先日私が今勤めている施設で大掃除があった。
その施設には古い講堂や廟があるので、それの儀式的な大掃除である。
NHKの取材も毎年来るそうで、今年も女性が一人カメラを担いでやってきた。
私は臨時の身だし、見習い中なので映りたくは無かった。
拭き掃除をしていたら、知らぬ間に傍で映されていた。
それがしかっかりと、NHK岡山のローカルニュースで流された。
自分としては頭のてっぺんが薄いのがやたら気になった。
たくさん撮影されたのに、なぜ自分のが選ばれたのか?
きっと、古い建物だから、若い職員だけで無く年配の職員も映像に加えたかったのだろう。
なおこの施設では、正月4日の行事にたくさんの来客があるそうである。
今日は赤穂の母親の住む家の庭掃除をしてきた。
秋に庭木の手入れをしていて、きちっと始末していなかった。
自分の住む家は、まだできていなけれど、明日弟たちが帰省するので少しでもきれいにしておこうと思った。
自分たちの育った実家は、母親が一人で暮らしている。
母親は足が悪くなったので、週に一度ヘルパーさんが手伝いに来てくれている。
近くに住む末の弟も、よく母親の面倒を見てくれている。
帰省する2家族の弟たちは、去年から実家には泊まらずに近くのホテルに泊まっている。
なるべく、母親の負担にならないようにと言うことである。
今年も実家の近くにホテルに宿泊して、食事も外で一緒にすることになった。
しかも、今年は正月では無くて、ホテルのとりやすい30日に帰省して次の日に帰る。
神奈川から帰省する弟は、正月には殆ど戻ってこなかったが、去年くらいから母親が心配になったようだ。
家は昔は結婚式、葬式、盆正月など悔やみごと祝い事を行える場所だった。
今は、盆正月でさえ、私の家や実家のように人が集える場所でなくなってしまった。
以前のようにゆっくりと盆正月をゆっくりと過ごすことが無くなったからだろう。
末の弟は警備関係の仕事なので、年末も正月も出勤する。
遠くに居ても、近くに居てもじっくり一緒に過ごす機会は失われてしまった。
それでも何とか会おうとするのだから、盆正月はありがたい機会であり続けている。
たとえ人が集わない家でも大掃除するので、せめて歳の神様くらいは来てほしいと願うばかりである。
播磨の西外れにある私の生まれ育った赤穂や、今暮らしている上郡に関すること、農作業,山野河海の恵み、趣味の水泳、音楽、専門である有機農業や、教育、文化人類学、民俗学に関することなどを、きままに記してみます。
ページビューの合計
2017年12月29日金曜日
2017年12月27日水曜日
小田和正「クリスマスの約束2017」をみて
毎年小田和正の「クリスマスの約束」を楽しみにしている。
私は家内からテレビや映画の情報を得ることが多いが、これもその一つであった。
70歳にして若いミュージシャンとこれだけ上手くコラボできる力量に敬服する。
今回はかまやつひろしの追悼コーナーで、かまやつの曲のアクを上手く抜いて心地よい音楽を聴かせてくれた。
かまやつが小田に最初シカトされたという思い出ビデオを出すところなど、小田の若気をつかってかまやつの人柄を出していたのも良かった。
私は家内からテレビや映画の情報を得ることが多いが、これもその一つであった。
70歳にして若いミュージシャンとこれだけ上手くコラボできる力量に敬服する。
今回はかまやつひろしの追悼コーナーで、かまやつの曲のアクを上手く抜いて心地よい音楽を聴かせてくれた。
かまやつが小田に最初シカトされたという思い出ビデオを出すところなど、小田の若気をつかってかまやつの人柄を出していたのも良かった。
私も熊木杏里の曲は好きだったのだが、NHKの番組音楽に使われた「君の名前」など数曲しか知らなかった。
思春期の繊細さの表現は素晴らしいとおもいつつ、自分が歌える曲では無かった。
今回初めてテレビで人柄を見て、曲のイメージとは違い意外と明るいなと思った。
会場には4万通を超える延べ10万人の中から選ばれた3,000人の観客がいたそうだが、映し出された観客も、音楽の背景として上手く使っていた。
私はどちらかというと、斜に構える聴衆であり、きっと会場にいたら違和感を感じただろうと思う。
撮ったビデオを家内とみながら、「高音」のボーカルばっかりや!と下らぬ言いがかりをつけていた。
それは憧れの裏返しでもあった。
一番素晴らしかったのは、エンディング前の「ダニーボーイ」、エンディングのFlagだった。
彼なりのメッセージが込められているのがよく分かった。
北朝鮮を巡って、日本がおかしくなっているのを訴えたかったのだと思う。
かつての若者はその理想を忘れてしまったのかと言いたかったのだろう。
かつての若い世代や今の若い世代にもきっと彼らのメッセージは伝わったと思う。
2017年12月25日月曜日
クリスマスのお菓子の家
クリスマスでいつも思い出すのは、家内が子供のためにお菓子の家を買ってきたことである。
なかなか細かくて、作るのに非常に手間取った。
長い時間をかけて、作った割には食べるのは速かった。
記念の写真を撮るために作ったところもある。
なかなか細かくて、作るのに非常に手間取った。
長い時間をかけて、作った割には食べるのは速かった。

私の子供の頃も、父親が特別に鶏をつぶして、吉岡鍋で焼いたことがある。
古い小さな家の庭の片隅で鶏を飼っていた。
その鶏の卵はごちそうで、鶏の肉はかなりのごちそうだった。
だから、クリスマスはめったにないごちそうが食べられる日。
大きなクリスマスケーキも、一年に一度の楽しみだった。
このケーキを親子6等分に切るのが大変で、4人兄弟は良いところを狙っていた。
そして、じゃんけんで順番を決めて好きな部分をとった。
小さい弟は、飾り付けに目が行っていたように思う。
私は飾りのチョコレートが好きだった。
しかし、じゃんけんは弱かった。
昨日のクリスマスイブは夫婦と息子3人で、ドライブ帰りに買ったコンビニのフライドチキンとティラミスケーキを食べた。
ささやかなクリスマスイブだった。
我が家ではもうクリスマスは特別な日ではなくなって久しい。
夕方から降り出した雨も、夜更け過ぎには、雪どころか大雨となった。
それでも、一人きりでは無い、穏やかな幸せの夜となった。
2017年12月24日日曜日
絆を描いていた「陸王」
数々の困難を乗り越えてシューズ「陸王」は成功した。
ドラマはハッピーエンドが一番良い。
ドラマ立てが良いと涙しながら感心してみていた。
成功した部分だけを取り上げれば、安っぽいドラマようにも感じる。
多くの人に感動を与えたのは、困難を乗り越えながら信頼に結ばれた選手、職場、家族などの仲間の絆の大切さを描いたからであろう。
そして、極端にわかりやすく拝金主義を皮肉っていた。
作者が元銀行員だけあったり、経営コンサルタントもしていということの裏返しにも思えた。
今の銀行が低金利時代で苦しく、年寄りに外貨建ての保険を勧めて負担となる手数料で儲けていることが頭によぎる。
今の時代が、信頼や絆を失っているからこそ、このドラマが人気を呼ぶのであろう。
話は違うが、今日は岡山県のことをもっと知ろうと思い、愚犬クロをもらいにいった賀陽まで家内と一緒に行ってきた。
2年半前にあばらの浮き出た、処分される寸前の犬を私たちは遠くまでもらいにいった。
その時は自動車道を使っていったので、下道を使うとこんな山奥とは思わなかった。
吉備高原の中にあって、国道と言いながらやっと二台がすれ違えるような道を通っていった。
因みに吉備高原は西播磨の龍野あたりまでを含む、広大な高原であり播磨科学公園都市もそのなかに含まれる。
そこにある道の駅「かよう」で、処分される犬や猫を助ける活動をしている方からクロを頂いた。
不幸な犬や猫を救おうとしているボランティアの方には何のお礼もしていない。
その人はただ、猟犬であるクロを持て余さないかを心配していた。
そのクロは時々は持て余すこともあるが、大切な家族としての信頼で暮らしている。
「陸王」のような感動ドラマでは無いけれど、ボランティアの方のおかげで家族の絆が得られたのである。
色々大変なことがあり、長い間ドライブにでかけられなかった。
今回はクロのことをだしにして、出かけられたともともいえる。
それが、それなりに起伏のとんだ日常のドラマの一幕のような気もする。
ドラマはハッピーエンドが一番良い。
ドラマ立てが良いと涙しながら感心してみていた。
成功した部分だけを取り上げれば、安っぽいドラマようにも感じる。
多くの人に感動を与えたのは、困難を乗り越えながら信頼に結ばれた選手、職場、家族などの仲間の絆の大切さを描いたからであろう。
そして、極端にわかりやすく拝金主義を皮肉っていた。
作者が元銀行員だけあったり、経営コンサルタントもしていということの裏返しにも思えた。
今の銀行が低金利時代で苦しく、年寄りに外貨建ての保険を勧めて負担となる手数料で儲けていることが頭によぎる。
今の時代が、信頼や絆を失っているからこそ、このドラマが人気を呼ぶのであろう。
話は違うが、今日は岡山県のことをもっと知ろうと思い、愚犬クロをもらいにいった賀陽まで家内と一緒に行ってきた。
2年半前にあばらの浮き出た、処分される寸前の犬を私たちは遠くまでもらいにいった。
その時は自動車道を使っていったので、下道を使うとこんな山奥とは思わなかった。
吉備高原の中にあって、国道と言いながらやっと二台がすれ違えるような道を通っていった。
因みに吉備高原は西播磨の龍野あたりまでを含む、広大な高原であり播磨科学公園都市もそのなかに含まれる。
そこにある道の駅「かよう」で、処分される犬や猫を助ける活動をしている方からクロを頂いた。
不幸な犬や猫を救おうとしているボランティアの方には何のお礼もしていない。
その人はただ、猟犬であるクロを持て余さないかを心配していた。
そのクロは時々は持て余すこともあるが、大切な家族としての信頼で暮らしている。
「陸王」のような感動ドラマでは無いけれど、ボランティアの方のおかげで家族の絆が得られたのである。
色々大変なことがあり、長い間ドライブにでかけられなかった。
今回はクロのことをだしにして、出かけられたともともいえる。
それが、それなりに起伏のとんだ日常のドラマの一幕のような気もする。
2017年12月22日金曜日
午後の図書館
私は中学生くらいからよく赤穂の図書館を利用した。
今の大きな図書館ができる前は、市民会館の隣の小さな図書館だった。
学習室でテスト勉強をするまねをして、よく友達と喋ったりしていた。
大学受験前や浪人中、教員採用試験前には旧図書館に通っていた。
10年ほど前は、長期研修で大学院に通っていたので、その論文作成のために新図書館に通った。
最近は本は県立図書館から取り寄せて借りるので、上郡の図書室を利用することが多く、滅多に行かなかった。
先日の日曜は一人で時間をつぶすことになり、赤穂にとりあえず出かけた。
ぶらっと、リサイクルショップで品物を眺めたり、赤穂港に行って海を眺めた。
身内に不幸があったばかりで、滅入った気持ちは晴れることは無かった。
それで気が晴れそうな健康雑誌でも読もうと思い、図書館へ行った。
雑誌コーナーで一人で雑誌を読んでいると、目の前に教え子のKが座った。
「わたし おぼえとる?」
彼女のことは忘れるはずは無い。
赤穂高校でKが2年生の時に担任したすごく元気だった生徒である。
卒業後も駅で立ち番をしている時に、大きな声で手を振って挨拶をしてくれた。
Kは医療系の専門学校に家から通っていて、試験勉強のために図書館に来ていた。
高校時代では図書館で会うことはあり得ない生徒だった。
彼女と話している内に、滅入っていた気持ちが晴れてきた。
勉強の邪魔にならないように、長話はしなかったがちょっとした会話が楽しかった。
教え子に気楽に声をかけてもらい、当時と同じような教師と生徒の関係で話をする。
Kも相変わらずの語り口だし、私も「おまえ」という二人称を使って話をしていた。
同窓会など特別な行事ではなくて、こうした普段出会える場で話ができるのが良い。
本当は図書館は会話する場所では無いけれど、ゆっくりした時間を過ごす場なので、互いの時間を気にしなくて良い。
そういえば、学生時代は図書館へ来たのに、近くの喫茶店で駄弁っていた時間の方が長かった。
教え子の中には、手紙で博物館の招待券を送ってくれた生徒もいる。
ちょうど私が研究していた沖縄に関するものなので、非常に役に立った。
遠くに居ても覚えていてくれて、このブログを読んで気を遣ってくれる生徒もいることも嬉しい。
退職した後は、関わる人との範囲が狭まって、内向きの気持ちになりがちだ。
この12月からは新しい職場に通い始めたが、慣れない仕事でストレスもたまっていた。
図書館いれば教え子に、会えるかもしれないし、知り合いに会えるかもしれない。
受験前の自分に戻ったみたいだ・・・
今の大きな図書館ができる前は、市民会館の隣の小さな図書館だった。
学習室でテスト勉強をするまねをして、よく友達と喋ったりしていた。
大学受験前や浪人中、教員採用試験前には旧図書館に通っていた。
10年ほど前は、長期研修で大学院に通っていたので、その論文作成のために新図書館に通った。
最近は本は県立図書館から取り寄せて借りるので、上郡の図書室を利用することが多く、滅多に行かなかった。
先日の日曜は一人で時間をつぶすことになり、赤穂にとりあえず出かけた。
ぶらっと、リサイクルショップで品物を眺めたり、赤穂港に行って海を眺めた。
身内に不幸があったばかりで、滅入った気持ちは晴れることは無かった。
それで気が晴れそうな健康雑誌でも読もうと思い、図書館へ行った。
雑誌コーナーで一人で雑誌を読んでいると、目の前に教え子のKが座った。
「わたし おぼえとる?」
彼女のことは忘れるはずは無い。
赤穂高校でKが2年生の時に担任したすごく元気だった生徒である。
卒業後も駅で立ち番をしている時に、大きな声で手を振って挨拶をしてくれた。
Kは医療系の専門学校に家から通っていて、試験勉強のために図書館に来ていた。
高校時代では図書館で会うことはあり得ない生徒だった。
彼女と話している内に、滅入っていた気持ちが晴れてきた。
勉強の邪魔にならないように、長話はしなかったがちょっとした会話が楽しかった。
教え子に気楽に声をかけてもらい、当時と同じような教師と生徒の関係で話をする。
Kも相変わらずの語り口だし、私も「おまえ」という二人称を使って話をしていた。
同窓会など特別な行事ではなくて、こうした普段出会える場で話ができるのが良い。
本当は図書館は会話する場所では無いけれど、ゆっくりした時間を過ごす場なので、互いの時間を気にしなくて良い。
そういえば、学生時代は図書館へ来たのに、近くの喫茶店で駄弁っていた時間の方が長かった。
教え子の中には、手紙で博物館の招待券を送ってくれた生徒もいる。
ちょうど私が研究していた沖縄に関するものなので、非常に役に立った。
遠くに居ても覚えていてくれて、このブログを読んで気を遣ってくれる生徒もいることも嬉しい。
退職した後は、関わる人との範囲が狭まって、内向きの気持ちになりがちだ。
この12月からは新しい職場に通い始めたが、慣れない仕事でストレスもたまっていた。
図書館いれば教え子に、会えるかもしれないし、知り合いに会えるかもしれない。
受験前の自分に戻ったみたいだ・・・
2017年12月19日火曜日
哀しみが結ぶ絆
この12月13日、私にとって大切な義父が亡くなった。
享年88歳だから、天寿を全うしたと言っても良いかもしれない。
ただ、最近まで非常に元気だったので、私も周りの者も心の準備ができていなかった。
葬儀にはもう十何年も会っていない親戚が集まった。
私にとってはその最後に会ったのは、やはり葬儀での時だった。
義父は広島県のある島で生まれ育った。
今でも船でないと渡れない島である。
義母も島育ちだが、その島は橋が架かり車で直接行ける。
行こうと思えば行けなくはなかったのだが、きっかけが無かった。
通夜の夜、私は葬儀会館に子供や義理の弟夫婦と夜伽をした。
義弟夫婦とは、正月や盆に毎年のように会うのだが、こうしてじっくり飲み明かすことは無かった。
義弟は私の中学校高校の後輩でもあり、共通の話題も事欠かなかったが、内容の濃い話は余りしなかった。
義理の弟夫婦とは20年以上の付き合いがありながら、今までの浅い関わり方を考えざるを得なかった。
葬式の後の食事でも、義母方の親戚と色々と話ができた。
栽培しているミカンのことや、島の様子や昔の葬式の話などをした。
義父の家はは浄土宗で、室津の浄運寺さんにお願いした。
火葬が終わり、浄運寺まで出向いて初七日まで済ませた。
その日は小春日和の穏やかな日で、浄運寺からは室津の湾の景色が心を和ませてくれた。
そこでは、義父方の親戚で網干に住んでいる人から、この付近の湾に沈む沈没船と遺物について聞いた。
私にとって非常に関心のあることを、親戚の人もやっていたことを初めて知った。
これから、法事に際しては近しい親戚とはまた会えるだろう。
しかし、遠い親戚はまたこういう葬式で無いと会えないのかもしれない。
本当なら、お祝いの機会に会えれば良いと思うが、悔やみの機会にしか会えないのが残念だ。
ただ、大切な義父を失ったことは、非常に残念ではあるが、義弟を中心とした親戚との絆を確かめられたのは慰めとなった。
葬儀社の宣伝で「生きるための儀式」として宣伝文句がいままでは空々しく思えていた。
こういう機会を得て、確かに、残された者にとってあの世に旅立つ人が、与えてくれた大切な機会なのだと思える。
人と人との関わりが希薄になっていく時代にあって、残された数少ない深い関わりの場となっているのかもしれない。
そして、夫婦や親子が一緒になってその大切な絆を大切にしなければならないとも思った。
享年88歳だから、天寿を全うしたと言っても良いかもしれない。
ただ、最近まで非常に元気だったので、私も周りの者も心の準備ができていなかった。
葬儀にはもう十何年も会っていない親戚が集まった。
私にとってはその最後に会ったのは、やはり葬儀での時だった。
義父は広島県のある島で生まれ育った。
今でも船でないと渡れない島である。
義母も島育ちだが、その島は橋が架かり車で直接行ける。
行こうと思えば行けなくはなかったのだが、きっかけが無かった。
通夜の夜、私は葬儀会館に子供や義理の弟夫婦と夜伽をした。
義弟夫婦とは、正月や盆に毎年のように会うのだが、こうしてじっくり飲み明かすことは無かった。
義弟は私の中学校高校の後輩でもあり、共通の話題も事欠かなかったが、内容の濃い話は余りしなかった。
義理の弟夫婦とは20年以上の付き合いがありながら、今までの浅い関わり方を考えざるを得なかった。
葬式の後の食事でも、義母方の親戚と色々と話ができた。
栽培しているミカンのことや、島の様子や昔の葬式の話などをした。
義父の家はは浄土宗で、室津の浄運寺さんにお願いした。
火葬が終わり、浄運寺まで出向いて初七日まで済ませた。
その日は小春日和の穏やかな日で、浄運寺からは室津の湾の景色が心を和ませてくれた。
そこでは、義父方の親戚で網干に住んでいる人から、この付近の湾に沈む沈没船と遺物について聞いた。
私にとって非常に関心のあることを、親戚の人もやっていたことを初めて知った。
これから、法事に際しては近しい親戚とはまた会えるだろう。
しかし、遠い親戚はまたこういう葬式で無いと会えないのかもしれない。
本当なら、お祝いの機会に会えれば良いと思うが、悔やみの機会にしか会えないのが残念だ。
ただ、大切な義父を失ったことは、非常に残念ではあるが、義弟を中心とした親戚との絆を確かめられたのは慰めとなった。
葬儀社の宣伝で「生きるための儀式」として宣伝文句がいままでは空々しく思えていた。
こういう機会を得て、確かに、残された者にとってあの世に旅立つ人が、与えてくれた大切な機会なのだと思える。
人と人との関わりが希薄になっていく時代にあって、残された数少ない深い関わりの場となっているのかもしれない。
そして、夫婦や親子が一緒になってその大切な絆を大切にしなければならないとも思った。
2017年12月7日木曜日
AKB58の悩み
私は先日(12/1)より、備前市の社会教育施設で働き始めたので、AKB58ととなった。
A:赤穂で生まれ、K:上郡で暮らし、B:備前市で働く58歳である。
初日の職場カルチャーショックにさいなまれた。
上郡の自宅から赤穂高校へ行くほどの距離なのに、異次元の世界なのである。
岡山(備前)弁が飛び交う世界。
「~じゃろう」「~せられー」「ぼっけー」がふんだんに用いられ、30年ぶりのカルチャーショックを受けた。
私は大学が名古屋だったので、そこで名古屋弁の洗礼を受けた。
そして大学院は東京で、こちらは東京弁の日常化の洗礼を受けた。
職場は尼崎も経験したが、殆どが播州内に収まっていたので、言葉の違和感はさほどでは無かった。
かつて入院していた赤穂中央病院では看護師や患者がそこそこ岡山弁だった。
ただそれは、二週間ほどで終わった。
今回の違和感は仕事について以来と言うことになる。
家に居ても、よく耳をすませれば近所に備前から来た人が話をしている。
しかし、少数派なので意に留めなかった。
ところが、今度の職場は播州弁をしゃべる私が少数派どころか、唯一の存在なのである。
名古屋でも東京でも播州弁を失うことはなかった。
ただ、奄美に行った時は習いたての「シマ口(奄美語)」を使うことを心がけた。
今回は岡山弁を習って使うかどうか迷っている。
わざと使うと、不自然に感じられるかもしれない。
以前から主張している「多方言主義」で行くしかないかなとも思っている。
幸い、今度の職場には両親とも赤穂の人が居るので、ニュアンスも理解してもらえるだろう。
気をつけねばならないは、遠くから来た人を案内をする時に播州弁で話すと、違和感を感じさせるかもしれない。
その時は、東京で身につけた標準語を用いようと思っている。
残念なのは、せっかく身につけた名古屋弁や奄美語を活かす機会が無いことだ。
教師をしていた時は、時々紹介していた。
名古屋や奄美からの来所者を待つしかないか・・・
A:赤穂で生まれ、K:上郡で暮らし、B:備前市で働く58歳である。
初日の職場カルチャーショックにさいなまれた。
上郡の自宅から赤穂高校へ行くほどの距離なのに、異次元の世界なのである。
岡山(備前)弁が飛び交う世界。
「~じゃろう」「~せられー」「ぼっけー」がふんだんに用いられ、30年ぶりのカルチャーショックを受けた。
私は大学が名古屋だったので、そこで名古屋弁の洗礼を受けた。
そして大学院は東京で、こちらは東京弁の日常化の洗礼を受けた。
職場は尼崎も経験したが、殆どが播州内に収まっていたので、言葉の違和感はさほどでは無かった。
かつて入院していた赤穂中央病院では看護師や患者がそこそこ岡山弁だった。
ただそれは、二週間ほどで終わった。
今回の違和感は仕事について以来と言うことになる。
家に居ても、よく耳をすませれば近所に備前から来た人が話をしている。
しかし、少数派なので意に留めなかった。
ところが、今度の職場は播州弁をしゃべる私が少数派どころか、唯一の存在なのである。
名古屋でも東京でも播州弁を失うことはなかった。
ただ、奄美に行った時は習いたての「シマ口(奄美語)」を使うことを心がけた。
今回は岡山弁を習って使うかどうか迷っている。
わざと使うと、不自然に感じられるかもしれない。
以前から主張している「多方言主義」で行くしかないかなとも思っている。
幸い、今度の職場には両親とも赤穂の人が居るので、ニュアンスも理解してもらえるだろう。
気をつけねばならないは、遠くから来た人を案内をする時に播州弁で話すと、違和感を感じさせるかもしれない。
その時は、東京で身につけた標準語を用いようと思っている。
残念なのは、せっかく身につけた名古屋弁や奄美語を活かす機会が無いことだ。
教師をしていた時は、時々紹介していた。
名古屋や奄美からの来所者を待つしかないか・・・
2017年12月2日土曜日
望まれる呑み鉄専用車両
「六角精児の呑み鉄本線・日本旅」(NHK)は大好きな番組で、いつも見ている。
実は私も以前は「呑み鉄」だった。
学生時代は青春切符を使って色々と列車で回ったり、帰省に用いたりした。
思い出残るのはいくつかあるが、一人で四国一周した時が一番飲んでいた。
なぜなら、四国の日本酒は格別に美味かったからだ。
「梅錦」「司牡丹」「土佐鶴」等々色々あった。
そして、四国は当時電化もされず、単線だったので鈍行は特急や急行を先に通すため、駅でずいぶん待たされた。
だから、ビールや酒で間を持たすしか無かった。
食べるのは宇高連絡線フェリーの中のうどんから始まっていた。
海端の駅でベンチに座り海を眺めてビールを飲んだ。
ユースホテルで知り合った若者に途中で車に乗せてもらったが、後部座席で呑んでいたので、雰囲気が悪くなり降りた。
やはり、呑むのは列車の中とか、バスの中しか無理だろう。
酒好きの私の父親は、ドライブには必ずワンカップを持参した。
家族は嫌がったが、それが父親の楽しみだったので黙認していた。
呑み鉄にしろ、呑み車にしろ、最大の問題はトイレである。
私がビールではなく、酒を選んでいたのはトイレが近くなるからだ。
ドライブの時は父親のために、何度もパーキングに止まった。
私は列車に乗る時は、必ずトイレのある車両に乗る。
今回の「三江線を呑む! 2017/11/29 放送」は一両編成のトイレなしに六角さんは乗っていた。
しかも、いきなりビールを飲んでいる。
トイレはどうするのだと心配したが、ちゃんとふらっと途中下車していた。
彼はトイレは近くないのかもしれないが、何となく途中下車が計画的に思えた。
この三江線は素晴らしい川沿いの景色で来年3月に廃止される前に乗ってみたいと思った。
私は川沿いの鉄道は飯田線が一番好きだった。
地元に帰って田舎では車が便利で、鉄道は滅多に使わない。
青春切符はご老人がよく使い、その時期は列車も満杯だ。
今度の仕事は休みが平日になりそうなので、呑み鉄をしようかと思っている。
ただ心配なのはこの歳になると、呑み鉄をするとただのアル中に思われかねない。
以前も、前に座っていたご老人が、いきなりワンカップを飲み始めてそう思った。
どうせ飲むのならかっこよく、ウィスキーやジンの方が良いかもしれない。
いつも飲んでいる芋焼酎は匂いで気づかれるので、まだ黒糖焼酎が良いかもしれない。
因みに奄美に行くフェリーは、見知らぬ者同士で黒糖焼酎の宴会船と化していた。
豪華列車も良いけれど、呑み鉄専用車両ないしコーナーをJRさんもうけてほしい・・・
実は私も以前は「呑み鉄」だった。
学生時代は青春切符を使って色々と列車で回ったり、帰省に用いたりした。
思い出残るのはいくつかあるが、一人で四国一周した時が一番飲んでいた。
なぜなら、四国の日本酒は格別に美味かったからだ。
「梅錦」「司牡丹」「土佐鶴」等々色々あった。
そして、四国は当時電化もされず、単線だったので鈍行は特急や急行を先に通すため、駅でずいぶん待たされた。
だから、ビールや酒で間を持たすしか無かった。
食べるのは宇高連絡線フェリーの中のうどんから始まっていた。
海端の駅でベンチに座り海を眺めてビールを飲んだ。
ユースホテルで知り合った若者に途中で車に乗せてもらったが、後部座席で呑んでいたので、雰囲気が悪くなり降りた。
やはり、呑むのは列車の中とか、バスの中しか無理だろう。
酒好きの私の父親は、ドライブには必ずワンカップを持参した。
家族は嫌がったが、それが父親の楽しみだったので黙認していた。
呑み鉄にしろ、呑み車にしろ、最大の問題はトイレである。
私がビールではなく、酒を選んでいたのはトイレが近くなるからだ。
ドライブの時は父親のために、何度もパーキングに止まった。
私は列車に乗る時は、必ずトイレのある車両に乗る。
今回の「三江線を呑む! 2017/11/29 放送」は一両編成のトイレなしに六角さんは乗っていた。
しかも、いきなりビールを飲んでいる。
トイレはどうするのだと心配したが、ちゃんとふらっと途中下車していた。
彼はトイレは近くないのかもしれないが、何となく途中下車が計画的に思えた。
この三江線は素晴らしい川沿いの景色で来年3月に廃止される前に乗ってみたいと思った。
私は川沿いの鉄道は飯田線が一番好きだった。
地元に帰って田舎では車が便利で、鉄道は滅多に使わない。
青春切符はご老人がよく使い、その時期は列車も満杯だ。
今度の仕事は休みが平日になりそうなので、呑み鉄をしようかと思っている。
ただ心配なのはこの歳になると、呑み鉄をするとただのアル中に思われかねない。
以前も、前に座っていたご老人が、いきなりワンカップを飲み始めてそう思った。
どうせ飲むのならかっこよく、ウィスキーやジンの方が良いかもしれない。
いつも飲んでいる芋焼酎は匂いで気づかれるので、まだ黒糖焼酎が良いかもしれない。
因みに奄美に行くフェリーは、見知らぬ者同士で黒糖焼酎の宴会船と化していた。
豪華列車も良いけれど、呑み鉄専用車両ないしコーナーをJRさんもうけてほしい・・・
2017年11月30日木曜日
目覚めろ!Calling
寒くなると、寝室は雨戸を閉めるので、朝は暗いままだ。
どうしても夜更かしをするので、朝起きるのが遅くなる。
12月からは朝から仕事にも行くので、朝早く起きる習慣をつけねばならない。
そこで、いつも寝る時に聞くiPadを目覚ましに使うことにした。
その目覚まし曲は、B'zのCalling、関西弁で言うと「呼んでまっせ」と言うところだろうか。
歌詞の内容は、もっと切実な叫びだろうが、朝はその程度の感覚である。
スヌーズなので、6時半に一回イントロが鳴ると、止める。
そして、10分間隔でなって、7時に1コーラスかけて停止する。
すると、隣で寝ている家内も否応なしに起きざるを得ないのである。
そして、この曲を聴くと元気に目覚めることができるのである。
以前このブログで「いつかのメリークリスマス 2012/12/17」で少し触れたが、B'zは以前勤めていた上郡高校の生徒と関わりが深い。
その生徒は、エレキギターの速弾きが得意で、二人で学園祭に出るというので、彼が選んできた。
教師生活の中で、職員バンドは忘年会や、文化祭、同窓会等々いろんなところでステージに立った。
しかし、生徒と組んだのはK君とだけである。
結局、バンドはベースも入って3人になったが、殆どB'zの曲で、1曲だけAerosmithのI don't want to miss a thingを私の希望で入れた。
このステージは本格的な、音響装置を業者を頼んでセッティングしていたので、私にとってこれまで最高の音響環境だった。
初期のB'zのように音源とかぶせてカバーした。
残念ながら、彼には仲間や友達が居なかったので、写真やビデオは残っていない。
でも、そのステージは今でも鮮明に記憶に残っている。
生徒が盛り上がりすぎて、生徒指導部長が押さえに入ったくらいだったからだ。
B'zを聴いたりすると、K君のことをよく思い出す。
彼は特別進学コースにいながら、大学進学を希望せず、音響関係の専門学校に行ったはずである。
因みに私は彼の担任では無く、授業を担当しているだけだった。
一日6時間もギター練習をする程のギター好きで、親も諦めていたようである。
周りと音楽に関して妥協が無かったのでバンドが組めず、私と組んだわけである。
彼とは練習だけで無く、音楽に関してもよく話をした。
修学旅行でグァム島へ行って、彼は浜辺で泳ぎもせず、私に音楽のことを切々と訴えかけてきた。
私も、その道で生きていきたいと思っていた頃があるので、彼の気持ちはよく分かっていた。
しかし、これで生活することも大変だと言うことも分かっていた。
彼には大学に行くよう何度も勧めたが駄目だった。
彼が今どんな仕事についているのか気がかりだが、自分で選んだ道に後悔はしていないだろうと思う。
私は大学の途中で別のことに惹かれて、その道から離れてしまった。
私にとってのCalling(天職)は歌手では無かった。
気の多い自分が30年も続けられたのだから、教職がCallingだったのかもしれない。
今はそこから離れたので、新しいCallingが呼んでるかも・・・
どうしても夜更かしをするので、朝起きるのが遅くなる。
12月からは朝から仕事にも行くので、朝早く起きる習慣をつけねばならない。
そこで、いつも寝る時に聞くiPadを目覚ましに使うことにした。
その目覚まし曲は、B'zのCalling、関西弁で言うと「呼んでまっせ」と言うところだろうか。
歌詞の内容は、もっと切実な叫びだろうが、朝はその程度の感覚である。
スヌーズなので、6時半に一回イントロが鳴ると、止める。
そして、10分間隔でなって、7時に1コーラスかけて停止する。
すると、隣で寝ている家内も否応なしに起きざるを得ないのである。
そして、この曲を聴くと元気に目覚めることができるのである。
以前このブログで「いつかのメリークリスマス 2012/12/17」で少し触れたが、B'zは以前勤めていた上郡高校の生徒と関わりが深い。
その生徒は、エレキギターの速弾きが得意で、二人で学園祭に出るというので、彼が選んできた。
教師生活の中で、職員バンドは忘年会や、文化祭、同窓会等々いろんなところでステージに立った。
しかし、生徒と組んだのはK君とだけである。
結局、バンドはベースも入って3人になったが、殆どB'zの曲で、1曲だけAerosmithのI don't want to miss a thingを私の希望で入れた。
このステージは本格的な、音響装置を業者を頼んでセッティングしていたので、私にとってこれまで最高の音響環境だった。
初期のB'zのように音源とかぶせてカバーした。
残念ながら、彼には仲間や友達が居なかったので、写真やビデオは残っていない。
でも、そのステージは今でも鮮明に記憶に残っている。
生徒が盛り上がりすぎて、生徒指導部長が押さえに入ったくらいだったからだ。
B'zを聴いたりすると、K君のことをよく思い出す。
彼は特別進学コースにいながら、大学進学を希望せず、音響関係の専門学校に行ったはずである。
因みに私は彼の担任では無く、授業を担当しているだけだった。
一日6時間もギター練習をする程のギター好きで、親も諦めていたようである。
周りと音楽に関して妥協が無かったのでバンドが組めず、私と組んだわけである。
彼とは練習だけで無く、音楽に関してもよく話をした。
修学旅行でグァム島へ行って、彼は浜辺で泳ぎもせず、私に音楽のことを切々と訴えかけてきた。
私も、その道で生きていきたいと思っていた頃があるので、彼の気持ちはよく分かっていた。
しかし、これで生活することも大変だと言うことも分かっていた。
彼には大学に行くよう何度も勧めたが駄目だった。
彼が今どんな仕事についているのか気がかりだが、自分で選んだ道に後悔はしていないだろうと思う。
私は大学の途中で別のことに惹かれて、その道から離れてしまった。
私にとってのCalling(天職)は歌手では無かった。
気の多い自分が30年も続けられたのだから、教職がCallingだったのかもしれない。
今はそこから離れたので、新しいCallingが呼んでるかも・・・
2017年11月28日火曜日
ガジュマルのガジュ子
私は勝手に植物にも名前をつける。
しかも、安易な名前だ。
以前世話していたハイビスカスはビス子
長年世話しているガジュマルはガジュ子である。
ハイビスカスは花を咲かせるので女性っぽくて良いのだが、ガジュマルは花をつけない。
ガジュ男でも良かったが、それでは寅さんに出ていた佐藤蛾次郎を連想してしまう。
彼を嫌いなわけではないが、あのイメージはちょっと・・・
そしたら、もっとかわいい名前をつけてやれよと思うかもしれない。
しかし、それも抵抗があった。
なぜならガジュマルは奄美ではケンムン(カッパのような妖怪)が宿る木と言われ、伐ると目が痛くなったりするという。
(上の写真は与路島の珊瑚の石垣とガジュマル)
シマの人もよく分かっていて、防風林の木であるので、伐ることを禁じていたこと。
木を伐ると白い液が出るので、それに目がやられて痛いと言っていた。
だから、可愛すぎるのもイメージに合わない。
買ってきたのは、もう20年ほど前だと思う。
子供が小さい折、家族で加西のフラワーセンターへ行き、人参ガジュマルとして買った。
人参ほどの大きさだったのが、今では上の写真のように1mを超している。
もっと手入れして、盆栽のように小さく育てれば良かったのだが、手を抜いて大きくなってしまった。
そうすると、冬場は寒さに弱いので、玄関に取り込んで置く。
それでも玄関は寒いので、春頃には葉っぱや小枝は枯れてしまっていた。
去年はさすがに根元付近まで枯れていたので、もう駄目だと思い庭にひっくり返しておいた。
すると、夏近くになると新しい枝葉が復活しているではないか。
やはり、ケンムンが居着くだけしぶとい木である。
部屋の中に入れるのは、ケンムンの関係で抵抗は少しあった。
因みに、奄美の人は真剣にケンムンの存在を信じている人も居る。
それでも生け垣以外に、庭で盆栽のように石を抱かせて育てている人もいた。
本土の人にとっては、今更カッパなんてと思うかもしれないが、まだ生きているのである。
私はケンムン話を嫌と言うほど聞かされたので、まるっきり信じていないわけでは無い。
ただ、防風林として大切してきた意味を汲んで、今回は部屋のスペースが空いたので置いた。
二階まで持って上がるのは大変な労力だったが、一度持って上がったら、夏場はベランダに出せば済む。
これから奄美与路島の原稿を書く時には、このガジュ子が助けてくれるだろう。
ただケンムンが出てきて相撲はとりたくないが・・・
しかも、安易な名前だ。
以前世話していたハイビスカスはビス子
長年世話しているガジュマルはガジュ子である。
ハイビスカスは花を咲かせるので女性っぽくて良いのだが、ガジュマルは花をつけない。
ガジュ男でも良かったが、それでは寅さんに出ていた佐藤蛾次郎を連想してしまう。
彼を嫌いなわけではないが、あのイメージはちょっと・・・
そしたら、もっとかわいい名前をつけてやれよと思うかもしれない。
しかし、それも抵抗があった。
なぜならガジュマルは奄美ではケンムン(カッパのような妖怪)が宿る木と言われ、伐ると目が痛くなったりするという。
(上の写真は与路島の珊瑚の石垣とガジュマル)
シマの人もよく分かっていて、防風林の木であるので、伐ることを禁じていたこと。
木を伐ると白い液が出るので、それに目がやられて痛いと言っていた。
だから、可愛すぎるのもイメージに合わない。
買ってきたのは、もう20年ほど前だと思う。
子供が小さい折、家族で加西のフラワーセンターへ行き、人参ガジュマルとして買った。
人参ほどの大きさだったのが、今では上の写真のように1mを超している。
もっと手入れして、盆栽のように小さく育てれば良かったのだが、手を抜いて大きくなってしまった。
そうすると、冬場は寒さに弱いので、玄関に取り込んで置く。
それでも玄関は寒いので、春頃には葉っぱや小枝は枯れてしまっていた。
去年はさすがに根元付近まで枯れていたので、もう駄目だと思い庭にひっくり返しておいた。
すると、夏近くになると新しい枝葉が復活しているではないか。
やはり、ケンムンが居着くだけしぶとい木である。
部屋の中に入れるのは、ケンムンの関係で抵抗は少しあった。
因みに、奄美の人は真剣にケンムンの存在を信じている人も居る。
それでも生け垣以外に、庭で盆栽のように石を抱かせて育てている人もいた。
本土の人にとっては、今更カッパなんてと思うかもしれないが、まだ生きているのである。
私はケンムン話を嫌と言うほど聞かされたので、まるっきり信じていないわけでは無い。
ただ、防風林として大切してきた意味を汲んで、今回は部屋のスペースが空いたので置いた。
二階まで持って上がるのは大変な労力だったが、一度持って上がったら、夏場はベランダに出せば済む。
これから奄美与路島の原稿を書く時には、このガジュ子が助けてくれるだろう。
ただケンムンが出てきて相撲はとりたくないが・・・
2017年11月26日日曜日
無くてはならないコウノトリ
10月に台風が来る前に一度コウノトリは来ていた。
しかし、稲刈りもすっかり済んで、霜が降りてあたりが真っ白になっても、今年は来ていなかった。
毎日散歩するたびに、いつもの鉄塔を眺めたり、餌場のため池を覗いたりした。
餌場には多くの鴨がいて、コウノトリが来る前に餌が無くなってしまうのではないかと心配していた。
それがやっと二日前(11/24)にやってきた。
それはいつもコウノトリを追っかけているO氏が教えてくれた。
コウノトリのさっちゃんの弟が来ているという。
O氏には豊岡の飼育場から連絡が入ったり、知り合いにすぐに連絡してもらえる。
実はO氏は、深刻な病気を抱えていて、普段はあまり出歩くことが無い。
コウノトリがやって来ると、途端に元気が出て、車で追っかける。
彼をパパラッチに変えるのがコウノトリなのである。
しかも、素晴らしい写真を撮ってくれる。
今日(11/26)の朝、いつもの鉄塔にとまっているコウノトリを、私も見ることができた。
O氏はいなかったけれど、早速、どこで情報を得たのか見知らぬ人がカメラを持って撮っていた。
私は鉄塔の傍をゆっくり眺めながら、クロと通り過ぎていった。
心なしか、こちらを見ているような気もした。
とにかく、久しぶりに会えて嬉しい。
ずっと、心待ちにしていたからだ。
鷹や、ノスリなどはとっくに来ていて、それも嬉しかったが、コウノトリの存在感には勝てない。
彼がいるだけで、風景が一変したように感じる。
これで、さっちゃんもやって来ればもっと嬉しい。
もう何年も前からやって来たコウノトリだが、最初は物珍しいだけだった。
近所の人や、遠く離れた人もわざわざ見に来て、写真を撮ったりもした。
今は近所の人もそう騒がず、今年も来たねと思う程度である。
散歩好きの私には、この季節には無くてはならない存在になっている。
私には赤ちゃんを運んできてくれることはないが、何か幸せを運んできてくれるような気がする。
病を抱えたO氏が元気づけられるように、コウノトリはこの地域の人に元気を与えられる。
この土地が選ばれているというだけで、この土地の素晴らしさの証明になるからだ。
いずれまた、見直されて若い人も戻ってきてくれるだろう。
しかし、稲刈りもすっかり済んで、霜が降りてあたりが真っ白になっても、今年は来ていなかった。
毎日散歩するたびに、いつもの鉄塔を眺めたり、餌場のため池を覗いたりした。
餌場には多くの鴨がいて、コウノトリが来る前に餌が無くなってしまうのではないかと心配していた。
それがやっと二日前(11/24)にやってきた。
それはいつもコウノトリを追っかけているO氏が教えてくれた。
コウノトリのさっちゃんの弟が来ているという。
O氏には豊岡の飼育場から連絡が入ったり、知り合いにすぐに連絡してもらえる。
実はO氏は、深刻な病気を抱えていて、普段はあまり出歩くことが無い。
コウノトリがやって来ると、途端に元気が出て、車で追っかける。
彼をパパラッチに変えるのがコウノトリなのである。
しかも、素晴らしい写真を撮ってくれる。
今日(11/26)の朝、いつもの鉄塔にとまっているコウノトリを、私も見ることができた。
O氏はいなかったけれど、早速、どこで情報を得たのか見知らぬ人がカメラを持って撮っていた。
私は鉄塔の傍をゆっくり眺めながら、クロと通り過ぎていった。
心なしか、こちらを見ているような気もした。
とにかく、久しぶりに会えて嬉しい。
ずっと、心待ちにしていたからだ。
鷹や、ノスリなどはとっくに来ていて、それも嬉しかったが、コウノトリの存在感には勝てない。
彼がいるだけで、風景が一変したように感じる。
これで、さっちゃんもやって来ればもっと嬉しい。
もう何年も前からやって来たコウノトリだが、最初は物珍しいだけだった。
近所の人や、遠く離れた人もわざわざ見に来て、写真を撮ったりもした。
今は近所の人もそう騒がず、今年も来たねと思う程度である。
散歩好きの私には、この季節には無くてはならない存在になっている。
私には赤ちゃんを運んできてくれることはないが、何か幸せを運んできてくれるような気がする。
病を抱えたO氏が元気づけられるように、コウノトリはこの地域の人に元気を与えられる。
この土地が選ばれているというだけで、この土地の素晴らしさの証明になるからだ。
いずれまた、見直されて若い人も戻ってきてくれるだろう。
2017年11月25日土曜日
越境の学校
一般に姫路城と言えば、天守閣付近のいわゆる内曲輪を指していると思う。
しかし、その外側に中曲輪があり、ここは元々は武家屋敷地で石垣に囲まれ、大きな門も備わっていた。
その外側が外曲輪で、いわゆる城下町として繁華街ともなっている。
私の通った淳心学院は中曲輪にあり、校舎のすぐ傍に高い石垣の土手と、その外側に深い堀もあった。
通っていた頃は世界遺産では無かったが、国宝だったので勝手に石垣の土手に穴を開けて遊んでいると、教師から注意された。
淳心学院は中高一貫なので6年間通うことになる。
学年が上がるに従って、上階に教室が上がっていく。
美しい姫路城も間近に見えるようになる。
当時の教室は建て替えられて、もう無いのであるが、本国ベルギーがダイヤモンドで稼いで景気が良かった時代のものであった。
だから、廊下には大理石が用いられており、その中に化石が見られることもあった。
ただ、作りは悪かったようで、雨漏りがしだしたので建て替えたようだ。
新しい校舎になってからは一度も行ったことが無く、あまり行きたいとも思わない。
やはり、昔の校舎あっての母校である。
私が勤めていた赤穂高校も赤穂城の中にあった時代の人は、同じ気持ちだろう。
最近閑谷学校のことをテレビなので特集されて興味を持つようになった。
歴史を耐え抜いた学校で、たかだか50年で建て替えたのとは訳が違う。
また、当然教員採用試験の教職教養では必須項目であったし、教育史を学ぶ上で欠かせない学校である。
上郡町民としては、大鳥圭介が学んだ学校として知っておかねばならない。
私はうかつにも、三木露風が学んでいたことは知らなかった。
龍野の学校に長く勤め、龍野実業の校歌の作詞者でもある。
先日閑谷学校へ行った時に、ゆかりある人物として三木露風はあったが、大鳥圭介はなく残念に思った。
閑谷学校は備前の人だけではなくて、播磨からも学びに来ていたと言うことである。
それでふと思ったのは、母校の淳心学院も少し似ていることだ。
私の同級生には、日生などのような岡山県から通ってきている生徒が何人かいた。
閑谷学校のように時代を動かす人材まで輩出していないが、近隣から多くの生徒が学びに来たところは似ている。
そして、淳心の卒業生の中には、テレビや国会で活躍している人もいる。
公立校が藩校なら、淳心のような私立校は閑谷学校のような役目を果たしてきたのかもしれない。
公立中学校が丸刈りを強制して詰め襟の制服だった時に、長髪で背広だった。
その自由な校風に憧れて、当時は淳心を希望した生徒も多かったと思う。
長年公立学校の教師を勤めており、公立校の良さも分かるし、以前勤めていた県大付属高校もそういう雰囲気を持っていた。
淳心には偏差値で輪切りにされてしまっている現在の公立高校には無いものがあった。
ただ、今は中学受験のために低学年から受験勉強をさせられ、偏差値の輪切りになっているようだ。
私は因みに小学校6年の5月から担任の先生のすすめで中学受験を始めた。
それまでは剣道やボーイスカウト活動等で、宿題もまともにやっていなかった。
担任の先生が、私が勉強もせずしょっちゅうケンカしたりしていたので、このまま地元の中学に行くとまずいと思ったのだと思う。
それでも当時は十分合格できたのである。
そして、当時の大学進学実績は今よりも断然良い。
ただ、私は自由な校風を謳歌しすぎて、大学受験には失敗した。
両親は赤穂市から奨学金まで借りてくれて、返済してくれたのに、今から思うと親不孝だったと思う。
それでも、淳心での自立心を鍛えられた経験がその後の人生に活かすことができたと思う。
これからの学校として、受験テクニックや偏差値と関係なく、未来を見据えた学校が必要に思える。
学校は今まで立身出世のためにあった。
これからの学校は地域に根ざした社会教育とともにあるべきだと思う。
国家や自治体、企業のためだけで無く、公共を担える人材作り。
家族や親戚、地域の人と生活を共に築いていける社会を担う人材。
閑谷学校が奥深い山里に築かれていたのも、なんとなくそれと関係していたように思える。
しかし、その外側に中曲輪があり、ここは元々は武家屋敷地で石垣に囲まれ、大きな門も備わっていた。
その外側が外曲輪で、いわゆる城下町として繁華街ともなっている。
私の通った淳心学院は中曲輪にあり、校舎のすぐ傍に高い石垣の土手と、その外側に深い堀もあった。
通っていた頃は世界遺産では無かったが、国宝だったので勝手に石垣の土手に穴を開けて遊んでいると、教師から注意された。
淳心学院は中高一貫なので6年間通うことになる。
学年が上がるに従って、上階に教室が上がっていく。
美しい姫路城も間近に見えるようになる。
当時の教室は建て替えられて、もう無いのであるが、本国ベルギーがダイヤモンドで稼いで景気が良かった時代のものであった。
だから、廊下には大理石が用いられており、その中に化石が見られることもあった。
ただ、作りは悪かったようで、雨漏りがしだしたので建て替えたようだ。
新しい校舎になってからは一度も行ったことが無く、あまり行きたいとも思わない。
やはり、昔の校舎あっての母校である。
私が勤めていた赤穂高校も赤穂城の中にあった時代の人は、同じ気持ちだろう。
最近閑谷学校のことをテレビなので特集されて興味を持つようになった。
歴史を耐え抜いた学校で、たかだか50年で建て替えたのとは訳が違う。
また、当然教員採用試験の教職教養では必須項目であったし、教育史を学ぶ上で欠かせない学校である。
上郡町民としては、大鳥圭介が学んだ学校として知っておかねばならない。
私はうかつにも、三木露風が学んでいたことは知らなかった。
龍野の学校に長く勤め、龍野実業の校歌の作詞者でもある。
先日閑谷学校へ行った時に、ゆかりある人物として三木露風はあったが、大鳥圭介はなく残念に思った。
閑谷学校は備前の人だけではなくて、播磨からも学びに来ていたと言うことである。
それでふと思ったのは、母校の淳心学院も少し似ていることだ。
私の同級生には、日生などのような岡山県から通ってきている生徒が何人かいた。
閑谷学校のように時代を動かす人材まで輩出していないが、近隣から多くの生徒が学びに来たところは似ている。
そして、淳心の卒業生の中には、テレビや国会で活躍している人もいる。
公立校が藩校なら、淳心のような私立校は閑谷学校のような役目を果たしてきたのかもしれない。
公立中学校が丸刈りを強制して詰め襟の制服だった時に、長髪で背広だった。
その自由な校風に憧れて、当時は淳心を希望した生徒も多かったと思う。
長年公立学校の教師を勤めており、公立校の良さも分かるし、以前勤めていた県大付属高校もそういう雰囲気を持っていた。
淳心には偏差値で輪切りにされてしまっている現在の公立高校には無いものがあった。
ただ、今は中学受験のために低学年から受験勉強をさせられ、偏差値の輪切りになっているようだ。
私は因みに小学校6年の5月から担任の先生のすすめで中学受験を始めた。
それまでは剣道やボーイスカウト活動等で、宿題もまともにやっていなかった。
担任の先生が、私が勉強もせずしょっちゅうケンカしたりしていたので、このまま地元の中学に行くとまずいと思ったのだと思う。
それでも当時は十分合格できたのである。
そして、当時の大学進学実績は今よりも断然良い。
ただ、私は自由な校風を謳歌しすぎて、大学受験には失敗した。
両親は赤穂市から奨学金まで借りてくれて、返済してくれたのに、今から思うと親不孝だったと思う。
それでも、淳心での自立心を鍛えられた経験がその後の人生に活かすことができたと思う。
これからの学校として、受験テクニックや偏差値と関係なく、未来を見据えた学校が必要に思える。
学校は今まで立身出世のためにあった。
これからの学校は地域に根ざした社会教育とともにあるべきだと思う。
国家や自治体、企業のためだけで無く、公共を担える人材作り。
家族や親戚、地域の人と生活を共に築いていける社会を担う人材。
閑谷学校が奥深い山里に築かれていたのも、なんとなくそれと関係していたように思える。
2017年11月23日木曜日
再就職が決まって
再就職が決まって、髪を染めた時
もう若くないさと 君に言い訳したね
と、どこかで聴いた歌をもじって口ずさみました。
そもそも原曲(『いちご白書をもう一度』も、就職が決まってから髪を切るのはおかしい。
モデルになった人は、本当は就職活動の時に髪を切っていたというのをどこかの記事で読んだことがある。
私は今までまともな就職活動をしたことが無かった。
教員採用試験も面接があったが、既に臨時講師をしていたので、その延長という感じだった。
しかも、採用試験は幸いにして一度だけで済んだ。
今回ほど、就職活動の難しさを感じたことは無い。
(知っていれば、教師の時に生徒へ説得力ある話ができただろう)
最初にハローワークから紹介された遺物整理の臨時職員も、落とすため長い面接を経験させられた。
前の人は10分もかからなかったのに、私は1時間近く尋問に近い質問にさらされた。
二人しか応募していなくて、当然その若い女性が採用されたようだ。
出来レースとはすぐ分かったが、落とすのに時間を無為に使わされたのがしゃくだった。
次の仕事はネットで調べた。
NPOであるし、面接した社長さんも元大きな組織の重要ポストに居た人だから信用した。
しかし、その仕事はblack以前の詐欺に近いものだった。
ハローワークを通して同時に採用された人は、簡易裁判に訴えると言っていた。
給料が未払いだったからである。
私は半分研修だったと思って、給料は半分諦めている。
途中でやめた人に給料を払っていないと、前から勤めていた人に聞いていたからである。
その次からの、仕事選びには慎重になった。
ネットも用いるが、ハローワークにも行って相談した。
就職活動の経験が無いので、求人票に書かれている裏の意味もよく理解できていなかった。
例えば事務職員でも、受付や客の応対がありといえば、若い女性を望んでいる。
給料がかなり安いので分かりそうなものなのだが、気がつかず応募してすぐ辞退した。
また、施設だからと言って指導員を募集しているとは限らない。
経理の経験が無いと言うことで、門前払いになったこともある。
そういういくつかの苦い経験をしている内に、約束の半年はとっくに過ぎてしまった。
結局自分には教員の経験を活かすところしか無いという結論に至った。
そこでダメ元で、学童(放課後指導員)に応募した。
近くの町の施設だし、時間も一日6時間働いて、月収15万円は良いと思った。
しかし、学童の仕事は女性が多いし、若い人にも人気があると思った。
それと併行して、ネットでも見つけ、わざわざハローワークからも通知を頂いた社会教育施設にも応募しようと思った。
そこでは指導員と言っても、雑務が多いというのは想像ができた。
それでも教員免許が必要だったので、競争相手が少ないと思った。
結局、私はその社会教育施設にとりあえずの再就職が決まった。
研究には適した学童の方も合格したのだが、精神的な負担を考えてそちらを選んだ。
これからは、学童も男性を求めていることも分かった。
冒頭の歌は、再就職の内定をもらった時に家内に歌った。
実は私は面接の前に、10年以上使ったことも無い洗髪料を買ってきて染めた。
真っ黒にすると不自然なので、グレーにするものを買った。
白髪ではおじいさんに見えると言われたからでもある。
教師をしていた時には生徒の目も気にしなかった白髪。
面接では少しでも若く見せようと思った。
再就職が決まっても、たぶん染め続けねばならないだろう。
私の父親は若い者に馬鹿にされないようにと、現役時代は髪を黒く染め続けていた。
ただ、父親同様、髪が薄いことへの対処がまだ残っている・・・
もう若くないさと 君に言い訳したね
と、どこかで聴いた歌をもじって口ずさみました。
そもそも原曲(『いちご白書をもう一度』も、就職が決まってから髪を切るのはおかしい。
モデルになった人は、本当は就職活動の時に髪を切っていたというのをどこかの記事で読んだことがある。
私は今までまともな就職活動をしたことが無かった。
教員採用試験も面接があったが、既に臨時講師をしていたので、その延長という感じだった。
しかも、採用試験は幸いにして一度だけで済んだ。
今回ほど、就職活動の難しさを感じたことは無い。
(知っていれば、教師の時に生徒へ説得力ある話ができただろう)
最初にハローワークから紹介された遺物整理の臨時職員も、落とすため長い面接を経験させられた。
前の人は10分もかからなかったのに、私は1時間近く尋問に近い質問にさらされた。
二人しか応募していなくて、当然その若い女性が採用されたようだ。
出来レースとはすぐ分かったが、落とすのに時間を無為に使わされたのがしゃくだった。
次の仕事はネットで調べた。
NPOであるし、面接した社長さんも元大きな組織の重要ポストに居た人だから信用した。
しかし、その仕事はblack以前の詐欺に近いものだった。
ハローワークを通して同時に採用された人は、簡易裁判に訴えると言っていた。
給料が未払いだったからである。
私は半分研修だったと思って、給料は半分諦めている。
途中でやめた人に給料を払っていないと、前から勤めていた人に聞いていたからである。
その次からの、仕事選びには慎重になった。
ネットも用いるが、ハローワークにも行って相談した。
就職活動の経験が無いので、求人票に書かれている裏の意味もよく理解できていなかった。
例えば事務職員でも、受付や客の応対がありといえば、若い女性を望んでいる。
給料がかなり安いので分かりそうなものなのだが、気がつかず応募してすぐ辞退した。
また、施設だからと言って指導員を募集しているとは限らない。
経理の経験が無いと言うことで、門前払いになったこともある。
そういういくつかの苦い経験をしている内に、約束の半年はとっくに過ぎてしまった。
結局自分には教員の経験を活かすところしか無いという結論に至った。
そこでダメ元で、学童(放課後指導員)に応募した。
近くの町の施設だし、時間も一日6時間働いて、月収15万円は良いと思った。
しかし、学童の仕事は女性が多いし、若い人にも人気があると思った。
それと併行して、ネットでも見つけ、わざわざハローワークからも通知を頂いた社会教育施設にも応募しようと思った。
そこでは指導員と言っても、雑務が多いというのは想像ができた。
それでも教員免許が必要だったので、競争相手が少ないと思った。
結局、私はその社会教育施設にとりあえずの再就職が決まった。
研究には適した学童の方も合格したのだが、精神的な負担を考えてそちらを選んだ。
これからは、学童も男性を求めていることも分かった。
冒頭の歌は、再就職の内定をもらった時に家内に歌った。
実は私は面接の前に、10年以上使ったことも無い洗髪料を買ってきて染めた。
真っ黒にすると不自然なので、グレーにするものを買った。
白髪ではおじいさんに見えると言われたからでもある。
教師をしていた時には生徒の目も気にしなかった白髪。
面接では少しでも若く見せようと思った。
再就職が決まっても、たぶん染め続けねばならないだろう。
私の父親は若い者に馬鹿にされないようにと、現役時代は髪を黒く染め続けていた。
ただ、父親同様、髪が薄いことへの対処がまだ残っている・・・
2017年11月21日火曜日
フラリードッグ
愚犬クロがまたもや逃亡を図った。
前回はちょうど一ヶ月ほど前に、山に逃げて夕方まで帰ってこなかった。
その時は、ハーネスをちゃんと装着していなかったので抜けてしまった。
無理矢理ひっぱたので、ハーネスが抜けてしまい、逃げてしまった。
悪いことに、山際の柵がイノシシにこじ開けられていて、そこから山に入ってしまった。
夕方、家の周りをうろついていると、近所の人が知らせに来てくれたので、捕まえに行くとまた逃げてしまった。
夜になって、庭で音がするので家内に見に行ってもらうと、置いておいた餌を食べていたので捕まえた。
それから、一週間の散歩禁止の謹慎処分となった。
今回は、つないでいたバックルが簡単に外れてしまった。
ひょっとした弾みで以前もとれていたので、気にはなっていた。
最初はクロの方もとれたことが分からなかったが、私が捕まえるのをしくじって逃亡した。
家内にも応援を求めて、挟み撃ちにして捕まえようとしたが、うれしげに逃げていった。
山が近くにあり、逃げ込むと無理なので諦めて帰った。
そして、犬小屋の近くに前回と同じように餌をおいて待っていた。
私は前回の謹慎処分を覚えていたら、ひょっとしたら戻ってこないかもしれないと思った。
しかし、前回よりもずいぶん早く昼には戻ってきて餌を食べていたので捕まえた。
以前は柵に入れていて逃亡を図り、一晩帰ってこなかったこともあった。
今回は最短で戻ってきた。
自由な空腹より、不自由な満腹を選んだわけである。
おとなしい犬なので、迷惑をかけることは無いと思っているが、近所の人から通報されるのは恥ずかしい。
何よりも呼んで戻ってこないというのが憎たらしいのである。
何匹も犬を飼ってきたが、このように逃亡を図る犬は初めてだ。
それは野良犬をやっていたせいでもあるのだが、しつけにも失敗している。
主人の気持ちを逆なでして逃亡する割に戻ってくる。
逃亡するならまた野良犬になる覚悟で逃げてみろと言いたい。
しかし、罰が待っていても必ず戻ってくる。
昔、ポールニューマンの主演映画で「暴力脱獄」というのがあり、主人公ルークは殺されるまで刑務所から脱獄し続けた。
彼は最後まで囚人に甘んじなかったのである。
トラは既に、囚人ならぬ飼い犬に甘んじている。
野良犬の惨めさをよく知っているのだろう。
なぜか子供を一番怖がる。
おそらく一番いじめられたのは子供たちにだろう。
それでいて、逃亡を図りたいのだから、困ったものである。
まるで、伝書鳩のようなフラリーマン(帰宅を嫌がるサラリーマン)がたまに羽目を外して飲みにいくようなものかもしれない。
クロがフラリーマンに似ているのか、フラリーマンがクロに似ているのか?
所詮どちらも、家なしには生きていけない・・・・
前回はちょうど一ヶ月ほど前に、山に逃げて夕方まで帰ってこなかった。
その時は、ハーネスをちゃんと装着していなかったので抜けてしまった。
無理矢理ひっぱたので、ハーネスが抜けてしまい、逃げてしまった。
悪いことに、山際の柵がイノシシにこじ開けられていて、そこから山に入ってしまった。
夕方、家の周りをうろついていると、近所の人が知らせに来てくれたので、捕まえに行くとまた逃げてしまった。
夜になって、庭で音がするので家内に見に行ってもらうと、置いておいた餌を食べていたので捕まえた。
それから、一週間の散歩禁止の謹慎処分となった。
今回は、つないでいたバックルが簡単に外れてしまった。
ひょっとした弾みで以前もとれていたので、気にはなっていた。
最初はクロの方もとれたことが分からなかったが、私が捕まえるのをしくじって逃亡した。
家内にも応援を求めて、挟み撃ちにして捕まえようとしたが、うれしげに逃げていった。
山が近くにあり、逃げ込むと無理なので諦めて帰った。
そして、犬小屋の近くに前回と同じように餌をおいて待っていた。
私は前回の謹慎処分を覚えていたら、ひょっとしたら戻ってこないかもしれないと思った。
しかし、前回よりもずいぶん早く昼には戻ってきて餌を食べていたので捕まえた。
以前は柵に入れていて逃亡を図り、一晩帰ってこなかったこともあった。
今回は最短で戻ってきた。
自由な空腹より、不自由な満腹を選んだわけである。
おとなしい犬なので、迷惑をかけることは無いと思っているが、近所の人から通報されるのは恥ずかしい。
何よりも呼んで戻ってこないというのが憎たらしいのである。
何匹も犬を飼ってきたが、このように逃亡を図る犬は初めてだ。
それは野良犬をやっていたせいでもあるのだが、しつけにも失敗している。
主人の気持ちを逆なでして逃亡する割に戻ってくる。
逃亡するならまた野良犬になる覚悟で逃げてみろと言いたい。
しかし、罰が待っていても必ず戻ってくる。
昔、ポールニューマンの主演映画で「暴力脱獄」というのがあり、主人公ルークは殺されるまで刑務所から脱獄し続けた。
彼は最後まで囚人に甘んじなかったのである。
トラは既に、囚人ならぬ飼い犬に甘んじている。
野良犬の惨めさをよく知っているのだろう。
なぜか子供を一番怖がる。
おそらく一番いじめられたのは子供たちにだろう。
それでいて、逃亡を図りたいのだから、困ったものである。
まるで、伝書鳩のようなフラリーマン(帰宅を嫌がるサラリーマン)がたまに羽目を外して飲みにいくようなものかもしれない。
クロがフラリーマンに似ているのか、フラリーマンがクロに似ているのか?
所詮どちらも、家なしには生きていけない・・・・
2017年11月19日日曜日
千種水汲み2017年秋
当初は猪名川町まで行って,道の駅でそばを食べるつもりだった。
家内が汲んできた水がもう残り少ないと言うので、急遽一緒に千種へ水汲みに行くことになった。
大分前からこの日曜(11/19)は寒くなると天気予報で知っていたので、ネットで道に雪が無いのを確かめてから出かけた。
このところ、JAや町、商工会のイベントがあちこちで開かれている。
道沿いにはその幟が立っているが、ちょうど白旗祭りの幟も立っていた。
昨日は「ひょうご歴史フォーラム」が上郡で開かれた。
「発祥の地、赤松から考えるー赤松氏研究の新展開ー」というテーマだった。
2年ほど前から、白旗城の麓の赤松氏の館跡が発掘調査されている。
その中間報告を兼ねていた。
全国的にも、室町期の館跡の発掘調査は少なくて、成果が上がれば全国初と言うことらしい。
基礎的知識が無いので、この時代の館なるものがどういう役割を持っていたのか分かっていなかった。
この時代は、山城と普段居住する館とは分かれていたことは知っていた。
ただ、聞いてみると、館は来客を接待したり、宴会を催す場のようだった。
どうも一遍上人絵伝の「武士の館」のイメージとも違うようである。
ともかく、まだ研究途上のようで、これから色々と分かってくるということで、楽しみである。

ちょうど、その赤松の村を通り過ぎる時に、毎年11月23日に行われる白旗城祭りの準備がなされていた。
昨日フォーラムに行って初めて知ったのだが、白旗は源氏の旗に由来し、元々は赤松城と言っていたそうだ。
現代からすれば白旗は降参する時の悪いイメージがあるが、この城は落ちない城として宣伝している。
私も一度だけ登ったが険しい坂道だった。
地元の人は毎年この道を整備しているそうである。
千種までの道沿いに見える景色は、秋そのものであり素晴らしい紅葉が続いた。
千種に近づくと、林業の関係で針葉樹が多くなるのだが、そこまでは紅葉の絨毯を敷いたような山が続く。
南光町のキャンプ場も多くの宿泊者がいて、テントを張っている人もいた。
千種に近づくと、路面が濡れている。
どうも雪雲が流れてきて降らしたらしい。
そして、やがて紅葉の谷間から白い雪をかぶった山が見えてきた。
針葉樹の緑、広葉樹の赤、雪山の白が見事なコントラストとして、眼前に広がった。
当然水汲所には、汲みに来た人はなく。
時折晴れたり、時折みぞれや、あられの降る中で、ホースをつないで軽トラに載せた容器に注いだ。
ふたを開け閉めする指先が凍えて感覚を失っていたが、今年初めてのジャンパーが寒さを防いでくれた。
自販機にコインを入れるだけの家内の方が、足下が寒くて足踏みをせねばならなかった。
いつものように、水汲所のそばのお祈り所に手を合わせてから、今回は途中どこにも寄らずに家に戻った。
今回はそばもうどんも食べられなか
ったが、紅葉狩りで心がいっぱいに満たされた。
家内が汲んできた水がもう残り少ないと言うので、急遽一緒に千種へ水汲みに行くことになった。
大分前からこの日曜(11/19)は寒くなると天気予報で知っていたので、ネットで道に雪が無いのを確かめてから出かけた。
このところ、JAや町、商工会のイベントがあちこちで開かれている。
道沿いにはその幟が立っているが、ちょうど白旗祭りの幟も立っていた。
昨日は「ひょうご歴史フォーラム」が上郡で開かれた。
「発祥の地、赤松から考えるー赤松氏研究の新展開ー」というテーマだった。
2年ほど前から、白旗城の麓の赤松氏の館跡が発掘調査されている。
その中間報告を兼ねていた。
全国的にも、室町期の館跡の発掘調査は少なくて、成果が上がれば全国初と言うことらしい。
基礎的知識が無いので、この時代の館なるものがどういう役割を持っていたのか分かっていなかった。
この時代は、山城と普段居住する館とは分かれていたことは知っていた。
ただ、聞いてみると、館は来客を接待したり、宴会を催す場のようだった。
どうも一遍上人絵伝の「武士の館」のイメージとも違うようである。
ともかく、まだ研究途上のようで、これから色々と分かってくるということで、楽しみである。
ちょうど、その赤松の村を通り過ぎる時に、毎年11月23日に行われる白旗城祭りの準備がなされていた。
昨日フォーラムに行って初めて知ったのだが、白旗は源氏の旗に由来し、元々は赤松城と言っていたそうだ。
現代からすれば白旗は降参する時の悪いイメージがあるが、この城は落ちない城として宣伝している。
私も一度だけ登ったが険しい坂道だった。
地元の人は毎年この道を整備しているそうである。
千種までの道沿いに見える景色は、秋そのものであり素晴らしい紅葉が続いた。
千種に近づくと、林業の関係で針葉樹が多くなるのだが、そこまでは紅葉の絨毯を敷いたような山が続く。
南光町のキャンプ場も多くの宿泊者がいて、テントを張っている人もいた。
千種に近づくと、路面が濡れている。
どうも雪雲が流れてきて降らしたらしい。
そして、やがて紅葉の谷間から白い雪をかぶった山が見えてきた。
針葉樹の緑、広葉樹の赤、雪山の白が見事なコントラストとして、眼前に広がった。
当然水汲所には、汲みに来た人はなく。
時折晴れたり、時折みぞれや、あられの降る中で、ホースをつないで軽トラに載せた容器に注いだ。
ふたを開け閉めする指先が凍えて感覚を失っていたが、今年初めてのジャンパーが寒さを防いでくれた。
自販機にコインを入れるだけの家内の方が、足下が寒くて足踏みをせねばならなかった。
いつものように、水汲所のそばのお祈り所に手を合わせてから、今回は途中どこにも寄らずに家に戻った。
今回はそばもうどんも食べられなか
2017年11月14日火曜日
足底筋膜炎からの回復
ここ一月以上足の裏親指と中指の付け根あたりの痛みに苦しんでいた。
最初は、プールのターンで壁をきつく蹴るせいかとも思った。
しかし、最近プールに行けなくなっても痛みは続く。
プールに行けなくても、犬の散歩は欠かせなかったのである。
私は犬の散歩に最低7km、多くて10kmほど歩く。
底が薄かったり、硬い靴は避けてジョギングシューズを履いていた。
どうもそれが良くなかったらしい。
と言うのは、ジョギングシューズは履き心地が良いので歩く姿勢を気にしない。
そして、朝露で濡れるのが嫌なので、アスファルトの道を歩いていた。
そんな折、日曜朝の番組「健康カプセル! ゲンキの時間」で「足」の特集が11/5にあった。
私はこの番組はずっと録画し続けているので、欠かさず見ている。
この「足」特集で「足底筋膜炎」の症状が私にぴったり当てはまると思った。
番組のネットで調べると(http://hicbc.com/tv/genki/archive/171105/)
「足の裏に張っている筋膜に炎症が起き、小さな断裂を起こすことで主にかかとが痛む病気です。朝の第一歩目が特に痛みます。」
私の痛いのはかかとではないが、朝の第一歩が特に痛むというのがぴったりである。
朝に限らず、歩き始めが非常に痛み、車から降りてびっこを引いたりもする。
そのくせ歩き始めると痛みも治まり、また長い距離を歩いてしまう。
この番組を見て、まず靴はトレッキングシューズに、インソールを入れて履くようにした。
そして、なるべく路肩の草の生えた土道を歩くようにした。
それでもなかなか直らない。
相変わらず、夜寝る前にインドメタシンの塗り薬を塗らなくては行けない。
そんなある日、紅葉がきれいなので近所の山を登ることにした。
きつい坂道で、足の具合を意識した。
平地で歩くより足裏の指の付け根の負担が少ない。
これは姿勢の問題だと思った。
意識してみれば、自分は前屈みで猫背のようにして歩いている。
それはどうしても犬を意識しているので、下を向くことになる。
また、このところ少々沈みがちの気分も影響していたようだ。
私は少しだけ剣道をしていたので、背筋を張ることは体得している。
問題はどうしてもすり足になることだ。
剣道の上段者が、ゴルフ場ですり足で歩いて芝生を痛め、怒られたと言うことを聞いた。
私も家内と歩いていて、靴を擦って歩くとよく注意される。
そういう欠点はあるものの、姿勢だけは良いのである。
その姿勢がこのところ悪かったらしい。
それ以降姿勢に気をつけるようになって、痛みは治まってきた。
要するに、前屈みで前に重心があり、足の先に負担がかかっていたのである。
ジョギングシューズだから、負担がわかりにくく放置してしまっていた。
今テレビ番組の「陸王」も毎週欠かさず見ているが、いかにシューズが重要かというのがよく分かる。
走らなくても、長く歩く場合も馬鹿にはできない。
分厚く柔らかいシューズは、歩く場合でもそれなりにリスクも抱えていると言うことでもある。
本当は地下足袋を履いて歩きたいのだが、私は体重が重いのでそれもかなりのリスクになる。
以前底の浅いジョギングシューズを履いて練習していて、今回と同じ足底筋膜炎の症状になった。
自分の体型に合ったシューズは慎重に選ばなければいけない。
私にはシューフィッターがいないので、自分で考えねばならない。
そして、やっと本格的なトレッキングシューズを買った。
本格的と言っても、6000円ほどの安い足首まであるシューズである。
因みに本格的なトレッキングシューズは1万円以下はあまりなかった。
安いながら履き心地が全然違うことが分かった。
前の部分が上に反っているので、円運動が足先に生じている。
最初はつま先が馴染まず痛かったが、その内足に合ってきた。
それを数日する内にかなり痛みは治まったのである。
やはり、長い距離を歩く時はそれなりのシューズが必要だと実感した。
最初は、プールのターンで壁をきつく蹴るせいかとも思った。
しかし、最近プールに行けなくなっても痛みは続く。
プールに行けなくても、犬の散歩は欠かせなかったのである。
私は犬の散歩に最低7km、多くて10kmほど歩く。
底が薄かったり、硬い靴は避けてジョギングシューズを履いていた。
どうもそれが良くなかったらしい。
と言うのは、ジョギングシューズは履き心地が良いので歩く姿勢を気にしない。
そして、朝露で濡れるのが嫌なので、アスファルトの道を歩いていた。
そんな折、日曜朝の番組「健康カプセル! ゲンキの時間」で「足」の特集が11/5にあった。
私はこの番組はずっと録画し続けているので、欠かさず見ている。
この「足」特集で「足底筋膜炎」の症状が私にぴったり当てはまると思った。
番組のネットで調べると(http://hicbc.com/tv/genki/archive/171105/)
「足の裏に張っている筋膜に炎症が起き、小さな断裂を起こすことで主にかかとが痛む病気です。朝の第一歩目が特に痛みます。」
私の痛いのはかかとではないが、朝の第一歩が特に痛むというのがぴったりである。
朝に限らず、歩き始めが非常に痛み、車から降りてびっこを引いたりもする。
そのくせ歩き始めると痛みも治まり、また長い距離を歩いてしまう。
この番組を見て、まず靴はトレッキングシューズに、インソールを入れて履くようにした。
そして、なるべく路肩の草の生えた土道を歩くようにした。
それでもなかなか直らない。
相変わらず、夜寝る前にインドメタシンの塗り薬を塗らなくては行けない。
そんなある日、紅葉がきれいなので近所の山を登ることにした。
きつい坂道で、足の具合を意識した。
平地で歩くより足裏の指の付け根の負担が少ない。
これは姿勢の問題だと思った。
意識してみれば、自分は前屈みで猫背のようにして歩いている。
それはどうしても犬を意識しているので、下を向くことになる。
また、このところ少々沈みがちの気分も影響していたようだ。
私は少しだけ剣道をしていたので、背筋を張ることは体得している。
問題はどうしてもすり足になることだ。
剣道の上段者が、ゴルフ場ですり足で歩いて芝生を痛め、怒られたと言うことを聞いた。
私も家内と歩いていて、靴を擦って歩くとよく注意される。
そういう欠点はあるものの、姿勢だけは良いのである。
その姿勢がこのところ悪かったらしい。
それ以降姿勢に気をつけるようになって、痛みは治まってきた。
要するに、前屈みで前に重心があり、足の先に負担がかかっていたのである。
ジョギングシューズだから、負担がわかりにくく放置してしまっていた。
今テレビ番組の「陸王」も毎週欠かさず見ているが、いかにシューズが重要かというのがよく分かる。
走らなくても、長く歩く場合も馬鹿にはできない。
分厚く柔らかいシューズは、歩く場合でもそれなりにリスクも抱えていると言うことでもある。
本当は地下足袋を履いて歩きたいのだが、私は体重が重いのでそれもかなりのリスクになる。
以前底の浅いジョギングシューズを履いて練習していて、今回と同じ足底筋膜炎の症状になった。
自分の体型に合ったシューズは慎重に選ばなければいけない。
私にはシューフィッターがいないので、自分で考えねばならない。
そして、やっと本格的なトレッキングシューズを買った。
本格的と言っても、6000円ほどの安い足首まであるシューズである。
因みに本格的なトレッキングシューズは1万円以下はあまりなかった。
安いながら履き心地が全然違うことが分かった。
前の部分が上に反っているので、円運動が足先に生じている。
最初はつま先が馴染まず痛かったが、その内足に合ってきた。
それを数日する内にかなり痛みは治まったのである。
やはり、長い距離を歩く時はそれなりのシューズが必要だと実感した。
2017年11月13日月曜日
備前のしっぽ福浦
以前このブログの「越境のAKB」で紹介したように、私の母方の祖父母は備前福河の福浦に生まれ育った。
因みに備前福河は福浦村と寒河(そうご)村の総称で、現在も駅名に使われている。
私は祖母に連れられて、当時は天和の方から山道を通って歩いて行った。
戦死した祖父の実家はその山道から降りた所にあり、古い家には長槍が飾ってあったのを覚えている。
現在はその家も取り壊されて、井戸だけが残っているという。
山の中腹にある墓参りに行くと、自然石がいくつか並べてあり、今から思うと子供を土葬した目印であったのかもしれない。
子供心に自然石だけの墓というのは、何となく哀れに思えた。
福浦には何度か祖母や母親と一緒に行った。
祖母の実家は港の近くにある入電という地区にあった。
こちらもずいぶん古い家で、便所が外の庭にあった。
祖父の方は船大工、祖母の方も船の運送関係だったようだった。
農地の少ない場所なので、海に関わる仕事が主だったのだろう。
それは私が生まれた鳥撫も同じである。
先日、私が作っている赤穂の畑のお隣さんが、福浦出身の人で祖父母の実家のことの話をした。
懐かしくなって、この日曜に軽トラで自転車を運んで、村の中や海岸を自転車で散策した。
これまでに思い出したように訪ねた場所だが、大きく様変わりしている。
最初の案内板に「龍神の里」の文字があった。
祖母から港の海から龍が出てきた昔話を聞かされていたのでそれだと思った。
地図で調べると、龍神宮という神社もある。
大きな堤防ができているので、龍などはもう出てきそうにない。
天和の方に向かう海岸線の一部は、昔のまま残っていた(上の写真)。
祖母に連れられて、兄弟で海水浴をした覚えがある。
その時に、祖母は親戚の人から、墓の守をちゃんとしないと責められて、泣いていたことを思い出す。
たぶん、戦死した祖父の墓がまだきちっとできていなかったからかもしれない。
祖父の墓は赤穂の高山墓地に今はあるが、先の尖った神道式の墓ではない。
祖母の意向で小さな墓にしており、戦死者とは分からない。
その反対方向の古池という所まで自転車に乗っていった。
この古池という村は、赤穂市の最も西の地区である。
以前勤めていた学校の玄関に、この古池の塩田跡の絵が飾られていたので、行ってみたいと思っていた。
長い海岸線沿いの道は、それほど起伏は無いが路面はあまり良くない。
ひょっとしたら寒河まで道が通じているかと思ったが、海岸線では無くて山道だった。
塩田跡(上の写真)が本当に残っていて、鴨たちがおおらかに泳いでいた。
赤穂で言えば今から40年以上前の風景である。
そのまま残っていると言うことは、開発できなかったと言うことである。
どん詰まりの港で、持ってきた家内の作ったサンドイッチを食べたりして、ゆっくりと過ごした。
鹿久居島もすぐそばに見えて、来年の夏はSUPをここでやろうと思った。
実はその対岸に見える鹿久居島の海岸には、何度かモーターボートで連れて行ってもらったことがある。
赤穂御崎のように観光化は全くされていないからこそ、昔ながらの風情を残す落ち着いた場所だった。
備前のしっぽである福浦の海は、私が海育ちであることを思い出させてくれた。
因みに備前福河は福浦村と寒河(そうご)村の総称で、現在も駅名に使われている。
私は祖母に連れられて、当時は天和の方から山道を通って歩いて行った。
戦死した祖父の実家はその山道から降りた所にあり、古い家には長槍が飾ってあったのを覚えている。
現在はその家も取り壊されて、井戸だけが残っているという。
山の中腹にある墓参りに行くと、自然石がいくつか並べてあり、今から思うと子供を土葬した目印であったのかもしれない。
子供心に自然石だけの墓というのは、何となく哀れに思えた。
福浦には何度か祖母や母親と一緒に行った。
祖母の実家は港の近くにある入電という地区にあった。
こちらもずいぶん古い家で、便所が外の庭にあった。
祖父の方は船大工、祖母の方も船の運送関係だったようだった。
農地の少ない場所なので、海に関わる仕事が主だったのだろう。
それは私が生まれた鳥撫も同じである。
先日、私が作っている赤穂の畑のお隣さんが、福浦出身の人で祖父母の実家のことの話をした。
懐かしくなって、この日曜に軽トラで自転車を運んで、村の中や海岸を自転車で散策した。
これまでに思い出したように訪ねた場所だが、大きく様変わりしている。
最初の案内板に「龍神の里」の文字があった。
祖母から港の海から龍が出てきた昔話を聞かされていたのでそれだと思った。
地図で調べると、龍神宮という神社もある。
大きな堤防ができているので、龍などはもう出てきそうにない。
天和の方に向かう海岸線の一部は、昔のまま残っていた(上の写真)。
祖母に連れられて、兄弟で海水浴をした覚えがある。
その時に、祖母は親戚の人から、墓の守をちゃんとしないと責められて、泣いていたことを思い出す。
たぶん、戦死した祖父の墓がまだきちっとできていなかったからかもしれない。
祖父の墓は赤穂の高山墓地に今はあるが、先の尖った神道式の墓ではない。
祖母の意向で小さな墓にしており、戦死者とは分からない。
この古池という村は、赤穂市の最も西の地区である。
以前勤めていた学校の玄関に、この古池の塩田跡の絵が飾られていたので、行ってみたいと思っていた。
長い海岸線沿いの道は、それほど起伏は無いが路面はあまり良くない。
ひょっとしたら寒河まで道が通じているかと思ったが、海岸線では無くて山道だった。
塩田跡(上の写真)が本当に残っていて、鴨たちがおおらかに泳いでいた。
赤穂で言えば今から40年以上前の風景である。
そのまま残っていると言うことは、開発できなかったと言うことである。
どん詰まりの港で、持ってきた家内の作ったサンドイッチを食べたりして、ゆっくりと過ごした。
鹿久居島もすぐそばに見えて、来年の夏はSUPをここでやろうと思った。
実はその対岸に見える鹿久居島の海岸には、何度かモーターボートで連れて行ってもらったことがある。
赤穂御崎のように観光化は全くされていないからこそ、昔ながらの風情を残す落ち着いた場所だった。
備前のしっぽである福浦の海は、私が海育ちであることを思い出させてくれた。
2017年11月10日金曜日
あの頃の秘伝五平餅売り
秘伝と言っても、五平餅のタレにクルミの擦ったのを混ぜるだけだが、大学の文化祭での宣伝文句だった。
例年11月3日は母校南山大学のHome Coming Day、つまり学園祭だった。
私はその後の人生を狂わせた文化人類学研究会というクラブに入っていた。
そのクラブでは毎年五平餅を作って販売していた。
私が3年の時には、私の下宿アパートに部員が集まって五平餅を作った。
炊飯器を3台ほど持ち込んだので、途中でヒューズが切れたりして大騒ぎにもなった。
当時はもう二度と部屋を貸してやるものかと思ったが、今から思い返せば楽しいひとときでもあった。
(下の写真は五平餅を売る当時の私)
その五平餅は、板で作った板きれの型に、炊いたご飯をすりこぎで練ってからはめ込むのである。
その真ん中に割り箸を差し込んでおく、それをきちっとしなければ食べている途中で落ちる。
かつて、五平餅が食べている途中で落ちてしまい、味噌だれで服が汚れたので、お客さんにクリーニング代を払ったという。
たかだか100円の五平餅に痛い出費であった。
だから、しっかりと固定させねばならない。
タレは赤味噌をベースに、砂糖や酒を加えて味付けをしていた。
ちなみに、南山大学のある名古屋は何でも味噌だれを使う。
味噌おでんは有名だが、エビフライやカツ丼も味噌だれである。
当時はあまり好みでは無かったが、最近は懐かしくてチューブ入りの味噌だれを使ったりしている。
五平餅は七輪に火をおこして、あぶって上でタレをつけ、そしてまた焼く。
焼くのに時間がかかるので、行列ができる。
行列ができると人気があると思い、よく売れるのである。
先日も西播磨のテクノの祭りで県立大学のたこ焼きがよく売れていた。
安いこともさることながら、行列ができていたのがやはりミソであった。
人は行列に弱いのである。
一番いけないのは誰もいない店の前で、販売員が突っ立ていることだ。
私は呼び込み販売は意外と得意だが、好きでは無い。
当時アルバイトで餅の製造をしたが、急きょ販売もやらされ、よく売れたのでまたやってと言われたが、1回で断った。
テクノの祭りではちゃんと販売もしたのだが、昔ほど売れなかった。
私はもうおばちゃんには販売員としての魅力を失ってしまったようだ・・・
例年11月3日は母校南山大学のHome Coming Day、つまり学園祭だった。
私はその後の人生を狂わせた文化人類学研究会というクラブに入っていた。
そのクラブでは毎年五平餅を作って販売していた。
私が3年の時には、私の下宿アパートに部員が集まって五平餅を作った。
炊飯器を3台ほど持ち込んだので、途中でヒューズが切れたりして大騒ぎにもなった。
当時はもう二度と部屋を貸してやるものかと思ったが、今から思い返せば楽しいひとときでもあった。
(下の写真は五平餅を売る当時の私)
その五平餅は、板で作った板きれの型に、炊いたご飯をすりこぎで練ってからはめ込むのである。
その真ん中に割り箸を差し込んでおく、それをきちっとしなければ食べている途中で落ちる。
かつて、五平餅が食べている途中で落ちてしまい、味噌だれで服が汚れたので、お客さんにクリーニング代を払ったという。
たかだか100円の五平餅に痛い出費であった。
だから、しっかりと固定させねばならない。
タレは赤味噌をベースに、砂糖や酒を加えて味付けをしていた。
ちなみに、南山大学のある名古屋は何でも味噌だれを使う。
味噌おでんは有名だが、エビフライやカツ丼も味噌だれである。
当時はあまり好みでは無かったが、最近は懐かしくてチューブ入りの味噌だれを使ったりしている。
![]() |
焼くのに時間がかかるので、行列ができる。
行列ができると人気があると思い、よく売れるのである。
先日も西播磨のテクノの祭りで県立大学のたこ焼きがよく売れていた。
安いこともさることながら、行列ができていたのがやはりミソであった。
人は行列に弱いのである。
一番いけないのは誰もいない店の前で、販売員が突っ立ていることだ。
私は呼び込み販売は意外と得意だが、好きでは無い。
当時アルバイトで餅の製造をしたが、急きょ販売もやらされ、よく売れたのでまたやってと言われたが、1回で断った。
テクノの祭りではちゃんと販売もしたのだが、昔ほど売れなかった。
私はもうおばちゃんには販売員としての魅力を失ってしまったようだ・・・
2017年11月9日木曜日
カラオケタイムマシーン
私は歌の練習をかねてひとりカラオケをよくする。
カラオケボックスではなくて、自宅のパソコンを使ってである。
ヤマハのカラホーダイ、ネットで歌本をずっと何年も続けている。
学校でもそれを使って生徒たちとカラオケ大会をしたり、歌の練習をしたりもした。
忘れられないのは赤穂高校で担任していたクラスの最後LHRで打ち上げカラオケをした時だ。
私はフォークギターを持ち込んで歌を披露したりもした。
行事で撮った写真を見ながら、何人かが前で歌ってくれた。
最後に生徒が選んでくれたのは、ULTRA SOULだった。
私がB'zをよく歌うことを知っていたからだ。
みんなで歌いながら踊った。
「そして 戦うULTRA SOUL!」「HEY!!」
みんなの声がそろった!
退職した今の楽しみは、ギターの練習もさることながら、背景の画像に子供たちの写真を使うことだ。
子供たちの写真はデジタル化して、年ごとにホルダーに入れている。
過去に遡って、それを背景に歌っているのである。
まさしく「涙そうそう」の世界なのであるが、まるで当時に戻ったような気分になれる。
当時は、生活や仕事に追われて、子供たちを愛おしく感じる余裕さえあまりなかった。
自分たちの手から離れた今は、孫のごとく愛おしい。
バーチャルリアリティーのタイムマシーンなのである。
たまに、一緒に行ったディズニーランドの映像も見直したりするのも楽しいが、こうしてふとタイムスリップするのも良いものだ。
盆や正月に兄弟が実家に集まった時にもこれを用いてカラオケをした。
あらかじめ写真を用意しておいて、授業で使っているプロジェクターで拡大した。
母親が非常に喜んで、懐かしがってくれた。
子供を亡くした弟にはつらい写真もあったのだが、皆でタイムスリップできて良かった。
人の記憶というのはだんだん薄れてしまうが、写真のおかげでまた復活させてくれる。
当時のことが思い出せない場合は、過去を初体験した感覚にもなる。
ただ、肥満がちでなさけない容貌の自分にまた戻ってしまうのがつらいところである。
画像加工して編集し直してやろうか・・・・
カラオケボックスではなくて、自宅のパソコンを使ってである。
ヤマハのカラホーダイ、ネットで歌本をずっと何年も続けている。
学校でもそれを使って生徒たちとカラオケ大会をしたり、歌の練習をしたりもした。
忘れられないのは赤穂高校で担任していたクラスの最後LHRで打ち上げカラオケをした時だ。
私はフォークギターを持ち込んで歌を披露したりもした。
行事で撮った写真を見ながら、何人かが前で歌ってくれた。
最後に生徒が選んでくれたのは、ULTRA SOULだった。
私がB'zをよく歌うことを知っていたからだ。
みんなで歌いながら踊った。
「そして 戦うULTRA SOUL!」「HEY!!」
みんなの声がそろった!
退職した今の楽しみは、ギターの練習もさることながら、背景の画像に子供たちの写真を使うことだ。
子供たちの写真はデジタル化して、年ごとにホルダーに入れている。
過去に遡って、それを背景に歌っているのである。
まさしく「涙そうそう」の世界なのであるが、まるで当時に戻ったような気分になれる。
当時は、生活や仕事に追われて、子供たちを愛おしく感じる余裕さえあまりなかった。
自分たちの手から離れた今は、孫のごとく愛おしい。
バーチャルリアリティーのタイムマシーンなのである。
たまに、一緒に行ったディズニーランドの映像も見直したりするのも楽しいが、こうしてふとタイムスリップするのも良いものだ。
盆や正月に兄弟が実家に集まった時にもこれを用いてカラオケをした。
あらかじめ写真を用意しておいて、授業で使っているプロジェクターで拡大した。
母親が非常に喜んで、懐かしがってくれた。
子供を亡くした弟にはつらい写真もあったのだが、皆でタイムスリップできて良かった。
人の記憶というのはだんだん薄れてしまうが、写真のおかげでまた復活させてくれる。
当時のことが思い出せない場合は、過去を初体験した感覚にもなる。
ただ、肥満がちでなさけない容貌の自分にまた戻ってしまうのがつらいところである。
画像加工して編集し直してやろうか・・・・
2017年11月8日水曜日
全滅した黒大豆
今まで無農薬、無化学肥料での農作物の栽培を20年以上続けてきた。
その中で害虫によって作物が荒らされたことは度々あった。
それに対して、草木灰や有機石灰を撒いたり、アシビ、煙草の葉を水に溶かして撒いたりもした。
今回は無策であった。
今まで黒大豆は放置していても、大した被害が無かったからだ。
ところが今回は害虫によって赤穂の畑に植えていた黒大豆が全滅してしまった。
葉はそれほど被害は無かったので気づかぬうちに、サヤなどが食い尽くされていた。
聞けば近くの畑でも同じような被害があったという。
油断していたのは上郡の方では順調に育っていたからでもある。
しかし、上郡の近所の畑の黒大豆は病気で立ち枯れたという。
台風などで長雨が続いて病気になったのだろうという。
私が耕作している畑は、水はけはあまりよくないのだが、雑草が生えているので、雑草が水を吸ってくれている。
それが却って幸いしたのかもしれない。
以前少しだけ勤めた無農薬、無化学肥料の農場では、害虫に対しては完全放置だった。
虫が食えば、葉物はまた新しいのが自然と生えるということだった。
しかし、大豆のようなものは再生しようが無い。
そもそも発芽した芽を食われればそれでおしまいとなる。
それでほうれん草は全滅したという。
その農場は人海戦術で数をこなして利益を上げていたが、小規模な農家には無理である。
そこで有機農法を調べてみた。
ネット上でGreen Japanの「「有機」表示のできる農薬」によれば
「法律のおいて、「有機農産物」とは「化学的に合成された肥料及び農薬の使用」を避けたものを基本とする、定義されています。一般に言う「有機」か「無機」かという分類は全く関係がないので注意が必要です。つまり、例えば「炭酸カルシウム」でも[化学的に合成」されたものは使えないが、「天然鉱石を粉砕」したものは使えるということですhttp://www.greenjapan.co.jp/yuki_hyoji_noyak.htm」
ということで、「有機」として使える農薬登録のある商品情報もリストアップしてくれている。
要するに化学的合成かどうかの問題で、自然由来の物質を用いれば良いのである。
まさしく自然農薬を上手く活用しておけば問題は無かった。
黒大豆が全滅した一方で、上郡の畑では蒔きもしなかった、パクチ、ブロッコリー、大根が数多く育っている。
本当は花を咲かせて種を採って撒くつもりが、ずぼらして種が落ちてしまったのである。
ブロッコリーはニンニクのところに生えてしまったので、移植した。
パクチは手に負えないぐらい生えているので、そのまま放置している。
大根はそれほど生えてはいないが根性のある大根である。
こちらは自然農法に近いかもしれない。
今回勉強になったのは、有機農業は大規模で人海戦術を用いればできるかもしれない。
しかし、それは流通ルートをしっかり確保できる人に限られる。
だから、小規模な農家が起業するには前もって蓄財するか、年金をもらってからの方が良さそうだ。
作物の状態は常に観察して対策を怠ってはならず、片手間ではできない。
私の有機農業への挑戦はこれからしばらくはまだ研修段階で進みそうである。
しかし、こういう人はままいるようで、流通に乗せず知人に配っているようだ。
その一方で、農薬や化学肥料をふんだんに使って、多く収穫しようとする方が大勢だろう。
近所の農家もそういう農家が多い。
農薬で肝臓を悪くして早死にした父親を持つ農家も相変わらずである。
農業で生計を立てている人は、大きなリスクを背負っていることが身にしみた。
その中で害虫によって作物が荒らされたことは度々あった。
それに対して、草木灰や有機石灰を撒いたり、アシビ、煙草の葉を水に溶かして撒いたりもした。
今回は無策であった。
今まで黒大豆は放置していても、大した被害が無かったからだ。
ところが今回は害虫によって赤穂の畑に植えていた黒大豆が全滅してしまった。
葉はそれほど被害は無かったので気づかぬうちに、サヤなどが食い尽くされていた。
聞けば近くの畑でも同じような被害があったという。
油断していたのは上郡の方では順調に育っていたからでもある。
しかし、上郡の近所の畑の黒大豆は病気で立ち枯れたという。
台風などで長雨が続いて病気になったのだろうという。
私が耕作している畑は、水はけはあまりよくないのだが、雑草が生えているので、雑草が水を吸ってくれている。
それが却って幸いしたのかもしれない。
以前少しだけ勤めた無農薬、無化学肥料の農場では、害虫に対しては完全放置だった。
虫が食えば、葉物はまた新しいのが自然と生えるということだった。
しかし、大豆のようなものは再生しようが無い。
そもそも発芽した芽を食われればそれでおしまいとなる。
それでほうれん草は全滅したという。
その農場は人海戦術で数をこなして利益を上げていたが、小規模な農家には無理である。
そこで有機農法を調べてみた。
ネット上でGreen Japanの「「有機」表示のできる農薬」によれば
「法律のおいて、「有機農産物」とは「化学的に合成された肥料及び農薬の使用」を避けたものを基本とする、定義されています。一般に言う「有機」か「無機」かという分類は全く関係がないので注意が必要です。つまり、例えば「炭酸カルシウム」でも[化学的に合成」されたものは使えないが、「天然鉱石を粉砕」したものは使えるということですhttp://www.greenjapan.co.jp/yuki_hyoji_noyak.htm」
ということで、「有機」として使える農薬登録のある商品情報もリストアップしてくれている。
要するに化学的合成かどうかの問題で、自然由来の物質を用いれば良いのである。
まさしく自然農薬を上手く活用しておけば問題は無かった。
黒大豆が全滅した一方で、上郡の畑では蒔きもしなかった、パクチ、ブロッコリー、大根が数多く育っている。
本当は花を咲かせて種を採って撒くつもりが、ずぼらして種が落ちてしまったのである。
ブロッコリーはニンニクのところに生えてしまったので、移植した。
パクチは手に負えないぐらい生えているので、そのまま放置している。
大根はそれほど生えてはいないが根性のある大根である。
こちらは自然農法に近いかもしれない。
今回勉強になったのは、有機農業は大規模で人海戦術を用いればできるかもしれない。
しかし、それは流通ルートをしっかり確保できる人に限られる。
だから、小規模な農家が起業するには前もって蓄財するか、年金をもらってからの方が良さそうだ。
作物の状態は常に観察して対策を怠ってはならず、片手間ではできない。
私の有機農業への挑戦はこれからしばらくはまだ研修段階で進みそうである。
しかし、こういう人はままいるようで、流通に乗せず知人に配っているようだ。
その一方で、農薬や化学肥料をふんだんに使って、多く収穫しようとする方が大勢だろう。
近所の農家もそういう農家が多い。
農薬で肝臓を悪くして早死にした父親を持つ農家も相変わらずである。
農業で生計を立てている人は、大きなリスクを背負っていることが身にしみた。
2017年11月7日火曜日
負った子に背負われて
家内は実家の父親の具合が悪くて休日には留守がちになった。
この11月の三連休も半日は看病やら手伝いに出かけていった。
そんな折り、たまたま土曜に休みが取れた息子とドライブに行くことになった。
息子の通勤用の車は、数ヶ月ほど前に中古を買い換えたものである。
ETCも付いていないので、近場に行くことにした。
実は自転車で日生大橋を渡って、鹿久居島に行ってみたいと思っていた。
まずは下見に息子と車で出かけることにしたのである。
息子を乗せてのドライブは、小さい頃から最近までしていた。
しかし、用事で乗せてもらう以外にドライブで車に乗せてもらうのは初めてだった。
日生大橋は狭い急な坂になっていたが、ハイキング姿で一人歩く年配の人がいた。
これはいきなり自転車はきつい坂だなと、車で来て良かったと思った。
地図も持たず、ナビも付いていないので、何も考えず進むと頭島大橋を渡ってしまった。
しばらく行くと市営の駐車場があり、一日100円なのでそこに置いて散策することにした。
頭島という名前はよく聞かされていた。
母親の遠い親戚が民宿をしていると聞かされていたからである。
以前私が職場の幹事をしていた時に、そこを利用しようとしたが不便だと言うことで取りやめになってしまった。
予約までしていて、非常に気まずい思いをした経験の場所でもある。
頭島は思ったより開けていて、民宿も多かった。
観光施設らしき物は何も無く、防波堤で釣りをする人が多かった。
知っている人は、防波堤の空き地に車を駐めているようだった。
港から少し山を越えて、海水浴場まで行った。
細い路地で、海水浴客が車を駐めるのは難しいと思った。
浜辺のすぐそばに墓場があり、それを見て息子は大学時代に病気で亡くなった友達の話をし出した。
息子は高校の同級生を一人病気で、小学校中学校の同級生を放火事件で亡くしている。
特に病気で亡くなった友達とは仲が良かったようで、ショックだったようだ。
実はその友達のお姉さんは私の教え子であり、お父さんは職場の同僚でもあった。
その浜辺から駐車場に戻る時に、山の上に建物があるのが見えたので行くことにした。
この頭島には2017年まで小学校があったようで、山の斜面に記念の絵が描かれてあった。
その廃校になった小学校にも行ってみたが、山の上の景色の良いこぢんまりとした小学校だった。
なぜか、門は閉じられているのに、奥の方に車が一台駐められていた。
見晴らしの良い坂道を下って、駐車場までのんびりと釣り客を見ながら戻った。
島を出てからは、途中で運転を交代して、ブルーラインを通り鷲羽山まで行った。
鷲羽山は家族で何度か行ったところなのだが、息子はあまり憶えていなかった。
鷲羽山の展望台で思い出したようだ。
その時は弁当を途中で買って、海を見ながら食べた。
今回は客の少ないレストランの窓際の一等席でたこ飯定食を食べた。
昼時であるのにお客さんが少ない。
以前家内と二人出来た時にも思ったことだが、観光地としては寂れてしまっている。
ただ、自転車やバイクのマニアには格好の場所になっているようだ。
その後は息子が運転して渋川海岸沿いをドライブした。
いつもながらこの近辺の道は良く分からず、結局岡山港にたどり着いた。
コンビニで休憩した後、私が運転して家路についたが、途中で息子はぐっすり眠ってしまった。
普段あまり車で遠出しないので疲れたと後で行っていた。
久しぶりに息子と二人きりの長い時間を過ごした。
息子は職場のことを色々と話してくれた。
本来は父親ではなくて、友達や彼女とドライブをする年代なのだ。
一緒に過ごすことは望ましい状態とは思えず、父親としては複雑な心境である。
それでも、息子の仕事の様子を聴くことが出来て良かったは思う。
いつか、娘ともこういう時間がつくれたらと思うが、娘は鷲羽山に掛かる大橋の向こう側にいる。
この11月の三連休も半日は看病やら手伝いに出かけていった。
そんな折り、たまたま土曜に休みが取れた息子とドライブに行くことになった。
息子の通勤用の車は、数ヶ月ほど前に中古を買い換えたものである。
ETCも付いていないので、近場に行くことにした。
実は自転車で日生大橋を渡って、鹿久居島に行ってみたいと思っていた。
まずは下見に息子と車で出かけることにしたのである。
息子を乗せてのドライブは、小さい頃から最近までしていた。
しかし、用事で乗せてもらう以外にドライブで車に乗せてもらうのは初めてだった。
日生大橋は狭い急な坂になっていたが、ハイキング姿で一人歩く年配の人がいた。
これはいきなり自転車はきつい坂だなと、車で来て良かったと思った。
地図も持たず、ナビも付いていないので、何も考えず進むと頭島大橋を渡ってしまった。
しばらく行くと市営の駐車場があり、一日100円なのでそこに置いて散策することにした。
頭島という名前はよく聞かされていた。
母親の遠い親戚が民宿をしていると聞かされていたからである。
以前私が職場の幹事をしていた時に、そこを利用しようとしたが不便だと言うことで取りやめになってしまった。
予約までしていて、非常に気まずい思いをした経験の場所でもある。
頭島は思ったより開けていて、民宿も多かった。
観光施設らしき物は何も無く、防波堤で釣りをする人が多かった。
知っている人は、防波堤の空き地に車を駐めているようだった。
港から少し山を越えて、海水浴場まで行った。
細い路地で、海水浴客が車を駐めるのは難しいと思った。
浜辺のすぐそばに墓場があり、それを見て息子は大学時代に病気で亡くなった友達の話をし出した。
息子は高校の同級生を一人病気で、小学校中学校の同級生を放火事件で亡くしている。
特に病気で亡くなった友達とは仲が良かったようで、ショックだったようだ。
実はその友達のお姉さんは私の教え子であり、お父さんは職場の同僚でもあった。
この頭島には2017年まで小学校があったようで、山の斜面に記念の絵が描かれてあった。
その廃校になった小学校にも行ってみたが、山の上の景色の良いこぢんまりとした小学校だった。
なぜか、門は閉じられているのに、奥の方に車が一台駐められていた。
見晴らしの良い坂道を下って、駐車場までのんびりと釣り客を見ながら戻った。
島を出てからは、途中で運転を交代して、ブルーラインを通り鷲羽山まで行った。
鷲羽山は家族で何度か行ったところなのだが、息子はあまり憶えていなかった。
鷲羽山の展望台で思い出したようだ。
その時は弁当を途中で買って、海を見ながら食べた。
今回は客の少ないレストランの窓際の一等席でたこ飯定食を食べた。
昼時であるのにお客さんが少ない。
以前家内と二人出来た時にも思ったことだが、観光地としては寂れてしまっている。
ただ、自転車やバイクのマニアには格好の場所になっているようだ。
その後は息子が運転して渋川海岸沿いをドライブした。
いつもながらこの近辺の道は良く分からず、結局岡山港にたどり着いた。
コンビニで休憩した後、私が運転して家路についたが、途中で息子はぐっすり眠ってしまった。
普段あまり車で遠出しないので疲れたと後で行っていた。
息子は職場のことを色々と話してくれた。
本来は父親ではなくて、友達や彼女とドライブをする年代なのだ。
一緒に過ごすことは望ましい状態とは思えず、父親としては複雑な心境である。
それでも、息子の仕事の様子を聴くことが出来て良かったは思う。
いつか、娘ともこういう時間がつくれたらと思うが、娘は鷲羽山に掛かる大橋の向こう側にいる。
2017年11月4日土曜日
にわか宮総代
退職した途端に村役の一つを強引に任せられた。
宮総代という村役は、要するに神社行事の世話役、作業員なのである。
因みに神社や寺を掃除したり、お清めするのは古代では奴婢の行う仕事だった。
各地区に一人の代表と、区長、副区長が加わって神社の運営を行う。
前任者は、今年はこの地区が行事の当番(総世話役)に当たっているのにも関わらず、降りてしまった。
本来なら前年度から、やるべき仕事を見て知っておかねばならない役柄である。
私はこの村に引っ越して以来、中野地区の荒神祭りには参加したり、世話役もした。
しかし、多くの氏子を抱える与井八幡神社の祭りには殆ど参加したことが無い。
私は生まれは赤穂なので、赤穂の鳥撫と尾崎の祭りや行事は小さい頃からのなじみがある。
この村に引っ越して25年以上になるのに、祭りは一回だけちょっと見に行きすぐに帰った。
子供たちは子供神輿で参加はしていたはずだが、家内が付き添った。
宮総代の最初の仕事は輪越(大祓)で用いる茅の刈り取りだった。
茅を刈り取ってきて、古老の指導を受けながら大きな輪をこさえた。
そして、輪越の神事の世話役で、浄めの世話や、直会の世話をした。
初めて神事たるものに参加して、宮総代代表として玉串奉納も行った。
今まで輪越というのは単に夕方家族でくぐり抜けに行っただけなので、神事作法があるとは知らなかった。
神木から神様をお供しながら、神主を先頭に行列になって輪を3回8の字に回った。
因みにこの神道の大祓は中国由来の道教の影響だそうである。
の輪越より大変だったのは、10月の15日行われた秋祭りだった。
一週間前から、宮総代全員で神社周り草木を剪定したり、掃除を行った。
祭りの前日には応援も来てもらい、例年の幟立てだけではなく、雨が予想されたのでテントを立てた。
当日も朝早くから、提灯やらテントを起こしたが、前日より貯まった雨水をかぶってずぶ濡れになった。
上半身裸で作業した後、本番にそなえて着替えに帰らなければならなかった。
祭り行事は、宮総代はいちよう正装していた。
獅子舞や子供神輿が山の上の神社まで上がって来て、初めて与井の獅子舞をじっくりと見物した。
その舞手の中には、上郡高校の教え子がいて、声をかけたが。
「先生痩せてましたね」と言われ、私は腹の出た教え子に「太ったな」と返した。
何とか玉串奉納の神事も行い、一番の大仕事はビンゴゲームの司会となった。
むしろ司会は教師をしていたので、気楽にできた。
獅子舞の出る秋祭りでビンゴゲームというのは初めての経験だった。
それが終わり、テントを足だけたたんで直会となった。
今回は輪越の洗い米と御神酒だけでは無くて、弁当と酒が用意されていた。
本来ならその世話役なのだが、座って飲み食いしてしまった。
私は神主を覗いて地区役員や宮総代の中で一番若い。
弁当を全部食べてしまったのは私だけだった。
他の人はお酒もほどほどに、弁当は持ち帰っていた。
その数日後の晴れた日に、幟やテントを朝夕に分けて片付けた。
結局、秋祭りに4日間の奉仕を行った。
今後、宮総代は新嘗祭や年末年始の行事の仕事がある。
村の神社の行事も高齢者で担わなくてはならなくなり、いずれ無くなるだろう。
現に、近くの神社は獅子舞の舞手が無くなり、来年から獅子舞は無くなるそうだ。
十分な練習が必要な獅子舞より、簡単に担げる神輿の方がこれから良いのかもしれない。
私の育った赤穂の尾崎では大人神輿が盛んになったようだ。
これも姫路の祭りの影響なのかとも思う。
祭りも時代に合わせて変えていかねばならないだろう
宮総代という村役は、要するに神社行事の世話役、作業員なのである。
因みに神社や寺を掃除したり、お清めするのは古代では奴婢の行う仕事だった。
各地区に一人の代表と、区長、副区長が加わって神社の運営を行う。
前任者は、今年はこの地区が行事の当番(総世話役)に当たっているのにも関わらず、降りてしまった。
本来なら前年度から、やるべき仕事を見て知っておかねばならない役柄である。
私はこの村に引っ越して以来、中野地区の荒神祭りには参加したり、世話役もした。
しかし、多くの氏子を抱える与井八幡神社の祭りには殆ど参加したことが無い。
私は生まれは赤穂なので、赤穂の鳥撫と尾崎の祭りや行事は小さい頃からのなじみがある。
この村に引っ越して25年以上になるのに、祭りは一回だけちょっと見に行きすぐに帰った。
子供たちは子供神輿で参加はしていたはずだが、家内が付き添った。
宮総代の最初の仕事は輪越(大祓)で用いる茅の刈り取りだった。
茅を刈り取ってきて、古老の指導を受けながら大きな輪をこさえた。
そして、輪越の神事の世話役で、浄めの世話や、直会の世話をした。
初めて神事たるものに参加して、宮総代代表として玉串奉納も行った。
今まで輪越というのは単に夕方家族でくぐり抜けに行っただけなので、神事作法があるとは知らなかった。
神木から神様をお供しながら、神主を先頭に行列になって輪を3回8の字に回った。
因みにこの神道の大祓は中国由来の道教の影響だそうである。
の輪越より大変だったのは、10月の15日行われた秋祭りだった。
一週間前から、宮総代全員で神社周り草木を剪定したり、掃除を行った。
祭りの前日には応援も来てもらい、例年の幟立てだけではなく、雨が予想されたのでテントを立てた。
当日も朝早くから、提灯やらテントを起こしたが、前日より貯まった雨水をかぶってずぶ濡れになった。
上半身裸で作業した後、本番にそなえて着替えに帰らなければならなかった。
祭り行事は、宮総代はいちよう正装していた。
獅子舞や子供神輿が山の上の神社まで上がって来て、初めて与井の獅子舞をじっくりと見物した。
その舞手の中には、上郡高校の教え子がいて、声をかけたが。
「先生痩せてましたね」と言われ、私は腹の出た教え子に「太ったな」と返した。
何とか玉串奉納の神事も行い、一番の大仕事はビンゴゲームの司会となった。
むしろ司会は教師をしていたので、気楽にできた。
獅子舞の出る秋祭りでビンゴゲームというのは初めての経験だった。
それが終わり、テントを足だけたたんで直会となった。
今回は輪越の洗い米と御神酒だけでは無くて、弁当と酒が用意されていた。
本来ならその世話役なのだが、座って飲み食いしてしまった。
私は神主を覗いて地区役員や宮総代の中で一番若い。
弁当を全部食べてしまったのは私だけだった。
他の人はお酒もほどほどに、弁当は持ち帰っていた。
その数日後の晴れた日に、幟やテントを朝夕に分けて片付けた。
結局、秋祭りに4日間の奉仕を行った。
今後、宮総代は新嘗祭や年末年始の行事の仕事がある。
村の神社の行事も高齢者で担わなくてはならなくなり、いずれ無くなるだろう。
現に、近くの神社は獅子舞の舞手が無くなり、来年から獅子舞は無くなるそうだ。
十分な練習が必要な獅子舞より、簡単に担げる神輿の方がこれから良いのかもしれない。
私の育った赤穂の尾崎では大人神輿が盛んになったようだ。
これも姫路の祭りの影響なのかとも思う。
祭りも時代に合わせて変えていかねばならないだろう
2017年11月1日水曜日
30年前の繰り返し
約束の半年が過ぎてもちゃんとした仕事が見つからないでいる。
今から30年ほど前に、私は博士課程の進学を諦めて教師になるべく地元赤穂に帰った。
教員採用試験を受けるまでは実家に籠り試験勉強をした。
その後は、姫路の中学校や赤穂の中学校、尼崎の高校の臨時講師を勤めた。
臨時講師は病欠、海外研修、産休の教諭の代用であった。
中学校では数学、英語を教え、高校では現代社会を教えた。
臨時講師の仕事は連続してあった訳では無く、その空いた期間は発掘の作業員をした。
土木作業員とあまり変わらない仕事で、地元の中学校では生徒から「ドカチン先生」と呼ばれた。
ただ、その発掘の仕事のお陰で、教育委員会のMさんに懇意にしてもらい。
教員採用に関しては、色々とお世話になり助かった。
多くの人が高校社会科の教師に何年も講師を続けることが多いのに、私は半年ほどの講師で教諭になれた。
ただ、採用されたのは当時養護学校と呼ばれた学校で、大学院の専門知識は活かされることは無かった。
その後30年間、専門知識はあまり活かされることは無かったように思える。
今、私は次の仕事のために色々と職探しをしている。
30年前も高校教師になりたくてなったのではなくて、研究を続けるために教師の道を選んだ。
今も、研究が続けられるための職を探している。
一般の人から見れば、なぜそこまで拘るのかと思うかも知れない。
今テレビドラマでやっている「陸王」の「シルクレイ」の開発社長に重なって見えた。
その人物設定では、良い技術を持ちながら倒産してしまった社長。
私の場合は良い研究とは言えないけど、職に出来ないでいる。
前回のストーリーからすれば、金のためでは無くて生きがいを求めて足袋屋に協力することになった。
私は倒産ならぬ退職だが、研究を通して最後の人生を賭けてみたいと思っている。
それはやはり生きがいなのだと思う。
開発技術も研究も時代が変われば、忘れ去られることが多い。
場合によって一儲けできるかも知れないが、年老いてしまえばそれもあまり価値は無いだろう。
要するに、「自分のやりたいことを自由にやれることそのもの」に生きがいを感じるのである。
稼ぎのないものを人は道楽というかも知れない。
しかし、私の原点は奄美与路島の人の様に、あくせく稼がなくても楽しく生活していた姿である。
当然与路の人にも不安はいつもつきまとっていた。
あくせくして働いていれば、その不安を忘れられるかも知れない。
しかし、結局それは心身を蝕んでいくことにもなりかねない。
30年前の私は全くの無一文だった。
今は僅かながら蓄えもある。
ただ、30年前の私には若さと希望があった。
今の私には老いと諦めしか無い。
唯一30年前より勝っているのは、焦らず道を進むことだろう。
長くなった人生はこのような転機を繰り返すのが当たり前なのかも知れない。
今から30年ほど前に、私は博士課程の進学を諦めて教師になるべく地元赤穂に帰った。
教員採用試験を受けるまでは実家に籠り試験勉強をした。
その後は、姫路の中学校や赤穂の中学校、尼崎の高校の臨時講師を勤めた。
臨時講師は病欠、海外研修、産休の教諭の代用であった。
中学校では数学、英語を教え、高校では現代社会を教えた。
臨時講師の仕事は連続してあった訳では無く、その空いた期間は発掘の作業員をした。
土木作業員とあまり変わらない仕事で、地元の中学校では生徒から「ドカチン先生」と呼ばれた。
ただ、その発掘の仕事のお陰で、教育委員会のMさんに懇意にしてもらい。
教員採用に関しては、色々とお世話になり助かった。
多くの人が高校社会科の教師に何年も講師を続けることが多いのに、私は半年ほどの講師で教諭になれた。
ただ、採用されたのは当時養護学校と呼ばれた学校で、大学院の専門知識は活かされることは無かった。
その後30年間、専門知識はあまり活かされることは無かったように思える。
今、私は次の仕事のために色々と職探しをしている。
30年前も高校教師になりたくてなったのではなくて、研究を続けるために教師の道を選んだ。
今も、研究が続けられるための職を探している。
一般の人から見れば、なぜそこまで拘るのかと思うかも知れない。
今テレビドラマでやっている「陸王」の「シルクレイ」の開発社長に重なって見えた。
その人物設定では、良い技術を持ちながら倒産してしまった社長。
私の場合は良い研究とは言えないけど、職に出来ないでいる。
前回のストーリーからすれば、金のためでは無くて生きがいを求めて足袋屋に協力することになった。
私は倒産ならぬ退職だが、研究を通して最後の人生を賭けてみたいと思っている。
それはやはり生きがいなのだと思う。
開発技術も研究も時代が変われば、忘れ去られることが多い。
場合によって一儲けできるかも知れないが、年老いてしまえばそれもあまり価値は無いだろう。
要するに、「自分のやりたいことを自由にやれることそのもの」に生きがいを感じるのである。
稼ぎのないものを人は道楽というかも知れない。
しかし、私の原点は奄美与路島の人の様に、あくせく稼がなくても楽しく生活していた姿である。
当然与路の人にも不安はいつもつきまとっていた。
あくせくして働いていれば、その不安を忘れられるかも知れない。
しかし、結局それは心身を蝕んでいくことにもなりかねない。
30年前の私は全くの無一文だった。
今は僅かながら蓄えもある。
ただ、30年前の私には若さと希望があった。
今の私には老いと諦めしか無い。
唯一30年前より勝っているのは、焦らず道を進むことだろう。
長くなった人生はこのような転機を繰り返すのが当たり前なのかも知れない。
もみの木とゴールドクレスト
家の庭には二本の大きな木がある。
西側にはもみの木、東側にはゴールドクレストである。

二本ともクリスマスツリーとして二人の子供のために買ったものである。
もみの木は上の息子のために、ゴールドクレストは下の娘のためである。
だから二本とも20年以上の樹齢を持つ。
どちらもこれ以上高くなると、手に負えなくなると思って、先端は切り落としていた。
ところが、どちらも枝が大きく成長してしまった。
ゴールドクレストなどは、枝も上に伸びていくので、先端を落とした意味は無かった。
今後のことを考えて、しっかり剪定することにした。
そのために、充電式の高枝チェーンソーを買った。
これは実家の松の木の剪定にも用いるために、実家から援助してもらった。
もみの木はベランダから枝先をどんどん切り落として、まるで散髪したプードルのようになった。
哀しいのはゴールドクレストである。
枝元が枯れている
ので、枝先だけ落とすわけにはいかない。
太い枝を落とすと、どんどんはげ上がっていく。
ベランダからも遠いし、道に近いので、やむなく殆ど裸にしてしまった。
木そのものを枯らしてはいけないので最低限の枝を残したが、トーテムポールのようになってしまった。
娘のために買った木をこんな姿にしてしまうのは、何となく昔の思い出を壊してしまうようで寂しかった。
知人の中には、クリスマスに子供に買った木を庭に植え大きくなりすぎて切り倒した人もいた。
いずれ切り倒さねばならない時が来るかもしれないが、自分で剪定できる内は残したいと思う。
私の実家も、家内の実家も自分で剪定できる者がいなくなった。
私の実家はシルバー派遣に頼むと高額なので、私が主に剪定している。
家内の実家は業者に頼んだようだ。
私の実家の庭は祖父が家を新築した父のために造ったものなので、できるだけ残したいと思っている。
でも、おそらく私が年老いたら、実家も自分の家も庭木は処分せねばならないだろう。
家の近所の人とも同じような話をしている。
近頃若い人は、庭木を植えようとしないのも分からなくは無い。
夏になって蝉が鳴いているのは、自分の家の庭くらいだ。
そのうち蝉の声の苦情が出るかもしれない。
自分が幼い頃は狭い家に住んでいたので、蝉のいる庭木がある友達がうらやましかった。
今は蝉を捕る子供はいない。
ただ、この暑い夏はこのうるさいけど涼しい庭に大分助けられた。
外から家に戻ってくると、はっきりと涼しく感じた。
素人の世話をする庭木は、どちらかというと見苦しいかもしれない。
それでも、親子の思い出の残る木をなんとか守っていきたいと思っている。
いつまでできるのか分からないけれど・・・
西側にはもみの木、東側にはゴールドクレストである。
二本ともクリスマスツリーとして二人の子供のために買ったものである。
もみの木は上の息子のために、ゴールドクレストは下の娘のためである。
だから二本とも20年以上の樹齢を持つ。
どちらもこれ以上高くなると、手に負えなくなると思って、先端は切り落としていた。
ところが、どちらも枝が大きく成長してしまった。
ゴールドクレストなどは、枝も上に伸びていくので、先端を落とした意味は無かった。
今後のことを考えて、しっかり剪定することにした。
そのために、充電式の高枝チェーンソーを買った。
これは実家の松の木の剪定にも用いるために、実家から援助してもらった。
もみの木はベランダから枝先をどんどん切り落として、まるで散髪したプードルのようになった。
哀しいのはゴールドクレストである。
枝元が枯れている
太い枝を落とすと、どんどんはげ上がっていく。
ベランダからも遠いし、道に近いので、やむなく殆ど裸にしてしまった。
木そのものを枯らしてはいけないので最低限の枝を残したが、トーテムポールのようになってしまった。
娘のために買った木をこんな姿にしてしまうのは、何となく昔の思い出を壊してしまうようで寂しかった。
知人の中には、クリスマスに子供に買った木を庭に植え大きくなりすぎて切り倒した人もいた。
いずれ切り倒さねばならない時が来るかもしれないが、自分で剪定できる内は残したいと思う。
私の実家も、家内の実家も自分で剪定できる者がいなくなった。
私の実家はシルバー派遣に頼むと高額なので、私が主に剪定している。
家内の実家は業者に頼んだようだ。
私の実家の庭は祖父が家を新築した父のために造ったものなので、できるだけ残したいと思っている。
でも、おそらく私が年老いたら、実家も自分の家も庭木は処分せねばならないだろう。
家の近所の人とも同じような話をしている。
近頃若い人は、庭木を植えようとしないのも分からなくは無い。
夏になって蝉が鳴いているのは、自分の家の庭くらいだ。
そのうち蝉の声の苦情が出るかもしれない。
自分が幼い頃は狭い家に住んでいたので、蝉のいる庭木がある友達がうらやましかった。
今は蝉を捕る子供はいない。
ただ、この暑い夏はこのうるさいけど涼しい庭に大分助けられた。
外から家に戻ってくると、はっきりと涼しく感じた。
素人の世話をする庭木は、どちらかというと見苦しいかもしれない。
それでも、親子の思い出の残る木をなんとか守っていきたいと思っている。
いつまでできるのか分からないけれど・・・
2017年10月29日日曜日
播磨科学公園都市まちびらき20周年
この10月28日、29日は西播磨ふれあいフェスティバルが雨の中開催された。
私は新聞に折り込まれた広告で知ってはいたが、別段関心も無く行くつもりは
無かった。ところが、販売の応援で行く必要ができて、28日だけ朝早くから出かけることになった。
朝の8時前には雨の中、既に多くのブーステントで準備が始まっていた。
販売の準備をしながら、メインステージのリハーサルを見たりもした。
自分もこういう舞台で演奏できたらなと思いつつ、雨に濡れた芝生の上で重いキャリアを押した。
開会セレモニーは多くの関係者が挨拶を行っていた。
この企画は西播磨県民局県民交流課、兵庫県県民生活課が中心となって開催されたものである。
県政150周年とまちびらき20周年を記念した一大イベントである。
ちょうど今播磨自動車道が播磨新宮ICから山崎JCTまでの延長工事を行っている。
中国縦貫道と播磨道を連結させた時に、この公園都市に賑やかな商業プラザを創る計画らしい。
ウィキペディアによれば
「開発開始から30年にあたる2015年の報告では、区域人口は1,434人であり、当初の計画人口25,000人に対し僅か 5.7%にとどまっている。
主に公共施設や研究施設等が立地しており、造成地の大半は現在売り出し中」
ということで、現段階で言えば、成功しているとはいえないだろう。
私はかつてこの公園都市の一角にあった大学付属高校に勤務していた。
この教育大学を除いて公立大学ではあまり例を見ない中学部を併設させて以来人気は上がっているようだ。
私は中学部ができて二年目で転任したので内情はよく分からないが、志望数からするとそう思える。
Spring-8をはじめとする研究機関や大学、多くの企業を誘致して発展する予定であった。
しかし、西播磨を活性化するほどの起爆剤にはなっておらず、膝元の上郡は過疎化に苦しんでいる。
実は附属高校・中学は上郡町にあるのである。
しかし、町にいて親しみも、なじみも無い学校になってしまっている。
このフェスティバルで出会ったのは、殆ど昔の教員仲間である。
附属高校や職業高校を中心としたブースがあったので、出会って当たり前なのだ。
知っている地元の人は一家族だけだった。
雨の中、入場者の数も少なく、商品の売れ行きも悪かった。
目立ったのはスーツを着た人たちで、いかにも役人という風貌で仕事で来たという感じであった。
その人たちの中にはスーツに長靴という格好で、巡り歩いている関係者もいた。
知事さんも雨の中、ブースを覗いて声をかけてくれた。
このフェスティバルが済んだら、また静かな鹿の遊ぶ町に戻るだろう。
中心となっている、光都プラザの店舗は入れ替わりも多く、空き店舗のオーナーを募集している。
広島大学は賀茂学園都市の中核として発展に貢献したようだ。
娘が通っていた関係で何度か行ってみたが、同じテクノポリスでも雲泥の差である。
国立と県立の差といえばそれまでだが、もっと工夫が必要だろう。
何よりも地元との関係をもっと親密にする必要があるように思う。
それにはもっと便利で安いアクセス方法が必要である。
鹿との衝突や冬の雪に苦しめられる、道路も問題だ。
賀茂学園都市も雪で事故は多いそうだが、それ以上に危険な坂道を抱えている。
いっそ播磨自動車道を無料化して、姫路バイパスとつないではどうだろうか?
私は新聞に折り込まれた広告で知ってはいたが、別段関心も無く行くつもりは

朝の8時前には雨の中、既に多くのブーステントで準備が始まっていた。
販売の準備をしながら、メインステージのリハーサルを見たりもした。
自分もこういう舞台で演奏できたらなと思いつつ、雨に濡れた芝生の上で重いキャリアを押した。
開会セレモニーは多くの関係者が挨拶を行っていた。
この企画は西播磨県民局県民交流課、兵庫県県民生活課が中心となって開催されたものである。
県政150周年とまちびらき20周年を記念した一大イベントである。
ちょうど今播磨自動車道が播磨新宮ICから山崎JCTまでの延長工事を行っている。
中国縦貫道と播磨道を連結させた時に、この公園都市に賑やかな商業プラザを創る計画らしい。
ウィキペディアによれば
「開発開始から30年にあたる2015年の報告では、区域人口は1,434人であり、当初の計画人口25,000人に対し僅か 5.7%にとどまっている。
主に公共施設や研究施設等が立地しており、造成地の大半は現在売り出し中」
ということで、現段階で言えば、成功しているとはいえないだろう。
私はかつてこの公園都市の一角にあった大学付属高校に勤務していた。
この教育大学を除いて公立大学ではあまり例を見ない中学部を併設させて以来人気は上がっているようだ。
私は中学部ができて二年目で転任したので内情はよく分からないが、志望数からするとそう思える。
Spring-8をはじめとする研究機関や大学、多くの企業を誘致して発展する予定であった。
しかし、西播磨を活性化するほどの起爆剤にはなっておらず、膝元の上郡は過疎化に苦しんでいる。
実は附属高校・中学は上郡町にあるのである。
しかし、町にいて親しみも、なじみも無い学校になってしまっている。
このフェスティバルで出会ったのは、殆ど昔の教員仲間である。
附属高校や職業高校を中心としたブースがあったので、出会って当たり前なのだ。
知っている地元の人は一家族だけだった。
雨の中、入場者の数も少なく、商品の売れ行きも悪かった。
目立ったのはスーツを着た人たちで、いかにも役人という風貌で仕事で来たという感じであった。
その人たちの中にはスーツに長靴という格好で、巡り歩いている関係者もいた。
知事さんも雨の中、ブースを覗いて声をかけてくれた。
このフェスティバルが済んだら、また静かな鹿の遊ぶ町に戻るだろう。
中心となっている、光都プラザの店舗は入れ替わりも多く、空き店舗のオーナーを募集している。
広島大学は賀茂学園都市の中核として発展に貢献したようだ。
娘が通っていた関係で何度か行ってみたが、同じテクノポリスでも雲泥の差である。
国立と県立の差といえばそれまでだが、もっと工夫が必要だろう。
何よりも地元との関係をもっと親密にする必要があるように思う。
それにはもっと便利で安いアクセス方法が必要である。
鹿との衝突や冬の雪に苦しめられる、道路も問題だ。
賀茂学園都市も雪で事故は多いそうだが、それ以上に危険な坂道を抱えている。
いっそ播磨自動車道を無料化して、姫路バイパスとつないではどうだろうか?
過酷な現実
教員がブラック企業と言われるようになってきたが、それは過重勤務によるものである。
それとは違い、賃金の遅滞、不払い、労使契約もまともに行わないなど、まともな雇用がんされないケースを初めて知った。
元大手団体の役員だったM氏の経営するNPOに職員になる過程で既にその現実が露呈されていた。
高齢のM氏は、約束の時間を守らないどころか、日時さえも誤ってメモをしていた。
IT関係は全くできず、メールが使えないために、口頭での約束に頼るのだが、それがある意味彼の武器だった。
紹介された直営店の担当者に会うなり、いきなり給料の支払いの遅延や、従業員がすぐやめていくことを知らされた。
作業現場はそれに加えて、通勤費の不払い、残業手当の不払いを知らされた。
NPOと言えども、最低限守るべきものだと思う。
有機農業と口にするけれど、有機農業の認証は受けてもいなかった。
それどころか、販売品がなくなると、平気で別の直売所から保証のない作物を買い転売していた。
作業現場も劣悪で、機械や道具もまともに無く、他の従業員も雇用されて半年未満だった。
作業員は販売員以上に入れ替わりが激しかった。
一緒に働き始めたY氏は、二日働いてやめていき、私も早めに手を引くことにした。
今日もイベントが家から近くの会場であったが、その企画団体との親密さとは裏腹に、全く精彩を欠くものだった。
私が30年勤務して表彰してくれた、知事さんも店に顔を出してくれたのだが・・・
私の「夢のムコウ」の現実は、極端な社会の一面を見せつけてくれた。
教員生活の中で、こういう社会の現実を知らずにいたことは、ある意味で恥ずかしいことかもしれない。
若者の夢や希望を潰していく現実を目の当たりにして、頭から水をかぶせられた思いがした。
果たして昨日から作業現場の正職員が、無断で休んで仕事に出てきていない。
それとは違い、賃金の遅滞、不払い、労使契約もまともに行わないなど、まともな雇用がんされないケースを初めて知った。
元大手団体の役員だったM氏の経営するNPOに職員になる過程で既にその現実が露呈されていた。
高齢のM氏は、約束の時間を守らないどころか、日時さえも誤ってメモをしていた。
IT関係は全くできず、メールが使えないために、口頭での約束に頼るのだが、それがある意味彼の武器だった。
紹介された直営店の担当者に会うなり、いきなり給料の支払いの遅延や、従業員がすぐやめていくことを知らされた。
作業現場はそれに加えて、通勤費の不払い、残業手当の不払いを知らされた。
NPOと言えども、最低限守るべきものだと思う。
有機農業と口にするけれど、有機農業の認証は受けてもいなかった。
それどころか、販売品がなくなると、平気で別の直売所から保証のない作物を買い転売していた。
作業現場も劣悪で、機械や道具もまともに無く、他の従業員も雇用されて半年未満だった。
作業員は販売員以上に入れ替わりが激しかった。
一緒に働き始めたY氏は、二日働いてやめていき、私も早めに手を引くことにした。
今日もイベントが家から近くの会場であったが、その企画団体との親密さとは裏腹に、全く精彩を欠くものだった。
私が30年勤務して表彰してくれた、知事さんも店に顔を出してくれたのだが・・・
私の「夢のムコウ」の現実は、極端な社会の一面を見せつけてくれた。
教員生活の中で、こういう社会の現実を知らずにいたことは、ある意味で恥ずかしいことかもしれない。
若者の夢や希望を潰していく現実を目の当たりにして、頭から水をかぶせられた思いがした。
果たして昨日から作業現場の正職員が、無断で休んで仕事に出てきていない。
2017年10月18日水曜日
夢のムコウ
家内との約束の半年は過ぎてしまった。
私は早期退職後の半年の間に、次の出版を果たす予定だった。
しかし、本格的な研究の感覚を取り戻すだけに半年近くかかってしまった。
再び稼ぎながら研究を続けることを余儀なくされた。
ハローワークに出向くと、隣の県のB市で遺物整理のアルバイトがあった。
ちょうど、考古学も勉強しているので良いと思い応募した。
面接の日に出向いて、若くて美しい女性がもう一人応募しているのが分かった。
普通は素人のおばさんがパートでやることが多いが、これは負けたと思った。
案の定、面接は老眼の痛いところを突いてきた。
かくして結果として、うら若き女性に私はアルバイトを奪われてしまった。
その後、その採用担当者が別の仕事を用意しようとしてくれた。
しかし、それも事務手続きの問題で駄目になった。
駄目になった報告を聞いて、すぐにネット上で次を探した。
ネット上では、教師や放課後支援員をチェックしていた。
それと、興味本位で農作業も検索していた。
何気なく農作業の検索結果を見てみると、隣の相生市で作業員を募集している。
NPOなので、直感的にいけるのではないかと思った。
早速電話して、話を進めることにした。
夜電話がかかってきて、採用担当者の声を聞くとおじいさんの声だった。
最初の電話の人も若くて頼りなく、担当者も年配で少々不安に感じた。
翌日約束の時間より遅れて、現れた方は腰の曲がったおじいさんだった。
農場を見せてもらった後、近くの喫茶店で話を伺った。
おじいさんと思った人が、実はこのNPOの理事長で、それと関連する合資会社の社長だった。
年齢を伺うと81歳で、しかも神戸から通ってきているというので驚いた。
やはり、有機農業のNPOで私が今まで目指してきたことと全く同じだった。
私は、有機農業を通じて、健常者と障害者がともに働ける場所を作りたいと思い続けてきた。
しかし、その夢の最大のネックは販売であった。
この理事長のM氏は現役時代は流通関係で活躍された人で、退職後に地道に取り組んできた人だった。
当然、意気投合してしまい、私は働かせてもらうことになった。
実際の仕事の打ち合わせと言うことで、再び喫茶店で話を聞いて驚いた。
私は、当初はパートタイムで働かせてもらうことになっていたのだが、正職員に抜擢された。
前回の打ち合わせでは、正職員は若い人に頼むということになっていたからだ。
戸惑いもあったが、やる以上はとことん頑張ろうと思った。
この30年あまり、研究職と農業職を目指すことの間で揺れ動いたが、神様の選んでくれたのは後者だった。
当然これで研究を終わらせるつもりはない。
私の文化人類学の原点は、生活実践にある。
大学や研究施設の研究者だけが、研究者ではない。
比べるのは憚れるが、かの南方熊楠も在野の生活実践家だった。
また、このブログを通しても、実践報告を行いたいと思う
私は早期退職後の半年の間に、次の出版を果たす予定だった。
しかし、本格的な研究の感覚を取り戻すだけに半年近くかかってしまった。
再び稼ぎながら研究を続けることを余儀なくされた。
ハローワークに出向くと、隣の県のB市で遺物整理のアルバイトがあった。
ちょうど、考古学も勉強しているので良いと思い応募した。
面接の日に出向いて、若くて美しい女性がもう一人応募しているのが分かった。
普通は素人のおばさんがパートでやることが多いが、これは負けたと思った。
案の定、面接は老眼の痛いところを突いてきた。
かくして結果として、うら若き女性に私はアルバイトを奪われてしまった。
その後、その採用担当者が別の仕事を用意しようとしてくれた。
しかし、それも事務手続きの問題で駄目になった。
駄目になった報告を聞いて、すぐにネット上で次を探した。
ネット上では、教師や放課後支援員をチェックしていた。
それと、興味本位で農作業も検索していた。
何気なく農作業の検索結果を見てみると、隣の相生市で作業員を募集している。
NPOなので、直感的にいけるのではないかと思った。
早速電話して、話を進めることにした。
夜電話がかかってきて、採用担当者の声を聞くとおじいさんの声だった。
最初の電話の人も若くて頼りなく、担当者も年配で少々不安に感じた。
翌日約束の時間より遅れて、現れた方は腰の曲がったおじいさんだった。
農場を見せてもらった後、近くの喫茶店で話を伺った。
おじいさんと思った人が、実はこのNPOの理事長で、それと関連する合資会社の社長だった。
年齢を伺うと81歳で、しかも神戸から通ってきているというので驚いた。
やはり、有機農業のNPOで私が今まで目指してきたことと全く同じだった。
私は、有機農業を通じて、健常者と障害者がともに働ける場所を作りたいと思い続けてきた。
しかし、その夢の最大のネックは販売であった。
この理事長のM氏は現役時代は流通関係で活躍された人で、退職後に地道に取り組んできた人だった。
当然、意気投合してしまい、私は働かせてもらうことになった。
実際の仕事の打ち合わせと言うことで、再び喫茶店で話を聞いて驚いた。
私は、当初はパートタイムで働かせてもらうことになっていたのだが、正職員に抜擢された。
前回の打ち合わせでは、正職員は若い人に頼むということになっていたからだ。
戸惑いもあったが、やる以上はとことん頑張ろうと思った。
この30年あまり、研究職と農業職を目指すことの間で揺れ動いたが、神様の選んでくれたのは後者だった。
当然これで研究を終わらせるつもりはない。
私の文化人類学の原点は、生活実践にある。
大学や研究施設の研究者だけが、研究者ではない。
比べるのは憚れるが、かの南方熊楠も在野の生活実践家だった。
また、このブログを通しても、実践報告を行いたいと思う
2017年4月7日金曜日
プールに戻った海豚
私は自分のハンドルネームに海豚を使うことがある。
イルカと書けば、無骨な私には不似合いだ。
いっそ蘇我入鹿の名前を借用しても良いが、体型は海の豚なのである。
海が大好きな私には、海豚が相応しい様に思う。
定時制の高校に勤め始めて、殆どしなくなったのが水泳である。
長いことやっていた水泳部の顧問が、出来なかくなったのが関係している。
定時制には運動系のクラブとして、バドミントン、バスケットボール、柔道しかなかった。
水泳の経験者が入学すれば、水泳部を作りたいと思っていた。
単なる趣味と健康で始めた水泳なのだが、上郡高校で顧問をやり始めてからずっと練習を自分でも続けた。
マスターズの大会に参加したり、スイミングスクールに通ったりもした。
それは顧問として専門性を高めたいということと、生徒と一緒に泳ぎたかったからだ。
赤穂高校の全日制に勤めるまでは、上郡のB&Gプールの年間使用券を持っていた。
赤穂高校は赤穂の市民プールを無料で使わせて貰えるので、生徒と一緒に冬場は泳いだ。
個人的に泳ぎたい時は、上郡や相生のプールの回数券を買って泳いだ。
退職したのをきっかけとして、何年かぶりに上郡プールで年券を買った。
18000円と以前より倍近く値上がりしていて驚いた。
プールの管理やスクールの指導をする業者が今年から変わって、雰囲気が一変していた。
コーチは若い男女二人を除いて、腹の少し出た中高年の男性だった。
そして選手コースには、選手がいなかった。
聞くところによれば、前の業者のコーチについて辞めたそうである。
水泳では良くある話なのだが、全くゼロになったというのは驚きである。
因みに昨年は全国大会にも出場する選手がいた。
泳ぎ自体は、昨年度一年の間に数えるくらいしか泳いでいなかったので、自分でも情けない泳ぎになっていた。
専門のバタフライが、25mなのに2本目で腕が上がらなくなってしまった
クロールも50mを1分サークルで5本しか出来なくなっていた。
トータル3000mは軽くこなせていたのに、2000mも泳ぐとへたってしまった。
そもそも、アップのSKPS800mで体力を失った感もある。
こんな情けない状態でも、慰めてくれるのはプール仲間である。
高橋さんは元国体出場のスキー選手だが、体力維持と健康をかねて水泳もしていた。
彼は画家でもあるが、今は年金暮らしの自給農家になっている。
高橋さんに泳ぎを手ほどきした方だが、慰めてもらう立場になってしまった。
プール仲間は沢山いたのだが、その仲間も数人に減ってしまった。
今日も帰り際の仲間に、家島で開催されるオープンウォーターに出場することを誘われた。
高橋さんに聞くと出場しないという。
彼は競技としてはスキーで十分で、水泳は競技にしたくないという。
レースは確かに励みになるが、故障するリスクも増える。
この歳になれば、楽しみながら泳ぐ方があっているかなと思った。
本物のイルカは演技させられるが、犬の様にレースはさせられない。
水の中なので見ていても面白くないからだろう。
イルカは遊びが大好きで、人とも遊んでくれる。
私は人と競うより、プールや海、川でイルカの様に遊んだり、食べたりしようと思う。
暖かくなれば、SUPも再開だ。
いずれはウェットスーツの良いのを買って、冬場も海に行きたい。
この海豚も生まれ育った海で、暮らしの糧を得たり、遊ぶのである。
ただ、若い選手と一緒にまた泳いでみたいと、ひとりで練習に来ていた高校生くらいの選手を見て思った・・・
イルカと書けば、無骨な私には不似合いだ。
いっそ蘇我入鹿の名前を借用しても良いが、体型は海の豚なのである。
海が大好きな私には、海豚が相応しい様に思う。
定時制の高校に勤め始めて、殆どしなくなったのが水泳である。
長いことやっていた水泳部の顧問が、出来なかくなったのが関係している。
定時制には運動系のクラブとして、バドミントン、バスケットボール、柔道しかなかった。
水泳の経験者が入学すれば、水泳部を作りたいと思っていた。
単なる趣味と健康で始めた水泳なのだが、上郡高校で顧問をやり始めてからずっと練習を自分でも続けた。
マスターズの大会に参加したり、スイミングスクールに通ったりもした。
それは顧問として専門性を高めたいということと、生徒と一緒に泳ぎたかったからだ。
赤穂高校の全日制に勤めるまでは、上郡のB&Gプールの年間使用券を持っていた。
赤穂高校は赤穂の市民プールを無料で使わせて貰えるので、生徒と一緒に冬場は泳いだ。
個人的に泳ぎたい時は、上郡や相生のプールの回数券を買って泳いだ。
退職したのをきっかけとして、何年かぶりに上郡プールで年券を買った。
18000円と以前より倍近く値上がりしていて驚いた。
プールの管理やスクールの指導をする業者が今年から変わって、雰囲気が一変していた。
コーチは若い男女二人を除いて、腹の少し出た中高年の男性だった。
そして選手コースには、選手がいなかった。
聞くところによれば、前の業者のコーチについて辞めたそうである。
水泳では良くある話なのだが、全くゼロになったというのは驚きである。
因みに昨年は全国大会にも出場する選手がいた。
泳ぎ自体は、昨年度一年の間に数えるくらいしか泳いでいなかったので、自分でも情けない泳ぎになっていた。
専門のバタフライが、25mなのに2本目で腕が上がらなくなってしまった
クロールも50mを1分サークルで5本しか出来なくなっていた。
トータル3000mは軽くこなせていたのに、2000mも泳ぐとへたってしまった。
そもそも、アップのSKPS800mで体力を失った感もある。
こんな情けない状態でも、慰めてくれるのはプール仲間である。
高橋さんは元国体出場のスキー選手だが、体力維持と健康をかねて水泳もしていた。
彼は画家でもあるが、今は年金暮らしの自給農家になっている。
高橋さんに泳ぎを手ほどきした方だが、慰めてもらう立場になってしまった。
プール仲間は沢山いたのだが、その仲間も数人に減ってしまった。
今日も帰り際の仲間に、家島で開催されるオープンウォーターに出場することを誘われた。
高橋さんに聞くと出場しないという。
彼は競技としてはスキーで十分で、水泳は競技にしたくないという。
レースは確かに励みになるが、故障するリスクも増える。
この歳になれば、楽しみながら泳ぐ方があっているかなと思った。
本物のイルカは演技させられるが、犬の様にレースはさせられない。
水の中なので見ていても面白くないからだろう。
イルカは遊びが大好きで、人とも遊んでくれる。
私は人と競うより、プールや海、川でイルカの様に遊んだり、食べたりしようと思う。
暖かくなれば、SUPも再開だ。
いずれはウェットスーツの良いのを買って、冬場も海に行きたい。
この海豚も生まれ育った海で、暮らしの糧を得たり、遊ぶのである。
ただ、若い選手と一緒にまた泳いでみたいと、ひとりで練習に来ていた高校生くらいの選手を見て思った・・・
2017年4月3日月曜日
兼業狩猟採集・農家
退職を機に、私は兼業狩猟採集・農家にもなった。
今までは教師をしながらの兼業農家もしていた。
兼業農家と言っても、農業からの収入は全く無くて、自給用だったり、配り物だったりした。
作物をあげるとお返しがあるので、物々交換の意味もあったが、喜んでもらう方が重要だった。
定収入を失った今では、まずなるべく金をかけないで農業をしなくてはいけない。
そのために、肥料は安い鶏糞くらいにして、後は海藻や落ち葉を拾って肥料にする。
既に退職前から、海岸に出て打ち上げられた海藻を拾ってきている。
海藻のある海岸は自動車が進入禁止なので、運ぶのに色々と工夫を凝らしている。
落ち葉に関しても、かさばるので籾殻を入れるビニール袋を使うなどの工夫をした。
散歩もただの散歩ではなくなった。
クロとの散歩では、遠くの千種川の河原で出かけて、自然に生えているオニグルミを拾ったりしている。
オニグルミは小さく堅いので、誰も拾わないらしく、いっぱい落ちたままだ。
それを昨日も拾いに行ったら、川には白鳥が1羽川面に浮かんでいた。
優雅な白鳥を見ながら、せっせとクルミ拾いをした。
そのそばで、クロが時間を持て余して、繋いでいたクルミの木に巻き付いてしまい、解くのに手間取った。
その採ってきたクルミは、暇な時に庭で日向ぼっこをしながら、金槌で割って食べている。
小さいのでほじくり出すのが面倒だが、千枚通しを使えば何とかやれる。
昼食後は、仕事に行っていた頃は、職場の近くの海岸を散歩していたが、近くには海は無い。
その代わり、田んぼのあぜ道や、貯水池の土手に散歩に行って、ヨモギやツクシ、ノビルを採っている。
ヨモギは乾燥機で乾燥させて、粉末にしたら、粉とモグサができあがった。
粉はあまり多くとれないので、乾燥した葉をそのままお茶代わりにしたりもしている。
ツクシはこれまではいっぱい生えているのを見ても、はかまを取るのが面倒なので採らなかった。
今は十分時間があるので、採ってきて私がはかまを取り、家内に料理してもらった。
ノビルはそのまま洗って、根と葉を切って食べるだけである。
また、夕方にも時間が出来たので、海に行ってアサリを捕ろうと思ったがいなかった。
仕方なく帰ろうかなと思ったら、亀の手がいっぱいいたので、それを獲ってきてゆでてもらって食べた。
その後「海辺を食べる図鑑」(南方新社)を調べると、海の物はたいてい食べられると言うことなである。
その時は海藻がいっぱい生えていたが、食べられそうに無かったので採らなかった。
これからは、岩についている海藻や、見向きもされないヒザラガイなどの岩に張り付いた貝も獲ってみようかと思う。
魚釣りも良いのだが、釣り道具などに費用が掛かるので、拾ったり潜って採った方が安上がりだ。
そもそも近くの赤穂の海は、私が子供の頃とは違い、魚が減ってしまって簡単に釣れない。
当然、農業に関しては、色々と金は掛かるが、肥料をなるべく自然の物を用いたり、種取り、苗とりも自分でやろうと思う。
出荷することも考えたが、収入を得ることになると、自分のやるべき研究が疎かになってしまう。
水泳もこれからは競技としてでは無く、漁に活かしていきたいと思っている。
去年から始めたSUPと組み合わせれば、立派な海人、川人になれるかもしれない。
これで、好きな歌や踊りが出来れば、立派な兼業狩猟採集・農家になれる。
おそらく、高度経済成長が始まるまでは、田舎ではそれが普通だったのだろうと思う。
長年、文化人類学や民俗学に関わってきたが、それを暮らしに活かせそうである。
そして、全くの貧乏だったが、夢と希望に満ちていた学生時代に戻った気分でもある。
論文の執筆に悩むのも一緒だが・・・・
今までは教師をしながらの兼業農家もしていた。
兼業農家と言っても、農業からの収入は全く無くて、自給用だったり、配り物だったりした。
作物をあげるとお返しがあるので、物々交換の意味もあったが、喜んでもらう方が重要だった。
定収入を失った今では、まずなるべく金をかけないで農業をしなくてはいけない。
そのために、肥料は安い鶏糞くらいにして、後は海藻や落ち葉を拾って肥料にする。
既に退職前から、海岸に出て打ち上げられた海藻を拾ってきている。
海藻のある海岸は自動車が進入禁止なので、運ぶのに色々と工夫を凝らしている。
落ち葉に関しても、かさばるので籾殻を入れるビニール袋を使うなどの工夫をした。
散歩もただの散歩ではなくなった。
クロとの散歩では、遠くの千種川の河原で出かけて、自然に生えているオニグルミを拾ったりしている。
オニグルミは小さく堅いので、誰も拾わないらしく、いっぱい落ちたままだ。
それを昨日も拾いに行ったら、川には白鳥が1羽川面に浮かんでいた。
優雅な白鳥を見ながら、せっせとクルミ拾いをした。
そのそばで、クロが時間を持て余して、繋いでいたクルミの木に巻き付いてしまい、解くのに手間取った。
その採ってきたクルミは、暇な時に庭で日向ぼっこをしながら、金槌で割って食べている。
小さいのでほじくり出すのが面倒だが、千枚通しを使えば何とかやれる。
昼食後は、仕事に行っていた頃は、職場の近くの海岸を散歩していたが、近くには海は無い。
その代わり、田んぼのあぜ道や、貯水池の土手に散歩に行って、ヨモギやツクシ、ノビルを採っている。
ヨモギは乾燥機で乾燥させて、粉末にしたら、粉とモグサができあがった。
粉はあまり多くとれないので、乾燥した葉をそのままお茶代わりにしたりもしている。
ツクシはこれまではいっぱい生えているのを見ても、はかまを取るのが面倒なので採らなかった。
今は十分時間があるので、採ってきて私がはかまを取り、家内に料理してもらった。
ノビルはそのまま洗って、根と葉を切って食べるだけである。
また、夕方にも時間が出来たので、海に行ってアサリを捕ろうと思ったがいなかった。
仕方なく帰ろうかなと思ったら、亀の手がいっぱいいたので、それを獲ってきてゆでてもらって食べた。
その後「海辺を食べる図鑑」(南方新社)を調べると、海の物はたいてい食べられると言うことなである。
その時は海藻がいっぱい生えていたが、食べられそうに無かったので採らなかった。
これからは、岩についている海藻や、見向きもされないヒザラガイなどの岩に張り付いた貝も獲ってみようかと思う。
魚釣りも良いのだが、釣り道具などに費用が掛かるので、拾ったり潜って採った方が安上がりだ。
そもそも近くの赤穂の海は、私が子供の頃とは違い、魚が減ってしまって簡単に釣れない。
当然、農業に関しては、色々と金は掛かるが、肥料をなるべく自然の物を用いたり、種取り、苗とりも自分でやろうと思う。
出荷することも考えたが、収入を得ることになると、自分のやるべき研究が疎かになってしまう。
水泳もこれからは競技としてでは無く、漁に活かしていきたいと思っている。
去年から始めたSUPと組み合わせれば、立派な海人、川人になれるかもしれない。
これで、好きな歌や踊りが出来れば、立派な兼業狩猟採集・農家になれる。
おそらく、高度経済成長が始まるまでは、田舎ではそれが普通だったのだろうと思う。
長年、文化人類学や民俗学に関わってきたが、それを暮らしに活かせそうである。
そして、全くの貧乏だったが、夢と希望に満ちていた学生時代に戻った気分でもある。
論文の執筆に悩むのも一緒だが・・・・
2017年3月28日火曜日
最後の言い訳
この三月をもって、教師としていったん幕を下ろすことになった。
兵庫県の高校教員に採用になってから三〇年、途中で2年間長期研修があったので、実質28年教壇に立った。
当初から、大学院まで進んでいた私は、民間企業への就職は難しく、教師しか道が拓けていない、いわゆるデモシカ教師だった。
研究への思いは捨てきれずに、いつかは研究職に就きたいという夢は持ち続けていた。
その一方で、教師としてのやり甲斐を感じたり、地元に根付いて生きることの歓びも感じていた。
だから、徹底して研究職に就くための努力を続けてきたわけでは無かった。
それとは裏腹に、自分の理想とかけ離れて、行政の下部組織化が強まる学校現場に違和感を感じ続けてもいた。
家は代々船乗りの家系で、父親も船乗りだったが、辞めて職工になった。
父親はサラリーマンになったが、気質は船乗りままで、そういう父親の気質を受け継いでいるように思う。
また私は、中学校から大学までミッショナリースクールで学び、全く自由な校風で育ってきた。
大学院は公立だが、徒弟制度が維持され、教授ではなく兄弟子達に仕込まれたという感じだった。
要するに、サラリーマンの様な滅私奉公、役人の様な上意下達の姿勢を育成されずに来たのである。
サラリーマンや役人のような教師にはなりたくなくて、研究職への転職を試みながら、面従腹背の姿勢で、結局は30年も教員を続けてきた。
その代わり、私は学校を転々と異動し、8校にも及んだ。
目先を変えることで、気持ちの転換を図ったというのが実情だろう。
学校はその一方でこういう職人気質の者にも、活躍する場を与えてくれてもいた。
生徒指導、受験指導、クラブ指導ではやり甲斐を感じていたことも事実である。
しかし、年齢が重なるに従って、部署の長となる立場になり、上意下達の役人的な環境に身を置かれざるを得なくなった。
そして、55歳の免許更新時は、教師のプライドを傷つける仕組みに、本気で辞めたいと思い、転職活動に勤しんだ。
しかし、転職は失敗し、まだ子供が学生ということもあり、退職は出来なかった。
心機一転、念願だった今の職場の定時制高校に喜んで移り、これで何とか定年退職まで勤められると思った。
最後の職場となった定時制は、尊敬する地元赤穂の塩業研究者廣山堯道氏が、教諭として最後に勤めて名声を残した職場である。
定時制の一般イメージとしては、比較的自由なところで、数々の研究者を産んできた職場と思っていた。
それが、そもそもの間違いだった。
私の知っている定時制はずいぶん昔の定時制であり、大きく様変わりしていたのである。
生徒との関わりで困難なことはそれほど無いが、職務そのものは全日制以上に気持ちの上での余裕がなかった。
ひとりで何役もの仕事を、こなさなくてはいけなかったからである。
また、自分の教育理念とは異なる指導方針にも、私はついて行けなかった。
自分にとっては精神的過重負担であるし、指導方針に沿えないと実感したので、転勤してたった1年で退職の道を選ぶことにした。
子供が去年に就職していたので、教育費の負担がなくなったことも気持ちを後押しした。
退職後の半年ほどは、今まで積み重ねてきた研究を第2作目となる書にまとめる時間として割くつもりである。
2作目の書は、次の人生への区切りをつけるために、どうしても必要な書だと思っている。
本来、5年前には仕上げていなければならない宿願の書である。
その後は、どんな形であれ、生活のために稼ぎながら、自由な執筆活動を続けたいと思っている。
そんな私に不安を感じながらも、わがままを許してくれた家内には非常に感謝している。
平均寿命からすれば、私には20年ほどしか時間は残されていない。
定年を待たずして逝った人や、退職後ほどなく亡くなった人を数多く知っている。
その一方で、早々と早期退職して、農作業などを細々とやりながら、元気に暮らしている人もいる。
私は精神的にも肉体的にも、元気な暮らしを家族や仲間とともに維持したいと思っている。
30年続けた教員生活に区切りをつけるにあたり、今は悔いや未練などは何も無い。
ただ、関わってきた多くの生徒や職場の仲間を思いながら
一番大事なものが 一番遠くに行くよ
こんなに憶えた君のすべてが想い出になる
という徳永英明の歌の一節そのものの感情が、溢れていることも確かである。
兵庫県の高校教員に採用になってから三〇年、途中で2年間長期研修があったので、実質28年教壇に立った。
当初から、大学院まで進んでいた私は、民間企業への就職は難しく、教師しか道が拓けていない、いわゆるデモシカ教師だった。
研究への思いは捨てきれずに、いつかは研究職に就きたいという夢は持ち続けていた。
その一方で、教師としてのやり甲斐を感じたり、地元に根付いて生きることの歓びも感じていた。
だから、徹底して研究職に就くための努力を続けてきたわけでは無かった。
それとは裏腹に、自分の理想とかけ離れて、行政の下部組織化が強まる学校現場に違和感を感じ続けてもいた。
家は代々船乗りの家系で、父親も船乗りだったが、辞めて職工になった。
父親はサラリーマンになったが、気質は船乗りままで、そういう父親の気質を受け継いでいるように思う。
また私は、中学校から大学までミッショナリースクールで学び、全く自由な校風で育ってきた。
大学院は公立だが、徒弟制度が維持され、教授ではなく兄弟子達に仕込まれたという感じだった。
要するに、サラリーマンの様な滅私奉公、役人の様な上意下達の姿勢を育成されずに来たのである。
サラリーマンや役人のような教師にはなりたくなくて、研究職への転職を試みながら、面従腹背の姿勢で、結局は30年も教員を続けてきた。
その代わり、私は学校を転々と異動し、8校にも及んだ。
目先を変えることで、気持ちの転換を図ったというのが実情だろう。
学校はその一方でこういう職人気質の者にも、活躍する場を与えてくれてもいた。
生徒指導、受験指導、クラブ指導ではやり甲斐を感じていたことも事実である。
しかし、年齢が重なるに従って、部署の長となる立場になり、上意下達の役人的な環境に身を置かれざるを得なくなった。
そして、55歳の免許更新時は、教師のプライドを傷つける仕組みに、本気で辞めたいと思い、転職活動に勤しんだ。
しかし、転職は失敗し、まだ子供が学生ということもあり、退職は出来なかった。
心機一転、念願だった今の職場の定時制高校に喜んで移り、これで何とか定年退職まで勤められると思った。
最後の職場となった定時制は、尊敬する地元赤穂の塩業研究者廣山堯道氏が、教諭として最後に勤めて名声を残した職場である。
定時制の一般イメージとしては、比較的自由なところで、数々の研究者を産んできた職場と思っていた。
それが、そもそもの間違いだった。
私の知っている定時制はずいぶん昔の定時制であり、大きく様変わりしていたのである。
生徒との関わりで困難なことはそれほど無いが、職務そのものは全日制以上に気持ちの上での余裕がなかった。
ひとりで何役もの仕事を、こなさなくてはいけなかったからである。
また、自分の教育理念とは異なる指導方針にも、私はついて行けなかった。
自分にとっては精神的過重負担であるし、指導方針に沿えないと実感したので、転勤してたった1年で退職の道を選ぶことにした。
子供が去年に就職していたので、教育費の負担がなくなったことも気持ちを後押しした。
退職後の半年ほどは、今まで積み重ねてきた研究を第2作目となる書にまとめる時間として割くつもりである。
2作目の書は、次の人生への区切りをつけるために、どうしても必要な書だと思っている。
本来、5年前には仕上げていなければならない宿願の書である。
その後は、どんな形であれ、生活のために稼ぎながら、自由な執筆活動を続けたいと思っている。
そんな私に不安を感じながらも、わがままを許してくれた家内には非常に感謝している。
平均寿命からすれば、私には20年ほどしか時間は残されていない。
定年を待たずして逝った人や、退職後ほどなく亡くなった人を数多く知っている。
その一方で、早々と早期退職して、農作業などを細々とやりながら、元気に暮らしている人もいる。
私は精神的にも肉体的にも、元気な暮らしを家族や仲間とともに維持したいと思っている。
30年続けた教員生活に区切りをつけるにあたり、今は悔いや未練などは何も無い。
ただ、関わってきた多くの生徒や職場の仲間を思いながら
一番大事なものが 一番遠くに行くよ
こんなに憶えた君のすべてが想い出になる
という徳永英明の歌の一節そのものの感情が、溢れていることも確かである。
2017年3月22日水曜日
小田和正とは雲泥の違い
「100年インタビュー」というNHKの番組で、小田和正の特集を見た。
私は以前からオフコースや小田和正の曲は個人的にギターを弾きながら歌っていた。
生徒の前では、「言葉にできない」を敢えて選んで、弾き語りで歌ったこともある。
しかし、あまりグループとしてや、歌手としては好きではなかった。
高校生の頃に、隣の短大の文化祭にオフコースが招かれてきたときも、まだマイナーで聴きに行かなかった。
ただ、「さよなら」は思い出深く、彼女の前で歌って、結局本当に「さよなら」した。
ひとりで家でギターを弾きながら歌うのには、良い曲が沢山あったのだが、アーチストそのものには魅力を感じてなかった。
それが人となりに魅力を感じだしたのは、民放の番組の「クリスマスの約束」である。
これも家内が見ていたのを、そばでふと見始めて面白くなった。
そこで彼の人柄に魅力を感じだした。
今回のインタビューで彼が横浜の聖光学院という中高一貫の男子校出身だと知った。
神奈川県には、私の母校淳心学院の姉妹校である「栄光学園」があって、家の都合で転校する人もいたので、親しみを感じる土地である。
彼の母校の様子も映像で流れたが、制服が似ていて、似た様な校風に思えた。
彼は野球部に所属しながら、音楽活動を続けてきたという。
私は高校時代はバンド一辺倒だった。
最も違うのは、彼はちゃんと東北大学工学部に合格して、その後も仲間と音楽活動を続けている。
私は、高3から文転して、一浪して南山大学へ進んだが、そこの軽音部で上手くいかずにバンドは辞めてしまった。
小田は早稲田大学大学院まで進みながら、建築学には結局魅力を感じず、音楽にのめり込む。
私は大学で文化人類学の魅力に取り憑かれて、東京都立大学大学院に進んだ。
問題はそこからである。
小田は売れない時代を耐えて、見事に国境を越えるミュージシャンになった。
私は、研究職にも就けず、こつこつ研究を続けながら、田舎教師をしている。
音楽は趣味程度である。
確かに小田にはミュージシャンとしての才能があったのだと思うが、何よりも音楽に対する思い入れが全然違うと思った。
以前、学校の先輩教師に、昔はミュージシャンになりたかったと言ったら。
「ならずに教師になって良かったじゃないか」と言われて、苦笑したことがある。
確かに売れないしがないミュージシャンになって、路頭に迷っていたかも知れない。
東京にいた時にミュージシャンを志す人を、バイト先でいくらでも見てきた。
数多くの挫折したミュージシャンの上に立っているのが、小田和正なのだと思う。
だから、挫折した方の私のような似非ミュージシャンは、彼の素晴らしい楽曲を自分なりに楽しめればそれも良いと思う。
「僕には歌うことしかできないけど」と歌いながら、多くの人に感動を与えてくれる。
では、自分には何が出来るのだろうか。
言葉にできない・・・
私は以前からオフコースや小田和正の曲は個人的にギターを弾きながら歌っていた。
生徒の前では、「言葉にできない」を敢えて選んで、弾き語りで歌ったこともある。
しかし、あまりグループとしてや、歌手としては好きではなかった。
高校生の頃に、隣の短大の文化祭にオフコースが招かれてきたときも、まだマイナーで聴きに行かなかった。
ただ、「さよなら」は思い出深く、彼女の前で歌って、結局本当に「さよなら」した。
ひとりで家でギターを弾きながら歌うのには、良い曲が沢山あったのだが、アーチストそのものには魅力を感じてなかった。
それが人となりに魅力を感じだしたのは、民放の番組の「クリスマスの約束」である。
これも家内が見ていたのを、そばでふと見始めて面白くなった。
そこで彼の人柄に魅力を感じだした。
今回のインタビューで彼が横浜の聖光学院という中高一貫の男子校出身だと知った。
神奈川県には、私の母校淳心学院の姉妹校である「栄光学園」があって、家の都合で転校する人もいたので、親しみを感じる土地である。
彼の母校の様子も映像で流れたが、制服が似ていて、似た様な校風に思えた。
彼は野球部に所属しながら、音楽活動を続けてきたという。
私は高校時代はバンド一辺倒だった。
最も違うのは、彼はちゃんと東北大学工学部に合格して、その後も仲間と音楽活動を続けている。
私は、高3から文転して、一浪して南山大学へ進んだが、そこの軽音部で上手くいかずにバンドは辞めてしまった。
小田は早稲田大学大学院まで進みながら、建築学には結局魅力を感じず、音楽にのめり込む。
私は大学で文化人類学の魅力に取り憑かれて、東京都立大学大学院に進んだ。
問題はそこからである。
小田は売れない時代を耐えて、見事に国境を越えるミュージシャンになった。
私は、研究職にも就けず、こつこつ研究を続けながら、田舎教師をしている。
音楽は趣味程度である。
確かに小田にはミュージシャンとしての才能があったのだと思うが、何よりも音楽に対する思い入れが全然違うと思った。
以前、学校の先輩教師に、昔はミュージシャンになりたかったと言ったら。
「ならずに教師になって良かったじゃないか」と言われて、苦笑したことがある。
確かに売れないしがないミュージシャンになって、路頭に迷っていたかも知れない。
東京にいた時にミュージシャンを志す人を、バイト先でいくらでも見てきた。
数多くの挫折したミュージシャンの上に立っているのが、小田和正なのだと思う。
だから、挫折した方の私のような似非ミュージシャンは、彼の素晴らしい楽曲を自分なりに楽しめればそれも良いと思う。
「僕には歌うことしかできないけど」と歌いながら、多くの人に感動を与えてくれる。
では、自分には何が出来るのだろうか。
言葉にできない・・・
2017年3月21日火曜日
ロックロール「奇跡の人」
去年に話題となった「奇跡の人」を見終えた。
何気なくNHKの深夜の再放送を3話の途中から見始めて、4話からビデオに撮って視た。
1話から3話まではYouTubeで見直した。
去年話題になっていたことは知っていた。
私は通算11年も障害児教育に携わっている。
障害者をテーマにしたドラマを見るのは、何となく身につまされたり、胡散臭さを感じていたので、見てこなかった。
このドラマはその先入観を超越していた。
作者の岡田惠和の才能にはほとほと感服した。
役者もなかなか皆良い演技をしていた。
色々考えさせられることがあったが、その1シーンが一番記憶に残った。
宮本信子が演じる大家さんが主人公の一択とバンド仲間に酒を驕りながら「ロックとは何?」と聞いた。
その仲間は、たとえ話として出したのが「裸の大様」で、王様が裸だと周りの空気を考えずに言う少年とロックは同じだということを言った。
常識や権威を打ち破る、ないしは常識に流されない音楽、主張こそロックなのだろう。
自分自信はロックの音楽に親しみながら、自分をロックンローラーとは一度も思ったことはない。
自分はミュージシャンになりたかったが、ロックンローラーになろうとは思わなかった。しかし、結局はロックンローラー擬きになっていた。
楽譜にも、音楽の権威にも縛られなかった。
音楽を通しての主張はそれほど反体制的では無かったが、演奏を通しての生徒へのメッセージは学校管理とは無縁のものだった。
ただ、その演奏技術を軽視したロックに対しては、抵抗を感じていたことも確かである。
「奇跡の人」というドラマは、人の心をつかむことの大切さを教えてくれた。
いくら素晴らしい内容のことを言っても、伝わらなかったら何の意味もなさない。
本なら図書館の飾りになったり、書庫の陳列物になるだけである。
それはドラマの中の「福祉」君に象徴されていた。
退職後の自分の生き方もこうでありたいと思った。
かつてパッチアダムス(メディカル・クラウン)のように、病院ならぬ学校を作るのも良いとおもった。
学校そのものが無理があると思えば、ネットや街頭やホールでも伝えるという手段がある。寄付を募って組織を固めて場所を確保する必要は無い。、連携さえすれば良いのである。
私は自分自身はこれまでA Rolling Stone gathers no mossを地で行く、生き方だったと思っている。
Rolling Stone(転がる石)は苔が付かないというのは、イギリスや日本では悪い意味、アメリカでは良い意味に使われるという。
どちらにも使われるからこそ、魅力的な言葉でもあるし、自分には似つかわしいのかも知れない。
ドラマ「奇跡の人」は本当の馬鹿しか「奇跡」は起こせないと主張した。
つまり、常識にとらわれない馬鹿しか奇跡は起こせない。
常識にとらわれないと言うことでロックに通じるのである。
収入が無かったり、高額な年収を棒に振ってしまう馬鹿も、この世の中には必要にも思える。
ただ、そういう馬鹿を支えてくれる「暖かい家族や仲間」が、何よりも一番大切なこともこのドラマは教えてくれた。
何気なくNHKの深夜の再放送を3話の途中から見始めて、4話からビデオに撮って視た。
1話から3話まではYouTubeで見直した。
去年話題になっていたことは知っていた。
私は通算11年も障害児教育に携わっている。
障害者をテーマにしたドラマを見るのは、何となく身につまされたり、胡散臭さを感じていたので、見てこなかった。
このドラマはその先入観を超越していた。
作者の岡田惠和の才能にはほとほと感服した。
役者もなかなか皆良い演技をしていた。
色々考えさせられることがあったが、その1シーンが一番記憶に残った。
宮本信子が演じる大家さんが主人公の一択とバンド仲間に酒を驕りながら「ロックとは何?」と聞いた。
その仲間は、たとえ話として出したのが「裸の大様」で、王様が裸だと周りの空気を考えずに言う少年とロックは同じだということを言った。
常識や権威を打ち破る、ないしは常識に流されない音楽、主張こそロックなのだろう。
自分自信はロックの音楽に親しみながら、自分をロックンローラーとは一度も思ったことはない。
自分はミュージシャンになりたかったが、ロックンローラーになろうとは思わなかった。しかし、結局はロックンローラー擬きになっていた。
楽譜にも、音楽の権威にも縛られなかった。
音楽を通しての主張はそれほど反体制的では無かったが、演奏を通しての生徒へのメッセージは学校管理とは無縁のものだった。
ただ、その演奏技術を軽視したロックに対しては、抵抗を感じていたことも確かである。
「奇跡の人」というドラマは、人の心をつかむことの大切さを教えてくれた。
いくら素晴らしい内容のことを言っても、伝わらなかったら何の意味もなさない。
本なら図書館の飾りになったり、書庫の陳列物になるだけである。
それはドラマの中の「福祉」君に象徴されていた。
退職後の自分の生き方もこうでありたいと思った。
かつてパッチアダムス(メディカル・クラウン)のように、病院ならぬ学校を作るのも良いとおもった。
学校そのものが無理があると思えば、ネットや街頭やホールでも伝えるという手段がある。寄付を募って組織を固めて場所を確保する必要は無い。、連携さえすれば良いのである。
私は自分自身はこれまでA Rolling Stone gathers no mossを地で行く、生き方だったと思っている。
Rolling Stone(転がる石)は苔が付かないというのは、イギリスや日本では悪い意味、アメリカでは良い意味に使われるという。
どちらにも使われるからこそ、魅力的な言葉でもあるし、自分には似つかわしいのかも知れない。
ドラマ「奇跡の人」は本当の馬鹿しか「奇跡」は起こせないと主張した。
つまり、常識にとらわれない馬鹿しか奇跡は起こせない。
常識にとらわれないと言うことでロックに通じるのである。
収入が無かったり、高額な年収を棒に振ってしまう馬鹿も、この世の中には必要にも思える。
ただ、そういう馬鹿を支えてくれる「暖かい家族や仲間」が、何よりも一番大切なこともこのドラマは教えてくれた。
2017年3月5日日曜日
ひとりの大阪
今日(3/4)はちょっとした用事があって、大阪の天満に出かけた。
ちょうど青春18切符が使える期間なのので、それを購入して使った。
私がよく使っていた頃は、まだ改札口が今ほど自動化されていなかったので、普通の切符とそう変わりは無かった。
今は、駅員さんに声をかけて、見てもらわねばならない。
駅員さんがいない改札口では、カメラ付きインターホーンで確認してもらった。
大阪は私が一番苦手な町で、土地勘がほとんどない。
なにせあまり馴染みを感じないのである。
神戸、名古屋、東京も住んだことがある。
京都は修学旅行で宿泊してから、何度も訪ねて宿泊したりしている。
そういう町には、土地勘もそこそこあるし、親しみを感じている。
大阪も思い起こしてみると結構行っている。
まず、幼稚園の頃に父親が職場旅行に一緒に連れて行ってくれた。
また、小学校5年では日帰りで万国博覧会に学校から行ったし、家族とも行った。
高校生の頃は、友達と梅田のデパート街をぶらつくのも楽しみであった。
大学からは自分の専門が文化人類学だった関係で、国立民族学博物館には頻繁に行った。
教師になってからも、職場旅行で花博に泊まりがけで出かけた。
10年前の兵庫教育大学に長期研修中には、西成界隈に社会学の実地調査で回ったり、ゼミの仲間と難波で飲み明かした。
なぜこれだけ出かけていて、なぜ馴染みを感じないのかというと、やはりデートや家族旅行に用いなかったからだと思う。
去年は日帰りで兵馬俑展を見に、初めて家内と大阪に出かけた。
今回は用事までに時間が合ったので、天満から天神までの界隈をゆっくりとひとりで回れた。
今日は土曜だったので、私の様にスーツ姿で歩いている人は殆ど見かけない。
水の都らしく、観光船や運搬船が頻繁に行き来し、止まっている船では中高年の労務者が昼寝をしていた。
大都会の中心地にしては、のんびりとした風景で、東京の隅田川とはちょっと違うなと思った。
やはり圧巻は、大阪城であった。
とにかくでかい。
姫路城に馴染みのある私だが、このでかさには恐れ入った。
ただ、近くによって、窓格子を見ると鉄格子になっていたので、興醒めした。
やはり、趣は姫路城の方が何倍も上だった。
上郡の自宅からだと、相生駅から電車に乗り、姫路から新快速を使い、尼崎から東西線に乗り換えて、天満まで3時間。
青春18切符なので、旅費は約2300円と安く抑えられた。
そう言えば、今勤めている職場にわざわざ散髪をしに、毎回大阪に出かける若い教員がいる。
散髪がてら気分転換をしているのだろうと思う。
自然豊かな田舎に住む人間はたまには、時間と費用を惜しまず、こういう大都会の刺激を受けるのも大切かも知れない。
大阪城では、観光客からあまり日本語が聞こえてこなかったくらい、国際化されている。
天満宮は屋台も出て祭りの様だった。
健康寿命を日本一縮めて生きていく、活気あふれる大阪人のパワーに触れるのも良いのかも知れない。
ちょうど青春18切符が使える期間なのので、それを購入して使った。
私がよく使っていた頃は、まだ改札口が今ほど自動化されていなかったので、普通の切符とそう変わりは無かった。
今は、駅員さんに声をかけて、見てもらわねばならない。
駅員さんがいない改札口では、カメラ付きインターホーンで確認してもらった。
大阪は私が一番苦手な町で、土地勘がほとんどない。
なにせあまり馴染みを感じないのである。
神戸、名古屋、東京も住んだことがある。
京都は修学旅行で宿泊してから、何度も訪ねて宿泊したりしている。
そういう町には、土地勘もそこそこあるし、親しみを感じている。
大阪も思い起こしてみると結構行っている。
まず、幼稚園の頃に父親が職場旅行に一緒に連れて行ってくれた。
また、小学校5年では日帰りで万国博覧会に学校から行ったし、家族とも行った。
高校生の頃は、友達と梅田のデパート街をぶらつくのも楽しみであった。
大学からは自分の専門が文化人類学だった関係で、国立民族学博物館には頻繁に行った。
教師になってからも、職場旅行で花博に泊まりがけで出かけた。
10年前の兵庫教育大学に長期研修中には、西成界隈に社会学の実地調査で回ったり、ゼミの仲間と難波で飲み明かした。
去年は日帰りで兵馬俑展を見に、初めて家内と大阪に出かけた。
今回は用事までに時間が合ったので、天満から天神までの界隈をゆっくりとひとりで回れた。
今日は土曜だったので、私の様にスーツ姿で歩いている人は殆ど見かけない。
水の都らしく、観光船や運搬船が頻繁に行き来し、止まっている船では中高年の労務者が昼寝をしていた。
大都会の中心地にしては、のんびりとした風景で、東京の隅田川とはちょっと違うなと思った。
やはり圧巻は、大阪城であった。
とにかくでかい。
姫路城に馴染みのある私だが、このでかさには恐れ入った。
ただ、近くによって、窓格子を見ると鉄格子になっていたので、興醒めした。
やはり、趣は姫路城の方が何倍も上だった。
上郡の自宅からだと、相生駅から電車に乗り、姫路から新快速を使い、尼崎から東西線に乗り換えて、天満まで3時間。
青春18切符なので、旅費は約2300円と安く抑えられた。
そう言えば、今勤めている職場にわざわざ散髪をしに、毎回大阪に出かける若い教員がいる。
散髪がてら気分転換をしているのだろうと思う。
自然豊かな田舎に住む人間はたまには、時間と費用を惜しまず、こういう大都会の刺激を受けるのも大切かも知れない。
大阪城では、観光客からあまり日本語が聞こえてこなかったくらい、国際化されている。
天満宮は屋台も出て祭りの様だった。
健康寿命を日本一縮めて生きていく、活気あふれる大阪人のパワーに触れるのも良いのかも知れない。
2017年2月27日月曜日
梅花に猿
毎年この季節には、御津町の綾部山の梅林へ梅の花を見に行く。
去年は3月3日の平日に、学年末考査中に年休を取って家内と出かけた。
去年はまだ寒くて、梅の花もちらほらだったし、お客さんも少なかった。
今年はもう咲いているというので、日曜日の今日(2/26)に出かけた。
以前なら多くの花見客で渋滞して、休日は避けていたのだが、この頃はそれほど混雑しないという。
今日は姫路マラソンで、人出はこちらには無いだろうとも思った。
昼から車で出かけたが、揖保川に沿っての山越えの道で、全く渋滞も無く、駐車場も全く混雑していなかった。
咲いている梅の花は思ったより少なかったが、気候は山に登るにはちょうど良かった。
一番眺めの良い山の上に初めて上がった。
子供が小さい頃はよく一緒に来て、写真を撮ったりしたが、一番上まで上がったことはなかった。
日曜にも関わらず、お客さんはあまり多くなかった。
聞くところによると、山道が急なので人気が無いのと、近くにも同じような梅園があってそちらに人気を奪われているという。
私たちにとっては、休日でも混雑せずにゆっくり回れる方がありがたい。
今年は猿回しの催しも企画されていた。
山の上からその太鼓の音と、マイクを使った声がよく聞こえていた。
いつもの眺めの良い販売店で、入場券に付いているドリンク券で甘酒を飲んだ。
良い景色を眺めながら、暖かい甘酒を飲むのも毎年の楽しみである。
子供と来ていたときは、弁当持参で、ビールも飲んでいた。
昼時はあちらこちらで、弁当を食べて、賑やかだった。
海側の売店に行くときには、猿回しは休憩中でおやつをもらっていた。
猿はクーラーボックスをのぞき込んで、子供の様で愛らしかった。
引き返すときに、ちょうど太鼓が鳴り出して、本日の最終公演だという。
ゆっくり見せてもらうことにした。
神戸から来ている猿は「はるちゃん」と言い、2歳の女の子だった。
身体は50cmほどで、肩にも乗り、今はNHKのドラマ「精霊の守り人」
にも出演しているという。
猿回しをする芸人さんは、女性で話芸はツボを押さえていて嫌みがなかった。
猿回しの芸はテレビなどでもよく見ていたが、実際間近に見てみるとやはり違う。
猿の表情や、仕草、態度が良く伝わってくる。
特に子供の猿の表情はあどけなくて可愛らしかった。
動物に芸をやらせるのは、大人になって見ると何となく、哀れにも思えたりする。
厳しくしつけられている様子が、いじらしく伝わってくるからである。
ただ、今回は芸人さんが女性で、褒めて上げるのにスキンシップをして上げている。
その様子が、餌で釣られて演技をする、イルカやアシカとは全く違って、微笑ましかった。
最後の心付けを求める言葉も、強かさはあまり感じられなかったのも良かった。
今年は人出が少なくなったので、猿回しを呼んで盛り上げる企画にしたのだと思う。
それも良いアイデアだと思う。
大道芸人が少なくなった現代で、是非どんどん広めて欲しいと思う。
そう言えば以前は、赤穂の義士祭でもやっていた様に思う。
単に鍛えられた芸を披露するだけで無く、動物との暖かさも身近に感じさせてくれる猿回し。
多くの人にぜひ見てもらいたいと思った。
去年は3月3日の平日に、学年末考査中に年休を取って家内と出かけた。
去年はまだ寒くて、梅の花もちらほらだったし、お客さんも少なかった。
今年はもう咲いているというので、日曜日の今日(2/26)に出かけた。
以前なら多くの花見客で渋滞して、休日は避けていたのだが、この頃はそれほど混雑しないという。
今日は姫路マラソンで、人出はこちらには無いだろうとも思った。

咲いている梅の花は思ったより少なかったが、気候は山に登るにはちょうど良かった。
一番眺めの良い山の上に初めて上がった。
子供が小さい頃はよく一緒に来て、写真を撮ったりしたが、一番上まで上がったことはなかった。
日曜にも関わらず、お客さんはあまり多くなかった。
聞くところによると、山道が急なので人気が無いのと、近くにも同じような梅園があってそちらに人気を奪われているという。
私たちにとっては、休日でも混雑せずにゆっくり回れる方がありがたい。
今年は猿回しの催しも企画されていた。
山の上からその太鼓の音と、マイクを使った声がよく聞こえていた。
いつもの眺めの良い販売店で、入場券に付いているドリンク券で甘酒を飲んだ。
良い景色を眺めながら、暖かい甘酒を飲むのも毎年の楽しみである。
子供と来ていたときは、弁当持参で、ビールも飲んでいた。
昼時はあちらこちらで、弁当を食べて、賑やかだった。
海側の売店に行くときには、猿回しは休憩中でおやつをもらっていた。
猿はクーラーボックスをのぞき込んで、子供の様で愛らしかった。
引き返すときに、ちょうど太鼓が鳴り出して、本日の最終公演だという。
ゆっくり見せてもらうことにした。
神戸から来ている猿は「はるちゃん」と言い、2歳の女の子だった。
身体は50cmほどで、肩にも乗り、今はNHKのドラマ「精霊の守り人」
にも出演しているという。
猿回しをする芸人さんは、女性で話芸はツボを押さえていて嫌みがなかった。
猿回しの芸はテレビなどでもよく見ていたが、実際間近に見てみるとやはり違う。
猿の表情や、仕草、態度が良く伝わってくる。
特に子供の猿の表情はあどけなくて可愛らしかった。
動物に芸をやらせるのは、大人になって見ると何となく、哀れにも思えたりする。
厳しくしつけられている様子が、いじらしく伝わってくるからである。
ただ、今回は芸人さんが女性で、褒めて上げるのにスキンシップをして上げている。
その様子が、餌で釣られて演技をする、イルカやアシカとは全く違って、微笑ましかった。
最後の心付けを求める言葉も、強かさはあまり感じられなかったのも良かった。
今年は人出が少なくなったので、猿回しを呼んで盛り上げる企画にしたのだと思う。
それも良いアイデアだと思う。
大道芸人が少なくなった現代で、是非どんどん広めて欲しいと思う。
そう言えば以前は、赤穂の義士祭でもやっていた様に思う。
単に鍛えられた芸を披露するだけで無く、動物との暖かさも身近に感じさせてくれる猿回し。
多くの人にぜひ見てもらいたいと思った。
2017年2月4日土曜日
ひとりぼっちのあのこ
今日は朝に会うことができた。
あのこがいないと淋しくて、その日は気持ちがはれない。
一月ほど前までは、ふたりで仲良くいるのがうらやましかった。
雪が降り、氷が池を張りつめて、突然ふたりともいなくなった。
でも、あのこだけは戻って来た。
ひとりになったあのこを、カメラで写す人はいなくなった。
ふたりでいる方が絵になっていたのだろう。
あれ程ふたりを追いかけ回していた、パパラッチも知らん顔である。
私は高圧電線の鉄塔で、気高くひとり立っているあのこに惹かれる。
たったひとりで、寒い冬場の池や田で、少なくなった糧を探しているのだろう。
ひとりでもこの地で、生きていくのだという気持ちが伝わってくる。
今日はあのこがこっちを向いてくれていた様な気がした。
私はひとりぼっちで暮らしていく自信は無い。
あのこを見かける時も、たいてい家のクロと一緒だ。
ひとりでもたくましく羽ばたいているあのこを見ると、こっちの方が弱々しく思える。
こんな私でも、むかしはひとりで南の島に何ヶ月も出かけていったのだ。
最近は心まで老いぼれてしまったのだろうか。
あのこの白くて大きな翼を、いただきたいものである。
そう言えば私がよく行った南の島ではこういう歌があった。
八月やなりゅり 飛羽(ツビバネ)やねらぬ うつじや片羽(カタバネ)貸らちたぼれ
後日談
私は残されたコウノトリはてっきり雌の「さっちゃん」だと思った。
機会があって、パパラッチさんに聞くと、雄の方だという。
雌の方は先に豊岡に戻っていて、飼育員から連絡があったという。
その後しばらくして、雄の方も豊岡に戻ってきたという。
「あのこ」とは彼女に取り残された男で、「あのこ」ではなく「あいつ」というべきで。
まさしく「ひとりぼっちのあいつ」Nowhere Manであった。
あのこがいないと淋しくて、その日は気持ちがはれない。
一月ほど前までは、ふたりで仲良くいるのがうらやましかった。
雪が降り、氷が池を張りつめて、突然ふたりともいなくなった。
でも、あのこだけは戻って来た。
ひとりになったあのこを、カメラで写す人はいなくなった。
ふたりでいる方が絵になっていたのだろう。
あれ程ふたりを追いかけ回していた、パパラッチも知らん顔である。
私は高圧電線の鉄塔で、気高くひとり立っているあのこに惹かれる。
たったひとりで、寒い冬場の池や田で、少なくなった糧を探しているのだろう。
ひとりでもこの地で、生きていくのだという気持ちが伝わってくる。
今日はあのこがこっちを向いてくれていた様な気がした。
私はひとりぼっちで暮らしていく自信は無い。
あのこを見かける時も、たいてい家のクロと一緒だ。
ひとりでもたくましく羽ばたいているあのこを見ると、こっちの方が弱々しく思える。
こんな私でも、むかしはひとりで南の島に何ヶ月も出かけていったのだ。
最近は心まで老いぼれてしまったのだろうか。
あのこの白くて大きな翼を、いただきたいものである。
そう言えば私がよく行った南の島ではこういう歌があった。
八月やなりゅり 飛羽(ツビバネ)やねらぬ うつじや片羽(カタバネ)貸らちたぼれ
後日談
私は残されたコウノトリはてっきり雌の「さっちゃん」だと思った。
機会があって、パパラッチさんに聞くと、雄の方だという。
雌の方は先に豊岡に戻っていて、飼育員から連絡があったという。
その後しばらくして、雄の方も豊岡に戻ってきたという。
「あのこ」とは彼女に取り残された男で、「あのこ」ではなく「あいつ」というべきで。
まさしく「ひとりぼっちのあいつ」Nowhere Manであった。
2017年1月30日月曜日
大根好物犬
うちの愚犬クロは大根が大好きである。
裏の畑には大根が沢山植えてあるのだが、間引きをちゃんとしていない関係で小さいのも多い。
その小さいのを選んで、葉っぱごとあげる。
縁台で日向ぼっこをしているクロは、そのもらった大根を無精にも寝そべったままで食べたりする。
最初は葉っぱの根元から食べ始め、しっぽは残したりするが、最終的にはしっぽも葉っぱも食べてしまう。
よほど大根が好きなのか、庭に大根を干した時には、干してあるフェンス越しに盗ろうとしていた。
当然届く様な高さには干してはいない。
大根は比較的簡単にできる作物だが、植え時を間違えると虫にやられたり、大きくならなかったりする。
本当は小まめに間引いてやらねばならないのだが、面倒くさくて結局小さいのが出来たりする。
有機肥料を使っているので、たいていの大根は馬鹿でかくならなくて、ほどよい大きさで味も良いと思っている。
赤穂で一人暮らしをしている母親に持っていって上げると喜ばれる。
この正月に神奈川県の葉山に住んでいる弟夫婦が、土産に三浦大根を持ってきてくれた。
自分のところは大根は売るほどあるので、末の弟に回した。
もらった母親に聞くと、確かに立派な大根だったが、最後は持て余して腐らせてしまったそうだ。
一人暮らしの母親には小ぶりの大根の方が使いやすいようだ。
干した大根は今年は試しに、10kgほど酒粕でつけてみた。
先週つけたばかりなのだが、階段下の納戸においておいたら、臭いがし出した。
水の上がった漬け物樽は、北側の軒下に置き直している。
もう一週間待って、食べようと思っている。
それ以外の余った干した大根は、試しに家内がそのまま漬け物にしてくれたが結構いける。
味付けは昆布茶だけだそうだ。
簡易漬け物の元を使えば、少し小さくせねばならないが売っているタクワンと遜色は無い。
タクワンの様に長くは保存できないけれど、干した大根を上手く活用するのも手だと思った。
以前は切り干し大根などを多く作ったりしたが、かびさせてしまうことが多かった。
保存用の大きな冷蔵庫が無い家の様なところでは、この方が上手な大根の食べ方かも知れない。
実は干からびるくらい干した大根もクロは食べる。
干す時に使った葉っぱも、クロにやると持て余しながらも食べていた。
まったく田舎暮らしに適した経済的な犬である。
裏の畑には大根が沢山植えてあるのだが、間引きをちゃんとしていない関係で小さいのも多い。
その小さいのを選んで、葉っぱごとあげる。
縁台で日向ぼっこをしているクロは、そのもらった大根を無精にも寝そべったままで食べたりする。
最初は葉っぱの根元から食べ始め、しっぽは残したりするが、最終的にはしっぽも葉っぱも食べてしまう。
よほど大根が好きなのか、庭に大根を干した時には、干してあるフェンス越しに盗ろうとしていた。
当然届く様な高さには干してはいない。
大根は比較的簡単にできる作物だが、植え時を間違えると虫にやられたり、大きくならなかったりする。
本当は小まめに間引いてやらねばならないのだが、面倒くさくて結局小さいのが出来たりする。
有機肥料を使っているので、たいていの大根は馬鹿でかくならなくて、ほどよい大きさで味も良いと思っている。
赤穂で一人暮らしをしている母親に持っていって上げると喜ばれる。
この正月に神奈川県の葉山に住んでいる弟夫婦が、土産に三浦大根を持ってきてくれた。
自分のところは大根は売るほどあるので、末の弟に回した。
もらった母親に聞くと、確かに立派な大根だったが、最後は持て余して腐らせてしまったそうだ。
一人暮らしの母親には小ぶりの大根の方が使いやすいようだ。
干した大根は今年は試しに、10kgほど酒粕でつけてみた。
先週つけたばかりなのだが、階段下の納戸においておいたら、臭いがし出した。
水の上がった漬け物樽は、北側の軒下に置き直している。
もう一週間待って、食べようと思っている。
それ以外の余った干した大根は、試しに家内がそのまま漬け物にしてくれたが結構いける。
味付けは昆布茶だけだそうだ。
簡易漬け物の元を使えば、少し小さくせねばならないが売っているタクワンと遜色は無い。
タクワンの様に長くは保存できないけれど、干した大根を上手く活用するのも手だと思った。
以前は切り干し大根などを多く作ったりしたが、かびさせてしまうことが多かった。
保存用の大きな冷蔵庫が無い家の様なところでは、この方が上手な大根の食べ方かも知れない。
実は干からびるくらい干した大根もクロは食べる。
干す時に使った葉っぱも、クロにやると持て余しながらも食べていた。
まったく田舎暮らしに適した経済的な犬である。
2017年1月18日水曜日
雪とノロの襲撃
この週末は土曜(1/14)の夜から雪が降り出したが、それと同じように家内が下痢と嘔吐に襲われた。
うちの村では朝の8時からトンド作りをして、夕方に火をつけた。
家内は朝は村作業している私の代わりに、愚犬トラの散歩をして、昼頃までは何ともなかった。
私は夕方の散歩をして、トンドの火にあたりに行ってから戻って、家内と一緒に食事をした
その頃から家内は様子がおかしくなり、夕食は殆ど食べなくなった。
それからしばらくすると、家内はトイレに何度も通うことになった。
これは明らかにノロウィルスだろうということであったが、病院に行くより安静にしておくことにした。
実は息子の勤める施設ではノロウィルスの感染症の症状の利用者が多発していて、警戒していた。
息子自身は一時胃の具合が悪いということがあったが、症状は無かった。
おそらく息子が持ち込んだウィルスに対して、一番抵抗力の弱い家内が発症することとなったのだろう。
因みに私と家内の職場は、それほど影響は出ていなかった。
そして、その夜から雪がしんしんと降り積もっていき一面銀世界となった。
朝起きて私が家内の代わりに味噌汁を作った。
当然、家内は何も食べられない。
食事を済ますと薬局に行って、経口補水液OS1などと、自分のための胃腸薬を買ってきた。
私自身もすこし胃がむかむかしていたので、予防にはならないかも知れないが、気休めに飲むことにした。
午前のクロの散歩を済ませて帰ってくると、近所の親子やお婆さんが孫と雪で遊んでいた。
元気な子供達と、ノロで苦しむ家内とが好対照であった。
昼食は私は、朝に作っていた味噌汁に餅を入れて食べることにした。
その時に役に立ったのが菜花である。
これはブロッコリーと同じように蕾を食べるのだが、秋に撒いていたのがしっかりと蕾をつけてくれた。
それを裏の畑からいっぱい採ってきて、汁の中に入れて食べた。
ついでに雪の中からにんじんや大根も掘り起こしておいた。
午後からは雪や風が時々酷くなるので、京都で開かれた全国都道府県対抗女子駅伝をテレビで見ていた。
兵庫県は赤穂の中学生が3区で出場した。
雪の中で選手がたくましく走っているのを見て、夕方のクロの散歩も頑張って歩くことにした。
夕方は雪が小止みになって、多くの人が待ちかねた様に散歩をしていた。
しっかり歩いたおかげで腹も減って、昨日から残り物で適当に夕食を摂った。
考えてみれば昨日は全部家内が調理した物だから、全部感染しているかも知れないので、熱を加えて食べることにした。
その時にも菜花が役に立ち、電子レンジで加熱してしっかり食べた。
夜になると補水液が効いたのか、家内はだいぶ良くなっていた。
月曜の朝には家内は家事も出来るようになりお粥も食べることが出来るようになった。
雪は相変わらず降って少し積もっていたが、温度が昨日よりも暖かくどんどん溶けていってくれた。
私も今のところ胃が少し痛むもののノロの発症は何とか逃れている。
家内と生活の上で違うのは、長い犬の散歩と自家製黒ニンニクである。
家内は黒ニンニクを食べたがらないので、これからは無理に奨めようと思う。
うちの村では朝の8時からトンド作りをして、夕方に火をつけた。
家内は朝は村作業している私の代わりに、愚犬トラの散歩をして、昼頃までは何ともなかった。
私は夕方の散歩をして、トンドの火にあたりに行ってから戻って、家内と一緒に食事をした
その頃から家内は様子がおかしくなり、夕食は殆ど食べなくなった。
それからしばらくすると、家内はトイレに何度も通うことになった。
これは明らかにノロウィルスだろうということであったが、病院に行くより安静にしておくことにした。
実は息子の勤める施設ではノロウィルスの感染症の症状の利用者が多発していて、警戒していた。
息子自身は一時胃の具合が悪いということがあったが、症状は無かった。
おそらく息子が持ち込んだウィルスに対して、一番抵抗力の弱い家内が発症することとなったのだろう。
因みに私と家内の職場は、それほど影響は出ていなかった。
そして、その夜から雪がしんしんと降り積もっていき一面銀世界となった。
朝起きて私が家内の代わりに味噌汁を作った。
当然、家内は何も食べられない。
食事を済ますと薬局に行って、経口補水液OS1などと、自分のための胃腸薬を買ってきた。
私自身もすこし胃がむかむかしていたので、予防にはならないかも知れないが、気休めに飲むことにした。
午前のクロの散歩を済ませて帰ってくると、近所の親子やお婆さんが孫と雪で遊んでいた。
元気な子供達と、ノロで苦しむ家内とが好対照であった。
昼食は私は、朝に作っていた味噌汁に餅を入れて食べることにした。
その時に役に立ったのが菜花である。
これはブロッコリーと同じように蕾を食べるのだが、秋に撒いていたのがしっかりと蕾をつけてくれた。
菜花 |
ついでに雪の中からにんじんや大根も掘り起こしておいた。
午後からは雪や風が時々酷くなるので、京都で開かれた全国都道府県対抗女子駅伝をテレビで見ていた。
兵庫県は赤穂の中学生が3区で出場した。
雪の中で選手がたくましく走っているのを見て、夕方のクロの散歩も頑張って歩くことにした。
夕方は雪が小止みになって、多くの人が待ちかねた様に散歩をしていた。
しっかり歩いたおかげで腹も減って、昨日から残り物で適当に夕食を摂った。
考えてみれば昨日は全部家内が調理した物だから、全部感染しているかも知れないので、熱を加えて食べることにした。
その時にも菜花が役に立ち、電子レンジで加熱してしっかり食べた。
夜になると補水液が効いたのか、家内はだいぶ良くなっていた。
月曜の朝には家内は家事も出来るようになりお粥も食べることが出来るようになった。
雪は相変わらず降って少し積もっていたが、温度が昨日よりも暖かくどんどん溶けていってくれた。
私も今のところ胃が少し痛むもののノロの発症は何とか逃れている。
家内と生活の上で違うのは、長い犬の散歩と自家製黒ニンニクである。
家内は黒ニンニクを食べたがらないので、これからは無理に奨めようと思う。
2017年1月14日土曜日
奄美への格安航空就航
この3月26日に関空から奄美行きのバニラ航空が、就航することになった。
以前から成田空港から出ていることは知っていて、東京まで夜行バスで行って乗ろうかとプランを立てたりした。
なにせ、出発日時によるが一万円以内で奄美に行ける。
本当に安い時は5000円代である。
それが関空から行けるとなると、費用も時間もぐっと節約できる。
さっそくネットで調べたら、4月5月はほぼ満席だった。
いかに関西の奄美関係者が待ち望んでいたかが、思い知られる。
私は大学生の頃(一九八〇年代前半)奄美諸島の与路島に調査に行く時には船を使っていた。
学生には飛行機を使う金銭的な余裕など無かった。
大学のある名古屋から鉄道を使って、神戸まで行き、神戸からフェリーに乗った。
奄美の名瀬港までは28時間ほどかかり、夕方出て翌日の深夜に到着した。
名瀬の港の近くの徳州屋旅館というところに泊まって、翌朝バスに乗って古仁屋に向かった。
この旅館は文字通り、徳之島出身の人が経営する旅館で、徳之島の人が多く利用していた。
以前は古仁屋までのバス旅は非常に長く、確か途中の住用でトイレ休憩がされるほどだった。
ただ、名瀬では古仁屋帰りのタクシーが待ち構えていてくれたので、それを利用して早く行けた。
本当はそれは業界では、やってはいけないことなのだが、当時は公然と行われていた。
与路島行きの船便の時間によっては、古仁屋で一泊しなくては行けないこともあった。
ということで、与路島まで行くのに、最低3日かかっていたのである。
当時は飛行機を使っても、海が荒れると船が通わないので、一日でたどり着けず。
与路出身者が葬式に間に合わなかったこともあった。
社会人になってからは航空路も用いるようになった。
時間や食事代を考えると、そうフェリーが割安では無くなったからである。
そのかわり船旅の楽しみが無くなってしまった。
2等船席で見知らぬ人と雑魚寝して、夜にはその人達と黒糖焼酎で宴会が始まった。
船が揺れて宴会どころでは無い時もあったが、夏などはデッキで星を眺めながら歌ったりした。
また、調査仲間と展望室に行って、そこにあるジュークボックスをかけながら、調査の想い出を語ったりした。
船旅は退屈なところもあったが、それが一つの調査の一部でもあった。
奄美出身の人とも色々話が出来たからである。
しかし、金と時間の余裕の無い者にとっては、船旅も飛行機旅も困難で奄美は遠い存在になってしまった。
ということで、私は10年ほど奄美には行けてないのである。
大学から大学院にかけて毎年春と夏に出かけていた、奄美は毎年今年こそと思い続ける場所になっていた。
それが今回の格安航空就航で実現可能になってきた。
ただ、気になるのは簡単に奄美に行けるようになるということは、本土との距離が縮まってしまうということである。
10年前に奄美に行って、トンネルのおかげで名瀬から古仁屋まで早く行けるようになっていて驚いた。
自家用車でも簡単に行き来できるようになっていた。
便利になるとそこに留まる意味が無くなってしまう。
どんどん奄美は変わっていくだろうと思う。
それは奄美にとって良いことかも知れないが、いい風に変わっていって欲しいと思う。
兵庫県の竹田城のように、ブームになって昔の良さを失って欲しくない。
へそ曲がりの私は、皆が行きだして観光リゾートになってしまったら、もう行きたいと思わないかも知れない。
ただ、与路島はその観光ブームにも乗れるかどうか、ちょっと不安でもある。
知り合いの年賀状では戸数が減ってしまったと書かれてあった。
観光する人もゆっくりと与路島に滞在するつもりで、出かけて欲しいと思っている。
以前から成田空港から出ていることは知っていて、東京まで夜行バスで行って乗ろうかとプランを立てたりした。
なにせ、出発日時によるが一万円以内で奄美に行ける。
本当に安い時は5000円代である。
それが関空から行けるとなると、費用も時間もぐっと節約できる。
さっそくネットで調べたら、4月5月はほぼ満席だった。
いかに関西の奄美関係者が待ち望んでいたかが、思い知られる。
私は大学生の頃(一九八〇年代前半)奄美諸島の与路島に調査に行く時には船を使っていた。
学生には飛行機を使う金銭的な余裕など無かった。
![]() |
震災前の神戸港 |
奄美の名瀬港までは28時間ほどかかり、夕方出て翌日の深夜に到着した。
名瀬の港の近くの徳州屋旅館というところに泊まって、翌朝バスに乗って古仁屋に向かった。
この旅館は文字通り、徳之島出身の人が経営する旅館で、徳之島の人が多く利用していた。
以前は古仁屋までのバス旅は非常に長く、確か途中の住用でトイレ休憩がされるほどだった。
ただ、名瀬では古仁屋帰りのタクシーが待ち構えていてくれたので、それを利用して早く行けた。
本当はそれは業界では、やってはいけないことなのだが、当時は公然と行われていた。
与路島行きの船便の時間によっては、古仁屋で一泊しなくては行けないこともあった。
ということで、与路島まで行くのに、最低3日かかっていたのである。
当時は飛行機を使っても、海が荒れると船が通わないので、一日でたどり着けず。
与路出身者が葬式に間に合わなかったこともあった。
![]() |
名瀬港夜景 |
社会人になってからは航空路も用いるようになった。
時間や食事代を考えると、そうフェリーが割安では無くなったからである。
そのかわり船旅の楽しみが無くなってしまった。
2等船席で見知らぬ人と雑魚寝して、夜にはその人達と黒糖焼酎で宴会が始まった。
船が揺れて宴会どころでは無い時もあったが、夏などはデッキで星を眺めながら歌ったりした。
また、調査仲間と展望室に行って、そこにあるジュークボックスをかけながら、調査の想い出を語ったりした。
船旅は退屈なところもあったが、それが一つの調査の一部でもあった。
奄美出身の人とも色々話が出来たからである。
![]() |
当時のせとなみ(古仁屋) |
しかし、金と時間の余裕の無い者にとっては、船旅も飛行機旅も困難で奄美は遠い存在になってしまった。
ということで、私は10年ほど奄美には行けてないのである。
大学から大学院にかけて毎年春と夏に出かけていた、奄美は毎年今年こそと思い続ける場所になっていた。
それが今回の格安航空就航で実現可能になってきた。
ただ、気になるのは簡単に奄美に行けるようになるということは、本土との距離が縮まってしまうということである。
10年前に奄美に行って、トンネルのおかげで名瀬から古仁屋まで早く行けるようになっていて驚いた。
自家用車でも簡単に行き来できるようになっていた。
便利になるとそこに留まる意味が無くなってしまう。
どんどん奄美は変わっていくだろうと思う。
それは奄美にとって良いことかも知れないが、いい風に変わっていって欲しいと思う。
兵庫県の竹田城のように、ブームになって昔の良さを失って欲しくない。
へそ曲がりの私は、皆が行きだして観光リゾートになってしまったら、もう行きたいと思わないかも知れない。
![]() |
1980年代の与路島 |
知り合いの年賀状では戸数が減ってしまったと書かれてあった。
観光する人もゆっくりと与路島に滞在するつもりで、出かけて欲しいと思っている。
2017年1月8日日曜日
リトルフォレストの価値
今年は年末に外付けのハードディスクを買って、ビデオレコーダーの容量を拡張した。
3TBを拡張したおかげで、277時間も多く録画できることになった。
そこで年末年始の面白そうな番組を録画しまくった。
その中で、リトルフォレストという映画が一番面白かった。
この映画は五十嵐大介という漫画家の作品を映画化したもので、「夏」、「秋」、「冬」、「春」の四部作になっている。
主演は橋本愛で、「夏」、「秋」は2014年に「冬」「春」は2015年に公開されている。
主演の橋本愛は私は『あまちゃん』でしか知らなかったが、ネットで調べてみると結構いろんな作品で活躍している。
彼女の自然な演技がとても良く、エキストラっぽい地元の人との関わりもそれほど違和感を感じさせなかった。
殆どが料理の説明なのだが、それはそれで私のように田舎に暮らしているものには参考になった。
特に野蒜を使ったスパゲッティーは、この春には早速試してみようと思った。
平凡な日常を描いているので、それほど見せ場は無いのだが、最後の神楽舞は圧巻であった。
学生時代に愛知県の山奥で「花祭」を見た時のことを思い出した。
しかし、車も無く、暖房も薪で行う生活は、私たちのような世代でも無理である。
こういう生活を、若い人に勧めることはまず出来ないだろう。
ただ、こういう生活なら、今仕事を辞めても退職金だけで、20年は暮らせそうに思った。
この映画で描かれた生活をそのまましなくても、似たような生活ならずいぶんと生活費は節約できる。
そして、何よりもエコで健康な生活のように思えた。
こういうGDPを押し上げない、生活の価値とは何だろうと思っていたところ、今日サイエンスゼロの再放送の録画を見た。
昨日(1/7)の「徹底解説!科学の”未解決問題”ダーウィン進化論に異議あり!?」である。
これは生物学者長谷川英祐准教授の「働かないアリ」をテーマにしたものだ。
彼のプロフィールを見ると、大学院が東京都立大学であった。
年齢は二つ下で、しかも学部卒で民間企業を経験しているので、同じ都立でもおそらく私の在籍時とは重なっていないだろう。
と言いつつ、当時の都立大学は理系は文系とは別の場所にあったので、会うことは滅多に無い。
ただ、兵庫教育大学大学院で教わった懇意の生物の先生が都立大学だったので、その人は知っているかも知れない。
アリの話は有名なのでともかく省くとして、彼の言った言葉の中で、「永続性の観点から考えた存在価値」というのが参考になった。
生物界には一見存在価値のなさそうな生物が多くいるが、長い生命の歴史にとっては生態系の中でそれなりの役割を背負っている。
現在では多様性が失われているとよくいられるが、多様性の価値はまさしくこの点にあるのだろう。
このごろ資本主義の終わりを予見する番組が多くなった。
書籍でもずっと取り上げられてきたテーマである。
そんな中で歴史認識も徐々に変わってきているように思える。
戦国時代に世界でも最強に近かった日本の軍事力が、徳川時代の平和によって西洋に劣ってしまった。
西洋は掠奪と殺戮を海外に拡張させ、世界システムを自分のものとした。
そのシステムを支える資本主義と民主主義がいま限界を迎えつつある。
西洋の暴走を許した思想がまさしく「進化論」であったことを考えると、その進化論の見直しこそ今求められているように思う。
養老孟司は「7 都市の二〇世紀」(『20世紀の定義1 20世紀への問い』2000 岩波書店)の中で、文明と都市化の問題を取り上げている。
現代のようなネット社会では、農村までも消費の面では都市化してきているのだが、まだ自然との共存が継続している。
彼は都市を人体であれば「脳」にたとえているのだが、その「脳」も人工知能によって非人間化して空洞化してきている。
こういう暴走する都市、文明に永続性はあるのだろうか?
私はそうは思わない!。
リトルフォレストに留まって、自然との共存を図る生活こそ現代における永続性へのリスク回避だと思えるのである。
「来たれ若者よ、リトルフォレストへ」とは今は言いづらいが、せめて退職後の暮らしに来たれ中高年!
3TBを拡張したおかげで、277時間も多く録画できることになった。
そこで年末年始の面白そうな番組を録画しまくった。
その中で、リトルフォレストという映画が一番面白かった。
この映画は五十嵐大介という漫画家の作品を映画化したもので、「夏」、「秋」、「冬」、「春」の四部作になっている。
主演は橋本愛で、「夏」、「秋」は2014年に「冬」「春」は2015年に公開されている。
主演の橋本愛は私は『あまちゃん』でしか知らなかったが、ネットで調べてみると結構いろんな作品で活躍している。
彼女の自然な演技がとても良く、エキストラっぽい地元の人との関わりもそれほど違和感を感じさせなかった。
殆どが料理の説明なのだが、それはそれで私のように田舎に暮らしているものには参考になった。
特に野蒜を使ったスパゲッティーは、この春には早速試してみようと思った。
平凡な日常を描いているので、それほど見せ場は無いのだが、最後の神楽舞は圧巻であった。
学生時代に愛知県の山奥で「花祭」を見た時のことを思い出した。
しかし、車も無く、暖房も薪で行う生活は、私たちのような世代でも無理である。
こういう生活を、若い人に勧めることはまず出来ないだろう。
ただ、こういう生活なら、今仕事を辞めても退職金だけで、20年は暮らせそうに思った。
この映画で描かれた生活をそのまましなくても、似たような生活ならずいぶんと生活費は節約できる。
そして、何よりもエコで健康な生活のように思えた。
こういうGDPを押し上げない、生活の価値とは何だろうと思っていたところ、今日サイエンスゼロの再放送の録画を見た。
昨日(1/7)の「徹底解説!科学の”未解決問題”ダーウィン進化論に異議あり!?」である。
これは生物学者長谷川英祐准教授の「働かないアリ」をテーマにしたものだ。
彼のプロフィールを見ると、大学院が東京都立大学であった。
年齢は二つ下で、しかも学部卒で民間企業を経験しているので、同じ都立でもおそらく私の在籍時とは重なっていないだろう。
と言いつつ、当時の都立大学は理系は文系とは別の場所にあったので、会うことは滅多に無い。
ただ、兵庫教育大学大学院で教わった懇意の生物の先生が都立大学だったので、その人は知っているかも知れない。
アリの話は有名なのでともかく省くとして、彼の言った言葉の中で、「永続性の観点から考えた存在価値」というのが参考になった。
生物界には一見存在価値のなさそうな生物が多くいるが、長い生命の歴史にとっては生態系の中でそれなりの役割を背負っている。
現在では多様性が失われているとよくいられるが、多様性の価値はまさしくこの点にあるのだろう。
このごろ資本主義の終わりを予見する番組が多くなった。
書籍でもずっと取り上げられてきたテーマである。
そんな中で歴史認識も徐々に変わってきているように思える。
戦国時代に世界でも最強に近かった日本の軍事力が、徳川時代の平和によって西洋に劣ってしまった。
西洋は掠奪と殺戮を海外に拡張させ、世界システムを自分のものとした。
そのシステムを支える資本主義と民主主義がいま限界を迎えつつある。
西洋の暴走を許した思想がまさしく「進化論」であったことを考えると、その進化論の見直しこそ今求められているように思う。
養老孟司は「7 都市の二〇世紀」(『20世紀の定義1 20世紀への問い』2000 岩波書店)の中で、文明と都市化の問題を取り上げている。
現代のようなネット社会では、農村までも消費の面では都市化してきているのだが、まだ自然との共存が継続している。
彼は都市を人体であれば「脳」にたとえているのだが、その「脳」も人工知能によって非人間化して空洞化してきている。
こういう暴走する都市、文明に永続性はあるのだろうか?
私はそうは思わない!。
リトルフォレストに留まって、自然との共存を図る生活こそ現代における永続性へのリスク回避だと思えるのである。
「来たれ若者よ、リトルフォレストへ」とは今は言いづらいが、せめて退職後の暮らしに来たれ中高年!
2017年1月7日土曜日
二人きりの元旦イブ
我が家のおせち |
子供は結婚してすぐにできなかったが、どちらかの実家で大晦日を過ごしたと思う。
子供が誕生してからは、これまでずっと子供と一緒に元旦を迎えていた。
今回は、息子は仕事の泊まり勤務、娘はアパートの掃除でくたびれて戻ってこなかった。
ただ、うちに来た愚犬クロは二度目の正月を一緒に迎えたので、正確には二人きりではない。
元旦は二人きりでお祝いをした後、クロと一緒に近所の神社へ初詣に出かけた。
私は年末は、滅多にしない庭掃除などに追われて、年賀状を書く余裕が無い。
そこで、申し訳ないと思いながら、来た年賀状も参考に元旦以降に書いてきた。
年賀状が早く届くと、心苦しく読まなければならない。
そうこうするうちに、息子や娘が戻ってきて、昼は皆で私の母親と昼食をとりに出かけた。
この頃は、元旦からやっている飲食店もあって、赤穂の鹿久居荘という海鮮料理の店に行った。
12時半頃に行った時は空いていたが、帰る頃は満員で外で人が待っていた。
その後で、墓参りに出かけたが、父方の墓は鷆和に、母方は高山霊園にある。
高山霊園に墓参りの人が多いのには驚いたが、うっかり帰りに大石神社前を通る道を選び、渋滞したのでUターンして迂回して実家に戻った。
元日は京都と葉山に住む弟家族が、姫路まで来てホテルで一緒に夜を過ごす予定で、弟の迎えに来ていて母を任せた。
夕方からは家内の実家に皆で行った。
ここは義母がまだ、しっかりしているので、たんまりとご馳走をいただいた。
家内の弟夫婦も千葉から戻ってきている。
31日の朝4時半に家を出て、飛行機に乗ってやってきたという。
義弟は跡取り息子なので、律儀に正月は毎年戻って来ている。
話の中で、やはり義母が孫であるうちの娘に結婚を促す話をした。
それに対して、子供の居ない義弟夫婦の嫁がそれとは逆にことを言った。
この夫婦の生活を聞いていると、子供がいないせいもあるが、まさしく週末夫婦なのである。
要するに、土日だけ一緒に食事をしたりして過ごし、平日はまるっきり別々の暮らしだそうだ。
夫婦二人とも仕事を持っているので、忙しく時間も合わないそうだ。
そうであれば、夫婦である必然性はなく、週末だけ会う恋人同士と変わらない。
そういう暮らしをしている義妹だから、結婚を奨めないわけである。
二日、娘は昼前に四国にあるアパートへ戻っていった。
学生時代は地元の友達と会ったりしていたが、職について話が合わなくなって、会うことが無くなったという。
私は職に就いてからの独身時代は殆ど無いし、実家にいたのでよくわからない。
ただ、すぐに戻ってしまう娘に対しては、企業へ嫁にやったのかなと思ったりした。
仕事が楽しくて、週末も仕事をしたり、会社のテニスクラブで過ごすという。
実家に戻って来ても、何もすることが無いのである。
昔なら家事手伝いというところだろうが、それもしなくて良い。
そもそも、結婚しなくても大企業に就職していれば、将来の不安は少ない。
この頃は失業のリスクより、離婚のリスクの方が高いのかも知れない。
と言いながら、娘を大企業に就職させて、過労自殺で亡くした親もいる。
男性なら闇に葬られていたかも知れない過労自殺。
元日に義弟と話をしたが、彼は自殺する方がおかしいと言っていた。
それだけ勤務が厳しいのが当たり前なのである。
私はそういう意味では、女性が社会進出して良かったかと思う。
東大での美人の女性が過労自殺することによって、企業体質が変えられる。
男では黙殺されていたかもしれない。
彼女の死を無駄にしないためにも、日本の職場は変わるべきである。
土日もクラブで忙しい、ブラックな学校としても同じことである。
24で院卒の娘は就職して、里に帰ることが儘ならぬご時世である。
せめて会社が居心地が良いところであって欲しい。
そして、いつでも戻っておいでと言いたいが、村にも家にも仕事がない・・・
やっぱり、良いところへ嫁に行っておくれ・・・
登録:
投稿 (Atom)