NHKラジオの音楽遊覧飛行の向谷実「ミュージックエクスプレス」をよく聞き逃し配信で聴いている。
今週(10/27~1030)は都立大学附属高校のホームカミングデイの話題や東急東横線都立大学前駅での失恋話など都立大学と関係する話題が多かった。
それを聴いていると自分の院生時代の記憶が蘇ってきた。
因みに向谷実さんは私より三つ年上の1956年生まれであるので、大学で出会うことはありえ無かった。
附属高校の生徒はよく大学の学食に食べに来ていたのだが、私服だったので大学生と隔たりは無かったので、年代が合えば会う機会は有った。
1958年生まれ織田哲郎もこの高校に在籍していたことがあるが、大学は明治学院大学なので重なることは無い。
都立大学附属高校は有名なミュージシャンを二人も輩出しているとは今まで知らなかった。
そう言えば、私のカラオケで歌うのを聴いて、都立大学出身の先輩が音楽関係者を紹介してやろうかと言ったのも、本気だったのかもしれない。
惜しいことに、当時はミュージシャンになることは諦めて、研究者になることしか考えていなかった。
私は都立大学は大学院の修士しかいなかったので、3年(1年休学)だけの関わりだった。
ただ、下宿が東京都の中野と西落合、横浜市の長津田と転々としたので、一番馴染みのあったのが都立大学前駅だった。
東京都立大学大学院の社会人類学研究会は月に一度か二度研究室でビールを飲みながらオープンな研究会を開き、二次会に駅近くの中華料理店の二階で二次会を行った。
どちらも飲みながらの遠慮の無い討論になるのだが、研究発表者は研究室ではしらふであっても、二次会では酔いながら熱い討論の続きをやったりしていた。
そこらへんが東京大学の上品な研究会とは違うところだったらしい。
そして、普段はゼミや講義でも滅多に会うことが少ない院生なので、三次会を駅前の酒持ち込み可能なスナックのような店で最終電車まで飲み続けていた。
場合によって、駅近くに住んでいる先輩や同級生の下宿に転がり込んで飲み明かすこともあった。
大学院は都立大学出身者はあまりいなくて、偏差値の上は東京大学から下は私のような南山大学からも入っていたが、多くは地方の国立大学と東京の有名私学だった。
中でも高知大学出身の先輩は飲むと必ず「剛気節」を駅前で歌ってもりあがったりした。
一つとせ 一人のあの娘が戀しけりゃ 潮吹く鯨で氣を晴らせ =そいつあ豪氣だね=
その先輩の「そいつあ剛気だね」と歌っていた姿が目に浮かぶが、もうあの世に旅立ってしまった。
本来なら都立大学の校歌をみんなで歌いたいところだったが校歌が無かった。
そこでやけくそで、当時流行の志村けん「東村山音頭」をもじって「目黒区八雲いっちょめ(1丁目) いっちょめ」と連呼して騒いだりしていた。
当時は大学や研究機関への就職先もあまりなくて、院生の心も少々荒んでいたようにも思える。
だから、先輩が大学の職を得たときは、研究室で祝い酒を飲み都立大学の中庭の池に飛び込んで騒いで、その濡れた服のまま電車で帰った。
私の一番記憶に鮮明に残っているのは、駅から大学まで上りが続く柿の木坂だ。
修士論文を提出する日、徹夜でふらふらになりながら、その坂をひとりの先輩に付き添われて一歩一歩と歩いて大学に向かったていた。
そうするともう一人の同期の仲間が、数人の先輩に付き添われながら、やはりふらふらとその坂を上ってきた。
もう二人とも何日間も徹夜が続いていたので、体力も気力も限界に来ていた。
ふと、その仲間の足下を見ると靴下もはかずにスリッパのままだ。
修論の提出日は確か1月10日で真冬の寒いときだったのに、寒さも感じなくなっていたのだろう。
あの時の柿の木坂の光景は一生忘れられない。
残念ながら、私は修論のできが悪くて博士進学の夢を果たせず、そこを去って行った。
大学も八王子に移転してしまってそこを訪ねて行っても何も無く空しいだけと思っていた。
以前に自分が学生時代に暮らしていた所を訪ね歩いて写真に収めてきたが、ここだけは行かなかった。
それでも、向谷実さんの話を聞いたら、また行ってみたくなった。
そこには恋愛も失恋も無かったけれど、夢を抱いた研究と酒に明け暮れ、そして夢を捨てた想い出しか無いけれど・・・・・
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