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2019年12月31日火曜日

60歳の意味

私は4月に60歳になったので、本来の定年退職の歳は2020年の3月である。
早々と早期退職して今は臨時教諭たけど、来年度からは再任用扱いになる。
要するに臨時講師より賃金の低い給与体系となるのである。
60歳の定年退職から、年金支給までの期間を再任用やら再雇用で生活を維持せねばならない。
私は諸事情より、常勤の再任用より、非常勤の講師を今のところ望んでいる。
おかしなことに、それは自分が大学院時代に経験したことと重なるのである。

自分には兄弟が多くて、親からの学費や生活費を全く受けられない状態で大学院に進んだ。
東京に出てすぐにしたのはアルバイト探しだった。
中野の郵便局から始まり、警備会社での交通整理や夜警、そして家庭教師となった。
都立大学への授業料を滞納して出席停止寸前までになった。
その時に、恩師石川栄吉先生から「金貸してあげようか」と言われ、「何とかします」と答えたのを憶えている。
なにせ、名古屋では家賃1万円のところで暮らしていたのが、2万3千円となり物価もけっこう高かった。
アルバイトをする関係から、ちゃんと風呂にも入らねばならなかった。
大学時代は特別奨学金があり、それほどアルバイトをしなくて済んでいた。
大学院時代では奨学金が受けられなかったので、アルバイトをするしかなかったのである。

そういう生活をした経験がある私だが、家内は自宅から大学に通学して、結婚するまで親元を離れたことがなかった。
確かに、子どもに教育費がかかる頃は、生活費と切り詰めたことはある。
しかし、生活費そのものに困窮した経験は無いと思う。
私は大学時代や大学院時代に、本当に生活費に困る生活を体験しているので、家内とは経済感覚がどうも違うようだ。
だから、なるべく家内には金の不自由をかけたくは無いと思っていて、大学院当時と同様アルバイトに精を出さねばならない。

このところ、大学時代や大学院時代に残されたものを整理していた。
自分は夢が実現できなかった辛い経験から、残された物を長い間手にすることはできなかった。
しかし、老いぼれて自信を喪失していく自分への戒めを込めて、当時の自分をもう一度見つめ直そうと思った。
20歳代の自分や、そこに寄りそってくれた人を再現すると、色んな思いがこみ上げてきた。
そこにいる自分は、今の自分の過去の姿だけれど、今の自分とは全く違う。
これは、自分の子ども達の幼い時の姿を見るのとそう変わりは無かった。
過去を背負い込んでいたように感じていたのだが、実はとっくに別の自分になっていたようだ。
しかし、精一杯生きていた当時の自分を、厳しい目は持ちながらも、良いことも悪いことも含めて受け止めてやらねばならないと思った。

若い頃の激動の時代は、今の平穏な生活とは大きく違う。
しかし、今の生活も最初から平穏だったわけではない。
この歳になって、家内とゆっくりこたつに入って、とりとめない話が出来るのも、そういう経験の延長上になる。
60歳になった今だからこそ、過去の自分をしっかりと受け止めて、自分なりの墓碑銘を自分で刻んでおきたい。
自分には墓はいらないけれど、惚けて自分でなくなる前に、せめて文章として残しておきたいと思っている。
そういう意味で、人生という物語の締めくくりをしなくてはならないと考えさせられた年となった。

2019年12月22日日曜日

十二指腸潰瘍

先日ふと話の中で、十二指腸潰瘍の話が出た。
長い間忘れていたが、以前かかっていた持病である。
私がなったのは大学院時代で、修士論文を書いている時であった。
胃腸が弱っているのに、辛い唐辛子などを食べたのが原因だったようにも思う。
当時の痛みは相当なもので、どんな姿勢をしても痛みが治まらなかった。
我慢しきれないで医者に診てもらったら、入院するように言われた。
当然、論文を書いている最中に入院するわけには行かない。
薬を飲んで何とか我慢したことを憶えている。

私と話をした人は、中学校の時にかかったそうだ。
十二指腸潰瘍は空腹時に痛みを感じるのが特徴だ。
その人は当時は一日7回も食事をしたそうだ。
私は教職について二校目の学校で、ストレスなどから胃腸の調子が悪くなり、医者の友人に診てもらった。
私は十二指腸潰瘍のことはすっかり忘れていたのだが、バリウムを飲んで調べたらその痕跡が見つかった。
友人の医者言うには、十二指腸潰瘍は完治はしない、ただ、粘膜で傷跡を保護するだけだという。
つまり、再び痛くなったのは、その粘膜の保護がちゃんと出来なかったからだ。
この十二指腸潰瘍の恐ろしさについては、当時はよく分かっていなかった。
次に赴任した学校で、同僚のお父さんが十二指腸潰瘍で亡くなって初めて知った。
痛みを我慢して、十二指腸から多量失血したということだった。

今は良い薬が出来て、この病気は恐いものでは無くなっていると聞く。
しかし、一度傷ついた腸は二度と元には戻らない。
私の場合は大学院時代の苦しみが、身体に刻まれ続けられると言うことだ。
話を聞いていると、私の年代の男性は、胃腸にポリープや潰瘍痕を抱えている人も少なからずいる。
肉体労働が主であった以前は身体の見える部分に傷が残っていた。
デスクワークの多い仕事は、身体の見えない部分に傷が残っているようだ。
そして、レントゲンにも移らないのは心の傷だろう。
ただ、このよう内なる傷は完治でき無くても、保護は出来るようだ。
自分を労ると言うことは、自分で自分を保護してやることのようだ。






2019年12月19日木曜日

窓の向こうに恩田川

前回のブログでかぐや姫の神田川を引用したが、私は一時東京の中野に住んでいたので、神田川は近くにあった。
しかし、情緒のないコンクリートで固められた神田川には、全く魅力を感じなかった。
私にとって思いで深いのは、むしろ恩田川である。
先日大学が恩田川の近くにあったという同じ職場の若い職員から、恩田川沿いをよく走ったという話を聞かされた。
自分もこの川の土手をジョギングしたり、散歩したり、自転車で走ったりしたので話がはずんだ。

私は大学院時代、東京都の中野、新宿区西落合、そして横浜市緑区長津田に住んでいた。
毎年引っ越しをするという、引っ越しマニアでもあった。
当時は部屋に荷物も大して無くて、気楽な引っ越しだった。
私は長津田のアパートで、修士論文を必死になって書いていた。
引き籠もって書いている内に、心身ともまいってしまい、それを紛らすために川沿いを散歩し始めたのが始まりだった。
散歩をすることから、ジョギングに変わり、何もかも忘れて夢中で走っていたのを憶えている。
その川沿いのジョギングは、赤穂では大津川と千種川、龍野では栗栖川、上郡では高田川と千種川、姫路では市川と場所が変わった。
川の流れを眺めながら、移ろう季節を感じながら走っていた。
その始まりは恩田川だったのだなと、改めて気がついた。

ジョギングはしなかったけれど、名古屋では天白川や山崎川、新宿区の西落合では妙正寺川には想い出がある。
都会の中の川には、心を安らげる趣があった。
それは桜が植えてあったり、川原には草花が咲いていたからだろう。
その頃、付き合っていた女性とも川沿いをデートすることが多かったように思う。
残念ながら恩田川にはそういうロマンチックな想い出はないけれど、夢破れ帰郷した後も一番思い出したのは恩田川の景色だった。
だから、機会があって10年以上前に東京に行った時に、ついでに寄って写真を撮ってきた。
美空ひばりの「川の流れのように」(作詞秋元康)の歌詞は、川により沿う人の気持ちを上手く表していると思う。
まさしく、私の長い人生をもそこに映すことのできるものだと感じるこの頃である。




2019年12月17日火曜日

学生時代の写真からの激励

このところ入院した母の世話や今後のことを考えると、老後の不安を実感せざるを得なかった。
自分自身も持病や身体や容貌の変化に、後ろ向きに考えることが多かった。
そんな中で、ふと学生時代の写真を取り出してみた。
かぐや姫の「神田川」の歌詞ではないけれど、「若かった あの頃 何も恐くなかった」時代である。
私には大切な優しさが欠けていたと苦笑しつつ、当時の自分や親しかった人たちをながめる。
当然、そこには今の自分とは全く違う自分がいる。
残念ながら、大学や大学院の頃に親しかった人とは会う機会が無いので、今の様子は分からない。
私はその頃出逢った人たちを、その頃の年齢の人として思いを寄せている。
高校時代の同級生とは同窓会で会って、ショックを受けたのだから、学生時代の仲間とは会わない方が花なのかも知れない。

写真は高校時代まではそこそこあるのに、高校を卒業してから職に就くまではあまりない。
私はその年数は9年にも及ぶ。
自分にとっては、10代後半から20代後半までの一番若々しかった頃である。
同世代の人たちも、みんな美しく輝いて見えるし、自分自身も今と比べてはハンサムに見える。
写真を見るうちに、昔の気分に引き戻されてきた。
このまま老け込んではいけない。
身体より先に、心が老け込んでどうするんだ!
と、自分に叱咤激励をした。
家族の昔の写真はどうしても、ノスタルジーを感じてしまっていたが、学生時代の写真は励ましとして刺激となった。
子どもが成長した今は、ある意味で学生時代と変わらなくなったところも多い。
そして、当時は将来に不安を抱えていたと同じように、老後に不安は抱えている。
また、今は「何も恐くない」というよりも、「何もかも恐い」と感じている。
その代わり、家内には笑われそうだが、若い頃よりは優しくなってはいると思っているのだが・・・



2019年12月9日月曜日

プールに戻った海豚

私は1年くらいプールから遠ざかっていた。
ずっと、プールに行きたいという気持ちが起こらなかった。
農作業で忙しかったり、腕が痛かったりと理由はあるが、それは単なる言い訳だった。
プールに行く気が起こらない。
行っても、もうつまらないように思えた。
その間、ずっと散歩で体は動かしてはいたが、どちらかというと気持ちはずっと後ろ向きだった。
今日は久しぶりにプールに行ってみようと思った。
理由は気分転換を少ししたかっただけだった。

子どもが幼い頃に通っていた相生のプールに行った。
もう、30年近くもこのプールで泳いでいる。
ただ、不思議なのだが、プールの駐車場に車を駐めると、これからの泳ぎのモードになる。
過去の想い出よりも、これから自分はどのように泳げるのかということに気持ちが向かうのだ。
そして、プールサイドに立つと、今泳いでいる人たちよりも、もっと良い泳ぎをしたいと思う。
長年の練習で刻み込まれた泳ぐ姿を披露したいと思う。
ところが、いざ泳ぎ始めると、右腕の痛みは強く、すぐに息も上がってしまう。
クイックターンもまともに壁さえ蹴れない。
ちっとも周りに格好良い姿など見せられない。
ただ、以前していたメニューを少しでもこなそうと思うだけである。

不思議に、まともに泳げないと、何とか良い泳ぎをしようと思う。
自分の泳ぎに集中できた。
見渡せば、知っているコーチなどがいて懐かしく思う。
相生のプールの良いところは、見覚えのあるコーチや事務の人が今もいることだ。
中には私が水泳部の顧問をしていた頃に、他校ではあるが現役選手で活躍していたコーチもいる。
上郡にはそういうコーチは誰も残っていない。

このプールは想い出のいっぱい詰まったプールだけれど、感傷的な気持ちにさせられるわけではない。
それは、今でも以前と同じように、一生懸命泳ぐちびっ子がいて、それを見守るお母さんが上のギャラリーのいる雰囲気だからだ。
自分のための練習ではありながら、見られていることを意識する。
実際は、ギャラリーは自分の子どもだけ、コーチは生徒だけを見て、泳いでいる人だけ隣で泳いでいる人を意識して見る。
それでも、自分なりに良い泳ぎをしたいと思って、泳ぎに集中できる。

今日泳いだことで、泳ぐことが、私の心を支えていたことが実感できた。
長い間泳げなかったのは、水泳が心の支えであったことに気がついていなかったからだろう。
自分を失うというのは、こういうことだったのかと改めて気がついた。





2019年12月7日土曜日

今は漕ぎいでな

前のブログで自称「旅を忘れたフィールドワーカー」と名乗った。
10年ほど前までは、奄美や鹿児島に行って追跡調査などをしていた。
実は定時制の高校に移ったのも、もう一度調査旅行に出たかったということもあった。
しかし、定時制は予想に反して、進路部長等を担当したので全日制よりも負担が多くなり、まとめて休みが取れなくなってしまった。
結局、早期退職して研究の機会を得るために執筆に励んだが、家内との約束の半年は過ぎてしまった。
元々、構想していたのは半年で完成できる内容ではなかった。
そしてその後、目的も果たせず職を転々として、現在の常勤の臨時教諭となっている。

考えてみれば、私は教師という職業は続けていたのだが、職場は転々としてきた。
常勤講師を含めると全部で教員では11校、長期研修生(大学院)1校、指導員1施設、インストラクター1施設ということになる。
「職を転々」という言葉はあまり良い意味に聞こえないのと同じく、職場を転々というのもあまり良い意味とは言えないかも知れない。
ただ、住居は結婚して借家に住んだが、現在の家を建ててからは住居を移らずに済んだ。
弟たちが転職や単身赴任などもあって住居を転々としたのとは対照的ではある。
考えようによっては、職場を生業の場と思えば、生活の糧を得るために場所を転々と移動してきたのと同じなのである。
家に居る時は、食事や睡眠が時間として多いので、職場が主な活動の場所であったわけだ。
ただ、家での私は農作業によっても、生活の糧の一部を得ていたので、職場だけに依存していたわけではない。

最近、後藤明氏の『海のモンゴロイド』(2003年 講談社)を、わくわくしながら読んでいた。
専門書で有りながら、ロマンを感じさせる内容だった。
後藤氏は「われわれ(日本人)は、もともと移動してきた民であり、また多方面の知識やアイデアを取り入れる、柔軟な頭を持った民」とし、
「移動するということに対して、何かネガティブなイメージ」を歴史的に築いてきたことに、現代の日本人の自信喪失の原因を見いだす。
その一方で安定した職場を得られなかった「就職氷河期」世代の問題を考えると、自由に活動できたエリート研究者の主張の限界も感じはする。
そういう意味では、公務員として安定した収入を得ながら、転勤という旅をし続けられたのもそれに似ているのかも知れない。
研究者なら日本国中、または、世界を駆け巡ることが出来たのだろうが、私にはできなかった。
その代わりに、海人が守り続けたような「嶋(シマ)」には、居続けることは出来た。

奄美の与路島では、旅に出る人の安全と無事に戻ってくることを祈る習慣があった。
最近、朝日新聞で与路島の北にある加計呂麻島出身者の、大阪での孤独死を大きく取り上げていた。
その人のシマにも同じような習慣はあっただろうと思うが、祈る人も絶えていたのかも知れない。
奄美に限らず、農村の多くは若い人の働く場が失われ、老人達が取り残されている。
それと同じように、賑やかな都会でありながら、誰にも看取られない孤独死が増えているよいう。
そして、東京は直下型地震で壊滅的な災害を受ける可能性を指摘されながら、拡大し続けている。
関東大震災後の歴史が教訓として残っているのにも関わらずである。

所詮、東京(江戸)は破壊と創造を繰り返すと言えばそれまでだが、そのために多くの市民が命を落として良いはずがない。
東京に限らず、大都会の自然災害における脆弱ぶりは指摘され続けている。
今こそ、大都会からの船出が必要なのでは無いだろうかと思う。
後藤氏は前述の書の中で「クック諸島:ルーの物語」という航海神話を紹介している。
人口増加で困窮した海人たちが、勇気を持って新しい嶋を求めて旅立っていく神話である。
危機を前にした大都市の話として考えるべき時が来たように思う。



2019年12月3日火曜日

孫達の活躍が励まし

昨日(12・1)、神奈川県に住む弟夫婦と、就職して東京に住んでいる姪と単身赴任で名古屋にいる姪の父親(弟)が見舞いに来てくれた。
せっかく来るのだから、京都の観光を兼ねてきたという。

母には孫が合計で6人居る。
その内、4人は既に社会人となって働いている。
そして、一人だけ結婚して所帯を持った。
姪の一人は東京の企業に今年就職したが、それは私が東京の大学院に通っていた頃に通学で使っていた鉄道会社である。
鉄道勤務の様子を色々と話を聞かせてもらって懐かしく思った。
新米社員は色々経験させられるらしく、今は駅員をしているという。
大学時代はダンスをするような活発な娘だったので、アナウンスも臆せずやっているようだ。
パイロットになった甥っ子のことも聞いた。
初フライトは羽田から宮崎だったという。
親もその初フライトに客として乗っていったそうだ。
こういうことで、長年の親の苦労に報いることが出来るのだと感心した。
西の方にもフライトするようなので、これから上郡上空も飛んでくるかも知れない。

うちの娘は造船会社で、船にも試運転の時に乗るようだ。
そう考えると、母の孫達は空、海、陸の交通関係に関わっているということだ。
私の父も祖父も曾祖父も海運関係に従事していたことを考えると運命的なことを感じたりもする。
それに比べて、肝心の私を含んだ息子達は、色々の持病を抱えているのが現実なのだ。
誰も交通関連の仕事には今は就いていない。
隔世遺伝とも言うべきなのだろうか。
ともかく、私の母は持病を持つ息子達の様子より、孫達の元気に働く様子の方が励みになったようだ。
そして、旅を忘れたフィールドワーカーの私にも大きな励みとなった。