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2025年11月30日日曜日

幼かった娘の想い出と泳ぐ

 週に一度だけ、隣の市営プールに泳ぎに行っている。

ちょうどその時間帯では幼稚園児のスイミングスクールがあって、その様子を見ながら歩いたり泳いだりしているお父さんを見かける。

その若いお父さんは幼い娘を二人スクールに連れてきて、終わると連れて帰っているのだが、まだ娘達は自分で更衣できないので、お父さんが世話をしている。

私も小学校の低学年の頃の娘や息子をこのプールのスイミングスクールに土曜の午後に連れてきて、そのそばで泳いでいた。

その若いお父さんは娘二人のことが気になって、しょっちゅう娘の方に目をやって、時に手を振っている。

私の場合は自分の泳ぐ方に夢中になっていたのだが、子どもを指導してくれている若くて美しい女性コーチにも見とれてしまうことも多かった。


娘の方は後に地元のスイミングに移った後に選手にもなって、別のボランティアコーチが指導するスイミングチームに入って練習した。

その時は家から遠い温水プールで日曜日の午前に練習があったので、私もその横で水泳の練習をしていた。

たびたびあちらこちらで小さなレースがあったので、家内と一緒に娘を連れて行くことが多かった。

また、自分が顧問をしている水泳部の部員も参加する大会に娘も出たときには、部員と一緒に自家用車で引率することもあった。

残念ながら地元の上郡の中学校には水泳部も無く、娘は学校のクラブに入りたがって、陸上部に転向してしまったので、娘との水泳を通した関わりは終わってしまった。


今でも、自分が練習するときにスイミングスクールの小学生の子ども達が泳いでいると、目が行ってしまう。

特に娘似た子どもがいると、娘の幼い頃を思い出してしまう。

今はスイミングスクールでコースが塞がっていない午後二時半からの時間帯で泳ぐことが多い。

地元のプールは6コースしか無くて、スクールがあると泳ぐコースは1コースだけになってしまうからだ。

どうしても個人によって泳力が違うので、他のスイマーに気を遣ってしまうから、コースが空いている時間帯で自由に泳いでいたい。

午後3時からは1コースだけ園児のスクールがあって、そこで数人の練習しているのだが金曜日は一人もいない。

園児が練習しているのを時々眺めるのも楽しみではある。

ただ、この時間帯はお年寄りが多いので、冬場になって利用者が減ってしまい私ひとりで泳ぐこともある。

それでも防水イヤホーンで音楽を聞いて泳いでいるので、気が紛れて淋しさはあまり感じない。


4時なると選手以外の小学生のスクールが始まるので、一転して賑やかになる。

私は以前はそのスクールの生徒が来る前に泳ぎ終えて着替えて出てしまっていた。

この頃は、その賑やかな雰囲気を少しでも味わいたくて、15分ほどそばで泳いでいる。

長く泳いでいると1コースしか無いので他のスイマーが入ってくるので、早めに出なくてはいけない。

水泳は個人で練習することもできるが、やはり賑やかな雰囲気で泳いでいる方が楽しい。

かつてのマスターチームの仲間とは、レースに出なくなってから一緒に泳ぐことが無くなった。

そういう時に、自分の娘のそばで泳いでいた頃を思い出しながら、小学生の生徒のそばで泳ぐ楽しみを見いだすことができた。


2025年11月29日土曜日

消極対応という暴力

 以前紹介したアルバート・セント=ジェルジ著の『狂ったサル』國弘正雄訳 1985(1971)The Crazy Ape and what Next? サイマル出版の中の暴力に関する記述である。


暴力には、二種類の暴力があります。すなわち、能動的な暴力と受動的な暴力がそれです。能動的な暴力とは、窓や頭蓋骨を打ち砕く人びとの暴力を意味します。受動的な暴力とは、能動的な暴力以外のなにものにも屈しないと判断する人びとの暴力を意味します。こうした二種類の暴力は、密接に結びついています。能動的な暴力を誘発するのは、受動的な暴力にほかならないからです。[前掲書 57p~58p]


おそらく受動的というのはpassiveの訳だろうが、私は消極的と訳した方が分かりやすいと思う。

いくらデモをして訴えたり、署名活動や裁判を通してもその意見を聞かない権力者の行動。

それを訳者は受動的暴力と書いているのだが、受け身というより無視と捉えた方が分かりやすいと思う。

これはいじめにも言動を用いて相手を攻撃するやり方と、完全に無視をするやり方があるのと一緒だ。

ただ、ネグレクトは保護する義務がある者が、それを拒むことを言うので、ネグレクトとまでは言えないだろう。

統一教会の問題をあれだけ訴えても政策として取り上げないどころから、教会を宣伝して利用までしていた。

これもセント=ジェルジ博士に言わせれば立派な暴力なのだ。

結局その暴力が、能動的な暴力を招いてしまった。

つまり、統一教会への消極的な対応が、元首相への銃撃という暴力を誘発したと解釈できる。

もちろん、銃撃による暗殺という暴力は当然間違った行為なのは確かであり、法によって裁かれて当然だと思う。


この事件後に、旧統一教会に対して東京地検が解散命令を出して、今は東京高裁で審理が続けられている。

その旧統一教会の問題にきちっと対応せずに、逆に利用した側の「暴力」を問題にすべきだろうが、そこまでは踏み込むんでいない。

日本ではテロ行為や暴動など抗議活動はあまり行われない。

それは古来から権力者に対しては逃散という形で抵抗してきた歴史が続いているのかもしれない。

特に人口比では他国に勝る武官たる武士によって、力尽くで支配されていた土壌が残っているように思える。

教師不足の問題、少子化の問題、過労死・過労自殺の問題は、政府による「消極的対応という暴力」によって引き起こされたとも言える。

そんな日本にあって、銃撃テロを行った背景を根本的に考えねばならないと思う。






2025年11月28日金曜日

ほんの小さなパッキンの重大性

 二階のトイレとウォシュレットを自分で同じメーカーの新しい物と交換した。

一度自分で設置したから説明書も見なくでも、取り外した部品を見れば分かると髙を括っていた。

それが大きな間違いで、ウォシュレットへの接続部分から水漏れが留まらない。

大した量の水漏れではないので、防水テープを巻いたら止まるだろうと思って、ホームセンターで勧められた高いのを買って巻いた。

ところがやはり同じように少量の水漏れが続く。

もっと厳重に巻けば良いと思って、別のテープを巻いて結束バンドでも締め付けた。

それだけ厳重にしてもやっぱり水漏れは続く。


当面は水漏れには下に5リットルのポリ容器を置いて、注ぎ口に大きなロートを差して水を受けていた。

その5リットルの水の容器は一日でいっぱいになり、朝に用を足したときに貯水タンクに上から水を足していた。

その処置によって漏水で水道料金が跳ね上がることは無かったが、毎日続けなくてはいけないし、もし家を留守にしたら溢れてしまうことになる。

そこで、本格的な水漏れの対策道具を買って、時間が有るときに修理することにして置いた。


ある日、ポケットの中に小さなビニール袋に入ったパッキンが出てきた。

ウォシュレットを交換するときに、無造作にポケットに入れており、その時はいていたズボンをはくまで気がつかなかったのだ。

これで原因が判明したのだが、厳重に対策した結束バンドやテープを剥がすのをどうしたものかと思案していた。

そんな時に、部屋を片付けていたら、巻き爪を切る爪切りが出てきた。

これで結束バンドを切るのが簡単になった。


やっと一ヶ月後に、止水栓を止めて修理に取りかかったのだった。

結束バンドは簡単に切れたが、漏水対策のテープを剥がすのは至難の業だった。

ハサミで少しずつ切りながら、何とか力尽くで剥がすことができた。

ナットもかなりきつく閉めていたので、水道工事用のモンキーを回すのには骨が折れた。

そして、パッキンをはめて閉めると、見事水漏れは収まった。


ウォシュレット本体や、取り付け部品のと比べて、ちっぽけなパッキンを忘れたが故に、余分な出費と労力、時間を奪われてしまった。

そもそも、液体や気体を通す管を繋ぐにはパッキンが絶対必要だという基礎知識が無かったのだ。

初歩的な知識だが意外と知られていないらしく、弟に話したら同じような経験をしたらしきことを話していた。

世の中の多くの人は、ウォシュレットを自分で交換するような人はいないかもしれない。

綺麗なトイレなら業者に頼んだかもしれないが、二階のトイレはちゃんと掃除ができず、業者に見られるのも恥ずかしかったのだ。


まあ、この痛い経験によって、なんでも細部に気を配る必要があるということを学んだのは良かったとは思う。

実は少し前も、手回しの唐箕を組みたてていて、ちゃんとワッシャーを付けるのを忘れているのを組みたててから気がついた。

いまさら分解して付け直せなかったので、そのまま使って問題は現在のところ起こってはいない。

しかし、耐久性の問題や分解や修理の必要が出てきたときには困るかもしれない。

相棒の杉下右京のように「細かいことが気になる悪い癖」を持つことも大切なように思った。

そういえば日本の総理大臣も細かいことを気になされた方が良いように思える。



2025年11月26日水曜日

「狂ったサル」の自覚

 学生の頃から読もうと思いながら、ずっと読みそびれていた。

それが、アルバート・セント=ジェルジ著の『狂ったサル』國弘正雄訳 1985(1971)The Crazy Ape and what Next? サイマル出版であった。

このノーベル医学生理学賞受賞の生化学者アルバート・セント=ジェルジ博士に関しては訳者である國弘正雄がまえがきで詳しく述べてくれている。


セント=ジェルジ博士は研究活動だけに専念する科学者ではない。自分から政治に入っていったことはないが、政治の方が自分の人生に入りこんできたといわれる博士は、ファシズムに抗して地下抵抗運動に加わってヒットラーの秘密警察に追われ、解放後はソ連軍の残虐な行為をやめるようスターリンに直言して不興をこうむり、アメリカへの亡命にさいしては親ソ派とみられ、しばらくは入国を拒否されるなど、多事多難な生涯をおくってこられた。一たびはナチ滅亡後のハンガリーの大統領に推されたこともあった。

 しかも博士は一貫して平和主義の立場をとってこられた。第一次大戦時、イタリア戦線に従軍中、なんの恨みも怨念もない「敵兵」を殺戮することの没道義性と愚かしさに耐えきれずに、われとわが右腕を撃って処罰された。また負傷がなおってイタリア戦線に送られた時、イタリア人捕虜に危険な生体実験をせよという命令を拒否して、マラリアのはびこる北イタリアの沼地に追いやられるということもあった。[前掲書 3p]


セント=ジェルジ博士は単なる学者ではなくて、活動家でもあったことが分かる。

自ら戦争を体験してきた彼の言葉は半世紀経った現在にこそ、われわれの目を覚まさせる力を持っている。

彼はベトナム戦争を行っているアメリカを目の当たりにしながら軍隊に関して次のように述べている。


 なにをもって「軍隊」と呼ぶかの定義は、明確にはできません。軍隊とは、軍事産業と政府と組んだ一つの有機体です。また「産軍複合体」とは、それを支える国民の生き血を栄養とし、その労働の成果を生産的な活動から、非生産的な冒険へと転移させる、不即不離の結合体なのです。

 この肥大化は危険です。というのは、産軍複合体がある限度をこえると、文官政府の僕【しもべ】たることをやめ、その主人になってしまうからです。国の対外政策や資源の配分方法を指図し、国民所得の大きな部分を呑みこみ、さらにはより高次の努力をねじまげ、芸術、科学、人道的な組織を衰退させてしまいます[前掲書 32p]。


この巨大な産軍複合体と化したアメリカと平和憲法を超えた実践的な軍事同盟を結び、自ら産軍複合体の国家に戻ろうとしているのが高市総理の日本政府だろう。

やはり巨大な産軍複合体と化した中国を牽制した発言で、何とか親交を維持してきた関係をこじらせてしまったわけだ。

特に打撃を被ったのは観光や芸術・科学分野の交流であり、それが組織の衰退を招こうとしている。


博士は当時の米ソ対立の中で平和に関する鋭い洞察を述べている。


実はといえば、この二大超大国の軍隊こそ、こよなき同盟者なのです。ソ連の軍隊がなければ、アメリカの軍隊も不要ですし、アメリカの軍隊がなければ、ソ連の軍隊も不要です。しかもそうなれば、現在は国防総省に向けられている両国市民の汗の結晶は、もう流れてこなくなります。そこで、両国の巨大な軍隊は力をあわせ、お互いへの敵意と恐怖とがなくならないようにしむけ、平和の「勃発」を防いでいるのです[前掲書 34p~35p]。


これは現在の米中関係にも当てはまることだろう。

今アメリカが一番懼れているのは、日中・日朝関係が良くなってアジアに平和が訪れて、アメリカの軍隊を必要としないことだ。

しかし、既に中国自体がアメリカの脅威が無ければ軍隊を維持できない国家になってしまっているので、アメリカの懼れる平和の「勃発」は当面なさそうだ。

中国が懼れているのは、せっかくアメリカの縛りによって日本が巨大な産軍複合体に戻ることを阻止できていたのに、台湾問題を理由としてその縛りを無くそうとしていることだ。

高市総理は明らかに日本の産軍複合体を復活させようとしているのだから、中国と冷戦関係になるのは都合が良いから国会発言は怪我の功名というところだろう。

アメリカは日本の核兵器開発さえさせなければ、自民党の傀儡政権を温存させて日本を自由に操れると思っているだろう。

特に高市総理は原子力空母の上で浮かれて手を振りながらクルリしているくらいだから、チョロい者だと思われているのかもしれない。

日本はアジア太平洋戦争で戦争の愚かさを学んで、世界で初めて「狂ったサル」から正気になりかけたのだが、また完全に戻ろうとしている。

今、狂っているのは日本なのか?アメリカなのか?中国なのか?台湾なのか?ロシアなのか?ウクライナなのか?

セント=ジェルジ博士の言うとおり人類なのか?




2025年11月25日火曜日

部活動の民間移行と残業手当

 教師は基本給の4%を教職調整額としてもらって、残業代は出なかった。

これがいわゆる「定額働かせ放題」と言われ続けている原因で、今のサブスクブームを先取りしていた。

私がかつて教師の時に勤務時間外で最も多く費やしたのは、クラブ活動であった。

ただ、幸いなことに自分がやりたい水泳部の顧問をやらせて貰っていた時は、それほど負担には感じなかった。

そばで見ていて負担に見えたのは、やはり教師が経験したことの無いスポーツや音楽に関する顧問を任されているときだった。

特に野球部は正月以外は年中無休という感じだったので、経験者以外にはなり手が無いのだが、顧問の人数が必要で未経験者もならされていた。

特にいきなり臨時常勤講師が顧問をやらされて、本人も嫌がってサボるし、他の顧問もそれを怒っていたケースもあった。


実は水泳に関しては、スイミングスクールに依存している学校が多い。

温水プールなどないので、冬場に練習できないと全国レベルどころか県大会レベルの選手を育てることはできない。

だから冬場はスイミングに通っていない部員は温水プールに引率したりしていた。

兵庫県で学校だけで練習していたのは、当時は市川高校ぐらいだった。

最近はサッカーもプロサッカーチームの下部組織の所属選手が活躍している。

野球に関しては相変わらず学校に依存している場合が多いが、小学校中学校では学校以外の野球チームで育った人もいる。

私は以前に中国の北京に修学旅行で生徒の引率を行なって、地元の高校と交流を持って驚いたことがある。

中国ではスポーツ選手を育てるのは学校が担っていなかった。

だから、卓球などもその高校では遊び程度のレベルの生徒しかいなかった。


実は私は中学高校と私立であって、そこで中学部では剣道部に入っていたが、部活動には殆ど教師は顔を出さなかった。

当時は部活動どころか地方大会でも顧問は引率してきていなかった。

部活動は週に三日以内と規定があったが、早朝に来て勝手に個人で練習するクラブもあった。

それでも夏休みは校内合宿を顧問なしで行っていたりした。

よく練習に指導できてくれていたのは、商店街の店主だった。

サッカーは強かったので顧問も力を入れていたようだが、全国に出場していたテニス部も大して顧問は練習に関わっていなかったように思う。

陸上に関しても全国大会に出たり、県大会で入賞する選手がいたが、まともに指導できる顧問がいなくて、他の公立高校へ行って練習したりしたようだ。

野球に関してはマスコミに取り上げられるせいもあって、顧問はそこそこ練習でも指導していたように思う。


私が中学高校の時代は50年ほど前は、顧問がそれほど指導しなくても部活動は成り立っていたし全国大会にも出場できていた。

それが私が教師に採用される頃は、部活動の経験が無かったり、指導ができないと公立校の教師には採用されないという風に言われていた。

当時は学校が荒れており、部活動を通して生徒指導、生活指導をしていくことが一番効果的に思えたからだと思う。

実際に、高校の野球部の顧問は練習を毎日していないと、問題行動を起こすからしていると言っている人もいた。

公立高校では学校行事や生徒会活動では部活動を行っている部員が中心となって働いてくれていたので欠かせない人材だった。

生徒会自体も部活動と同じ雰囲気であったところもある。

そして、その部活動が教師の大きな重荷となっていた。

結局学校の放課後の時間を会議や事務以外にも部活動に時間をとられて、教材研究などを学校で時間外におこなったり、自宅に持って帰ってすることになるからだ。


サッカーにしても水泳にしても一流選手は校外で育てられることが多くなった。

それでも相変わらず学校に依存しているのが高校野球である。

野球部を維持するのは人材においても、生徒会予算に関しても非常に負担を強いられる。

しかし、新聞などのマスコミは地方大会レベルから選手の名前や様子を記事にしてくれる。

学校の良い宣伝になるし、選手の励みになって部員になる希望者も増える。

高校野球での最高の舞台の甲子園出場は学校に大きな名誉と人気をもたらせてくれる。

そしてそれがその高校の就職や進学に役に立ているということで、特に高校で部活動を盛んにしているのだろうと思う。

実際に大谷翔平選手や山も由伸選手は高校までは民間のクラブチームで育てられて、高校から学校で指導を受けている。


部活動が現在において学校において重要で有り、民間移行できないのであれば、その負担によって生じる時間外勤務に対して正当な残業代を支払うべきだろう。

あたかも朝早く来て時間外の仕事をすることを自慢げに語る教師もいるが、それはそれが無理な教師に対する当てつけ行為になってしまう。

ちゃんと時間外手当をもらっていれば、当てつけ行為には受け取られないだろう。

進学校ではスポーツ以外で進学実績が確立されているので、かつて顧問の負担はあまりなかったがそれが大変な事故にも繋がった。

文武両道とうたう進学校も多いと思うので、やはり進学校でも残業代の適用が必要だろう。

これからは「定額働かせ放題」の仕組みを手当率の引き上げのように改悪するのでは無く、民間移行にするか、きちっとした残業代を支払う仕組みにするべきだと思う。

このままではますます教師のなり手がいなくなる。




2025年11月23日日曜日

イナゴ美味し彼の道

 童謡「ふるさと」の「ウサギ追いしかの山」を、「ウサギ美味し」と勘違いするドラマのシーンがあったが、実際に昔はウサギは大切な食糧だった。

江戸時代は山にいるウサギを鳥と見立てて普通に食べていたようだが、野生のウサギを私は山で見かけた経験はない。

私の父は子どもの頃に飼っていたと言い、太平洋戦争の時には非常に重要な食糧になったようだ。

私もウサギを飼ったことはあるが、ペットとして飼っていたのであって、食用として飼ったのではなかった。

近年、鶏を飼いたくても鳥インフルエンザが恐くて飼えないので、ウサギを食用に買おうかとも思ったが、ペットショップのウサギは高価で食用にするにはもったいないと思った。

私の家の周りにはウサギはいないけれど、ヌートリアなら嫌というほどいる。

食用にもなるようで、近所のきれいな川で育ったのなら食べられそうだが、食べる気はしない。

うちの猟犬クロは挑むのだが、一度も捕らえたことはなく、逆襲さえ受けている。

ヌートリアは厚い毛皮で覆われている上、前歯は鋭くうかつに近づと噛まれて血をみてしまう。


そういう哺乳類は無理なのだが、昆虫のイナゴはクロにとって大切な食糧となっていた(うちのクロは立派な猟犬?)。

例年ならもっと秋口にはイナゴが大量に発生して、草に覆われた農道で跳ね回っているのをクロは必死で捕らえて食べていた。

また、寒くなってくるとイナゴはだんだん動けなくなって草の中に潜っていた。

それをクロは嗅ぎつけて何匹も見つけて食べていたので、害虫退治になると思ってやらせていた。

というのも、私が作っている畑の隣は補助金目当てで大豆を作っているので、草まみれになってイナゴが大量に発生していた。

そして、私の畑の作物を食い荒らしていたのだ。


ところが、今年は道にも畑にも殆ど見かけない。

畑にとってはありがたいのだが、クロにとっては大切な食糧を失ったことになる。

原因はこの夏の酷暑にあるのかもしれないが、ドローンやラジコンヘリによる農薬の空中散布も疑われる。

うちの畑の近くの田んぼもドローによる空中散布が行われていたし、とにかく農薬の空中散布が当たり前になってしまったのだ。

イナゴは農家にとっては害虫ではあるが、里の動物にとっては大切な食糧にもなっている。

地方によってはイナゴは人も食べているのだから、それがいなくなるとその食文化も失われるだろう。

ふるさとはウサギを失い、そしてイナゴまで失うことになりそうだ。


2025年11月21日金曜日

愛藍服

 今朝は寒かったので厚手のジージャンを着たら懐かしい匂いがしてきた。

それは藍の匂いで、私は剣道との関わりがそこそこ長かったので、稽古着、面手ぬぐいや防具の匂いと一緒なのだ。

懐かしいと言っても、剣道に楽しい想い出など無いのだが、考えてみれば剣道以外にもジーンズは古くから関わっていた。

だけど、ジーンズの匂いはあまり気にしたことが無く、ジージャンは袖を通すことによって匂いが身近になって気になりだしたのだ。


ジーンズは高校生時代から愛用しており、大学時代はジーンズ以外のズボンは高校時代の制服と教育実習に使った夏物スーツくらいだった。

だから、私の大学の卒業写真は夏物スーツは使えなかったので、ガウンの下はジーンズと革ジャンだった。

大学時代のジーンズは安売りのLeeを見つけて買って、サイズはかなりでかかったがそれを履き続けていた。

そのジーンズは20年ほど履き続けて色々と破れてきたのを家内に繕って貰ったが、ついに限界が来て捨てざるを得なかった。

今もジーンズは何本か持っているが、履く機会も減ったせいかどれも20年ほど経っても破れていない。

ただ、近年はアウトレットで1000円ほどの安いのを見つけて、作業着として使い続けている。

アウトレットのジーンズはワークマン等の作業着よりもよほど安い上に、耐久性とファッション性に優れているのだ。


ジージャンは着るのにずっと抵抗を感じていて、最近まで着ることは無かった。

何となく粋がった兄ちゃんというイメージを持っていたからだ。

この歳になると着る服を工夫するのも億劫になってきたので、ジージャンなら若く見えてごまかせると思って買って着ることにした。

それにジャケットもデニム生地の物を買って高校の非常勤講師での仕事着にした。

藍染めのデニムは着れば着るほど風合いも出るし、流向に左右されずに済む。

ジージャンの方はアウトレットでも高いのでなかなか見つけられなかったが、サイズの大きいのや背中にダサい文字が入っているのが安かったので散歩や作業用に買った。

他にもワークシャツやカッターも藍染めのデニムを愛用している。


デニムでは無いのだが、授業で使う白衣を藍色に染めたことがある。

白衣は普通は理科の教師が使う物だが、私は下に何を着てもごまかせるのと、チョークの粉で汚れるので夏場以外は白衣を着ていた。

ところが、白衣は襟元も汗で汚れてくる。

だんだんと汚れが取れなくなったので、家内に頼んで藍色に染めて貰った。

職人がやるようにきれいに染まらなくてまだら模様になってしまった。

ところが、それが良い模様になって皆から好評を得たのだ。


剣道から始まりジーンズ、ジージャン等々と藍とは長い付き合いだ。

匂いはどちらかというとあまり良くないのだが、それも自分を守ってくれていると思えるし、何よりもカビ対策でもあるように思う。

実際に毒蛇から守ってくれるかどうかは分からないが、薄っぺらい化繊の服を着るより信頼できるだろう。

剣道の稽古着も化繊に替わっていったが、色は藍色を踏襲しているようだ。

私は大学時代に高校時代に体育の授業のために買った白の柔道着の上を剣道で使ったら、カビがいってしまってみっともなくなってしまった経験もある。

女性の剣士が白を着ているのはこまめに洗っているから良いのだろう。

今の剣道部の男子は毎回稽古着を洗っているようだが、私らの頃は滅多に洗わなかった。

藍の匂いはその汗の臭いを誤魔化すのにも適していたのだと思う。

加齢臭も気になる歳になったので、私には藍が適しているように思える。








2025年11月19日水曜日

もし熊が縄文人だったら

 縄文人はどんぐりなどの堅果類に頼った生活をしていたと言われている。

どんぐり等は栽培というのではなくて、管理してきて木材も利用してきた。

どんぐりはたくさん採れたし貯蔵もできたので、狩猟採集では難しい定住化ができたとも言われている。

ただ、どんぐりだけではなくて、鮭など魚類の川や海の自然の恵みも重要だった。


そのどんぐりが不作した原因をネット上では色々と書いてくれている。

それらを見ると人間が引き起こした環境変化が大きな原因のように思える。

特に縄文の人々が多く住んでいた東北地方で大変不作の状況だという。

ゲノム解析でも東北の人々は縄文人のDNAを北海道のアイヌと琉球は別として、他の日本の人々より多く継承している。

古代の蝦夷の生活も縄文人の生活に似た狩猟採集が、重要な生業だったことが知られている。

かつて、東北は冷害で苦しんできたし、北海道では稲作はできなかった。

今は東北どころか北海道が米の重要な産地になっている。

そして、温暖化の影響で縄文人やアイヌ人が大切な食糧としていた、鮭が来なくなってしまった。


すでに縄文人と似た暮らしをしていたアイヌの人々は生活様式を変えてしまっているが、先住民として昔の生活をしていたとしたら大変なことになっていただろう。

東北では江戸時代には大飢饉で多くの犠牲者を生んだが、今はその心配をせずに済んでいる。

その一方で遠い昔の先祖と同じようにどんぐりに依存している熊の襲撃を受けることになった。

アイヌの人々は熊を大切な神様として、イオマンテの祭りを行いながら食べたりした。

東北の人々が自分たちの先祖を熊に見いだすのか、それとも稲作文化を持って移住してきた和人として熊を敵と見なすのか分からない。

言えるのは、もし三内丸山に暮らしていた人がそのまま現在もいたとしたら、どんぐりが無かったら稲作をしている集落を襲った可能性もあるということだ。


我々ホモサピエンスと絶滅したネアンデルタール人の違いを、熊とライオンの違いに似ているいう学者もいる。

熊は雑食性でライオンは肉食性であることがその生存戦略に影響して、雑食のホモサピエンスは生き残り、肉食に頼ったが故にネアンデルタール人は絶滅したというのだ。

熊は熱帯から北極圏にいたるまで、その環境に応じて食性も違うが、ホモサピエンスの起源と言われているアフリカにはいない。

日本人の大好きなジャイアントパンダも熊の仲間で竹以外にも木の実や昆虫も食べるという。

ホッキョクグマは肉食性だが、これはイヌイットの食性に似ている。

人類が文化によって地球のあらゆる所に生活圏を広げたのに対して、身体や食性を適応させることによって生息圏を広げた。

熊は冬眠で知られているが、生息域によっては冬眠はしないそうだ。

そういえばパンダが冬眠するなんて聞いたことが無い。

日本ではヒグマは北海道にしかいないと言うが一万年前には本州にもいて絶滅したという。

また、本州のツキノワグマはホモサピエンスよりも早くに氷河期に渡来して、独自に進化して生息域を広げたが北海道には行けなかった。

縄文が始まる頃にヒグマが本州からいなくなり、ツキノワグマが逆に広まったというのも日本人の歴史と重ねると興味深い。

北海道や本州に生き残ってきた熊が温暖化による環境変化で窮地に追い詰められて、人との間に問題を起こしている。

その姿をかつて日本に暮らしていた旧石器人や縄文人と重ねて考えてみるのも良いのではないかと思う。





2025年11月18日火曜日

失われた絆と残された想い

 母が亡くなって2年半も経とうとしているのに、空き家に残された遺品は片付けが終わっていない。

末弟もだいぶ手伝ってくれて、以前よりはましにはなっているが、家具類が多く残されたままだ。

家内の実家は義母が亡くなって半年も経たないうちに、業者に頼んできれいに片付いている。

業者に頼んだのは喪主を務めた跡取り息子だが、実家とは盆正月に帰省したりしていただけで、母親の介護や看護には殆ど関わらなかった。

実家に残っていた遺品にはあまり思い入れが無かったようだ。

それに対して、結婚してからも実家とはそこそこ行き来のあり、看護や介護に関わってきた私や末弟にはそれなりの思い入れがあったことは確かだ。


亡くなった親の遺品を子どもが片付けるのは当たり前のことなのだが、親の遺品以外の想い出の品の処分は簡単ではない。

一番悲しいのは伴侶や自分の子どもの遺品がある場合であろう。

病気、事故や事件で亡くなった後もそのままに部屋をしているのが、報道されたりドラマになったりする。

一方で、失われた絆への悲しみから脱して、新しい絆を結んだ場合には遺品や想い出の品の扱いは非常に難しくなる。

新しく結ばれた人に対して、その遺品や想い出の品を大切にすることをどう説明するかが非常に難しい。

親であったら自分を大切にしてくれた人の想い出を大切にしておくと理解して貰えるのだが、親以外はむしろ断ち切って欲しいと思われることもあるだろう。

その関係が死んだ子であれ元夫婦や恋人であれ、かつての自分の生きる支えになってくれた大切な人であることを理解して貰うのは難しい。

新しい絆を結んだ人との比較であったり、当てつけをすることは厳に慎むべきは確かなことである。

ただ、自分を理解してもらう上で、かつて深い絆で結ばれていた関係によって、自分が大きく変わっていったことを知っておいて貰いたいところでもある。

かつての絆は死であれ離別であれ、失われてしまったけれどその想い出を大切にする心は新しい絆を結んだ人を大切にする心と同じだということも知って欲しいと思う。


母親の遺品整理が滞っているのを見かねて、自分が業者に頼んで処分してやろうとも別の弟に言われた。

私もどうしても残しておきたいわけでは無くて、必要に迫られれば業者に頼む気持ちもある。

末弟は空き家になった家に来ると、まだ親を感じると言っているが、私は仏壇でお世話にしているのでそちらで毎日感じている。

私と弟の感じ方は違うのだが、それは亡くなった親をどのようにイメージするかの違いとも言える。

子どもは親の記憶を様々なイメージとして感情がある限り、死ぬまで感じ続けるのだろうと思う。

今の自分の存在と深く関わった人に対しては、親で無くてもそうだと思う。

その人が死んでいしまった場合も、まだ生きている場合も同じだと思う。

そして、そういう思いは単に未練というのではなくて、出会えたことへの感謝の気持ちを抱き続けている場合もある。






2025年11月16日日曜日

ツッパリ高校生の喧嘩レベルの外交

 私はかつて困難校と言われて、教員を加配されている職業高校に勤めていた。

担任しているツッパリ生徒は校内だけで無く、校外でもよく喧嘩をした。

いちど、校門近くで有職青年と口げんかをしているのに出くわした。

その時に担任しているツッパリ生徒は「○○さん知っとんやぞ」と、自分のバックとなってくれている組員の名前を相手に投げかけていた。

相手も同じようにバックの名前を言っていたが、その場はそれ以上のトラブルにはならなかった。

ツッパリ高校生レベルの喧嘩はまずバックを確かめてやるものだということを知った。

私も小学校の頃は他校の生徒と殴り合いの喧嘩をしたが、バックのことは考えたことは無かった。


国と国との戦争もこれと似たところがあって、日本の場合は日米安全保障条約はアメリカがバックについているということになる。

以前は基地を提供した上に維持費もそこそこ負担して守って貰うだけで良かった。

ところが集団自衛権の名の下に、アメリカが戦争をし始めたら一緒に戦うことまで引き受けてしまった。

これはツッパリ高校生で言ったらバックの組員がやる抗争に参加することを意味する。

日本は核兵器を持てないのだからツッパリ高校生レベルで、核兵器を持っている国は暴力団レベルのと考えて良いだろう。

これはドスで拳銃に立ち向かうのに似ているが、組員もドス相手にいきなりは拳銃を使わないだろう。


中国は内戦の結果台湾と本土が分裂しているのだから、暴力団で言うと縄張り争いが継続していることになる。

その台湾のバックについているアメリカと一緒に戦うと言うことは、組員の縄張り争いにツッパリ高校生も加わって戦うと言うことだ。

ツッパリ高校生がバック同士の縄張り争いになったら一緒に戦うと言ったのだから、相手の組員に「ガキ(高校生)は黙っとれ、いてまうぞ(殺すぞ)」と言われても仕方ない。

それで相手の組は自分たちの縄張りの人間に「ツッパリのいる所へは行くな」とも言われてしまった。

日本のトップがツッパリ高校生レベルの外交をしたのだから、これは由々しき事態である。

そもそも、日本をツッパリ高校生レベルに仕向けていたのはアメリカなのに、核兵器を持つ相手に核兵器も持たずに一緒に戦うなんて言うこと自体無謀だ。

それは組員が拳銃で守ってくれるから、ドスで戦っても大丈夫だというようなものだ。

この事態に一番喜んでいるのはアメリカで、中国と日本が結託する心配は無くなったし、アメリカの武器を買って貰いやすくなった訳だ。

そして、ウクライナが核兵器を持たずに善戦しているように、日本も国民を犠牲にするつもりで戦ってくれたら、アメリカの損失も少なくて済むと思うつぼなのだ。


2025年11月14日金曜日

落花生は作るに限る

 今年は早めに落花生を掘り起こした。

落花生を植えている場所は日当たりが良いので、これからの作物を作りたかったからだ。

去年は麦わらがあったので、草はだいぶ抑えられたのだが、今年はあまり無かったので、草との戦いになった。

株と株の間を草刈り機で刈っていて切ってしまったり、草を引き抜くときに一緒に抜いてしまったりして、植えた苗がかなり失われてしまった。

本当はポリマルチを使えばそういう手間が省けるのだが、草マルチの自然農法を基本としているので、ポリマルチは使っていない。

今年は雨が降らなかったので生長が悪く、それでエンジンポンプを使って水やりをしたら、草が多く生えることになった。

草の中に落花生が何とか頑張っているのだが、落花生を知らない近所の人に草だらけだと言われて、落花生を植えていると説明する始末だった。


落花生が美味しいのをカラスもよく知っているので、ちゃんとネットで覆ってやらないと食べられてしまう。

今年も、さっそく食べかすを発見したので、あわてて寒冷紗で覆った。

寒冷紗の方がネットより扱いが簡単のだが、強風に弱いのでクリップでちゃんと留めておかねばならない。

私は不精者なので、寒冷紗を直接落花生の茎にクリオップで留めたりしておいた。

完全に覆わなくても、周りをしっかり覆ってやればカラスは中に入ってこない。


落花生を抜いてみると、株にもよるができは悪くなくて、採った数が多かったので家内に高圧鍋で蒸してもらって食べてが、甘くて美味しかった。

掘り上げた株は畑で積み上げてその上にネットで覆って、とりあえずは乾燥させている。

そこから少しずつ持って帰って毎日落花生を電子レンジで蒸してもらってビールのつまみにしている。

このところ、夕方の晩酌には黒大豆の枝豆と落花生をたくさんつまんでいるので、雑穀米やラーメンを食べずに済んでいる。

蒸した落花生は柔らかいので消化に良いから、バターピーナッツより胃に優しい。


最近はおおまさりを中心として生落花生も普通に売られるようになっている。

けっこうな値段がするので、毎年自分で作ることにした。

種も普通に買うと高いので、とれた落花生をおいておいて種にしている。

おおまさりも作ってみたが、大きくて食べ応えがあるけれど、大味の感じがするので今年は普通のと混ぜて作っていて区別できない。

千葉に親戚がいて、以前に土産で貰った落花生が美味しかった。

たまに、はねものが安く売ってあると買ったりするが、中国産の2倍以上の価格するので滅多に買えない。

やはり自分で作った方が美味しくて安上がりである。

本当は孫などがいたら、一緒に掘り上げたら喜ぶだろうと思う。

特別支援学校に勤務していたときには、地元の高校生と落花生の収穫で交流をして喜ばれた。

近くの小学校の菜園でも作っているのを以前見かけたが、手間がかかるので最近は作っていないようだ。

子どもにも大人にも喜ばれる落花生は、楽しみながら作れるのでもっと作られても良さそうだが、乾燥した後で煎って食べるのが面倒らしい。

乾燥した落花生は石焼き芋と同じ要領で、ストーブの上に石を敷いた土鍋を乗せて焼いて食べている。

サツマイモより保存が簡単だし、ちょっとしたつまみやおやつになる。





2025年11月12日水曜日

我が地区にコウノトリが棲み着く理由

 私の今住んでいる上郡町の高田地区にはコウノトリが二羽棲み着いている。

最近は電信柱や高圧線の鉄塔の上でクチバシを鳴らし合っているのをよく見かける。

子育てが済んでしばらくして水田の稲が青々していた頃には見かけないこともあった。

稲刈りが終わるまで、あちこちに出かけて行っていたようだ。

稲刈りが終わって水田が広々としてきたので、コウノトリもゆっくりと水田でも餌を探している。

コウノトリを見かける場所は水田付近以外にも貯水池や大小の川の浅瀬であった。

上郡町内はどこでも見かけることができるのだが、棲み着いて子育てをしたのは高田地区だけである。


私は元々赤穂に生まれ育ったので、上郡町のことはよく分からない。

そこでいつも上郡のプールで一緒になる地元の人に高田地区だけに棲み着いるのはなぜなのかと訊いてみた。

するとその人は「(貯水)池が多いからだろう」と答えてくれた。

それはこういうことだ。

高田地区は一部を除いて扇状地になっており、小さな川は山から流れていて、そこから用水路で水を引いてきていて通常はその水を用いている。

山の中の谷間には小さな貯水ダムを作っているが、いざというときの水を確保するために、山ぎわや水田の真ん中に大小の池を多く作っている。

水田を所有している人はこの池の草刈りを行うし、池からの水を管理するのが仕事になっている。

水田を所有してない者も、用水路の草刈りや畦焼きで池の土手も焼く作業もする。


他の地区は比較的しっかりとした川があったり、上流で大きな貯水ダムがあったりしている。

また、高田地区でも千種川本流から水を引いている村もあって、貯水池をしっかり管理しているところは高田地区の扇状地帯だけだと思う。

山間のきれいな川の水が流れている自然が豊に見える地区は、意外に餌となる動物や虫が少ないのだろうと思われる。

貯水池は小魚や虫などの繁殖場所となっており、そこから用水路を通して水田に入ってきて増えているようだ。

また、それを狙うヘビや蛙などがコウノトリの大切な餌になっているということだと思う。


そう考えると、水田での稲作を大型規模で効率化を図ることと齟齬が生じてしまう。

大規模農家が大規模に水田を作ろうとすると、貯水池とその水路の管理はその農家の仕事になる。

しかし、それは非常に手間のかかることで、本流の上流から取水して配管した方が効率的だろう。

現在水田の地主や一般の村人が行っている村作業があって貯水池と水路は活かされており、そしてそれがコウノトリが棲み着く環境を保ってくれている。

そして、忘れてはいけないのは、このところの温暖化で旱魃になる危険性が増している。

千種川も干上がった時に、貯水池の水はどんなに役に立つか想像できる。

現に何年か前の水不足の時には水田のために緊急放流した。


米の値段だけで大騒ぎして、規模の拡大や輸入の問題ばかり話題になるが、水田の持つ環境保全、災害抑止について真剣に考えるべきだろう。

村は少子高齢化でこれからまともに水田を維持できなくなっていく可能性もでてきている。

地域によっては小作料を貰うどころか、お金を払ってまで大規模農家に作って貰っているところもある。

高い米価のママ据え置いて米離れを助長させてしまったら、減反を余儀なくされてますます稲作農家は減っていくだろう。

環境を考えれば水田はその所有者だけのものではないし、所有者だけで維持できるものではないということを根本的に考えなくてはならないに時代となっている。









2025年11月10日月曜日

黒大豆の枝豆の乾燥と贈答

 うちでは黒大豆を作っていて、多くは豆乳の材料として利用するのだが、枝豆としてたべることもしている。

うちでできる黒大豆の枝豆は粒は小さいが甘くて味に深みがあって美味しい。

糖尿病の私は、枝豆なら大丈夫だと思って、鍋一杯ほどの枝豆を一日で食べたことがあった。

その時に、酷い便秘になってしまい、排便するのに非常に苦しんだ経験がある。

適当の量なら便通に良いはずの枝豆だが、食べ過ぎるととんでもないことになることを思い知った。

それ以来気をつけて食べているので、食べ残った枝豆のことも考えねばならなくなった。

冷凍して置いておくのが一番の方法だが、家庭用の冷蔵庫では解凍したときにしわくなってしまって美味しくない。

そこで、乾燥させて保存しながら食べることにした。


枝豆は茹でたものを剥いてから干しても良いが、莢ごと干してからむいた方がむきやすい。

完全に硬くなるまで干した方が日持ちがするが、少し柔らかめの方が噛みやすいし美味しい。

今年はジャガイモを掘らずに置いておいたので、黒大豆を植える場所がなくて、やむを得ずジャガイモの埋まっている場所に苗を植えた。

これは大きな間違いで、黒大豆は10月末にならないと枝豆として食べられない。

そのうちにジャガイモから芽が出始めてしまった。

そこで急いで枝豆として食べられるようになったらすぐに刈り取るようにした。

そうなるとどうしても余るので、今年も乾燥枝豆を作ることにしたのだ。

家庭用の野菜乾燥機でかなり乾燥させて、日光でも乾燥させることにした。

ところがうっかり雨が降るのにそのままして濡らしてしまった。

それでまた、野菜乾燥機で乾燥する羽目にもなった。


十分に乾燥した枝豆は剥きやすくなっており、一つずつ丁寧に実を取り出していった。

保存をよくするためにもう一度粒の状態で乾燥させてしっかりと硬くした。

そして、以前に買って食べてしまったフィッシュコラーゲンの空き袋にその乾燥枝豆粒を入れて保存している。

今は茹でた枝豆が十分あるので、乾燥した物を食べる必要は無い。

高齢者には硬い枝豆は食べづらいので、冷凍した方が良いようだ。

私の亡くなった母は私が持っていった枝豆は茹でて冷凍にして長く食べ続けていたようだ。

枝豆は人にあげても喜ばれる。

特に黒大豆は人気があり、私の知り合いはわざわざ隣町の佐用まで行って買うそうだが、枝からちぎった莢枝豆は一袋1000円もすると言う。

私はちぎるのが面倒なので、近所の人や知人にはいっぱい実のついた枝豆を葉っぱだけ落としてあげている。

黒大豆は普通の大豆と違って栽培が難しい。

以前に病気が流行って全く採れなかったことも経験している。

また、上げた近所の農家も、黒大豆以外の大豆は上手く作れるのに黒大豆はできがよくないというので差し上げた。

黒豆の枝豆は大切な贈答品にもなっているのである。








2025年11月8日土曜日

先住民としての縄文人

 先日、家内が平日に休みが取れたので、京都まで特別展「世界遺産 縄文」を京都文化博物館まで見に行った。

特急スーパー白兎が大阪止まりになって以来、京都へ行くときは行きは新幹線を使っている。

私は午前中はトイレが近いので、トイレに直ぐ行ける列車で無いと不安でならないが、帰りはそれほどでもないので新快速で帰る。

新幹線は相生駅から「ひかり」に乗って新神戸で「のぞみ」に乗り換えた。

自由席に乗って新神戸までは家内と並んで座れたが、新神戸で乗り換えたときは前後ろの3列席になった。

それでも座れただけましで、列車の中をぞろぞろと自由席の1号車に向かう観光客が移動し、結局立っている人でいっぱいになった。

観光客は欧米人らしき人が多く荷物もかなり大きく、その殆どが京都で降りた。

平日に関わらずその多さにインバウンドのすごさを実感した。

大学の同じゼミの仲間のライングループには、京都で教員をしてる友だちがいて、ラインでその情報は知っていたのだが、新幹線の中からそれを味わうことになったのだ。


私は縄文関係の考古学文献や神話関連など読みあさっていたので、博物館へ行って何かを発見しようという目的は無かった。

家内は博物館や美術館に行くのが好きなので、良い機会だと思っただけなのだ。

京都駅ではまたその人の多さに圧倒されっぱなしで、地下鉄まで満員だった。

地下鉄の「烏丸御池駅」で降りて、案内があったから出口は上手く出られたのだが、そこからがいつものように試練である。

スマホで確かめながら歩くのだが、スマホのマップは分かりづらくて、本来なら3分で行けるところを15分以上かかってしまった。


館内は年配の人を中心に多くの人が訪れていた。

外国人はさすがにそれほど多くなかった。

何よりもの収穫は、遮光器土偶の頭は空洞になっていたことだ。

土偶を作った目的はいろいろと説があるが、私は北方文化の影響だと思っている。

というのも縄文人のゲノムを一番継承しているのはアイヌの人たちだが、二番目に多い琉球の人たちには土偶の歴史が無い。

そもそも、縄文時代とか縄文文化という設定自体もかなり無理があり、それを否定する学説もある。

日本では従来はこの時代に均質化されたとも言われているが、だんだんとそうでもなかったことが分かってきている。


日本人が縄文時代や縄文文化に興味を持って人気があるのは、自分たちの祖先だと思っているからだと思う。

しかし、本土の人のゲノムにはそれほど縄文人から引き継いだものは残っていない。

そして、地域によって現代人に継承されたゲノムの多さが違い、東北には多いのは分かるが、鳥取や島根にも多いのだ。

学術的な根拠は無いが、島根のずーずー弁との関わりもあるかもしれない。

新しく水田稲作文化が早くから伝わったと思っていたところに、意外と多いのも面白い。

とにかく、我々本土の人間は縄文時代以降に大陸から移動してきた遺伝を多く受け継いでいるのであって、そちらを先祖と思うべきなのだ。

そうすると、縄文人はその先祖から駆逐されたり、混血した先住民と捉えるのが自然だろう。

ただ、ユーラシア大陸に繰り広げ得られた狩猟採集民から農耕民への入れ替わりが極端でなかったので先住民という歴史認識が生まれなかったことも理解できる。

だけど、アイヌの人々を先住民と認めてこなかった歴史や、琉球の人々に対する歴史的な無理解とその配慮の無さは改めねばならないだろう。


現在、外国人の移民の問題がどの国でも深刻になっている。

人類の歴史は狩猟採集から農耕、工業、情報と生活の変化と伴に移動によってそこに住む人々は変化している。

日本は島国であったので急激な変化が起こらなかったのだが、交通機関の発達した現代では昔のようには行かないことも確かだ。

そして、変化せざるを得ないことも自覚せねばならないと思う。

その点で、縄文人を再考することは意議があることだと思う。





2025年11月6日木曜日

美咲・和気ドライブ2025年秋

 私たち夫婦にとって一番手軽で馴染みのあるドライブコースが、地元上郡町から岡山県美咲町・和気町への川沿いと山越えをのコースである。

まず、上郡から千種川沿いを国道373号を北上して、途中で上月の三差でJR姫新線沿いの国道179号の山越えの道を西に向かう。

国道179号で千種川の支流である幕山川から大日山川に沿いののどかな田園地帯を進むと、途中で小さな踏切がある。

1年に一度くらいは、一両編成の列車に出会うことがあるが、途中の線路上を走っている様子は一度も見たことが無い。

道沿いには古民家を利用したそば屋「」があり、神戸から移住してきた石山さんが開いた店としてネットでは有名だが、休日はいつも駐車場に車がいっぱい並んでいる。

通るたんびに一度は食べに行きたいと思っているのだが、休日は満員だし平日は火曜・水曜が定休日なので利用しづらい。

しばらくすると山道になり、県境である万能峠を越えて岡山県作東町に入る。

峠から下りると山家川沿いに姫新線と平行して進んでいく。

途中は川沿いののどかな景色が続き、姫新線の昔ながらの無人の小さな駅舎も趣がある。

大きな銀杏があるお寺は、これから色づくと素晴らしい風情となる。

ここで一番気にかかる店はホルモンを看板にした店で、いつも昼前に通るとライダーや車が駐車場にたくさん停まっている。

私はホルモンが大好きなのだが、さすがにここは夫婦二人では入りづらい。


やがて、吉野川に合流してそれを上流に向かうと、川沿いにある「道の駅彩々茶屋」があってそこでトイレ休憩と買い物をする。

以前はよくそこで昼食を食べていた。

家内が大好きなちらし寿司定食やかやくご飯定食があったからだ。

私もここで出される豚汁定食やしし汁定食が好きだったのだが、いずれも人手不足でメニューから無くなってしまった。

だから、農産物の直売所で買い物をするだけになってしまった。

ここで売られている、野菜の苗はホームセンターで買うよりも安くて品質も良い。


彩々茶屋で買い物を済ますと、そこからおなじ国道179号を引き返して吉野川沿いに国道374号を南下する。

途中では昔から温泉町として有名な湯郷があり、大きなホテルや料理屋がたくさん見られる。

そこから、しばらく川沿いを南下して英田町に入り、いつも途中のドライブイン「西の屋湯郷店」で食事をする。

ここでは家内はいつも岡山名物料理の祭り寿司定食を頼んでいて今回もそれを食べた。

私はホルモン焼きをずっと頼んでいた。

ここは携帯コンロで焼きながら食べられてかなり美味しいのだが、残念なのはホルモン肉が少ない。

今回はここでは人気のあるちゃんぽん麺を注文して食べたが、具だくさんで味もよく汁まで飲み干してしまった。

ここでは猫型の配膳ロボットが使われていて「行ってくる ニャン」と元気に客席に回ってくる。

いつも季節に応じた飾り付けをして貰っていて、今回はハロウィンの飾り付けをして貰っていた。

このロボットを見るのも夫婦にとっては楽しみでいつも話題にのぼる。


食事後は川沿いを南下するが、途中で吉井川本流と合流するあたりから、片上鉄道の後にサイクリングロードが作られていてチャリダーをよく見かける。

吉井川沿いの雄大な景色を眺めながら和気まで行き、時にはそこのショッピングモールで買い物をしたりする。

今回は川からはずれて国道374号で山沿いの道を山本由伸投手の地元伊部まで行った。

いつもは海沿いの国道250号を通って「備前海の駅」へ行き買い物をする。

そこでは新鮮で安い魚介類が手に入るし、ショッピングモールが併設されているからだ。

本当に魚介類だけを買いたい人は、伊里の港付近で日曜の朝に魚市が開かれるのだが、行きたいと思いながらまだ一度も行ったことが無い。


私は海沿いを走る国道250号が大好きで、鹿久居島の見える穏やかな海が素晴らしい。

また、JR赤穂線と絡んで走っており、日生駅付近は私にとって懐かしい場所でもある。

気が向けば赤穂まで行って千種川沿いで家まで帰るのだが、たいてい時間が無いので途中で県道260号の山越え道を通って国道2号に出て帰る。

今回は帰ってタマネギの植え付けをしなくてはならなかったので、伊部から国道2号で帰った。


このコースは月に1度は訪れているコースで、「彩々茶屋」「西の屋」をメインとして、西の屋がお客さんが多くて入れないときは伊部の「ミスターバーグ」で昼食をする。

また、時間が有ったりその時の気分で、「彩々茶屋」から津山に行ったり、智頭まで行くこともある。

私たち夫婦の一番馴染みのある手軽なドライブコースである。




2025年11月4日火曜日

熊飢える秋

実りの秋として、かつて秋には野原や山には木の実や果実がなっていた。

先日、道の駅でアケビが売られていて、それを見ていたら同じように見ていた中年の女性から「これは何?」と訊かれた。

「甘い実で、種が多いですよ」とは言ったが、上手く説明できなかった。

田舎育ちの私たちのような世代で、アケビを知らない者はいないと思う。

小学生の頃はこの季節は、学校から帰るとアケビ採りに山へ毎日行っていた。

アケビは熟すと紫色になって割れるのだが、まだ緑で硬い実も採って米びつなどに入れて熟させることもあった。

種が多いけれど非常にあまく独特の香りがした。

甘い実を包むアケビの皮も料理して食べられるそうで、何度か試してみたけどうまく行かなくてしていない。


以前にアケビの実ではなくて、蔓の方が籠や飾り物にするので、女の人が多くとっていったので、道ばたのアケビは減ってしまった。

それでも、近くの山に行けばまだ道ばたの木にはたくさんなっているのだが、手の届かないところでなっているので道具が無いと採れない。

小学生の頃は、木登りの得意な友だちと行って採ってもらったりした。

何年か前には高枝ばさみを持って採りに行ったこともある。

ただ、私は糖尿病の関係で甘い物を控えねばならないので、最近は自重してあえてそこまでして採らないし買わない。

たぶん、今の若い人が食べたら、あまりにも種が多くて好きにはならないだろうと思う。


やはり、この季節の果物と言えば柿だろうが、私たちの子どもの頃は山にあるのは渋柿ばかりで、今ほど植えられていなかった。

この近辺でも熊が出るというので、庭に柿を植えている人は気を遣っている。

ただ、東北や関東と違ってどんぐりなどの堅果類はそこそこなっているようなので、熊が出た話は近隣では今のところ聞いていない。

そもそも、猪対策で山ぎわには金網フェンスが設置されているし、水田には電気柵が張り巡らされているので、そう簡単には村にやってこられない。

ただ、ハクビシン、アナグマには効果が無いようで、村でも出ているし、サルは地域によっては被害も出ているようだ。


私は今年の秋が異常に思えるのは、いつも色づくのを楽しみにしている大きなプラタナスの木の葉が枯れてしまっていることだ。

夏の暑さでやられたのか、害虫・病気にやられたのか分からないが、共同墓地のそばに植えられている他の木も同じように枯れている。

気候もついこの間まで夏のように暑かったのに、このところ冬のように寒くなっている。

テレビやラジオでも秋が無くなったとしきりに言われているが、まさしくその通りだと思う。

紅葉などの風情が損なわれるのも情けないが、深刻なのは東北や関東の熊の食糧となる木の実の凶作との関連だろう。

破綻気象の中で山の木々も変調を来し、それに依存していた動物が追い詰められていく。

腹を空かした熊は寒い冬になっても、冬眠できずに食い物を求めて街にやってくる可能性もあるという。


こういう気候を作ったのは人間なのだが、その原因の化石燃料を掘りまくれという大統領に日本の総理大臣はノーベル平和賞を推薦するという。

日本の総理大臣はアメリカの航空母艦に乗せて貰って笑顔で大統領と手を振っていた。

しかも、その大統領は今まで封印してきた核兵器の実験を指示しているというのだから、日本の総理大臣はただのお人好しなのだろうか?

一方で飢えた熊に襲われてて亡くなる人が後を絶たず、対策に自衛隊も出動しなくてはならなくなるそのギャップについて行けない。





2025年11月2日日曜日

世界の山本由伸投手を生んだ伊部

 伊部を「いんべ」とちゃんと読める人は最近では近隣でも少ないと思う。

ここで作られる陶器を今は備前焼というのが普通になったが、以前はここらでは伊部焼きと言っていた。

備前焼は日本六古の一つで、最も古くは名刀の産地で知られる長船で作られ、鎌倉時代くらいから伊部で盛んに作られるようになったという。

因みに伊部は吉井川のそばにある長船から北東方向に約5kmほど離れた山沿いのところにある。

有名な閑谷学校は伊部からまた北東に5km程離れたところに有り、その屋根瓦も備前焼が用いられてきており耐久性がある。

備前焼は実用品として古来から作られてきたが、戦国時代には火薬の入れ物としても重宝されたという。

この長船にあった備前福岡は黒田官兵衛の先祖が住んでいたことから、九州にその名前を持ち込んだとして有名である。

姫路生まれの黒田官兵衛と備前に関係あるように、西播磨と東備前は西と東のせめぎ合いの場所でもあったし、交流も盛んだった。


私が生まれた赤穂の西に位置する鷆和の鳥撫は播磨と備前の境界だが、私の母方の祖父母は備前福河に生まれ育った。

赤穂は大和政権によって播磨となるまでは、千種川より西側は吉備の国だったので、私はそのころの国名で言えば吉備の人間ということになる。

鳥撫の父方の伯父夫婦の言葉は赤穂弁よりも備前の方の言葉に近かった。

伯父は石材を運ぶ木造船を使った仕事をしていたが、船を停泊させるのに地元以外では備前の日生や片上の港を使うことが多かった。

私も子どもの頃には祖母と毎年備前福河に行っていたし、遊びに日生から小豆島に行ったり、備前焼の見学で伊部に行くこともあり馴染みのあるところであった。


伊部には備前焼の作家が方々で窯を構えているのが煙突や置いてある松の木の薪で分かる。

東京の大学院にいたときに、先輩がわざわざ伊部まで来て陶芸をしていると聞いて驚いたことがある。

また、私がしばらく勤めていた閑谷学校の研修所でも、備前焼を体験することも行われ、講師に備前焼の作家がそこから来てくれていた。

古くからの街並みも残っているが、去年には新しく駅前に立派な備前焼ミュージアムができた。

今年の10月に行われた備前焼祭りもたくさんの観光客で賑わっていた。


山本由伸投手のことは伊部駅近くのビルの垂れ幕に書かれたこともあったが、今は国道2号線沿いにある伊部小学校の外塀に細々と横断幕で紹介されている。

山本選手は野球は地元では中学校までで、高校は宮崎の都城高校なので、故星野仙一監督のように岡山を代表する選手という感じでは無いようだ。

大谷翔平選手や佐々木朗希選手のように地元の高校出身で無いことが、地元での盛り上がりを欠く原因となっているのかもしれない。

その一方で、ドジャースの選手が「オカヤマ オカヤマ」と山本選手を讃えているのが嬉しかった。

山本選手も中学生までは野球の全国大会で岡山県を背負っていたことも確かなのだし、県民の人も誇りに思って欲しいと思う。

私は備前焼では全国的に知られてはいるが、5000人ほどの小さな町に生まれた山本選手がアメリカのワールドシリーズでMVPを獲得したことに感動をおぼえている。

山本選手は既に大谷選手と同じように日本を超えた存在で、地元云々のレベルでは無いのかもしれない。

ただ、どんな小さな町や村でもしっかりした指導者がいれば、世界で通用できるスポーツ選手が誕生することの証明でもあると思う。

この際、備前焼も山本選手と一緒に世界にもっと売り込んでみたらどうだろうか?








2025年11月1日土曜日

冬の作物の主力タマネギ

 私は去年までタマネギはいい加減に作っていた。

それは以前は家内の手も借りて赤穂の実家の畑(でーしょん祭とタマネギ)で500本ほど作っていた。

ところが家内がリューマチになって以来農作業が困難になったので、家内に任せていた穴マルチを使った面倒な苗の植え付けを自分でしなくてはならなくなった。

また、極力ポリマルチを使わずに、草マルチでしてタマネギを作ろうとすると、植えた後での色々と手間が増えて、赤穂の畑での栽培は難しくなった。

そこで、細々と上郡の自宅裏の畑で数年前から作ってはいたのだが、あまり立派なのは採れなかった。

去年も植えたところが隣接する農業倉庫の陰になってしまい、発育が非常に悪くて小さな物が殆どだった。

タマネギは安く買えるから、買って食べれば良いと思っていた。


ところが、図書館で健康雑誌を読んでいて、タマネギが糖尿病の対策には非常に良いということが分かった。

そこで、私はソイリッチ(豆乳メーカー)でタマネギを中心としたシチューを作ることに決めたのだ。

ソイリッチはタマネギの皮まで砕いてくれるため、皮ごと刻んでシチューにした。

そうすることで、家で採れた小さなタマネギも手軽に利用できるようになった。

初夏に収穫した物は、10月末でほぼ無くなってしまったので、今は買った物を使っている。

こうなると、来年はできるだけ自分で作ったタマネギを使い続けようと考えた。

それで、去年とは違い、日当たりや肥料のよく効いているところに、畝を立てて準備して置いた。


タマネギの苗は極早生50本、中生50本、貯蔵用50本をとりあえずホームセンターで買って植え付けた。

そして、ホームセンターは必ず萎れた苗を半額で売ることを知っていたので、半額になった貯蔵用の苗を200本買い足している。

以前から半額の萎えた苗を植えてきたが、タマネギは強いのでちゃんと世話をしてやれば大きくなった。

合計で350本植えることになるのだが、家内に言わせればそれでも足らないということだ。

こうなると、植える場所をちゃんと確保せねばならないので、急遽をサツマイモを掘り起こしてしまうことにした。

というのも、今年は11月は暖かいというので、掘るのを遅くしておこうと思っていたのだ。


この夏に葬式があって家内の方の親戚が来てくれたのだが、そのひとりはミカン農家だった。

跡取り息子さんもいてミカン農家を継いで貰うのかと訊いたら。

淡路のタマネギ農家で実習していて、そこの農家が跡取りがいないので、やって欲しいと頼まれたという。

ミカンは嗜好品としてだんだん先細っていく中で、料理に欠かせないタマネギは手堅い。

しかも、淡路のタマネギはブランド品で値段も高い。

どうも、そちらの方に話がまとまってきているようだ。

代々継がれたミカン農家だが、時代の流れには逆らえないということだ。


今回の苗の中には淡路で使われているのを50本だけ買った。

他のより100円ほど高いのだが、良いタマネギができることは経験済みだ。

淡路のように立派なタマネギは作れないけれど、安全で健康に良いことは確かだと思う。

淡路ではポリマルチを使っていないので、おそらく除草剤は使っていると思う。

また、病気や害虫対策として農薬は欠かせないと思う。

我が家はできが悪くても自然農法に沿った無農薬栽培を行っている。

以前は冬の主力作物は大根やカブ、ジャガイモだったが、今年からはタマネギに戻った。

来年の初夏は立派に育ったタマネギを眺めて笑いたいものだ。