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2025年11月10日月曜日

黒大豆の枝豆の乾燥と贈答

 うちでは黒大豆を作っていて、多くは豆乳の材料として利用するのだが、枝豆としてたべることもしている。

うちでできる黒大豆の枝豆は粒は小さいが甘くて味に深みがあって美味しい。

糖尿病の私は、枝豆なら大丈夫だと思って、鍋一杯ほどの枝豆を一日で食べたことがあった。

その時に、酷い便秘になってしまい、排便するのに非常に苦しんだ経験がある。

適当の量なら便通に良いはずの枝豆だが、食べ過ぎるととんでもないことになることを思い知った。

それ以来気をつけて食べているので、食べ残った枝豆のことも考えねばならなくなった。

冷凍して置いておくのが一番の方法だが、家庭用の冷蔵庫では解凍したときにしわくなってしまって美味しくない。

そこで、乾燥させて保存しながら食べることにした。


枝豆は茹でたものを剥いてから干しても良いが、莢ごと干してからむいた方がむきやすい。

完全に硬くなるまで干した方が日持ちがするが、少し柔らかめの方が噛みやすいし美味しい。

今年はジャガイモを掘らずに置いておいたので、黒大豆を植える場所がなくて、やむを得ずジャガイモの埋まっている場所に苗を植えた。

これは大きな間違いで、黒大豆は10月末にならないと枝豆として食べられない。

そのうちにジャガイモから芽が出始めてしまった。

そこで急いで枝豆として食べられるようになったらすぐに刈り取るようにした。

そうなるとどうしても余るので、今年も乾燥枝豆を作ることにしたのだ。

家庭用の野菜乾燥機でかなり乾燥させて、日光でも乾燥させることにした。

ところがうっかり雨が降るのにそのままして濡らしてしまった。

それでまた、野菜乾燥機で乾燥する羽目にもなった。


十分に乾燥した枝豆は剥きやすくなっており、一つずつ丁寧に実を取り出していった。

保存をよくするためにもう一度粒の状態で乾燥させてしっかりと硬くした。

そして、以前に買って食べてしまったフィッシュコラーゲンの空き袋にその乾燥枝豆粒を入れて保存している。

今は茹でた枝豆が十分あるので、乾燥した物を食べる必要は無い。

高齢者には硬い枝豆は食べづらいので、冷凍した方が良いようだ。

私の亡くなった母は私が持っていった枝豆は茹でて冷凍にして長く食べ続けていたようだ。

枝豆は人にあげても喜ばれる。

特に黒大豆は人気があり、私の知り合いはわざわざ隣町の佐用まで行って買うそうだが、枝からちぎった莢枝豆は一袋1000円もすると言う。

私はちぎるのが面倒なので、近所の人や知人にはいっぱい実のついた枝豆を葉っぱだけ落としてあげている。

黒大豆は普通の大豆と違って栽培が難しい。

以前に病気が流行って全く採れなかったことも経験している。

また、上げた近所の農家も、黒大豆以外の大豆は上手く作れるのに黒大豆はできがよくないというので差し上げた。

黒豆の枝豆は大切な贈答品にもなっているのである。








2025年11月8日土曜日

先住民としての縄文人

 先日、家内が平日に休みが取れたので、京都まで特別展「世界遺産 縄文」を京都文化博物館まで見に行った。

特急スーパー白兎が大阪止まりになって以来、京都へ行くときは行きは新幹線を使っている。

私は午前中はトイレが近いので、トイレに直ぐ行ける列車で無いと不安でならないが、帰りはそれほどでもないので新快速で帰る。

新幹線は相生駅から「ひかり」に乗って新神戸で「のぞみ」に乗り換えた。

自由席に乗って新神戸までは家内と並んで座れたが、新神戸で乗り換えたときは前後ろの3列席になった。

それでも座れただけましで、列車の中をぞろぞろと自由席の1号車に向かう観光客が移動し、結局立っている人でいっぱいになった。

観光客は欧米人らしき人が多く荷物もかなり大きく、その殆どが京都で降りた。

平日に関わらずその多さにインバウンドのすごさを実感した。

大学の同じゼミの仲間のライングループには、京都で教員をしてる友だちがいて、ラインでその情報は知っていたのだが、新幹線の中からそれを味わうことになったのだ。


私は縄文関係の考古学文献や神話関連など読みあさっていたので、博物館へ行って何かを発見しようという目的は無かった。

家内は博物館や美術館に行くのが好きなので、良い機会だと思っただけなのだ。

京都駅ではまたその人の多さに圧倒されっぱなしで、地下鉄まで満員だった。

地下鉄の「烏丸御池駅」で降りて、案内があったから出口は上手く出られたのだが、そこからがいつものように試練である。

スマホで確かめながら歩くのだが、スマホのマップは分かりづらくて、本来なら3分で行けるところを15分以上かかってしまった。


館内は年配の人を中心に多くの人が訪れていた。

外国人はさすがにそれほど多くなかった。

何よりもの収穫は、遮光器土偶の頭は空洞になっていたことだ。

土偶を作った目的はいろいろと説があるが、私は北方文化の影響だと思っている。

というのも縄文人のゲノムを一番継承しているのはアイヌの人たちだが、二番目に多い琉球の人たちには土偶の歴史が無い。

そもそも、縄文時代とか縄文文化という設定自体もかなり無理があり、それを否定する学説もある。

日本では従来はこの時代に均質化されたとも言われているが、だんだんとそうでもなかったことが分かってきている。


日本人が縄文時代や縄文文化に興味を持って人気があるのは、自分たちの祖先だと思っているからだと思う。

しかし、本土の人のゲノムにはそれほど縄文人から引き継いだものは残っていない。

そして、地域によって現代人に継承されたゲノムの多さが違い、東北には多いのは分かるが、鳥取や島根にも多いのだ。

学術的な根拠は無いが、島根のずーずー弁との関わりもあるかもしれない。

新しく水田稲作文化が早くから伝わったと思っていたところに、意外と多いのも面白い。

とにかく、我々本土の人間は縄文時代以降に大陸から移動してきた遺伝を多く受け継いでいるのであって、そちらを先祖と思うべきなのだ。

そうすると、縄文人はその先祖から駆逐されたり、混血した先住民と捉えるのが自然だろう。

ただ、ユーラシア大陸に繰り広げ得られた狩猟採集民から農耕民への入れ替わりが極端でなかったので先住民という歴史認識が生まれなかったことも理解できる。

だけど、アイヌの人々を先住民と認めてこなかった歴史や、琉球の人々に対する歴史的な無理解とその配慮の無さは改めねばならないだろう。


現在、外国人の移民の問題がどの国でも深刻になっている。

人類の歴史は狩猟採集から農耕、工業、情報と生活の変化と伴に移動によってそこに住む人々は変化している。

日本は島国であったので急激な変化が起こらなかったのだが、交通機関の発達した現代では昔のようには行かないことも確かだ。

そして、変化せざるを得ないことも自覚せねばならないと思う。

その点で、縄文人を再考することは意議があることだと思う。





2025年11月6日木曜日

美咲・和気ドライブ2025年秋

 私たち夫婦にとって一番手軽で馴染みのあるドライブコースが、地元上郡町から岡山県美咲町・和気町への川沿いと山越えをのコースである。

まず、上郡から千種川沿いを国道373号を北上して、途中で上月の三差でJR姫新線沿いの国道179号の山越えの道を西に向かう。

国道179号で千種川の支流である幕山川から大日山川に沿いののどかな田園地帯を進むと、途中で小さな踏切がある。

1年に一度くらいは、一両編成の列車に出会うことがあるが、途中の線路上を走っている様子は一度も見たことが無い。

道沿いには古民家を利用したそば屋「鬨」があり、神戸から移住してきた石山さんが開いた店としてネットでは有名だが、休日はいつも駐車場に車がいっぱい並んでいる。

通るたんびに一度は食べに行きたいと思っているのだが、休日は満員だし平日は火曜・水曜が定休日なので利用しづらい。

しばらくすると山道になり、県境である万能峠を越えて岡山県作東町に入る。

峠から下りると山家川沿いに姫新線と平行して進んでいく。

途中は川沿いののどかな景色が続き、姫新線の昔ながらの無人の小さな駅舎も趣がある。

大きな銀杏があるお寺は、これから色づくと素晴らしい風情となる。

ここで一番気にかかる店はホルモンを看板にした店で、いつも昼前に通るとライダーや車が駐車場にたくさん停まっている。

私はホルモンが大好きなのだが、さすがにここは夫婦二人では入りづらい。


やがて、梶並川に合流してそれを上流に向かうと、川沿いにある「道の駅彩々茶屋」があってそこでトイレ休憩と買い物をする。

以前はよくそこで昼食を食べていた。

家内が大好きなちらし寿司定食やかやくご飯定食があったからだ。

私もここで出される豚汁定食やしし汁定食が好きだったのだが、いずれも人手不足でメニューから無くなってしまった。

だから、農産物の直売所で買い物をするだけになってしまった。

ここで売られている、野菜の苗はホームセンターで買うよりも安くて品質も良い。


彩々茶屋で買い物を済ますと、そこからおなじ国道179号を引き返して吉野川沿いに国道374号を南下する。

途中では昔から温泉町として有名な湯郷があり、大きなホテルや料理屋がたくさん見られる。

そこから、しばらく川沿いを南下して英田町に入り、いつも途中のドライブイン「西の屋湯郷店」で食事をする。

ここでは家内はいつも岡山名物料理の祭り寿司定食を頼んでいて今回もそれを食べた。

私はホルモン焼きをずっと頼んでいた。

ここは携帯コンロで焼きながら食べられてかなり美味しいのだが、残念なのはホルモン肉が少ない。

今回はここでは人気のあるちゃんぽん麺を注文して食べたが、具だくさんで味もよく汁まで飲み干してしまった。

ここでは猫型の配膳ロボットが使われていて「行ってくる ニャン」と元気に客席に回ってくる。

いつも季節に応じた飾り付けをして貰っていて、今回はハロウィンの飾り付けをして貰っていた。

このロボットを見るのも夫婦にとっては楽しみでいつも話題にのぼる。


食事後は川沿いを南下するが、途中で吉井川本流と合流するあたりから、片上鉄道の後にサイクリングロードが作られていてチャリダーをよく見かける。

吉井川沿いの雄大な景色を眺めながら和気まで行き、時にはそこのショッピングモールで買い物をしたりする。

今回は川からはずれて国道374号で山沿いの道を山本由伸投手の地元伊部まで行った。

いつもは海沿いの国道250号を通って「備前海の駅」へ行き買い物をする。

そこでは新鮮で安い魚介類が手に入るし、ショッピングモールが併設されているからだ。

本当に魚介類だけを買いたい人は、伊里の港付近で日曜の朝に魚市が開かれるのだが、行きたいと思いながらまだ一度も行ったことが無い。


私は海沿いを走る国道250号が大好きで、鹿久居島の見える穏やかな海が素晴らしい。

また、JR赤穂線と絡んで走っており、日生駅付近は私にとって懐かしい場所でもある。

気が向けば赤穂まで行って千種川沿いで家まで帰るのだが、たいてい時間が無いので途中で県道260号の山越え道を通って国道2号に出て帰る。

今回は帰ってタマネギの植え付けをしなくてはならなかったので、伊部から国道2号で帰った。


このコースは月に1度は訪れているコースで、「彩々茶屋」「西の屋」をメインとして、西の屋がお客さんが多くて入れないときは伊部の「ミスターバーグ」で昼食をする。

また、時間が有ったりその時の気分で、「彩々茶屋」から津山に行ったり、智頭まで行くこともある。

私たち夫婦の一番馴染みのある手軽なドライブコースである。




2025年11月4日火曜日

熊飢える秋

実りの秋として、かつて秋には野原や山には木の実や果実がなっていた。

先日、道の駅でアケビが売られていて、それを見ていたら同じように見ていた中年の女性から「これは何?」と訊かれた。

「甘い実で、種が多いですよ」とは言ったが、上手く説明できなかった。

田舎育ちの私たちのような世代で、アケビを知らない者はいないと思う。

小学生の頃はこの季節は、学校から帰るとアケビ採りに山へ毎日行っていた。

アケビは熟すと紫色になって割れるのだが、まだ緑で硬い実も採って米びつなどに入れて熟させることもあった。

種が多いけれど非常にあまく独特の香りがした。

甘い実を包むアケビの皮も料理して食べられるそうで、何度か試してみたけどうまく行かなくてしていない。


以前にアケビの実ではなくて、蔓の方が籠や飾り物にするので、女の人が多くとっていったので、道ばたのアケビは減ってしまった。

それでも、近くの山に行けばまだ道ばたの木にはたくさんなっているのだが、手の届かないところでなっているので道具が無いと採れない。

小学生の頃は、木登りの得意な友だちと行って採ってもらったりした。

何年か前には高枝ばさみを持って採りに行ったこともある。

ただ、私は糖尿病の関係で甘い物を控えねばならないので、最近は自重してあえてそこまでして採らないし買わない。

たぶん、今の若い人が食べたら、あまりにも種が多くて好きにはならないだろうと思う。


やはり、この季節の果物と言えば柿だろうが、私たちの子どもの頃は山にあるのは渋柿ばかりで、今ほど植えられていなかった。

この近辺でも熊が出るというので、庭に柿を植えている人は気を遣っている。

ただ、東北や関東と違ってどんぐりなどの堅果類はそこそこなっているようなので、熊が出た話は近隣では今のところ聞いていない。

そもそも、猪対策で山ぎわには金網フェンスが設置されているし、水田には電気柵が張り巡らされているので、そう簡単には村にやってこられない。

ただ、ハクビシン、アナグマには効果が無いようで、村でも出ているし、サルは地域によっては被害も出ているようだ。


私は今年の秋が異常に思えるのは、いつも色づくのを楽しみにしている大きなプラタナスの木の葉が枯れてしまっていることだ。

夏の暑さでやられたのか、害虫・病気にやられたのか分からないが、共同墓地のそばに植えられている他の木も同じように枯れている。

気候もついこの間まで夏のように暑かったのに、このところ冬のように寒くなっている。

テレビやラジオでも秋が無くなったとしきりに言われているが、まさしくその通りだと思う。

紅葉などの風情が損なわれるのも情けないが、深刻なのは東北や関東の熊の食糧となる木の実の凶作との関連だろう。

破綻気象の中で山の木々も変調を来し、それに依存していた動物が追い詰められていく。

腹を空かした熊は寒い冬になっても、冬眠できずに食い物を求めて街にやってくる可能性もあるという。


こういう気候を作ったのは人間なのだが、その原因の化石燃料を掘りまくれという大統領に日本の総理大臣はノーベル平和賞を推薦するという。

日本の総理大臣はアメリカの航空母艦に乗せて貰って笑顔で大統領と手を振っていた。

しかも、その大統領は今まで封印してきた核兵器の実験を指示しているというのだから、日本の総理大臣はただのお人好しなのだろうか?

一方で飢えた熊に襲われてて亡くなる人が後を絶たず、対策に自衛隊も出動しなくてはならなくなるそのギャップについて行けない。





2025年11月2日日曜日

世界の山本由伸投手を生んだ伊部

 伊部を「いんべ」とちゃんと読める人は最近では近隣でも少ないと思う。

ここで作られる陶器を今は備前焼というのが普通になったが、以前はここらでは伊部焼きと言っていた。

備前焼は日本六古窯の一つで、最も古くは名刀の産地で知られる長船で作られ、鎌倉時代くらいから伊部で盛んに作られるようになったという。

因みに伊部は吉井川のそばにある長船から北東方向に約5kmほど離れた山沿いのところにある。

有名な閑谷学校は伊部からまた北東に5km程離れたところに有り、その屋根瓦も備前焼が用いられてきており耐久性がある。

備前焼は実用品として古来から作られてきたが、戦国時代には火薬の入れ物としても重宝されたという。

この長船にあった備前福岡は黒田官兵衛の先祖が住んでいたことから、九州にその名前を持ち込んだとして有名である。

姫路生まれの黒田官兵衛と備前に関係あるように、西播磨と東備前は西と東のせめぎ合いの場所でもあったし、交流も盛んだった。


私が生まれた赤穂の西に位置する鷆和の鳥撫は播磨と備前の境界だが、私の母方の祖父母は備前福河に生まれ育った。

赤穂は大和政権によって播磨となるまでは、千種川より西側は吉備の国だったので、私はそのころの国名で言えば吉備の人間ということになる。

鳥撫の父方の伯父夫婦の言葉は赤穂弁よりも備前の方の言葉に近かった。

伯父は石材を運ぶ木造船を使った仕事をしていたが、船を停泊させるのに地元以外では備前の日生や片上の港を使うことが多かった。

私も子どもの頃には祖母と毎年備前福河に行っていたし、遊びに日生から小豆島に行ったり、備前焼の見学で伊部に行くこともあり馴染みのあるところであった。


伊部には備前焼の作家が方々で窯を構えているのが煙突や置いてある松の木の薪で分かる。

東京の大学院にいたときに、先輩がわざわざ伊部まで来て陶芸をしていると聞いて驚いたことがある。

また、私がしばらく勤めていた閑谷学校の研修所でも、備前焼を体験することも行われ、講師に備前焼の作家がそこから来てくれていた。

古くからの街並みも残っているが、去年には新しく駅前に立派な備前焼ミュージアムができた。

今年の10月に行われた備前焼祭りもたくさんの観光客で賑わっていた。


山本由伸投手のことは伊部駅近くのビルの垂れ幕に書かれたこともあったが、今は国道2号線沿いにある伊部小学校の外塀に細々と横断幕で紹介されている。

山本選手は野球は地元では中学校までで、高校は宮崎の都城高校なので、故星野仙一監督のように岡山を代表する選手という感じでは無いようだ。

大谷翔平選手や佐々木朗希選手のように地元の高校出身で無いことが、地元での盛り上がりを欠く原因となっているのかもしれない。

その一方で、ドジャースの選手が「オカヤマ オカヤマ」と山本選手を讃えているのが嬉しかった。

山本選手も中学生までは野球の全国大会で岡山県を背負っていたことも確かなのだし、県民の人も誇りに思って欲しいと思う。

私は備前焼では全国的に知られてはいるが、5000人ほどの小さな町に生まれた山本選手がアメリカのワールドシリーズでMVPを獲得したことに感動をおぼえている。

山本選手は既に大谷選手と同じように日本を超えた存在で、地元云々のレベルでは無いのかもしれない。

ただ、どんな小さな町や村でもしっかりした指導者がいれば、世界で通用できるスポーツ選手が誕生することの証明でもあると思う。

この際、備前焼も山本選手と一緒に世界にもっと売り込んでみたらどうだろうか?








2025年11月1日土曜日

冬の作物の主力タマネギ

 私は去年までタマネギはいい加減に作っていた。

それは以前は家内の手も借りて赤穂の実家の畑(でーしょん祭とタマネギ)で500本ほど作っていた。

ところが家内がリューマチになって以来農作業が困難になったので、家内に任せていた穴マルチを使った面倒な苗の植え付けを自分でしなくてはならなくなった。

また、極力ポリマルチを使わずに、草マルチでしてタマネギを作ろうとすると、植えた後での色々と手間が増えて、赤穂の畑での栽培は難しくなった。

そこで、細々と上郡の自宅裏の畑で数年前から作ってはいたのだが、あまり立派なのは採れなかった。

去年も植えたところが隣接する農業倉庫の陰になってしまい、発育が非常に悪くて小さな物が殆どだった。

タマネギは安く買えるから、買って食べれば良いと思っていた。


ところが、図書館で健康雑誌を読んでいて、タマネギが糖尿病の対策には非常に良いということが分かった。

そこで、私はソイリッチ(豆乳メーカー)でタマネギを中心としたシチューを作ることに決めたのだ。

ソイリッチはタマネギの皮まで砕いてくれるため、皮ごと刻んでシチューにした。

そうすることで、家で採れた小さなタマネギも手軽に利用できるようになった。

初夏に収穫した物は、10月末でほぼ無くなってしまったので、今は買った物を使っている。

こうなると、来年はできるだけ自分で作ったタマネギを使い続けようと考えた。

それで、去年とは違い、日当たりや肥料のよく効いているところに、畝を立てて準備して置いた。


タマネギの苗は極早生50本、中生50本、貯蔵用50本をとりあえずホームセンターで買って植え付けた。

そして、ホームセンターは必ず萎れた苗を半額で売ることを知っていたので、半額になった貯蔵用の苗を200本買い足している。

以前から半額の萎えた苗を植えてきたが、タマネギは強いのでちゃんと世話をしてやれば大きくなった。

合計で350本植えることになるのだが、家内に言わせればそれでも足らないということだ。

こうなると、植える場所をちゃんと確保せねばならないので、急遽をサツマイモを掘り起こしてしまうことにした。

というのも、今年は11月は暖かいというので、掘るのを遅くしておこうと思っていたのだ。


この夏に葬式があって家内の方の親戚が来てくれたのだが、そのひとりはミカン農家だった。

跡取り息子さんもいてミカン農家を継いで貰うのかと訊いたら。

淡路のタマネギ農家で実習していて、そこの農家が跡取りがいないので、やって欲しいと頼まれたという。

ミカンは嗜好品としてだんだん先細っていく中で、料理に欠かせないタマネギは手堅い。

しかも、淡路のタマネギはブランド品で値段も高い。

どうも、そちらの方に話がまとまってきているようだ。

代々継がれたミカン農家だが、時代の流れには逆らえないということだ。


今回の苗の中には淡路で使われているのを50本だけ買った。

他のより100円ほど高いのだが、良いタマネギができることは経験済みだ。

淡路のように立派なタマネギは作れないけれど、安全で健康に良いことは確かだと思う。

淡路ではポリマルチを使っていないので、おそらく除草剤は使っていると思う。

また、病気や害虫対策として農薬は欠かせないと思う。

我が家はできが悪くても自然農法に沿った無農薬栽培を行っている。

以前は冬の主力作物は大根やカブ、ジャガイモだったが、今年からはタマネギに戻った。

来年の初夏は立派に育ったタマネギを眺めて笑いたいものだ。






2025年10月30日木曜日

都立大学前駅から柿の木坂

 NHKラジオの音楽遊覧飛行の向谷実「ミュージックエクスプレス」をよく聞き逃し配信で聴いている。

今週(10/27~1030)は都立大学附属高校のホームカミングデイの話題や東急東横線都立大学前駅での失恋話など都立大学と関係する話題が多かった。

それを聴いていると自分の院生時代の記憶が蘇ってきた。

因みに向谷実さんは私より三つ年上の1956年生まれであるので、大学で出会うことはありえ無かった。

附属高校の生徒はよく大学の学食に食べに来ていたのだが、私服だったので大学生と隔たりは無かったので、年代が合えば会う機会は有った。

1958年生まれ織田哲郎もこの高校に在籍していたことがあるが、大学は明治学院大学なので重なることは無い。

都立大学附属高校は有名なミュージシャンを二人も輩出しているとは今まで知らなかった。

そう言えば、私のカラオケで歌うのを聴いて、都立大学出身の先輩が音楽関係者を紹介してやろうかと言ったのも、本気だったのかもしれない。

惜しいことに、当時はミュージシャンになることは諦めて、研究者になることしか考えていなかった。


私は都立大学は大学院の修士しかいなかったので、3年(1年休学)だけの関わりだった。

ただ、下宿が東京都の中野と西落合、横浜市の長津田と転々としたので、一番馴染みのあったのが都立大学前駅だった。

東京都立大学大学院の社会人類学研究会は月に一度か二度研究室でビールを飲みながらオープンな研究会を開き、二次会に駅近くの中華料理店の二階で二次会を行った。

どちらも飲みながらの遠慮の無い討論になるのだが、研究発表者は研究室ではしらふであっても、二次会では酔いながら熱い討論の続きをやったりしていた。

そこらへんが東京大学の上品な研究会とは違うところだったらしい。


そして、普段はゼミや講義でも滅多に会うことが少ない院生なので、三次会を駅前の酒持ち込み可能なスナックのような店で最終電車まで飲み続けていた。

場合によって、駅近くに住んでいる先輩や同級生の下宿に転がり込んで飲み明かすこともあった。

大学院は都立大学出身者はあまりいなくて、偏差値の上は東京大学から下は私のような南山大学からも入っていたが、多くは地方の国立大学と東京の有名私学だった。

中でも高知大学出身の先輩は飲むと必ず「剛気節」を駅前で歌ってもりあがったりした。

 一つとせ 一人のあの娘が戀しけりゃ 潮吹く鯨で氣を晴らせ =そいつあ豪氣だね=

その先輩の「そいつあ剛気だね」と歌っていた姿が目に浮かぶが、もうあの世に旅立ってしまった。

本来なら都立大学の校歌をみんなで歌いたいところだったが校歌が無かった。

そこでやけくそで、当時流行の志村けん「東村山音頭」をもじって「目黒区八雲いっちょめ(1丁目) いっちょめ」と連呼して騒いだりしていた。

当時は大学や研究機関への就職先もあまりなくて、院生の心も少々荒んでいたようにも思える。

だから、先輩が大学の職を得たときは、研究室で祝い酒を飲み都立大学の中庭の池に飛び込んで騒いで、その濡れた服のまま電車で帰った。


私の一番記憶に鮮明に残っているのは、駅から大学まで上りが続く柿の木坂だ。

修士論文を提出する日、徹夜でふらふらになりながら、その坂をひとりの先輩に付き添われて一歩一歩と歩いて大学に向かったていた。

そうするともう一人の同期の仲間が、数人の先輩に付き添われながら、やはりふらふらとその坂を上ってきた。

もう二人とも何日間も徹夜が続いていたので、体力も気力も限界に来ていた。

ふと、その仲間の足下を見ると靴下もはかずにスリッパのままだ。

修論の提出日は確か1月10日で真冬の寒いときだったのに、寒さも感じなくなっていたのだろう。

あの時の柿の木坂の光景は一生忘れられない。


残念ながら、私は修論のできが悪くて博士進学の夢を果たせず、そこを去って行った。

大学も八王子に移転してしまってそこを訪ねて行っても何も無く空しいだけと思っていた。

以前に自分が学生時代に暮らしていた所を訪ね歩いて写真に収めてきたが、ここだけは行かなかった。

それでも、向谷実さんの話を聞いたら、また行ってみたくなった。

そこには恋愛も失恋も無かったけれど、夢を抱いた研究と酒に明け暮れ、そして夢を捨てた想い出しか無いけれど・・・・・