私は大学に入った時は研究者を目指すつもりなどなかった。
どちらかというとミュージシャンになりたかった。
しかし、村落調査のサークルに入って、その魅力にとりつかれてしまった。
そして、いつしか大学院へ行って研究を続けたいと思った。
当然、語学や専門は大して勉強していなかったので、ゼミの先生からは都立大学大学院に入るのは(卒業後)二~三年はかかると言われた。
それは、都立大の先輩の中でそういう人がいて、私の大学がその先輩の大学のレベルより低かったのでそう思われたようだ。
当時の都立大学大学院の先輩は、都立大からの進学はあまりなく、他の国公立や有名私学の出身者が殆どで、中には東大を出た人もいた。
そう言われた私は、学部を留年か卒業かは分からないが、大学院での必要な資金を稼いでいるうちに合格できるかもしれないくらいに思っていた。
ところが、現役で合格してしまい、親からの支援も全くなく、非常に貧しい生活を余儀なくされた。
私の兄弟は4人男兄弟で、弟も大学に進学したので、親には私を支援する余力は全くなかった。
その時のことは、以前に「人生を左右する奨学金」というタイトルで、くわしく書いている。
そして、今回の退職でその大学院時代におくった生活に逆戻りすることになった。
三年前に早期退職した時には、家内との約束した研究するための半年の期限が切れて、それ以降は常勤の仕事を始めた。
NPOの農業に始まって、閑谷学校の指導員、プールのインストラクター、定時制高校の常勤臨時講師、常勤臨時教諭と続いた。
プールのインストラクターは、非常勤であったが、それほど長くは勤めていない。
この4月からは、自分の希望で非常勤講師をすることになった。
常勤を求められたが、常勤の勤めはどうしても拘束時間が長くて、思うように研究が進まなかったからだ。
何としても、今年度中に出版までこぎ着けたかったので非常勤講師をお願いした。
当然そうなると、収入が大きく減るので、家計的には厳しくなる。
今回も家内には苦労をかけることになる。
家内には貧乏学生だった頃の話をする。
当然、「時代が違う」と一蹴される。
確かに、車も携帯電話も持たなかった当時と比べれば、生活費はかなり違う。
ただ、当時の東京近郊の暮らしは、結構生活費も高くついていた。
東京中野の風呂・便所なしの6畳一間の1kアパートで23,000円
新宿区の西落合の風呂なし2DKで37,000円
横浜緑区の長津田の風呂・便所有りの2DKで48.000円かかった。
現在は家のローンは払い終わっているので、固定資産税が家賃のようなものだが、月額に直せば一万円ほどだ。
電気代や水道代は当時とそう変わらないと思う。
大学院生時代は、通学費、授業料や本代もかかったのだから、結構経費はかかっている。
その分、今より食費や衣料費などを削っていたように思う。
特に東京中野での暮らしは貧しかったのだが、家庭教師をし始めてからは、美味しいケーキにありつけていた。
学部生の頃も、院生のころも貧しい生活をしていたのに、惨めに思ったことは無い。
周りの仲間もみんな貧しかったからだ。
そして、若さ故に将来にもそんなに不安を感じてはいなかった。
それは支えてくれている人がいたことと、第一線の研究をするのだという意欲があったからだと思う。
それを同時に失った時に、とてつもない不安に襲われた。
今は、研究機関に属してはいないけれど、第一線の研究をしようという意欲がある。
何よりも、幾分の蓄えと自分を支えてくれている家内や家族がいる。
大学院生の時のような気持ちを持つ条件がそろっているのである。
確かに昔のように大きな夢を描くことはできないが、生きる意味を見いだせるし、果たせなかった研究課題をやり遂げる目標がある。
それが地位、名誉、収入には結びつかないかもしれない。
豪華客船や列車の旅や豪華な料理を食べることもできないだろう。
そのかわり、心豊かで充実した日々が送れるように思える。
ポツンと一軒家に多くの人が魅力を感じるのは、単に人里を離れているからでは無い。
世間に惑わされずに、不便ながらも自分なりの世界で自由な生活をしていることに憧れるからだと思う。
何も人里離れて一軒家に住まなくても、どこにでもその気になればそういう生活は可能だと思う。
ある意味で自分にとって大学院時代の一時期が、東京圏の中のポツンと一軒家だったのかも知れない。
これから常勤の仕事から、非常勤の仕事に変わるのは、ポツンと一軒家暮らしになるのと似ているように思える。
それに付き合う家内には気の毒にも思うが、いずれその良さにも気づいてくれるのではないかと願っている・・・
貧しくても夢を抱いて、ずっとときめき続けていたあの素晴らしい日々よもう一度・・・
播磨の西外れにある私の生まれ育った赤穂や、今暮らしている上郡に関すること、農作業,山野河海の恵み、趣味の水泳、音楽、専門である有機農業や、教育、文化人類学、民俗学に関することなどを、きままに記してみます。
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2020年3月31日火曜日
2020年3月25日水曜日
されど1年
東京オリンピックが1年延長されることが決まった。
そのニュースを聞いて私は「自分はもう一年我慢できなかった」と思わず家内の横で口走った。
1986年のちょうど今頃、修士論文が上手く仕上がらなくて、指導教官の教授から、もう一年頑張るように勧められていた。
自分は修士は三年目で、修論のためにアルバイトも辞めて、パラサイトの状態にあった。
その立場からも精神的に自分で自分を追い詰めて、十二指腸潰瘍を患い、入院するように医者から言われたのはその数ヶ月前だった。
こんな状況をもう一年続けることは、心身ともできないと、半ば自暴自棄になって、修論は通してもらうことにした。
修論は博士に行けるかどうかの試練で、多くの先輩は死ぬ思いで苦しんでいたのは知っていた。
知った人の中には情緒不安定になって治療を受けたり、ぎっくり腰になって救急車で運ばれた人もいた。
何より、良い論文が書けなくて、博士課程に進学するのを諦めた先輩の文献を、私は月賦で譲り受けていた。
私は村落調査を使って修論を書くという上での、心構えがきっちりできていなかった。
調査してすぐは、どうしても資料の整理も付かず、しかもどの資料も使いたくなる。
だから、しばらく時間をおいて、じっくり資料を整理し、分析しなければならない。
結局、手を広げすぎて、まとめきれなくなってしまったのである。
だから、先輩達が普通3年(本来は2年)で書き上げるところを、4年かかっても恥ずかしくは無かったのだ。
だけれど、ぎりぎりの状態で過ごした1年が延長されるという苦しみが耐えられないように思えた。
今から考えれば、既に下書きができていたので、もう少し手直しすれば良いだけだった。
アルバイトも再開して、暮らしも楽にできたはずだった。
おそらく、そういうアドバイスは博士課程の多くの先輩や、仲間から受けていたはずだ。
多くの先輩は、今までやってきたことが無駄になることを惜しんで、強く引き留めてくれた。
しかし、錯乱して自分を失った私の心には、どんなアドバイスも優しい言葉も届かなかった。
60年あまりも生きると、たかがもう1年くらい我慢できたはずだと思う。
当時25歳での1年は、25分の1、今は60分の1である。
1年の重みが今の2.4倍あると思える。
60歳の今の感覚では約2年半に匹敵する。
ただ、人生を左右する上での一年は、大切な一年として我慢して堪えることも必要であることをそのすぐ後に思い知る。
私は研究する機会どころか大切な人も傷つけ、同時に失うことになってしまった。
大学時代からの親友には、「(フェデリコ・フェリーニ監督の映画)「道」*の主人公(ザンパノ)と同じだ」と言われた。
大切な人のことをろくに考えもせず、その愛情の上にあぐらをかき続けていたのは自分であった。
そして、映画とは違い、自分ではなくその人が去って行き、その存在の大きさを思い知って慟哭する。
この悲劇は私の心に傷となって今も消し去ることはできない。
もう一年我慢できていたら、別の人生が開けていたかも知れないし、大切な人を失わなくて済んだのかも知れない。
ただ、この経験があったからこそ、その後の人生で同じような過ちをするまいと生きてこられた。
そして今のように、故郷で自分らしい生活もできている。
この道で暮らしていける研究者にはなれなかったが、細々と研究は続けられている。
そして何よりも、30年以上も連れ添える伴侶にも巡り会い、家族を築くことができた。
人生において、もう1年我慢することの意味は、人によって大きく違うだろう。
多くのアスリートは、前向きに考えられていると思うが、ぎりぎりで耐えている人もいるだろう。
我慢できても我慢できなくても、その1年をどう評価するかはその後の人生にかかっているようにも思える。
ただ、今更思う。
たかが1年・・・我慢できていたら・・・・・
されど1年 本当に悔しいけれど・・・
小いさ過ぎた自分の限界だった・・・
*道 (1954年の映画)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%93_(1954%E5%B9%B4%E3%81%AE%E6%98%A0%E7%94%BB)
そのニュースを聞いて私は「自分はもう一年我慢できなかった」と思わず家内の横で口走った。
1986年のちょうど今頃、修士論文が上手く仕上がらなくて、指導教官の教授から、もう一年頑張るように勧められていた。
自分は修士は三年目で、修論のためにアルバイトも辞めて、パラサイトの状態にあった。
その立場からも精神的に自分で自分を追い詰めて、十二指腸潰瘍を患い、入院するように医者から言われたのはその数ヶ月前だった。
こんな状況をもう一年続けることは、心身ともできないと、半ば自暴自棄になって、修論は通してもらうことにした。
修論は博士に行けるかどうかの試練で、多くの先輩は死ぬ思いで苦しんでいたのは知っていた。
知った人の中には情緒不安定になって治療を受けたり、ぎっくり腰になって救急車で運ばれた人もいた。
何より、良い論文が書けなくて、博士課程に進学するのを諦めた先輩の文献を、私は月賦で譲り受けていた。
私は村落調査を使って修論を書くという上での、心構えがきっちりできていなかった。
調査してすぐは、どうしても資料の整理も付かず、しかもどの資料も使いたくなる。
だから、しばらく時間をおいて、じっくり資料を整理し、分析しなければならない。
結局、手を広げすぎて、まとめきれなくなってしまったのである。
だから、先輩達が普通3年(本来は2年)で書き上げるところを、4年かかっても恥ずかしくは無かったのだ。
だけれど、ぎりぎりの状態で過ごした1年が延長されるという苦しみが耐えられないように思えた。
今から考えれば、既に下書きができていたので、もう少し手直しすれば良いだけだった。
アルバイトも再開して、暮らしも楽にできたはずだった。
おそらく、そういうアドバイスは博士課程の多くの先輩や、仲間から受けていたはずだ。
多くの先輩は、今までやってきたことが無駄になることを惜しんで、強く引き留めてくれた。
しかし、錯乱して自分を失った私の心には、どんなアドバイスも優しい言葉も届かなかった。
60年あまりも生きると、たかがもう1年くらい我慢できたはずだと思う。
当時25歳での1年は、25分の1、今は60分の1である。
1年の重みが今の2.4倍あると思える。
60歳の今の感覚では約2年半に匹敵する。
ただ、人生を左右する上での一年は、大切な一年として我慢して堪えることも必要であることをそのすぐ後に思い知る。
私は研究する機会どころか大切な人も傷つけ、同時に失うことになってしまった。
大学時代からの親友には、「(フェデリコ・フェリーニ監督の映画)「道」*の主人公(ザンパノ)と同じだ」と言われた。
大切な人のことをろくに考えもせず、その愛情の上にあぐらをかき続けていたのは自分であった。
そして、映画とは違い、自分ではなくその人が去って行き、その存在の大きさを思い知って慟哭する。
この悲劇は私の心に傷となって今も消し去ることはできない。
もう一年我慢できていたら、別の人生が開けていたかも知れないし、大切な人を失わなくて済んだのかも知れない。
ただ、この経験があったからこそ、その後の人生で同じような過ちをするまいと生きてこられた。
そして今のように、故郷で自分らしい生活もできている。
この道で暮らしていける研究者にはなれなかったが、細々と研究は続けられている。
そして何よりも、30年以上も連れ添える伴侶にも巡り会い、家族を築くことができた。
人生において、もう1年我慢することの意味は、人によって大きく違うだろう。
多くのアスリートは、前向きに考えられていると思うが、ぎりぎりで耐えている人もいるだろう。
我慢できても我慢できなくても、その1年をどう評価するかはその後の人生にかかっているようにも思える。
ただ、今更思う。
たかが1年・・・我慢できていたら・・・・・
されど1年 本当に悔しいけれど・・・
小いさ過ぎた自分の限界だった・・・
*道 (1954年の映画)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%93_(1954%E5%B9%B4%E3%81%AE%E6%98%A0%E7%94%BB)
2020年3月23日月曜日
壊れかけの家
この週末は父の13回忌で赤穂の親元の家を片付けて、法事を行った。
コロナウィリスの感染が無ければ、読経してもらった後は、近くのホテルでみんなで宿泊する予定だった。
しかし、この騒ぎでホテルに宿泊することは取りやめになった。
母が感染してはいけないというので、名古屋や東京近辺に住む弟たちは参加するのを迷った。
しかし、今施設に入所してリハビリをしている母が、感染を警戒して外泊どころか面会もできなくなった。
それで、却って参加するのをためらっていた弟やその家族も参加できることになった。
ただ、家で仕出しをとったり、買い出しをして、こじんまりとやることになった。
だから、その準備や片付けが却って大変になってしまった。
私の実家はもう既に築45年以上となり、特に居間の床などが壊れかけている。
色々と修理する必要が出ているのだが、母が一人で暮らすだけだし、その後に誰も住む予定が無い。
無理して全面的に修理する必要が無いと言うことで、何とか母が暮らせるだけにしてあった。
このところ、母も調子が悪くて、集まって食事などをする機会が無かった。
法事も、これまで殆ど食事は宿泊施設を使っていた。
だから、この家で飲食をするのは何年かぶりということだった。
以前は兄弟の家族が集まって、賑やかに盆や正月を過ごした。
今回は、その場にいた父も母もいない。
ただ、私には甥、両親には孫が結婚して、その嫁が加わってくれた。
残念ながら神奈川県の葉山に住む弟夫婦だけは参加できなかった。
寺の住職さんは、その息子さんを高校で教えた関係から親しくて、色々と話が弾んだ。
赤穂の情報は色々と住職さんから聞くことができた。
また、この法事は去年結婚した甥夫婦のお披露目のようにもなった。
甥はパイロットをしているので、その話を聞かせてもらった。
やはり、上郡の上空も飛んでいるというので、これから空を眺めるのが楽しみになった。
また、みんなには美味しい赤穂の坂越の牡蠣も食べてもらった。
これから家をどうするかなど、弟と話をした。
母が亡くなった後、リフォームしてまで、住もうという親族は誰もいない。
いずれ解体して処分せねばならないだろう。
ただ、家を掃除したり片付けたりしている時に、ふとこの家であったことを思い出した。
この家を舞台にして、色々な物語が繰り広げられた。
親兄弟だけではなく、隣の祖母家族との関わりも多かった。
私は友達を招いて泊まらせて、賑やかにやったこともある。
付き合っていた彼女や恋人との想い出もある。
そして、家内との思い出も残っている家である。
多くの想い出が刻まれた家は、その記憶を甦らせてくれる場所でもある。
できることなら残しておきたい。
しかし、これから先、年金暮らしをするのに、固定資産税など余分な経費をかけられない。
想い出だけのために家は維持できないのだと思う。
せめて、母が元気な内だけは、何とか守っていきたいと思ってはいるのだが・・・
コロナウィリスの感染が無ければ、読経してもらった後は、近くのホテルでみんなで宿泊する予定だった。
しかし、この騒ぎでホテルに宿泊することは取りやめになった。
母が感染してはいけないというので、名古屋や東京近辺に住む弟たちは参加するのを迷った。
しかし、今施設に入所してリハビリをしている母が、感染を警戒して外泊どころか面会もできなくなった。
それで、却って参加するのをためらっていた弟やその家族も参加できることになった。
ただ、家で仕出しをとったり、買い出しをして、こじんまりとやることになった。
だから、その準備や片付けが却って大変になってしまった。
私の実家はもう既に築45年以上となり、特に居間の床などが壊れかけている。
色々と修理する必要が出ているのだが、母が一人で暮らすだけだし、その後に誰も住む予定が無い。
無理して全面的に修理する必要が無いと言うことで、何とか母が暮らせるだけにしてあった。
このところ、母も調子が悪くて、集まって食事などをする機会が無かった。
法事も、これまで殆ど食事は宿泊施設を使っていた。
だから、この家で飲食をするのは何年かぶりということだった。
以前は兄弟の家族が集まって、賑やかに盆や正月を過ごした。
今回は、その場にいた父も母もいない。
ただ、私には甥、両親には孫が結婚して、その嫁が加わってくれた。
残念ながら神奈川県の葉山に住む弟夫婦だけは参加できなかった。
寺の住職さんは、その息子さんを高校で教えた関係から親しくて、色々と話が弾んだ。
赤穂の情報は色々と住職さんから聞くことができた。
また、この法事は去年結婚した甥夫婦のお披露目のようにもなった。
甥はパイロットをしているので、その話を聞かせてもらった。
やはり、上郡の上空も飛んでいるというので、これから空を眺めるのが楽しみになった。
また、みんなには美味しい赤穂の坂越の牡蠣も食べてもらった。
これから家をどうするかなど、弟と話をした。
母が亡くなった後、リフォームしてまで、住もうという親族は誰もいない。
いずれ解体して処分せねばならないだろう。
ただ、家を掃除したり片付けたりしている時に、ふとこの家であったことを思い出した。
この家を舞台にして、色々な物語が繰り広げられた。
親兄弟だけではなく、隣の祖母家族との関わりも多かった。
私は友達を招いて泊まらせて、賑やかにやったこともある。
付き合っていた彼女や恋人との想い出もある。
そして、家内との思い出も残っている家である。
多くの想い出が刻まれた家は、その記憶を甦らせてくれる場所でもある。
できることなら残しておきたい。
しかし、これから先、年金暮らしをするのに、固定資産税など余分な経費をかけられない。
想い出だけのために家は維持できないのだと思う。
せめて、母が元気な内だけは、何とか守っていきたいと思ってはいるのだが・・・
2020年3月10日火曜日
壊れかけのラジカセ
ふと収納箱の片隅にあったカセットテープが目に付いた。
中学生の頃から社会人になるまで、ずっとそばに有ったのはラジカセだった。
それがMDになり、CDになっていった。
そして、MP3で聴くようになってから、全くカセットとは縁が切れてしまった。
最近は、音楽は聞き飽きたMP3より、Youtubeで聴く方が多くなった。
いつしか、家にはCDもカセットも再生できるレコードプレイヤーは殆ど壊れて使えなくなってしまっていた。
どうしても、昔のカセットの音を保存したくて、カセットの音楽をMP3に変換するカセットプレーヤーをネットで買った。
USBメモリーに直接MP3で録音できるタイプを買った。
ところが、最初は上手くいったのに、途中で録音が止まったり、記録されたファイルが壊れていたりした。
何が原因か分からないので、とりあえずパソコンのマイク入力で録音することにした。
これには、マイク設定や必要なアプリのインストールしたりして面倒だった。
しかし、そうしてもマイク入力にすると、エコーがかかってしまい不自然になる。
ひょっとしら、USBメモリーに問題があるのかと、新しい超高速メモリータイプというのを買ってきた。
そうすると上手く録音できるようになった。
要するに書き込みが間に合っていなかったようだ。
持っていた多くのカセットテープも最初はどこにしまったか分からなくなっていた。
VHSは大切に座敷の押し入れにしまっていたのだが、押し入れにも無い。
ひょっとしたらと思い、庭の倉庫の棚を調べてみると、二箱の段ボールにいっぱい無造作に入っていた。
それをクリアーボックスに移していたが、タイトルを見るたびに昔の記憶が甦った。
今でもCDで手に入れることはできるけど、それには当時と同じだけの時間が必要になる。
金銭面ではレンタルで借りてやすくできるけれど、当時ほど時間をかけることはできない。
カセットテープの音楽を聴いてみると、殆ど劣化していなくてそこそこいい音がしている。
確かに雑音や機械音がするけれど、心なしかCDやYoutubeより親しみある音に感じる。
MP3で保存しておいて、カセットで聴き続けても良いと思った。
それにしても、残された多くのカセットを手に取ってみると、今より幅広いジャンルの音楽を聴いていたことが分かる。
特に、最近では殆ど聴かなくなったJazzもある。
大学時代にはよく友達や彼女とジャズ喫茶に行って聴いていたのを思いだした。
バンド活動をやめてからも、ずっと音楽はそばにあった
中でもラジカセは人生においても、本当の幸せを教え続けてくれていたのかも知れない。
中学生の頃から社会人になるまで、ずっとそばに有ったのはラジカセだった。
それがMDになり、CDになっていった。
そして、MP3で聴くようになってから、全くカセットとは縁が切れてしまった。
最近は、音楽は聞き飽きたMP3より、Youtubeで聴く方が多くなった。
いつしか、家にはCDもカセットも再生できるレコードプレイヤーは殆ど壊れて使えなくなってしまっていた。
どうしても、昔のカセットの音を保存したくて、カセットの音楽をMP3に変換するカセットプレーヤーをネットで買った。
USBメモリーに直接MP3で録音できるタイプを買った。
ところが、最初は上手くいったのに、途中で録音が止まったり、記録されたファイルが壊れていたりした。
何が原因か分からないので、とりあえずパソコンのマイク入力で録音することにした。
これには、マイク設定や必要なアプリのインストールしたりして面倒だった。
しかし、そうしてもマイク入力にすると、エコーがかかってしまい不自然になる。
ひょっとしら、USBメモリーに問題があるのかと、新しい超高速メモリータイプというのを買ってきた。
そうすると上手く録音できるようになった。
要するに書き込みが間に合っていなかったようだ。
持っていた多くのカセットテープも最初はどこにしまったか分からなくなっていた。
VHSは大切に座敷の押し入れにしまっていたのだが、押し入れにも無い。
ひょっとしたらと思い、庭の倉庫の棚を調べてみると、二箱の段ボールにいっぱい無造作に入っていた。
それをクリアーボックスに移していたが、タイトルを見るたびに昔の記憶が甦った。
今でもCDで手に入れることはできるけど、それには当時と同じだけの時間が必要になる。
金銭面ではレンタルで借りてやすくできるけれど、当時ほど時間をかけることはできない。
カセットテープの音楽を聴いてみると、殆ど劣化していなくてそこそこいい音がしている。
確かに雑音や機械音がするけれど、心なしかCDやYoutubeより親しみある音に感じる。
MP3で保存しておいて、カセットで聴き続けても良いと思った。
それにしても、残された多くのカセットを手に取ってみると、今より幅広いジャンルの音楽を聴いていたことが分かる。
特に、最近では殆ど聴かなくなったJazzもある。
大学時代にはよく友達や彼女とジャズ喫茶に行って聴いていたのを思いだした。
バンド活動をやめてからも、ずっと音楽はそばにあった
中でもラジカセは人生においても、本当の幸せを教え続けてくれていたのかも知れない。
2020年3月6日金曜日
関わりを断ち切る感染の威力
今回のコロナウィルス蔓延騒動で、身近でも様々な影響が出た。
まず、職場が学校なので、休校となり色々と行事が取りやめになった。
卒業式は済んでいたのが、不幸中の幸いだった。
家内は学童の仕事をしているので、逆に勤務時間が早く、長くなってしまった。
私は何とか年休を用いて、その生活時間に折り合いをつけている。
私ごととして一番の影響は、3月21日行う、父の13回忌の法事である。
東京圏にいる弟たちが、来られないと言い始め、名古屋の弟は来られるとしても日帰りで来るということになった。
母が生きている間に、みんなが集まれる最後の機会になるかも知れないと言うことで、皆泊まりがけで行う予定だった。
法事はこぢんまり行い、騒ぎが収まったら、改めて集まろうということになっている。
ただ、法事という名目があってこそ、職場などに説明がつくが、そうでないと難しいだろうと思う。
そして、長い間会っていない、南山大学時代の仲間に会う予定だった、坂井信三先生の退職記念講演会も中止になった。
先生に会える機会も、これでおしまいになるかも知れない。
仲間に会うことを楽しみにしていた機会も失ってしまった。
坂井先生とはひょっとしたら学会で会えるかも知れないが、その学会も今年はどうなることやら。
そこで、今考えているのは、何とか今の研究作品を本にして、出版記念会を開き恩師や仲間に買ってもらい、それを元に飲もうということだ。
これなら、名古屋と東京でできるかもしれない。
災いを転じて、福にする一つの発想だと思う。
これでまた一つ出版へのモチベーションが上がった。
まず、職場が学校なので、休校となり色々と行事が取りやめになった。
卒業式は済んでいたのが、不幸中の幸いだった。
家内は学童の仕事をしているので、逆に勤務時間が早く、長くなってしまった。
私は何とか年休を用いて、その生活時間に折り合いをつけている。
私ごととして一番の影響は、3月21日行う、父の13回忌の法事である。
東京圏にいる弟たちが、来られないと言い始め、名古屋の弟は来られるとしても日帰りで来るということになった。
母が生きている間に、みんなが集まれる最後の機会になるかも知れないと言うことで、皆泊まりがけで行う予定だった。
法事はこぢんまり行い、騒ぎが収まったら、改めて集まろうということになっている。
ただ、法事という名目があってこそ、職場などに説明がつくが、そうでないと難しいだろうと思う。
そして、長い間会っていない、南山大学時代の仲間に会う予定だった、坂井信三先生の退職記念講演会も中止になった。
先生に会える機会も、これでおしまいになるかも知れない。
仲間に会うことを楽しみにしていた機会も失ってしまった。
坂井先生とはひょっとしたら学会で会えるかも知れないが、その学会も今年はどうなることやら。
そこで、今考えているのは、何とか今の研究作品を本にして、出版記念会を開き恩師や仲間に買ってもらい、それを元に飲もうということだ。
これなら、名古屋と東京でできるかもしれない。
災いを転じて、福にする一つの発想だと思う。
これでまた一つ出版へのモチベーションが上がった。
2020年3月3日火曜日
御津綾部山の梅2020年
先週(2/24」)は、鳥取までカニを食べに行ったが、回転寿司ではあまりの多さにためらって、結局、マリンピア賀露でカニ丼を食べて終わった。
むしろ、その後に寄ってみた、道の駅「きなんせ岩美」の方で安いカニを買ってきて家で食べた方が美味しかった。
賀露の方ではカニが立派な分値段も高い、岩美の方は小ぶりだが半値ほどで手頃であった。
その後、海岸沿いに豊岡経由で戻ったが、中学生の頃に臨海学校で行った諸寄に立ち寄り懐かしかった。
昨日(3/2)は、先週姫路マラソンの影響で休業していた書写の旬彩蔵に行った。
このあたりで一番大きいと聞いていたので、一度行こうと思っていた。
店内の広さは福崎ほどでは無かったが、品揃えが良かった。
そこから、太子の電気屋に寄ってから、綾部山に向かった。
途中、道路標識通りに行くと、室津の方にまで行ってしまい、引き返すことになった。
どうやら、道路標識は昔のままにしてあるらしい。
いつもと違うルートで来たので間違ってしまった。
綾部山はほぼ毎年来ているのだが、日曜日に来るのは初めてのように思う。
人出が多いというので、休日はなるべく避けていた。
時間をわざと15:30という、遅い時間にしたので駐車場にも楽に入れた。
一緒に来た家内が話していたが、子どもが小学生の頃は、この日はちょうど開校記念日で休みだった。
子どもを連れて千種スキー場に行って、スノーボートで遊んだりした。
梅を見に来たこともあるが、非常に寒かったのを覚えている。
今年は暖冬で、薄着をしてのぞんだ。
案の定、梅の花は盛りを過ぎて、全体的に色も薄くなっている。
それでも例年来る時は、まだ梅の花がそれほど咲いていない早い時期が多いので、山全体が色づいているのを久しぶりに眺めた。
また、眼下の田んぼには黄色い菜の花が色を添えてくれていた。
実は、昨日の朝には山頂集落の小野豆の上の平家塚まで登って、海を眺めていた。
このところ、毎週日曜日はクロと家から歩いて登ることにしていた。
その平家塚から眺めた海が、今は眼下に広がっていた。
綾部山の魅力は、家島群島の見える海の景色だ。
それを眺めながら、ベンチに座って家内と甘酒を頂いた。
その後、展望台まで登り、雄大な景色も堪能した。
薄着をしていても、汗が出てくる気候だったが、気持ちの良い花見になった。
むしろ、その後に寄ってみた、道の駅「きなんせ岩美」の方で安いカニを買ってきて家で食べた方が美味しかった。
賀露の方ではカニが立派な分値段も高い、岩美の方は小ぶりだが半値ほどで手頃であった。
その後、海岸沿いに豊岡経由で戻ったが、中学生の頃に臨海学校で行った諸寄に立ち寄り懐かしかった。
昨日(3/2)は、先週姫路マラソンの影響で休業していた書写の旬彩蔵に行った。
このあたりで一番大きいと聞いていたので、一度行こうと思っていた。
店内の広さは福崎ほどでは無かったが、品揃えが良かった。
そこから、太子の電気屋に寄ってから、綾部山に向かった。
途中、道路標識通りに行くと、室津の方にまで行ってしまい、引き返すことになった。
どうやら、道路標識は昔のままにしてあるらしい。
いつもと違うルートで来たので間違ってしまった。
綾部山はほぼ毎年来ているのだが、日曜日に来るのは初めてのように思う。
人出が多いというので、休日はなるべく避けていた。
時間をわざと15:30という、遅い時間にしたので駐車場にも楽に入れた。
一緒に来た家内が話していたが、子どもが小学生の頃は、この日はちょうど開校記念日で休みだった。
子どもを連れて千種スキー場に行って、スノーボートで遊んだりした。
梅を見に来たこともあるが、非常に寒かったのを覚えている。
今年は暖冬で、薄着をしてのぞんだ。
案の定、梅の花は盛りを過ぎて、全体的に色も薄くなっている。
それでも例年来る時は、まだ梅の花がそれほど咲いていない早い時期が多いので、山全体が色づいているのを久しぶりに眺めた。
また、眼下の田んぼには黄色い菜の花が色を添えてくれていた。
実は、昨日の朝には山頂集落の小野豆の上の平家塚まで登って、海を眺めていた。
このところ、毎週日曜日はクロと家から歩いて登ることにしていた。
その平家塚から眺めた海が、今は眼下に広がっていた。
綾部山の魅力は、家島群島の見える海の景色だ。
それを眺めながら、ベンチに座って家内と甘酒を頂いた。
その後、展望台まで登り、雄大な景色も堪能した。
薄着をしていても、汗が出てくる気候だったが、気持ちの良い花見になった。
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