ブライアン・ヘア/ヴァネッサ・ウッズ 藤原多伽夫訳 2022(2020) 『ヒトは〈家畜化〉して進化した―私たちはなぜ寛容で残酷な生き物になったのか』 白揚社(SURVIVAL OF THE FRIENDLIEST)を読み返していることは以前に書いた。
この書の重要なテーマの一つが自己家畜化が招いた人に対する非人間化である。
これは友好的な自己集団とは深い繋がりを持つ反面、その集団に脅威をもたらす対抗相手に対しては非常に攻撃的になるが、その相手を自分と同じ人間とは見なさないということだ[前掲書:pp.162-166]。
そもそも自己家畜化は人間が必ず介在するように思われがちだが、チンパンジーの親戚のボノボは人間が介在せずに自己家畜化がなされてきた。
犬に関しても人間があえて家畜化したのではなくて、自ら人間にすり寄る形で自己家畜化を果たしたという。
犬に関しては、この書でも重要性が強調されているが、ネアンデルタールを絶滅させるくらいの力を得たのは犬という協力者がいたからというい学者もいる*1。
犬は狩猟に欠かせないものとなったが、番犬としても重要な役割を果たしてきた。
奇しくも古代では薩摩隼人が都を守るのに犬に見立てられたことはよく知られている。
その一方で、日本を含む東アジアでは農耕社会となり重要な食糧ともなったことも確かである。
それが、日本では江戸時代の「生類憐れみの令」によって、表向きの食糧ではなくなった。
現代の日本では食糧どころか、家族の一員として高い地位を得ている場合もある。
うちにいるクロは猟犬なので庭で飼っているが、少なくとも息子より地位は高いと思っているようだ。
そして、家族外の人が家に入ることを嫌い、場合によってずっと吠え続けてしまう。
家を守るのが自分の役割だと思っているのだろうと思う。
そのくせ、他の人に預けられてしまうと、そこでは温和しく愛想が良いのだ。
しかし、犬は現代のように家族の一員として人間扱いされ続けられてきたわけではない。
薩摩の歴史研究で有名な原口虎雄氏は西南戦争での薩摩武士を「狡兎死して走狗烹らる」と表現した*2。
幕末で活躍した薩摩武士が用済みになったことの自虐的表現だが、古代では非人間化された犬扱いにされていたこととの対比で興味深い。
傭兵が戦闘を行う非人間としての犬に喩えられて、映画「戦争の犬たち」のタイトルにされたりもする。
また、日本では役に立たないとか悪い意味にするときに「犬」をつけるが、「犬死に」とはまさしく何の価値も無い死に方を言う。
戦前では中国人を低く見て公園に「犬と中国人入るべからず」と立て札が立てられたというのは有名である。
人類の発展に寄与したであろう犬は、一番親しい動物で有りながら、非人間の代表的な動物にさえされている。
そして、一番残酷な側面は同じ人間に対する非人間化である。
一番分かりやすいのは奴隷であろう。
日本では歴史学者などは簡単に奄美のヤンチュのことを債務奴隷という用語を用いているが、日本本土では遊郭に身売りしても奴隷という用語を避けてきた。
それはアメリカの近代奴隷などのように、非人間化されてはいなかったことからだと思う。
スレイボクラシー(奴隷主による支配)としての「白人共和制」がアメリカ南部には独立前の18Cに築かれていたがその時の黒人奴隷に対する扱いは次のようであったという。
もっとも頻繁に行われた鞭打ちの他に、焼印、足枷、拘禁が至る所で行われた。鉄棒の束で拷問を加える奴隷主も多かった。白人を殴りつけた場合はもちろんのこと、夜間の外出や許可のない外出などでも奴隷は鞭打たれ、耳たぶを切り落とされた。この「共和国」においては逃亡奴隷を射ち殺し抹殺することは合法であり、謀反・放火・殺人の罪に問われた奴隷の右手と首を切り落として身体を四つ切りにし、郡内のもっとも人目の多い場所でさらしものにすることが常識であった。プランターが富を得て肥え太るためには、奴隷が人間【メン】であってはならなかった*3(下線は私による)。
奄美でヤンチュを経験した人には、家畜並に扱われたと言うこともあったが、それは誇張であり、村の祭りにも参加できたし、黒人奴隷のような扱いをなされることはなかった。
そういうことで、私は奄美のヤンチュを債務奴隷とは見做さない。
では、兵士に関してはどうだろうか?
徴兵制では有無を言わさず戦地に送り込まれて、人間的な扱いを受けない場合もある。
それを非人間化と見做さないのは名誉を与えられているからだろう。
ただし、捕虜となってしまえば奴隷または奴隷以下(強制収容所)にされることもあった。
奴隷研究で有名なオルランド・パターソンは、一貫して奴隷は名誉を失われた人間としている*4。
そして、戦争は自分の国家と同胞を愛し、敵国の人々を非人間化することによって、殺したり奴隷にしたりするものなのだ。
アジア太平洋戦争で日本が「鬼畜米英」と唱えたのが、まさしく敵国の非人間化といえるだろうう。
そして、敵国の兵士や市民を倒すことが名誉となる。
チャップリンの映画『殺人狂時代』で語られた「一人殺せば殺人者で百万人殺せば英雄となる」とはこのことを表しているのだ。
冒頭で紹介したブライアン・ヘア/ヴァネッサ・ウッズの書の優れたところは、問題提起に終わらず解決方法を提案しているところである。
第二次世界大戦後、集団間の争いを確実に減らせるのは接触だけだということが、研究によって明らかになった。争いを静めるための最善の方法は、集団間に脅威が存在するという感覚を小さくすることだ。両方の集団が歩み寄り、脅威に対する懸念を小さくすることができれば、見知らぬ者どうしでも互いに共感する見込みがあることに気づくだろう。こうした懸念を減らすことが、集団間の争いを減らすうえで鍵となる要素の一つだ。脅威を感じることが「心の理論」のネットワークを切断するのならば、脅威を感じない形で相手と接触することによって、切断されたネットワークが再び動き出すのではないか[前掲書 p.p.234-235]
これは現在の日中間の問題に大きく関わることである。
互いに接触を断ってしまえば、相手を非人間化して再び戦争が始まってしまう。
互いの政治家や官僚の接触が途絶えたとしても、国民同士はそれを絶やすべきではないのだ。
自己家畜化によって寛容さと残酷さを身につけてしまった人類は、国家への愛国心故に世界戦争を二度も起こしてしまったが、それからしっかり学んだはずだ。
それを、日中両国の国民は思い出すべきであろう。
*1 パット・シップマン 2015 河合信和訳 『ヒトとイヌがネアンデルタール人を絶滅させた』原書房(THE INVADERS: How Humans and Their Dogs Drove Neanderthals to Extinction)
*2 原口虎雄 1980『鹿児島県の歴史』 山川出版社:p235 故事の意味は、必要なときには重宝がられるが、用がなくなると捨て(食べ)られる)
*3 下山 晃 1995「第四章 奴隷の日常と奴隷主支配体制【プラントタラシー】」『近代世界と奴隷制―大西洋システムの中で』人文書院:263p
*4 オルランド・パターソン 奥田暁子訳 2001(1982)明石書店(SLAVERY AND SOCIAL DEATH; A Comparative Study)
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