かつて高校の地歴公民教師だったころ、憲法は国王など権力者の勝手な行いをさせないための法律だと教えてきた。
しかし、日本では現実的には日米安保条約の方が、憲法を超えた縛りになっていることは分かっていた。
三権分立の見本とされるアメリカでも、トランプ大統領が最高裁を支配して独裁化している。
アメリカでは法律がまともに機能しなくなったらしいが、今に始まったことでは無いようだ。
これから高校の授業では、三権分立がいかに重要で維持するのが困難かを生徒に分からせる良い教材になっていると思う。
北朝鮮やロシアのようにむき出しの制裁を見せつけないが、しっかりと独裁的な政治を行っているのが今のアメリカだろう。
我々の世代はアメリカに憧れを持って生長してきた。
大学に入って本で色々学んだり、先生に教わってアメリカに失望したが、その文化や学問が嫌いになったわけでは無かった。
私の母も自分の父親が太平洋戦争で戦死したのにも関わらず、アメリカを憎んではいなかった。
むしろ、当時幼かった母には、軍国主義で横暴に支配していた日本の軍隊から解放してくれたとさえ感じていたようだ。
しかし、太平洋戦争で行ったアメリカ軍の民間人への残虐行為は、今のウクライナやガザで行われている残虐行為よりももっと酷いと感じさせられる。
太平洋戦争後の朝鮮戦争やベトナム戦争でもアメリカ軍の本質は変わらなかったと思う。
藤原帰一はすでに20年以上前にその本質を書に著しており*1、私もしっかりと全文読んだが、今の方が実感として理解できるように思う。
その序の出だしにこう書いてある
本書では、アメリカへの権力集中を捉える言葉として「帝国(empire)」概念を用いる。冷戦後のアメリカの地位を指す言葉として「超大国」とか「覇権国家」などという言葉が多く使われている現在、わざわざこの古風な観念をなぜ持ち出すのか。その理由をひとくちでいえば、帝国が戦争を戦い、戦いこそが帝国の正義を支えるという、軍事大国としてのアメリカが持つ古典的な特徴に焦点を当てるためである[藤原帰一2001:3]
読んだ当初は帝国という古めかしい言葉に違和感を感じていた。
しかし、このところのトランプの言動をみてみると、まさしく帝国の名にふさわしいということが分かる。
国防省を戦争省と改名したこともそうだが、軍事力を背景とした高関税などの威嚇で他国をコントロールしようとしているやり方は帝国と言っても良いと思える。
現在はアメリカの輸入に頼る国や政策に従わない国に対しての経済制裁にとどまってはいる。
しかし、戦前の日本のように戦争するよう仕向けられたり、9.11の時のようにテロを口実に戦争し始める可能性もある。
そして、自らは手を汚さずに軍事支援を行って、代理戦争をさせるのが得意中の得意でもある。
尚かつ、行政トップの大統領が司法まで支配してしまうと帝国の皇帝とかわらないと思う。
かろうじて選挙によって選ばれるので、デモクラシーは守られているとみられるが、今後大統領の再選を増やしたり、フィクサーとして君臨すればプーチンとかわらなくなる。
また、現代では必ずしもアメリカ民主帝国はあえて戦争をする必要は無い。
独裁大統領の下、その軍事力に依存させたり脅しをかけて、経済的な利益を上げたり、他国の資源と自国の武器を交換すれば良いのである。
先日、NHKスペシャル「戦国サムライの城」第2集・徳川家康“巨大城郭に秘めた夢”を観て、目からうろこを経験した。
戦争のための要塞である城郭が、町の中心となって平和を築く礎になったという。
考えてみれば、大阪の夏の陣で天守閣を中心とした城郭が最先端の大砲の前では無用の長物であることが証明されていた。
町のシンボルとなる城郭が造られたり維持されるには、それを攻略する兵器は作らない,、作らせないのが前提となる。
1657年に江戸城の火災で焼失した天守閣が再建されなかったのも、無用の長物として必要なかったからだという。
因みに私の生まれ育った赤穂のお城はそれより後の1661年に完成したが、やはり天守台はあっても天守閣は造られなかった。
すでに、時は軍事力を示すシンボルさえ必要なくなっていたのだ。
そんな日本が欧米の帝国主義を模倣したのは、欧米に蹂躙されて植民地になったり、骨抜きになってしまった周りの国を知ったからだ。
また、島津藩などは関ヶ原の戦いで敗れて以来臨戦態勢を維持しており、武力を背景に琉球を実質支配下に置いて欧米を模倣したような政策を行っていた。
そして、その島津藩を中心とした軍事活動による幕末の内戦を経て、藩閥を中心とした帝国主義の道を歩んでいったが、アメリカ民主帝国に敗れその従属下に入った。
グローバリズムの中で、アメリカ民主帝国は保護主義を掲げたり、AIなどの最先端技術で世界を圧倒しようともしている。
戦後の日本はそういうアメリカ民主帝国への従属にずっと甘んじてきたのだが、今こそ意識を変えるべき時だろう。
このままアメリカ民主帝国の横暴な振る舞いにへつらい続けるとしたら、太平洋戦争で亡くなった多くの人にあの世で会わす顔が無いと思う。
かつて世界に例を見ない城郭を築いて平和の礎を造っていったように。
いまこそ、世界に例を見ない世界の平和と環境を守る新たな「城郭」を造る必要があるだろう。
大水害、津波、噴火、気象破綻に耐えられる町や村を新たに建設するときが来たと思う。
そして、何より地球の温暖化をくい止め、食糧危機を回避できる農業や山野河海を中心とした環境保護システム作りの先頭に立つべきなのだ。
また、世界唯一の被爆国として、核兵器廃絶に向けての取り組みを実際に行うべきだろう。
それが、アジア・太平洋戦争で他国と自国の多くの犠牲者を生じさせた真の責任の取り方であり、アメリカ民主帝国からの真の自立だと思う。
*1 藤原帰一 2002 『デモクラシーの帝国』 岩波書店
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