文化人類学では結婚に関してはイトコ婚のことが大きなテーマとなってきた。
イトコとの結婚を決まりとする社会もあったからだ。
私が調査研究していた奄美に関しても、決まりでは無いけれど好まれていた。
理由としては財産を親戚以外に渡したくないということだった。
親戚や知り合いの中にはイトコ同士で結婚した夫婦も何人かいる。
ただ、日本ではイトコ婚は禁止されている三親等より一つ関係の薄い四親等だけれど、遺伝的疾患のリスクが大きくなるということが懸念されて避ける傾向がある。
イトコ婚のメリットは義理の父母とも親戚関係があるので、一緒に暮らしても馴染みやすいし、夫婦の親同士の関係も良好にできるということがあるだろう。
そして、何よりも幼い頃から相手のことをよく知っていて、性格や好みが分かるので大きなすれ違いを防ぐことができるだろう。
デメリットは夫婦のトラブルが親戚関係に波及するので、夫婦の問題だけでは済まないということになる。
ただ、昔のように親戚同士の協力関係が重要だった時代には、デメリットよりメリットの方が大きかったように思う。
また、近年でも嫁姑関係ではイトコ婚でうまく行っている例を親戚で知っている。
現代では親と同居することもあまりなくなったので、そのイトコ婚のメリットも関係なくなっている。
私の子どもの頃は父の方では兄弟姉妹が5人もおり、そこでのイトコの総数は11人となっていた。
盆や正月では赤穂の鳥撫の本家に、遠くは名古屋からそして叔母の子どもまで集まって来たので、大変な賑わいとなった。
トランプなどのゲームをしたりして遊んだり、家族ぐるみで一緒に旅行に行くこともあった。
食事は大人と分けてさせられて、だんだんと大きくなった私は幼いイトコ達と一緒の扱いが不満に感じるようになってきて、中学生頃からは行かなくなった。
イトコも成長するにつれて顔を見せなくなり、自分や自分の兄弟、お互いの結婚式で会う機会は殆どなかった。
結局父方のイトコ関係者で結婚後も赤穂近辺に住んでいたのは、私を含めて5人だけになってしまったが、仕事も大きく違い普段は会うことはあまりなかった。
ただ、祖父母の葬式には全員集まったし、法事でも集まれる者は集まった。
また、私の父や名古屋の叔父の葬式まではコロナ以前だったので大きく行われて、殆どのイトコが子どもや伴侶と一緒に参列した。
それ以降も、父方の血のつながりのあるオジオバの葬式にはイトコもできうる限り参列していた。
葬式では長い時間を過ごすことになるので、話を色々とすることができたが、年老いた自分の親のことや子どもの様子を話すことが多かった。
滅多に会う機会が無くなったイトコだが、会うと昔に戻った気持ちになって、兄弟姉妹とは違った気安い雰囲気で心地良かった。
このイトコ関係の中心であった本家のイトコの姉さんは70歳という若さでその父母より先に三年前に亡くなってしまい、その後を追うように両親も亡くなってしまった。
先日も本家の伯母が亡くなって葬式があったのだが、集まることができたイトコは私を含めて3人だけだった。
そのうちの一人は夫の仕事の都合で現在は東京で夫婦で暮らしているのだが、葬式のためだけに戻って来てくれた。
そのイトコは父方の一人だけの叔母の娘だったので、イトコの中ではずっと苗字の違うイトコである。
私は叔母が独身の頃から可愛がって貰っていたので、おばさんと言わず名前の下には「ねーちゃん」を付けて呼んでいた。
その叔母も今年癌で亡くなってしまい、それ以来そのイトコと親しく話す機会が多くなった。
結局彼女には弟や子ども以外に血の繋がって話ができる親しい者はイトコだけになってしまっていた。
自分の子どもにもイトコはいるが、私の兄弟が4人いても全部合わせても6人しかいない。
これは家内の方に一人もいないということも大きいが、私の弟の一人には子どもがいないことと、一人は病気で亡くなったことにもよる。
子どもが幼い頃は実家に盆正月集まってカラオケに行ったり、子どもの歳の近い弟家族とは南紀白浜へ一緒に旅行に行ったりもした。
そういう子どものイトコもやはり親の葬式や法事でしか会う機会が無くなってしまった。
本来なら私の子どもの孫ができて、孫同士のイトコ関係ができはじめる頃なのだが、それができていないのが淋しい限りだ。
オジオバと甥姪の関係、イトコ同士の関係は親子関係、兄弟関係を補ったり、普通の友だちよりも長い付き合いで互いに理解できて安心できたりする。
少子化の問題は単に人口減による経済的な問題だけで無く、まさしく血の通った人の関係を失わせるものだ。
私は今、ブライアン・ヘア/ヴァネッサ・ウッズ 藤原多伽夫訳 2022(2020) 『ヒトは〈家畜化〉して進化した―私たちはなぜ寛容で残酷な生き物になったのか』 白揚社(SURVIVAL OF THE FRIENDLIEST)を読み返している。
日本語タイトルを見ると残酷さの方が目につくが、著者が最も言いたかったのは友好的になって自己家畜化が進み発展していったことだ。
友好的で幅広いコミュニケーションがとれてこそ、ホモ・サピエンスは発展できたのであってそれが無かったら発展はできなかった。
現代はこういう親戚関係どころか家族関係も解体されてしまい、個人として社畜(会社員)や公畜(公務員)で安住してしまっている。
ナンシー・フレイザーはそれを「共食いの資本主義」と言ったが、社畜や公畜は社会的・経済的に喰いつ喰われつ生きていかねばならない現実から目を背け続けている。
家族愛や兄弟愛、親類愛が愛国、愛社にすり替えられて、共食いをしなくてはならなくなった。
そういう残酷な時代になってしまったということなのかな・・・・・・
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