私は高校生の時に高熱を出して、早退した記憶があり、たぶんそれがインフルエンザだったと思う。
病院も行かずに、自宅で汗をかいて熱を冷ました。
その時以来、学校や仕事を休むような高熱の記憶はあまりない。
ただ、私は熱に弱く、少しでも熱があると「死ぬかもしれんよ」と家内に弱音を吐いている。
だから、高熱は出しているが、扁桃腺を腫らして高熱というのが多かった。
教師というのは生徒のウィルスや菌をまともに受ける職業だ。
学級で多く感染者が出て休むことがあったが、私はうつらなかった。
今から思うとよくうつらなかったと思うのはノロウィルスである。
勤めていた学校の寮で発生して、親に変わって病院に連れて行ったことがある。
教師の中では、神戸のルミナリエに行き、電車の人混みで感染して入院した人もいる。
娘などはレジのバイトをしていて、子供が傍で嘔吐しただけで感染した。
今は菌やウィルスに強いように自分でも思うが、実は子供の頃は正月にも病院に通う虚弱な体質だった。
すぐに扁桃腺を腫らして熱を出したり、食中毒を起こしてひどい下痢になった。
当時、足に注射を打っていたので、太ももに窪みが残っていたのを思い出す。
太っていた割に足が細いのもそのせいかなと思ったりもするのである。
それが一人暮らしを経験したり、水泳やジョギングをするようになって体質が変わった。
また、近年は機能性をもったヨーグルトもよく食べている。
運動を余りしない家内もそのおかげで元気なのかも知れない。
今回は、生まれて初めてインフルエンザの予防注射をうった。
これは今の職場では強制されているのである。
教師の時は強制されることは無かった。
ところが、予防注射をうっている職員が、このところ感染している。
私も感染したらしばらく休めるかなと、不謹慎なことを言ったりもしたが、今のところかかっていない。
ウィルスや菌とは仲が悪い関係がしばらく続きそうだ。
播磨の西外れにある私の生まれ育った赤穂や、今暮らしている上郡に関すること、農作業,山野河海の恵み、趣味の水泳、音楽、専門である有機農業や、教育、文化人類学、民俗学に関することなどを、きままに記してみます。
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2018年1月30日火曜日
2018年1月28日日曜日
奄美の健康
日曜朝の健康番組「健康カプセル『ゲンキの時間』」で健康長寿の地域として喜界島が紹介されていた。
冒頭、司会者やゲストが言っていたように、「奄美は行ったことがあるけれど喜界島は無い」
というのが私にも当てはまる。
実は喜界島は琉球王国の歴史との兼ね合いで、非常に考古学等で脚光を浴びている。
私も是非行きたい場所でもある。
何よりもハブがいないので、安心してどこでも歩けるのが魅力だ。
ただ、喜界島出身者の方から水はおいしくないと聞かされていた。
喜界島の料理は他の奄美地域でも普通に食べられていると思う。
ただ、長寿草なる物は知らなかった。
喜界島はごまは有名だったので知っていたが、みかんは知らなかった。
シークァーサーに勝るとも劣らない健康食品であることも驚きであった。
ただ、私がよく通った与路島でも自然に生えている柑橘類が多く。
健康には良さそうだが、強烈な酸味や香りがあった。
地元の人も栽培したり、人に勧めるものでは無かった。
そういう柑橘類も奄美にはあるが、喜界島は商品化にまでしていることが素晴らしい。
私が通っていた当時も健康長寿な人は多かったが、無医村だったので万一の対応が遅れたケースもあった。
健康長寿である理由に、食生活や体を動かすことと、人との関わりをあげていた。
まず食生活は沖縄と違って、米軍の影響による変化はあまりなく、伝統的な料理をアレンジしたことが良かったと思う。
ただ、焼酎が日常に飲めるようになり、アルコール依存で健康を害している人もいた。
私は特に人との関わりが重要だったと思う。
ネットに「孤独」がいかに健康を害するものか書いてあったのを読んだことがある。
「孤独」は気力も体力も失わせる重大な病因である。
与路島の人は夜になると知人や親戚の家を訪ね歩いて、飲食や歌を楽しんでいた。
冠婚葬祭が派手で、村の祭りや行事も多く、宴会に歌や踊り、船こぎや相撲を楽しんでいた。
それもだんだん過疎が進みたまに孤立したご老人もいたのが、気がかりでもあった。
私は今住んでいる上郡に足らないのは、人と人の関わりだと思っている。
赤穂は自分の母親のようにカラオケや民謡で楽しくやれる機会も多い。
以前は近所の家の縁側やたき火のそばでのおしゃべりがあった。
今はそれが失われて家に引きこもっている人も多い。
一時は盛んだったゲートボールもあまり見なくなった。
みんなが気軽に立ち寄れて、楽しめる機会が持てれば健康寿命は伸びると思う。
何よりも病院で友達と会話を楽しむ必要がなくなる。
冒頭、司会者やゲストが言っていたように、「奄美は行ったことがあるけれど喜界島は無い」
というのが私にも当てはまる。
実は喜界島は琉球王国の歴史との兼ね合いで、非常に考古学等で脚光を浴びている。
私も是非行きたい場所でもある。
何よりもハブがいないので、安心してどこでも歩けるのが魅力だ。
ただ、喜界島出身者の方から水はおいしくないと聞かされていた。
喜界島の料理は他の奄美地域でも普通に食べられていると思う。
ただ、長寿草なる物は知らなかった。
喜界島はごまは有名だったので知っていたが、みかんは知らなかった。
シークァーサーに勝るとも劣らない健康食品であることも驚きであった。
ただ、私がよく通った与路島でも自然に生えている柑橘類が多く。
健康には良さそうだが、強烈な酸味や香りがあった。
地元の人も栽培したり、人に勧めるものでは無かった。
そういう柑橘類も奄美にはあるが、喜界島は商品化にまでしていることが素晴らしい。
私が通っていた当時も健康長寿な人は多かったが、無医村だったので万一の対応が遅れたケースもあった。
健康長寿である理由に、食生活や体を動かすことと、人との関わりをあげていた。
まず食生活は沖縄と違って、米軍の影響による変化はあまりなく、伝統的な料理をアレンジしたことが良かったと思う。
ただ、焼酎が日常に飲めるようになり、アルコール依存で健康を害している人もいた。
私は特に人との関わりが重要だったと思う。
ネットに「孤独」がいかに健康を害するものか書いてあったのを読んだことがある。
「孤独」は気力も体力も失わせる重大な病因である。
与路島の人は夜になると知人や親戚の家を訪ね歩いて、飲食や歌を楽しんでいた。
冠婚葬祭が派手で、村の祭りや行事も多く、宴会に歌や踊り、船こぎや相撲を楽しんでいた。
それもだんだん過疎が進みたまに孤立したご老人もいたのが、気がかりでもあった。
私は今住んでいる上郡に足らないのは、人と人の関わりだと思っている。
赤穂は自分の母親のようにカラオケや民謡で楽しくやれる機会も多い。
以前は近所の家の縁側やたき火のそばでのおしゃべりがあった。
今はそれが失われて家に引きこもっている人も多い。
一時は盛んだったゲートボールもあまり見なくなった。
みんなが気軽に立ち寄れて、楽しめる機会が持てれば健康寿命は伸びると思う。
何よりも病院で友達と会話を楽しむ必要がなくなる。
2018年1月27日土曜日
時代を紡ぐ万葉岬
いつ頃からか万葉岬という名前が相生に現れた。
国民宿舎の相生荘からの変身である。
実はここが相生荘の時代に、家内がしばらく臨時職員として勤めていた。
以前から椿が咲く頃には、神戸新聞の取材に応じてモデルを務めたと言っていた。
残念ながらその頃の写真は手元に無く、家内の実家にあった記事も白黒で印象も薄かった。
当然、見合いする前の話で、私にはあまり関心がわかなかった。
ここには龍野の養護学校(特別支援学校)に勤めていた頃はよく利用した。
当時は、平日に泊まりがけでの飲み会が多くて、夕方から来て朝早く帰り、景色を堪能したことは無かった。
ただ、大学の頃に家族で初日の出を拝みに来たのだが、人が多くて駐める場所に苦労したのを覚えている。
万葉の岬を名乗るようになってからは、一度も来た頃は無く、その前を素通りしていた。
だから、じっくり風景を眺めたのは初めてだとも言える。
今日(1/27)は義父の49日の法要の後の食事で来ることになった。
上郡付近は朝から雪が降り積もり、岬も寒いだろうと思ったが、昼間来てみると暖かい。
国民宿舎の相生荘からの変身である。
実はここが相生荘の時代に、家内がしばらく臨時職員として勤めていた。
以前から椿が咲く頃には、神戸新聞の取材に応じてモデルを務めたと言っていた。
残念ながらその頃の写真は手元に無く、家内の実家にあった記事も白黒で印象も薄かった。
当然、見合いする前の話で、私にはあまり関心がわかなかった。
ここには龍野の養護学校(特別支援学校)に勤めていた頃はよく利用した。
当時は、平日に泊まりがけでの飲み会が多くて、夕方から来て朝早く帰り、景色を堪能したことは無かった。
ただ、大学の頃に家族で初日の出を拝みに来たのだが、人が多くて駐める場所に苦労したのを覚えている。
万葉の岬を名乗るようになってからは、一度も来た頃は無く、その前を素通りしていた。
だから、じっくり風景を眺めたのは初めてだとも言える。
今日(1/27)は義父の49日の法要の後の食事で来ることになった。
上郡付近は朝から雪が降り積もり、岬も寒いだろうと思ったが、昼間来てみると暖かい。
食事はやはり牡蠣中心となったが、おいしく頂いた。
特に魚が色々入った炊き込みご飯は、懐かしい味がした。
ただ、みんなに受けるようなメニューだったので、海をもっと感じさせてくれる料理がほしかった。
昼間からはそう飲めるものでも無くて、食後にあたりを散歩した。
万葉岬の名前の由来となった歌碑が建っていた。
「縄の浦ゆ背向に見ゆる奥つ島漕ぎ廻る舟は釣しすらしも」万葉集巻三、山部赤人
「室の浦の湍門の崎なる鳴島の磯越す浪に濡れにけるかも」作者不詳、万葉集巻十二
http://www2.aioi-city-lib.com/bunkazai/den_min/old/literature/kanegasaki.html
という歌が、この地ゆかりの歌だという。
縄の浦は相生湾のことらしいが、那波という相生の町の地名もそこからきているのかもしれない。
室の浦は室津付近の湾を指すらしいが、ともに地名がしっかり受け継がれて時代を感じさせる。
今日法要を勤めてくれたご室津浄運寺の御住職から、浄運寺が参勤交代の大名に支えられていたことを聞いていた。
万葉の時代から、鎌倉時代、江戸時代とこの地は歴史を刻んできたことがよく分かる。
今は相生の町も造船所も一時の勢いを失い、時代から取り残された感がある。
それでもこの岬のホテルは落ち着いた雰囲気で、人を惹き付けてくれている。
千葉から来た跡継ぎの嫁はここに住むのは嫌だと公言した。
確かになじみの無い人にとっては、これと言って魅力が無いのかも知れない。
しかし、相生も赤穂も近畿の中では、住みやすくて人気のある場所になったいる。
私にはごみごみした東京圏の都市よりもよっぽど居心地が良いと所と思う。
なにせ時代を紡いできた地であり、これからもそうであると思っている。
と言いつつも、この法要で親が播磨生まれは私と息子、娘3人だけでマイナーな存在だった・・・
2018年1月26日金曜日
誰もいない渋川の海
とてつもない寒風が吹き、渋川の海岸には荒波が打ち寄せていた。
岡山県の人にとっては、渋川という名の海水浴場はよく知られている。
「川に海水浴?」と初めて聞いた時は疑問に思ったと、岡山の大学に通っていた家内から聞かされていた。
思っていたより広大で、宿泊施設も整っているのに驚いた。
ここは最近では渋川マリン水族館のゾウガメが逃げて懸賞金がかけられて有名になった。
私は今回、その隣にある「渋川青年の家」に研修で宿泊することになった。
岡山県の社会教育施設に勤める人たちの集いである。
午後からの講演を受けて、夕方の自由時間に浜辺に降りてみた。
岡山県の人にとっては、渋川という名の海水浴場はよく知られている。
「川に海水浴?」と初めて聞いた時は疑問に思ったと、岡山の大学に通っていた家内から聞かされていた。
思っていたより広大で、宿泊施設も整っているのに驚いた。
ここは最近では渋川マリン水族館のゾウガメが逃げて懸賞金がかけられて有名になった。
私は今回、その隣にある「渋川青年の家」に研修で宿泊することになった。
岡山県の社会教育施設に勤める人たちの集いである。
午後からの講演を受けて、夕方の自由時間に浜辺に降りてみた。
来た時よりは波はおさまっていたが、風がひどくきつかった。
遠くに本四架橋の児島坂出ルートの橋が見える。
娘はその坂出の近くの宇多津に住んでいるのだが、海を挟んでそのあたりが見えるのも不思議に思える。
この海岸は夏場は人でごった返して、それほどきれいに感じないと同僚から聞いた。
どこの海岸もそうだが、冬の海辺の方が美しい。
夏でも美しいのは沖縄・奄美の海だと私は思っている。
その夜は懇親会や同室の人と、色々と話が聞くことができてためになった。
職場の規模が小さいので、こういう機会でないと見地を広げられない。
特に離島の施設の人から、その暮らしぶりを聞くことができて良かった。
また、私のように転職した人との話も、勇気づけられた。
翌朝、朝食後に海に出てみると、若い人たちが海に向かって叫んでいた。
今も昔もあふれるエネルギーを海にぶつけるのは変わらない。
そのエネルギーは午前のプログラムに発揮されていた。
私も年甲斐も無く「ドッジビー」に夢中になっていた。
20代から60代半ばまでの男女が、一緒に楽しめた。
これこそ社会教育だと思った。
社会教育は青少年だけのものではない。
学校と違って、年齢や男女、貧富の差も関係なく一緒に学んだり楽しむ場だと思う。
誰もいない渋川の海で、その可能性を少し学んだ。
2018年1月22日月曜日
雪の東京
今日(1/22)から東京では雪が心配されている。
私が東京で暮らした初めての年の冬(1984年)のことを思い出す。
当時私は中野の下宿に住んでいた。
そのアパートは6畳1間で、小さなタイルの台所がついていたが、風呂は無くトイレも共同だった。
部屋は二階の西側で、朝は薄暗く、隣にもアパートがあったので、午後からも陽はあまり入らなかった。
中野駅からは東に中央線の線路沿いに10分ほどで、近くに図書館もあった。
まさしくかぐや姫の「神田川」の世界で、貨物列車が通ると揺れたが、川は傍には無かった。
近くの風呂屋には、家庭教師のバイト前に一人で出かけたが、私には非常に熱くあまり湯にはつからなかった。
家賃23,000円の貧乏学生にはありがたい下宿だったが、大学院には遠く交通費も馬鹿にならなかった。
ここは大学のゼミの先生のお母さんが経営する下宿を紹介されて、知り合いのいない自分にはありがたかった。
雪が降った東京は大混乱に陥った。
首都高は止まり、電車もかなり遅れた。
電車はポイントが凍り付いて動かなくなったので、カンテラをたいて暖めていた。
雪道はアイスバーンになって、雪道になれない都会の人が転んで怪我をしたり、頭を打ってなくなる人もいた。
救急車が頻繁に走り回る羽目になっていた。
原宿駅前の坂には車が放置されていたり、普通の道路でもまともに通れなかった。
その後も雪かきをしっかりしなかったので、下宿の前の道路は凍り付いて溶けない。
大家さん(先生のお母さん)に頼まれて、私はその氷をハンマーで割ったり、お湯で溶かしたりした。
大家さんは持病を持っていたので、きつい作業はできなかったのである。
この東京の雪の混乱はしばらく続いた。
そして、それから2年後、私は博士課程への進学を諦めた日の雪も思い出す。
出願を諦めて、哀しい気持ちになっていた時に、無情の雪が降っていた。
育った赤穂では殆ど降らない雪は、東京ではしょっちゅう降り、東北の一部のように思えた。
そして、それが東京で見る最後の雪となった。
私が東京で暮らした初めての年の冬(1984年)のことを思い出す。
当時私は中野の下宿に住んでいた。
そのアパートは6畳1間で、小さなタイルの台所がついていたが、風呂は無くトイレも共同だった。
部屋は二階の西側で、朝は薄暗く、隣にもアパートがあったので、午後からも陽はあまり入らなかった。
中野駅からは東に中央線の線路沿いに10分ほどで、近くに図書館もあった。
まさしくかぐや姫の「神田川」の世界で、貨物列車が通ると揺れたが、川は傍には無かった。
近くの風呂屋には、家庭教師のバイト前に一人で出かけたが、私には非常に熱くあまり湯にはつからなかった。
家賃23,000円の貧乏学生にはありがたい下宿だったが、大学院には遠く交通費も馬鹿にならなかった。
ここは大学のゼミの先生のお母さんが経営する下宿を紹介されて、知り合いのいない自分にはありがたかった。
雪が降った東京は大混乱に陥った。
首都高は止まり、電車もかなり遅れた。
電車はポイントが凍り付いて動かなくなったので、カンテラをたいて暖めていた。
雪道はアイスバーンになって、雪道になれない都会の人が転んで怪我をしたり、頭を打ってなくなる人もいた。
救急車が頻繁に走り回る羽目になっていた。
原宿駅前の坂には車が放置されていたり、普通の道路でもまともに通れなかった。
その後も雪かきをしっかりしなかったので、下宿の前の道路は凍り付いて溶けない。
大家さん(先生のお母さん)に頼まれて、私はその氷をハンマーで割ったり、お湯で溶かしたりした。
大家さんは持病を持っていたので、きつい作業はできなかったのである。
この東京の雪の混乱はしばらく続いた。
そして、それから2年後、私は博士課程への進学を諦めた日の雪も思い出す。
出願を諦めて、哀しい気持ちになっていた時に、無情の雪が降っていた。
育った赤穂では殆ど降らない雪は、東京ではしょっちゅう降り、東北の一部のように思えた。
そして、それが東京で見る最後の雪となった。
2018年1月21日日曜日
二つの恋ヶ崎
私が生まれた鷆和には、恋ヶ崎というしゃれた名前の浜辺がある。
親は綱崎(つなさき)と普通言っていたので、その名を知ったのはずっと後のことである。
若い頃に原付バイクに乗ってドライブがてらに行った時のことである。
そこにお巡りさんがやってきて、不審者に思われたのか職務質問された。
免許証を提示させられたのだが、当時は本籍地も記載されていたので地元の関係者というのがすぐわかった。
お巡りさんは不審者と疑ったのを笑顔でごまかして、去って行った。
ここには今でも、SUPをするために夏場には来る。
小さい頃には家族で泳ぎに来たり、父親と貝を掘りに来た。
当時はハマグリも採れて、どういうわけか子供たちは鎌を砂に立て引きずって探していた。
結婚してからも子供を連れて、海水浴に来てスイカを食べたりした。
工場や採石場があるので、景色はそれほど良くないが落ち着ける場所である。
ただ、一度もデート場所に使ったことは無く、同僚のメグ(ALT)とSUPをしたことがあるだけである。
私にとっては、恋ヶ崎と呼びたいのはどちらかというと唐船(からせん)海岸である。
ここは私のその後育った尾崎の遠浅の浜辺で、小学校の頃は私たちの釣りや貝掘り、海水浴の遊び場であった。
中学校や高校時代の友達を連れてきて遊んだのもここだし、彼女とデートに来たのもここである。
今は前に見える家島は採石されて無残になっているが、小豆島も間近に見えて景色は素晴らしい。
昔と違って、海岸も美しく整備され、海浜公園の一部になっている。
ここには赤穂高校に赴任してからは、勤務が終わった後や、休憩時間に散歩したり、ジョギングを行っていた。
時々教え子がデートしているのに出会うので、少々向こうには気まずい思いをさせていた。
教え子たちにはまさしく恋ヶ崎であった。
去年の春まで勤めていた定時制の出勤前にはよくここを散歩した。
特に秋頃から運動不足解消のために、浜辺を通って公園内に入り、駐めた車に戻っていた。
寒い冬の日も、この海岸と海浜公園を歩くと気分が爽やかになった。
何よりも風景だけでは無く、鴨やカモメなどの海鳥に出会えるのが楽しみでもあった。
公園で子供連れの親子を見ると、自分たちの子供を連れて来た頃を思い出していた。
その時の私には、昔を恋しく思う恋ヶ崎であった。
親は綱崎(つなさき)と普通言っていたので、その名を知ったのはずっと後のことである。
若い頃に原付バイクに乗ってドライブがてらに行った時のことである。
そこにお巡りさんがやってきて、不審者に思われたのか職務質問された。
免許証を提示させられたのだが、当時は本籍地も記載されていたので地元の関係者というのがすぐわかった。
お巡りさんは不審者と疑ったのを笑顔でごまかして、去って行った。
ここには今でも、SUPをするために夏場には来る。
小さい頃には家族で泳ぎに来たり、父親と貝を掘りに来た。
当時はハマグリも採れて、どういうわけか子供たちは鎌を砂に立て引きずって探していた。
結婚してからも子供を連れて、海水浴に来てスイカを食べたりした。
工場や採石場があるので、景色はそれほど良くないが落ち着ける場所である。
ただ、一度もデート場所に使ったことは無く、同僚のメグ(ALT)とSUPをしたことがあるだけである。
私にとっては、恋ヶ崎と呼びたいのはどちらかというと唐船(からせん)海岸である。
ここは私のその後育った尾崎の遠浅の浜辺で、小学校の頃は私たちの釣りや貝掘り、海水浴の遊び場であった。
中学校や高校時代の友達を連れてきて遊んだのもここだし、彼女とデートに来たのもここである。
今は前に見える家島は採石されて無残になっているが、小豆島も間近に見えて景色は素晴らしい。
昔と違って、海岸も美しく整備され、海浜公園の一部になっている。
ここには赤穂高校に赴任してからは、勤務が終わった後や、休憩時間に散歩したり、ジョギングを行っていた。
時々教え子がデートしているのに出会うので、少々向こうには気まずい思いをさせていた。
教え子たちにはまさしく恋ヶ崎であった。
去年の春まで勤めていた定時制の出勤前にはよくここを散歩した。
特に秋頃から運動不足解消のために、浜辺を通って公園内に入り、駐めた車に戻っていた。
寒い冬の日も、この海岸と海浜公園を歩くと気分が爽やかになった。
何よりも風景だけでは無く、鴨やカモメなどの海鳥に出会えるのが楽しみでもあった。
公園で子供連れの親子を見ると、自分たちの子供を連れて来た頃を思い出していた。
その時の私には、昔を恋しく思う恋ヶ崎であった。
2018年1月19日金曜日
裏山登り
このところ仕事柄、山に登る機会が多い。
こう切り出すと、林業関係者かと思われるかも知れないが、オリエンテーリングに備えての下見である。
私は昔から肥満系の体質だったので、山登りは苦手だった。
上り坂は苦しいし、下り坂は足に応えた。
高校生の頃は殆ど山に登ることが無かったので、いつも山仕事をしている70歳後半の祖父よりも登るのが遅かった。
逆に言えば祖父はとろい高校生には負けない体力を維持していたのだ。
私もそれを考えれば、これから鍛えればしっかり登れるようになると思う。
実は学校教師として山に登る機会が結構あった。
赤穂養護学校(特別支援学校)では、赤穂の御崎から尾崎にかけての山を生徒と歩いた。
龍野実業ではしょっちゅう同僚の先生と裏山に登り、気分転換をした。
兵庫県立大学附属高校では、1年生の野外活動で大山に登った。
姫路特別支援学校では、授業や行事として生徒と裏山を登る機会が多かった。
特に姫路特別支援学校では、裏山に登ると姫路の街や遠く瀬戸内海の島々が眺められて最高だった。
こういう経験があり、普段もクロと一緒に近くの裏山に登ることがあっても、本格的な登山をしたいと思わなかった。
登り慣れた人にはついて行けないと思ったからである。
今回も若い職員は坂道を駆け上がれるのに、自分は待ってもらいながらついていった。
しかも、私は汗びっしょりなのに、若い職員は汗一つかいていなかった。
60歳間近の私が20代、30代の職員と同じように歩けるはずが無いのだが、これからはそうも言っていられない。
兵庫県立大学附属高校に勤めていた頃、講演で三浦雄一郎氏が来てくれたが、氏は60歳で死にかけてから登山を始めたことは有名だ。
エベレストに登った三浦氏を思えば、裏山に登るくらい大したことは無い。
たかが裏山だけれど、裏山に登る魅力も確かにある。
山に登って里に戻ると、あたりが違った風景に見えるから不思議だ。
私がよく通った奄美与路島の八月お踊りの歌の中にも、裏山に登る歌がいくつもある。
裏山に登って自分の生活している村や、職場などを遠い山や海と対比させて遠く眺めることが最高の気分転換になるからだろう。
普段抱えている悩みやストレスをいくらか解消してくれる。
本格的な登山と違って、それなりの靴を履き、それなりの格好をすればいつでも登れる。
それが裏山を登ることの魅力でもある。
そして、なによりも自然の動植物を身近に感じることで、たとえ一人でも孤独から解放される。
こう切り出すと、林業関係者かと思われるかも知れないが、オリエンテーリングに備えての下見である。
私は昔から肥満系の体質だったので、山登りは苦手だった。
上り坂は苦しいし、下り坂は足に応えた。
高校生の頃は殆ど山に登ることが無かったので、いつも山仕事をしている70歳後半の祖父よりも登るのが遅かった。
逆に言えば祖父はとろい高校生には負けない体力を維持していたのだ。
私もそれを考えれば、これから鍛えればしっかり登れるようになると思う。
実は学校教師として山に登る機会が結構あった。
赤穂養護学校(特別支援学校)では、赤穂の御崎から尾崎にかけての山を生徒と歩いた。
龍野実業ではしょっちゅう同僚の先生と裏山に登り、気分転換をした。
兵庫県立大学附属高校では、1年生の野外活動で大山に登った。
姫路特別支援学校では、授業や行事として生徒と裏山を登る機会が多かった。
特に姫路特別支援学校では、裏山に登ると姫路の街や遠く瀬戸内海の島々が眺められて最高だった。
こういう経験があり、普段もクロと一緒に近くの裏山に登ることがあっても、本格的な登山をしたいと思わなかった。
登り慣れた人にはついて行けないと思ったからである。
今回も若い職員は坂道を駆け上がれるのに、自分は待ってもらいながらついていった。
しかも、私は汗びっしょりなのに、若い職員は汗一つかいていなかった。
60歳間近の私が20代、30代の職員と同じように歩けるはずが無いのだが、これからはそうも言っていられない。
兵庫県立大学附属高校に勤めていた頃、講演で三浦雄一郎氏が来てくれたが、氏は60歳で死にかけてから登山を始めたことは有名だ。
エベレストに登った三浦氏を思えば、裏山に登るくらい大したことは無い。
たかが裏山だけれど、裏山に登る魅力も確かにある。
山に登って里に戻ると、あたりが違った風景に見えるから不思議だ。
私がよく通った奄美与路島の八月お踊りの歌の中にも、裏山に登る歌がいくつもある。
裏山に登って自分の生活している村や、職場などを遠い山や海と対比させて遠く眺めることが最高の気分転換になるからだろう。
普段抱えている悩みやストレスをいくらか解消してくれる。
本格的な登山と違って、それなりの靴を履き、それなりの格好をすればいつでも登れる。
それが裏山を登ることの魅力でもある。
そして、なによりも自然の動植物を身近に感じることで、たとえ一人でも孤独から解放される。
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