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2025年8月9日土曜日

三流でも南山大学人類学科で良かった

 先日、近縁者と話をしていて大学の話が出た。

彼は九州大学に入ってまもなく辞めて、予備校に入って早稲田大学に入り直した。

しかし、四年間在籍したにも関わらず中退してしまったのだった。

何をしていたのかと聞いたら、アルバイトをしていたと言うことだった。

とにかく、入ることだけに力を尽くしてしまって、入ってから勉強をする気が無くなったらしい。

そういえば、学年で最下位ながら早大の法学部に現役で入った私のバンド仲間は、大学ではひたすらバイクのサークルに心血を注いでいた。

バイク事故で1年留年したが、ちゃんと卒業できたたのはサークルのお陰だろう。

一方で、都立大学の大学院には早大でしっかり勉強をして入ってきていた優秀な先輩もい

たが、フィールドワーク中に病気で亡くなってしまった。

私は大して受験勉強しなかったから、大学に入ってから勉強したと言ってしまったが、本当は好きなことをやっただけだった。

大学院に行ってから修士の先輩や同級生がいかに大学でしっかりと勉強していたかを思い知らされていた。

因みに都立大学の大学院の社会人類学専攻は学部からの進学は滅多になく、埼玉大学やICU、東京外語大等と多彩で、たまに東京大学からの進学者もいた。

私はそもそも英文を中心とした論文解読が辞書なしではまともにできない、フィールドワーカーに毛が生えた程度に過ぎなかったのだ。

だから、もっと時間が必要だったのだが酷い十二指腸潰瘍など、心身も経済力にも限界がきて博士には進めなかった。


大して勉強もせずにそこそこブランドのある都立大学の大学院に入れたのだから、南山大学人類学科は私にはありがたい大学だった。

家内は高校から曾野綾子の「太郎物語」を読んで南山大学のことを知っていたようだが、私は読みもしなかったので、NHKでドラマ化されて始めて知った。

太郎さんは一流の慶応大学の補欠を蹴って三流の南山大学(小説では北川大学)人類学科に入ったということだ。

学科の同級生にも愛知教育大学を蹴って同じ学科に入って頑張っていた友達もいたが、東大を落ちて入ってきた者はほとんど授業に出てこなかった。

女子が多く、就職とあまり結びつかないので、学科にしっかりなじめている者とそうで無い者がはっきりしていた。

私はこの学科しか合格しなかったので入っただけで、入った当初は単に浪人から解放されることと女子学生が多いのが嬉しいだけだった。

そもそも、南山大学の赤本も買っていなくて、過去問も殆どしなかったし、願書の大学案内もまともに読んでいなかった。

いい加減に入った大学で最初からうまく行かず、熱心に文化人類学を勉強したわけでも無く、軽音学部、剣道部もなじめず1年の途中で辞めてしまった。

たまたま文化人類学研究会の村落調査サークルに巡り会って、学問に目覚め、恋愛に目覚め、友情を暖めることができた。

奄美での村落調査も、大学によってはゼミなどで教師の指導の下で行うケースが多かったのだが、学生だけで長期的に自由にやれたのが良かった。


実は私の出身高校の淳心には、南山大学の神学科を卒業した英語教師もいたのだが、大学には関心が無かったので、教育実習の時に初めて大学の話をしたのだった。

教師になってからは生徒に南山大学のことを話したが、名古屋に行きたいという生徒もいなくて殆ど関心を持って貰えず、誰も受験してくれなかった。

都立大学も二期校だった頃の人気は無く、担任した生徒に強く勧めたが筑波大学に行ってしまった。

都立大学は社会人類学はブランドを持っていたが、学問に関心の無い生徒には魅力は無い。

ただ二期校時代は、高校の仲の良かった友達が人気と評判の高かった都立大学に入ろうとしたが果たせず、二浪して慶応大学に行った。

二期校で人気の高かった都立大学を落ちて早稲田や慶応にいったケースはそこそこあったようだ。

だけど、私は三流の南山大学の方が、自分に合っていたし好きだった。

都立大学大学院は研究者になれば卒業しても関わりが長く続くようだし、今でも研究室の名簿は送ってきてくれる。

個人的には今でも連絡を取っている人もいるが、大学の仲間のような気楽な関係は少ない。


私が所属した南山大学の人類学科のゼミには、同期の一部が指導教官を中心としたライン仲間を作ってけっこう連絡を取り合っている。

私はゼミで懇意にして貰っていた女友達がいるかと加わったが、残念ながら彼女は入って無くてかなりがっかりしたが、加わって良かったと思っている

今回、そのラインでメンバーの兄弟が不慮の事故で亡くなったことを知った。

年齢的には私より一つ下で、同じ文化人類学研究会の部員でよく知っている後輩だった。

ラインでは彼を思いやる言葉が綴られていた。

私はこういう関係を他には持っていない。

私の人生にとって三流の南山大学人類学科こそかけがえのない存在なのだと改めて思い知った。

今は偏差値などや口コミでランク付けされて、集まってくる学生も以前の大学と違ってしまったようだ。

共通一次が開始された頃の年代である我々の世代は、格付けに左右されない魅力を大学自体に感じることができていた。





2025年8月7日木曜日

待ち焦がれた雨

 私は教師をしていた頃に、雨が大嫌いだった時期がある。

第二次ベビーブーマの生徒が荒れた時代の職業高校に勤めていた頃で、雨が降ると生徒が荒れた。

生徒の多くが自転車通学だったのだが、傘差し運転を無くすために校門で立ち番をして、差して来ている傘を取り上げて学期末まで預からねばならなかった。

本人が規則を無視したのが悪いのに、傘をとられた生徒は不満をぶちまけていた。

教室外などで発散できない生徒が、トラブルを起こすことも雨の日は多かった。

ただ、ハードな練習を外で行うクラブの生徒は、雨が降ると喜んでもいた。

一方で、校内の廊下や階段で練習するクラブもあって、放課後は職員室や準備室から出たくなくなった。

この雨の日の校舎内練習で、近隣の中学校では生徒が死んだところもあった。


そもそも、学校行事では雨が一番大敵だった。

一番嫌な思い出は、肢体不自由の特別支援学校で雨の日の校外学習で姫路城に行った時だ。

車椅子の生徒にカッパを着せるのも大ごとだったが、玄関でカッパを脱がせたりタイヤを拭いたりで大仕事になった。

姫路城内は舗装されていないところもあって、泥濘んだ道で車椅子を押してあげるのも大変だった。

雨で延期になる体育祭や球技大会はまだマシなのだが、雨でも行う文化祭もその対応に追われた。

とにかく、教師をしていた頃に雨を良く思ったことは無かった。


農作業をやり始めて30年以上経つが、やはり雨はあまり良いものではなかった。

作物以上に雑草は伸びるし、トマトなどは実が傷むし、毎日行うズッキーニの受粉も面倒になった。

水田を転用して畑にしているので水はけが悪くて、雨が降り続くとどの作物にも悪い影響が出た。

ところが、近年は夏場には高温で雨が降らないので、水やりに多くの労力をかけねばならなくなった。

現役の教師をしていた頃は、そんなに手がかけられないので、枯れたり萎れたりしたら諦めたりもした。

退職してからは、時間が有るのでその対応に、新たな溝を掘ったりエンジンポンプなどを使って散水するようになった。

それでも、去年までは気持ちが入らなくて、作物のできはあまり良くなかった。

ところが、このところ農作物の値上がりで、必要に迫られて力を入れざるを得なくなった。

朝の5時前に起きて、自宅の裏にある畑の水やりをしながら夏物を収穫した。

エンジンポンプは音が近所に迷惑がかかるので、長いコードリールを使って電動ポンプでくみ上げ、それをまた長いホースで散水した。


その農作業と散歩に関する暑さ対策については「汗は冷たいから濡れていたい」で既に書いいる。

日によって、朝に十分水をやれないときには、夕方にエンジンポンプを使って散水した。

畑だけで無く、庭にある鉢物や植木に水をやるために、300リットルタンクに水を用水路からエンジンポンプでくみ上げていた。

とにかく水の対策にずっと振り回されていたのだ。

雨が降るのをどんなに待ち焦がれていたか。

そして、今朝(8/7)に念願の雨が土砂降りとなってやってきた。

収穫作業を途中で止めて、犬の散歩に切り替えた。

犬の散歩用のカッパを着て、連れ出して30分以上歩いた。

うちのクロは池や用水路に自分から入るくせに、洗われるのを極端に嫌がって抵抗する。

身体も大きく力も強くて爪でひっかかれたりされて、身体を洗うのは諦めているので、冬場以外はあえて雨の日に散歩して、雨で身体を洗い流す。

普段は腹だけ水に浸す程度のクロにとっても約1ヶ月ぶりの全身シャワーと言えるのだ。


台風も夕立もなくて雨が降らない状態で、これほど雨を待ち焦がれたのは生まれて初めてのように思う。

雨がテーマで喜びを表現していて知っている曲は「雨に唄えば」と童謡の「あめふり」くらいだろう。

まさしく、この雨は「雨に唄えば」が相応しいだろう。

だけど、畑やあぜ道ではジーン・ケリーのように傘をもって歌う気分にはなれない。

カッパから流れ落ちる水滴やクロの背中から腹に落ちる濁ったしずくを見て安堵しながらいつもの三好英二の「雨」を唄っていた。


雨に濡れながら 立たずむ女(ひと)がいる
傘の花が咲く 土曜の昼下がり
約束した時間だけが 躰(からだ)をすり抜ける


雨が降ると雨の日に約束のデートをすっぽかして恋人を泣かせた嫌な記憶が、この歌と共によみがえってしまう。

待ち合わせ場所に来ない私を長いこと待った後で、下宿にやってきて怒りながら泣いていた。

優しさの足りない傲慢だった自分を恥じながら、彼女のことをいつも思い出す

どんなに待ち望んで嬉しい雨でも、やはり雨は気分を鎮めてしまう。


2025年8月6日水曜日

元チェーンスモーカーは現ベーパー(電子タバコ)

 本当はタバコをまた吸い始めたかった。

普通のシガレットも良いが、パイプタバコや葉巻が吸いたかった。

学生時代には酒よりも、タバコの方が好きだった。

でも、金が無い頃はシンセイを普段吸って、たまにショートホープを吸ったりした。

しかも、シケモク(吸い残し)もキセルを使ったりして吸っていた。

村落調査の合宿では、サークルの先輩がドイツ産のゲルベ・ゾルテや葉巻を差し入れしてくれたので、タバコの魅力を知りもした。

大学院に入ってからは、家庭教師のアルバイトができたので、缶ピースやパイプを嗜むことができるようになった。

村落調査でもシマの仲の良くなった若い人が、タバコを貰いにやってくるので、そこから色々と話が聞くこともできたし、仲良くなれて家族づきあいができた。

大学院での台湾からの留学生からは、台湾ではタバコのやりとりが付き合いとして大切なことも教わった。

一方で論文を書き始めてから、そのストレスから完全にチェーンスモーカーになり、タバコを吸うことでしか気分転換ができなくなってしまった。


教職に就いてからは、普段からパイプを多く吸い色々と銘柄を試すのが楽しみになって、三宮に出かけたりするときは必ずたばこ屋に寄った。

ただ、パイプはキセル以上に脂を掃除したり、焦げを削ったりするのが面倒だった。

元々は、肺にしっかり入れて吸うタバコでは無くて、香りを楽しむ吸い方だったのでパイプは一番合っていた。

それだけ好きだったタバコも、家内が妊娠したことを知ってから止める決心をして、家では全く吸わなくなった。

ただ、飲む機会などではどうしても欲しくなって、人からもらって吸っていた。

完全に止めるまでに3年以上はかかったと思う。


今回はタバコをまた吸い始めたいと思ったのは、退職して研究に力を入れようと思ったからだ。

机にしがみついている時に、気晴らしとしてミントタブレットや飴、グミを試したが、糖尿病には良くないし飽きてきた。

仁丹なども使い始めて、今でも続いている。

それでも、執筆時には昔のようにタバコを非常になつかしく感じたのだ。

しかしながら、家内がタバコが苦手で匂いが嫌だし咳が出るというので、タバコは諦めざるをえない。

そこで、行きついたのがニコチン・タールなしのベープ(電子タバコ)だった。


ベープの香りは、ミント、レモン、タバコの3種類を使っている。

最初に使ったのは、リキッドを入れて気化させるアトマイザーが小さい物だったので、扱いづらかった。

期待したタバコの香りも、本物とはほど遠くて、気休めで吸う感じだった。

そのうちは、どれも飽きてしまって吸うことをしばらく止めていた。

最近、また何かリラックスできる物はないかとネットで調べたら、CBD(カンナビジオール)という、合法の大麻の抽出液に行きついた。

ベイプを吸う道具も新調してCBDを吸い始めたが、薄いレモンの香りのするタバコのようなふわーとした気分を感じだ。

確かに、リラックスできているようで、酒の量も減ったと思う。

ついでに、かつて使ってリキッドが残っているので、アトマイザーも買い足して再び吸い始めた。


CBDは合法でも大麻の成分というと、何か危険な感じがするのだが、医療目的にも使われているので安心でもある。

かつて、ドラッグ(薬物)を文献で調べたことがあった。

デイヴイッド・T・コートライト『ドラッグは世界をいかに変えたか-依存性物質の社会史』(春秋社)である。

我々は医食同源と言う言葉を知っていて、基本となる食事が自分の健康を保つことだと分かっている。

あまり知られていないが薬食同源という言葉もあるようだ。

これは特定の食材の効能を強調するときに用いるようだが、実は依存性があってサイコアクティヴ物質をもっている食材をよく摂っていると前出の本に書いてある。

一番好例はカフェインを多く含むコーヒーやお茶などであるが、ドラッグとは意識していないのが普通だろう。

ただ、お茶は古くは薬として使われていたのを知っているし、今でもカテキン効果を期待している。

タバコもドラッグとしてでは無くて、身体に悪いが気分を良くする嗜好品という感覚だと思う。

また、その本では砂糖もかつてはヨーロッパで薬品と見なされていたし、他の薬物同様に奴隷や労働者を酷使するのに欠かせなかった。

ラム酒は黒人奴隷を働かせるのに活用されたのは有名な話だ。

日本では酒、タバコは税金をかけて、ドラッグ依存者を利用しているのだから、ヨーロッパで行われていた搾取とそれほど変わらない。

かつての日本人男性はタバコを吸いながら過酷な仕事をこなしてきたのであり、百害あって一利なしといわれても、ワーカーホリックには欠かせない物だった。

薬と毒は使い方の違いだけだと言われているが、タバコも過剰に吸わなければ気分転換としての薬にもなっていたはずだ。

タバコは癌の原因として目の敵にされてしまっているのだが、糖尿病の原因としての砂糖などの糖類も最近では目の敵になっている。

本当はドラッグそのものに原因があるのでは無くて、過剰な使い方をしてしまうストレスのかかった生活に原因があると思う。

今はゆったりと生活できているので、ストレス解消としてでは無くて、ちょっとした気分転換のひとつとしてのベープと上手く付き合いたいと思っている。

今のところ、酒やタバコのように高い税金がかかっていないのが何よりも魅力だ。


2025年8月4日月曜日

靴底を剥がす灼熱仏事

 義母の49日の法要を、お寺で行った。

岬の崖の上にあるお寺は、海岸から急な坂を登った所にあった。

ご住職の都合もあって、午前中は無理で13時過ぎから行われることとなっていた。

その後で、納骨もする必要があったし、遠くから来る人のことも考えて、一番暑い時間帯を選ばざるを得なかったのだ。


当然、お寺にはエアコンは設置していない。

扇風機が何台も置いてあるが、風が届かない人もいる。

私は扇風機のそばにいたのだが、汗が止まらなくてずっと顔を拭い続けていた。

一番熱い思いをしているのは、ご住職で何枚もの着物を重ねられている。

その姿を見ていると、誰も暑いとは言えなかった。


苦行となった法要も終わって、いざ墓場に向かうこととなった。

靴を履いた一人の男性が片方の靴底が剥がれたという。

靴は本堂の階段に陽ざらしのまま置いてあったのだが、熱で接着剤が溶けてしまったらしい。

片方の靴底を剥がしたまま、急な坂道を降りねばならなくなった。

そして、そのまま墓場の納骨に臨んだが、納骨が終わったときには両方の靴底が剥がれてしまっていた。


お骨の納骨の儀式も最後の焼香ということとなった。

すると、こんどは私の息子の片方の靴底が剥がれている。

地面が熱くてやはり、接着剤が溶けてしまったらしい。

たいして歩くことは無いので、用心しながらそのまま履き続けざるを得なかった。

私はお寺の坂や、墓場のことを考えて黒のウォーキングを履いていたので、難を逃れることができた。

この時に参加した男は四人いたのだが、難を逃れた私はウォーキングシューズで、跡取りの喪主は白のスニーカーを履いて無事だった。

どちらかというと、ちゃんと黒の革靴を履いていた二人が難に遭い、礼儀に反する靴を履いていた二人の方が難を逃れることになったのだ。

ただ、家内の実家に戻って靴を脱ぐときに、中敷きが溶けて靴下にくっついていた。

足の裏が暑いと思わなかったが、靴底の温度がかなり上がっていたことを実感させられた。

こういう男性に対して、女性は誰一人も靴に問題は生じなかったのは、礼儀に拘っていなかったからだろう。


この異常な気候で、こんな時間帯に法要や納骨を行うこと自体が無謀なのだが、遠方から集まってくることを考えれば仕方ない。

私は灼熱を予想して、晴雨兼用の傘を買っておいて使った。

ご住職は納骨の際には、僧侶の持つ網代笠を被っておられた。

私は托鉢をしている僧侶が被っているのを見たことがあったが、納骨の儀式で被られるとは思わなかった。

その網代笠は年季のいった立派な物で、普段使いできるような品物では無いようだった。

それに対して、男性は無防備で、私以外は日傘も差さず、一人は奥さんの日傘の中に入れていもらっていた。


靴底が剥がれるくらいのことで法要と納骨を終えることができたのだから、まずは無事に済んだと言うべきかもしれない。

今回はかなり高齢の縁者は参加していなかったので、これで済んだと思う。

高齢で無くても、普段暑さに慣れていない人にとっては、大事になってしまうこともあるだろう。

日にちや時間に融通が利かない行事は、先の気象を考慮しづらいのだから、礼儀を逸してもそれに対応した身なりで望まざるを得ないだろう。

場合によってはペルチェベストやネッククーラーを付けたり、外では帽子を被ることも容認するべきだと思う。

黒の革靴も今後は暑さに耐えられるかどうかを確認しておく必要があるだろうが、酷暑の夏場はそれ以外の靴をみんなで容認するべきだと思う。

男性も女性と同じように暑さに応じた身なりをして、パラソルを持つのが普通になっていくべきだろう。









2025年8月2日土曜日

貧困化の中、デジタルかアナログか?

 家内は家にいてテレビを見ながら暇なときには、ポイ活のできるゲームやクイズをしている。

普段も、買い物に行くときはポイントが5倍つく日をチェックしてその日に高い物を買ったりする。

そのゲームやクイズ、買い物等で得たポイントを使って回転寿司の支払いを安くあげて自慢する。

例えば二人で2400円食べたとして、400円の端数をDポイントなどで支払うのだ。

家内にとっては家計を助けていると自負しているのだが、聞いてみると月に1万円以上は稼いでいるらしい。

今までの低金利時代では確かにありがたい話だった。

しかし、今はネット銀行を中心に金利も上がっている。

多くの金銭の蓄えのある人は、安全に不労所得を得られるようになってきた。

そんな中でポイ活は蓄えが無くて、リスクを回避したい人にとっては大切なサイドビジネスになったのかもしれない。


私はお金を働かせて儲けることも最低はしたいと思うが、それよりも時代を見据えて生きていると実感できる仕事をしたいと思っている。

年金での生活で金銭が不十分だからと言って、もうマニュアル化された仕事の稼ぎに出たいとは思わない。

私が労を惜しまずにやっているのは農作業だ。

賃金に換算すれば全く割り合わない。

キュウリ10本で500円にもならないだろうし、ズッキーニやトマトを加えても時給1000円には全く届かないと思う。

それでも今はジャガイモをご飯の代わりに食べているし、トマトジュースを買わなくて済んでいる。

大量に採れたキュウリは色んな漬物になって、食事には欠かせない。

この間までは、豆乳にする黒大豆も自分で作った物を使っていた。

これは単に節約という意味では無い。

自給自足にはほど遠いが、直近では日照りによる旱魃に立ち向かっている。

近年の猛暑は従来の経験が役に立たなくなっていて、その対策に工夫が必要となっている。

ポイ活は冷房の効いた部屋でゲーム感覚で楽しみながらできるので良いのだろう。

朝の5時から畑に出て汗まみれになって農作業をやるのに比べてどんなに楽なことか。

ただし、熱中症になるような無理な働き方はせず健康な汗であり、農作業以外にも1時間以上歩いたり1時間半の水泳をしたりしている。

そして、作物達が元気に育って、その労力や工夫に応えてくれる喜びはゲームやクイズでは得られないと思う。

近隣では酷暑で荒れてしまった畑も見かけるし、ラジオでも家庭菜園が駄目になった話が聞かれる。

そんな中で、元気に持ちこたえてくれている野菜立ちはなによりも私の誇りだ。


一方で、ポイ活は資産が無く、リスクも負えない立場の人が、デジタル出稼ぎをしているかのように思える。

楽しみながらやりがいを持ってすることができれば良いのだが、重要な収入源となっている人はそうとは言い切れない。

まさしく、中国のゴールド・ファーマーはポイ活の極地だろうが、貧困化する日本でも生計に欠かせない人も増えるかもしれない。

また、資産がある人でも株に手を出して老後資金を無くしてしまった人の話がネットで目につく。

私のつぎ込んだ労力で大きくなる作物の株はしっかり大きくなって、老後資金を失わせることはまず無い。


また、このところYoutubeでは、夏休みになり給食が無くなって、食事がまともに食べられないので寄付を募るCMが流れている。

原因は両親の離婚と言うことだが、どうも釈然としない。

私の世代の多くの子どもは両親がいても、いつも腹を空かせていた。

だから、野山に行って食べられる物を探して食べたり、海に行って魚介類を捕った。

例えば今では見向きもされないイタドリを腹一杯食べたりしたし、海辺で掘った貝をその場で割って食べたりもした。

また、いけないことだとは思うが、よその畑の物を採って食べたりもしたが、特にサトウキビはご馳走だった。

見つかって怒られたりもしたが、親や学校には訴えられなかった。

教師になってからも、山間部の生徒は子どもの時に村だけの新聞配達をしたり、カブトムシを捕まえて売ったりして金を儲けていたことを聞いたりした。

都会であったり時代が違うから、寄付に頼るというのも理由かもしれないが、そういう子どもでもちょっとした手伝いをさせて、食べる機会を与えてあげれば良い。

同情を買って寄付を求めるCMは、子どもの生きる力を失わせているのでは無いだろうか?

そういう子どもが、勉強しながらでも手伝いをして食事ができる機会を作ってあげる方がその子のためだと思う。

その手伝いを通して将来の生きる力を身につけられると思う。

私は食うに困っているから野菜を作っているのでは無い。

気象破綻でも生き残る力を得るために野菜を作っている。

苦しい立場でも自分の努力で生きていける機会を子どもに与えてあげた方が良いと思う。

2025年7月31日木曜日

苦慮する我が家の宅配ボックス

 家内とドライブしているときに携帯電話が車のハンドフリーが鳴った。

宅配業者が宅配ボックスに入れた品物が傷むのを気遣って連絡してきたのだ。

実は、常温で保存できる牛乳を一箱24本注文していた。

注文するときに時間指定していなかったので、日曜の一番真昼の暑い時間帯に配達されてしまった。

それを聞いた以上は、どこにも寄らずにまっすぐ帰らなくてはならなくなった。


本来、宅配ボックスは庇のある玄関に設置するべきだろう。

ところが、郵便や新聞の受け箱を兼ねているので、玄関から少し出た駐車場の近くに設置している。

玄関に移動させても良いのだが、その近くには番犬のクロがいて人が来ると吠えるのである。

日中は問題ないのだが、新聞の配達される早朝に吠えられると、我が家も困るが近所迷惑にもなる。

そこで今までの郵便受けと同じ位置に宅配ボックスを設置した。


そうすると、雨ざらし、陽ざらしになってしまう。

去年は大きなパラソルを差し掛けたり、ベランダボックスの蓋を上にのせたりしていた。

今年もベランダボックスの蓋を置いて何とかなると思っていたのだ。

先日から電気製品などでは気になっていたのだが、傷みやすい食料品のことで対処を余儀なくさせられた。

とりあえず、長いすだれを二枚使って宅配ボックスを覆ってみた。

これから、真剣に考えて宅配ボックスのためのボックスを作らねばならないだろう。

近頃は犬を庭で飼っている人がいないので、それに応じたグッズは見当たらない。

通販で買い物をするのが当たり前になった現在、宅配ボックスを設置するのも当たり前になりつつある。

我が家のケースのように野外に設置して、風雨に耐え断熱効果のある安価な宅配ボックスやそのカバーを考案して欲しいと思う。

一方で、外出の多い休日に配達されるときは、きちっと時間指定しなければと思った。




2025年7月30日水曜日

プールに見る老女パワー

 児童生徒が夏休みになると午後からは、プールでまともに泳げなくなる。

午前は夏休みの宿題などで、自宅や塾にいるのだが、午後になると友達とプールに遊びにやってくる。

最近は学校の地区水泳も無いのが当たり前で、プールの授業自体を温水プールで行って、学校では水さえ入れていないところもある。

去年は何も考えずに、午後に泳ぎに行くと6コースの半分を遊泳に使っているので、残りのコースで泳力が違う者が同じコースで練習しづらい。

また、泳ぐコースを普段やっていたのと同じように歩行する人もいる。

それで、泳ぐ人の少ない昼休み前後に変えた。

上郡のプールでは午前のスクールが終わる11時半から13時頃までを練習時間にして、昼食は練習後の2時過ぎてからとっている。


月曜は相生のプールに行く日で、午後からは生徒児童で混雑するのが予想されたので、午前の11時から泳ぐことにした。

ちょうど、アクアビクスのレッスンが始まる時間で、3コースほどに多くのご老人が集まっている。

大半は女性だが、男性も隅っこの方で固まってそこそこいる。

プールサイドで踊るコーチの動作通りに水中でいっせいに踊り始めた。

かける音楽のリズムも速く大きく、コーチのかけ声も大きくプール全体に響き渡った。

こちらは練習に集中はしていたのだが、時折その圧巻の踊りを見て刺激を受けた。

そして、泳ぎ専用の1コースは他に泳ぐ人がいなかったので、ひとり独占して泳ぐことができた。

ところが、他のコースはやはりご老人の女性を中心に人数は多く、児童もお婆さんと一緒に楽しんでいる。

ふだん、静かな上郡のプールに親しんでいる者としては、まるでレジャーランドのプールのように思えた。


アクアビクスは1時間で終わり、私はその後30分以上泳ぎ続けていた。

そして、この圧巻の集団を指導していたコーチがどういう人か気になって、その後の様子を見てみた。

なんと、知り合いの女性だった。

彼女は全国大会にも出場した元水泳選手で、一時、上郡でコーチをしていたので私と同じマスターズチームにいた。

当時は温和しく無口で可愛くて優しい感じの人だった。

その変貌ぶりに驚いた。

これだけの老女パワーを引き出し、圧巻の踊りを繰り広げさせる技術は水泳の泳力と変わりが無いのかもしれない。

ここでは老女パワー溢れる午後の水泳レッスンの隣で練習するのを避けてきたのだが、夏休みはこの時間帯以外では混雑するので避けられない。

たぶん、毎週この老女パワーに打ちのめされないように、頑張って泳がねばならないだろう。

かく言う私も老人の一人なので、そのうちに仲間に入ってあのコーチに従って踊る方が楽しそうだけれど・・・・




2025年7月28日月曜日

夏ごもり

 以前のブログで「今はもう夏、誰もいない田畑」を書いたのは、6月のことだった。

あれからますます暑さと日照りの猛威は収まらない。

真冬の寒いときには農作業もすることがなく、いわゆる「冬ごもり」状態が普通だが、今では夏もあまりに暑くて農作業ができずに「夏ごもり」になったいる。

このごろは朝の涼しいときにさえ、畑に出てこない近隣の家が増えた。

私は空調服でちゃんと暑さ対策をして、朝の5時前から裏の畑で農作業をする。

水やりをしながら、キュウリ、トマト、ズッキーニ、オクラの収穫をしているのだが、出会うは新聞配達の車だけである。

朝食は6時半頃から始めて、7時半頃には犬の散歩に出かける。

そこでは誰に出会うことも無く、遠くでコウノトリの親が子が餌を探している姿を見ることだけが慰めとなる。

たまには、その写真を撮りに車で来た人を見かけることもある。


昨日(7/27)は日曜だったので、いつものように家内とドライブがてら昼食を食べに出かけた。

家内は寿司が好きなので、月に数度は回転寿司を食べに行くのだが、渋滞する東岡山の店を避けて、津山まで出かけた。

まだ11時過ぎでちょっと早いかなと思ったが、店の駐車場はほぼ満車状態で、店内も殆どの席が埋まっていた。

ひょっとして朝食と昼食を兼ねているのかなと思うくらいだ。

とにかく、若い子連れの人や、中学生くらいの女子が友達と一緒に来ていたりする。

年老いた母親と来ている息子さんらしい人などは、話をしながらゆっくりと食事をしている。

私ら夫婦は回転寿司に来ると矢継ぎ早に注文して、一皿2貫の寿司を分け合って食べている。

小食の家内が多くの種類を食べたい方なので、このやり方をずっと続けている。

この方法は安上がりで良いのだが、互いに気遣って、食べるのが速くなってしまうのが欠点だ。

本当はビールでも飲みながらゆっくりと食事を楽しみたいところだ。

暑い日はこういう店でゆっくり過ごすのが安上がりで、満足いくことができる筈だが、店内の順番待ちのお客さんを呼び出す声がそうさせない。

これも、回転寿司店が客自体の回転を上げる方法なのだろうとは思う。


今の時代の我が家の夏の休日の過ごし方は、ドライブで車の中、モールでのショッピング、安上がりの外食チェーン、道の駅が多いように思う。

家の中でエアコンをかけて、テレビを見ながら冷えたビールを飲むのも悪くは無いが、休みの日は家に籠もりたくない。

家内は家に籠もる方が好きなようだが、東京の狭いアパートから休日に脱出していた私の習慣が続いているのに付き合ってもらっている。

都会の人は、住宅事情などから公共交通機関を使って外出して、どんなに暑くても街から人通りが途絶えることはあまりないだろう。

しかし、田舎では家に籠もるのが一般的で、我が家のようにドライブに出かけるのは若い子連れ夫婦だけだ。

それで家の周りには人がいなくなり、蝉の鳴き声だけが空しく村中に響き渡っている。

いずれ、夏の酷暑が当たり前になって、冬ごもり同様に夏ごもりも当たり前となるのだろうと思う。

2025年7月26日土曜日

一人籠もり暮らしの落とし穴

 私は朝五時に起きて農作業をしているが、その時に時計代わりにHNKラジオの「マイあさ」を聴いている。

ラジオの良いところは聴いている人がいろいろと投書して、意見や気持ちを公開して意見交換できることだ。

そんな中で、「高齢者は健康のために外出して人と関わった方が良いと言うが、自分にとってそれは却って苦痛だ」という投書に反響があった。

自分もそうだという意見が多かったことが今の時代を反映していると思った。

この話題では心当たりがあるので考えさせられた。

私のよく知っている知り合いのMさんから、引き籠もってしまった一人暮らしの母親に苦労した話を聞いていたからだ。

かつてそのMさんの母親はコロナの影響で外に出られなくなった。

それまでは非常に外に出て人と関わりを持つのが好きな人だった。

ところがコロナが収束しても家に閉じこもるようになってしまった。

娘であるMさんと週に一度買い物する以外はほとんど家を出ることもなく、髪も伸び放題になって浮浪者のようになってしまった。

いくらMさんが美容院に行くように話しても言うことを聞かない、理由は美容院であれこれ聞かれて話をするのが嫌だと言うことだった。

認知症の症状も出て自分の身の回りのこともできなくなったきたので、Mさんは介護認定を受けさせようとしたが、自分は大丈夫だと頑として受け付けなかった。

その一方で、食欲も落ちて体重も減ってしまったのだが、意外と病気にはならなかった。

Mさんはこうなったら、病気で入院しないと改められないと腹を括ったそうだ。


その日はまもなくやって来た、昨年の夏に風邪をこじらせて肺炎になってしまった。

暑いのに自分は暑くないからとエアコンもつけずに暮らすことが多かったので、体力が落ちてしまっていたのだろうという。

Mさんは救急車を呼んで病院に連れて行こうとしたときにも、病院に行くことに抵抗して救急隊員を手こずらせたそうだ。

入院したお陰で、介護認定もできて2級と判定されたし髪も短く切ることができて、家にいるよりずいぶん安心できたという。

病気の方もは回復していったが、認知症の方がますます進んでいってしまった。

一人暮らしができる状態ではなかったのだが、退院して家に帰りたいとずっと言っていたそうだ。


肺炎の方は回復したので、認知症に関わる専門の病院に転院するときにには大変なことだったという。

入院先の病院の受付で大騒ぎになって、数人かかって看護師さんが何とか本人を入院させてくれた。

それからはMさんは病院に支払い等の用事で行っても、本人と面会がしづらくなってしまった。

面会すると騒動を起こす可能性があったからだ。

ただ、亡くなる一週間前に本人の妹とMさんは面会に行くことができた。

その時は元気そうだったし、妹さんは看護師でありその見立てもしばらくは大丈夫と言うことだった。

ところが一週間後の朝に突然危篤の電話があって、Mさん夫婦は駆けつけたが間に合わなかった。

昨年の八月に入院して亡くなったのは今年の七月で一年も持たなかった。

歳は90歳ほどなので決して若かったわけではないが、コロナ以来の周りとの関わり方に悔いが残った。

本人の息子夫婦とも一度会っただけだし、孫とも一度も会っていなかった。


もし、コロナで家に引き籠もらなかったこんなことにはなっていなかっただろうが、問題はMさんの母親が娘の言うことを全く聞かなかったことにある。

確かに家に一人でいて気楽に暮らすことの方が健康な人もいるだろう。

そういう人を無理に連れ出す必要はないと思うが、はたして本当に大丈夫なのだろうか。

私の近親者はずっと引き籠もって最近は一人暮らしだったのだが、この五月に70歳の若さでなくなってしまった。

急なことで亡くなっているのが発見されたのは二日後だった。

まだ発見が早かったのは弁当を毎日業者に届けてもらっていたからだ。

一度、入院したことがあったが、その時の病院暮らしに懲りて、足の具合などが悪くても入院治療を行おうとはしなかった。

連絡を受けて対応したのはその人の弟だったが、救急車や警察が駆けつけて大変な騒動になってしまったようだ。


一人籠もり暮らしは確かに誰にも迷惑をかけなければ問題ないとは思うが、自分がもし亡くなったときのことを考えているかと言うことだ。

Mさんの母は娘さんが定期的に訪ねていることで孤独死は真逃れた。

しかし、終活を行っていなかったので、残された親族で家を片付けるのは大変で、結局は業者に高額な費用を払って大半をやってもらわねばならなかった。

そして、年金などをしっかり貯金していたので、親族への金銭的な負担も無く、遠くに住む跡取りの息子夫婦に多くの金銭を残すことができた。

一人籠もり暮らしを自ら望んでする人は、万一に備えて終活を行っておく必要があるだろう。

高齢者が新たにアパートなどを借りることができないのがこういう孤独死との関連だという。

もし、貯金が無い場合は周りに大変な迷惑と負担を強いることになる。

お一人様で気楽に暮らす人は自分の死に対する覚悟と周りへの配慮は欠かせないと思う。


かつて奄美の与路島では、感染症の病気になって覚悟を決めたときには、自ら海岸のアダンの林の中で死を迎えたという。

京都でも古くは亡くなる前に墓場に持って行かれていたことは有名である。

姥捨て山の伝説は至る所にあるが、実際は覚悟を決めて出小屋などでひっそり暮らして死を迎えるのが多かったようだ。

「死」や「老い」は周りに迷惑をかけるものだから、覚悟せねばならない貧しい時代もあった。

近代以前は亡くなった人の遺物は川に流してそれを拾って活用する人もいたほど貧しい地域もあった。

だから、与路島では死に行く人に家を貸しても、産婦には家を貸すなと言われた。

今の時代は死者の持ち物を当てにする人などいない、遺物の片付けに労力と金銭がかなり必要となる。

周りのアドバイスや子どもの言うことを聞かないのであれば、それなりの覚悟と準備が必要だということだ。

おそらく、ラジオに投書した人は覚悟と準備ができているとは思う。

しかし、現実にはそういう覚悟と準備ができていないまま一人籠もり暮らしをする人が多くいることも事実だと思う。

近年は若い人でも孤独死を考えて、ネットなどで業者に依頼して対策を行っている人もいるという。

一人籠もり暮らしを正当化することができるのは覚悟と準備ができている人で、お一人様と気楽に言えるのは資産を多く持っている人だけだろう。

また、そのお一人様は決して家に籠もるような危険を冒してはいないように思える。




2025年7月24日木曜日

トヨッさんとコウノトリ

 近所で仲良くしてもらった人がいた。

私より一回り上の人で、他の村から婿入りしてきた人である。

私は家族と村に転入してきたので、男性では婿入りした人の方が気安かった。

どうしても村育ちの人は、昔話をよくするのでそこで育っていない者はついて行けない同じ立場だからだ。

トヨッさんとは趣味が重なるところも多くて、一緒に海に行って魚介類を潜ってとったり、たまに誘われて家に行ったりしていた。

彼は必ず家でなる柿をいっぱいくれたので、お返しに私の作ったサツマイモなどの作物をあげたりした。

村作業や村行事では話す機会も多く、彼のセミプロの腕前の写真のことが多かったが、写真を通してよく勉強していて、教えられることが多かった。


例えばジャコウアゲハが近くで見られることも教えてもらったし、珍しい昆虫の写真から鳥の写真まで色々と見せてもらった。

ただ、私は自分の研究で手一杯だったので、深い関心を抱くことは無かった。

鉄道に関しては、彼は撮り鉄で私は乗り鉄という大きな違いがあった。

彼は運行される車両や走行時の背景が重要だったが、鈍行や夜行に乗って過ごすことが好きだった私は関心はわかなかった。

関心も持ち方は違うことが多かったが話題に事欠かなかった。

そんな中で一番の話題はコウノトリのことだった。


トヨッさんは初めて上郡の高田地区にコウノトリが来てからずっと写真を撮り続けていた。

初めて見つかったのが2012年頃だったからかれこれ13年も続いていた。

ただ、最初1羽しか来なくて、年によっては2羽になったり、ちょっと立ち寄ったりするだけの年もあった。

コウノトリを見かけると必ず望遠カメラを片手に愛車に乗って出かけていた。

彼は10年ほど前から癌を患い、それを私が本人から聞いた時にはステージ4の段階で、薬事治療を続けていた。

村作業も調子の良いときには出てきていたが、悪いときには奥さんが出てきていた。

それでも、コウノトリがやってくると元気になって、いつものように愛車で出かけるので、私はコウノトリがトヨッさんの命を支えていると思っていた。


そんな彼も癌には勝てずに、この5月に亡くなってしまった。

やっとコウノトリが設置された鉄塔に営巣して、抱卵している頃だった。

彼は旅立ってしまったが、コウノトリのヒナはちゃんとかえって、今も3羽とも元気で田んぼの中で餌を探している。

田んぼの中を犬と散歩をしていると、たまに白い車に出会うことがあるのだが、いつものようにトヨッさんと思ってしまう。

散歩の時に撮影する彼に出会っては、挨拶したり話をすることが多かったからだ。

散歩の途中でトヨッさんを見かけて元気であることを確認してもいた。

今はコウノトリの姿を見ると彼のことを思い出す。


トヨッさんが亡くなったすぐ後で、こうして新しいコウノトリの命が誕生したことになにか因縁めいたことを感じる。

人の命は子や孫に普通は繋がっていくのであり、彼にも孫は確かにいる。

しかし、遠く離れて滅多に会うことのできない孫よりも、毎年やって来たコウノトリをずっと気にかけていた。

人の命を単にDNAだけで繋がりを表すのは心貧しく感じる。

人はタマシイという言葉で、人以外の生き物やあらゆる物に対してもその繋がりを感じたり表現してきた。

そのタマシイの繋がりを感じられるのは、その人と関わりを持ってその人の心を汲むことができた場合だと思う。

その点で言えば、彼がコウノトリを思い続けていたのは、村の多くの人が知っている。

村だけでは無くて、上郡町でも上郡民報に掲載されたコウノトリの写真でも知られていた。

実は私のブログでも彼の写真を使わせてもらっていた。(鳥の楽園と愚犬騒動


彼は、時間を厭わずコウノトリの羽ばたいている姿など、素晴らしい一瞬を捉えていた。


私は村落調査では記録のために写真を撮り続けていたが、彼のような芸術作品とはかけ離れていて写真そのものにのめり込むことは無かった。

彼と違って、私は犬と散歩していてもコウノトリが気にせずに餌を探していること自体が嬉しく思い滅多に写真は撮らない。

それは彼が自分の命が限りあるものと常に思いながら、シャッターを切り続けていたのとはまるで違うのだろう。

私は今のところは、消えゆく自分の命を感じなくて済んでいる。

その分、命が消えた後に残されたタマシイをコウノトリの姿で感じ続けていたいと思っている。







2025年7月22日火曜日

心身を癒やしてくれる花や作物

 人が一番植物と話をしたがるのは花が咲いたときだと思う。

私は先日、やっとハイビスカスの花が咲いて「ありがとう」と小声で語りかけた。

ハイビスカスは学生時代の特別な思い出がこもった花で、買ってきてから5年間も咲き続けている。

去年の冬には思い切って刈り込んだ。

枝葉が茂りすぎて、部屋の中で冬を越させるのに邪魔になってきたからだ。

ネットで調べると越冬させるのに半分ほどにした方が良いとあったので試してみた。

貧弱になった上に、葉が全部落ちてしまったので、今年は咲くか不安だった。

ようやく葉も多く茂りだして、やっと一輪咲いたのだった。

私は多くの鉢物を育てているが、このハイビスカスとガジュマル、ソテツはかつて村落調査で通い続けた奄美を家で再現して懐かしんで癒やされている。


残念ながら今年は畑が忙しかったので、ひまわりなどの夏の花を植えていない。

そのかわり、畑ではいろんな花が咲いて関わりが多くなる。

一番気がかりなのはズッキーニの黄色い花だが、雌花が咲くと必ず受粉させてやらねばならない。

ところが今年は雄花ばかりが咲いて、雌花は咲かずに腐ってしまう。

たぶん、雨が少ないので水不足だからだと思う。

近所の知り合いはキュウリがそんなふうになってとれないという。

私はキュウリにはしっかり水をあげていたので、たくさんなっているがズッキーニへの水やりはいい加減だったのが悪かったらしい。

その後、水やりをしっかりしても改善しなかったが、寒冷紗をかけてやると改善してきた。

どうも、高温が応えていたらしい。


トマトの花はみすぼらしいのだが、オクラの花は飾りたいくらい美しい。

オクラも水不足で生長が悪いのだが、30cmほどの丈でも花を咲かせて実をつけてくれた。

オクラは毎朝納豆に生で刻んで入れるので、我が家には欠かせない野菜だ。

ほかに咲いているのはカボチャなのだが、こちらも雄花ばかり咲いているように思う。

カボチャは受粉しなくても良いので、花に気をとられることはない。

もう時期は過ぎたが、かわいそうな花はジャガイモやニンニクで、実をつけたりすると栄養をとられるので取ってしまう。

ジャガイモはかわいらしくて、色も紫と黄色できれいなのだが、見つけると取るしかないのだ。


花以外にも水をあげたりして、関わりが多いのはサツマイモや高黍だ。

サツマイモも水が少ない上に、雑草が茂ってしまったので、少々貧相なのでせっせと水をあげた。

水や液肥をあげることも、作物とのコミュニケーションになる。

ポリマルチをすれば楽なのだが、酷暑では使わない方が良いと思って使っていない。

ポリマルチを使って作っている近所の人はサツマイモでさえ失敗している。

黒色のポリマルチは草押さえになって便利なのだが、後始末が面倒だし、このところの酷暑には作物には悪いように思える。

私は草マルチを基本に、作物に影響が少なそうなところの雑草は抜かずに、大きくなりすぎたら刈るだけにしている。

雑草を極端に嫌って根絶やしにしてしまう人も近隣では多いが、温暖化の時代は雑草を利用する方が良いように思う。

酷暑で地面の温度が上がりすぎるので、むき出しの土にしない方が良いように思うからだ。

またこのところ、作物を害虫から守ってくれていたカエルやカマキリ、クモが減ってしまって、ネットで防除するしか無くなっている。

適度な雑草はそういう生き物にとっても大切な住処にもなるようだ。


先日も都会育ちの娘の婿が、細やかな家庭菜園をしているというので、話題にして話をすることができた。

私は「野菜作りは癒やされるやろ?」と聞くと頷いていた。

娘夫婦は共稼ぎで二人ともデスクワークである。

心身の健康のためにはちょっとした菜園も役に立つ。

そういえば亡くなった森永卓郎さんもずっと続けていた。

ペットが飼えない人も、家庭菜園なら作物と触れ合って癒やされると思う。

庭が無ければプランターで室内でも栽培できる。

できれば、上郡のような過疎地には週末休日に楽しめる市民農園がもっと増えれば良いと思う。





2025年7月19日土曜日

ブランドとしての学校と学歴

 堀江貴文が東洋大学をFランクの大学とネットで言ったのが物議を醸している。

確か、彼は東大の文化人類学の船曳さんのゼミ生だったように記憶している。

結局、東大は中退したのだから学歴は高卒なのだが、在学中に起業して東大合格ブランドで十分で学歴を必要としなかったのだろう。

私の同級生は多く東大に行ったがみんな卒業しているのは、卒業して学歴を活かす必要があったからだろう。


一方で、早稲田大学に行った同級生や近縁者、知人にはどういうわけか中退が多い。

同級生などは指定校を利用して入学したのに中退したものだから、指定校を取り消されてしまった。

彼は入学した学科と全く関係の無い家業を継いで立派に社長を務めて、商工会の会長になったりもした。

近縁者などは九州大学を合格したのに「都落ちだと」すぐ辞めて、早稲田大学に入り直したが、結局中退して専攻学科と無関係の会社勤務をしている。

二人とも、中退なので高卒なのだが、仕事に学歴は必要なく早大入学ブランドで十分だったのだ。


そもそも、私たちの同世代の女子大生は、結婚すると退職してしまうことが多かったので、教師になった人以外はあまり学歴を活かしていない。

当時女性は就職よりも結婚やそれに伴う子どもの教育に大学ブランドや経験を使っていたようにも思える。

家内は結婚のことは考えず、女性でも一生働ける教師を志して大学に入り、教育学部で小学校や障害児教育の免許を取得した。

しかし、採用試験で不合格になって、結婚するまで臨時の市の事務職員を務めた後は結婚後にしばらくして専業主婦となった。

子どもが高校を卒業してから臨時職員として学童の仕事に就いたが、当時は教員免許も必要でやっと大学の資格を活かせた。

ただし、現在は学童の指導員は教員免許も大卒資格を必ずしも必要としていない。


私自身も学歴よりも大学のブランドが欲しかった。

夢はミュージシャンだったので、早大のブランドでプロになったら中退しても良いと思ったが合格さえできなかった。

南山大学は中部圏ではそこそこのブランドだが、全国的にはほとんど無名だったし、名古屋ではバンド仲間も作れなかったのでプロは諦めた。

たまたま、専攻した人類学科と関連する村落調査サークルの活動にのめり込んで、大学院を志した。

ただし、研究者になれる自信も無かったので、教員免許だけはとっておいた。

その当時は、研究者になるブランドとして東京都立大学大学院の入学を果たしたのだが、実力が伴わず博士課程には進学できなかったので研究者のブランドにならなかった。

ありがたいことに、この大学院修士修了のブランドと教員の1級免許は教員採用に少しは役に立ったように思える。

当時は公立の高校教員も人気があって、特に社会科は多くの大学生が免許を持っていたのでなりづらかった。

高校時代の同級生の中には京大や九大を出たのに高校社会科教員になった者もいた。

だから、私は学歴ロンダリングで教師になれたと言っても良いだろうと思う。

ただし、地方では大卒は身近に働いている者が少ないので、大学ブランドは公務員は別として、評価の対象になりづらい。

むしろ、卒業した高校のブランドが活かされるので、当時は西播では有名な私学を卒業したブランドを、私は私的に活かすこともできたことも確かだ。

大学にしろ高校にしろ、そこに入るのに学力やスポーツの特別な能力があったと保障されれば良いブランドとして活きる。


しかし、教師を続けながらも、大学院時代に抱いた研究者になる夢は諦めきれなかった。

夢を果たすという意味では、結局は学校ブランドも学歴も活かせてはいない。

それでも退職して年金暮らしの今は、学歴を基に働いた教員時代の給料は活かされてはいる。

政治家は昔は田中角栄のように小学校しか出ていない総理大臣もいたのだが、学校や学歴は立派なブランドとして使われている。

最近は芸能界でも大学のブランドを売り物にしているのだから、大きい意味を持つのだろう。

その場合の多くは、大学での専門が活かされていないので、大学を卒業した学歴より、入学したことのブランドが活かされている。

ただし、政治家は卒業による学歴も重要な能力保障になっている。

だから、今の東京都知事は関西学院入学ブランドは中退したので使えず、それを表にあまり出さないのだろう。


反面、学歴は必ずしもプラスにならないこともある。

公務員採用には高卒資格の枠があって、大卒なのに高卒と偽って採用されて辞めさせられてしまった例もあった。

一流企業なども、大卒で入れるのは東大・京大レベルでも、高卒なら現場の労働者として採用されたりする。

介護施設でも大卒で採用されると給料は高いが、ケアマネージャーなどの役割を果たすことを求められるので、高卒の方が気が楽なところがある。

また、日本では修士や博士の学位は研究職にならねば、役に立たないどころか邪魔になることもある。

ある国立大学の博士学位を取ったばかりに、専門性が限られて採用が少なく、コンビニの店長をしなければならなくなった話も聞いた。


今回の静岡県伊東市の市長の学歴詐称問題は、東洋大学ブランドの問題だったのだろう。

上郡町長選挙では落選はしたが、早大中退とはっきり名乗って選挙戦を戦った候補もいたし、今回の参議院選挙にも早大中退で立候補した人もいる。

伊東市市長選では東洋大学中退ではブランド力が弱かったのだろう。

その点では、東京都知事も関学中退ではブランドが弱いので、海外大学のブランド利用を上手く使ったのだと思う。

政治家の実力は分かりづらいし、大学などを通した人脈とも関連するので、ブランドや学歴が重要とされるのだろうと思う。

ただ、そのブランドを使ったことで却って大学のブランドを下げてしまった総理大臣もいたのも皮肉なことだ。











2025年7月16日水曜日

温暖化時代の水活用

35年前に上郡に引っ越した当初は、これほど暑さに苦しむことは無く、夜などは涼しくてエアコンなどかけることは無かった。 

近年では暑さが厳しくなって、去年まで水道水を使ったミストで二階のベランダや庭の植木を暑さから守っていた。

一日中ミストはかけっぱなしにしておいたので、しっかりと朝にはベランダや庭は濡れていた。

そのかわり、水道代が二ケ月で1万五千円を超えてしまったが、もし、下水も設置したいたらこんな額では済まなかった。

我が家は建築当時の合併浄化槽のままであるので、それだけの費用で済んでいたのだ。

東京ならいざ知らず、こんな田舎でこんな水道代は高すぎるし、普段よりもあまり多いので検査員に漏水を疑われた。

これからも暑い夏は続くと思われるし、いずれ下水施設に繋がなければならないので、安上がりになる暑さ対策を考えた。


まず、水道水から屋根の樋からの雨水を利用しようと思って、300リットルの貯水タンクを買った。

これは家にある軽トラの最大積載重量が350kgなので、それを基準にしたのだが、専業農家の人は500リットルタンクで水を運ぶのが普通だと後で聞いた。

一度、雨がしっかり降ってタンクは一杯になったが、ミストは一日しか持たなかった。

その予想はついていたので、家の近くを流れる水田への用水路を使うことにしていた。

いったん貯めたタンクからのミストは電気ポンプを使い、用水路からタンクへの水の注入はエンジンポンプを使っている。

毎日ミストを使うには最低二日に一回はエンジンポンプでタンクを満たさねばならなくなった。

そして、やはり心配していたことが起こった。

水道水や雨水と違って用水路の水はゴミが多いので、ミストが目詰まりを起こしてしまった。

何が良いか考えているときに、ホームセンターでタカギの散水チューブを見つけた。

さっそく、庭で電気ポンプを使って試したが、ミストと違って数時間もすればタンクは空になってしまった。

毎日エンジンポンプで貯水タンクを満たすのは手間なことになる。


一方、用水路からの畑の水やりにも当初はエンジンポンプを使っていた。

しかし、涼しい早朝にエンジン音を響かせると近所迷惑になる。

そこで、長い電気リールコードを使って、電動ポンプを使って散水することにした。

実は家の前にも用水路はあるが、道路をまたがずに電気コードやホースをひくには40mほど離れた場所の用水路を利用せねばならない。

散水チューブでは時間がかかりすぎるので、スプリンクラーを使って水を撒くことにした。

そして、貯水タンクに水を貯めるのにも、電動ポンプを使い始めた。

その散水チューブは庭の植木や鉢物の水やりに使っていたが、二階に持ってあげてベランダでもミスト代わりに使い始めた。

というのも、二階のベランダには鉢植えした枇杷やガジュマルもあるし、暑さ対策にもなる。

これで、ミストの代用とすることができた。


初期投資としては、去年の夏場の水道代ほどにはなったが、水道代をそれほど気にしなくて済む。

また、電動ポンプを多く使うことで、ガソリン代も節約することができる。

電気代は少し高くなるだろうが、水道代よりは安いと思う。

こういう農業用水での暑さ対策ができるのは、水田地帯に住んでいるからだろう。

ただ、街でも綺麗な水が溝に流れていたり、井戸のある家では同じことができると思う。

また、知り合いの農家では風呂の水を利用している人もいるので、雨水と風呂の水の両方を利用すれば良いかもしれない。


この散水のお陰で家の周りの植物や畑の作物もなんとか元気である。

ただ、雑草も同じく元気なので、その対策もしなくてはならない。

雑草が元気なせいか、キリギリスが元気に鳴いているし、コウノトリも餌取りに来てくれる。

今後は動力源となる電気も太陽光を用いて発電できたらとも思っているが、現段階ではコスト面で厳しい。


かつて、江戸も大阪も運河の水が張り巡らされていたようだ。

それを埋め立ててしまったことも、都市部の温暖化の原因だろう。

人間が汗で身体を冷やすように、街も運河や水路で冷やすことを考える必要があるように思う。

雪国では雪を溶かす水を道路に撒いているのだから、夏に街でも打ち水代わりの水をもっと流しても良さそうだ。

エアコンの電力使用量を減らせば、原子力に頼る電気からの脱皮を図るための対策の一つとなるようにも思える。

また、最近は駐車場に芝生とコンクリートを組み合わせて、アスファルトより涼しくしているところもある。

しかし、このところの暑さと水不足で枯れてしまっているのも見かける。

猛烈に暑いアスファルトの駐車場を芝生や土を使ったものに変えるのに水対策も必要だろう。

我が家の暑さ対策も家の周りの生け垣や土に覆われた庭が重要なところだ。

アスファルトやコンクリートのジャングルからの転換にも水が重要なポイントだろう。


2025年7月14日月曜日

屋内プールでの避暑運動

 かつて、私は高校で水泳部の顧問をしていたが、夏場の練習は暑さとの戦いだった。

近隣の全国大会に出場するような中学校では、夏休みなどは早朝の6時から練習をしていた。

高校では生徒が遠くから通ってきたり、県大付属のように寮生もいたので、そういう練習は不可能だった。

だから、練習後に大きなブルーシートで水面を覆って水温上昇を防いではいたが、昼近くなると水温がどんどん上がって泳ぐのが辛くなる。

そこで、冷たい水道水を足しながら泳がせたりしていた。


水泳部の練習はまだ水の中が殆どだから良いのだが、校内水泳大会などはプールサイドで観戦しなくてはならない。

私が勤めていた肢体不自由の特別支援学校では、屋外プールで校内水泳大会が毎年行われていた。

先日も、プールサイドでお尻をやけどしたニュースがあったが、校内水泳大会では常にプールの水をくみ上げたりして濡らしておくのも大変な労力だった。

また、今は屋外プールでのレースは殆ど無くなったが、当時は西播大会や滋賀県で行われた近畿大会では屋外プールで行われていた。

こちらは審判や招集といった競技役員が大変な苦労があった。

私は西播大会ではスターターも勤めたことがあったが、暑さと緊張でヘロヘロになった。


退職してからはこういう水泳部の顧問としての仕事が無くなって、もっぱら自分の健康と趣味を兼ねて週に3回ほど泳いでいる。

上郡と相生の市民プールで泳いでいるのだが、もっぱら泳いでいる人が少ない都合の良い時間で泳いでいた。

上郡では小学生が午後1時から2時半まで授業で利用していたので、午後からはそれが終わった時間で泳いだ。

7月に入って、小学生の利用も無くなったので、その一番暑くて利用する人の少ないその時間帯で泳ぐことにした。

この時間帯は、家で仕事をするときにはエアコンを付けねばならないので、プールに行くことによって電気代の節約にもなる。

屋内プールの水は屋外プールのような高い温度にはならないので、快適に泳げるのが良い。


この時間帯で快適に運動ができるのは屋内プールだけだと思う。

ところが、この時間帯に外でランニングをしている人がいる。

おそらく、消防署の職員だったり、自衛隊員が自主訓練をしているのだろうと思っていたが、身近な人にもいた。

毎月通っている医院の先生だ。

私はそれを聞いて思わず「自殺行為やで!」と言ってしまった。

この先生はフルマラソンどころか、100kmマラソンにも出る強者だ。

とても、ついて行けないと思ったし、自分は水泳の趣味があって良かったと思った。

ただ、かつて人類が乾燥したアフリカで狩猟採集をしていた頃は、そういうことができて当たり前だったのかもしれない。

ただ、私は海洋適応した人類の末裔として、涼しい屋内プールでいにしえの追い込み漁の疑似体験をする方が良い。






2025年7月12日土曜日

今もまだ動いてる、ゼンマイ式の柱時計

近くに住んでいた家内の母が亡くなり、遺品を整理した。

跡取りの家内の弟は遠くの関東圏で暮らしているし、子どももいなくて盆正月以外の関わりが殆ど無かったので、家への愛着が乏しい。

むしろ、家内や私は子どもを通して家内の両親とは深い関わりがあった。

その一方で、私自身が跡取りの長男で、近くに住む自分自身の両親との関わりがそれ以上にあって、両親の介護、そして葬式から遺品の整理に追われ続けていた。

両親の実家との関わりも強かった私たちに対して、それほどでもなかった家内の跡取りの弟夫婦は遺品に対してもクールなものだった。

何でも簡単に処分しようとしていた。

私は家内の実家には想い出の品はあまりないが、今後使えそうな物は持って帰ることにした。

特に、納屋に放置されていた農業資材や自転車、そして吉岡鍋は欲しいと思って持って帰った。

家内はさすがに緊密に関わっていたので、高価な敷物や食器など価値を知っていたので、捨てられようとするところを持って帰ってきた。

そんな中で、意外なことだったのだが大切に使い続けていたゼンマイ式柱時計を持って帰ってきた。

家内は昔のことに拘りをあまり持たない性格で、せっかく父親が撮ってくれていた幼い頃の写真さえ持って帰ろうともしなかった。


この柱時計は一度壊れたときに、家内の母親は広島県の大崎下島が故郷だったので、同じ島の御手洗で有名な時計屋「新光時計店」さんに直してもらった物である。

見栄えは大したことが無いのだが、わざわざ時間と労力、費用をつぎ込んで、ちゃんと動かし続けてきた価値ある時計だ。

ただ、ちょっとした難点は一時間毎だけでなく30分にボーンと鐘をならすことである。

家内は自分が寝ている部屋のピアノの上に置いたが眠られなくなって、持って帰った夜のうちに居間に持ち込んできた。


私自身はあまり昔のボーンボーン時計には愛着が無い。

私は中学受験したときに不眠症になり、寝間にあった柱時計の音が気になって余計に眠られなくなった。

明け方3時の鐘が鳴っても眠られなくて、情けなかったことを憶えている。

家内が言うにはその柱時計は、家内に時計の見方を教えるために親が買った物だというので、60年以上前の物である。

私の家にあったのは電池式でとっくに処分していたのだが、ゼンマイ式柱時計は月に一度ゼンマイの巻かねばならない年代物だ。

家内は父が亡くなった後は、老いた母に代わって高い位置に設置した柱時計のゼンマイを、実家に戻った際に忘れずに巻いていた。

このところは、その母は入院して家にいなかったので、ゼンマイも巻かずに止まっていた。

それをわざわざ持って帰って復活させたのだった。


我が家の居間にはすでに立派な電波時計があって、自動で時刻を合わせてくれるし、温度や湿度も知らせてくれている。

その時計から少し離れた壁に私はネジ釘を使って設置した。

思ったよりも正確に時間を刻み、時刻をボーボーンとその時刻の回数で知らせてくれるし、30分になっても分かる。

家内は子どもの頃にテレビやラジオからの音楽を直接録音していたときに、この音に邪魔された話をしていた。

母親が時計の見方を教えるために「今何時?」とわざと聞いてきたのは共通していて、腕を時計の針の形に上げて知らせたことも共通していた。


まるで人の心臓の鼓動のように、「チクタク」と音が鳴り続けていて、始めは耳障りにもなったが聞こえて当たり前になった。

時間を知らせる鐘のおかげで時刻を以前よりもしっかり意識するようにもなったと思う。

何でも新しくて便利な物に買い換えてしまう時代に、あえて古くて手がかかる物を使い続けることも愉快だとも思った。

骨董品のように飾っておくのではなく、生活の中で一緒に生き続けていくものだ。

日本人はまだアニミズムの信仰が残っているともいわれているが、道具や機械に愛着を持ってまるで魂があるかのように扱う。

AIの時代になっても、道具や機械と会話をし出したので、ネオアニミズムの世界に生きていくかもしれない。

そして、何よりも大切にしてきたものには、過去の想い出も一緒に生き続けている。

私の両親は墓をもうけずお寺で永代供養して貰い、仏壇と遺影を実家から移してきて、座敷で供養し続けている。

そういう供養としての墓や仏壇の位牌、遺影などとは関わり方がまるで違う。

家内の両親や私たち家族の古い記憶が、さりげなく日常生活の中にまぎれこんで、一緒に生き続けるのがボーンボーン時計である。

「大きなのっぽの古時計」に近づくためには、原曲では100年ではなくて90年なので、その歳まで家内はがんばって生きねばならない。

家内が自分自身の誕生と結婚を語る孫がまだいないのが残念だが、息子と娘に語ることはできる。

原曲では柱時計を買ってきた人は登場しないが、小さな柱時計にはちゃんと買ってきた両親も語っていける。

自慢できるほど立派では無いのだが、これだけの年数を動き続けた道具は他に無くてかけがえのないものだ。

  




2025年7月10日木曜日

汗は冷たいから濡れていたい

 私は森高千里の「雨」が好きで、時々一人カラオケで雨の日なんかに歌っている。

だけどこのところ梅雨が早々と明けてしまい、雨がほとんど降らなくて歌う気になれない。


 雨は冷たいけど 濡れていたいの

 あなたのぬくもりを 流すから


実はこのところ早朝から畑仕事をしているが、ずっと空調服を着ている。

空調服は自分の汗で体を冷やす仕組みになっているので、汗をかくまではむしろ暑い。

だから、早朝に着た空調服用のアンダーシャツは汗で濡れているが、朝食前に脱いだのを朝食後にもう一度着て犬の散歩に出かける。

せっかく暑いおもいをしてかいた汗を再利用するためだ。

このところは、雨が降らないので犬の散歩後も水やりを中心とした農作業をしている。


 汗は冷たいけど 濡れていたいの

 からだのぬくもりを 冷やすから


近所の人の中には蚊に刺されなくて、半袖Tシャツで農作業をしている人もいる。

私は空調服が半袖の時は、防虫ネットを着るし。頭も防虫ネットで覆っている。

今日はさすがに空調服を着ていても、熱く苦しくなったので防虫ネットは脱いでしまった。

実は蚊も陽が照って暑くなるといなくなるが、念のために着ていただけだった。

涼しい早朝や夕方が一番蚊に刺されやすい。

近所の人が涼しいのにそういう時間帯に農作業をしていないのは、蚊の対策が面倒であることも理由である。


空調服は今では夏の必需品になっている。

しかし、近所の人で農作業や村作業で使っている人はあまりいない。

空調服は高価であって、金ににもならない畑作業や村作業にはもったいないからだろう。

しかし、熱中症になったり、脳梗塞や心臓発作を起こして死んだら、元も子もない。

私の父は夏の暑い中で畑仕事を続けて脳梗塞になったことが原因となり亡くなった。

私たちも子供の頃は、ソフトボールや剣道の練習中に水を飲むのが禁じられていたが、父は畑仕事でも水を飲んでいなかった。

昔は、今ほど熱くなくて、水分補給をしなくてもなんとかなった。

しかし、温暖化が進んで簡単に35℃を超えてしまう現代では命取りになってしまう。


雨が降らないので畑の土はからからに乾いている。

それなのに雑草だけは繁茂しているので、水をやりながら草を刈ったり抜いたりしなければならない。

そして、草マルチにするための枯れ草を集めねばならない。

午前10時くらいになると、足がふらつくほど体力を消耗しているので、作業を打ち切っている。

本当はこまめに水分補給をしなければならないことはわかっている。

水を持ち歩くのが面倒なのだ。


家に戻ってずぶ濡れに濡れたアンダーシャツを脱いで、ほとんど水のシャワーを浴びる。

そして、水分補給をしっかりとするのだ。

昼食時までにおなかの中は水分で満たされて、食欲はあまりなくなっている。

そういうときに効果があるのはお手製の野菜シチューで、冷蔵後に冷やしたのを飲んでいる。

自家製のタマネギ、空豆を中心に、にんじんやニンニクを入れてソイリッチで作り置きしたものだ。

これを飲むと元気が出る。

夜に寝る前も、水分補給と言い訳しながら、焼酎のサワーを飲んでいる。


今朝(7/8)、雨はもう上がってしまっていたけど、待ちどうしかった雨が降ってかなり涼しい。

今日は水やりをしなくて済む。

昔の人が真剣に雨乞いをしたことがよくわかる。

作物だけでなく、雑草も元気づけてしまったけど、待ちに待った雨だ。

東京都心のように蚊がいなかったら、雨の中で空調服も脱いで濡れるに任せて濡れたいと思っただろう。

雨の歌は別れや悲しみを歌うことが多いが、雨上がりの夜明けは充電式草刈り機の音も軽快だ。

まさしく

 

  バッテリーはびんびんだぜ

  いつものようにキメて (草を)ブッ飛ばそうぜ


と草を刈りながら歌いたくなった。

2025年7月7日月曜日

神たる子ども

 私は日本本土や琉球でよく7歳までの子どもはカミという古来の信仰は、医療が発達して無くて死んでしまうことが多いからという理由で捉えていた。

確かにそう思っていないと、子どもの死を受け入れられないし、死んでもすぐに生まれ変わるということで気持ちが安らぐ。

死産児や生まれてまもなく死んだ子どもは、普通は葬式をしたり墓に入れたりしなかった。

奄美などは古くは家の軒下に埋めることによって、母胎にまた生まれ変わるとされた。


一方、貧しい親にとっては望まぬ子どもを間引くのに気休めとなっていたようだ。

自分たちと同じ人として殺してしまうことは、罪の意識を背負うことになる。

カミとしてあの世に帰ってもらうと思った方が気が楽になるだろう。

現代でも流産したりや堕胎が行われた時にも、水子の霊として別格に扱うのもそれに近いのだろうと思う。

ともかく、近代化される前は子どもは死と隣り合わせであったが故に、神霊的な存在と思われていたと解釈していた。


しかし、このごろ私はこの解釈で見過ごされていた意味を見いだしている。

子どもは親にとってもその祖父母や親族にとっても、生きがいとなる大切な存在である。

子どもを育てるために必死に働き、その成長で癒やされていく。

場合によって子どものためなら死んでも良いとさえ思う。

これはヒトだけでなく、多くの動物に共通する気持ちだろう。

育児は母親を中心に行われるが、ヒトは特に父親や祖父母、親戚だけでなく、地域の住民も関わっていく。

江戸時代では捨て子も必ず地域の住民が育てるものだった。

御利益を得るカミ様や崇拝する宗教の信仰心とは違って、自然に生まれてくる心情である。

それこそ、子どもは神様となぞられる理由でもあろう。


子どもがどうしてもできない夫婦でも、養子縁組をして子育てはできる。

子どもは老後の面倒を見てくれることを期待するよりも、子育てを通しての生きがいを目的としてできるものだ。

職場で知り合った人の中には、乳児院から引き取った子どもを養子として二人も育てている人がいる。

その人は夫婦に子どもができなかったことから、夫婦の共通の生きがいとして育てていると聞いた。

私の身内には子どもができなかったり、つくらない夫婦もいるが、子育てそのものに関心が薄くて仕事を生きがいにしてしまっている。

現代では金銭を得る仕事が子どもに代わる神様になっているのかもしれない。

なぜなら、金銭こそ欲望を満たしてくれるし、一番将来を保障してくれていると信じているからだ。

私は老いた世代で高級車に乗って羽振りのいい人を見ても羨ましいとは思わない。

本当に羨ましいと思うのは、軽自動車の助手席に可愛い孫を乗せて走っているおじいさんを見かけたときだ。

金銭を誇る人に魅力は感じないし、却って不安を感じる。

それは自然災害や戦争だけで無く、健康を害したり老いてしまったときに、金銭が単なる幻想だった気がつくことが分かっているからだ。

私の近しい人に、病気で入院したら個室に入るので倹約してお金を多く貯めた人がいるが、結局入院しても個室に入らず多額の貯金を残して亡くなった人がいる。

その多額の貯金はその人の面倒をほとんど見ず、自分は子育てもしなかった息子に渡ることとなってている。


少子化の問題は、子育ての親の負担の問題として解決しようとしている。

しかし、金銭を得る仕事を絶対的な神様のように信仰している人にとって、子どもはたいした価値も無いだろう。

国家は学校教育や政策によってそういう人材をも多く育成してきた。

そして、現代の文明や文化が讃えてきたのは偉業をなした英雄であり、貧しくても子育てを懸命に行ってきた人ではない。

人類の幸福を生むとした開発や発展が却って環境を破壊し、子どもの未来を奪ってきている。

今の時代こそ子どもは我々に必要な神様として、その存在に関わる環境問題にも取り組まねばならないと思う。

狂った政治屋が世界を軍事力や経済力で支配しようとする今こそ、子どもの未来を中心に据えねばならないと思う。

宗教やイデオロギーを超えて、必要とされる生きとし生けるものの姿勢だと思う。




2025年7月4日金曜日

母に捧げるレクリエム

 早いもので母が亡くなってから2年が経とうとしている。

昨年の一周忌は午後から赤穂のお寺での法要の後で、海岸近くの赤穂ハイツで会食を行った。

集まったのは子ども家族と一人の母の甥だけだった。

孫のお嫁さんが出産間近だったのでひ孫はひとりだけ来られなかったが、子ども夫婦や孫、ひ孫まで賑やかな会食となった。

今年の三回忌は午前中に同じ寺で法要をして、午後から去年と同じところで会食をすることになっていた。

本当は、会食しているときにカラオケがしたかった。

三回忌の法事にカラオケとは不謹慎に思うかもしれないが、母は歌が大好きで子どもの頃は歌手になるのを夢見ていた。

盆や正月になって子どもの家族が集まってくると、カラオケに行ってみんなで楽しむのが恒例だった。

今回の三回忌が終わると、次の七回忌まで今回のメンバーで集まることは無いだろう、そして次に集まるときには全員そろうことはまず無いと思った。

今回も大阪万博があったから、その観覧をかねて遠く東京から孫家族が来てくれた。

母の子ども夫婦と孫、ひ孫が全員集まることができる最後のチャンスと思ったので、母が好きだった歌をみんなで歌って偲ぼうと思った。

ただ、幼いひ孫の一人が大きな音が苦手だという理由で当初は無理だと言われたのだが、次男が母に対する思いを汲んでくれて賛成してくれた。

次男は遠く神奈川県の葉山から自家用車でドライブ旅行をかねて2泊3日でいつもやって来る。

当日は、早く帰らねばならないので会食後すぐに別の部屋を設定してもらうことに決めていた。


どこか部屋の一室を貸してもらえるのかと思ったら、海が一望できる展望ラウンジを使うことになった。

非常に眺めが良いのだが、他のお客さんは自由に入ることができるので、関係者以外に聴かせることにもなった。

私の家族は仕事があったり、カラオケが苦手だったりしたので、私以外は会食後には帰ってしまった。

大きな音が苦手なひ孫と両親は参加するのを危ぶまれていたが、ラウンジが広かったので距離が保たれて参加できた。

葉山まで帰る次男の弟が先鞭をつけた。

曲は西城秀樹の「ブルースカイブルー」だった。


  青空よ 心を伝えてよ
  悲しみは余りにも大きい
  青空よ 遠い人に伝えて
  さよならと

三回忌に相応しい歌を歌ってくれた。
おそらく、弟がこの曲を歌うのを初めて聴いたので、母の法事のために選んで練習していたのだろうと思う。
次に私はYou Raise me upの歌を母への感謝の意味を込めて歌った。

 I am strong   When I am on your shoulders You raise me up to more than I can be
  貴方の肩に身を預け 私は強くなれる   今以上の私に貴方が私を高めてくれる

あの世にいる母がこれからもきっと私に力を貸してくれると信じて歌った。


幼いひ孫たちが歌える歌をその母親(私の姪)が、エントリーしてくれた。
なつかしい「かもめの水兵さん」だった。
海が見えるラウンジなのでぴったりの歌で、幼くておしゃめなひ孫のかわいい声を聴くことができた。
大人の懐かしい歌と、子どもの童謡をまじえながらのカラオケは楽しいものとなった。
何よりも感動したのは、一番末の弟の若い娘のすばらしい声を聴くことができたことだ。

私にとって姪になるそのKちゃんは、どちらかというとおとなしくて、人とうまく関わることが苦手な子だった。
今は、神戸の方で一人暮らしをしながら、障害を持った児童の施設に勤務している。
その弟家族は両親の近くに住んでいたので、私の父母との関わりも深かった。
特に父はKちゃんをかわいがり、畑からの帰りに作物を届けることを理由にしてよく立ち寄っていたという。
彼女は最初、歌うのを嫌がって冗談半分で「なんぼくれる」と言って断ろうとしたので、「千円やるから、歌って」と私が追い込んだ。
そこで、彼女は一番得意なSuperflyの「愛をこめて花束」を熱唱してくれた。
私は感激のあまり、彼女に握手を求めた。
そして、本人は断りはしたが約束通り千円手渡した。
1万円あげても良いような歌だった。
今回の法事で私にとって一番の収穫は、彼女の歌を初めて聴くことができたことだと思った。

もう二度と、こんな風にみんなと一緒に歌う機会はないかもしれない。
亡き母が法事として与えてくれた素晴らしい時間を過ごすことができた。
できたら、Kちゃんの結婚に際してこういう機会ができたらとも思う。
本当は、私の娘の時もこういう場を設けたかったのだが、コロナの余波でできなかった。
母はひ孫の誕生を心待ちにしていたが、やはりコロナの影響で実際に会うことはできなかった。
私ら夫婦や末の弟夫婦以外は、認知症を患って尊厳を失ってしまった母を知らないから、元気で歌っていた頃を思い出してくれただろう。
私は幼い子どもが帰って行っていなくなってから、残った兄弟らと母を偲んで「愛燦々」を歌ったのだが、なぜか涙が止まらなかった。
きっと、私を通して母が喜びの涙を流していたのだろうと思う。





 









2025年7月2日水曜日

生きられない、お葬式

親戚の葬式に今年は早くも4回参列した。

いとこ、二人のオバ、義母である。

その中で、葬式の場に未成年の子どもがいたのは、一人の父方の叔母だけだった。

これまでは自分の両親や親戚の葬式には必ず子どもがいたのだが、このところ子どものいない葬式が続いている。

これも少子高齢化の影響だと言えばそれまでなのだが、これでは典礼会館CMのコピーである「生きる、お葬式」にはならない。

お葬式の対象となる死者同様に、参列者に死に行く未来の不安を吹き飛ばす子どもがいないからである。

形式だけが先行している今の葬式は、呪文のような読経を長時間我慢して聞くこと、そうして焼香して挨拶する儀式となっている。

そして何万円もした供花を一緒に灰になってもらうために、惜しげも無くお棺に入れてあげるのが唯一心を込める手段となっている。


家で葬式を行っていた頃は、通夜の段階で近所の人が手伝いに来てくれて、すべてまかないをやってくれていた。

それが仕出し弁当に変わり、そして葬儀場ですべてまかなわれることになった。

それによって、確かに近所の人も家族や親戚の負担も軽減されるが、人の死そのものが軽んじられるようになったようにも思う。

かつての葬式は、亡くなった人に対してだけでなく、残された遺族に対しての思いやりの場で有った。

長生きは良いことなのだが、喪主や子どもは現役でなくなったり、再雇用の身分であったりしている。

この場合は職場に対して遠慮が生まれて、現役の遺族は家族葬でするのが当たり前になる。

亡くなった人が高齢で一人暮らしだった場合も、近隣の関係が薄れてやはり家族葬となる。

職場や近隣と切り離されて、ごく親しい関係の人だけの寂しい葬式になることが多くなった。


家族の方も、故人が長生きして周りの家族に負担をかけ続けていた場合は、正直なところ肩の荷が下りてホットすることもある。

親の介護に関われなかった喪主は、その負担をかけた身内に葬式で詫びねばならないこともある。

以前なら長寿を全うして、紅白饅頭を配るところさえあった。

90歳くらい以上の長寿で亡くなった人に対しての敬意さえ薄れてしまった。

かつて元気だった頃の故人の記憶が薄れてしまい、亡くなる前の介護が困難だった頃の記憶だけが強調されてしまう。

長生きして手厚い介護を受けることは、かつて元気で近親者に尽くしていたことに対する感謝の気持ちさえ奪われてしまうことにもなっている。


ただ、葬式や法事に幼い子どもや孫が参列していると、葬式は別の意味を持ってくる。

命が受け継がれたことが実感でき、泣いたり騒いだりしている声の方が、読経の声よりもありがたく感じるのだ。

私の父母の葬式や法事にはいつも幼い子どもが加わっていたので、命が繋がった確認ができ、まさしく「生きる、お葬式」が実感できた。

ところが、そういう幼い子どもがいない場合は、いくら若い青年がいてもそれがあまり実感できるものではない。

私だけかもしれないが、亡くなった故人の魂がこういう幼い子どもなかで息づいていくように感じるからかもしれない。

本当に哀しい葬式とは幼い子どもの参列者がいない「生きられない、お葬式」であるように思える。







2025年6月30日月曜日

変の予感

 「変しい 変しい」は昔の映画「青い山脈」の有名な場面だが、「恋」という字を間違えて「変」と手紙に書いたのは単なる無知のせいでは無いという。

恋愛が禁じられていた時代背景がそこにあるらしい。

今の時代は恋愛よりも異変に関心が向かっている。

私は今回の米騒動に続く、今年の最も早い梅雨明けを「異変」と思ったので、安全地帯の「恋の予感」をもじったのだ。

ニュースでもこれから酷暑が続いて、水不足に襲われることも懸念されているが、逆に突如と大雨に襲われる危険もある。

破綻気候は既に食生活を脅かし、それが深刻化する予感がする。


一方、日本史では「乱」と同じようにクーデターを意味し、「変」は「本能寺の変」のように成功した例に使うらしい。

政変というなら、自民党が第一党でなくなった都議会選挙も一種の政変かもしれない。

これが参議委員選挙を占う前哨戦としたら、国会の政変も起こる可能性もある。

自民党の政策としていたアメリカへの従属関係やJAとの連携が、経済や暮らしに悪影響を与えることを知ったら、国民の支持を失う可能性がある。

これは「政変」の予感である。


7月に天変地異が起こるというデマ情報が流れているようだが、自然災害は毎年のように起こっている。

気象上の異変以外にも、火山噴火や地震、津波はいつ起こっても不思議では無い。

以前読んだ書籍の中で、大陸氷河が溶けることが地殻に影響を与えることが書かれていた。

つまり、氷として地殻にかかっていた重量が海に溶け出すことによって減るので、地殻が盛り上がるのだそうだ。

地殻が動くことは地震などとも関連してくる。

温暖化の現代は「天変地異」の予感を感じつつ生きなければならない時代だ。


やがて「予感」は「実感」に変わっていくかもしれない。

コロナウィルスによるパンデミックのように、世界が多くの異変によって混乱や戦争に巻き込まれてしまうかもしれない。

そんな状況になっても狼狽えないように、普段から防災意識をもって暮らす必要があるだろう。

「恋の予感」の一節

  風は気まぐれ あなたを惑わせるだけ
  恋の予感が ただかけぬけるだけ

単に「変の予感」をただ駆け抜けさせてはならないと思う今日この頃である。





2025年6月27日金曜日

古女房のような10年連れ添った軽トラ

 私はホンダのActyを乗り続けて10年経ち、今年車検を受けた。

家内が通期途上にディーラーに持って行ってくれたのだが、残念な知らせも持って帰ってきた。

ホンダはこの軽トラの生産を止めてしまっていたそうだ。

前回の車検の時には生産は終わっていたのに、話題にならなかった。

要するに生産中止から4年も経ち、車検の時に必要な部品の調達が困難になってきたということで、今回も部品を取り寄せて交換をする必要が出てきた。

ネットで調べるとダイハツやスズキに敗れて生産中止になったが、復活の要望が強くて復活される可能性も出てきたようだ。

私はホンダ以外の軽トラも運転したこともあるが、山道の悪路を大した荷物も無く走るだけだったので違いは分からなかった。

近所の農家の人も殆どがダイハツなので、乗せてもらう機会が多かった。

私のように通勤に遠くまで使う人はいなかったので、値段の安いダイハツやスズキの方が良かったのだと思う。

なんと言っても、ホンダの軽トラは高速走行が売りなのだ。


私が軽トラが好きなのは、農作業やアウトドア、そして以前は通勤に使えるマルチプレーヤーであることだ。

そして、値段や性能、スタイルで見栄を張ることも無く、開き直った存在として走っていられる。

ただ、ホンダのアクティーは他の軽トラよりも実際に値段も高く、性能の上でも高級観を持つことができたことは否めない。

軽トラには元気な職人が乗っているイメージがあるので、煽られることもあまりない。

先日などは荷台にそら豆を干していて、そのままプールに出かけたりしたが、色んな応用が利く。

私は横風が不安でやらないが、幌やテント、自作シェルをつけてキャンピングカーにもなる。

近所のかなりの高齢者も自転車代わりに乗り続けているが、運転免許返納まで乗り続けたい車でもある。

私の軽トラは洗車も殆どせず苔が生えたりして扱いも悪いのだが、故障もせずにけなげに働いてくれている古女房のような存在だ。

家内はもう少し大切にしているので、10年も働いた今後は家内と同じように大切に扱ってやろうと思っている。




2025年6月24日火曜日

シュノーケルと鼻栓での楽しい水泳

 防水骨伝導イヤホンを上手く使うために水泳用のシュノーケルを買った。

配達されてきた翌日にさっそくプールに行って試してみた。

やばい、鼻に水が入る!!!!!

シュノーケルで息を吸うときに、鼻からも息をしようとする。

海でシュノーケリングをしていた時は、水中めがねは鼻も覆っており、息をしようにもできなかった。

水泳はゴーグルだけで鼻は露出している。

ということは、意識していなかったが普段ブレスをする時に鼻でも呼吸しているということだった。

ネットでもシュノーケルを使った練習では、初めて使う人は鼻栓をした方が良いと書かれてあった。


実は今の練習で一番不安なのは、背泳でクイックターンをしてバサロの姿勢になったときに、鼻に水が入ってくることだ。

鼻から息を吐いたり、上唇を鼻に付けたりするのだが、時々失敗して鼻に水が入ってしまう。

背泳でマスターズの大会に出ていたNさんは、普段の練習で鼻栓をしていた。

他の種目は下を向いているので、クイックターン以外は鼻に水が入る心配はあまりない。

上を向いて泳ぐ背泳はどうしても水が鼻の中に入ってきてしまうので、鼻栓をしていたのだろうと思う。


実は、鼻栓を買うのにネットのレビューを読んで初めて気がついたことがある。

泳いだ後にくしゃみがやたら出るのは鼻にプールの水が入ったせいなのだが、特に塩素アレルギーの人は鼻栓が必要なようだ。

私もアレルギーと言えるかどうか分からないが、泳いだ後は鼻水が多く出たり、くしゃみをよくしている。

その対処としても鼻栓が有効のようで、さっそく注文して取り寄せた。

そこで一番考えたのは、脱落してプールの中で探さねばならなくなることだった。

以前、Nさんが鼻栓をプールで落として探すのに苦労しているのを見ていたからだ。

考えたのは、首からかけるストラップより、ゴーグルにテグスで紐付けする方法だ。

以前は魚釣りをよくしていてテグスも手元にあったので、装着時の長さを考えてゴーグルに紐付けした。


さっそく、練習で使ってみたのだが、やはりやたら鼻から落ちてしまう。

テグスはやはり有効だった。

ゴーグルにぶら下がったまま泳ぐのは煩わしいので、ゴーグルのゴム紐に鼻栓を挟むことにした。

一番必要なのは背泳だから、背泳だけ使うことにして他はゴーグルのゴム紐に挟んだまま泳いだ。

背泳の時は、鼻栓は水の抵抗をターンでしか受けないので、脱落する心配もなく水が入ること自体が無くなって良かった。

ただ、クイックターンの時に鼻から息を吐く習慣がついていて、それをすると鼻栓がとれてしまうので、その癖を直すのに練習が要った。

慣れてくると鼻栓はとれなくなり、バサロの練習をしっかりとすることができた。

他の種目ではシュノーケルに慣れてきて、鼻から息を吐かずに口からシュノーケルを通して吐く練習をした。

どうしても、水が鼻孔に入ってきて気持ち悪いときには、鼻から息を吐き出した。


先日来、シュノーケルをしてする練習が増えたお陰で、骨伝導イヤホンから流れる音楽を聴きながら楽しく泳げている。

以前はモチベーションを上げるために、タイムばかりを気にしていたが、タイムをあまり気にせずに、自分の疲れ具合を考えながら泳げるようになった。

また、泳いだ後のくしゃみや鼻水もかなり減って、鼻栓の効果が実感がもてた。

現役の選手がシュノーケルを練習で用いるのは両手のバランスを良くするためだが、選手以外でもむち打ちで首の調子が悪い人も使っている。

私のように音楽を気持ちよく聴くために用いるのもありだと思う。

また、鼻栓も上手く利用して鼻水やくしゃみの予防にも使えて良いように思う。



2025年6月21日土曜日

今はもう夏、誰もいない田畑

 このところ梅雨の中休み、昼間の最高気温が上郡では32℃以上にもなる日もあった。

いつもは午後3時にもなると近所の奥さんは畑に出て水やりや収穫の農作業をしている。

しかし、家の二階の窓から眺めると誰も畑には出ていない。

田んぼの草刈り機の音も聞こえない。

ただ、田んぼの中の道路を小太りの年配の女性がしっかりとウォーキングをしている。

本当は私は夕方から畑仕事をしていくつもりだった。

ちゃんと空調服も用意して、畑の草刈りやジャガイモ掘りをするつもりだった。

しかし、やめた、無理だ。

気温が一番低い朝に農作業をすることにした。


こんなに梅雨時季には暑くなるのは異常なことだろう。

最近は異常に暑くなるので、体調管理も難しくて、家にこもってしまう知り合いもいる。

朝の散歩も8時を過ぎてしまうときは、空調服を着て歩いている。

うちの愚犬クロも散歩を嫌がるのだが、無理して付き合わせている。

クロはしばらく歩くとすぐに田んぼの溝に入って、身体を冷やしながら水を飲んでいる。

それ以外は、私の後ろをとぼとぼと情けなそうに歩いている。

本当は起きてすぐの陽が昇る前に散歩に連れて行ってやりたいのだが、食事後に血糖値を下げるという私の目的が果たせない。

家内には早く起きてくれたら朝食も早く食べられて、涼しいうちに散歩できると言っているのだが、涼しい朝の方がよく眠れるらしい。

これから農作業を早朝にやることにしたら、午前8時以降の散歩は避けられないだろう。


そこで早朝5時前に裏の畑に出て、汲んでいた水を作物の苗に与えたり、手や充電式草刈り機を用いて草取りなどをしている。

考えることは皆いっしょにで、隣でも朝早くから夫婦で畑に出て、小型耕運機で耕している。

私はスマホでラジオを聴きながら作業をしていたのだが、ちょうどラジオ体操の歌が始まる頃に作業を終えて家に戻った。

実は昨日から雨水を貯めた300リットルのタンクの水を利用してミストで二階のテラスを冷やしている。

その水も昼前には三分の一程になってしまっていて、去年までいかに水道をつかっていたかを思い知った。

ということは、毎日のように用水路から300リットルほどの水をエンジンポンプでくみ上げねばならない。

これも朝の重要な仕事となった。


朝の農作業は良いことばかりでは無い。

蚊やブヨは暑くなると活動を止めるが、涼しい朝は活発になる。

頭には麦わら帽子を被り、虫除けネットもしていたのだが、蚊が潜入して瞼を噛まれてしまった。

ネットを被っていたので、油断して虫除けスプレーを顔にかけていなかたのが悪かった。

おかげで瞼が腫れ上がって、その日はプールには行けなかったが翌日には腫れもひいた。

虫除けスプレーはそれ以来、欠かさずに顔にもかけている。

近所の人が早朝や夕暮れの涼しいときに農作業をあまりしないのは、この虫刺さされ対策が煩わしいせいもあるようだ。

一方、人によっては全く虫に刺されない人もいるが、やはり勤めでの生活習慣はかえられないことも原因で涼しい時間は家にいるらしい。


かつて、夏は元気の出る季節だった。

それが秋になって淋しさを感じていた。

今は灼熱地獄の夏を乗り切って、涼しい秋がやってくるのを待ち望んでいる。

砂漠の民は太陽の絵は嫌うそうだが、日本人も日の丸を灼熱の太陽とイメージして疎ましく思うようになるかもしれない。

温暖化した地球では夏の太陽はヒトにも作物にも恐ろしい存在となってしまった。

畑の作物もビニールマルチより草マルチの方が地温を上げないようにするという意味で良いだろうと思う。

私はあえて作物の根元以外の草は、抜いてしまわないで刈り取って根株を残しているのは、地温をあまり上げない目的もある。

すでに野菜に高温障害が発生している地域もあるようだ。

貯水池や貯水湖が多く作られたお陰で旱魃の危険性は減ったけど、高温によって不作や劣化の危険性がますます高まった。

そして、田畑は熱中症でお年寄りが亡くなっていく危険地帯となっている。

昔は日の出と日の入りに応じて農作業を行っていたのだが、最近は時計に合わせて行っていることが殆どだろう。

朝が一番涼しいのだから、早朝に外での仕事をした方が良い。

これからは熱中症のことも考えて、サマータイムを実施することを真剣に考えるべきだろう。

もっと言えば、冷房で対処して温暖化を加速させるより、昼休みをしっかりとるシエスタ制度とも組み合わせて酷暑に対処せねばならない時代が来たように思う。







2025年6月19日木曜日

コウノトリやツバメの子育てに思う

 うちの村ではコウノトリのヒナが3羽誕生して、だいぶ大きくなったのでその姿を遠くからでも見ることが出来る。

あいかわらず親鳥はひな鳥たちへの餌取りが大変で飛び回って、田んぼの中を駆けづり回っている。

田植え前ではトラクターが耕したり代掻きをしているのを見つけると飛んでいって、後ろについて餌になる物が出てくるのを追いかけていた。

天然記念物のコウノトリがそのプライドも無く、サギよりも大胆にトラクターを追いかけているよと家内とは冗談を言い合っていた。

子どものためなら、遮二無二餌を求める姿には考えさせられた。

また、うちのバルコニーの下でも、ツバメが子育ての真っ最中で二羽の親鳥が頻繁に行き来している。

親鳥が戻ってくると巣の中からかわいらしいヒナの鳴き声が聞こえてくる。

子どもの頃はじっと眺めたりしていたが、親鳥が警戒すると思ってなるべく立ち止まって見ないようにしている。

やはりコウノトリ以上に休み無く餌を採ってくる姿にも考えさせられた。


コウノトリにしてもツバメにしても、この子育ての見返りは無い。

人のように老後の面倒をみてもらえることはない。

大きくなったら逆に縄張りを巡って争わなければならない関係にもなりうる。

しかし、命をつなぐことに何の見返りも求めず、将来の不安も感じてはいないだろう。

それが本能によって仕組まれている言えばそれまでなのだが、生き物の最低の使命が命を繋ぐこと、自分と似たものを再生させることだろう。

自分も振り返ってみれば、子どもが生まれて赤ん坊の頃は、ひたすら元気で育つことを願い、その笑顔や寝顔に癒やされていた。

ある意味で、ヒトは子や孫と長く関わらねばならないから、良いことも悪いことも色々と生じてしまうのだろう。


以前勤めていた高校の離任式の挨拶で、生物の先生が命をつなぐことの大切さを生徒達に向かって力説して最後の言葉としていた。

その時には、生物の先生らしいなと思っていたのだが、これは生けるものとして一番大切なことだったことに今更気がついた。

私は文化人類学を研究しているので、生命観は重要なテーマだと思ってきた。

しかし、「いのち」よりも「たましい」の方に、関心があった。

沖縄の言葉に「命(イヌチ)どぅ宝」という有名な言葉がある。

しかし、私が村落調査した与路島では、あまり命という表現はしていなかった。

やはり、「タマシ」とか「マブリ」とかいう霊魂で、人の生命や血のつながりを表現していた。


親子関係は性行為や出産を通してそのつながりを現実に体験できる。

ところが祖父母と孫の関係は、親を介在として作られた関係だ。

その命のつながりは、現実的な行為によっては確かめられない。

だから「タマシ」が祖父母から孫につがれると表現する。

生物学では遺伝子などレベルで、それらの関係は全て実証できるのだが、民俗知識では実証に用いられるはずも無い。

だから、姿や性格、名前に魂<タマシ>を込めてそれを表現してきた。

そして、大切なことは魂を通した関係を大事に育んでいくことだった。

かつてはどの日本人も、そういう信仰の上に家族は成り立っていたのだろうが、それが失われた今はそれに代わるものがなくなってしまった。


今、日本だけで無く多くの先進国では、少子化の問題に直面している。

発展途上国や移民の受け入れの多い国は、助け合うための親子関係が維持されており、子育ても重要で人口が増えている。

社会保障が充実した先進国では子どもに老後を託す必要も無く、老後を豊かに過ごすには子育てよりも現役時代の仕事が大切なのだ。

見返りを求めずひたすら命をつなごうとする鳥とは大きく違ってきた。

命をつなぐという生き物としての最低の本能を失い、築き上げてきた魂としてのつながりさえ失ってしまった。

これが高度に産業化された文明社会の現実なのかもしれない。


人間以外の動物でも動物園で飼育されたり、家畜化されると自分で繁殖したり子育てができなくなる。

私の研究のテーマの奴隷問題や家畜化<domestication>と大きく関わる問題だ。

悪く言えば国家や企業の奴隷、家畜となった近代人は、社会保障という名の保護のシステムの中で自由と引き換えに、それに依存して目先の安全と物質的豊かさを手に入れた。

それらに頼らずに生きていく方が困難であり、そのリスクを多く背負ってきた。

その先進国の影響もあって、世界の人口は発展途上国を中心にとんでもなく増えており、環境も破壊し続けられている。

そんな時代に敢えてリスクを背負って、子育てをする方がむしろおかしいとも言える。

少子化の問題は今の近代文明そのものの問題であって、子育て世代だけの問題では無い。

マスコミはその深い意味を問わずに、数値だけを追って危機を煽るのは誤った報道のように思える。

江戸時代は自然災害や疫病によって人口が大きく変動したと言われている。

しかし、日本ではその江戸エコシステムによって、豊かな自然環境を維持し養子もとりいれながら家を守ろうとしてきた。

その自然環境や命の繋がりを維持しようとしたその姿勢を、現代でも見習うときが来たようにも思えるのだ。


2025年6月17日火曜日

防水骨伝導イヤホンで楽しむプールと風呂

 学生時代はよく喫茶店に行っていて、普通の流行の音楽がかかっていたが、中でもジャズ専門にかかるジャズ喫茶にもたまに出かけた。

今週に2回以上通っている上郡のプールは、音楽を流しているので音楽喫茶同様に音楽プールである。

他にも相生のコスモスプールにも行っているが、そこでも音楽は流れているし、アクアビクスの時にはプールサイドで音楽をかけている。

最近プールでは年配の方が歩いていることが多いが、同じところを行ったり来たりするので、音楽は欠かせないのだと思う。

上郡のプールの音響は、装置が古くてCDしかかけられないし、スピーカーはBOSEなのだが二つのうち一つは故障していて聞こえない。

スイミングスクールが行われている時間は、賑やかなので音楽がかかっていても、殆ど聞こえない。

私はわざとスクールや小学校授業利用が無い時間で泳いでいるので、音楽がよく聞こえている。


先月で辞めてしまった監視員さんのNさんは音楽好きで、自分の好みのCDを持ってきてかけてくれていた。

それは利用している人のためでもあるが、彼女自身の単調な仕事には必要だったようだ。

以前は、徳永英明のVocalist 1をよくかけてくれたのだが、私もこのアルバムは大好きだったので泳ぎながら口ずさんだりしていた。

そのCDはコピーした物だったので、途中でかからなくなってしまって、彼女のお気に入りの島津亜矢のカバーアルバムに変わってしまった。

島津亜矢は確かに上手いとは思うが、カナダのセリーヌ・ディオンと同じで聴いていて疲れてしまう。

私はかつてはロックバンドでボーカルをしていて、シャウト系の歌をよく歌っており、カラオケでやると不評をかうこともあった。

だから、徳永英明のようにつぶやくような歌い方を最近は心がけていた。

ということで、島津亜矢はそれと逆行しており、いささか不満ではあったがそれでも知った曲が多くかかって、口ずさんだりしていた。


このNさんが辞めてしまったので、音楽は備え付けのCDになってしまい、面白みが無くなってしまった。

以前から、単調な水泳の練習に水中でも音楽が聴かれれば良いと思っていた。

音楽は水中では聴くことができないので、泳いでいるときは途切れ途切れにしか聞こえない。

そこで、水中でも聴くことができる防水の骨伝導イヤホンを探してみた。

骨伝導のイヤホンには水泳用のものもあって、32Gメモリーにいっぱい曲を入れることができる。

Bluetoothもついているので、プール以外では配信音楽も聴くことができる。

ネットで注文してさっそく届いたのだが、説明書は色々な言語書かれていて日本語もあるが字が小さいので読みづらい。

これまで使っていたイヤホンと基本は変わらないが、充電とデーター移動がケーブルで行われており、独特なマグネット方式だ。

これまでのイヤホンやヘッドホンは有線やBluetoothでスマホやPCからの音楽を聴いていたが、PCにため込んであるMP3の音楽を移していった。

音声ガイドも英語で早口なので最初はよく分からなかったが、何とかシャッフルさせて聴く操作が分かった。


実際にプールで試してみると、最初はボリュームを水上で聴く音量にしていた。

すると、ボーカルの音は普通なのだが、ベースの音が大きくひずんでしまって聴けたものではない。

そこで、音量を下げると水中ですごく聞きやすくなったが、水上では殆ど聞こえなくなってしまった。

今までは水上で音が聞こえて水中で聞こえなかったのが正反対になってしまったのだ。

一番良い方法は、耳の穴の真上に音の出る部分をあてることで、少しボリュームを上げてもベース音はひずまない。

性能の良いイヤホンならベース音を調整して、ボリュームを上げられるかもしれないが、今回購入したものはできない。

ただ、水に耳をつけて泳ぐ背泳ぎは全く問題ないし、キックの練習でも頭を水中につけて置けば問題ない。

やはり、音楽を聴いて泳いでいると、単調な練習の苦痛も和らげてくれるし、リラックスした泳ぎができる。

こうなればシュノーケルをつかって泳げば、ずっと耳は水中で問題は解決できるので、さっそっくネットで注文した。


この防水骨伝導イヤホンはプールだけでなくて、家の風呂でも使っている。

健康方の一つとして、ぬるま湯に20分ほどつかることが良いとネットで知った。

家内はボーとそれくらい毎日つかっているようだが、私はプールで1時間半ほど水につかっているので風呂ではそうつかりたくはない。

ただ、運動で水につかるのと、リラックスするためにお湯につかるのでは意味が違うと思い、実践し始めたのだが20分もボーとするのは却って苦痛だ。

そこで、好きな音楽を聴いていたら、20分くらいぼーとできると思ったのだ。

家の風呂ならスマホから音楽をBluetoothで飛ばすこともできるので、配信音楽を聴くことも可能だ。

さっそく、Youtubeでリラックス音楽を聴きながら湯につかっていたのだが、途中でCMが流れるので気が休まらない。

それでCMの入らないネットラジオや配信音楽でリラックスできる音楽を聴いたら、ゆっくりと長くお湯につかることができた。

以前は夏は蛙の声、秋は虫の音で癒やされもしたが、時々暴走族の音で苛ついてもいた。

これからは一年中、我が家の音の湯で癒やされようと思う。








2025年6月14日土曜日

脱米依存・そら豆

 今年はそら豆が豊作となった。

例年、そら豆は病気になったりして失敗することが多い。

たぶん、収穫時季に雨が多く降ったりする影響だろうが、今年は少なかったので生育には良かったのだろう。

少しずつ採って食べていたのだが、このところ雨が続いていたし、さやが黒くなったのも目につき始めたので全部収穫した。

コンテナーに半分採れたので、黒ずんできたのを中心に天日で乾燥させている。


実は、栽培用のそら豆の種はそこそこ高い。

高い種を買ってうまく行かないので、作らない人も増えたようだ。

私は道の駅で食用の乾燥した一寸そら豆を安く買ってそれを種にした。

以前の高価な種はポットで芽を出したりしたが、今回はそのまま豆を地植えしておいたのが、そのまま生長してくれた。

冬を越してこの時季に収穫できる物なので、草採りもあまりしなくて良いし、タンパク質を含む収穫物が少ない時季なので貴重な作物だ。


私の子どもの頃は、今のような大粒の一寸そら豆ではなくくて、もう少し小さいのを作っていた。

沢山採れたので、母は甘く煮る以外にも、あんこにして蒸しパンに入れたりした。

小豆のあんこの味を知っているので、あまり美味しいとは思わなかったが、戦時中ではご馳走だったと言って母はなつかしがって食べていた。

硬くなったそら豆を煎って食べたりしたが、子どもにはなかなか歯が立たなくてしばらく舐めていたように思う。

今は莢付きのそら豆は電子レンジで簡単に調理できるが、ネットで調べたら莢ごと焼いてそのまま食べられると書いてあった。

むくのが手間なので、そういう風に食べても良さそうだ。


日本ではいかり豆以外ではあまり人気が無いが、アメリカやアフリカ、中国で多く栽培されているそうだ。

古代から西アジアや地中海沿岸などでは食べ続けられているということで、現在でもエジプトでは朝食に欠かせないそうだ。

栄養価も高いようで調理方法を色々工夫すれば、もっと多く食べられると思う。

冬場から春先での栽培で、連作はできないが他の作物が畑にはあまりない頃に作ることができるのが良い。

春ジャガイモとそら豆をしっかり作って食べれば、米依存生活も無理なく改善できると思う。




2025年6月12日木曜日

時は今、芋が下知る五月かな

 今の新暦の6月はだいたい旧暦の五月だ。

この梅雨前後にジャガイモの収穫がここいらではなされている。

私も梅雨になりそうなので、とりあえず植え付けたジャガイモの3分の2程を先日収穫した。

一方で、サツマイモの苗の植え付け作業があったので、全部は掘り起こせなかった。

冬がやって来て低温で腐ってしまうサツマイモと違い、地中で夏を越させても良いのだが、大豆を植えたいので放っておけない。

今年は高畝にして、芽欠きもちゃんとしたので大きなサイズが沢山採れて、男爵系とメークイン系がそれぞれコンテナ1杯採れた。

陽にあたらないように、紙製の米袋に入れて保管している。


生のジャガイモはさっさと食べてしまわないと、腐ったり芽が出てしまう。

そこでまず行ったのが、シャトルシェフで蒸して食べることで、100均で売っている蒸すためのプレートを二枚重ねてその上に金ザルを置いて蒸した。

以前は茹でていたのだが、蒸した方が味が良いし、湯を何回も再利用できる。

ついでに卵も一緒にシャトルシェフで蒸して、一晩経ったらちゃんと蒸し上がっていた。

そのままバターや塩を付けて食べても美味しいのだが、多く消費するためにまず甘酒を作った。


蒸し上がったジャガイモを適当に切って、具材が浸るくらいの水と一緒にソイリッチに入れてジュースにした。

粘性が強いので途中で回らなくなったので止めて、乾燥米麹を入れ回るくらいの水を足してジュースモードで混ぜ合わせてから。発効モードで調理した。

半日ほどしてできあがったジャガイモ甘酒は、見た目はあまり良くないが十分甘くて美味しい。

私はそこに焼酎を入れてあたかも濁酒のように飲んでいる。


ジャガイモは摺り下ろしたり刻んで焼いても美味しいが、マッシュしたら色々な料理に使える。

家内は自分でマッシュしてポテトサラダを早速作ってくれた。

私は頻繁にマッシュポテトを作ろうと思い、さっそくポテトマッシャーをネットで購入した。

ニンニクを潰す道具を巨大化したようなもので、やってみるとけっこう握力がいる。

たぶん、家内には難しいだろうと思った。

強力粉を混ぜてそのまま練り上げて、ビニール袋に入れて一晩寝かせた。

翌朝、長く伸ばして小さくちぎり、ゆであげてニョッキ擬きを作った。

それは昼に野菜シチューに入れて食べたが、ただの団子のようでスイトンと同じだった。

今後、中に卵を入れたり、味付けをするのも良いかなと思った。


また、蒸したジャガイモを薄く切って、野菜乾燥機で乾燥させている。

包丁で切ったのでそれほど薄くならなかったが、ゆっくりと時間をかければ固くなる。

以前は、半乾きの物をそのまま食べたり、トースターで少し焼いたりした。

今回はそれに加えて、完全に硬く乾燥させて粉末にするつもりだ。

麦を粉にするために購入した製粉機があるからだ。

粉にしておけば長期保存もできるし、手軽に調理もできる。

私の父はサツマイモを粉にして、色んな物に混ぜて食べていた。


日本人は北海道の人以外は、あまりジャガイモを食べてきていない。

栄養価も高く、私のような糖尿病患者にも適した食物だ。

売られている値段も安いし、比較的簡単に栽培できる。

ただ、何年か前に不作の年があったように、天候の具合で病気が流行ったりすることも確かだ。

だから、ジャガイモもアンデス地方のように多品種にしたり、秋ジャガイモも栽培するのが良いだろう。

私はいも類として、サツマイモや里芋も栽培している。

それらを組み合わせれば一年中で芋を食べることができることになる。

米高騰の今だからこそ、芋は庶民の大切な食料なのだと思う。

かつて「貧乏人は麦を食え」といわれたが、押し麦やもち麦は安い米よりも高い。

輸入された小麦は色々と問題を抱えている。

むしろ江戸時代のように「貧乏人は芋を食え」の時代に戻るべきだと思う。

旧暦の五月はジャガイモにとっても、サツマイモや里芋にとっても大切な時である。

そして、米危機は温暖化が進んでいく限り続いていくだろうことを肝に銘ずるべきだ。


2025年6月10日火曜日

似ニューギニア式サツマイモ栽培の実践②~苗植え~

 ニューギニアのサツマイモ栽培の基本は刈草の上に土を盛って、そこに苗を植え付けることだった。

しかし、いざやり始めると代萩(セイタカアワダチソウ)の地下茎が張り巡らされていたので、土を掘り上げるのに手間取ってしまった。

枯れ草の上の盛り土よりも、代萩を取り除いた場所に苗を植えた方が効率的にできるということで、盛り土の部分も利用しながら苗を植えるタイミングを待った。


今年はこの地方ではサツマイモの苗は高くて、1本70円ほどするのが普通だった。

私は保管していたシルクスイートを畑に植えておいたのだが、なかなか芽が出てこずにようやくこのところ出始めた。

そこでたまたま津山近くの久米の里という道の駅で、20本700円で売っていた<なると金時>と<紅あずま>のそれぞれ20本ずつ40本を、普通に自宅の裏の畑に植えて置いた。

これは伸びた蔓を苗にして増やす予定だったが、天候の具合で思うように伸びてくれなかった。

そこで5/31にホームセンターで40本で2079円の<なると金時>の苗を買って、予報では雨が降りそうな6/7を待つことにしてバケツの中で水に苗を漬けておいた。

ところが雨の予報はずれて6/9からの雨になってしまったので、エンジンポンプも持っていって復活させた赤穂の畑に植えに行かざるを得なかった。

やり方はいつものように、スコップを打ち込んで隙間を開けてそこに植えるやり方だ。

去年に四サイクルのエンジンポンプを買ったので、井戸からくみ上げる水やりは楽だったが以前は、バケツでくみ上げる重労働だった。

しっかりと水をやって月曜の雨を待つだけになっていたのだが、その予報もずれて火曜からの雨となってしまった。


そこでやむなく水をやりに行くことにして、ついでにまだ植えていない復活させた場所に苗を追加することにした。

日曜にドライブがてら立ち寄ったホームセンターのサツマイモの苗売り場で、半額になった苗で<金時>以外の<紅あずま>や<紅はるか>を40本ほど1135円で買った。

半額になった苗は蔓も弱々しくて、葉も元気が無かったが水に漬けておいたら翌朝には少し元気になっていた。

天気予報はまたもやずれて、6/9の午後から雨になるというので、雨の中で植えられるように支度して出かけた。

赤穂の畑に着いた頃に雨は降り始めてたが、小降りだったのでカッパやビニールズボンもそれほど濡れずに済んだ。

何よりも、水をやる必要が無いのが助かった。


こうして、天気に合わせて農作業ができるのは、完全退職しているお陰だ。

遠くにある赤穂の畑は土日にしか農作業ができないので、無理が続いて結局は放置してしまっていた。

思い出せば現役の父がサツマイモの苗を植えていたのは雨が降るときで、勤めから帰って暗くなった夕方でも雨が降っていれば母と植えに行っていた。

4人もの息子を大学まで行かせていたので学費がかかり、食費を削るためにサツマイモを主食のようにして食べていた。

サツマイモの苗も自分で作って、苗の不足した年は業者まで買い求めに来た。

学生時代の私も父から送ってもらったサツマイモをご飯の代わりにしていた。

米高騰の今年は当時に立ち戻って、サツマイモをしっかりと育てていきたいと思っている。

沖縄や奄美のように掘った後に苗を植えられる気候では無いので、芋に育っていく苗の植え時のぎりぎりまで増やそうと思っている。

このあたりでは姫路の浴衣祭り頃(夏至の頃)までは大丈夫と言われている。

温暖化の影響で今では水さえ切らさなければ、もう少し後でも大丈夫のように思える。

今年は植えた苗の生育が悪いので、実験的に伸びた蔓を植え続けてみたいと思っている。

また、時期はずれで安くなったり、半額になった苗で増やすしか無い。

米依存からの脱却を図る真剣な取り組みはこれからだ。





2025年6月8日日曜日

ホップを使えば高級ビールの香り?

ペレット状の乾燥ホップをアルコール漬にして置いておいた。
それはビールの代わりにならないかと思い、35度のホワイトリカーにつけ込んだのだが、すぐには飲めないので濾して瓶で保存して置いた。
実は、ビールに似たものができないかと、乾燥ホップをネットで買って工夫した。
炭酸水は家でも作れる器具を買ったので、いつでも作ることができた。
ビールの原料は麦芽なので、麦と相性が良いと思い25度の麦焼酎にホップのペレットを漬けこんで炭酸水で割って飲んでいた。
ホップの量も適当だったし、漬けてすぐに飲んだのでただの苦いアルコール飲料という感じだった。
焼酎をビールで割った物はホッピーと呼ばれて売っているので、このアルコール飲料をホップサワーと呼ぶことにした。
そのうち、買い置きしていた乾燥ホップも無くなってしまい、冬場では再度購入してやる魅力は感じなかった。
やはり、本物のビールにはかなわないが、第3のビールでも美味しいし安く手間もかからなかったので、ホップサワーは作らなかった。

ところが、夏が近づいて冷たいサワーが飲みたくなった。
私は赤ワインやウィスキーを炭酸水で割ってよく飲むのだが、たまたまどちらも切らしてしまった。
そこで、ホップ味の保存熟成アルコールを、涼しい座敷に置いておいたことを思い出した。
苦いだけかと思って、炭酸水で割って飲むとビールとは違うホップの良い香りがする。
記憶は不確かだが、かつて高価なドイツビールで味わったような香りだと思う。
というのも、最近では質より量と言うことで、第3のビール以外は葬式でしか飲んでいない。
道の駅やJAの直売所で高価な地ビールも指をくわえて眺めるだけだ。
このホップサワーは酔うことよりも、香りを楽しむことが目的となった。
保存した量があまりないので、麦焼酎で薄めて利用している。
こんなに美味いのなら来年の分を今後も仕込もうと思っているが、通販では送料がホップの値段と同じくらいかかってしまうのが難点だ。
それでも高級ビールを買うことに比べれば安いものだ。




革命的自動音声文字起こしPLAUDの感動

 実は、私は45年ほど前は村落調査においては手書きノートはメモ程度で、マイクロカセットテープレコーダーを使って録音していた。

当時はノートに筆記していくのが普通だったが、それだと会話が途切れてしまうし、情報量も限られていたからだ。

ただ、スムーズに聞き取れて情報量も増す反面で、その後のテープ起こしには多大な労力と時間がかかった。

主に夜に話者の家に訪問して、昼間はそのテープ起こしをするのが日課となっていた。

マイクロカセットは何本か用意していたので、調査から戻ってからの文字起こしも行ったりもした。

ただ、その録音したマイクロカセットは文字起こしをすると、再び録音に再利用されて音声を保存することは殆ど無かった。


2008年に当時の文部省から奨励費をもらったのに付随して追跡調査をしたときには、ボイスレコーダーを用いて聞き取りも行っていた。

それを文字にしなくてはならないと思いながら、17年の年月が流れてしまっていた。

勤めている学校現場でも研修や講演会でボイスレコーダーなどを使って録音して、それの文字起こしをすることもしていた。

また、兵庫教育大学大学院での長期研修でも、その講義をボイスレコーダーで録音したりしたが結局は文字化しなかった。

音声録音はノートに書き残す手間は省けるが、文字化するのにそれ以上の労力と時間がかかり、本当に必要に迫られなければ放ってしまっていたのだ。


それが、自動で音声文字起こしができるPLAUDの存在を知って、すぐに購入した。

手始めに手書きで書かれた大切な手紙を文字化してみたが、かなり正確だったが言葉が途切れて聞きづらいところは文字化してくれてなかった。

こういう手書きの文章は予め読んで練習する必要がありそうだ。

一方で日記を書く代わりに言葉で録音しようと思い、ベッドで横たわったまま気楽に録音した。

その録音を文字化してみて誤字はそこそこ見られたが、少し手直しをすれば済む程度だった。

そして、念願の村落調査の録音音声の文字起こしに挑戦した。

前もって、ボイスレコーダーの録音音声はWAVやMP3に変換しておいた。

ボイスレコーダーはパナソニック製だったが、独特のファイル形式で保存するものであり、汎用性が無かったので変換しておいたのが正解だった。

ところが、最初の躓きはスマホでの保存音声データーの文字起こしはデーター利用で面倒なことになる。

そこで、パソコン用のアプリをダウンロードしてインストールしようとしたがうまくいかない。

なんのことは無い、そのアプリは個人として使っているパソコンEndeavorのwindows10では使えないのだ。

そこで、家内と共用していた中古の最新パソコンLet's Noteはwindows11なので、同じようにしてインストールしたうまくいった。


さっそく、Let's Noteで試してみたら、17年前の音声データーが見事文字化してくれた。

私は感動のあまり同じように村落調査に行った仲間がいる南山大学ゼミ同窓生LINEで報告した。

しかし、その仲間からはスルーされてしまった。

彼は大学時代当初から録音も撮影も行わず、ひたすらノートに筆記する人だったのだ。

反応があったのは、雑誌関係の仕事をしている仲間だけだった。

彼も取材や仕事のやりとりで録音を使っていたのだろう。


PLAUDの宣伝では革命的とうたわれている。

確かに私にとっては革命的で、これが40年前にあったならどんなにスムーズに聞き取り調査ができたか分からない。

しかし、当時の話者の殆どが既に亡くなられている。

当時の村落調査は伝統的な生活を経験してきた最後の語り部だったのだ。

写真に関しては残すべき記録としてデジタル化して保存しておいた。

当時の音声としては八月踊りなどはデジタル化して残して置いただけである。

しかし、聞き取りした音声は保存する意識さえなく、文字化するための一時的な参考資料でしかなかった。

ただ、再利用する前のカセットが残っていたので、それは亡くなった人の声で懐かしくてデジタル化した。

今となっては悔やまれるが、こういう時代が来るのなら録音したマイクロカセットも、写真同様に記録として置いておくべきだった。

こういう革命的な音声録音記録の時代が来たのに、肝心の魅力ある伝統的な暮らしを語る人はいなくなってしまっているのも皮肉なものだ。

せめて、そういう語り部を知る私の記憶が確かなうちに、どこでも録音できる音声を使ってそれを残しておこうと思う。

なぜならキーボードで打ち込むよりよほど楽で便利だからだ。

私の認知能力も劣化する一方だから、残された時間を有効に使おうと思っている。





2025年6月3日火曜日

ニューギニア式サツマイモ栽培の実践①~下準備~

 私は赤穂にある実家の畑を何年も作物を作らず、代萩(セイタカアワダチソウ)の群落にしたままであった。

ただ、1年に数回は草を刈りには来ていた。

米不足で代用食が必要と思い、今年からサツマイモやカボチャを植えることにしていた。

この四月の下旬にも背負い式の草刈り機を使って、代萩は殆ど刈りたおしておいた。

以前に農業雑誌でニューギニアでは雑草の上に土を盛って、そこにサツマイモの苗を植えることが紹介されていた。

ネットでも調べたら枯れ草の上に土を盛ることが書いてあった。

ただ、枯れ草はイネ科の植物だったようだが、うちの畑の代萩はキク科であり宿根草でもある。

実は、冬場に枯れ草を一度焼いていたので、そこには代萩は生えないだろうと思っていたが、しっかりと生えていた。


当初は筋状に刈り干した草の上に刈り跡の土を掘り起こして、それを枯れ草の上に置く予定だった。

ところが、スコップを使って掘ると代萩の地下茎が立ちはだかってなかなか掘れない。

そこで、枯れ草を一カ所に集めてその回りを掘り起こす従来のニューギニア式に戻した。

スコップで深く掘らなくても、代萩の地下茎はそれほど深くないので、備中鍬に持ち替えた。

最近ではサンボンコとここいらで言われる備中鍬を使っている人を殆ど見かけない。

大抵は小型耕運機を用いて耕している。

私も少し馬力のある小型耕運機を持っているが、今回は持ってきていない。

そこで、父親から教わった備中鍬で掘り起こして草を取るやり方を実践した。


それは深く根付いた草に鍬を打ち込んで、テコのようにして引き抜く。

そして、土のついた根の部分を、鍬3本刃の逆の部分で叩いて土を落とす。

最後に手で持って鍬の柄や刃などにぶつけて土を払い落とすやり方だ。

この時は盛り土の上にサツマイモの苗を植えることよりも、地下茎のない土の上に植えようと思ったので、掘り起こした地下茎は盛った土の上に置いておいた。

予定では40本の苗を植える予定なので、その広さを確保しようとしていた。

ところがなかなか作業が進まず、盛り土にも植える必要を感じて、地下茎も一緒にした枯れ草の山に土を被せた。

これはたぶん間違いだろう。

地下茎が芽を出すことが考えられる。

ニューギニアでは前もって地下茎のある草でも干して、発芽することを防いでいたのだと思う。

そして、やりながら気がついたのだが、こんもりとした盛り土にするのは周りの草を刈ったり、掘り起こしたりした物を集めるのに都合が良いからだ。


ニューギニアでは古くから石器が農具として用いられているので、私の今回のやり方とほぼ同じでは無いかと思われる。

ただ、北アメリカ原産の代萩のような厄介な植物は生えていなかったように思う。

イネ科の草であればもっと楽に掘り起こすことができそうである。

現に、上郡にある自宅裏の畑では、スコップで簡単に掘り上げて高畝を作ることができて、現在はジャガイモを植えている。

従来なら刈った草は燃やして焼き畑のようにして、野原になった畑を復活させる方が手間がいらないだろう。

しかし、今回の代萩のように地下茎でしぶとい草の場合はニューギニア式のやり方が有効に思えた。

ただし、小型耕運機で耕した方が労力的には楽だっただろうと思う。



2025年5月30日金曜日

雨ニモマケズ 毎日玄米四合?

 一日ニ玄米四合ト 味噌ト少シノ野菜ヲタベ


これは宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の有名な一節で有る。

因みに四合は白米では600gくらいだそうで、玄米もそれくらいだろう。

そうすると1ヶ月30日で白米なら18kg食べることになる。

現在白米1kgを1000円とするなら、18000円の米代ということになる。


丈夫ナカラダヲモチ 慾ハナク


という言葉が空々しく感じてしまう。

因みに私が大学時代の45年ほど前で、親からの仕送りが2万円で奨学金が36000円、そこから家賃1万円を支払い暮らしていた。

玄米食だったら白米よりも栄養価が高いので、他のおかずが少なくても足りていたかもしれないが、当時の私としては欲どおしくおもえる。

これは昭和6年頃に書かれた詩らしいが、当時の欲の無い庶民はそんなにお米を食べていたのだろうか?

江戸時代から戦前にかけて、年間一人1石(150kg)食べるのが普通ということで、月に直すと12.5kgなので、18kgも食べた賢治は玄米の食べ過ぎである。


ただ、この詩は手帳のメモ書きだったそうで、最後に


ソウイウモノニ ワタシハナリタイ


とあるから、実際は毎日玄米四合も食べられていなかったかもしれない。

このように解釈すれば、当時の実際の貧しい生活を詩にしたのでは無く、こんな生活がしてみたいという願望とも受け止められる。

因みに私は一月に食べる玄米は四合であるので、賢治の言う1日分を1ヶ月かかって食べている。

もちろん他の穀物と混ぜた雑穀米として食べている。

我が家は夫婦二人と息子のひとりの3人暮らしで、計算すると年間150kgの玄米(22、500円)を食べている。

といいうことは3人で昔の一人分と言うことだ。


一方で、仮にこの当時の庶民が一日四合も食べるようになっていたとすれば、近代化によって食生活が変化したとも考えられる。

戦後は「貧乏人は 麦を食え」とばかり、麦への食転換が図られて米の消費も抑えられていく。

今の気候変動の激しい中で、食料の国家戦略の見直しが迫られている。

江戸時代の饑饉は気候変動だけで無く、藩の政策も誤っていたし、全国的な支援関係が築かれていなかったことが原因だと言われている。

そもそも、年貢米のために水稲一辺倒の農業を推し進めていった江戸時代の政策にも大きな問題があった。

それでも、山地の焼き畑が残っていて、米に頼らずとも生活できた人は多くいたのだ。

昔の焼き畑に戻れとは言わないが、水稲一辺倒の農業や白米一辺倒の食生活を変えていくべき時代になったということだ。

宮沢賢治の詩は「他山の石」として読み解く必要があると思う。



2025年5月28日水曜日

JAバンクからPayPay銀行へ

 私は年金はJAバンクに入るように手続きしている。

JAバンクの支店は村にもあって、ATMでの引き出しが土日でも手数料なしでできるのが魅力だった。

年金の手続きも無料でしてくれて助かった。

ところが、正式な銀行名が長くて振り込みの手続きが面倒だし、PayPayカードでクレジットカードを作るのも時間がかかる。

そもそも、普通預金は金利が低い。

それに対して、PayPay銀行は近くのコンビニのATMが使えるし、金利が高い上にクレジットカードが簡単に作れた。

JAバンクに貯まったお金をPayPay銀行に移し、これから年金が入ったら随時移していこうと思っている。


最近、店での支払いはPayPayを用いることが殆どだ。

定期的に現金を使うのは、通院している医院の支払いだけで、薬代は薬局でPayPayで支払いポイントもついている。

買い物もamazonやYahooの通販を使うことが多い。

理由は近くに大店舗が無いこともあるが、じっくり選べるし、必要なときに買えるからだ。

物によっては1時間以上かけて比較検討している。

店に行って一つの品物にそんな時間をかけることはできない。

独自のプリペイドカードを出しているイオンなどの支払いは家内に任せている。


実は現金は意外なところでよく使っている。

それはプールのロッカーだ。

週に3回温水プールに行っているが、ロッカーにコインがいる。

上郡のプールは毎回10円必要だし、相生のプールは使うときに100円を入れて終わったら戻ってくる。

それと、たまに行く神社や仏閣でのお賽銭は小銭を使っている。

財布は土日に家内とドライブに出かけるときには持参しているが、普段プールに行くときは小銭入れにコインを入れ、スマホカバーに免許証と入れている。

鉄道を利用するときもICOCAとクレジットカードを使えば現金が必要で無くなった。


実は村のJAバンクにはかつてはスーパーマーケットのAコープが併設されていた。

それは30年ほど前に閉じられ、上郡にあった唯一の大きなAコープも数年前に閉じられた。

ある意味でJAは田舎において、今のコンビニと同じ役割を果たしていたのだった。

今住んでいる近くにはコンビニはあるが、コンビニが近くに無い村は沢山ある。

私が生まれた赤穂の鳥撫がそうだが、叔母さんに聞くと移動スーパーのとくし丸を利用しているという。

かつては叔父と二人で車に乗って買い物に出かけていたのだが、老化が進んで出かけられなくなっている。

上郡近辺はコープ神戸が個配をしてくれたり、移動スーパーがやって来てくれている。

JAの残された役割は郵便局同様に金融のみということになってしまった。

しかし、ネット銀行が普及して若い世代が乗り換えていくのも時間の問題だろう。

年金をPayPay銀行で受け取るようになったら、JAバンクは必要で無くなる。

そしたらJAは農村で何の役割を果たすのだろうか?

かつて農業資材や肥料をJAで買っていたのだが、値段が高いのでホームセンターで今は買っている。

今回の米騒動もJAと農水族の癒着に大きな問題があることが分かった。

戦後の日本の農業を担ってきた農協・JAは米と選挙のためだけに残っていくのだろうか?