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2024年12月30日月曜日

正月の派手な飲食が病気に

私は、大学時代に正月に帰省すると、よく身体を壊していた。

下宿でまともな物を食べていないので、正月に実家に戻るとその分を取り戻すではないが、飲み食い出来る物を貪ったからだ。

たいていは腹を壊して、食事がまともにできなくなったりした。

戦国時代に、兵糧攻めに遭って城に閉じこもっていた民衆が、解放されて食事にありついた時に、いきなり多く食べて死んでいったのにちょっと似ている。

私は兵糧攻めに近い状態にあって、親からの仕送りが月に2万円と特別奨学金の3万6千円で生活しなくてはならなかった。

家賃が1万円と水道や電気代で最低は5千円ほどかかるから、実質4万円での生活だ。

当時の大卒者の初任給が10万円ほどで今の半分ほどだったから、それほど貧しいというわけではないが、奨学金頼みの生活だった。

ただ、それを全部飲食につぎ込めるわけではなくて、春と夏の村落調査の費用も多く置いておく必要があった。

アルバイトもしたけれど、実入りの良い家庭教師や塾の仕事は見つからなかった。


夏休みには赤穂で土方の仕事をしたが、期間の短い春休みや冬休みなどは名古屋でバイトを探した。

春休みに鉄工所で働いたり、正月前は餅屋で働いたりした。

女子学生は喫茶店や飲食店のパートがあったが、男子学生が働けるパートの仕事はあまりなかった。

そもそも、自由に学生生活を謳歌したかったので、毎日バイトに縛られる生活は嫌だった。

また、当時はそういう貧しい学生など周りにいっぱいいたので、苦にならなかったし恋人もちゃんといた。

その彼女はたまに、自分の下宿の賄いの夕食をタッパに詰めて持ってきてくれたし、週末はささやかな料理を作ってくれて一緒に食べるのが楽しかった。


私の父は非常に冷徹に男4人兄弟の子どもにかける金銭を平等にしようとしたが、結果的には我を通す私より素直な弟の方が得な扱いを受けた。

私の遠距離通学浪人の失敗から、弟の浪人はちゃんと賄い付きの下宿がなされた。

うまく国立大学に行った弟は授業料が安いので、賄い付きの下宿の費用を出して貰っていた。

私は私立大学で授業料が高いので、その分仕送りが少なかったのだ。

父の考え方は、私学へ行って金のかかる息子が暮らしで苦労しても仕方ないということだった。

弟はゆとりがあったので、大学時代に運転免許を取り、赤穂に帰っても家庭教師の依頼を受けて裕福だった。

ある特、弟は運転できるので祖父に頼まれて魚屋に注文した品物を取りに行った。

弟は自分にお礼として貰うはずの寿司ではなくて、何も考えず祖父の食べようとしたトロの刺身の方を食べてしまったことがあった。

食べることに苦労していなかった弟の無頓着ぶりを示す出来事だった。


私は運転免許は取る余裕も無く、正月は親がレンタカーを借りて弟一人が運転して遠くにドライブに出かけたり、初日の出を見に行ったりした。

結局、大学院まで進学した私は4人兄弟の中で、一番遅く運転免許を取ることになった。

だから、私は青春18切符や高速バスを使って、学生時代は帰省や旅行することが殆どだった。

大晦日にまで餅屋で働いて、ボーナスだと言って2000円とのし餅だけ余分に貰った時はさすがに新幹線で帰省した。

しかし、帰った後はその疲れも出て、風邪などもひいて体調を壊してしまい、まともに飲食できなくなってしまった。

せっかくバイトでそれなりに稼いだのに、良い正月にはならなかった。


今年は年金暮らしをし始めて、初めての正月だ。

普段節制している分、正月に飲食を派手にやると学生時代の二の舞になる。

今年は物価高で兵糧攻めに遭ったような暮らしになっている。

正月だから、少しは気晴らししたいけど、身体が贅沢に慣れていないので気をつけようと思う。

無いことだが仮にクルーズ船で海外旅行などしようものなら、たぶん即病院行きだろう・・・・

このところ、秋に収穫したサツマイモをストーブの上の土鍋で焼いて食べている私は、正月に食べるご馳走?には、食べ過ぎに気をつけねばならない。









2024年12月28日土曜日

最後の「クリスマスの約束」

小田和正のこの番組は、だいぶまえに家内が楽しそうに見ていたので、自分も見始めた。

だから、最初から見ていたわけではないが、近年は欠かさず見ている。

先日はスキマスイッチの「スキマフェス」の収録番組に登場した姿を見たのだが、ずいぶん歳をとってしまった印象を受けた。

今回もこの最後の「クリスマスの約束」でもそれを強く感じ、この番組を最後にするのが分かる気がしたが、調べたら来年も全国ツアーをするという。

現在77歳の小田和正が全国を駆けめくるというのは驚きだし、テレビの印象からして身体は大丈夫なのか気になった。

小田和正の素晴らしい高音は健在で、プロの力を見せつけてくれている。

私は50歳頃までは歌えていた高音が絡んだ曲など、もう殆ど歌えない。

小田和正の「さよならは 言わない」をカラオケで歌うのに、現在はキーをB♭からFに3音くらい下げないとサビの部分が歌えない。

このごろは高音が出ないので、低音でも気持ちが伝わる歌い方に変えている。


この番組は多くのミュージシャンとコラボして、野外フェスを超えた魅力がある。

ミュージシャン同士だけで無く、観客も映し出されて、みんなで音楽を楽しんでいる雰囲気が良く伝わっている。

しかし、ここまで仕上げるのは並大抵のことではないようで、全国ツアーはできてもこの番組はできないのが納得できる。

小田和正の音楽に対する熱い思いが、20年以上の歴史を刻んできたのだと敬服する。

私はこのところ全く年末のNHKの紅白歌合戦を観なくなってしまった。

あまりにも混在した音楽嗜好が、まるで適当に具材をぶち込まれて不味い鍋のように感じているからだ。

その点でいけば、この番組はミュージシャンの持ち歌をみんなでハーモニーをつけたりして、別の美味しい味に仕上げてくれていた。


小田和正の曲の魅力は、自分の気持ちを投影できる歌詞とメロディーだと思う。

大分昔に、「言葉にできない」をテーマ曲にして、障害を持った子どもを亡くした親のドキュメントが放送された。

私は当時そのドキュメントを録画して、授業やLHRで生徒に見せ続けていた。

この歌は本来、恋愛の歌だったのだが、まだ幼い子どもを亡くした親の切ない気持ちを表現してくれていた。

音楽は映像や記憶と重なり合って、心に伝わってくれる。

私は「緑の街」や「さよならは 言わない」など多くの歌に、自分の過去を重ねてひとり歌ったりする。

小田和正が曲を作った背景とはかけ離れているとは思うが、その曲にはそれだけ心の奥にある情感を引き出せる魅力があるのだ。

私は小田和正の曲は、文化祭や忘年会のステージで歌うことは無かったが、教室で卒業前の最後の授業にギター一本で「言葉にできない」を歌ったことがある。

その生徒たちは、教師生活の中でも忘れられない担任した学年の生徒たちであったが、彼ら彼女らとの別れの切なさを伝えることができた。

小田和正の曲の多くはこれからも、ミュージシャンだけでなく多くの人に歌い継がれていくと思う。







2024年12月27日金曜日

災害から気づく健康寿命

 能登半島の地震災害から1年目となり、その検証がテレビなどで報道されている。

その中で、災害関連死の問題は、日常の生活にも考えさせられるものがある。

高齢者の場合、普段の生活が出来なくなるだけで、簡単に亡くなってしまう場合があったということだ。

直接の地震での死者よりも、その後の関連誌の方が多いという現実を、深刻に受け止めねばならないだろう。

つまり、我々日本人の寿命支えているのは、高度な医療と豊かな文化的な生活なのだが、災害に際して緊急に補う対策を取っていないということだ。

防衛費予算を増額するのは良いが、災害に際して国民の命を守る方が先決だろう。


高度経済成長以降に、衣食住の物質的な生活が豊かになり、機械化によって過重労働が減り、皆保険制度で普通に医療を受けられる環境が整い長寿となった。

その一方で、貧しかった頃は必要だった家族や親戚、知人と支え合う力を徐々に失っていった。

それは自分のことだけで精一杯の場合もあるが、蓄えた金銭や年金を過信して、支え合う心を見失ってしまった場合もある。

身近な人の中に、「老いては子に従え」という言葉を完全に無視をして、精神科病棟に入らざるを得なかった人も知っている。

金銭的にはむしろ恵まれていたのに、コロナのパンデミックに際して人を頼ることを嫌った結果だった。

人の多い街でもこういう災害関連病も増えているのではないかと気にかかる。

一方で、能登の災害避難所で最も確保できなかったのは、助け合える環境だったのだと思う。

過疎地域では、濃密な人間関係が少子高齢化によってどんどん失われて行っている。

今後、能登半島で起こってきたことが、日本中で起こるだろう。


NHKの番組で「あしたが変わるトリセツショー」で奄美徳之島の人の長寿が取り上げられた。

その中で、「ミキ」と言われる米粉と芋を摺り下ろした飲み物が紹介された。

これは昔は行事に用いられていた飲み物で、今のように毎朝でも飲める物ではなかったはずだ。

そもそも、サツマイモが主食だった沖縄・奄美が、米を主食にするようになったのはそう古くはない。

自然の山菜は昔から食べていたようだが、かつてはそんなに豊かな食生活では無かったようだ。

だから、流行病で多くの人が亡くなった言い伝えも残っているし、長寿になったのはそう古くは無かったと思う。

今は本土より長寿なのは、「人との繋がり」だということが、番組では強調されていた。

本土では豊かになって「人の繋がり」を失っていて、自分なりに「生きがい」を見つけている人が長寿なのだと解釈できる。

ネットでは高齢者の年金の問題を取り上げる記事が多いが、農家の多い沖縄や奄美ではそんなに年金を貰っていないと思う。

老後に備えての年金や貯蓄、投資の方が都市生活者には現実的に見えても、「人との繋がり」を失ったら役に立たないことも知っておくべきのように思えた。



2024年12月24日火曜日

若かりし日の想い出を友に

 冬場は日が暮れるのが早くて、農作業など外での作業が夕方は長く出来なくなる。

家内が仕事から帰ってくるまでの時間に、私はほろ酔いカラオケや弾き語りを2階の書斎でしている。

缶ビールを1本で喉を潤わせながら、ヤマハのカラホーダイをPCにスピーカーを繋いでしている。

そのカラオケの背景に使うのは、一番若くて楽しかった大学生の頃の写真だ。

今のように、デジタルで簡単に撮れて保存できる時代と違って、残された数少ないプリント写真をスキャナーで取り込んで使っている。

一枚の写真をアップにしてトリミングしたりして、枚数も増やして飽きない工夫をしている。

また、15年ほど前に名古屋と東京で写真に撮ってきた、大学時代や大学院時代の懐かしい場所の風景も混ぜている。

以前は自分の写真はあまり見たくなかったが、この歳になると今の自分とは全く別人のような感覚で見ることが出来るようになった。

夏場は歌うことは殆どやっていなかったので、声が出なくなっていたが、最近ようやく出るようになった。

そして、以前のように大声を張り上げるような歌い方をせずに、なるべく気持ちが伝わるような歌い方の工夫をして歌っている。


カラホーダイには、自分が歌いたい曲が無い場合もあるので、U-FRETなどで探して画面を切り取りパワーポイントに貼り付けて使っている。

その場合、Youtubeにカラオケがあったり、歌がある場合は一緒に流したりもしている。

そして、ギターの練習も時々それでしているが、なかなか上達しないままだ。

それでも缶ビール二本程度で、気持ちよく歌い続けられるし、写真が当時の記憶を蘇らせて孤独を紛らせてくれている。

スポーツが身体の健康にとって必要なように、音楽も心の健康に欠かせないものだと思う。

急がし時は聴くだけでも良いし、こうやって時間が出来れば自分で歌ったり演奏するのも良いのだろうと思う。

若かりし日の想い出に浸るのは、後ろ向きのように思われるかもしれないが、心を若返らせる力であることも確かだ。

そして、いつまで寄り添ってくれているイメージされた友なのである。


時空を超えて蘇る光景は、いろんなことで自由を失った心に「力」を与えてくれる。

以前なら盆や正月に親戚や家族、友達が集まって普通に出来たことだが、それが難しくなった今はその代わりにもなるだろう。

こういう輪がもっとネットをつなげて行うことが出来たら楽しいだろうと思う。




2024年12月21日土曜日

年金暮らしには水泳

 私は上郡町の温水プール(6コース)で、今は週に2回ほど水泳をしている。

年券を25000円ほどで購入しているが、月に直すと2000円ほどになる。

週一回泳ぐと元が取れるので、十分得をしている計算だ。

水泳仲間には毎日来ている人もいる。

午前中は老人を中心に水泳教室があって混雑するので、午後の12時から16時までの時間帯を利用している。

午後からの水泳教室では15時からは1コースだけだが、16時から4コースがふさがり、1コースが泳ぎでもう1コースが歩行用になる。

泳ぐ人が多くなると、1コースだけなので泳力が違う場合はかなり難しい泳ぎ方になる。

だから、その混雑を避けているのだが、それが出来るのは年金暮らしだからだ。


この時間帯はやはり年配の人が中心で、ちゃんとスクールで基本を身につけた人は少数である。

たいていの人は我流で、自分のペースで泳いだり歩いたりしている。

時々困るのは、25m以上泳ぐ人のコースで、泳いでいるそばで歩かれることだ。

ご本人は歩いたり泳いだりと、自分の都合でコースを使っている。

そういう時は仕方ないので、迂回したり、途中でターンをしたりして回避する。

中には、ずっと自己流のクロールで泳ぎ続ける元気な方もいて、励みになる。

私は自分のメニューで泳いでいるが、一緒に競うように泳ぎたがる仲間もいて、70歳を超えているのに息を切らしながら泳いでいる。

以前のようにマスターズに出ようと誘われるが、以前にマスターズで頑張った人がプールで亡くなったことを引き合いに断っている。


スポーツは観光と並んで近代において創出されたものだ。

昔は祭りや行事の中に、娯楽や運動が組み込まれていて、けっこう体力もいった。

そもそも普段の仕事が農作業なので身体をよく動かしていた。

奄美の与路島では舟漕ぎ競争や相撲をするのに、男性は普段から体力作りが欠かせなかった。

男性に限らず、八月踊りを踊り通すには、体力が必要だったことも確かだ。

本土でも一晩中踊り続ける夏の踊りや、秋のだんじりや神輿を担ぐのに普段から鍛える必要があるだろう。

そういう機会を失った多くの日本人で、デスクワークの人や年金暮らしの人は、健康スポーツが必要だと思う。

特に年金暮らしの男性はやることがなくて、ギャンブル、投資、酒で生活を破綻させてしまう人もいるという。

毎日歩くことも大切だが、雨の日や暑さ寒さに関係なくできるのが温水プールでの水泳だ。

水泳は、同じ所を行ったり来たりして単調になってしまうので、練習メニュー自分なりの目標を持てば、レースに出なくても楽しめる。

何より体型が露出するので、体重管理もしっかりしようというモチベーションも上がる。


田舎では水泳をする人が少なくて、プールの維持管理費用が負担になっているので、是非、町民の方や周辺の人に活用して頂きたい。

中には、隣の岡山県から通っている人もいるが、肝心の町民はまだまだ少人数だと思う。

そして、子どもが少ないので幼児コースの人数の少なさは将来のプール維持に不安を感じる。

水泳は年会費と安い水着で費用においては、ゴルフなんかよりもよっぽど安く済む。

こういう田舎では、年金暮らしでお金に余裕の無い人にもお勧めのスポーツでもある。

また、お金の余裕がある人は、やはり水泳教室をお勧めする。

私はコーチの経験があるが、色々と種目が泳げるようになって熱心に取り組んで楽しそうであった。

残念ながら、中心は年配の女性だったが、男性も加わって欲しいと思う。

2024年12月18日水曜日

健康指向から生活防衛へ

私が有機農業や自然農法に拘っていたのは、家族の健康を考えてのことだった。

農作業に掛ける時間と労力、経費を考えると、これまではスーパーで買った方が安く付いていたと思う。

でも、その殆どが化学肥料と農薬、機械に頼っていることに抵抗を感じていたのだ。

それが、このところの気象破綻の影響で、そういう農業がダメージを受けて農産物が高騰してしまった。

特に野菜の値上がりは食生活に直結してしまった。

家内には3年連続で大根を失敗したことを指摘されたので、「農薬を使って良いか」と聞くと「仕方ないんじゃない」という返事だった。

30年以上も無農薬の原則を放棄せざるを得ない状況になってきた。

まわりが農薬を使うので、いくらネットで覆っていても、集中的にやられてしまう。

以前は、馬酔木やタバコの吸い殻を用いた自然農薬も試したが、それらは簡単に手に入らなくなっている。

これからは市販の安全性の高い農薬を使わざるを得ないと腹をくくった。


一方肥料に関しては、有機肥料が販売されているので間に合わせられるが、不耕起を主体として草マルチの自然農法は頑張ってみたいと思っている。

こちらは、機械や石油製品になるべく頼らないモットーを維持したいと思っている。

また、モチ麦や高黍の栽培は機械なしでは、かなり困難であることが身にしみた。

脱穀と籾すりの手間が非常にかかってしまうからだ。

水田稲作がこういう破綻気象でも耐え得られていることを考えると、稲作農家に米を頼るしかないと思った。

その代わりに、大豆と小豆、落花生に力を入れることにした。

また、夏場は里芋よりもサツマイモ、冬場はジャガイモの根菜類に力を入れようと思っている。

これらの夏場はエンジンポンプに頼らざるを得ないが、水さえ有れば何とか持ちこたえられていた。

肝心の野菜だが、夏場の水対策だけでなく日除けを中心とした温度管理をするつもりだ。

また、春先の空豆、エンドウや葉野菜にも力を入れようと思っている。


これからの家庭菜園は健康指向という生やさしいものではなくなった。

高騰する農産物への生活防衛としての重要性が増してきた。

かつて人類学者のピエール・クラストルは「国家に抗する社会」の中で次のように述べている。


西欧文明は確かに、その黎明の時代から二つの公理によって導かれてきたと思われる。すなわち、第一の公理は、其の社会は、国家という庇護者の影の下でこそ自己を展開するとする。そして第二の公理は、次の定言命令を与える。すなわち、労働せねばならない、と


欧米に追随した日本人も、同じような文明を築いてきた。

その結果が破綻気象であり、人間性を失った賃金労働だった。

これから我々は国家の庇護とは距離を置いて、自然と共存できる生活を営み、そこからの恵みを頂きながら生きていく必要があると思う。

ささやかな「生活防衛」こそ、未来に向けての「闘い」なのだ。







2024年12月15日日曜日

捨てちまった哀しみに

私は家内から古くなった服や物を捨てるように促されると、中原中也の詩「汚れちまった悲しみに」をもじって抵抗してきた。

私が「捨てちまった哀しみに」と言うと、家内は必ず「そんなに哀しいのなら捨てなくて良い」と言って突き放される。

それで、うやむやになってそのまま捨てずに残されてきた。

私は物に対して過去の想い出と重ねて、汚れたり、少し破れたりしただけではなかなか捨てられないでいる。

その中で、今でも着続けているのは登山用のヤッケである。

45年ほど前に買った青色のヤッケは当時で1万円も出して手に入れた物で、学生時代はバックパッキングや村落調査などでずっと使っていた。

その後は思い出したように使ったが、汚れも破れもないので、このところ冬場の散歩には毎日それを着ている。



そんな私が涙を流しながら以前に処分したのは、40年ほど前に長津田のアパートを引き払う時の家具類である。

伴侶に去られた後に行き詰まってしまい赤穂に戻る時、大家さんが置いておいてといった物以外の物はゴミ廃棄場に捨てに行った。

トラックをレンタルして弟が運転してくれたのだが、カラスが群がるゴミ捨て場に捨てて帰る車の中で、号泣してしまった。

想い出のある家具類を捨てる哀しさを我慢していたのに、カーステレオでかけていたジョージ・ウィンストンのカノンで感情が溢れだしてしまった。

隣で運転していた弟に慰めの言葉をかけられる始末だった。

私の「捨てちまった哀しみ」の原点はこの想い出にある。


その後、愛車を買い換える時も、幾分寂しさを感じたりしたが、涙を流しながら処分したものは無かった。

ところが、今回の実家の片付けはその時と似たような状況になってしまった。

自分ですることにしてから、今は母の遺品を中心に処分すべくナイロン袋などに詰め込んでいるところだ。

する前は簡単に思っていたのだが、自分のアパートの時とは違い、父母が結婚して以来ため込んだ品々はとてつもなく多い。

それに庭の剪定も行っておかねばならない。

やってもやっても終わりが見えなくて、気が滅入るばかりだ。

そして、何よりも母に対する思いや、過去の出来事が蘇ってきてしまう。

「捨てちまう哀しみ」も込み上げてきてしまう。

家内も自分の母親の家の整理を考えていると言っているが、私はお金に余裕があるなら業者に任せる方が良いと言っている。

業者は単に物として簡単に片付けられるが、そこにかつて住んだことのある者にとっては、単なる物ではない。

遠い先祖の遺物ならともかく、肉親が身につけたりした物を、何の感情もわかずに処分できるはずがない。


まだ、処分場に持っていたり、ゴミに出したりはしていないが、それを行った後には「捨てちまった哀しみ」が込み上げてくるだろうと思う。

若い頃のように号泣することは無いと思うが、人生の儚さに心が疼くことになるだろう。

かつては出直しのための処分だったが、今回は手放すための処分となることになると思う。

特に、祖父を手伝って築いた庭を手入れし直すと、今眺めても素晴らしいと感じる。

できれば移して自分のそばに置いておきたい。

しかし、その思いは自分の家内や子どもには理解できないだろうとも思う。

この立派な庭を維持できるだけの「家」を築かなかった自分を自覚するしかない。

実家は庭が立派なのに駐車場が狭くて、敷地だけ広い農村の我が家のように、3台も4台も停めるスペースなど無い。

かつて庭に価値があったのは自家用車を持つことが無かったからで、今は駐車場と庭園を持てる人は限られている。

時代に取り残されちまった哀しい家であることも確かである。







2024年12月12日木曜日

豆乳への転換

今、酪農家が餌代などの高騰で採算が合わず廃業が急増しているという。

餌代の影響は近辺の水田地帯にも影響しているようで、牛の餌用の稲が多く作られている。

牛乳は学校給食では欠かせないので、酪農家が無くなってしまうことはないことは確かだろう。

小学生の頃からなじんできた牛乳や乳製品は生活に欠かせなくなっている。

それに対して、豆乳は私の子どもの頃には、豆腐屋で販売されていたが、匂いが強くて私は苦手で飲めなかった。

大学生の頃には、紙パック入りの豆乳があったので、たまに買って飲む程度だった。

自分で大豆を作るようになって、その活用方法として豆乳を自分で作るようになった。

リサイクルショップで豆乳製造機を買って作ったのだが、いい加減な分量で作っていたせいもあって味が薄く家族には不評だった。

残りかすのおからは食べづらく、機械の後片付けも大変なので結局使わなくなった。


一方、ヨーグルトは簡単に牛乳パックでつくれる電気製品を買って、家内はだいぶ前から作って毎朝食べていた。

ヨーグルトにはブルーベリーの実やジャム、酢をいれたり、粉末の青汁やシナモンを加えている。

豆乳で作られたヨーグルトが発売された時に、家内は牛乳と同じ方法で試しに作ってみたのだがうまくいかなかった。

このところ、豆乳ヨーグルトがよく出回ってきたので、家内は再チャレンジした。

最初うまく効かなかったが、発酵時間を長くすることによってうまく作れるようになった。

それを一番喜んだのは家内自身だった。

家内は牛乳ヨーグルトを昼食後に食べて仕事に出かけていたが、おなかがぐるぐると鳴って困っていたそうだ。

それが豆乳ヨーグルトに変えてから、鳴らなくなったという。

味は牛乳の方がおいしいのだが、健康面からすると豆乳の方が良いし、家内のおなかにはもってこいである。


豆乳に関してホームページの「世界を旅する豆乳」に歴史や、中国での事情が載っているが、中国では牛乳より歴史が古いそうだ。

現在でも中国では朝食に欠かせない飲み物になっているそうで、日本と大きく違っている。

豆乳は機械さえあれば大豆を買って自分でも作れるし、私のように畑で作った大豆も利用できる。

今年は黒大豆がそこそこできたので、黒大豆の豆乳を作ろうと思っている。

味は牛乳製品にはかなわないが、日本人の食生活には豆腐の方がなじんでいるし、これからは豆乳ももっと活用するべきだと思う。

何より牛を育てるより、大豆を栽培する方が簡単で、枝豆でも食べられるし、昔は葉っぱは飼料や肥料にも使っていたという。

刈り取った後の枝葉は、こういう田舎では焚きつけに用いたり、焚き火として火にあたったりしている。


これまでは安い穀物飼料を輸入して牛を育てたり、大豆そのものも飼料として使われることが多かったが、円安を機会に見直すべきだろう。

豆乳が世界的に普及すれば、世界の食糧事情も良くなるはずだ。

飲みやすい調整豆乳もあるので、学校給食も牛乳から豆乳に換えても良いのではないかと思う。

アマゾンが飼料用の大豆畑になって自然破壊がなされているのだから、日本は本気で大豆生産を推進すべきだと思う。

これからの食糧危機では地産地消が重要となってくる。

そのことからも、牛乳から豆乳への転換は大切なことだと思う。

そもそも、遊牧民は別として東アジア人の身体に合っていない牛乳を普及させようとしたこと自体が間違いなのだ。

因みに調べてみたらカルピスも豆乳で作ったのがあったそうだが、どうも販売を中止しているようだ。

ぜひ改良を加えて、牛乳製よりも安価で効能が高い物を開発して欲しい。

とにかく、我が家の豆乳ヨーグルトへの転換は新しい時代への一歩だと思う。






2024年12月9日月曜日

あの世は生きてる人のため

母が死んでから1年半を過ぎようとしている。

家の処分について以前から相談していた不動産屋から連絡がいきなりあった。

担当者が代わって、もう一度検討したいという。

見て貰った結果、家屋敷を綺麗に片付けてから、中古で売り出してはどうかと言うことになった。

ずっと、更地にしなければ売れないと思っていたのだが、自分たちの育った家屋敷が残る方が嬉しい。

更地で売却しても採算面でかなり厳しいことと、人口減で売却の可能性も低いと思っていたので、赤字さえならなかったら良いと思って、中古で売ることにした。


そこからが大変で、放っていた片付けをしなくてはならない。

母の生活感が残っている居間は、今までどうしても手がつけられなかった。

生きていた頃の記憶が蘇って、抱き続けていた母への申し訳なさの気持ちが込み上がってきたからだ。

ただ、1年半も過ぎるとその生々しい記憶も薄らいで、ようやく片付けをすることが、それほど苦痛では無くなっていた。

古物商にも来て貰って食器類を処分したが、まだ多くの遺品が残されている。

不動産屋は処理業者を紹介すると言ってくれたが、概算費用を聞くと50万円ほどかかりそうなので、できる限り自分ですることにした。

私は軽トラでずっと生活しているので、それを活用すれば問題ないのだが、大きな荷物運びには二人は最低必要だ。

今後は息子の手も借りねばならなくなった。


家の処分のことで思い当たるのは、アイヌの人のことだ。

アイヌの人は大人が亡くなると、その人が住んでいた家を焼く習慣が古くはあった。

理由はその人があの世で住む場所として必要だからということだった。

さすがにかつてのアイヌのような茅葺きとは違う現代の家は焼くことができないが、衣服や布団類を焼く理由に使えると思った。

本当は死の穢れ意識とか、想い出を消し去るためとしても、あの世で使ってくれると思った方が気が楽になる。

極楽浄土とかあの世は、死んだ人のためにあると考えがちだが、本当は残された家族やこれから死に向かう人にとってありがたい信仰で有ると思う。

信仰を失っているとしても他界をイメージする方が、現代人としても心の救いになるだろう。


かつて、家を代々継いでいける時代は、あの世の先祖と会うためのお墓や、祀るための仏壇などがあった。

年中行事にはあの世から戻ってくる、ご先祖様をお迎えする意識があった。

現代は子どもに継がせるる仕事も、子どもと一緒に住める家もなくて、かつての遺産を残せない未開人と変わらない状態になってきている人が多い。

未開人の多くは家は殆ど仲間と協力し合って建てていて、壊したり建て替えるのも簡単だった。

そして、亡くなった人は葬られた後、顧みられることは殆ど無い。

現代では家屋においては子育てには向かないだろうから、子育て期間中だけの家と独身時代や老後の家とを分けて考える方が良いだろう。

子育てのための家は、借家か売ることを前提に建てておいて、子育てが済んだら子どもに負担とならない簡単に処分できる家屋敷を探せばいい。

墓や仏壇も作ってもらわずに自然葬にしてもらい、自然に戻るという他界観を持っていれば良いと思う。

今の私にとってのあの世は、かつて未開人がイメージしていた、この世の鏡としてのあの世であるから、かつての死後の扱われ方になんら拘りは無い。

ただ、父母は昔ながらの扱われ方を持ち続けていただろうから、仏壇で供養を続けている。

父母は時代の変化を分からないまま逝くことができた最後の世代だろう。

私は墓や仏壇で供養して貰わなくても良いし、年忌供養もして貰わなくて良いと思っている。








2024年12月6日金曜日

大きなのっぽの古スピーカー

私の机の上の棚に、大きなのっぽの古スピーカー(H:48cm W:26cm D:20cm)を置いてある。

農閑期の冬場は暮れるのが早いので、PCで一人カラオケを夕方にするのを楽しみにしている。

その時に、このスピーカーを通して重低音の心地よい音楽が流れてきていた。

当然アンプが必要なのだが、もともと大きなステレオコンポ用だったが、コンポが壊れてスピーカーだけ使っていた。

コンポに代わるものは、ミニコンポが余っていたので、それを代用にしていた。

そして、ついにその代用のミニコンポも壊れてしまった。


そもそも大きなステレオコンポは、買って持て余した弟に頼まれて40年程前に買ってやったものだった。

ソニー製でCDは無く、レコード盤とカセットのプレーヤーがついていた。

時代遅れとなり、無用の長物化してレコードプレーヤーとスピーカー以外は廃棄した。

ミニコンポの方は、30年ほど前のもので、CDとMDのプレーヤーが付いていたが、音が出なくなって、主に家内がラジオを聴くのに使っていた。

ラジオを聴くのもアンテナが必要で、結局携帯ラジオに取って代わられて使わなくなっていたので私がアンプ代わりに使っていたのだ。


PC用の小型スピーカーもあって使ってみたが、やはり大型スピーカーとは雲泥の差で、なんとか使えないか考えた。

新しいコンポを買おうと思ったが、外部スピーカが接続できるのは最低4万円ほどする。

ネットで色々調べたら、PCにラインでもBluetoothでも接続できるパワーアンプがあることを知った。

5000円近くするが、コンポなどを買うよりもよほど安い。

早速ネットで購入して接続するのだが、一番手こずったのは、スピーカーの線をバナナプラグに繋ぐことだった。

以前は線の先を穴に差し込むだけで良かったのだが、今はバナナプラグが一般的なようだ。

これもハンダ付けとネジ式があって、最初一緒に購入したのがハンダ付式でハンダを使わず接続するのに苦労した。

その後、小さなコンポの置いてあったスピーカーにはネジ式のバナナプラグを接続して、時々パワーアンプを活用している。


本当のオーディオマニアなら、お金にいとめをつけないで、良い製品を買うのだろう。

私は音そのものよりも、伴奏として音楽を楽しんでいるのだから、そこまで音質に拘る必要は無い。

そもそもカラオケ音源がMIDIなので音質にも限界があるのだ。

こうして、40年前の古スピーカーを使い続けることができるようになった。

防音装置の無い部屋で、いい音を楽しめるのは田舎暮らしの特権だ。

そして、カラオケもその音に負けないような大きな声で楽しんでいる。


考えてみれば、こんなに40年以上も続けて使っている電気製品は無い。

実は、使っていないけれど残してある大切な電気製品がもう一つある。

それは高校一年生に買ったGrecoのレスポールコピーのエレキギターだ。

大学時代には軽音部で仲間のギタリストから、音がカスで安物のエレキと馬鹿にされたが、貯金をつぎ込んでやっと買えた思い入れがある。

ステージでは殆ど活躍することができなかったが、キダタローのラジオ番組に出た時には使った。

今はマイクが故障していて音がまともに出ないので、机の横に置きっぱなしだ。

こちらは、50年ほどの付き合いのある電気製品なので、何とか修理して使ってみたいと思っている。

デジタルの家電や楽器ができて便利になっているのだが、こういうアナログの電気製品は愛着があって死ぬまで捨てられないと思う。

アコーシック製品同様に電気製品にも「魂」を感じているからだと思う。




2024年12月3日火曜日

カルピス回帰

 私はドライブに際して、箱買いにしていたペットボトルのお茶を持参することが多い。

それは夏場は水分不足で便通が悪くなっていたことへの対策で、今は十二指腸潰瘍の痛みの軽減だ。

ところがこの日曜日に持って出るのを忘れて、途中で買う必要に迫られた。

できるだけ痛みを軽減するためと思って、ミルクティーを買おうとしたが売り切れてしまっていた。

ふと隣を見るとカルピスウォーターがある、これだと思って早速買った。

そして、車の中で冷たいのを口に含んで暖めながら、少しずつ飲んでいった。

しばらくすると、それまでシクシクと痛かったのが無くなってきた。

新しい発見だと思い、帰りにスーパーによって、今はペットボトルで売っている原液のカルピスを買った。


カルピスのことをWikipediaで調べた。

なんと歴史は1908年(明治41)に溯り、30歳の三島海雲は内モンゴル(現在の中華人民共和国内モンゴル自治区)を訪れ、そこで口にした酸乳を参考にしたそうだ

製造販売は1919年(大正8)からだそうだが、自分ちの父母が生まれる前から有ったのだ。

私の子どもの頃は高価な飲み物で、家ではたまにしか飲めなかった。

家内はお中元などで貰うのを楽しみにしていたそうだが、うちにはそういうものは一切無かった。

青いアワ玉のついた瓶に入った原液のカルピスは、贈答品になるほどの高級品だったのだ。

ただ、幼稚園では夏場のプール遊びの後で、やかん一杯に作ったカルピスをみんなに飲ませてくれた。

家では滅多に飲めなかったので、いまだにその時の情景とおいしさを憶えている。

また、近くの絵の指導をしている先生のところに、入会をお願いするのに母はカルピスを買って持って行ったのを憶えている。

頼み事をする時にも役に立ったものだったようだ。

思春期では男子校だったので、カルピスが精液の隠語となってイメージを損なってしまったので、その後ほとんど飲まなくなってしまったいた。


今は十二指腸潰瘍の痛み対策としてかなり薄めて使っているが、それでも甘く感じてしまう。

既に糖質60%オフの原液も売っているようだが、糖尿病の身としてはできるだけゼロに近づけたい。

そこで考えたのは、今食べている豆乳ヨーグルトを水に溶かすことだ。

我が家は以前からヨーグルトを家で作っていたが、牛乳から豆乳に変えることに家内は成功した。

種菌は売っている豆乳ヨーグルトで、無調整の豆乳も売っているところは限られていて手間ではあるようだ。

家内は特に牛乳をちゃんと消化できないようなので、豆乳の方が栄養価でも優れていると思った。

ただ、薄めると飲みづらくなったので、原液のカルピスを少し足して飲むとおいしかった。


100年以上の歴史があり、健康食品として旧日本軍でも使われたという優れものである。

年月に耐えているということは、それなりの効能があるということだろう。

栄養面だけでなく胃壁などを保護するために、色んな飲み方ができるかもしれない。

十二指腸潰瘍を再発した私には、救世主になって欲しいと思う。

モンゴルの知恵が、こうして現代に活かされていることが何よりも愉快だ。