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2025年8月9日土曜日

三流でも南山大学人類学科で良かった

 先日、近縁者と話をしていて大学の話が出た。

彼は九州大学に入ってまもなく辞めて、予備校に入って早稲田大学に入り直した。

しかし、四年間在籍したにも関わらず中退してしまったのだった。

何をしていたのかと聞いたら、アルバイトをしていたと言うことだった。

とにかく、入ることだけに力を尽くしてしまって、入ってから勉強をする気が無くなったらしい。

そういえば、学年で最下位ながら早大の法学部に現役で入った私のバンド仲間は、大学ではひたすらバイクのサークルに心血を注いでいた。

バイク事故で1年留年したが、ちゃんと卒業できたたのはサークルのお陰だろう。

一方で、都立大学の大学院には早大でしっかり勉強をして入ってきていた優秀な先輩もい

たが、フィールドワーク中に病気で亡くなってしまった。

私は大して受験勉強しなかったから、大学に入ってから勉強したと言ってしまったが、本当は好きなことをやっただけだった。

大学院に行ってから修士の先輩や同級生がいかに大学でしっかりと勉強していたかを思い知らされていた。

因みに都立大学の大学院の社会人類学専攻は学部からの進学は滅多になく、埼玉大学やICU、東京外語大等と多彩で、たまに東京大学からの進学者もいた。

私はそもそも英文を中心とした論文解読が辞書なしではまともにできない、フィールドワーカーに毛が生えた程度に過ぎなかったのだ。

だから、もっと時間が必要だったのだが酷い十二指腸潰瘍など、心身も経済力にも限界がきて博士には進めなかった。


大して勉強もせずにそこそこブランドのある都立大学の大学院に入れたのだから、南山大学人類学科は私にはありがたい大学だった。

家内は高校から曾野綾子の「太郎物語」を読んで南山大学のことを知っていたようだが、私は読みもしなかったので、NHKでドラマ化されて始めて知った。

太郎さんは一流の慶応大学の補欠を蹴って三流の南山大学(小説では北川大学)人類学科に入ったということだ。

学科の同級生にも愛知教育大学を蹴って同じ学科に入って頑張っていた友達もいたが、東大を落ちて入ってきた者はほとんど授業に出てこなかった。

女子が多く、就職とあまり結びつかないので、学科にしっかりなじめている者とそうで無い者がはっきりしていた。

私はこの学科しか合格しなかったので入っただけで、入った当初は単に浪人から解放されることと女子学生が多いのが嬉しいだけだった。

そもそも、南山大学の赤本も買っていなくて、過去問も殆どしなかったし、願書の大学案内もまともに読んでいなかった。

いい加減に入った大学で最初からうまく行かず、熱心に文化人類学を勉強したわけでも無く、軽音学部、剣道部もなじめず1年の途中で辞めてしまった。

たまたま文化人類学研究会の村落調査サークルに巡り会って、学問に目覚め、恋愛に目覚め、友情を暖めることができた。

奄美での村落調査も、大学によってはゼミなどで教師の指導の下で行うケースが多かったのだが、学生だけで長期的に自由にやれたのが良かった。


実は私の出身高校の淳心には、南山大学の神学科を卒業した英語教師もいたのだが、大学には関心が無かったので、教育実習の時に初めて大学の話をしたのだった。

教師になってからは生徒に南山大学のことを話したが、名古屋に行きたいという生徒もいなくて殆ど関心を持って貰えず、誰も受験してくれなかった。

都立大学も二期校だった頃の人気は無く、担任した生徒に強く勧めたが筑波大学に行ってしまった。

都立大学は社会人類学はブランドを持っていたが、学問に関心の無い生徒には魅力は無い。

ただ二期校時代は、高校の仲の良かった友達が人気と評判の高かった都立大学に入ろうとしたが果たせず、二浪して慶応大学に行った。

二期校で人気の高かった都立大学を落ちて早稲田や慶応にいったケースはそこそこあったようだ。

だけど、私は三流の南山大学の方が、自分に合っていたし好きだった。

都立大学大学院は研究者になれば卒業しても関わりが長く続くようだし、今でも研究室の名簿は送ってきてくれる。

個人的には今でも連絡を取っている人もいるが、大学の仲間のような気楽な関係は少ない。


私が所属した南山大学の人類学科のゼミには、同期の一部が指導教官を中心としたライン仲間を作ってけっこう連絡を取り合っている。

私はゼミで懇意にして貰っていた女友達がいるかと加わったが、残念ながら彼女は入って無くてかなりがっかりしたが、加わって良かったと思っている

今回、そのラインでメンバーの兄弟が不慮の事故で亡くなったことを知った。

年齢的には私より一つ下で、同じ文化人類学研究会の部員でよく知っている後輩だった。

ラインでは彼を思いやる言葉が綴られていた。

私はこういう関係を他には持っていない。

私の人生にとって三流の南山大学人類学科こそかけがえのない存在なのだと改めて思い知った。

今は偏差値などや口コミでランク付けされて、集まってくる学生も以前の大学と違ってしまったようだ。

共通一次が開始された頃の年代である我々の世代は、格付けに左右されない魅力を大学自体に感じることができていた。





2025年8月7日木曜日

待ち焦がれた雨

 私は教師をしていた頃に、雨が大嫌いだった時期がある。

第二次ベビーブーマの生徒が荒れた時代の職業高校に勤めていた頃で、雨が降ると生徒が荒れた。

生徒の多くが自転車通学だったのだが、傘差し運転を無くすために校門で立ち番をして、差して来ている傘を取り上げて学期末まで預からねばならなかった。

本人が規則を無視したのが悪いのに、傘をとられた生徒は不満をぶちまけていた。

教室外などで発散できない生徒が、トラブルを起こすことも雨の日は多かった。

ただ、ハードな練習を外で行うクラブの生徒は、雨が降ると喜んでもいた。

一方で、校内の廊下や階段で練習するクラブもあって、放課後は職員室や準備室から出たくなくなった。

この雨の日の校舎内練習で、近隣の中学校では生徒が死んだところもあった。


そもそも、学校行事では雨が一番大敵だった。

一番嫌な思い出は、肢体不自由の特別支援学校で雨の日の校外学習で姫路城に行った時だ。

車椅子の生徒にカッパを着せるのも大ごとだったが、玄関でカッパを脱がせたりタイヤを拭いたりで大仕事になった。

姫路城内は舗装されていないところもあって、泥濘んだ道で車椅子を押してあげるのも大変だった。

雨で延期になる体育祭や球技大会はまだマシなのだが、雨でも行う文化祭もその対応に追われた。

とにかく、教師をしていた頃に雨を良く思ったことは無かった。


農作業をやり始めて30年以上経つが、やはり雨はあまり良いものではなかった。

作物以上に雑草は伸びるし、トマトなどは実が傷むし、毎日行うズッキーニの受粉も面倒になった。

水田を転用して畑にしているので水はけが悪くて、雨が降り続くとどの作物にも悪い影響が出た。

ところが、近年は夏場には高温で雨が降らないので、水やりに多くの労力をかけねばならなくなった。

現役の教師をしていた頃は、そんなに手がかけられないので、枯れたり萎れたりしたら諦めたりもした。

退職してからは、時間が有るのでその対応に、新たな溝を掘ったりエンジンポンプなどを使って散水するようになった。

それでも、去年までは気持ちが入らなくて、作物のできはあまり良くなかった。

ところが、このところ農作物の値上がりで、必要に迫られて力を入れざるを得なくなった。

朝の5時前に起きて、自宅の裏にある畑の水やりをしながら夏物を収穫した。

エンジンポンプは音が近所に迷惑がかかるので、長いコードリールを使って電動ポンプでくみ上げ、それをまた長いホースで散水した。


その農作業と散歩に関する暑さ対策については「汗は冷たいから濡れていたい」で既に書いいる。

日によって、朝に十分水をやれないときには、夕方にエンジンポンプを使って散水した。

畑だけで無く、庭にある鉢物や植木に水をやるために、300リットルタンクに水を用水路からエンジンポンプでくみ上げていた。

とにかく水の対策にずっと振り回されていたのだ。

雨が降るのをどんなに待ち焦がれていたか。

そして、今朝(8/7)に念願の雨が土砂降りとなってやってきた。

収穫作業を途中で止めて、犬の散歩に切り替えた。

犬の散歩用のカッパを着て、連れ出して30分以上歩いた。

うちのクロは池や用水路に自分から入るくせに、洗われるのを極端に嫌がって抵抗する。

身体も大きく力も強くて爪でひっかかれたりされて、身体を洗うのは諦めているので、冬場以外はあえて雨の日に散歩して、雨で身体を洗い流す。

普段は腹だけ水に浸す程度のクロにとっても約1ヶ月ぶりの全身シャワーと言えるのだ。


台風も夕立もなくて雨が降らない状態で、これほど雨を待ち焦がれたのは生まれて初めてのように思う。

雨がテーマで喜びを表現していて知っている曲は「雨に唄えば」と童謡の「あめふり」くらいだろう。

まさしく、この雨は「雨に唄えば」が相応しいだろう。

だけど、畑やあぜ道ではジーン・ケリーのように傘をもって歌う気分にはなれない。

カッパから流れ落ちる水滴やクロの背中から腹に落ちる濁ったしずくを見て安堵しながらいつもの三好英二の「雨」を唄っていた。


雨に濡れながら 立たずむ女(ひと)がいる
傘の花が咲く 土曜の昼下がり
約束した時間だけが 躰(からだ)をすり抜ける


雨が降ると雨の日に約束のデートをすっぽかして恋人を泣かせた嫌な記憶が、この歌と共によみがえってしまう。

待ち合わせ場所に来ない私を長いこと待った後で、下宿にやってきて怒りながら泣いていた。

優しさの足りない傲慢だった自分を恥じながら、彼女のことをいつも思い出す

どんなに待ち望んで嬉しい雨でも、やはり雨は気分を鎮めてしまう。


2025年8月6日水曜日

元チェーンスモーカーは現ベーパー(電子タバコ)

 本当はタバコをまた吸い始めたかった。

普通のシガレットも良いが、パイプタバコや葉巻が吸いたかった。

学生時代には酒よりも、タバコの方が好きだった。

でも、金が無い頃はシンセイを普段吸って、たまにショートホープを吸ったりした。

しかも、シケモク(吸い残し)もキセルを使ったりして吸っていた。

村落調査の合宿では、サークルの先輩がドイツ産のゲルベ・ゾルテや葉巻を差し入れしてくれたので、タバコの魅力を知りもした。

大学院に入ってからは、家庭教師のアルバイトができたので、缶ピースやパイプを嗜むことができるようになった。

村落調査でもシマの仲の良くなった若い人が、タバコを貰いにやってくるので、そこから色々と話が聞くこともできたし、仲良くなれて家族づきあいができた。

大学院での台湾からの留学生からは、台湾ではタバコのやりとりが付き合いとして大切なことも教わった。

一方で論文を書き始めてから、そのストレスから完全にチェーンスモーカーになり、タバコを吸うことでしか気分転換ができなくなってしまった。


教職に就いてからは、普段からパイプを多く吸い色々と銘柄を試すのが楽しみになって、三宮に出かけたりするときは必ずたばこ屋に寄った。

ただ、パイプはキセル以上に脂を掃除したり、焦げを削ったりするのが面倒だった。

元々は、肺にしっかり入れて吸うタバコでは無くて、香りを楽しむ吸い方だったのでパイプは一番合っていた。

それだけ好きだったタバコも、家内が妊娠したことを知ってから止める決心をして、家では全く吸わなくなった。

ただ、飲む機会などではどうしても欲しくなって、人からもらって吸っていた。

完全に止めるまでに3年以上はかかったと思う。


今回はタバコをまた吸い始めたいと思ったのは、退職して研究に力を入れようと思ったからだ。

机にしがみついている時に、気晴らしとしてミントタブレットや飴、グミを試したが、糖尿病には良くないし飽きてきた。

仁丹なども使い始めて、今でも続いている。

それでも、執筆時には昔のようにタバコを非常になつかしく感じたのだ。

しかしながら、家内がタバコが苦手で匂いが嫌だし咳が出るというので、タバコは諦めざるをえない。

そこで、行きついたのがニコチン・タールなしのベープ(電子タバコ)だった。


ベープの香りは、ミント、レモン、タバコの3種類を使っている。

最初に使ったのは、リキッドを入れて気化させるアトマイザーが小さい物だったので、扱いづらかった。

期待したタバコの香りも、本物とはほど遠くて、気休めで吸う感じだった。

そのうちは、どれも飽きてしまって吸うことをしばらく止めていた。

最近、また何かリラックスできる物はないかとネットで調べたら、CBD(カンナビジオール)という、合法の大麻の抽出液に行きついた。

ベイプを吸う道具も新調してCBDを吸い始めたが、薄いレモンの香りのするタバコのようなふわーとした気分を感じだ。

確かに、リラックスできているようで、酒の量も減ったと思う。

ついでに、かつて使ってリキッドが残っているので、アトマイザーも買い足して再び吸い始めた。


CBDは合法でも大麻の成分というと、何か危険な感じがするのだが、医療目的にも使われているので安心でもある。

かつて、ドラッグ(薬物)を文献で調べたことがあった。

デイヴイッド・T・コートライト『ドラッグは世界をいかに変えたか-依存性物質の社会史』(春秋社)である。

我々は医食同源と言う言葉を知っていて、基本となる食事が自分の健康を保つことだと分かっている。

あまり知られていないが薬食同源という言葉もあるようだ。

これは特定の食材の効能を強調するときに用いるようだが、実は依存性があってサイコアクティヴ物質をもっている食材をよく摂っていると前出の本に書いてある。

一番好例はカフェインを多く含むコーヒーやお茶などであるが、ドラッグとは意識していないのが普通だろう。

ただ、お茶は古くは薬として使われていたのを知っているし、今でもカテキン効果を期待している。

タバコもドラッグとしてでは無くて、身体に悪いが気分を良くする嗜好品という感覚だと思う。

また、その本では砂糖もかつてはヨーロッパで薬品と見なされていたし、他の薬物同様に奴隷や労働者を酷使するのに欠かせなかった。

ラム酒は黒人奴隷を働かせるのに活用されたのは有名な話だ。

日本では酒、タバコは税金をかけて、ドラッグ依存者を利用しているのだから、ヨーロッパで行われていた搾取とそれほど変わらない。

かつての日本人男性はタバコを吸いながら過酷な仕事をこなしてきたのであり、百害あって一利なしといわれても、ワーカーホリックには欠かせない物だった。

薬と毒は使い方の違いだけだと言われているが、タバコも過剰に吸わなければ気分転換としての薬にもなっていたはずだ。

タバコは癌の原因として目の敵にされてしまっているのだが、糖尿病の原因としての砂糖などの糖類も最近では目の敵になっている。

本当はドラッグそのものに原因があるのでは無くて、過剰な使い方をしてしまうストレスのかかった生活に原因があると思う。

今はゆったりと生活できているので、ストレス解消としてでは無くて、ちょっとした気分転換のひとつとしてのベープと上手く付き合いたいと思っている。

今のところ、酒やタバコのように高い税金がかかっていないのが何よりも魅力だ。


2025年8月4日月曜日

靴底を剥がす灼熱仏事

 義母の49日の法要を、お寺で行った。

岬の崖の上にあるお寺は、海岸から急な坂を登った所にあった。

ご住職の都合もあって、午前中は無理で13時過ぎから行われることとなっていた。

その後で、納骨もする必要があったし、遠くから来る人のことも考えて、一番暑い時間帯を選ばざるを得なかったのだ。


当然、お寺にはエアコンは設置していない。

扇風機が何台も置いてあるが、風が届かない人もいる。

私は扇風機のそばにいたのだが、汗が止まらなくてずっと顔を拭い続けていた。

一番熱い思いをしているのは、ご住職で何枚もの着物を重ねられている。

その姿を見ていると、誰も暑いとは言えなかった。


苦行となった法要も終わって、いざ墓場に向かうこととなった。

靴を履いた一人の男性が片方の靴底が剥がれたという。

靴は本堂の階段に陽ざらしのまま置いてあったのだが、熱で接着剤が溶けてしまったらしい。

片方の靴底を剥がしたまま、急な坂道を降りねばならなくなった。

そして、そのまま墓場の納骨に臨んだが、納骨が終わったときには両方の靴底が剥がれてしまっていた。


お骨の納骨の儀式も最後の焼香ということとなった。

すると、こんどは私の息子の片方の靴底が剥がれている。

地面が熱くてやはり、接着剤が溶けてしまったらしい。

たいして歩くことは無いので、用心しながらそのまま履き続けざるを得なかった。

私はお寺の坂や、墓場のことを考えて黒のウォーキングを履いていたので、難を逃れることができた。

この時に参加した男は四人いたのだが、難を逃れた私はウォーキングシューズで、跡取りの喪主は白のスニーカーを履いて無事だった。

どちらかというと、ちゃんと黒の革靴を履いていた二人が難に遭い、礼儀に反する靴を履いていた二人の方が難を逃れることになったのだ。

ただ、家内の実家に戻って靴を脱ぐときに、中敷きが溶けて靴下にくっついていた。

足の裏が暑いと思わなかったが、靴底の温度がかなり上がっていたことを実感させられた。

こういう男性に対して、女性は誰一人も靴に問題は生じなかったのは、礼儀に拘っていなかったからだろう。


この異常な気候で、こんな時間帯に法要や納骨を行うこと自体が無謀なのだが、遠方から集まってくることを考えれば仕方ない。

私は灼熱を予想して、晴雨兼用の傘を買っておいて使った。

ご住職は納骨の際には、僧侶の持つ網代笠を被っておられた。

私は托鉢をしている僧侶が被っているのを見たことがあったが、納骨の儀式で被られるとは思わなかった。

その網代笠は年季のいった立派な物で、普段使いできるような品物では無いようだった。

それに対して、男性は無防備で、私以外は日傘も差さず、一人は奥さんの日傘の中に入れていもらっていた。


靴底が剥がれるくらいのことで法要と納骨を終えることができたのだから、まずは無事に済んだと言うべきかもしれない。

今回はかなり高齢の縁者は参加していなかったので、これで済んだと思う。

高齢で無くても、普段暑さに慣れていない人にとっては、大事になってしまうこともあるだろう。

日にちや時間に融通が利かない行事は、先の気象を考慮しづらいのだから、礼儀を逸してもそれに対応した身なりで望まざるを得ないだろう。

場合によってはペルチェベストやネッククーラーを付けたり、外では帽子を被ることも容認するべきだと思う。

黒の革靴も今後は暑さに耐えられるかどうかを確認しておく必要があるだろうが、酷暑の夏場はそれ以外の靴をみんなで容認するべきだと思う。

男性も女性と同じように暑さに応じた身なりをして、パラソルを持つのが普通になっていくべきだろう。









2025年8月2日土曜日

貧困化の中、デジタルかアナログか?

 家内は家にいてテレビを見ながら暇なときには、ポイ活のできるゲームやクイズをしている。

普段も、買い物に行くときはポイントが5倍つく日をチェックしてその日に高い物を買ったりする。

そのゲームやクイズ、買い物等で得たポイントを使って回転寿司の支払いを安くあげて自慢する。

例えば二人で2400円食べたとして、400円の端数をDポイントなどで支払うのだ。

家内にとっては家計を助けていると自負しているのだが、聞いてみると月に1万円以上は稼いでいるらしい。

今までの低金利時代では確かにありがたい話だった。

しかし、今はネット銀行を中心に金利も上がっている。

多くの金銭の蓄えのある人は、安全に不労所得を得られるようになってきた。

そんな中でポイ活は蓄えが無くて、リスクを回避したい人にとっては大切なサイドビジネスになったのかもしれない。


私はお金を働かせて儲けることも最低はしたいと思うが、それよりも時代を見据えて生きていると実感できる仕事をしたいと思っている。

年金での生活で金銭が不十分だからと言って、もうマニュアル化された仕事の稼ぎに出たいとは思わない。

私が労を惜しまずにやっているのは農作業だ。

賃金に換算すれば全く割り合わない。

キュウリ10本で500円にもならないだろうし、ズッキーニやトマトを加えても時給1000円には全く届かないと思う。

それでも今はジャガイモをご飯の代わりに食べているし、トマトジュースを買わなくて済んでいる。

大量に採れたキュウリは色んな漬物になって、食事には欠かせない。

この間までは、豆乳にする黒大豆も自分で作った物を使っていた。

これは単に節約という意味では無い。

自給自足にはほど遠いが、直近では日照りによる旱魃に立ち向かっている。

近年の猛暑は従来の経験が役に立たなくなっていて、その対策に工夫が必要となっている。

ポイ活は冷房の効いた部屋でゲーム感覚で楽しみながらできるので良いのだろう。

朝の5時から畑に出て汗まみれになって農作業をやるのに比べてどんなに楽なことか。

ただし、熱中症になるような無理な働き方はせず健康な汗であり、農作業以外にも1時間以上歩いたり1時間半の水泳をしたりしている。

そして、作物達が元気に育って、その労力や工夫に応えてくれる喜びはゲームやクイズでは得られないと思う。

近隣では酷暑で荒れてしまった畑も見かけるし、ラジオでも家庭菜園が駄目になった話が聞かれる。

そんな中で、元気に持ちこたえてくれている野菜立ちはなによりも私の誇りだ。


一方で、ポイ活は資産が無く、リスクも負えない立場の人が、デジタル出稼ぎをしているかのように思える。

楽しみながらやりがいを持ってすることができれば良いのだが、重要な収入源となっている人はそうとは言い切れない。

まさしく、中国のゴールド・ファーマーはポイ活の極地だろうが、貧困化する日本でも生計に欠かせない人も増えるかもしれない。

また、資産がある人でも株に手を出して老後資金を無くしてしまった人の話がネットで目につく。

私のつぎ込んだ労力で大きくなる作物の株はしっかり大きくなって、老後資金を失わせることはまず無い。


また、このところYoutubeでは、夏休みになり給食が無くなって、食事がまともに食べられないので寄付を募るCMが流れている。

原因は両親の離婚と言うことだが、どうも釈然としない。

私の世代の多くの子どもは両親がいても、いつも腹を空かせていた。

だから、野山に行って食べられる物を探して食べたり、海に行って魚介類を捕った。

例えば今では見向きもされないイタドリを腹一杯食べたりしたし、海辺で掘った貝をその場で割って食べたりもした。

また、いけないことだとは思うが、よその畑の物を採って食べたりもしたが、特にサトウキビはご馳走だった。

見つかって怒られたりもしたが、親や学校には訴えられなかった。

教師になってからも、山間部の生徒は子どもの時に村だけの新聞配達をしたり、カブトムシを捕まえて売ったりして金を儲けていたことを聞いたりした。

都会であったり時代が違うから、寄付に頼るというのも理由かもしれないが、そういう子どもでもちょっとした手伝いをさせて、食べる機会を与えてあげれば良い。

同情を買って寄付を求めるCMは、子どもの生きる力を失わせているのでは無いだろうか?

そういう子どもが、勉強しながらでも手伝いをして食事ができる機会を作ってあげる方がその子のためだと思う。

その手伝いを通して将来の生きる力を身につけられると思う。

私は食うに困っているから野菜を作っているのでは無い。

気象破綻でも生き残る力を得るために野菜を作っている。

苦しい立場でも自分の努力で生きていける機会を子どもに与えてあげた方が良いと思う。