦地に行かねばならないのかと思う。

子どもは小学校の文集に自分の将来の夢は自衛隊と書いてあった。

2009年の自衛隊イラク派遣以降は自衛隊は現実の戦争とは無縁だった。

その時も非戦闘地域に限られていたのだが、台湾の有事ではそうはいかないだろう。

男女平等になっているのだから、伴侶や子どもがある理由で女性だけ戦地への派遣を逃れることはできないようにも思う。

もし、戦死したら小学生の子どもたちは、母親を失うことになる。

高市総理はそういうことも含めて、台湾有事には参戦するつもりでいるのだろうか?


高田渡は反戦歌のつもりで「自衛隊に入ろう」を作ったのに、防衛庁(防衛省)から自衛隊のPRソングとして依頼を受けたそうだ。*1

   自衛隊に入ろう 入ろう 入ろう
   自衛隊に入ればこの世は天国
   男の中の男はみんな
   自衛隊に入って花と散る

   

この曲は今の日本では反戦歌では無く、愛国の歌として歌われるかもしれない。

そして男の中の男だけでは無く、男女ともに花と散る覚悟で自衛隊に入るのだろう。

先日来、久米宏の追悼特集が放送されているが、私が一番感動したのは、彼が自分たちの世代はなんとか戦争をしないで済んだことを語っていたことだ。

クイズ番組や歌番組でどちらかというと娯楽のイメージもあったのだが、彼の底に貫いていたのは反戦だった。

彼が後の世代に託した反戦の思いは、奇しくも彼が亡くなる前に高市総理によって踏みにじられた。


   いつまでもつづけよう  

   どんなに海が汚れても

   永遠(とわ)に栄えあれこのきずな

   日米安全保障条約

高田渡のこの歌詞は若者たちの心を哀しいくらいしっかりと捉えてくれるだろう。


*1  Wikipedia 「自衛隊に入ろう」自衛隊に入ろう - Wikipedia


2026年1月13日火曜日

反骨の雪駄は躓くもと

先日高市総理が首相官邸に引っ越しするときに、 裸足に雪駄を履いていたというのでネットでも大騒ぎになったという。

その雪駄は私が学生時代に履いていた安物の雪駄とは大違いである。

雪駄は使われる材料によってピンキリで、底に皮が使われているような高級品は手が出ない。

高市総理の雪駄は奈良県の「DESIGN SETTA SANGO(デザイン セッタ サンゴウ)」 のブランド品だった。

私は学生時代は下駄は滑りやすいので大学では使いづらく、主に風呂に行くときなどに使っていた。

雪駄は夏場にゴム底のものを使っていたが、一番気に入っていたのは自転車のタイヤを底に張った職人雪駄であった。

なぜ雪駄が良かったかというと、靴下をはかなくて良いし、サンダルよりも歩きやすかったからだ。

しかし、その雪駄でとんでもない痛い思いをしたことは、以前に「下駄に釘」で詳しく書いたが、その経験から遠ざかった。

本来は和服を着るときに雪駄を履くので、お寺のお坊さんは今でも履いておられる。

剣道などの武道をしている人には稽古着着用時の雪駄も持っていると思う。

しかし、洋服姿で雪駄を履いている人は全く見かけなくなった。

私の学生時代もそういう格好をしているのは私くらいで、他には見かけることは無かった。

大学に自転車で通ったいたが、夏場の雪駄と冬場のどてらは自分のトレードマークとして反骨精神を示そうとしていた。

それでも恋人は嫌がらずに傍にいてくれた。

ただし、大学院は電車に乗っていったので、どてらはさすがに着るのは躊躇った。


以前は安い雪駄や下駄は量販店でも置いてあったが、最近は全く見かけなくなった。

ちゃんとした専門の店に行くか、ネットで注文するしか無い。

ネット調べたら私の大好きな畳表を使ったものは2000円ほどするし、他のものもそれ以上の価格ばかりだ。

下駄に関しては安い価格のものがあって欲しいとは思うのだが、買いたいと思わない理由がある。

着物や浴衣を着る機会が全くないのと、散歩では使えない。

散歩は毎日犬と一緒で、しかも最低7000歩は歩く。

道も舗装されていないところを選んで歩くので、下駄や雪駄は適していない。

家の庭で履くのは安いサンダルやスリッパで十分なのだ。

やはり下駄や雪駄は都会にあって反骨精神を示せるのであって、田舎ではただの変わり者やヤクザ者としか見られそうに無い。

高市総理は地元メーカーの宣伝と私とは全く方向の違う反骨精神をうまく雪駄に託したように思える。

冒頭解散後の選挙にもその雪駄はかなり活きてくるのかもしれないが、私が渋谷駅の階段でで躓いて生爪を剥がしたのと同じような経験をするかもしれない。



2026年1月9日金曜日

誇りと恥を見失った大国

 私は高市総理が横須賀に停泊しているの米軍の原子力空母の上で、トランプ大統領の横ではしゃぎながら手をふっているのを見て、日本人として恥に思えた。

かつて、白洲次郎はマッカーサーに対して、「日本は戦争に負けたけど奴隷になったわけでは無い」と言い放ったという。

一方で、当時のトルーマン大統領は日本人を猿として「虚実の自由」という檻の中で飼うのだと言ったという。

高市総理の台湾発言を含んだ振る舞いは白洲次郎の示した誇りも無く、トルーマンの目的通りになった「飼われた日本人」となっていることを証明した。

マスコミでも、アメリカに軍事力で守っている日本だから、アメリカに対して正論はいえないと平然と述べられている。

日本はマスコミでさえ猿に成り下がってしまったのかもしれない。


これは我々の世代の責任かもしれない。

上の世代が安保闘争や赤軍派事件を起こして、世間から信頼を失っていくに従って、政治への関心が薄れていってしまった。

それでも、中高一貫のだった私の私立の学校では、上級生は学生集会を開いて学生運動を行い、文化祭では東大に行った卒業生が戻ってきてシュプレヒコールを行った。

そういう姿を見ながらも政治への関心は薄く、一人だけ東大へ行って民青に入って海外にも渡って活動したが、その後は活動をやめて今は立派な弁護士になった同級生がいる。

我々の世代は石油ショックで就職するのが困難となって、京大や九大に進学したものでも高校教師になった時代だった。

よく言われているが、学生運動の活動家は企業戦士になってその後活躍していったのだった。

企業戦士のお陰で日本は経済大国になったが、バブル経済が弾けて第二の敗戦を迎えて現在も低迷している。

そして、「虚実の自由」の檻でアメリカの猿であることに疑問を感じなくなってしまった。


そのアメリカが第二次大戦後に築いてきた秩序を根本的に破壊しようとしている。

確かに、ロシアや中国の方がその先鞭となったかもしれないが、それと同等以上に露骨で浅ましい。

アメリカは誇りと恥を見失ってしまったのだろうか?

それとも、自国の経済が崩壊しかかって、隠していた真の姿が露呈しているのだろうか?

そもそも、戦争をし続けないと国家が維持できなくて、今までは正義の仮面をかぶって戦争していただけなのだ。

トランプ大統領はその仮面をかなぐり捨てて、隠していた欲望をむき出しにしているだけなのだと思う。


我々日本人は白洲次郎の言葉を思い出そう。

それはアメリカに従って戦争する奴隷兵士になってはならないということだ。

アシル・ンベンベは2016年の著書 "POLITIQUES DE L'INIMITIE"(訳本は2025年『ネクロポリティクス―死の政治学』人文書院)次のように述べている。

 その結果、戦争は民主主義においてだけでなく政治や文化においても目的であり必然であると定められる。戦争はいまや、治療薬でありながら毒物に、つまりわたしたちのファルマコンになった。かたや戦争は、わたしたちの時代のファルマコンとなったことで、その代価として恐ろしい情動を解き放ったのである。その情動はいよいよわたしたちの社会を圧迫して民主主義から退出させ、植民地支配のもとでまさにそうであったように、それを憎しみの社会へと変質させる[前掲書13-14]。


まさしく、彼の予言は現在的中して進行している。

平和憲法を掲げる日本人は現代も繰り広げられている植民地戦争に加担してはならない。

そして、平和を維持し続けていることを世界に示すのが使命だと思う。

老齢の俳優が日本の総理大臣に同情のコメントを発しているのだが、総理の言動は参戦だけで無く、企業の倒産を招いて路頭に迷う人も出る可能性があるほど重いものだ。

芸能人や評論家がコメントするのとは次元が違う。

同情するのは総理の言動を猿芝居だと笑うのと一緒だ。

2026年1月7日水曜日

かすがいとなった愛犬モモ

 私たち夫婦とペットとしての犬との関わりは子育てよりも長い。

今飼っている犬は夫婦として3代目であるが、私は子どもの頃から犬好きで実家で飼い続けていたが、家内は子どもの頃に一度だけ飼った経験があるだけだった。

結婚してすぐには子どもができなくて、その代わりに犬を飼って育てることにした。

そのころはまだペットブームにはなっておらず、3万円でシェルティーを獣医さんに斡旋して貰ってわけてもらった。

そのシェルティーは雌で、モモという名前にしたが、小さい頃は家の中で飼っていた。

結婚してしばらくは妻も仕事を続けており、妻の帰りが遅いときはモモを相手に時間を過ごした。

夫婦の会話はモモによって保つことができた。

最初に夫婦で住んでいたのは赤穂市の大津というところで周りは山に囲まれていた集落だったが、山陽自動車道の赤穂ICがあり、近くに高架の道路が通っていた。


やがて、子どもの出産で実家に戻った妻の代わりに、家に残された私の相手をしてくれたのがモモだった。

モモも大きくなるにつれて、散歩の際にヒモを外したりすると逃げ出してしまうことがあって、ダンプにひかれそうになり急停止させて運転手に謝ったこともある。

それでもなんとか躾けてヒモを外してもちゃんと私にしっかりとついてくるようになった。

モモは大きくなってからは、子どものことも考えて庭の犬小屋で飼っていた。

やがて、子どもも少しずつ大きくなって、モモとも遊ぶようになり、モモの小屋に入り込むこともあった。

借りた家は平屋だったので夏が暑くて、午後の暑い日は庭に茣蓙を敷いて、モモを交えて子どもと涼んだりした。

娘も誕生して、娘はモモをおもちゃのように耳や尻尾などを引っ張ったりしてもて遊んでいた。

ただ、妻が言うには、私が見てないところでは反撃もしていたという。




私は散歩だけでなくジョギングの時もモモと一緒だった。

畑で農作業をするときも連れて行ったが、ちゃんと踏んではいけないところを教えると、それをずっと忘れずに守った。

モモは雷が極端に恐くて一度パニックになって逃げ出してしまった。

しばらくして戻ってきたときには首輪が無かったので、誰かに捕まった後で逃げ出したのだろうと思った。

やがて、上郡に家を新築して移り住んだのだが、隣にも雑種の犬が飼われてあって、夜に放し飼いをするので咬まれて怪我したことがあった。

30年以上前のことではあるが、当時の村では猟犬の紀州犬でさえ、夜に放し飼いをする人もいた。

一番可哀想だったのはダニが多くて、それに咬まれたことが原因で腎臓を悪くして亡くなってしまった。

モモが亡くなるときはほとんど泣いたことの無い家内も泣いていた。

最近家内の母が亡くなったのだが、世話を長くしていたせいもあったのか、涙は見せなかったのとは対照的だ。

私は庭の隅に埋めてやった。


人にとっては環境の良い田舎であったのだが、モモにとっては厳しい環境であったので寿命を縮めてしまった。

家族で泊まりがけで出かけるときには、私か家内の親の家に預けたのだが、餌を食べずに困らせていた。

普段から食にはうるさくて安いドッグフードは食べないので、缶詰のドッグフードや肉を買ってきて料理して与えたりした。

怪我をしたり皮膚の病気になったりして手もかかったが、家族のみんなから愛される素敵な犬だった。

何よりも子どもがいなかった頃の私たち夫婦の間を取り持ってくれたことを感謝せねばならない。



2026年1月6日火曜日

気の引き締まったハードな初泳ぎ

 年末年始の1週間の休みがあって、その間なんともみっともないジョギングをしてたのだが、ようやく昨日(1/5(月))今年初めてプールで練習した。

本当はその前日には既に利用できたのだが、日曜はドライブの後は家で過ごすことにしている。

午後1時半から泳ぐように家を出て、隣町の相生で泳ぐことにした。

因みに上郡のプールはまだ利用できない。

駐車場では多くの車が停まっていたので、プールも多いと覚悟したが、下駄箱を見るとそうでもなかった。

トレーニング室のお客さんが多いらしい。

プールに入ると、いつも練習で一緒になるマスターズ選手が既に泳いでいて、一般コースしか空いてないのでそちらに入ると、練習コースのポストと交換してくれた。

彼はもうパドルの練習をしたので必要ないとのことだった。

実は練習コースしかフィンやパドルは使えないので、一般コースではフィンなしで泳ぐしか無かったのを気遣ってくれた。

もう一つ練習コースが隣にあるのだが、そこでは黙々とクロールで泳ぎ続けているかなり年配の男性がいて、一緒に泳ぐのは無理だと思って一般コースに入ろうとしたのだった。


ところが、それが逆に中学生と思われる女性選手をすぐ後に呼び込んでしまった。

彼女も黙々泳ぐ人と一緒に泳げないと判断して、私の泳いでいるコースに入ってきた。

同じくらいの泳力なら、左回りで回すのだが、選手と私ではスピードが違いすぎるので、半分で分けて練習することを提案した。

それは彼女もフィンやパドルを使用しており、それを使われるといくら私がフィンをつけていてもすぐに追いつかれてしまうからだ。

ただ、彼女は多くの選手と練習するのが慣れているので、一度も手足が接触せずに4種目の練習をお互いにすることができた。

普通は黙々泳ぐだけなら、一般コースでも泳げるので練習コースを譲るものだが、二人が気を遣いながら練習している横で、そのご老人は平然と2時間ほど泳ぎ続けていた。

かなり時間が過ぎてそのご老人がプールから上がった後は、私の方がそちらに移って練習をした。


知り合いのマスターズ選手も却ってポストを交換したことが、選手とのハードな練習になったことを気の毒がっていた。

それでも私と泳いだ方が、黙々と泳いでいる人の横で練習するより良かったのではないかと話したが、私の身体には結構応えていた。

実は最後のメニューとして200m個人メドレーの練習もするのだが、最初のバタフライを泳いでいると太ももが痙りそうになったので50mで中止した。

そして、最後の4種目の25mダッシュもできず、クールダウンした。

マスターズ選手から平泳ぎの最近のキックの仕方を教わってその練習をしたことも原因があるが、初泳ぎで選手の横でのハードな練習が一番の原因だと思う。

どうしても隣を意識してスピードを上げたり、回しを速くしてしまうからだ。

まあ、気持ちを引き締めてくれた初泳ぎとして喜ぶべきだと良い風に思うことにした。


2026年1月3日土曜日

ジョギングの再スタート

 私は今は散歩で7000歩以上歩くのと、プールで1時間半泳ぐことを糖尿病治療の一環として行っている。

ところが、プールは年末年始の一週間閉まってしまって利用できない。

今年は喪中で神社に参拝もできないので考えたのが、ジョギングの再開である。

実は以前には市民マラソンにも参加するほど走り好きだった。

しかし、体重を落とさないまま練習をしすぎて、10年前に鼠経ヘルニアで手術しなくてはならなくなった。

その手術は腹腔鏡手術だったが、初めて全身麻酔をして行い、その後遺症で出臍になって、プールでは恥ずかしい思いをしている。

その手術以来、再発が怖いのでジョギングはできなかった。


まず、ジョギング用のシューズがないので、年末にネットでasicsの安売りを買った。

それを履いて12月29日の夕方から走り始めたというか、早歩きを始めた。

足や腸に負担をかけないようになるべく舗装していない道を選んだ。

以前は1kmほど歩きながらアップしてから、5km~10kmを1kmを5~6分ペースで走っていた。

今回もまず歩いてアップしてジョグをし始めたのだが、続かない。

無理をすればもう少し走れそうだが、怖くて無理ができないのだ。

初日はジョギングというより、早歩きの散歩という感じだった。

ただ、最後に行なう小学校の駐車場の鉄パイプの低いフェンスを使ったストレッチは気持ちのいいものだった。


元日の夕方も腹を空かすために前とコースを変えてジョギングを行った。

たいして走れないので、首にネックホーンをかけて音楽を聴きながらジョグしたり歩いたりを繰り返した。

田舎の良いところは、舗装していない道が多くあって、それを使えばけっこう距離をかせぐことができる。

山ぎわの坂を上がっていくと、村の景色が一望できて気持ちがいい。

犬との散歩よりも良いのは、どこに行っても良いし、他の人や犬を気にしなくていいということだ。

音楽を聴きながら自分の世界に浸って、最後は腹もすくし、気持ちも良い。

ただ、太ももの筋肉が痛い。

プールでの鍛え方とは違い、着地の衝撃がけっこう応えるようだ。


私は以前は早朝や夕方にはジョギングで遠くまで走っていた。

特に赤穂高校に勤めている時は、勤務時間が終わると近くの川沿いの道や海岸道路、海浜公園の中を走るのが楽しみだった。

特に唐船海岸から海を眺めると、小豆島や家島群島が見えて美しい。



そのあたりは、かつて私が子供のころから慣れ親しんだ場所で、高校生ころでも走ったことがあった。

私が通院しているその高校近くにある医院の先生は、海岸の道を中心に遠く御崎まで走っていくそうだ。

御崎は急な坂も多いのだが、眺めは抜群に良いので自分も挑戦してみたいとずっと思っていた。

とりあえずは少しずつ体重を落として、少しでも昔のように走りたいと思っている。

上郡の同じ地区の知り合いの人はずっと早朝にジョギングをしている。

その方も早歩きと変わらないくらいのスピードだが、坂道でも同じペースで走っていて無理もしていない。

私もしばらくはその人を見習ったジョギングを続けたいと思っている。

鼠経ヘルニアの手術から11年目の再スタートである。


2026年1月1日木曜日

日記の1984年正月と年越し

 このごろ私は昔の自分の日記を読んで、当時を振り返ると同時に、ブログのネタにもしている。

ところが、もともと字が汚いうえに、年によっては筆ペンで書いている。

すべて、スキャンしてデジタル化しているのだが、Googleドキュメントを使ってOCRでテキスト化するのは不可能だ。

そこで、以前紹介したPLAUD(革命的自動音声文字起こしPLAUDの感動)を活用し始めた。

今回は、筆ペンで書いていた1984年の正月前後の日記をテキスト化した。

1984年は大学院に進学して初めての正月で、東京から赤穂の実家に帰省したことを1月7日に振り返っていたので、当時の正月の過ごし方を知るのにちょうど良かった。

筆ペンで書いた日記は読みづらくて、全く読めない字もあった。

Plaud Note AIボイスレコーダー は長い間使っていないのでまず充電に時間がかかった。

ディスプレーにPDFにした日記を表示させて、レコーダーに向かって読み上げた。

それから、予めアプリをインストールしていたスマホに同期させてテキスト化を行った。
そのテキストファイルををGoogleドライブに転送して、テキストファイルの文章をコピーして一太郎ファイルに貼り付けた。
誤字もそこそこあったし、読み飛ばしてしまったところもあったので、PDFを見ながら手直しをした。
それでも、ずっと手打ちで打ち込むより時間はかからなかったと思う。

こうして一太郎の文書にしておくと、今までより読みやすいし、いつでも読み返したり活用ができる。
その日記に加えて、当時もらった手紙などはきれいな字なので、Googleドキュメントを使ってOCRでテキスト化する。
そうすると、当時のことで忘れていたことも思い出すし、書かれていないけど記憶に残っている場面がよみがえってくる。

当時の自分の年齢は24歳だったが、帰省の途中で名古屋に降りて、母校の大学の先生や仲間と一緒に飲んで、その後は友達の下宿で飲み明かしていた。
赤穂の実家に帰っても恋人や弟、友達と楽しく過ごしていたことがいろいろと記してあった。
そして、東京の下宿に戻って楽しかった正月を振り返って寂しさを感じていたことも吐露してあった。

今年の大晦日も元旦も家内と二人きりだった。
大晦日は最近では紅白を見ることもなく、今年は1984年正月の掘り起こしをした。
去年に家内の母が亡くなったので、愚犬をつれていつも元旦に行なっている初日の出を拝むことと、近所の神社への初詣は行なえない。
朝の食事はおせちに雑煮を食べたし、お屠蘇代わりに焼酎を少し飲んだ。
その後の散歩は毎日行っているのと変りはなかった。
たぶんこの三が日も普段とあまり変わらない生活をすると思う。
違うのは、いつもは第3のビールだが、本物のビールが飲めることだろう。
家内もおせち以外にも、私の好物のつなし(コノシロ)寿司を作ってくれるという。
1984年の正月と比べると、本当に寂しくなった正月だけど、昔を思い出しながらゆったりと過ごすのも悪くはないと思う。
正月で帰省した後で、孤独を味わっていた当時の自分よりも心は温かい。