先日、近縁者と話をしていて大学の話が出た。
彼は九州大学に入ってまもなく辞めて、予備校に入って早稲田大学に入り直した。
しかし、四年間在籍したにも関わらず中退してしまったのだった。
何をしていたのかと聞いたら、アルバイトをしていたと言うことだった。
とにかく、入ることだけに力を尽くしてしまって、入ってから勉強をする気が無くなったらしい。
そういえば、学年で最下位ながら早大の法学部に現役で入った私のバンド仲間は、大学ではひたすらバイクのサークルに心血を注いでいた。
バイク事故で1年留年したが、ちゃんと卒業できたたのはサークルのお陰だろう。
一方で、都立大学の大学院には早大でしっかり勉強をして入ってきていた優秀な先輩もい
たが、フィールドワーク中に病気で亡くなってしまった。
私は大して受験勉強しなかったから、大学に入ってから勉強したと言ってしまったが、本当は好きなことをやっただけだった。
大学院に行ってから修士の先輩や同級生がいかに大学でしっかりと勉強していたかを思い知らされていた。
因みに都立大学の大学院の社会人類学専攻は学部からの進学は滅多になく、埼玉大学やICU、東京外語大等と多彩で、たまに東京大学からの進学者もいた。
私はそもそも英文を中心とした論文解読が辞書なしではまともにできない、フィールドワーカーに毛が生えた程度に過ぎなかったのだ。
だから、もっと時間が必要だったのだが酷い十二指腸潰瘍など、心身も経済力にも限界がきて博士には進めなかった。
大して勉強もせずにそこそこブランドのある都立大学の大学院に入れたのだから、南山大学人類学科は私にはありがたい大学だった。
家内は高校から曾野綾子の「太郎物語」を読んで南山大学のことを知っていたようだが、私は読みもしなかったので、NHKでドラマ化されて始めて知った。
太郎さんは一流の慶応大学の補欠を蹴って三流の南山大学(小説では北川大学)人類学科に入ったということだ。
学科の同級生にも愛知教育大学を蹴って同じ学科に入って頑張っていた友達もいたが、東大を落ちて入ってきた者はほとんど授業に出てこなかった。
女子が多く、就職とあまり結びつかないので、学科にしっかりなじめている者とそうで無い者がはっきりしていた。
私はこの学科しか合格しなかったので入っただけで、入った当初は単に浪人から解放されることと女子学生が多いのが嬉しいだけだった。
そもそも、南山大学の赤本も買っていなくて、過去問も殆どしなかったし、願書の大学案内もまともに読んでいなかった。
いい加減に入った大学で最初からうまく行かず、熱心に文化人類学を勉強したわけでも無く、軽音学部、剣道部もなじめず1年の途中で辞めてしまった。
たまたま文化人類学研究会の村落調査サークルに巡り会って、学問に目覚め、恋愛に目覚め、友情を暖めることができた。
奄美での村落調査も、大学によってはゼミなどで教師の指導の下で行うケースが多かったのだが、学生だけで長期的に自由にやれたのが良かった。
実は私の出身高校の淳心には、南山大学の神学科を卒業した英語教師もいたのだが、大学には関心が無かったので、教育実習の時に初めて大学の話をしたのだった。
教師になってからは生徒に南山大学のことを話したが、名古屋に行きたいという生徒もいなくて殆ど関心を持って貰えず、誰も受験してくれなかった。
都立大学も二期校だった頃の人気は無く、担任した生徒に強く勧めたが筑波大学に行ってしまった。
都立大学は社会人類学はブランドを持っていたが、学問に関心の無い生徒には魅力は無い。
ただ二期校時代は、高校の仲の良かった友達が人気と評判の高かった都立大学に入ろうとしたが果たせず、二浪して慶応大学に行った。
二期校で人気の高かった都立大学を落ちて早稲田や慶応にいったケースはそこそこあったようだ。
だけど、私は三流の南山大学の方が、自分に合っていたし好きだった。
都立大学大学院は研究者になれば卒業しても関わりが長く続くようだし、今でも研究室の名簿は送ってきてくれる。
個人的には今でも連絡を取っている人もいるが、大学の仲間のような気楽な関係は少ない。
私が所属した南山大学の人類学科のゼミには、同期の一部が指導教官を中心としたライン仲間を作ってけっこう連絡を取り合っている。
私はゼミで懇意にして貰っていた女友達がいるかと加わったが、残念ながら彼女は入って無くてかなりがっかりしたが、加わって良かったと思っている
今回、そのラインでメンバーの兄弟が不慮の事故で亡くなったことを知った。
年齢的には私より一つ下で、同じ文化人類学研究会の部員でよく知っている後輩だった。
ラインでは彼を思いやる言葉が綴られていた。
私はこういう関係を他には持っていない。
私の人生にとって三流の南山大学人類学科こそかけがえのない存在なのだと改めて思い知った。
今は偏差値などや口コミでランク付けされて、集まってくる学生も以前の大学と違ってしまったようだ。
共通一次が開始された頃の年代である我々の世代は、格付けに左右されない魅力を大学自体に感じることができていた。