播磨の西外れにある私の生まれ育った赤穂や、今暮らしている上郡に関すること、農作業,山野河海の恵み、趣味の水泳、音楽、専門である有機農業や、教育、文化人類学、民俗学に関することなどを、きままに記してみます。
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2025年1月28日火曜日
関東炊きと姫路おでん
2025年1月25日土曜日
「白いページの中に」が生まれた高校
私の大好きな「白いページの中に」を手に入れようとしたが、柴田まゆみが歌っているものは音楽配信サイトではシングルとして売っていない。
他の多くのシンガーがカバーしているのだが、柴田まゆみの方がずっと良いように感じる。
岩崎宏美もカバーしているが、若い頃の録音なのか高音の声が曲の雰囲気と合わないように思える。
柴田まゆみが若い頃の鼻にかかった、ソフトな声が魅力に感じていた。
アルバムとしては、購入できるようなのでこんど手に入れようと思っている。
柴田まゆみが龍野出身であることは、以前にネットで調べてはいた。
改めてWikipediaで調べるとなんと龍野実業高校のフォークソング部にいたと書いてあって驚いた。
実はこの学校に勤務していた頃はそのクラブの顧問もしていたのだ。
彼女は私と同い年だが学年は一つ上で、私が顧問していた頃は音楽活動を再開していた。
ところが、私は全く当時はクラブのOGとは知らなかったし、話題にもならなかったように思う。
この曲は龍野実業高校の卒業記念で創ったのが元になっているというので、高校とも縁が深い。
ただ、歌詞の「長い長い坂道を今登ってゆく 好きだった海のささやきが 今はこころにしみる」から、海の無い龍野ではなく勝手に神戸の街をイメージしていた。
高校のそばを流れる揖保川を海に置き換えて歌ったのかもしれないが、好きだった人を「海」に喩えたというのが自然だろう。
曲は海をイメージがしてしまうので、以前は龍野にはマッチしなかったが、今は「たつの市」として海もあるのだから、「たつの市」のイメージソングにもなる。
ぜひ、たつの市民の人もこの曲に触れて、自分たちの歌にして欲しいと思う。
私は龍野実業高校の勤務では土木科の担任もして、生徒指導上の問題で駆けずり回った想い出が強い。
私は工業系の生徒の授業ばかり担当して、商業系の授業が無かったので、デザイン科は別として授業で女子生徒との関わりは少なかった。
だけど一方で、生徒会の担当もして、文化祭での生徒会での和太鼓演奏や、生徒の体育館での歌や踊りには感動した記憶がしっかり残っている。
また、仲の良い職員とも関わりが深く、忘年会に際しては職員バンドを結成して、練習に励んで演奏した楽しい想い出もある。
ただ、その職員バンドの中心的な建築科のM先生は、他校に移動後に病のために現役で亡くなってしまった。
本当なら柴田まゆみことを知っていそうなM先生に問い合わせることが出来ないのが残念だ。
学校は龍野北高校となって、新宮高校と併合されてずいぶん遠くに行ってしまった。
鶏籠山の麓の旧校舎はそのまま残されて、映画のロケにも使われたりした。
龍野と言えば、三木露風や三木清というような歴史的人物が有名なのだが、今でも多くのシンガーに歌い継がれているこの歌と作者を知っておくことも大切だと思う。
因みに龍野実業高校の校歌の作詞は三木露風だったが、校歌に校名は入っていなかった。
いつの間にか私は 愛の行方さえも
見失っていた事に 気付きもしないで
振り向けば やすらぎがあって 見守る瞳があった事を
サヨナラの時の中で やっと気付くなんて
この歌詞も、龍野実業高校を卒業する時に創ったということを知れば、すごく身近に感じられる。
私のこれまで抱き続けてきたこの学校のイメージは、どちらかといういと荒んだものだった。
しかし、こういう素晴らしい曲が生まれた学校と知ったことで、そのイメージはかなり違ったものとなった。
校舎が取り壊される前に、知ることが出来て良かったと思う。
2025年1月22日水曜日
黒大豆は豆乳に
やっと先日(1/19)刈って乾燥させていた黒大豆を脱穀した。
年末に脱穀して正月に使いたかったのだが、体調が思わしくなくて放っておいた。
以前使っていたタープテントの屋根に透明のビニールシートをかけて雨露をしのいでいた。
ピーナッツはそうして乾燥させていたらカビが生えたので、後で洗うのに苦労したが、黒大豆は大丈夫だった。
タープは壁がないので、動物除けにネットを張り巡らしていたので、そちらの被害も無かった。
脱穀は足踏み脱穀機を使っているのだが、サヤごとちぎれてしまう物もあるので、指でむくことが手間になった。
そのことで、軍手を脱いで素手で行うことになり、霜焼けになってしまった。
私は大豆の篩い分けは、まず底が全面に穴の開いたコンテナで豆を手箕に落として、その後目の少し細かい篩でゴミを落としていった。
3時間ほどかけて、大豆が小さな収穫かごに6割(約5リットル)ほどになった。
以前にも書いたように、近所では大豆が殆ど取れなかったところもある。
転作で作っている農家も失敗しているのをみていた。
なんとか、無事収穫できたのは、猛暑の折に水をがんばってやったことだと思う。
もう一つ収穫が増えたのは、枝豆としてあまり食べなかったことだ。
その枝豆時季に十二指腸潰瘍になって、食べられなくなってしまった。
例年は食べ過ぎて便秘になるほどである。
問題はこれからこの黒大豆を、どう消費するかである。
以前は豆乳を作ったり、最近でも納豆を作ったりしていた。
納豆は手間がかかる割に失敗も多くて、最近はやめている。
おなかの調子が悪いので、ご飯に混ぜることはしばらく無理だ。
そこでやはり豆乳を考えた。
以前リサイクルショップで買った豆乳メーカーは、おからを濾すネットが付属していて、洗うのが非常に手間だった。
それが家内には不評で、自分でやるのも億劫だった。
そこで、今回はおからごと食べられる豆乳メーカーのソイリッチをさっそく注文した。
配送されたそれを使って、黒大豆を水でふやかすことなくそのまま豆乳を作ってみた。
粒が残っているのではないかと心配したが、黒大豆特有の灰色をした舌触りの良いのができた。
洗うのも簡単で、これから手間無く豆乳が作れそうである。
これからの食糧難時代は大豆は重要な食物となりそうである。
2025年1月19日日曜日
寒中プール
先日(1/7)今年初めてプールに入るなり、「冷た~!」と思わず叫んでしまった。
年末までは暖房機の故障などでプールの室内温度は低かったが、温水プール内は温かった。
ところが、水温まで低くなっていて、じっとしていたら風邪をひきそうだったので、泳ぎ続けねばならなかった。
私は水泳部の顧問をしている時に、水温16℃の状態で泳いだことがある。
それは生徒に練習させるために自ら中に入ったのだが、その時は泳げども泳げども体温は上がらず、冷たい水が耳に入りめまいがした。
だけど、季節は初夏だったので、水から上がると身体を温めることができた。
今回は、それほど低い水温ではないが、濡れた身体を水の外に出すと寒くて仕方なかった。
今週ぐらいから、水温も少し上がって、温水の中でじっとしていられるようになってきた。
私が感心するのは、かなり年配の水中歩行をしている人や、泳ぐより話している時間が長い人だ。
温水から身体が出ているので、寒いのではないかと気になるが全く平気そうである。
少し若い私の方が、寒さに弱いのだろうと思う。
というのも、身体を冷やすと持病の腰痛や痔が痛くなるので、冷やさないように気をつけている。
冬山登山にも使えるという防寒インナーの「ひだまり」を愛用しているのである。
以前は、腰に使い捨てカイロを貼っていたが、こたつの中で熱くなるし、「ひだまり」は高価だが長く使えば結局コストはそう変わらない。
難点は、やはり少し身体を動かすと汗をかくことで、プレミア商品ではないのでべたついてしまうことだ。
とにかく、農閑期の冬場は大切な健康維持のために、水泳が私にとって欠かせない。
最低週に2回は行くことに決めている。
泳ぐこと以外でも、毎日泳ぎに来ているマスターズ水泳以来の仲間に会って話をしたりする。
また、顔なじみの監視員の人とは、プールで流している曲の話をする。
その人も私も好きな徳永英明の曲を流してくれるので、泳いでても気持ちが良い。
残念なのは、もう少し泳ぐ人が増えてくれたらと思うのだが、この寒空でプールに来ようと思わないのは当たり前だろうとも思う。
実は上郡町は県下でも屈指の低温を出すところである。
そのお陰で私は1コースを一人で使って泳いで、背泳ぎやバタフライも気兼ねなく練習できているが、まるっきり一人の時は淋しい。
監視員の人も利用者が一人だと、時間が長く感じられるそうだ。
水泳仲間は若い女性に泳ぎ方を伝授して仲間を増やしてくれたが、ボランティアで水泳指導をしてあげるのもいい手かもしれない。
ただ、水泳コーチの経験がある自分としては、教室に入ってしっかりと基礎を固めて欲しいとも思う。
その方が、歳をとっても楽に泳げるからだ。
2025年1月16日木曜日
お地蔵さんに祈った生徒
今年は神戸・淡路の震災から30年になる。
とすると、この年に高校に入学した生徒は45歳になるのだなと感慨深い。
と言うも、当時の私は肢体不自由の支援学校に勤務しており、神戸で被災した生徒が4月に入学してきた。
私が担任したT君はその一人で、地震に遭った時のことを時折話してくれた。
テレビが部屋を吹っ飛んでいったことや、お父さんの足はガラスで切って血だらけだったと話してくれたりした。
当時、この学校は全寮制だったので、兵庫県内だけでなく、住所を移したりして大阪府や徳島県からも入学していた。
特に、神戸近辺の生徒は多かった。
だから、震災のあった年は多くの被災者の生徒が来ることが予測され、T君はその一人だった。
T君は幼い頃に交通事故に遭って、その後遺症が残ってしまった。
入学当初から情緒が不安定で、友人や先生、寮母さんとのトラブルも多かった。
私は1年次から3年次まで担任をしたのだが、得てして担任はトラブルの矢面に立たされる。
担任をしていない部長クラスの教師から、担任としての指導を責められることも多かった。
そんな中で、大きな理解を示してくれていたのが、学年主任のH先生だった。
私はしょっちゅうその先生がいる、理科準備室に行って愚痴を聞いて貰ったり、相談したりしていた。
また、そこには実習助手でカウンセリングにも長けていた女性の先生もいて、コーヒーを飲まして貰いながら、相談に乗って貰っていた。
T君はちょっとしたきっかけで、パニックになったので、その時は私が対応したのだが、時間はかかるけれど、落ち着きを取り戻すには校外での散歩が一番だった。
今は、校外に出る時には、事前に管理職に言っておく必要があるかもしれないが、当時は他の教師に言付けて臨機応変に校外に出られた。
支援学校は田園の中にあったので、車があまり通らない昔ながらの道を、二人で歩いて遠くの公園まで行ったりした。
一緒に歩きながら、とりとめない話をしたり、歌を歌ったりしている内に、気持ちは落ち着いていった。
ある時、T君が道ばたでしゃがみ込んでいる。
何かと思うと、道ばたにあるお地蔵さんに手を合わせて、長い間拝んでいる。
私は、自然と涙がこぼれ落ちいていた。
もう高校生とは言え、両親の助けの必要なT君は、心のよりどころを求めていたのだと思った。
調子が悪くて学校に来られないお母さんに代わって来てくれるお父さんとよく話した。
もとボクサーだったお父さんは小柄ながら頑強な体格をしておられたが、T君のことになると涙を交えての話になった。
ある時などは「交通事故でこうなったのも 自分がボクサー時代に人を殴っていたからかもしれん」と、自分を責めるようなことも言われた。
震災の時には足を血まみれにしながら、家族のために駆けずり回ったお父さんのその時の気持ちが痛いほど分かった。
2025年1月12日日曜日
心の船旅(Sailing)
ロッドスチュアートのSailingは、大好きな曲で歌詞も難しくなかったので、高校時代に憶えてよく歌っていた。
幼い頃に船生活していた以外は、たまに旅行で金比羅さんや小豆島に行く時に船に乗る程度だった。
この歌を船旅に結びつけて歌ったのは、弟やいとこ、友達とこっそり小豆島にキャンプに行った時だった。
私は大学受験生であるにも関わらず、親には内緒でめったにない自由を味わえた。
”I am sailing, stormy waters,to be near you, to be free.”とキャンプで星空をみんなと眺めながら歌った。
大学に入って奄美に村落調査をし始めて、船旅が身近になった。
初めて1980年の年末に下見で神戸から大島運輸で名瀬に向かった時は、船が小さかった上に大しけでまともに船室で立って歩けなかった。
その日は飛行機も飛べないほど荒れた天気で、年末の臨時便に乗りこんだのだった。
2等船室の乗客は横になって動かず、中には船酔いでもどす人もいて、船内は悪臭に満ちており、甘くない船旅の洗礼を受けた。
もっと、凄かったのは、古仁屋から与路島に渡るさいに乗った「せとなみ」で、うねりの底に入ると下の船室の窓から空が消えた。
海が荒れる季節の船旅は大変だったが、帰りの関西汽船は大型で、夜は展望娯楽室で仲間とジュークボックスの音楽を楽しんだ。
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加計呂麻島での下見(1980) |
それから、春と夏は神戸の中突堤から名瀬まで28時間の船旅が繰り返された。
2等船室は知らない人との酒盛りとなり、売店で買った黒糖焼酎を飲みながら仲良くなった。
ある時などはデッキの椅子で酒盛りをしながら一緒に歌って、里帰りの奥さんから奄美ゆかりの歌を聴かせて貰ったりした。
夏は学生の観光客が多くて、バカンス的な雰囲気だったが、夜にデッキから空を眺めると、星が雪のように降ってきそうだった。
また、夜明けに水平線から昇ってくる朝日が美しく、ちょうど大隅半島あたりの海岸風景も素晴らしかった。
屋久島やトカラ列島の島々を眺めるのも楽しかった。
仲間との長い船旅を退屈に思うことなど無かった。
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調査仲間と(1981) |
今は、格安航空の影響でか、奄美・沖縄を結ぶ航路は鹿児島から以外は無くなってしまった。
2008年に奄美に行った時は、行きは鹿児島からフェリーに乗ったが、帰りは飛行機で笠利から伊丹に戻った。
飛行機は便利なのだが、奄美にいた余韻が直ぐ消し去られてしまって、味気なく感じた。
因みに、名古屋からで鉄道で神戸、神戸から船で名瀬、名瀬からバスで古仁屋、古仁屋から船で与路の行程に費やす時間は、良くて3日、悪くて4日必要だった。
ただ、船の2等船室の運賃が1万円ほどで安く、食事もカップ麺などで安く済ましていた。
貧乏学生にはありがたい船旅だったのだが、今は格安航空の方が安上がりになっている。
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請島・与路島に渡る船「せとなみ」(1981) |
私は修学旅行の引率では、団体列車の旅が長く感じたが、グァムも、北京、北海道などの飛行機の旅はあっというまだった。
仕事での旅ゆえに旅情など無く、奄美に村落調査で行った時の船旅とは雲泥の差だった。
私が未だに奄美与路島に心を寄せ続けるのは、この素晴らしい船旅があったからだと思っている。
海外に飛行機で行くよりも時間がかかった与路島は、交通不便な島だったからこそ魅力が残された島だった。
速さと結果を求める現代にあって、のんびりと過程を味わえる価値を見直す必要があるように思う。
高額をはたいて乗らねばならないクルージングとは違った船旅が、神戸に復活してくれたらと思うのだが・・・・・・
今はただ、”Sailing”を歌いながら、記憶の船旅を楽しむしかないようだ。
2025年1月8日水曜日
想い出のフォトグラフ
リンゴスターの「想い出のフォトグラフ」は、明るくさりげなくリンゴが歌うので切ない歌詞であることに気づかない。
発売当時、中学生だった私は、英語のLL授業で流されて聴いていたが、歌詞の内容まで深く考えなかった。
残されたたった1枚の写真に、去って行った彼女への断ち切れない思いを歌ったものだった。
リンゴの歌の中では一番好きな曲だが、今の自分には学生時代の断ち切れない想い出と重なってくる。
かつての私は学生時代の写真を、研究で使う資料以外は殆ど顧みなかった。
子どもが出来るとそちらの写真やビデオに力が入っていたし、教師としての仕事上、生徒たちと次々の想い出が作られていたので、振り返る余裕など無かった。
実は、私は南山大学の卒業写真は、写真を撮って貰ったけど買わなかった。
といのも、金が無かったし進学を決めていたので、最後の学生時代という意識が無かったからかもしれない。
だから、ユーミンの「卒業写真」と違って、自分がどんな顔で写っているのかも知らなかった。
その後、学生時代を思い出す時はわずかに残っている同じゼミ生や研究サークル仲間との写真や、仲の良かった友人との卒業式の写真だけが手がかりだった。
私は、関わりの深かった多くの友人や仲間、彼女を記憶以外に思い出す術が無く、しかも、年々記憶も薄れてきている。
そこで、思い切って友人にラインで見せて欲しいと頼んだ。
私の関係箇所だけ添付されたライン上の写真で、久しぶりに人類学科と文化人類学研究会の仲間と40年ぶりの再会を果たすことができた。
ただ、研究サークルの全身が写っているTシャツ姿の自分の写真を見て、この時から腹が出ているのが情けなかった。
今までは懐かしく見る写真やビデオは我が子の幼かった頃のが中心で、デジタル化して何度も見飽きるくらい見てきた。
学生時代の写真を見ようと思ったのは、57歳で早期退職した後の還暦を迎えた年だった。
臨時で色々と仕事はしていたが、人との関わりが薄れていって、その穴を埋めるように過去の写真などを繙いていった。
そして、それらを見ながら自分の研究と次の出版への強いモチベーションにしようと思った。
手元に残されていた物だけでは限界があって、実家に残してきた写真も探したが、タンスの奥を探したりしても殆ど見つからなかった。
それでも、15年ほど前に名古屋・東京・横浜で撮ってきた学生時代のなじみの景色と併せて、工夫を凝らしたスライドショーは当時に戻った気持ちにさせた。
先日、弟に手伝って貰って実家を片付けていた。
その時に、多くの写真とネガフィルムを弟が屋根裏物置から見つけてくれた。
私はまさか夏場は高温になる屋根裏物置に置いてあるなど思いも寄らなかった。
中を見てみると、学生時代の仲間との写真だけでなく、調査記録写真も混じっていた。
調査記録写真はどうもわざと実家に置いてきたのではなく、結婚して引っ越しする際に忘れてきただけで、私は紛失したと思い込んでいた。
私は見つけてくれた弟に感謝するとともに、両親が屋根裏物置に保存しておいてくれたことが、子どもの新しい生活への配慮をありがたく思った。
最近の文化人類学では、「情動(affectus)」という言葉をよく使うようになった。
人々の生き生きとした様子を描くのが重要で、その手段の一つとして映像などもあげられている。
映像ほどではないが、画像も多くの情景を伝えてくれる。
当時の学生による村落調査では聞き取りが中心で、村の人々の暮らしぶりをあまり写真に撮らなかった。
今と違い、フィルム代や現像・プリント代が負担になったことが理由でもある。
その換わり一緒に行った仲間の学生を写真に残していて、その中にはかつての恋人の姿も残っている。
将来も分からず夢を追い求めていた頃の、自分や仲間の姿は今の私にひたむきに生きる力を思い出させてくれる。
昔の写真をたんなる懐かしさだけに留めるのではなくて、心まで老いぼれかかっている自分への気付け薬としている。
ただ、リンゴスターの歌のような未練が無いと言ってしまったら、情動としての価値を失うだろう。
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調査仲間(愛知県豊根村1980) |
2025年1月6日月曜日
庭のある家
ネットで「寒くなるにつれ外国人がうらやむ日本独自の「アレ」とは―香港メディア」という記事の中で、1位にこたつ、2位にコンビニ、3位に庭、4位多機能トイレが上がっていた。
とすると、我が家は4位までを満たしている。
食事はいつもこたつでして、コンビニも歩いて行ける距離にあり、庭も広く、多機能トイレも愛用している。
過疎の田舎暮らしで、どちらかというと魅力が無いと思っていたが、過密な都市に住む香港の人には魅力があることを知った。
今日も姫路のモールに買い物に出かけたが、その近くの新しい家には殆ど庭が無い。
家内の「庭が無いから、草を抜かなくて良い」という言葉には同意したが、自分はこういう家にはあまり住みたいとは思わなかった。
庭は確かに世話をするのは重労働伴うことが多い。
業者にやって貰うと、かなり高額になってしまう。
しかし、夏場の暑さは庭木によってずいぶん和らいでいるし、冬場は風よけにもなっている。
当たり前になってしまったから、そこから得られる安らぎはかけがえのないものだと思う。
これは自分の赤穂の実家ではすごく感じていた。
一番思い出すのは、大学院の受験勉強を夏休みに実家でしていたのだが、庭の見える座敷の座卓でやっていた。
というのも、かつての自分が使っていた部屋は弟に明け渡してしまっていたからだ。
実家の庭は池もあって、当時は周りに家も建っていなかった。
風通しが良いので、冷房も必要なくて落ち着いて、初めてのフランス語の論文を読む勉強をしたのを憶えている。
かつては父はこの庭の手入れで苦労していたが、今は自分が苦労している。
しかし、実は一番残したいのは、家屋ではなくて庭だ。
というのも、受験の時の想い出ともに、庭を造る時に庭材を商っていた祖父と一緒に、庭師の人を手伝ったからだ。
また、庭に面した縁側は雰囲気があったので、高校時代にギターを弾きながら歌を歌ったりしていた想い出もある。
何よりも、祖父が父に形見として、庭を残そうとしたことが分かっているからだ。
今の上郡の庭は、単に生け垣があったり、クリスマスに買った樅の木とゴールドクレストの大木になって生えているくらいだ。
そして、生け垣兼用の梅とゆずは、あまり実はならないのに手間はすごくかかっている。
実家の庭は美術作品だが、我が家の庭は実用品である。
たぶん、町家と農家の違いなのだろうが、近所の地元の農家では、立派な見栄えの良い庭を持っている家も多い。
近所に比べても見栄えの悪い我が家の庭だが、殆ど庭木や草花の無い若い人の家よりは趣があると思っている。
若い人はエアコンをがんがんかけて暮らしているし、手間がかかるので、その価値を見いださないようだ。
自然との共存は普段の生活の中にあることも、分かって欲しいとは思っている。
そして、鳥や虫たちも訪れて来てくれる。
そのせいか、いつのまにか植えてもいないシュロの木が大きくなっている。
庭はしっかりと時代と季節の移ろいを感じさせてくれる場所なのだ。
都会では一部の富裕層しか持てない庭は、田舎では普通に持てる豊かさも知って欲しい。
2025年1月2日木曜日
お年始の無い元日
私は大学院時代にリサイクルショップで買った椅子を使い続けていた。
後に自分の結婚式のお祝いに貰った机と椅子は、机だけ使い続けている。
椅子の方は、高さを調節するビスが甘くなってしまって、高さが調節できなくなったので、何年か使った後は殆ど使っていない。
院生時代からの椅子は身体にうまくフィットして、座りやすかった。
ところが、院生の時も十二指腸潰瘍を患ったのだが、今回の再発で同じ姿勢でのデスクワークが悪いことを身にしみて分かった。
それで、「安上がり長時間デスクワーク対策」をしていたのだが、やはり座り心地も悪いし、お尻も痛くなってしまった。
何よりも、いったん良くなってきて、椅子の対策をしなくなってしばらくすると、また調子を悪くしてしまった。
12月30日に思い切って、可動式椅子を買うことを決心した。
これからもっとデスクワークが増える可能性があるので、予防的にも立った姿勢での操作を増やす必要があると思ったからだ。
それをスムーズにするには、可動式の椅子がどうしても必要に感じた。
デスクワークのやり方を根本的に変えねばならないと、腹を括り1万円と値ははるのだが、