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2025年8月31日日曜日

水泳で10年前の自分を取り戻す

 夏休みに入って水泳は自分の都合の良い時間でできなくなった。

どうしても1コースを独占的に使いたいので、一般利用者の少ない時間となる。

夏休み前は上郡においては午後2時半から4時であり、相生では午後1時から3時半であった。

それが夏休みに入ると、小中学生の午後からの利用が増えて上郡では午前11半から午後1時、相生では午前11時から12時半までということになっていた。

つまり、水泳した後で昼食を摂り、その後に昼寝をしないと何もできなくなってしまった。

暑い時間帯で水泳をして、その後夕食にするという週三日の水泳スケジュールができなくなってしまった。

それによって血糖値が下がって、糖尿病の治療にも役だって医者からも褒めてもらっていた。

そもそも、血糖値を落とすなら食後の運動の方が適しているのだが、その時間帯で泳ぐと混雑して思うように泳げずかえってストレスになってしまう。

だから、糖尿病対策としてよりも、快適に泳いで泳力や体力向上に努めた。


以前も書いたように、フロート以外にフィン(足ひれ)、競泳用シュノーケル、防水イヤホン、鼻栓が練習の必需品となっている。

ただ、防水イヤホンは必需品では無くて、有った方が楽しく泳げるという物だ。

なにせ、シュノーケルでプールの底しか見ていないので、音楽を聴いていることで気が紛れる。

フィンもしばらくして足首が痛くなったが、伸ばして蹴ることから曲げながら蹴ることで改善することができた。

鼻栓を付けてのバサロも、いまだに鼻が痛くなることもあるが、かなりできるようになってきた。

苦手な平泳ぎはフィンを使わないが、シュノーケルで足のけりや手のかきの練習に注意を集中してできて、幾分速くなった。


専門のバタフライだが、フィンのお陰で腕の負担が軽減できているので、かなり楽にゆったりとしかも速く泳げている。

以前は50mは、せいぜい一回しか泳げなかったが、二回続けて泳げるようになり、個人メドレーの練習も100mを200mにした。

これからは、バタフライも50mで練習を組みたていき、100mも泳げるようにしたいと思う。

そこまでできるようになって、10年前の自分に戻ることができるのだ。


そうは言っても一番元気だった頃は、フリーの50mは50秒で回せていたし、100mも2分サークルで10本はこなせていた。

何よりもダッシュが遅くなってしまっていて、50mフリーを30秒台でまだ泳げていない。

かつて選手だった経験者から観れば、自慢できるような練習内容やタイムでは無いのだろうが、去年まで医者に通い詰めだった自分としては上出来である。

そして、何よりも私が意識するのは、近くのコースで泳いでいるスクールのスイマー達で、特に選手コースは意識する。

小中学生程度ならフィンを付ければ選手と同じようなサークルタイムの練習できるのだ。

また、コーチや監視員に一目置かれるのも嬉しい。

去年までは老いぼれていく自分を悲観的に思っていたが、気持ちもずいぶん若返った。

それは、少しヘコんだお腹と、逞しくなった上腕筋、たるみが減って厚くなった胸筋が自信となっているのだ。

その若さを誇示するために、白髪の頭でありながらノースリーブのシャツで外出している。

今時、マッチョな身体は女性にはもてないので、むしろ男性の方の目を意識している。

それは変な意味では無くて、男性は体型で普段の身体使いを推測できるからだ。

ひ弱そうな手足だったり、締まりのない肥満は運動不足が想像できるし、食事管理もできていないように思える。

その点では、自信が少し出て若さも取り戻していると思える。

こういう取り組みは実は、毎日の農作業に生きているし、読書や執筆で座りぱなしになるのを防いで、持病の治療や他の病気の予防に役立ててもいる。

2025年8月29日金曜日

アナログ世界を蘇らせる手書き文字のOCR(光学文字認識)

 私はワープロなどが普及しだした1980年代後半から、ずっと手書きの論文や調査資料をキーボードで打ち込んでテキスト化していた。

その時から何とか手書き文字をOCRで簡単にテキスト化してくれないかとずっと思っていた。

同じ紙媒体でも活字文字に関しては「読んでココ」という優れたOCRがあって、本の一部をスキャンしてテキスト化して活用していた。

一番時間を費やしたのは村落調査でカードに記録したデーターで、スキャナーで画像化してjpegファイルとして保存もしていた。


このところAIがいろいろと活躍しているので、ひょっとしてOCRもと思って調べたら無料で簡単にできる方法があった。
Googleのドライブでドキュメント化すると簡単にテキスト化してくれた。

現在はスマホのメールなどで簡単にテキスト文字をやりとりしているが、私の若い頃は手紙やはがきしかなかった。

ビートルズのPlease Mister Postmanの世界が私にはかつてはあった。

彼女からの手紙が待ち遠しくて、郵便がいつもの配達時間になるとそわそわしていた。

手紙は彼女からだけでなく、父親や友達から来たり、お世話になった先生からも頂いたりした。

そういう物は捨てずに大切に保管してきた。

因みに見合いで知り合った家内とは一度も手紙のやりとりをしていない。

電話や直接会って話すことが簡単にできたからだ。

そしてインターネットが普及してから、メールに取って代わられてしまい、事務的なことや仕事以外では文書を郵送することはなくなった。

だから、プライベートな紙媒体での記録は殆ど残っていないのが残念に思う。


パソコンも当初はデスクトップ型の高価で大きいものしかなかったが、ノートパソコンが手に入るようになり、最近では携帯に便利なタブレット型も安く手に入る。

いつしか、本も画像のままやテキスト化して読むことが多くなった。

また、プライベートの日記やエッセイなどはパソコンで綴ることが殆どとなり、紙媒体での記録は殆どなくなった。

学生時代はノートにしっかりと書き続けていた。

その日記はスキャンしてjpegファイルやPDFで保存していて、ブログを書いたりするときに活用してきたが、テキスト化するのが非常に手間で殆ど見るだけだった。


こうして簡単に紙媒体の手書き資料がテキスト化できることになると、かつてのノートや手紙をスキャナーで画像化してテキスト化しようと思う。

紙媒体のものは保管した物を探し出して読むのが非常に手間で、いつでもパソコンやスマホで読める方が便利だからだ。

逆に、必要なことはノートやメモ帳に書いておいて、後でテキスト化することもできるだろう。

というのも、手書きの日記や手紙は文字の中に当時の自分や彼女の心が刻み込まれている。

手書きが不要な時代だからこそ、あえて手書きで書く価値が出てきたように思う。

そして、必要とあればOCRでテキスト化すれば良いのだ。


何でもデジタル化されてきた時代だが、AIがまたアナログの世界を復活させてくれるような気がする。

以前ブログでも書いたが、音声を文字化することも簡単にできるようになったし、こうして手書き文字もテキスト化できるようになった。

声や文字にしろアナログで残された物には、単に意図された意味以上の意図せぬ情報が含まれている。

そのアナログの声や文字もそのままデジタル化できるようにもなっているので、テキスト化された文字やデジタル化した写真と組み合わせて見たり聞いたりできる。

AIの進歩は生成AIでの無人化の側面だけでなく、アナログ世界の復活の面も評価すべきのように思えた。


2025年8月27日水曜日

空調服にアイスベストへの回帰

 空調服を使い始めてから6年以上経っている。

農作業に必要を感じて思い切って買った。

当時は、まだ学校もエアコンが完備されていなくて、授業をする時に空調服を着けたこともあったが、まもなく禁じられてしまった。

元来、空調服はチョークの粉を吸い込むので、黒板の授業では適してはいなかった。

私はかなり前からパワーポイントで、チョークを使わない授業をしていたので問題は無かったが、生徒からうるさいとクレームがあったようだ。

空調服の最大のネックは大きな音である。

そして、灼熱の屋外では熱風を身体に吹き付けて、汗まみれにならないと涼しくならないので、体臭が気になる仕事には不向きだ。


汗をあまりかかなくて済むように、吸水性の高い合成繊維(PVA)のベストに水を含ませて着てみたが、直ぐに乾いてしまって涼しさもさほど持たなかった。

他にも吸水性が長引く生地のベストを購入して使ってみたが、気休め程度でしか効果は無かった。

水冷服も検討したが、保冷剤を装着するアイスベストが一番良いと思って少々高かったが購入した。

このアイスベストはメッシュ素材で保冷剤を入れるポケットが背中に上下2カ所と両脇に二カ所付いていて、その大きさ用保冷剤もついていた。

保冷剤をジプロックのようなビニール袋に入れて、冷凍庫で凍らせて使った。

効果は非常にあったが炎天下では2時間が限界で、アイスボックスの中に交換用の凍らせた保冷剤を持っていって使ったりした。

効果はそれなりにあるにしろ、アイスベストと保冷剤の2セット買って、メンテナンスをこまめにやらねばすぐ汗臭くなる。

だから、朝の涼しいうちに農作業をやり始めてからは空調服だけで済まし、面倒なアイスベストは殆ど着ていなかった。


一方で、ペルチェベストが話題となり、ワークマンで買おうとしたが売り切れで買えなかった。

そこで似たようなペルチェベストを買ったのだが、洗うことが不可能なので、汗をあまりかかない室内だけしか使えなかった。

充電が空調服以上に面倒だったし、持続時間も大したことが無かったので、気が向いたときしか使わずにいた。

それが、今年になって冷却プレートを取り外して、洗えるペルチェベストが売り出された。

これだと保冷剤の管理が必要ないと思って、空調服と併用するために購入した。

ところが、ペルチェベストはエアコンと同じように、排熱するファンが必ず付いている。

そのファンからうまく熱が逃げないと、冷却プレートは逆に熱くなってしまう。

空調服はかなり吸引力の強い状態を保たねばならなかった。


今年の夏はあまりにも暑いので、農作業は早朝だけにして、夕方するのを辞めたのでアイスベストもペルチェベストも必要では無かった。

その代わりに涼しさを感じるシャツミストを買って、空調服の内側にスプレーすることにした。

これは効果てきめんで、早朝の農作業や散歩では十分役に立っていた。

ところが、朝食後の散歩では暑すぎて犬の方がまいってしまったので、散歩を朝食前にして、農作業を後にすることにした。

少々暑くてもシャツミストで、暑さを感じずにはいられていた。

ところが、作業後にシャワーを水で浴びて冷やしても、なかなか汗が収まらない。

シャツミストは体温を下げてはくれてなかったので、身体の芯に熱が籠もっていたのだ。


それで、シャツミストは補助的に使い、急遽ペルチェベストを着込んだ。

散歩では空調服が古くて風力が弱いので直ぐに暑くなり、空調風を脱いでペルチェベストを露出させた。

見た目にはコンプレッションのシャツにペルチェベストで格好が悪いが、涼しさの上では問題なかった。

しかし、朝食後の農作業では無理だと分かったので、保冷材を使うアイスベストをもう一度着てすることにした。

それによって、農作業後の汗も早く収まるようになり、疲れ方も改善された。

たぶん、水冷ベストを使っても同じ効果はあるだろうが、アイスベストの方が安上がりだし、充電器が必要で無いので軽い。

確かにメンテナンスは手間だが、この方法で気象破綻した日本の夏を乗り切るしか無い。

このように暑さ対策は費用はかかるが、室内でエアコンが必需品であるように、室外では空調服と保冷ベストが必需品になったのだと思う。

最近ではドライブや買い物にやって来た人でも空調服を着ている人を見かけるが、さすがに私は薄着で済ませてそこまでは使わない。

村では空調服を持っていながら、保冷ベストを使いこなせて無くて、涼しくないから使ってないという人がいるのが残念だ。

暑い部屋でエアコンを使わずに扇風機で済ませているのと変わらないのに・・・・・








2025年8月25日月曜日

戦争放棄の戦略

 核兵器を持った方が安上がりという人が国会議員になったが、日本が核兵器をもつことをアメリカが黙認すると思うのかと聞いてみたい。

アメリカは自分たちの戦争に協力する自分たちより弱い自衛隊を望んでいるが、敵対する可能性のある対等な自衛隊は望んでいないだろう。

高度なロケット技術を持っている日本に、アメリカが自由に使える核兵器を持つことを見逃してくれるはずが無いと思う。

アメリカにとって日本人が戦争は絶対反対と言ってくれてる方が、太平洋戦争で受けた恐怖から立ち直れない状態の維持で都合が良いと思う。

喧嘩でボコボコにして実力の差を見せつけてしまえば、その恐怖から二度と喧嘩を仕掛けないのと同じだ。

一方戦争放棄は、一時はアジア地域で軍事力によって植民地支配していた日本が、もう戦争して迷惑かけないから安心してねと言うメッセージでもある。

日本に軍事侵略された国はアメリカに従順な日本の方が安心だろう。


ただ、戦争放棄を憲法に記載した日本に衝撃が走った。

ロシアが核兵器を脅しに使ってウクライナ侵略を実際に行ったのだ。

これは場合によってアメリカが核兵器を脅しに使って日本を侵略するのと同じだろう。

核兵器を脅しに使って侵略してくる相手に、それなりの軍事力を持って対抗せねばならないことは当然だと思う。

しかし、もしアメリカの言うとおりに軍事予算を上げてもっと武力を高めても、核兵器が持てない以上はアメリカに利用されることしかないことも分かっている。

むしろ、一時期待された核兵器を無力化するためのレールガンなどの兵器の実用化を急ぐべきかもしれない。

そして何よりも、今までは戦争放棄で何とかアメリカの戦争に加わらずに済んだことを忘れてはいけない。

そもそも、中国の経済力を高めた背景には日本の援助があるわけだから、ある意味でアメリカを相対的に弱体化させた原因は日本にもある。

その日本が台湾有事でアメリカと一緒に戦争したら、援助は中国に利用されたことだけになる。

日本は台湾に対しても中国に対しても戦争回避をするように働きかけなければ、アメリカの思うつぼになってしまうことにもなる。

アメリカにとって北朝鮮の核開発問題にせよ台湾問題にせよ東アジアの危機は、存在価値を示す良い機会なのである。

アメリカに従属しながら戦争放棄を貫いて東アジアの平和を保つことに努める日本の存在意議はここにあると思う。


第二次世界大戦の敗戦国である日本とドイツは核兵器を保有していない。

その両国とも経済発展を遂げている。

軍事力よりも経済力を付けることに専念できたからだとよく言われている。

アン・ケース/アンガス・デイートン『絶望死のアメリカ―資本主義がめざすべきもの』

みすず書房(2021)を読めばアメリカの深刻な状態が理解できる。

本来なら謙虚に立て直しをアメリカは図るべきだろうが、過去の栄冠のプライドと突出した軍事力がいまのトランプ大統領の独裁に繋がっているのだろう。

戦争を続けなければ国家を維持できないのがアメリカなのだから、面従腹背の戦争放棄で今は日本人の経済格差で右傾化しているのを是正するべきだと思う。

我々日本は対外的な危機では無く、対内的な危機に直面していることを認識すべきだと思う。


そして、最も重要なことは、戦争による環境破壊の促進である。

これは石油や天然ガスの施設の破壊と言うだけで無く、マスメディアやネットでは環境破壊よりも戦争の関心が強くなる。

これだけ温暖化が進行して生活に影響しているというのに、戦争の方が重大なニュースとなっている。

戦争で原油やガスが値上がるのは、コストの高いシェールガスの多いアメリカにとっては好都合で、トランプは掘って掘って掘りまくれと言っているのだ。

そして、戦争がウクライナやガザで深刻になればなるほど、アメリカの存在価値が上がり勝手に関税もかけやすくなる。

アメリカは自ら戦争に加わらずに武器や燃料を通して国費をつぎ込んだり輸出して景気が良い。

戦争を利用して繁栄し、環境破壊を進めるアメリカと一線画せる方法は戦争放棄だろう。











サツマイモを三食の一食に

 沖縄や奄美では戦後しばらく主食はサツマイモだった。

2008年に奄美の与路島で民宿に泊まったときも、そこのご主人はサツマイモを米飯代わりに食べたりしていた。

主食だった当時の奄美では冬の寒い時を除いて、収穫しては植え付けて食べ続けていた。

霜が降りない年は、冬場でも畑に埋めたままにして掘り起こして食べるのが普通だったようだ。


本土では秋には掘り上げて、きちっと温度を保って保存しないといけない。

秋には寒くなるので掘り上げて蔓を埋めても芋はできない。

しかし、このところの暑さは沖縄や奄美にも勝っている。

今年は雨が少ないので生長が悪かったが、しっかりと水をやって蔓をしっかりと伸ばすことに努めた。

天気予報では暑さがずいぶんと長引くようだ。

まさしく、本土の秋は無くなって沖縄、奄美の夏の気候に近いと思った。

そこで、サツマイモを掘りながら植え付けてみることを思い立った。


今回、試しに1本掘り上げてみると、握りこぶし二つ分ほどの芋が二つ採れた。

その掘って芋を取り除いた根をその上の蔓も幾分か一緒に埋め戻して置いた。

他の場所に蔓を差しても良いかなとも思ったが、秋物や冬物も作らねばならないので、同じ場所で試すことにした。

因みに、サツマイモはできたら毎年同じ場所で作る方が良いとされている。

その後も、毎日一株ずつスコップで芋を掘り起こしては、株と根を埋め戻して水をやっている。

どの株もそこそこ芋は大きくなっており、店で売られているのに引けはとらない。


これでまた、芋ができるかどうか分からないが、今までのように一気に掘ってしまわずに、少しずつ掘って埋め戻す方法を寒くなるまで続けようと思う。

本土の気候は夏場が長く亜熱帯と同じになったので、それなりに対処する一環の取り組みであるが、稲でもひこばえから収穫しようとする取り組みと一緒だ。

現在の私の食事は朝食だけ雑穀米を食べて、昼食は自家製の野菜や豆を中心としたスープと茹でたジャガイモ、夕食はもち麦全粒粉入りのパンをメインにしている。

要するに米離れを心がけているのである。

ジャガイモも収穫した春ジャガが食べ終わりかけていて、秋ジャガまで持つか分からないので、サツマイモはそのつなぎでも使えそうだ。

本土はなんと言っても冬はまた極端に寒くなるので、寒さに強いジャガイモは欠かせない。


以前にも書いたが(サツマイモへの思い入れ)、私の父はサツマイモを主食のようにして、大切に育てて保管して食べていた。

私はサツマイモをジャガイモ同様に三食のうち一食は主食とし、自給できるようにしたいと思っている。

現在、購入した玄米は一週間に1合ほどしか私は食べていないので、もう主食とは言えない。

一方で、毎週日曜に家内と外食するときは、回転寿司などどうしても白米を食べることになるので、白米は特別なご馳走の位置づけになった。

これはたぶん、昔の本土の百姓の米の食べ方よりは贅沢な食事だと思う。

だから、気候崩壊に耐えられるリッチな現代版エコロジカル・ファーマーを目指していると言いたい。





2025年8月23日土曜日

あ~夏休み!が終わる

家内は学童に勤めているので、夏休みの方が普段よりも忙しい。

3日に1回は早出で七時半に家を出るので、 わたしもそれに合わせて動かねばならない。

そのほかの日も弁当を持って昼前に出かけていくが、普段は昼食をとってから12半頃d出かける。

私が完全退職してからずっと家にいるので、昼食や夕食を忙しく用意している。

私はレトルト食品を買い込んでいるし、昼食用に野菜スープを自分で作っているので気を遣わなくて良いと言うのだが、そうはいかないらしい。

我が家は子どもに教育費が多くかかったので、生活費を切り詰める習慣ができていて、私の年金や退職金の残りで何とか暮らしていける。

だから、忙しくて身体に負担があるのなら、仕事を辞めるなり非常勤で働くように言っているから、無理してでも家事をこなそうとしている。


だから、家内は毎日が忙しい夏休みが終わるのを心待ちにしている。

8月の下旬になると「あ~ 夏休みが!やっと終わる!!」と家内は喜ぶ。

私は「あ~ぁ 夏休みが 終わってしまう」と嘆くのだ。

退職して夏休みも普段の日も変わりは無いし、プールが混んで泳ぎづらくなるのだから、夏休みは私も楽しいわけでは無い。

しかし、夏休みは私にとって今でも気持ち上で欠かせないものなのだ。


私は幼稚園から教師を退職するまで夏休みが無かったのは、中学受験の塾と大学受験の予備校に毎日通っていた2回だけだと思う。

退職後はプールの非常勤コーチで一度だけ夏休みが無かったが、それ以外は高校で非常勤で働いているときも夏休みはあった。

60年間染みついた夏休みは完全退職後も心身に染みついているのだ。


夏休みには色んな想い出が詰まっている。

幼稚園から大学院までの学校、教職に就いてからの想い出に残る多くが、夏休みが舞台なのである。

先日もNHKラジオの「マイあさ」で、子どもの夏休みの過ごし方と家庭や親の格差について話があった。

児童・生徒が塾などに通えるかどうかと学力格差、色んな体験がさせられるかどうかと経済格差、親の学歴による教育格差の問題を取り上げていた。

家内から夏休みで家に親がいても、学童にやってくる生徒の話を良く聞かされる。

せめて休みの日くらいは子どもと関わって欲しいというのが家内の気持ちだ。

たぶん親としたら、休みの時くらい普段忙しいのでゆっくりと過ごしたり、自分のやりたいことがしたいのだろう。

このごろは企業も夏休みを多くとることができるようになっているが、教師のように授業が無くなるような仕事の軽減は無いだろう。

ただ、これからの酷暑の時代は仕事の軽減や、有給休暇のまとめどりなどの改革が必要だと思う。

そして何よりも、小学生は親子や家族、親戚、近所の人が一緒に過ごすことの楽しさを知る時間を確保するべきだと思う。

中学生や高校生ではクラブ活動以外にも、学校では学べない読書や体験、趣味を得て次のステップへのモチベーションを得る良い機会である。

大学生以上の学生は、就職しても続けられる独自の特技や趣味などの生きがいを身につける良い機会だと思う。

要するに自分の日常生活の大半を占める学校や職場との関係をなるべく絶って、自分にとって楽しいことや興味あることが自由にできるのが夏休みだった。


「教師は夏休みが有って良い」と確かに言われ続けたが、それはバブルの頃あたりまでで終わっている。

授業の負担が無い変わりに、研修やらクラブ活動などに忙しくさせられるようになってきた。

クラブ活動は熱中症などの深刻な事故があったので、しっかりと付いていなければならなくなった。

採用されたときは自宅研修が勝手にできて、午前中はクラブ指導して午後は自宅研修をしていた。

そのうち計画と報告が義務づけられ、気楽に自宅で過ごしたり研修旅行できなくなった。

バブル時に教員が不足して給料を上げたのだが、バブルがはじけて相対的に給料が良くなりその分、民間同様の拘束された就業を強いられていった。

ただ、授業が無いので今まで取れなかった有給休暇を取ることなどができることは助かっていた。

そうなると、自分でしっかり勉強や体験、自己研鑽に励むより、せっかくの休暇を楽しく過ごしたいというのが普通だろう。

そういえば、夏休みにクラブの顧問同士の付き合いに無理をして亡くなってしまった教師もかつて在職した学校でいた。

教師とてもそんなに夏休みが過ごしやすいものではなくなってきたので、普段のブラックな仕事を夏休みの魅力で補うことはできなくなっている。


完全退職の現在は、時間は研究と農作業に多く割き、健康管理に歩きと水泳にも時間をしっかりかけている。

夏休みと言うより夏場の方が農作業が忙しいので、冬場の方がゆっくりと研究や歌の練習ができている。

だから、現役の頃の夏休みをふと思い出しながら、過ぎていくのを惜しんでいるだけなのだ。

以前勤めていた大学附属高校で、一年2学期制だったころは秋休みがあった。

その時に、季節も良く旅行客も少ないので安くできる海外旅行をする教師もいた。

秋は収穫で忙しいのでが、私は昔の百姓よろしく、冬場の農閑期を夏休み並に活用しようと思っている。

あと何年健康で活動できるか分からない老人だからこそ、長期の自由な時間がかけがえのない時間となっている。



2025年8月21日木曜日

夏バテする我が家の番犬クロ

 このところクロの餌入れに蟻がいっぱい集(たか)っていた。

原因が何か分からなかったのだが、この二・三日散歩から帰ってきても餌をすぐには食べずに、後から食べても残していることに気がついた。

以前は、餌がもの足りないのか綺麗に餌入れを舐めていたのだが、それをしていないから蟻が集ったらしい。

実は、去年までは早朝の涼しい時間帯にしっかり一緒に歩いていたのだが、私の都合で朝でも暑くなった時間になってしまった。

用水路に入って何度も腹を水に浸しながら水を飲んでいるのだが、家に戻るとデッキの下に潜ってしまう。


クロはハウンド(猟犬)で室内で飼う犬では無いので、南側の吐き出しの窓から伸ばしているデッキの横に小屋を置いてある。

去年はエアコンが壊れてしまっていたので、犬小屋の横にある室外機はあまり動いていなかった。

今年は新しいエアコンの室外機がフル活動している、その温風も厚さの原因となっているとも思う。

暑い日のクロは犬小屋には殆ど入らず、デッキの下の狭い空間で寝そべって過ごしている。

去年までは昼間は温和しくても、夜になったら元気に動いて音を立てていたのだが、今年は夜も静かなのである。

ついに餌を残すまでに至って、こちらも完全に夏バテとして対策せねばならなくなった。


そこで、今朝からは朝五時に起きたらまず、クロと散歩に出かけることにした。

これまでより、しっかりとした歩きでいるのが分かった。

何度も入っていた用水路も回数は減った。

ただ戻って来て水を飲んだきりデッキの下に入ってしまい、餌はデッキの上に置いておいた。

しばらくすると食べていたのだが、まだ調子は戻ってはいない。

餌を寝そべったまま食べるし、やはり同じように残すので量を減らした。

そこで室外機からの温風がいかないように仕切りをしてやり、犬小屋の上にもすだれをかけてやった。


うちのクロがここまでバテてしまうのは、朝の散歩と室外機に大きな原因があるとは言え、やはり連日の酷暑が一番の原因だ。

先週は、雨が続いたがちゃんと犬小屋に入って過ごしていた。

室内で飼われている犬はエアコンの恩恵を受けているだろうが、クロのように庭などで飼われている犬にとって残酷な夏になってしまっている。

熱帯雨林の地方で高床式の家屋が作られている理由は人にとっては雨などの対策だが、家畜などがその下で涼しく過ごせることも重要だ。

奄美の高倉も雨の日の作業や山羊などの家畜の居場所に役に立っていたようだ。

来年の夏に向けて、高床の倉庫建てたり、デッキを改良することを真剣に考えねばならないかもしれない。

これからの暮らし方は、熱帯雨林やサバンナ気候の暮らし方も取り入れる必要があるだろう。

もう既に、亜熱帯の沖縄は海洋性気候でより温帯の本土よりも涼しいので、夏は避暑に沖縄に行く方が良いかもしれない。




2025年8月20日水曜日

安い米より安全な米

 以前にも書いたが、我が家は近所の米農家から30kg8000円という安い玄米を購入している。

街に住んでいる人は安いと思うかもしれないが、水田の用水路の溝掃除や道作りの作業も行っている。

村では水田を所有していて当たり前なので、うちのように水田を持たない人からの作業に対する文句は出ない。

その米農家は街から買いに来る人にも同じ値段で売っているので、配達してもらっているとはいえ、特別安くしてもらっているわけでは無い。


今回、もうその米農家から購入するのを止めることを決意することが生じた。

今まではトラクターに噴霧器を付けて農薬を撒いていたのを、今年からラジコンヘリで撒きだした。

その米農家が耕作している水田は我が家とか向の家に隣接している。

米農家自体の家は水田から離れたところにあって問題ない。

JAに委託して、農薬を自ら浴びること無く済ませることができたのだ。


この地に家を建てて引っ越してきたときに、裏は水田でそこで所有者が手作業で農薬を浴びながら撒いていて、我が家の中にも農薬が入ってきていた。

やがてそこは畑と倉庫に変わって、農薬が家の中に入ってくることが無くなっていた。

農薬の空中散布は何度も繰り返して書いてきたように、EUでは禁止されていて危険なものだ。

アメリカなどの大農場でやるべきことを、日本ではどこでも平然と行われている。

ついに、民家のそばの水田にまで農薬の空中散布し始めたことに憤りを禁じ得なかった。

今まで安く分けてもらっていた手前で文句を言うこともできない。

これからは高い玄米を買うことでは出費になるが、その米農家から買うのを止めにした。


コウノトリの親子も農薬の空中散布を米農家がドローンなどでし始めて、近くにいなくなっていたが、親鳥は戻って来ている。

そして、餌を探しているのは主に、休耕田である。

米不足で休耕田も減って、餌探しも大変そうだ。

豊岡のようにコウノトリが安全に棲めるような水田に変えていく気運もない。

私はこれからは減農薬の特別栽培米を作っている千種や波賀の玄米を買いに行こうと思っている。

千種高校に非常勤高校で勤めていたときは、安い玄米を買っていたので買う気になれなかった。

千種高校の生徒も栽培に関わっている特別栽培米の「ちくさの舞」も買ってみようかと思う。

また、豊岡ではコウノトリ棲息のための水田を維持していて、コウノトリ米として売り出している。

それを支援するためにも今後は買うことも考えている。

健康のため、環境のため、無理をしてでも安全な米を買うことに決めた。


2025年8月19日火曜日

荒れる畑は未來の予兆?

 ついに、ズッキーニが枯れ出した。

寒冷紗で暑さを和らげて、元気を取り戻していたのだが、大雨の後の高温で限界が来たらしい。

10本ほど植えたのに、これまでの収穫は数えるほどしか無かった。

高温の気候では難しいので来年は諦めるか、最初から寒冷紗を使って栽培するか考えねばならない。

カボチャも雄花ばかり咲いて、蔓は元気そうに見えるが実がならない。

トマトもミニトマトはそこそこできたが、大玉は数えるほどしかできなかった。

例外的に良くできたのは白ナスビで、これは近辺でも同じらしく売っている値段も安い。

逆に、水ナスはいっぱい水をやったのに、生長が悪く実もできが悪い。

それでも、実験的に栽培している低い丈の高黍(コーリャン)が比較的元気で穂を付けて、花を咲かせ始めている。

ただ、去年の高い丈の高黍は花が咲いても実がならなかったので油断はできない。

里芋はさっぱりだが、サツマイモは水をしっかりやったお陰で蔓だけは元気に伸びている。

一番期待しているのはオクラで、水をしっかりやったので元気になって、実を沢山付け始めている。

オクラは買っても安いのでそれほど人気は無いが、長けても硬くならない丸いオクラを毎年作って長くならし続けている。


私が作っている畑は作物で青々しいのだが、近所の畑には雑草で青々しい畑がいっぱい有る。

自然農法を頑張っていた近所の若い人もお手上げ状態になっている。

お年寄りのしている畑も殆どの作物を枯らしてしまっている。

知り合いで家庭菜園を頑張っている人も、作物のできの悪さをぼやいていた。

いつもながら立派な畑は年配の奥さんが朝晩畑に出て頑張っているところだけだ。

この奥さんは空調服も着けずに暑そうな格好で、空調服を着ている私が避ける時間帯でも畑に出て、主に水やりをしている。

そこまでしないとこの酷暑の露地栽培は持たなかったのだ。


例年、家庭菜園は夏物の作物をしっかりならすのが楽しみだった。

ところが、こういう酷暑になると作業も辛いし、せっかく頑張ったのに作物も応えてくれない。

やり方を根本的に考え直さねばならないように思う。

例えばトマトは雨除けをするのが普通だったが、今は日除けが必要だろう。

どうも、瓜系統は暑さに弱いようなので、暑さ対策を最初からする必要が有るように思う。

それには、寒冷紗も有効だが高黍の間で作る手も有るように思う。

近所の若い人は水やりがちゃんとできなかったようだが、酷暑ではポンプを使わないと身体がもたない。

今年は水を作物にやる対策ができなかった畑は深刻なダメージを受けている。


これから実験的に行いたいのは、秋から冬にかけての作物や冬から春にかけての作物に力を入れることだ。

今までは秋ジャガにはあまり力を入れなかったが、今回は種芋も注文しておいた。

早く成長する夏物野菜を秋に作り直す手もありそうだ。

また、夏の草抑えとしての藁をエン麦でしようと種も買った。

麦は食べることよりも緑肥やマルチとして活用した方が良さそうなのだ。


北海道でも温暖化の影響で山や川に食べ物が無くなって、農作物や人を食べる被害が出ている。

自然界は急激な気候変動にすぐには適応できていない。

この気候変動で野生の動物たちは追い詰められていき、何とか人の手で維持している畑を荒らしに来るだろう。

当然それに対する垣やネットなどで対策をしなければならないとは思っている。

だから、農家も温暖化を加速させるような畦などの除草剤の使用や、ポリマルチの多用は避けた方が良いように思う。

このところ、太陽光発電の影響で村の周りや畑の放棄地が太陽パネルで覆われてきている。

二酸化炭素を減らして温暖化を防ぐ取り組みが、村近辺の温暖化を進めているようにも思える。

また、どうせ太陽光発電するなら電動農機具をもっと開発して、それを活用できるシステムを構築すべきだ。

何度もこれからも繰り返し訴えたいと思うが、食糧危機は目の前に迫っている。

革命的な対策が今必要とされている。






2025年8月17日日曜日

ネズミ、恐るべし

 私は奄美の与路島に村落調査に行っていたとき、教員住宅に長期滞在させてもらったことがある。

墓場の一角にあった当時の教員住宅は、作りも古くネズミがよく出没した。

下手に食べ物を置いておくと囓られてしまい、固形石けんまで囓られていた。

そこを毎日訪ねてきた地元の友達がいたのだが、彼にそのことを話すと「ネズミが聞いているから、言わん方が良い」と諭された。

つまり、ネズミが人間の言葉を理解して、悪口を言っていたら仕返しをするという意味だった。

私たちの感覚では、害になるネズミは即刻駆除というものだが、シマの人の感覚は恨みを買うと不味いというものだと思った。

実は、ネズミは場合によってハブを呼び込んでしまうので、軽視できない存在だったのだ。


周りが農地の上郡の私の家でも時折ネズミが出没して、それを駆除したり追い払うのに苦労している。

ネズミが嫌がるという音や光を発する装置を付けているし、天井を走り回るときには嫌がる匂いの忌避剤や殺鼠剤を置いたりもする。

効き目があるのは一時で、直ぐに慣れられてしまうので、結局は捕まえねばならない。

大きなネズミの入り口は換気扇で、うまくこじ開けて入って来るので、対策をしようと思っていて忘れている。

ハツカネズミほどの小さなネズミは、玄関や窓の隙間が開いていればいつでも入れる。

駆除する方法は粘着トラップだが、そう簡単にはかかってくれない。

まさしくネズミとの知恵比べで、警戒されないように上手に餌などを置かねばならない。

大物がかかったらかかったらで始末が大変で、チューチュー鳴いているのを粘着シートをたたんで持ってゴミ袋に入れねばならない。

大概はその仕事は私の役割なのだが、家内にも先日やってもらったら嫌そうだったがちゃんとできた。


今回も連続して大きいのを2匹捕まえたのだが、問題はそれで解決しなかった。

どういうわけか、ガスコンロの一つが着火しても直ぐに消えてしまう。

家内が下を覗いたら、安全装置の線が切れているという。

どうも、ネズミに囓られたらしい。

食べられもしない細い銅線を囓るなんて嫌がらせか、ただの遊びか。

多くある線の二本しか囓られていないので、匂いがするので囓ったが食べられなかったと言うだけかもしれない。

とにかく修理に出したら手間と費用がかかるので、私が直すことにした。


その囓られた線は非常に細くて、釣りに使うハリス程度なのだ。

銅線のカバーをライターで焼いて剥がして、少し出た銅線を繋ぐのはかなり難しい。

二つの線を上手くねじれないので、テープの代わりに絆創膏を使って止めて置いた。

しばらくはそれで持っていたのだが、しばらくつすると熱で緩んだらしく、またつかなくなってしまった。


今度は家内に手伝ってもらうことにした。

以前手芸のビーズをしていたので、手先が器用だと思ったのだ。

今度はしっかりと銅線を捻ることにして家内にやってもらったのだが、どうもうまく繋がらない。

間違った線に繋いだのかと思ったが、交換してもうまくいかない。

見ていて捻り方が気になっていたので、私が頑張って捻ってみた。

そうしたらうまく行ったが、本来は線を交差して絡ませねばならないのに、家内は線を平行のまま捻ってしまっていたのだ。

こういう電線関係では私はプラモデルのモーター関係で扱っていたのだが、家内にはその経験が乏しかったのが悪かったらしい。

これで面目躍如だが、家内の手先が器用という評価が下がってしまった。


とにかく、自分で修理できたから大した被害とは言えないのだが、もし修理に出さねばならない状態だったら大変なことになっていた。

そういえばネズミにガス管を囓られて事故になったケースも以前はあったように思う。

今はヒューズがついているので大丈夫だと思うが、何をしでかすか分からない大変な相手であることに違いない。

私は常々、ネズミ対策に猫を飼いたいと言っているのだが、家内はその前に部屋を綺麗に片付けてちょうだいと言って了解してくれない。

私は猫を飼うことを決めたら部屋を片付けると言っているのだが、家内は自分がやらされると思っているようだ。

ただ、最近の猫はネズミを捕まえてくれないそうなので、決定的な対策にならないかもしれない。


現代では野良猫や野良犬がいなくなっても、このネズミだけはいなくなりそうに無い依然恐るべき動物だ。

ディズニーランドのミッキーやトムとジェリーのジェリーは人気あるキャラクターなのだが、それらは欧米文化の流れにある。

東アジアや日本では干支の一番となっている食わせものであるし、ドラえもんの耳を囓ってしまった手強い相手なので、猫の方がキャラクターとしては人気がある。

そう言いながら、私は子どもの頃には白いハツカネズミやハムスターを飼っていたこともあって、ネズミそのものを毛嫌いしているわけでは無い。

要するに、家に寄生して害をなすネズミに敵意を感じているのだ。

さすがに毒ヘビは家の中に入ってこないので、当時の与路島の人のように深刻に扱うことはしなくて済んでいる。






2025年8月15日金曜日

日航ジャンボ機墜落事故とブルートレイン

 私は1985年に起きたこの事故のことを鮮明におぼえている。

当時は横浜の長津田に住んでいて、ずっとテレビでニュースを見ていた。

事故は8月12日だったが、私は13日の夕方にブルートレイン(寝台列車)に乗ってツレと山口に向かう予定だった。

ツレの仕事の都合で東京駅で乗る予定だったのに、事故の報道に夢中になってアパートを出ねばならない予定時間が過ぎてしまった。

ツレと電話で連絡を取り合ってから、一か八か一番駅の近い東急田園都市線の田奈駅まで走って行った。

田奈駅から長津田駅まで私鉄に乗り、長津田駅からJR横浜線に急いで乗りかえて横浜駅まで行った。

横浜駅でそのツレが既に乗っているブルートレインに何とか乗り込んで事なきを得たが、ジャンボ機の迷走よりはましにせよ、連れも私も寿命が縮まる思いだった。

事故と自分のハプニングが一緒になって、毎年8月12日はその時の記憶がよみがえってしまう。


今年は事故から40年目にあたり、テレビなどでは色々と特集していたので、ウィキペディア(Wikipedia)で調べてみた。

改めてこの事故が「死者520名という日本では史上最悪の航空事故で、単独機の事故としても世界史上最悪の航空事故となっている」であることに驚いた。

日本だけならともかく、世界史上でも最悪というのは知らなかった。

このところ、亡くなった人を追悼することや、遺族の高齢化で事故の風化を懸念することなどの番組が多い。

しかし、事故の原因が分かっていて、それを政府がきちっと対処しなかったことに対しての報道がなされていない。

世界史上最悪の航空機事故に対する企業と政府の対応の仕方を問題視した特集をもっとしてしかるべきだろう。

戦争の悲惨さが自然災害のように描かれるのとなんら変わりが無い。

戦争はいけない、飛行機事故はいけない、しかし、どちらもなくならない。

勝者側に立った戊辰戦争、日清戦争、日露戦争が否定されず、敗者側に立った太平洋戦争だけが否定されている。

それに似て、事故さえなかったら便利だが危うい飛行機が否定されることは無い。

戦争を多くの人が否定しているのは、太平洋戦争では被害にあった人が身近にいて、国民全体が責任を負わされて戦争そのものを否定させられたからだ。

飛行機自体が否定されないのは、事故で亡くなった人は身近にいなくて、しかも責任はなく、飛行機の構造やシステムを否定されなかったからだと思う。


実は、私の亡父は死ぬまで一度も飛行機に乗ったことが無い。

頑なに飛行機に乗ることを拒み続けたので、両親は海外旅行に一度も行けなかった。

「あんな鉄の塊が空を飛ぶなんて信じられん」というのだ。

実際は鉄の塊では無いのだが、かつて100トンほどの木造船を運航し、造船所で鉄船に関わってきたことからそう感じたのだろう。

本人は言わなかったが、この日航機事故を意識していたのかもしれない。

その一方でその父の孫にあたる私の甥が民間機のパイロットになった。

就職した時は、父は既に他界していなかったのだが、生きていたら孫になんと言っていたのだろうかと思う。

そして、パイロットになった息子を誇らしく思う反面、事故の恐ろしさを知っている両親はこの事故に関してもそれなりの思いがあるだろう。


事故の報道に気をとられて危うく乗り逃しかけたブルートレインは既に廃止されてしまった。

安くて便利な夜行バスもさることながら、何よりも格安航空の影響も大きいと思う。

日航機事故の教訓が活かされてか、航空機事故は殆ど無くなってはいる。

しかし、安全神話はいつかは崩れる。

福島原発のように、予想された自然災害を軽視して起こった事故もある。

去年起きた羽田空港地上衝突事故はパイロットの勘違いによるものだった。

そして、最も忘れてはいけないことは、飛行機こそ戦争では無差別な爆撃を行い、原子爆弾を投下するのに使われたものだ。

そして、今でもミサイルやドローンと共に戦闘機として戦争の主力を担っている。

そのことを考えると、亡くなった父が飛行機を怖れたことを年寄りの戯言(たわごと)と嗤うことはできない。




2025年8月13日水曜日

髭トリマーで十分な頭髪

 去年までは髭を蓄えていて、その経緯は「髭と髪とデニムジャケット」に書いてある。

自分では似合っていてダンディーだと思っていたのだが、やはり髪が白いこともあってかなり老けてみられていることが分かった。

仕事に行っていない上に高齢に見られたら、自分自身の心も老けてしまうように思った。

そこで、せっかく伸ばして手入れしていた髭を、思い切って剃ることにした。

確かに、髭を剃ることで若く見られるようになったが、髭トリマーが不要となってしまった。


そこで、何か使い道は無いかと考えた。

とりあえずは、安い散髪屋でスポーツ刈りにして貰って、伸びてきたら生え際を髭トリマーで短くすることにした。

これは大正解で、耳に当たる髪やうなじの細毛を髭トリマーでカットしてすっきりすることができた。

それを何回か繰り返していたのだが、さすがに3ヶ月以上も経つと頭頂付近の髪も長くなって、生え際とのバランスが悪くなった。

そこで、前髪の一部以外は髭トリマーでカットしてしまうことにしたのだ。


今までは、安物の電動バリカンで刈っていたこともあるのだが、髪の毛が薄い上に細いので綺麗に刈ることができなくなっていた。

その安物の電動バリカンに比べて、切れ味が良くてスムーズに刈っていくことができた。

ただ、髭用で巾も狭くてコームも小さいので、すぐに刃に髪が溜まって切れづらくなったが、こまめに取り除くことによって仕上げることができた。

こうしてやってみると、自分の頭髪は髭の手入れ程度で十分だと言うことを再認識した。

本当は髭のように剃ってしまった方が面倒無くて良いのだが、ただでさえ厳つい体格と陽に焼けた大きな顔で恐いと家内に言われている。

間違いなく、その筋の人と思われるのが分かっているので、スキンヘッドにはしていない。


夏場に相応しいスポーツ刈りは、冬場でも良いことがある。

寒さ対策にニット帽を被ると若く見られるのだ。

それでも髪の毛が髭程度の値打ちしか無いことに淋しさを禁じ得ない。

髭と全く違うのは髪は剃ってしまうと逆に人相が悪くなってしまうことだ。

実は私は発毛剤と勘違いして育毛剤のニューモを使っている。

解約しようかなと思いながら、何とか毛髪が残っているのもこのお陰かなと思って使い続けている。

中途半端に残っているので維持費がかかるのだから、無くなってしまった方が経済的といえば経済的だ。

しかし、このうっすらと残された細毛で人相を守っているのだから、大切しなくてはなるまい。

サザエさんに出てくる波平さんの頭頂部に残された1本の毛と、ある意味では同じなのかもしれない。

2025年8月11日月曜日

家業より軍隊を選び戦死した伯父と祖父

私の亡くなった父から、私の伯父にあたる父の実家の長男(大正15年生)の戦死について聞かされていた。

父によれば、まだ若いし長男だから志願して兵士にならなくても良いのに、一八歳で志願して乗っていた艦船が魚雷攻撃で沈没して一九歳で戦死したという。

一番父が言いたかったのは、「親父と一緒に船に乗るくらいなら軍隊に行った方がましだ」と言った伯父の言葉だった。

軍隊よりも嫌っていた祖父とはどんな人だったかは、父からいろいろ聞かされていたが、とにかく妥協の無い厳しい人だったようだ。

私と関わってくれた祖父は私に対して厳しく接することは無く、少しとっつきにくいがどこにもいる優しいおじいさんだった。

父が祖父と距離を持って接するのに対して、高校までは親しく接して庭師の祖父の手伝いをすることもあった。


この歳になって分かるのだが、祖父は家業の船での運送業(地元の石材輸送)で身を立たせるのに必死だったのだろうと思う。

長男が戦死したこともあって、3男の父にその思いが強くなったようだ。

次男の伯父は祖父の家と家業を継がせて、3男の父には独立させるつもりだったのだろうと思う。

だから、命がけの仕事となる船の運搬業の仕事の厳しさを教え込んでいたのだろう。

志願する前の長男に対しては、祖父の跡継ぎと兄弟を束ねる役割があって、それで祖父は厳しく指導したのだと思う。

軍隊の方が厳しい訓練や上下関係があるのにと一見思えるが、軍隊は家業よりも名誉と報償が与えられる。

伯父にとっては同じように厳しいのだったら、軍隊の方がマシだと感じたかもしれないが、単に親への反発だけだったかもしれない。

そして、家業だったら安全第一で命まで落とさなかっただろうに、命を失ってしまった。


一方で、私の母方の祖父は長男では無かったし、家は魚船程度の船大工で大した家業では無かったので自ら望んで海軍の職業軍人になった。

それなりに兵役を終えて退役して会社で働いていたのだが、幼い娘二人を残して心ならずも招聘されてしまった。

航空母艦の機関兵だったのだが、艦の撃沈と共に戦死してしまった。

もし、職業軍人になっていなかったら、招聘されることは無かったかもしれない。

これも家業の差はあれ、自ら軍隊を選んだ結果だったとも言える。


戦後の日本では軍隊の代わりに家業から企業への転換が進められていった。

私の父もまさしく家業の船での運送業から造船所勤務に転職が行われた。

家業に活かす能力から、企業に活かす能力へと人材育成が進められていった。

私の父は学校での勉強を強要するが、自ら職能訓練をする必要がなくなったので、祖父ほど厳しく子どもを指導する必要がなくなった。

そして、子どもは親と一緒に暮らす必然性も無くなり、親子関係も希薄なものとなっていった。


父は、祖父との親子関係だけを私に語り訊かせていたが、家業の苦労と危険性のみ語り、家業を守ることの重要性とその意議を語ることは無かった。

自分自身が家業を捨てて立派に子どもを育てているという自負もあったのだろうと思う。

しかし、家業を失うことの家や家族の脆弱さに敢えて目をつぶっていたのだろうと思う。

農家が家業を放棄しだしたのも同じだと思う。

まず、娘を安定した収入のあるサラリーマンや公務員に嫁がせて、跡取り息子に何とか農家を継がせようとしたが、当然嫁不足で失敗する。

そして、跡取り息子も家業を放棄して、実家から離れていき、親が取り残されていった。


家業を失ってもみんなが幸せなら良いと思っていた。

しかし、その代償は大きかった。

生活環境と重なる家業は自然環境も大切にせざるを得なかったし、企業のような巨大な力を持ち得なかった。

利益優先の企業は自然環境を大切にする必要は無く、豊かさと引き換えに環境破壊を生じさせた。

そして、公害で汚染された環境に苦しんだ後、現代の温暖化によって灼熱地獄に喘ぐことになった。

こう考えれば戦争は男を家業から引き離し、国家や企業によって環境を破壊させていく先駆けだったように思える。

実は、父が家業を捨てて造船所に転職したのも、夫が戦死した祖母(父にとって妻の母)が造船所に働いていたことによる。

そして、世界一のタンカーを建造したその造船所は、相生湾をひところは死の海にしていた。

その造船所も斜陽産業となり、相生湾は自然を取り戻していって、牡蠣の養殖が湾の入り口で行われている。

祖父が守ろうとした船の運送業もトラック輸送に取って代わられていった。

そして、本家も分家である私の実家も後を継ぐ者を失ってしまった。



2025年8月9日土曜日

三流でも南山大学人類学科で良かった

 先日、近縁者と話をしていて大学の話が出た。

彼は九州大学に入ってまもなく辞めて、予備校に入って早稲田大学に入り直した。

しかし、四年間在籍したにも関わらず中退してしまったのだった。

何をしていたのかと聞いたら、アルバイトをしていたと言うことだった。

とにかく、入ることだけに力を尽くしてしまって、入ってから勉強をする気が無くなったらしい。

そういえば、学年で最下位ながら早大の法学部に現役で入った私のバンド仲間は、大学ではひたすらバイクのサークルに心血を注いでいた。

バイク事故で1年留年したが、ちゃんと卒業できたたのはサークルのお陰だろう。

一方で、都立大学の大学院には早大でしっかり勉強をして入ってきていた優秀な先輩もい

たが、フィールドワーク中に病気で亡くなってしまった。

私は大して受験勉強しなかったから、大学に入ってから勉強したと言ってしまったが、本当は好きなことをやっただけだった。

大学院に行ってから修士の先輩や同級生がいかに大学でしっかりと勉強していたかを思い知らされていた。

因みに都立大学の大学院の社会人類学専攻は学部からの進学は滅多になく、埼玉大学やICU、東京外語大等と多彩で、たまに東京大学からの進学者もいた。

私はそもそも英文を中心とした論文解読が辞書なしではまともにできない、フィールドワーカーに毛が生えた程度に過ぎなかったのだ。

だから、実力を養うための時間がもっと必要だったのだが、気負いだけが空回りして酷い十二指腸潰瘍など、心身も経済力にも限界がきて博士には進めなくなった。


大して勉強もせずにそこそこブランドのある都立大学の大学院に入れたのだから、南山大学人類学科は私にはありがたい大学だった。

家内は高校から曾野綾子の「太郎物語」を読んで南山大学のことを知っていたようだが、私は読みもしなかったので、NHKでドラマ化されて始めて知った。

太郎さんは一流の慶応大学の補欠を蹴って三流の南山大学(小説では北川大学)人類学科に入ったということだ。

学科の同級生にも愛知教育大学を蹴って同じ学科に入って頑張っていた友達もいたが、東大を落ちて入ってきた者はほとんど授業に出てこなかった。

女子が多く、就職とあまり結びつかないので、学科にしっかりなじめている者とそうで無い者がはっきりしていた。

そもそも、南山大学の赤本も買っていなくて、過去問も殆どしなかったし、願書の大学案内もまともに読んでいなかった。

私はこの学科しか合格しなかったので入っただけで、入った当初は単に浪人から解放されることと女子学生が多いのが嬉しいだけだった。

名古屋の叔父にはもう一年浪人することを奨められたし、父親には普通校に行った同僚の娘も南山大に合格して入ると嫌みを言われた。

とにかく惨めな浪人生から解放されて家を出たい一心で、見栄も外聞も捨てて行くことにした。

いい加減に入った大学で最初からうまく行かず、熱心に文化人類学を勉強したわけでも無く、軽音学部、剣道部もなじめず1年の途中で辞めてしまった。

たまたま文化人類学研究会の村落調査サークルに巡り会って、学問に目覚め、恋愛に目覚め、友情を暖めることができた。

奄美での村落調査も、大学によってはゼミなどで教師の指導の下で行うケースが多かったのだが、学生だけで長期的に自由にやれたのが良かった。


実は私の出身高校の淳心には、南山大学の神学科を卒業した英語教師もいたのだが、大学には関心が無かったので、教育実習の時に初めて大学の話をしたのだった。

教師になってからは生徒に南山大学のことを話したが、名古屋に行きたいという生徒もいなくて殆ど関心を持って貰えず、誰も受験してくれなかった。

都立大学も二期校だった頃の人気は無く、担任した生徒に強く勧めたが筑波大学に行ってしまった。

都立大学は社会人類学はブランドを持っていたが、学問に関心の無い生徒には魅力は無い。

ただ二期校時代は、高校の仲の良かった友達が人気と評判の高かった都立大学に入ろうとしたが果たせず、二浪して慶応大学に行った。

二期校で人気の高かった都立大学を落ちて早稲田や慶応にいったケースはそこそこあったようだ。

高校時代の担任の先生に都立大大学院のことを報告したら、名門校に入れて良かったと思わぬお褒めの言葉を頂いた。

やっと三流校の負い目から解放されたけど、私は三流の南山大学の方が、自分に合っていたし好きだった。

都立大学大学院は研究者になれば卒業しても関わりが長く続くようだし、今でも研究室の名簿は送ってきてくれる。

個人的には今でも連絡を取っている人もいるが、大学の仲間のような気楽な関係は少ない。


私が所属した南山大学の人類学科のゼミには、同期の一部が指導教官を中心としたライン仲間を作ってけっこう連絡を取り合っている。

私はゼミで懇意にして貰っていた女友達がいるかと加わったが、残念ながら彼女は入って無くてかなりがっかりしたが、加わって良かったと思っている

今回、そのラインでメンバーの兄弟が不慮の事故で亡くなったことを知った。

年齢的には私より一つ下で、同じ文化人類学研究会の部員でよく知っている後輩だった。

ラインでは彼を思いやる言葉が綴られていた。

私はこういう関係を他には持っていない。

私の人生にとって三流の南山大学人類学科こそかけがえのない存在なのだと改めて思い知った。

今は偏差値などや口コミでランク付けされて、集まってくる学生も以前の大学と違ってしまったようだ。

共通一次が開始された頃の年代である我々の世代は、格付けに左右されない魅力を大学自体に感じることができていた。





2025年8月7日木曜日

待ち焦がれた雨

 私は教師をしていた頃に、雨が大嫌いだった時期がある。

第二次ベビーブーマの生徒が荒れた時代の職業高校に勤めていた頃で、雨が降ると生徒が荒れた。

生徒の多くが自転車通学だったのだが、傘差し運転を無くすために校門で立ち番をして、差して来ている傘を取り上げて学期末まで預からねばならなかった。

本人が規則を無視したのが悪いのに、傘をとられた生徒は不満をぶちまけていた。

教室外などで発散できない生徒が、トラブルを起こすことも雨の日は多かった。

ただ、ハードな練習を外で行うクラブの生徒は、雨が降ると喜んでもいた。

一方で、校内の廊下や階段で練習するクラブもあって、放課後は職員室や準備室から出たくなくなった。

この雨の日の校舎内練習で、近隣の中学校では生徒が死んだところもあった。


そもそも、学校行事では雨が一番大敵だった。

一番嫌な思い出は、肢体不自由の特別支援学校で雨の日の校外学習で姫路城に行った時だ。

車椅子の生徒にカッパを着せるのも大ごとだったが、玄関でカッパを脱がせたりタイヤを拭いたりで大仕事になった。

姫路城内は舗装されていないところもあって、泥濘んだ道で車椅子を押してあげるのも大変だった。

雨で延期になる体育祭や球技大会はまだマシなのだが、雨でも行う文化祭もその対応に追われた。

とにかく、教師をしていた頃に雨を良く思ったことは無かった。


農作業をやり始めて30年以上経つが、やはり雨はあまり良いものではなかった。

作物以上に雑草は伸びるし、トマトなどは実が傷むし、毎日行うズッキーニの受粉も面倒になった。

水田を転用して畑にしているので水はけが悪くて、雨が降り続くとどの作物にも悪い影響が出た。

ところが、近年は夏場には高温で雨が降らないので、水やりに多くの労力をかけねばならなくなった。

現役の教師をしていた頃は、そんなに手がかけられないので、枯れたり萎れたりしたら諦めたりもした。

退職してからは、時間が有るのでその対応に、新たな溝を掘ったりエンジンポンプなどを使って散水するようになった。

それでも、去年までは気持ちが入らなくて、作物のできはあまり良くなかった。

ところが、このところ農作物の値上がりで、必要に迫られて力を入れざるを得なくなった。

朝の5時前に起きて、自宅の裏にある畑の水やりをしながら夏物を収穫した。

エンジンポンプは音が近所に迷惑がかかるので、長いコードリールを使って電動ポンプでくみ上げ、それをまた長いホースで散水した。


その農作業と散歩に関する暑さ対策については「汗は冷たいから濡れていたい」で既に書いいる。

日によって、朝に十分水をやれないときには、夕方にエンジンポンプを使って散水した。

畑だけで無く、庭にある鉢物や植木に水をやるために、300リットルタンクに水を用水路からエンジンポンプでくみ上げていた。

とにかく水の対策にずっと振り回されていたのだ。

雨が降るのをどんなに待ち焦がれていたか。

そして、今朝(8/7)に念願の雨が土砂降りとなってやってきた。

収穫作業を途中で止めて、犬の散歩に切り替えた。

犬の散歩用のカッパを着て、連れ出して30分以上歩いた。

うちのクロは池や用水路に自分から入るくせに、洗われるのを極端に嫌がって抵抗する。

身体も大きく力も強くて爪でひっかかれたりされて、身体を洗うのは諦めているので、冬場以外はあえて雨の日に散歩して、雨で身体を洗い流す。

普段は腹だけ水に浸す程度のクロにとっても約1ヶ月ぶりの全身シャワーと言えるのだ。


台風も夕立もなくて雨が降らない状態で、これほど雨を待ち焦がれたのは生まれて初めてのように思う。

雨がテーマで喜びを表現していて知っている曲は「雨に唄えば」と童謡の「あめふり」くらいだろう。

まさしく、この雨は「雨に唄えば」が相応しいだろう。

だけど、畑やあぜ道ではジーン・ケリーのように傘をもって歌う気分にはなれない。

カッパから流れ落ちる水滴やクロの背中から腹に落ちる濁ったしずくを見て安堵しながらいつもの三好英二の「雨」を唄っていた。


雨に濡れながら 立たずむ女(ひと)がいる
傘の花が咲く 土曜の昼下がり
約束した時間だけが 躰(からだ)をすり抜ける


雨が降ると雨の日に約束のデートをすっぽかして恋人を泣かせた嫌な記憶が、この歌と共によみがえってしまう。

待ち合わせ場所に来ない私を長いこと待った後で、下宿にやってきて怒りながら泣いていた。

優しさの足りない傲慢だった自分を恥じながら、彼女のことをいつも思い出す

どんなに待ち望んで嬉しい雨でも、やはり雨は気分を鎮めてしまう。


2025年8月6日水曜日

元チェーンスモーカーは現ベーパー(電子タバコ)

 本当はタバコをまた吸い始めたかった。

普通のシガレットも良いが、パイプタバコや葉巻が吸いたかった。

学生時代には酒よりも、タバコの方が好きだった。

でも、金が無い頃はシンセイを普段吸って、たまにショートホープを吸ったりした。

しかも、シケモク(吸い残し)もキセルを使ったりして吸っていた。

村落調査の合宿では、サークルの先輩がドイツ産のゲルベ・ゾルテや葉巻を差し入れしてくれたので、タバコの魅力を知りもした。

大学院に入ってからは、家庭教師のアルバイトができたので、缶ピースやパイプを嗜むことができるようになった。

村落調査でもシマの仲の良くなった若い人が、タバコを貰いにやってくるので、そこから色々と話が聞くこともできたし、仲良くなれて家族づきあいができた。

大学院での台湾からの留学生からは、台湾ではタバコのやりとりが付き合いとして大切なことも教わった。

一方で論文を書き始めてから、そのストレスから完全にチェーンスモーカーになり、タバコを吸うことでしか気分転換ができなくなってしまった。


教職に就いてからは、普段からパイプを多く吸い色々と銘柄を試すのが楽しみになって、三宮に出かけたりするときは必ずたばこ屋に寄った。

ただ、パイプはキセル以上に脂を掃除したり、焦げを削ったりするのが面倒だった。

元々は、肺にしっかり入れて吸うタバコでは無くて、香りを楽しむ吸い方だったのでパイプは一番合っていた。

それだけ好きだったタバコも、家内が妊娠したことを知ってから止める決心をして、家では全く吸わなくなった。

ただ、飲む機会などではどうしても欲しくなって、人からもらって吸っていた。

完全に止めるまでに3年以上はかかったと思う。


今回はタバコをまた吸い始めたいと思ったのは、退職して研究に力を入れようと思ったからだ。

机にしがみついている時に、気晴らしとしてミントタブレットや飴、グミを試したが、糖尿病には良くないし飽きてきた。

仁丹なども使い始めて、今でも続いている。

それでも、執筆時には昔のようにタバコを非常になつかしく感じたのだ。

しかしながら、家内がタバコが苦手で匂いが嫌だし咳が出るというので、タバコは諦めざるをえない。

そこで、行きついたのがニコチン・タールなしのベープ(電子タバコ)だった。


ベープの香りは、ミント、レモン、タバコの3種類を使っている。

最初に使ったのは、リキッドを入れて気化させるアトマイザーが小さい物だったので、扱いづらかった。

期待したタバコの香りも、本物とはほど遠くて、気休めで吸う感じだった。

そのうちは、どれも飽きてしまって吸うことをしばらく止めていた。

最近、また何かリラックスできる物はないかとネットで調べたら、CBD(カンナビジオール)という、合法の大麻の抽出液に行きついた。

ベイプを吸う道具も新調してCBDを吸い始めたが、薄いレモンの香りのするタバコのようなふわーとした気分を感じだ。

確かに、リラックスできているようで、酒の量も減ったと思う。

一番効果があったのは睡眠だと思う。

CBDリキッドのレビューでもよく書いてあるが、よく眠れるようになった。

これも濃度によって違うようだが、ふぁ~とした気分を味わいたい時には、85%くらいの高濃度のリキッドを使うらしい。

コスト的には高濃度は物によっては1ml10000円で普通は4000円くらい、私は30%のリキッド(10mlで2832円)を使っているが、私にはこれで十分である。


CBDは合法でも大麻の成分というと、何か危険な感じがするのだが、医療目的にも使われているので安心でもある。

かつて、ドラッグ(薬物)を文献で調べたことがあった。

デイヴイッド・T・コートライト『ドラッグは世界をいかに変えたか-依存性物質の社会史』(春秋社)である。

我々は医食同源と言う言葉を知っていて、基本となる食事が自分の健康を保つことだと分かっている。

あまり知られていないが薬食同源という言葉もあるようだ。

これは特定の食材の効能を強調するときに用いるようだが、実は依存性があってサイコアクティヴ物質をもっている食材をよく摂っていると前出の本に書いてある。

一番好例はカフェインを多く含むコーヒーやお茶などであるが、ドラッグとは意識していないのが普通だろう。

ただ、お茶は古くは薬として使われていたのを知っているし、今でもカテキン効果を期待している。

タバコもドラッグとしてでは無くて、身体に悪いが気分を良くする嗜好品という感覚だと思う。

また、その本では砂糖もかつてはヨーロッパで薬品と見なされていたし、他の薬物同様に奴隷や労働者を酷使するのに欠かせなかった。

ラム酒は黒人奴隷を働かせるのに活用されたのは有名な話だ。

日本では酒、タバコは税金をかけて、ドラッグ依存者を利用しているのだから、ヨーロッパで行われていた搾取とそれほど変わらない。

かつての日本人男性はタバコを吸いながら過酷な仕事をこなしてきたのであり、百害あって一利なしといわれても、ワーカーホリックには欠かせない物だった。

薬と毒は使い方の違いだけだと言われているが、タバコも過剰に吸わなければ気分転換としての薬にもなっていたはずだ。

タバコは癌の原因として目の敵にされてしまっているのだが、糖尿病の原因としての砂糖などの糖類も最近では目の敵になっている。

本当はドラッグそのものに原因があるのでは無くて、過剰な使い方をしてしまうストレスのかかった生活に原因があると思う。

今はゆったりと生活できているので、ストレス解消としてでは無くて、ちょっとした気分転換や快眠のためのベープと上手く付き合いたいと思っている。

今のところ、酒やタバコのように高い税金がかかっていないのが何よりも魅力だ。


2025年8月4日月曜日

靴底を剥がす灼熱仏事

 義母の49日の法要を、お寺で行った。

岬の崖の上にあるお寺は、海岸から急な坂を登った所にあった。

ご住職の都合もあって、午前中は無理で13時過ぎから行われることとなっていた。

その後で、納骨もする必要があったし、遠くから来る人のことも考えて、一番暑い時間帯を選ばざるを得なかったのだ。


当然、お寺にはエアコンは設置していない。

扇風機が何台も置いてあるが、風が届かない人もいる。

私は扇風機のそばにいたのだが、汗が止まらなくてずっと顔を拭い続けていた。

一番熱い思いをしているのは、ご住職で何枚もの着物を重ねられている。

その姿を見ていると、誰も暑いとは言えなかった。


苦行となった法要も終わって、いざ墓場に向かうこととなった。

靴を履いた一人の男性が片方の靴底が剥がれたという。

靴は本堂の階段に陽ざらしのまま置いてあったのだが、熱で接着剤が溶けてしまったらしい。

片方の靴底を剥がしたまま、急な坂道を降りねばならなくなった。

そして、そのまま墓場の納骨に臨んだが、納骨が終わったときには両方の靴底が剥がれてしまっていた。


お骨の納骨の儀式も最後の焼香ということとなった。

すると、こんどは私の息子の片方の靴底が剥がれている。

地面が熱くてやはり、接着剤が溶けてしまったらしい。

たいして歩くことは無いので、用心しながらそのまま履き続けざるを得なかった。

私はお寺の坂や、墓場のことを考えて黒のウォーキングを履いていたので、難を逃れることができた。

この時に参加した男は四人いたのだが、難を逃れた私はウォーキングシューズで、跡取りの喪主は白のスニーカーを履いて無事だった。

どちらかというと、ちゃんと黒の革靴を履いていた二人が難に遭い、礼儀に反する靴を履いていた二人の方が難を逃れることになったのだ。

ただ、家内の実家に戻って靴を脱ぐときに、中敷きが溶けて靴下にくっついていた。

足の裏が暑いと思わなかったが、靴底の温度がかなり上がっていたことを実感させられた。

こういう男性に対して、女性は誰一人も靴に問題は生じなかったのは、礼儀に拘っていなかったからだろう。


この異常な気候で、こんな時間帯に法要や納骨を行うこと自体が無謀なのだが、遠方から集まってくることを考えれば仕方ない。

私は灼熱を予想して、晴雨兼用の傘を買っておいて使った。

ご住職は納骨の際には、僧侶の持つ網代笠を被っておられた。

私は托鉢をしている僧侶が被っているのを見たことがあったが、納骨の儀式で被られるとは思わなかった。

その網代笠は年季のいった立派な物で、普段使いできるような品物では無いようだった。

それに対して、男性は無防備で、私以外は日傘も差さず、一人は奥さんの日傘の中に入れていもらっていた。


靴底が剥がれるくらいのことで法要と納骨を終えることができたのだから、まずは無事に済んだと言うべきかもしれない。

今回はかなり高齢の縁者は参加していなかったので、これで済んだと思う。

高齢で無くても、普段暑さに慣れていない人にとっては、大事になってしまうこともあるだろう。

日にちや時間に融通が利かない行事は、先の気象を考慮しづらいのだから、礼儀を逸してもそれに対応した身なりで望まざるを得ないだろう。

場合によってはペルチェベストやネッククーラーを付けたり、外では帽子を被ることも容認するべきだと思う。

黒の革靴も今後は暑さに耐えられるかどうかを確認しておく必要があるだろうが、酷暑の夏場はそれ以外の靴をみんなで容認するべきだと思う。

男性も女性と同じように暑さに応じた身なりをして、パラソルを持つのが普通になっていくべきだろう。









2025年8月2日土曜日

貧困化の中、デジタルかアナログか?

 家内は家にいてテレビを見ながら暇なときには、ポイ活のできるゲームやクイズをしている。

普段も、買い物に行くときはポイントが5倍つく日をチェックしてその日に高い物を買ったりする。

そのゲームやクイズ、買い物等で得たポイントを使って回転寿司の支払いを安くあげて自慢する。

例えば二人で2400円食べたとして、400円の端数をDポイントなどで支払うのだ。

家内にとっては家計を助けていると自負しているのだが、聞いてみると月に1万円以上は稼いでいるらしい。

今までの低金利時代では確かにありがたい話だった。

しかし、今はネット銀行を中心に金利も上がっている。

多くの金銭の蓄えのある人は、安全に不労所得を得られるようになってきた。

そんな中でポイ活は蓄えが無くて、リスクを回避したい人にとっては大切なサイドビジネスになったのかもしれない。


私はお金を働かせて儲けることも最低はしたいと思うが、それよりも時代を見据えて生きていると実感できる仕事をしたいと思っている。

年金での生活で金銭が不十分だからと言って、もうマニュアル化された仕事の稼ぎに出たいとは思わない。

私が労を惜しまずにやっているのは農作業だ。

賃金に換算すれば全く割り合わない。

キュウリ10本で500円にもならないだろうし、ズッキーニやトマトを加えても時給1000円には全く届かないと思う。

それでも今はジャガイモをご飯の代わりに食べているし、トマトジュースを買わなくて済んでいる。

大量に採れたキュウリは色んな漬物になって、食事には欠かせない。

この間までは、豆乳にする黒大豆も自分で作った物を使っていた。

これは単に節約という意味では無い。

自給自足にはほど遠いが、直近では日照りによる旱魃に立ち向かっている。

近年の猛暑は従来の経験が役に立たなくなっていて、その対策に工夫が必要となっている。

ポイ活は冷房の効いた部屋でゲーム感覚で楽しみながらできるので良いのだろう。

朝の5時から畑に出て汗まみれになって農作業をやるのに比べてどんなに楽なことか。

ただし、熱中症になるような無理な働き方はせず健康な汗であり、農作業以外にも1時間以上歩いたり1時間半の水泳をしたりしている。

そして、作物達が元気に育って、その労力や工夫に応えてくれる喜びはゲームやクイズでは得られないと思う。

近隣では酷暑で荒れてしまった畑も見かけるし、ラジオでも家庭菜園が駄目になった話が聞かれる。

そんな中で、元気に持ちこたえてくれている野菜立ちはなによりも私の誇りだ。


一方で、ポイ活は資産が無く、リスクも負えない立場の人が、デジタル出稼ぎをしているかのように思える。

楽しみながらやりがいを持ってすることができれば良いのだが、重要な収入源となっている人はそうとは言い切れない。

まさしく、中国のゴールド・ファーマーはポイ活の極地だろうが、貧困化する日本でも生計に欠かせない人も増えるかもしれない。

また、資産がある人でも株に手を出して老後資金を無くしてしまった人の話がネットで目につく。

私のつぎ込んだ労力で大きくなる作物の株はしっかり大きくなって、老後資金を失わせることはまず無い。


また、このところYoutubeでは、夏休みになり給食が無くなって、食事がまともに食べられないので寄付を募るCMが流れている。

原因は両親の離婚と言うことだが、どうも釈然としない。

私の世代の多くの子どもは両親がいても、いつも腹を空かせていた。

だから、野山に行って食べられる物を探して食べたり、海に行って魚介類を捕った。

例えば今では見向きもされないイタドリを腹一杯食べたりしたし、海辺で掘った貝をその場で割って食べたりもした。

また、いけないことだとは思うが、よその畑の物を採って食べたりもしたが、特にサトウキビはご馳走だった。

見つかって怒られたりもしたが、親や学校には訴えられなかった。

教師になってからも、山間部の生徒は子どもの時に村だけの新聞配達をしたり、カブトムシを捕まえて売ったりして金を儲けていたことを聞いたりした。

都会であったり時代が違うから、寄付に頼るというのも理由かもしれないが、そういう子どもでもちょっとした手伝いをさせて、食べる機会を与えてあげれば良い。

同情を買って寄付を求めるCMは、子どもの生きる力を失わせているのでは無いだろうか?

そういう子どもが、勉強しながらでも手伝いをして食事ができる機会を作ってあげる方がその子のためだと思う。

その手伝いを通して将来の生きる力を身につけられると思う。

私は食うに困っているから野菜を作っているのでは無い。

気象破綻でも生き残る力を得るために野菜を作っている。

苦しい立場でも自分の努力で生きていける機会を子どもに与えてあげた方が良いと思う。