この目的は神奈川県の葉山に弟が家を新築していたのに、一度も見に行っていなかったので、年老いた母に見せてやるということ。
そして、弟の健康状態が気になったので、様子を伺いに行くことだった。
自家用車を用いたのは、母が足が悪いと言うこともあるが、安く済ませることであった。
三人で行って、交通費だけでは4万円以内に収まっている。
その代わり、疲れが家内や母親には出てしまった。
名古屋までは既に日帰りで行っていたので、四日市から伊勢湾岸自動車道、東名、新東名などは初めてであった。
途中、休憩や昼食をとって、行きは朝の10時半に出て葉山の弟宅には午後7時頃着いた。
中でも景色が良かったのは、駿河湾沼津SAあたりで、そこは駿河湾を見渡せる絶好の景色、平日であるのにも関わらず混雑していた。
富士山は遠くから雪の積もった白い頭が見えていたのだが、近づくと雲に隠れてしまって麓しか見えなくなっていた。
富士山こそ見えなかったが、夕陽に赤く染まる駿河湾と沼津の町の景色は今でも脳裏に焼き付いている。
葉山では弟夫婦に御用邸近くのマーロンという有名なレストランに連れて行ってもらった。
夜なのですばらしい景色は見えなかったが、太平洋の波の音は瀬戸内海に住む私達には新鮮だった。
この、葉山は多くの人の憧れの地ではあるが、もともと地元の人には住民税が高く、夏は海水浴客で混雑して大変だそうだ。
弟の家は高台にあって、遠くに江ノ島も見えるところにある。
不便な所であるにも関わらず、地価がすごく高いのには驚いた。
別のもっと高級な高台では芸能人も別荘などを持っているようで、弟の嫁はコンビニ働いていて、有名は芸能人が何度か訪れてきたことを話してくれた。
ただ、弟宅の100m程近くで母親が子供を二人も殺害するという事件があったというし、このところ逗子での殺人事件もマスコミでよく取り上げられている。
病める都会の一面も葉山はもっていた。
何より、東名を下りてからの渋滞には閉口した。ただ、関西と違い割り込みが殆ど無く、整然と車が流れていくのには驚いた。
5月に仕事で訪れた時には遠くで眺める程度だったが、傍まで行くとその巨大さに圧倒された。
スカイツリーそのものは2時間待ちと言うことで、登れなかったが、隣のビルの31階で東京の景色を眺めながら食事をとった。
私は大学院時代に1年目中野、2年目新宿区西落合、3年目横浜緑区長津田に住んでいた。
大学は東横線沿いにあった。
家庭教師のアルバイトをしていた関係で、このあちらこちらに行く機会が多くて、ある程度の土地勘があるつもりだったが、全く浦島太郎状態であった。
だいたい、新宿の高層ビルの方向でのさえ始めは分からなかった。
巨大な大都会の景色に圧倒された。
弟宅からの帰りは想い出の鎌倉から湘南の海岸線沿いを通って帰った。
学生時代は、当然、車で通ることは殆ど無かった。
江ノ電に乗るのが楽しみであった。
家内にはこの思い出話が過去への執着に感じたようで、後で嫌みを言われた。
ちょうど、湘南マラソンが終わった後で、空いた道路を夕日の中、駆け抜けることができた。
それから先は再び長い長いドライブが始まり、家に着いたのは4日深夜の1時だった。
家内と交替しながら、Stepwgnで往復した1,400km、葉山から東京は弟が運転してくれた。
燃費は12km/lと伸びたし、帰りは深夜割引で通行料も半額になって安く付いた。
この旅行から帰って暫くは、疲れもあったが、カルチャーショック状態だった。
仕事で行ったときは仕事の方に気が向いていたので、それ程感じなかったのだが、自分の生活を再認識する機会ともなった。
あの巨大な東京には、今は住む気になれない。
巨大地震の畏れよりも、異常に増幅した人口都市の不気味さが堪えられないように思えた。
上郡のど田舎で、畑をいじりながら生活している者にとっては、観光する魅力はあっても住む魅力は無い。
転職して東京に暮らすと言うことも考えたことはあったが、今はもういいという感じである。
東京から田舎に戻ったときは、挫折感に苛まれたが、田舎で何とか暮らせる今の方が良かったようにも思えるようになった。
仕事のしすぎで健康に問題を抱えている弟は家を建てたこともあって、二度と赤穂には住むことはないという。
確かに、葉山は魅力的な街だが、老後を過ごすには過酷なところのようにも思えた。
それは、この上郡の田舎の高台に住む老人にも言えることなのだが、車が運転できないと暮らせない。
葉山近辺では、運転できても駐車場がゆったり利用できる店が少ないそうだ。
金さえあれば何とかなりそうだが、無ければ無縁社会の悲劇を招きそうだ。
今回、まさに葉山とスカイツリーは今まで読んだ多くの文献以上に私の思考を変えてくれた。
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