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2025年10月6日月曜日

山羊のいる暮らし

 私が生まれ育った赤穂では、昔は町の中でも山羊や羊を飼っていた。

生まれたのは鷆和という田舎だったが、育ったのは尾崎という町だった。

町と言っても、元々は塩田に関連する地主や浜子が住み始めたところだったのだが、引っ越しして来た頃には医院、商店や散髪屋などがあって不自由は無かった。

その住んでいた尾崎の家の向の家には山羊が飼われていて、たまに乳を貰って飲んでいた。

牛も友達の家の隣で飼われていて、草を摘んで食べさせるのが面白かった。

今の時代に町で家畜を飼うと、臭いや蠅などの虫が出るので苦情が出て、とうてい飼うことなどできないだろう。


私が村落調査で訪れていた奄美の与路島では、豚、牛、山羊が普通に良く飼われていた。

豚や牛はちゃんとした小屋で飼われていたが、当時はけっこう集落の中にもいた。

その中でも山羊は家の柵の中で飼われたり、家から連れ出せれて海岸などの木のそばに紐で繋がれているのをよく見かけた。

山には放たれた山羊も棲んでいて、持ち主は耳に刻みを入れて分かるようにしていた。

山羊を飼う目的は肉を食べることなので、子ヤギの飲む乳を人が飲むことは無かった。

子ヤギは道ばたで遊んでいるのをよく見かけたが、ペットのように可愛がることはされていなかった。

ただ、指を口に持っていくと、チューチュー吸うと言って地元の人は面白がっていた。


乳をとるのが目的なら可愛がっても良いだろう。

山村を舞台にした映画の「Wood Job」でも、山羊に紐を付けて散歩する人が描かれている。

しかし、奄美・沖縄では肉が目的なので、そのように可愛がると自分で屠殺できなくなってしまう。

私は奄美に行き始めて、山羊の肉を初めて食べたのだが、その強烈な臭いと独特な味のトリコになってしまった。

東京でも山羊汁は郷土料理店で食べられるが、値段が高い上に肉も大して入っていなかった。

調査中には肉を買って自分で山羊汁にして食べたりしたが、八月祭りの相撲を取る前に区長さんの家で大鍋で炊かれた山羊汁の味が忘れられない。

与路では塩味なのだが、区長さんが青年のために1頭を潰して、庭先で振る舞ってくれたのだ。

私も頂いた以上は本番の相撲でもまわしを締めて頑張ったが、あっけなく負けてしまった。

また、仲良くなった地元の友達の家で、屠殺したばかりの山羊の一頭全部を一輪車に積んで持って帰ってきていたのには驚いた。

その晩は私もご馳走にあずかった。


そんな思い出深い山羊なのだが、上郡にに引っ越ししてきて再び巡り会うことができた。

近所の山ぎわの休耕田で山羊の夫婦が飼われていた。

おそらく、休耕田の草を食べてもらって、草刈りの手間を省くのも兼ねていたのかもしれない。

そこの山羊夫婦には子どももできたが、やがてどこかに引き取られ、雌山羊も亡くなって雄山羊だけになってしまった。

ひとり残された雄山羊はときどき悲しそうな鳴き声で鳴いたりしていた。

その雄山羊に必ず散歩の時に草をあげるおじいさんもいて、私からも貰えるのかと思って近づいてきたが、連れている犬が過剰反応するので近づけなかった。

やがて、その雄山羊も亡くなっていなくなってしまい、草だらけの休耕田だけが残った。


また、大規模に農業を行っている人の中には、山羊を使って農地の草を食べさせる人もいたが、山羊の世話が却って手間なのか、数年で止めてしまった。

可愛い子ヤギも誕生して、与路島の子ヤギを思い出したりもした。

確かに、草刈りは草刈り機や除草剤を使った方が手間はかからない。

奄美沖縄のように肉を食べる習慣も本土にはない。

昔のように山羊の乳を飲んだり、ヨーロッパのようにチーズに加工したりすれば、山羊を飼う価値も出てくるかもしれない。

山羊は草だけで無く、木の葉も食べてくれて飼いやすい家畜なので、今後活用を考えても良いのではないかと思う。

情緒豊かな農村のバイオエネルギーとして考えることもできるようにも思える。


2025年10月4日土曜日

刈らないで、彼岸花

 彼岸花はこんな暑さが続いて、まだ夏が続いていると思っていたのに、ちゃんとお彼岸の頃に咲いてくれた。

でも日照時間に反応して咲くのでは無く、平均気温が25℃を下回る頃に咲くのだそうだ。

ということは、日中は暑くても朝晩涼しくなったことに、われわれの方が鈍感だったのかもしれない。

私は赤穂の実家に住んでいた頃は、周りで彼岸花は咲いていなくて、姫路への電車通学の車窓からきれいなこの花を眺めていた。

今は上郡の農村地帯に住んでいるので、周りは彼岸花で溢れている。

庭先、田んぼの畦、道ばた、川の土手などあらゆる所で一斉に彼岸花が咲いて、景色を一変させてくれた。

ただ、その咲いている期間は1週間ほどで、枯れると幽霊のようになってしまう。


地域によってはわざわざ彼岸花の球根を田んぼや畑の周りに植えるところもあるようだ。

私の知っている人の地元富山では、村作業として道端に球根を植えていると聞いた。

その目的はモグラやネズミの侵入を防ぐためだという。

畦や道ばたに穴を開けられてしまうと、水持ちが悪いだけでなく崩れてしまう。

彼岸花は救荒植物として、饑饉の時に毒抜きをして食べる役割も果たしていたという。

住んでいる人の役に立ちながら、季節の移ろいを実感させ、心に潤いを与えてくれるのが彼岸花である。


ところが、ちょうどこの時期は本格的な稲刈り、村祭り時期に当たってしまう。

そうすると個人的や村作業として田畑の畦や道ばたの草をきちっと刈ることが多い。

先日(9/28)も村作業で道作りがあったので、背負い式の4サイクルの草刈り機をもって参加した。

人によっては咲いている彼岸花を雑草と一緒に刈ってしまうので、咲いている場所にわざと行って花を避けて草を刈った。

雑草も少し残ることになって、作業としては不完全とも言えるが、刈られてしまった彼岸花を観るのは忍びない。

私の作っている畑のそばに咲いている彼岸花が近所の人に刈られているのを見て、その人の心の貧しさを感じざるをえなかった。


私の大好きな桑田佳祐の歌に「東京」という曲がある。


 去かないで向日葵(ひまわり)
 この都会の隅に生きて
 世の痛みに耐えて咲いてくれ


これは女性をひまわりに喩えたものだが、これをもじると


 刈らないで彼岸花

 この田舎の隅に生きて

 過疎の痛みに耐えて咲いている


ということになる。

稲刈りでもコンバインと軽トラが走るだけになっている田園風景だ。

せめて、散歩する人や車で通りかかる人に、美しい田園風景を見せて欲しいと思う。

彼岸花は有史以前の外来植物で、日本人が田畑と伴に守り続けた物だということも知っておきたいと思う。

咲いている場所をコンクリートでかためてしまったり、何年も保つ草抑えシートで覆ってしまったら、過疎の村はもっと殺風景になってしまう。


2025年10月2日木曜日

足腰に水泳も効果的

 日曜朝の「健康カプセル!元気の時間」は必ず録画して、深夜ゆっくりと観ている。

今回(9/28)は、「〜長寿の秘訣は下半身にアリ!〜足腰健者のマル秘ルーティン」だった。

驚いたのは70歳を超えたご老人が巧みな足さばきでサッカーをしている。

私は高校で教師をしている40歳後半ときに、校内球技大会のサッカーで教師チームの一員として生徒と試合を行ったことがある。

その時既に、息を切らすだけでなく、足の踏ん張りが利かずに倒れたりしていた。

一番の原因は、練習をしていなかったことだが、若いときのような足腰の強さが失われていたのだ。

実はサッカーは高校時代は得意中の得意で、サッカー部の顧問から勧誘されたこともあった。

だから、身の程も知らずムキになってやったのが悪かったのだと思う。


私は水泳を自分でやる前は、ランニングを中心に練習していた。

市民マラソンなどに参加するのに、ムキになって練習したり、特別支援学校では生徒と一緒に走るのが仕事でもあった。

走る中での故障は色々あったが、一番酷いのは左膝の靱帯を損傷してギブスをはめねばならなかった。

これは子どもの運動会で地区対抗リレーに出て、スピードを出しすぎてコーナーを曲がりきれずに転倒して負った怪我だった。

その後以来膝は後遺症となって、走るときにはサポーターをはめるのが普通だった。

そのほか、剣道で痛めたアキレスの腫れを悪化させたり、足底腱膜炎になったり、腰痛になったりと色んな故障が絶えなかった。

そして、決定的に走るのを諦めたのは、50歳半ばで経験した鼠径ヘルニアだった。


この鼠径ヘルニアはサッカー選手もよくなるらしくて、年がいもなく無理な走りをしたのが原因だった。

そして、生まれて初めて全身麻酔をして手術をしたのだが、その影響でデベソになってしまった。

だから、今でも水泳をするときには、自分のへそが気になったりするが、最近はレースに出ていないので人に見られることはあまりない。

走らない代わりに、毎朝犬の散歩でしっかりと歩いてきたのだが、当然ランニングしていた頃に比べれば、足腰は弱っていた。

一番それを感じたのは、水泳の練習でフィン(足ひれ)を付けて練習したときだった。

水泳部の顧問をしているときは、フィンを付けて生徒と一緒に泳いだり、サボっている生徒の後ろから追いかけたりしていた。

それがフィンが重く感じて、ちゃんと蹴れなくなってしまっていた。


だから、最近は水泳の練習のほとんどでフィンを付けている。

そのおかげで太ももの周りの長さは55cmと、同年代の平均48cmを大きく上回っている。

腹の周りには確かに脂肪は付いているが、太ももの周りには脂肪は無い。

何よりも散歩で歩く速度が速くなったし、坂道も楽に上れるようになった。

水泳でもキック力が付いたので、フィンを外して泳いでもバタフライや背泳ぎが楽になっている。

バタフライの50mも辛くなく泳げるようになったので、200m個人メドレーの練習もできるようになった。


多くのプールではフィンを使うことが禁止されているようだが、私が通っている上郡のプールは歩行コース以外で普通に使える。

また、相生のプールのように、歩行禁止のコースでの使用を認めてくれているので、そういう対応をして欲しい。

そうすれば、サッカーやランニングと同じように足腰のトレーニングを楽しく行うことができて利用者も増えると思う。

また、プールに来ている人の中では腰痛で苦しんでいる人もある。

腰痛の人には水中歩行や軽い泳ぎのほうが負担が少ないと思う。

ジムや家で筋トレをするのも良いが、水泳は色んな泳ぎができるようになるのが楽しい。

そして、自分の身体の変化を鏡で確かめられるのも水泳だ。

プールも高齢者が利用できる時間だけの特別なコース規則を設けるなどの配慮をお願いしたい。

2025年9月30日火曜日

民主帝国アメリカからの自立

 かつて高校の地歴公民教師だったころ、憲法は国王など権力者の勝手な行いをさせないための法律だと教えてきた。

しかし、日本では現実的には日米安保条約の方が、憲法を超えた縛りになっていることは分かっていた。

三権分立の見本とされるアメリカでも、トランプ大統領が最高裁を支配して独裁化している。

アメリカでは法律がまともに機能しなくなったらしいが、今に始まったことでは無いようだ。

これから高校の授業では、三権分立がいかに重要で維持するのが困難かを生徒に分からせる良い教材になっていると思う。

北朝鮮やロシアのようにむき出しの制裁を見せつけないが、しっかりと独裁的な政治を行っているのが今のアメリカだろう。


我々の世代はアメリカに憧れを持って生長してきた。

大学に入って本で色々学んだり、先生に教わってアメリカに失望したが、その文化や学問が嫌いになったわけでは無かった。

私の母も自分の父親が太平洋戦争で戦死したのにも関わらず、アメリカを憎んではいなかった。

むしろ、当時幼かった母には、軍国主義で横暴に支配していた日本の軍隊から解放してくれたとさえ感じていたようだ。

しかし、太平洋戦争で行ったアメリカ軍の民間人への残虐行為は、今のウクライナやガザで行われている残虐行為よりももっと酷いと感じさせられる。

太平洋戦争後の朝鮮戦争やベトナム戦争でもアメリカ軍の本質は変わらなかったと思う。

藤原帰一はすでに20年以上前にその本質を書に著しており*1、私もしっかりと全文読んだが、今の方が実感として理解できるように思う。

その序の出だしにこう書いてある


本書では、アメリカへの権力集中を捉える言葉として「帝国(empire)」概念を用いる。冷戦後のアメリカの地位を指す言葉として「超大国」とか「覇権国家」などという言葉が多く使われている現在、わざわざこの古風な観念をなぜ持ち出すのか。その理由をひとくちでいえば、帝国が戦争を戦い、戦いこそが帝国の正義を支えるという、軍事大国としてのアメリカが持つ古典的な特徴に焦点を当てるためである[藤原帰一2001:3]


読んだ当初は帝国という古めかしい言葉に違和感を感じていた。

しかし、このところのトランプの言動をみてみると、まさしく帝国の名にふさわしいということが分かる。

国防省を戦争省と改名したこともそうだが、軍事力を背景とした高関税などの威嚇で他国をコントロールしようとしているやり方は帝国と言っても良いと思える。

現在はアメリカの輸入に頼る国や政策に従わない国に対しての経済制裁にとどまってはいる。

しかし、戦前の日本のように戦争するよう仕向けられたり、9.11の時のようにテロを口実に戦争し始める可能性もある。

そして、自らは手を汚さずに軍事支援を行って、代理戦争をさせるのが得意中の得意でもある。

尚かつ、行政トップの大統領が司法まで支配してしまうと帝国の皇帝とかわらないと思う。

かろうじて選挙によって選ばれるので、デモクラシーは守られているとみられるが、今後大統領の再選を増やしたり、フィクサーとして君臨すればプーチンとかわらなくなる。

また、現代では必ずしもアメリカ民主帝国はあえて戦争をする必要は無い。

独裁大統領の下、その軍事力に依存させたり脅しをかけて、経済的な利益を上げたり、他国の資源と自国の武器を交換すれば良いのである。


先日、NHKスペシャル「戦国サムライの城」第2集・徳川家康“巨大城郭に秘めた夢”を観て、目からうろこを経験した。

戦争のための要塞である城郭が、町の中心となって平和を築く礎になったという。

考えてみれば、大阪の夏の陣で天守閣を中心とした城郭が最先端の大砲の前では無用の長物であることが証明されていた。

町のシンボルとなる城郭が造られたり維持されるには、それを攻略する兵器は作らない,、作らせないのが前提となる。

1657年に江戸城の火災で焼失した天守閣が再建されなかったのも、無用の長物として必要なかったからだという。

因みに私の生まれ育った赤穂のお城はそれより後の1661年に完成したが、やはり天守台はあっても天守閣は造られなかった。

すでに、時は軍事力を示すシンボルさえ必要なくなっていたのだ。


そんな日本が欧米の帝国主義を模倣したのは、欧米に蹂躙されて植民地になったり、骨抜きになってしまった周りの国を知ったからだ。

また、島津藩などは関ヶ原の戦いで敗れて以来臨戦態勢を維持しており、武力を背景に琉球を実質支配下に置いて欧米を模倣したような政策を行っていた。

そして、その島津藩を中心とした軍事活動による幕末の内戦を経て、藩閥を中心とした帝国主義の道を歩んでいったが、アメリカ民主帝国に敗れその従属下に入った。

グローバリズムの中で、アメリカ民主帝国は保護主義を掲げたり、AIなどの最先端技術で世界を圧倒しようともしている。

戦後の日本はそういうアメリカ民主帝国への従属にずっと甘んじてきたのだが、今こそ意識を変えるべき時だろう。

このままアメリカ民主帝国の横暴な振る舞いにへつらい続けるとしたら、太平洋戦争で亡くなった多くの人にあの世で会わす顔が無いと思う。


かつて世界に例を見ない城郭を築いて平和の礎を造っていったように。

いまこそ、世界に例を見ない世界の平和と環境を守る新たな「城郭」を造る必要があるだろう。

大水害、津波、噴火、気象破綻に耐えられる町や村を新たに建設するときが来たと思う。

そして、何より地球の温暖化をくい止め、食糧危機を回避できる農業や山野河海を中心とした環境保護システム作りの先頭に立つべきなのだ。

また、世界唯一の被爆国として、核兵器廃絶に向けての取り組みを実際に行うべきだろう。

それが、アジア・太平洋戦争で他国と自国の多くの犠牲者を生じさせた真の責任の取り方であり、アメリカ民主帝国からの真の自立だと思う。






*1 藤原帰一 2002   『デモクラシーの帝国』 岩波書店



2025年9月28日日曜日

ドーパミンから見た社会③~精神疾患

 以前紹介した

 『もっと!―愛と創造、支配と進歩をもたらすドーパミンの最新脳科学』   ダニエル・Z・リーハーマン、マイケル・E・ロング 梅田智世訳 2020(2018 THE MOLECULE OF MORE  How a Single Chemical in Your Brain Drives Love, Sex, and Creativity and Will Determine the Fate of the Iluman Race) 合同出版 (以降[D・Z・リーハーマン&M・E・ロング2020(2018)]と記す。)

をいまだに読み続けているのだが、その中で精神疾患になったメイという若い女性の事例が胸に刺さった[D・Z・リーハーマン&M・E・ロング2020(2018):181-183]。

というのもこれに似た事例を知人から聞いてよく知っているからだ。

この事例のメイは移民の娘で言葉の困難な親に代わって色んな用事を行い、優しく素直で成績も優秀で親には期待されていた少女だった。

そのメイが自殺を図って1週間集中治療室に入らねばならないことになってしまった。

その背景を医師が長い時間をかけてメイから聞き出した。

メイは回りの期待に応えるために無理をしていて、アンフェタミンを常用していたのが原因だった。

この薬は「一九六〇年代はじめ、当時の広告の表現を借りれば「快活さ、頭の回転、楽観性」を促進する目的で、ドーパミンを活性化するアンフェタミンが医師により処方されていた[D・Z・リーハーマン&M・E・ロング2020(2018):105]」

メイ自身は医師からの処方を受けずに飲んでいたようだ。

このアンフェタミンは医師処方の薬剤で無い限り、日本では覚醒剤として禁止、アメリカでは薬物・精神刺激薬として規制されている[ウィキペディア]

要するにドーパミンを自ら薬で活性化させて、親の期待に応えようとして破綻してしまったので、治療としては親から引き離さざるを得なかった。


知人から聞いた茂之(仮名)さんも、メイに似て優しく素直で、勉強やスポーツもできた。

ただ、幼い頃に父親は結核で亡くなって、母親の再婚に際しては祖母に預けられた経験もあった。

母親の再婚相手は、妻と離婚して娘を連れての婿養子としての再婚でもあった。

茂之さんは新たに生まれた弟、連れ子で来た妹と継父、そして実母と実の祖母の6人で暮らしていた。

茂之さんが中学生の頃に母親は再婚した夫との関係が悪くなり別居状態になってしまった。

そのころ、茂之さんは自分が仲が悪くなった原因ではないかと悩んでいたという。

この継父は別居してまもなく、急に心臓発作で亡くなってしまった。

連れてこられていた娘は遠い親戚に預けられ、実弟と祖母、母との4人で暮らすことになった。


その茂之さんは大学受験に失敗してしまい、予備校の寮に暮らし始めたのだが、相部屋の相手とも相性が合わず家に戻ろうとした。

それを母親は頬を叩いてまで叱って、何とか頑張らそうとしたが、結局は戻らざるを得ない状態になった。

その後は、その挫折感とそれまでの押し殺してきた感情が爆発して、家の中で暴れ始めてしまった。

その対応に色々と手を尽くしたが、自殺未遂も起こし、結局大学病院の精神科の医者に頼らざるを得なくなった。

どんな薬が処方されていたか分からないが、本人は医者のモルモットにされて薬に頼らざるを得なくなったと言っていたという。

いくら薬を強くしたりして変えても症状は改善されず、医者に出される薬に頼ったまま家に引き籠もってしまった。

その後は弟も結婚して独立し、祖母も亡くなって、母親と二人で暮らしていたが、母親も高齢になって寝たきり状態が長かったが、入院せざるを得なくなった。

そしてその茂之さんは家にひとり引き籠もったまま、今年突然亡くなってしまった。

70歳あまりの生涯で半世紀も閉じこもった生活の幕が下りてしまったのだった。


今から思えば薬を飲んだ後の酷い脱力感から、ドーパミンを抑える薬だったのかもしれない。

もし、このケースが医者が処方した治療薬が原因だったとしたら、治療ミスとも言えるだろう。

しかし、当時は薬事治療が中心でカウンセリングなどもまだ広く行われなかった時代でもある。

現在では薬物に指定されているアンフェタミンが普通に手に入れられた時代ともそう離れていない。

メイのケースも茂之さんのケースも、家族や本人をしっかりとサポートできる体制があったらそこまでにはならなかった事例のように思う。

単に麻薬だけで無く即効性のある治療薬も、人生を狂わせる毒薬となり得ると思った。

ただ、半世紀も引き籠もった悲劇に思える茂之さんの人生だが、ひとり暮らしで淋しくなった叔母を支えたし、何よりも入院するまで寝たきりの母親の介護をし続けたという。

それは、茂之さんだからこそできた親孝行で、その母親は茂之さんの死を知らせられなかったが感づいていたようで、安心したかのように半年後に亡くなったと聞いた。



2025年9月26日金曜日

播磨・因幡ドライブ2025秋

 以前は冬の雪のシーズンは除いて、月に一度くらいは鳥取へドライブに出かけていた。

目当ては道の駅「きなんせ岩見」に併設されている海陽亭で海鮮丼を食べるのと、直売所で

魚を中心とした買い物をすることだ。

先日の日曜(9/21)は久しぶりに鳥取にドライブに行くことにした。

というのも8月は天気予報で鳥取の気温を見ると、のきなみ37℃以上ということが多くて、行く気がしなかった。

ただ、蒜山高原にそばを食べに言った帰りには日本海に出て、鳥取道を使って帰ったので通過はしたことはある。

通行料金がいらない鳥取道は便利で安くついてありがたい。

ただ、トンネルばかりで景色をあまり楽しめず、眠気を誘うし、重大事故も多い。


涼しくなったので久しぶりに「きなんせ岩見」に行く播磨・因幡ドライブに家内と出かけた。

このところ、自分で運転する方が気楽なのとリューマチでじっとしている方が痛いので、運転を家内がしたがり、さっさと運転席に座ってしまったので任せた。

鳥取道は、やはり秋らしくなっての休日なので、交通量も多くて、先を急いでいるのか、追い越し車線では抜いていく車が多い。

長く連なった車列を離れて用瀬PAでトイレ休憩をしたが、トイレだけのパーキングでも多くの車が停まっていた。

そして、鳥取ICの出口から一般道へ出る信号では多くの車が連なっていて、信号が変わっても一回では出られなかった。

この時点で、「きなんせ岩見」でも食事で待たされることは覚悟した。

久しぶりの鳥取の水田では稲刈りが済んでいるのと、まだなところとが混在としていた。

以前来たときには、なしの花が咲いていたように思うが、今は収穫の季節で袋掛けされている。

らっきょう畑ではすこし芽が伸びてきた程度だった。


「きなんせ岩見」に到着すると、駐車場に止めるのもスペースが無くて苦労した。

やはり、海陽亭では順番待ちとなり、前に4組の名前が書かれてあった。

前回までは順番待ちなどしなかった。

というのも、値段が高くなってしまい、お客さんの数が減ってしまったからだ。

うちはたまにしか来ないし、新鮮で美味しい海鮮丼は2250円になっても、価値があるように思えた。

この2250円は普段二人で回転寿司に行って食べる二人分の料金ほどである。

つまり、ここで食べる海鮮丼は回転寿司に2度食べる料金なのだが、その価値があるとは思っていた。


30分ほど待たされて中に入ったが、それほど前に待っていた人はいないのに長く待たされた理由が分かった。

人手が無くて、テーブルを片付けて客を入れることができていない。

一人の女性が受付、配膳、片付け、会計で走り回っている。

厨房には料理専門が一人、調理と配膳が1人、そして裏方の皿洗いがいるだけのようだった。

おそらく、4人ほどで50人以上は入る店を切り盛りしているのだ。

値上げ前は繁盛していて入店待ちも多かったときがあったが、店員の人出が多かったので回転は良かった。

そして、一番ショックだったのは味が落ちてしまっていることだった。

その場では言えないので、帰るときに家内と話したが、家内はご飯が美味しくなくなったと言っていた。

私は刺身そのものも質が落ちたように思えた。

もう、この海鮮丼目当てに来ることは無くなるだろうと思った。


海の駅で売られている物も、季節のせいかもしれないが大した魅力が無かった。

ここはミミタコがあれば必ず買うのだがそれも無かったし、イカも良い物は無かった。

岩牡蠣もシーズンが終わったのかおいてなくて、茹でたカニが安く売られていた。

観光客相手と言うこともあって、物は良いのだが梨やブドウなどの果物もそう安くはなかった。

私が買い物籠に入れたのは、シバ栗のような500円の小さな栗一袋だけだった。


ガソリンがまだ今ほど高くないときは、浜坂や香住、養父を回って景色を楽しみながら帰っていた。

今は、ガソリンが高いので、国道29号を使った若桜回りで帰るのが殆どになった。

このルートには石破首相の笑顔のポスターが至るところで見かけられる。

いつものように、若桜の道の駅によって大山乳業の白バラ牛乳アイスアズキモナカを1つだけ買った。

ここでは、梨も安かったので家内は自分の好きな宝水を買った。

いつもは、アイスを車の中で1つを分け合って食べるのだが、家内は落ち着いて食べたいと店の前にある縁台に腰掛けた。

そこでふたりで1つのアイスを囓り合ったのだが、涼しくなって心地良く、まるで恋人同士のようだった。


この若桜の道の駅を出て、国道29号は山道入る。

ここからは家内に代わって私が運転して、家内には昼寝を促した。

車のラジオもFMは入らないし、AMも聞きづらくなってしまう。

曲がりくねった道を上って、峠あたりに来ると気温は19℃である。

もちろん、窓を開けて冷たい風を肌に受けて楽しんだ。

いつも、家でのエアコンは28℃設定だし、上郡も鳥取も気温は33℃を超えていた。

酷暑が続く夏にいつも思うのだが、こういう場所に夏だけ、海の家ならぬ山の家を作って、ゆっくりできる施設があれば良いと思う。

広いパーキングもあるが、魅力に欠けて車を停めて休む気にならない。


引原ダムでできた音水湖ではカヌーの教室が開かれている。

ここを通るたびに趣味のSUPをしたいと思うのだが、一緒に行ってくれる相手がいない。

夏場にしては水もそこそこあって、山の緑が映える素晴らしい景色であった。

そこから下界に降りていくと、どんどん車の示す温度は上がっていき、窓も閉めてエアコンに頼らざるを得なくなる。

家内がやっと眠ってくれたので、いつもは寄る道の駅「みなみ波賀」は素通りして「播磨いちのみや」まで行ってトイレ休憩をした。

そこでは駐車場が満杯で第2駐車場に停めなくてはならなかった。


この後は、山崎からたつのに向けて、揖保川沿いを下っていったのだが、揖保川は千種川よりも水量も多く風情がある。

龍野の町に着いたのは午後4時頃で、曇り空であったので薄暗くなりかけていた。

私たち夫婦の播磨・因幡ドライブは映画「ルート29」の舞台をメインに駆け抜けるものだが、片道は味気ない鳥取道を仕方なく利用している。

本当は昔のように国道373号と国道53号も使いたいのだが、時間短縮と燃料節約のためだ。

それでも、川の風景、山の風景、海の風景が楽しめるし、美味しい魚料理も食べられるお気に入りのコースとなっている。

ガソリンが安くなれば、国道9号や国道178号の海岸沿いの美しい風景を楽しめるコースも復活させたい。

日帰りでも十分に気分転換ができる魅力あるドライブが一番の楽しみとなっている。






2025年9月24日水曜日

矮性ソルガム(タカキビ)に託する希望

 去年までは2mほどまで高くなるソルガム(タカキビ、コーリャン)を栽培していた。

栽培し始めてまだ三年目だが、初年度は風で倒れたりしながらも、何とか収穫できてご飯に混ぜて食べきった。

二年目は途中で鳥に食べられたり、高温障害で実がならなくて、殆ど食べられなかった。

今年から矮性の種に換えて栽培して、やっと収穫しながら食べ始めた。

ソルガム一斉には熟さないので、順次採り入れて乾燥させながら食べていく。

矮性に変えたのは何よりも、背の高いソルガムは風に弱いので、しっかり土寄せなどをしたりする必要がある。

それに対して、矮性は風に強くて土寄せもせずに済んでいる。

一部は苗を作ってから移植したが、買った種も多くあったので適当に空いた畦付近に撒いておくとちゃんと生長してくれた。

本来は間引きする必要があるのだが、それも面倒だったので放って置いたが、問題なく大きくなった。

今年は異常に雨が少なくて水やりが欠かせなかったが、オクラやサツマイモなどに比べて大して水はやらなかったがしっかりと実ってくれた。


一番助かったのは、鳥除けが簡単だったことだ。

去年は鳥が多く寄ってきてついばむので、鳥除けの黒いテグスを張り巡らした。

畑の隅々に竹の竿を立てて、脚立に上って作業するのは大変な仕事になった。

そして、そのテグスは直ぐに切れて垂れ下がり、草刈り機の刃に絡みついて回らなくなってしまったこともあった。

鳥除けにはそれなりに効果はあったが、その弊害も大きかったので今年はやらなかった。

何よりもこの矮性ソルガムは穂の高さが1m50cm程なので、寒冷紗を上に覆うだけで穂を包み込むことができた。

支え木も立てずに、直接穂の茎にクリップで寒冷紗を固定するだけで済んでいる。


収穫も穂が低い位置なので簡単で、実もしっかり付いているものが多い。

やはり高温障害のせいか、全く身が入っていないものもあるが、以前の高い丈のソルガムより実の数は多いと思う。

むしろ、手間なのは脱穀で以前の物は手でしごいただけで簡単に実は落ちた。

しかし、たわわに実った穂から実は簡単に落ちない。

そして、籾すりのつもりで精米機にかけたら、粉になってしまうものも有った。

高い丈のソルガムではそういうことは無かった。


そこで足踏み脱穀機を使って脱穀したが、少し殻ごと固まりもできたので精米機で脱穀した。

まだ、収穫していないものが多く残っているのに、三リットルほどの収穫があった。

矮性ソルガムの実は簡単に殻が取れなかったりするので、精米機を使って実が割れてしまわないようにこまめに精白する必要がある。

粉になってしまったものはニョッキに混ぜて食べたし、実も雑穀米に混ぜて普通に食べられた。

やはり実そのものは消化には良くないので、今後は粉にしてまさしくキビ団子を作ったり甘酒にして美味しく食べて行こうと思っている。

何よりも芋類に比べて保存が楽で嵩張らない優れものだ。


原産国のアフリカでは色んな食べ方がなされているようだし、栄養価も高い。

あまり知られていないようだが、グレイン・ソルガムはアメリカなどで多く栽培されて家畜の飼料としてとか、製粉されて輸出、エタノールへの加工がなされているようだ。

日本では緑肥として利用が多いようだが、長野県を中心として食材としての利用が促進されている。

高温や乾燥、病気、虫害に強いソルガムこそ、これからは日本でもっと栽培して利用するべきだと思う。

稲と違って手作業で簡単にできて、農薬を全く使わなくても栽培できてるので、家庭菜園でも簡単にできる。

矮性のソルガムには今回は肥料も入れていないが、今後は有機肥料や有機石灰は今後施した方が良さそうだ。

矮性ソルガムは背が低いの他の作物の生長を阻害しないどころか、今年のような日照りが続くときには強い日差しから守ってくれたりする。

来年は日照りに弱い作物の間に植えてみようと思っている。

他にもエタノールとしてや茎や葉を乾燥させて燃料としてバイオエネルギーにもなる。

グルテンフリーだし、ポリフェノールや食物繊維が多いので健康にも優れた効果があるという。

こねると粘りが出てくるので、ひき肉に混ぜて使うこともなされているようだ。

かつては日本でも良く食されていたのが、米一辺倒になってしまって価値を失ってしまった。

しかし、温暖化が加速して破滅的な気候となっていく将来には欠かせない作物になると思われる。

私は夏場ではこの矮性ソルガムとサツマイモを食糧確保のための主力にしたいと思っている。